聖書本文;ヨハネの福音書1章4節~5節
メッセージ題目;いのちの光
元日礼拝、主日礼拝を含め、今年に入って3回目の公式礼拝である。ここまでの2回、私たちは神のかたちであることを前提に、私たち人間が愛のかたちに創造されていること、また、ことばのかたちに創造されていることを学んできた。
今日の本文を見ると、神のことばなる御子イエスさまは、いのちあるお方、また、そのいのちとは人の光であることが語られている。そして、その光は闇の中に輝き、闇は光に打ち勝たなかった、と。
人が神のかたちに創造されていることを前提に語ると、人は神のかたちゆえ、その中にいのちがあるかたちに造られていること、また、その中に光があるかたちに造られていることがわかる。本日は、いのちとは何か、光とは何かを学んでまいりたい。
まず、いのちとは何か。人は土のちりで形づくられたとき、その中にいのちがなかった。それゆえ創造主なる神さまがなさったことは、人の鼻にいのちの息を吹き込まれた、ということだった。そうして人は生きるものとなった、とみことばは語る。
ゆえに人のいのちというものは、神さまによって存在させられてこそ本来の意味がある、ということになる。動物や植物はいのちの息を吹き込まれているわけではない。人間だけがいのちの息を神さまに吹き込んでいただいている、ということは、人間とは、神さまといのちの交わりを持ってしかるべき存在である、ということである。
そんな人間に対して神さまは、エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実に手を伸ばして食べてはならない、とおっしゃった。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ、と警告された。これは、善悪の知識の木の実に食べたら死ぬような毒があるから、ということではない。神さまのご命令に不従順になるとき、それは神さまとの交わりが絶たれるということを意味し、その結果人は死ぬ、というわけである。
人は空気を吸って生きる。神さまとの交わりを断つということは、空気以外のものを吸おうとする行為に等しい。当然、人は死ぬしかなくなる。神への不従順の結果人が死ぬということは、それくらい当たり前のことであった。しかし人は、神への不従順を選択した。そして人は、死ぬものとなった。
しかし人間は、皮肉なことに生きることを渇望するようになった。もしこの世界に不老不死の薬があると知ったら、人はどんな大金を積んでもそれを手に入れようと躍起になるだろう。不老不死とはいかないまでも、新聞を開いたら健康に関する情報や広告があふれている。みんな死にたくなどないのである。
しかし、死の本質とは神への不従順であるかぎり、死ぬことは避けられない。死なないために選ぶべき道はただひとつ、よみがえりであり、いのちであるお方、御父のもとに行くための唯一の道であり、真理であり、いのちであるお方、イエスさまのもとに行き、神さまとの交わりを回復するしかない。その根本的な信仰を回復しようともしないで、人はほかの方法でいのちを得ようとして、結局うまくいっていないのである。よほどイエスさまを信じることがいやと見えるが、神さまはこれしか、救われるための道を備えてはおられない。
一方で、死ぬことを意識してしまって仕方がない人がいる。聖書を読んでも、自らいのちを絶つことはしないまでも、死ぬことを意識してならなかった神の人がいたことがわかる。エリヤがそうだったし、ヨナがそうだった。どちらも、自分が望んだように事が運ばず、死を意識した。しかし神さまは、エリヤにもヨナにも不思議なみわざをお見せになり、そのたましいを回復に導かれた。エリヤが立ち直ったことははっきり聖書に書いてあるとおりで、ヨナに関しては聖書ははっきり語っていないが、ヨナ書というみことばをよく読むと、ヨナが神さまのお取り扱いを受け、神さまに対して不満を並べたことを悔い改めたことがほのめかされている。
神の人にして死を意識する、それは充分あり得ることである。しかし、普通の人と神の人との違いは、神の人には立ち帰るべき場所があるということである。それは、神の御前である。1970年に寺山修司が作詞してカルメン・マキが紅白歌合戦でも歌った、「時には母のない子のように」という歌があるが、この題名の歌は本来、黒人霊歌である。
元歌である黒人霊歌のほうの「時には母のない子のように」という歌は、こういう歌詞である。「時に私は、自分が母のない子のように思えるんだ、家から遠く離れてしまって。時に私は、もう自分は終わってしまったと感じるんだ、家から遠く離れてしまって。」しかし、この歌はこれで終わっていない。「罪人よ、罪人よ、なぜおまえは祈らないのか。」そう、私たちは時に、絶望する。しかしそれは、いのちなる神さまとの交わりがどこかで切れてしまっているからである。そんな私たちに神さまは、「生きよ」とおっしゃる。生きよというご命令にはどのようにお従いするのか? いのちなる神との交わりを持つことによってである。私たちは神との交わりによって、いのちを回復する。
だから、死ぬことを意識するのは、いのちなる神さまからもっとも離れた状態である。映画、小説、テレビドラマ、アニメ、ゲームと、やたらと私たちは「死ぬ」ということが空想の次元で身近になってしまっているが、けっしてそれは手放しで美化されるべきものではないことを、私たちは心に留める必要があろう。神さまのみこころは、どこまでも「生きよ」である。
とはいっても、神さまは私たち人間が「死ぬ」ことを前提に語っておられる箇所も、確かに聖書には存在する。「あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません」という、第一コリント15章36節のみことばなどそうであろう。しかし、死ぬのは死んで終わりになるためではない。生きるため、それも、永遠のいのちをもって生きるためである。本来、死ぬということは、神さまのみこころに不従順になる選択をした人間の受けるべき呪いであった。しかし神さまはこの「死ぬ」ということを、人間が永遠のいのちに生きるために必要なプロセスとしてくださった。
それなら、なぜ「死ぬ」という、悲しむべきことがこの世界に残されているのだろうか? それについては次のポイントについてお語りしたら、最後にまとめて結論としてお話ししたい。
では、光、について学ぼう。光とはいのちである。さらにいえば、光とは人の光である。
私の隣の家は、現在毎日、リフォーム工事をしている。それまでも空き家で、したがって明かりなど点いていなかったのだが、現在は工事のためだろう、明かりを点けている。しかし、どういうわけだか、一晩中明かりをつけっぱなしである。それが次の日の工事をするときに便利だということなのだろうが、だれもいないところに明かりがついているのはもったいないし、だいいち異様である。明かりというものは、人のいるところを照らしてこそ意味がある。
そのように、イエスさまにある光というものは、人を照らす光である。では、なぜ人をその光をもって照らされるのだろうか? その答えは5節のみことばからわかる。光は闇の中に輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。そう、人が闇の中にいてはいけないというのが、神さまのみこころだからである。
光と闇はどちらが良いもので、どちらが悪いものですか、一つにつき一つを選んでください、と言われ、「闇のほうが良いもの、光の方が悪いもの」と答える人は、かなりの偏屈であろう。そう問われたら、闇のほうが悪いに決まっている。それは聖書もそう語っているとおりである。闇の象徴するものは、悪魔であり、死であり、滅びであり、絶望であり、混沌である。
イエスさまの来られた時代のユダヤの指導者たちは、闇の勢力に属する者たちだったとイエスさまは評価しておられる。本来、神を指し示すべき者が闇の勢力だったとは、何ということであろう。しかし、それゆえにイエスさまのことを十字架につけたともいえよう。
この5節のみことばは新共同訳という訳の聖書を読むと、「暗闇は光を理解しなかった」とある。彼ら指導者たちがその立場にふさわしくイエスさまのことを理解していたら、イエスさまのことを十字架につけたどころか、すべての民がイエスさまを信じるように、率先して行動したことだろう。
しかし彼らは暗闇の勢力の者たちだったゆえ、イエスさまが救い主、人々を救いに導く光そのものでいらっしゃったことを理解できなかったし、理解しようともしなかった。
しかし、そのような闇の勢力も、光に照らされるならば変えられる。その典型的な例はパウロである。パウロは何をしただろうか? 神のみことばを堂々と解き明かし、ユダヤの宗教指導者たちに悔い改めを迫ったステパノのことを石打ちにした張本人、それがパウロである。しかし彼は、今にも教会に迫害を加えようとダマスコに向かっていたその途上で、神の光に照らされ、そのときからイエスさまのために生きる人へと変えられた。それまでのパウロは、いわば神のいのちのかたちを喪失していた状態にあった。それゆえに、神の御名を用いてさえも人を殺す、すなわち神につく人のいのちを奪うような、ほんとうのところは神をも恐れぬ所業を平気でしていた者だった。それが神のいのち、神の光に回復させられた。これは神の恵みである。
このように、闇につく者が光につく者とならせていただけるのは、恵みである。使徒ヨハネは、人間が光の方に来ないのは、光よりも闇を愛したから、その行いが悪いからだと喝破している。光よりも闇を愛する行い、すなわち悪い行いとは何であろうか? ローマ人への手紙1章に語られているとおり、神を神としないことである。すべての罪、すべての悪は、人が神を神としないことに始まる。人は神を神としない結果、あらゆるけがれ、あらゆるむさぼりに身を委ねることになってしまった。
しかし、イエスさまという方は、そのあらゆるけがれ、あらゆる罪、あらゆる悪をもたらす闇の勢力を、ご自身の十字架の贖いをもって滅ぼしてくださった。闇を光によって照らしてくださったのである。闇というものは、ひとたび光に照らされたら消えるしかない。
闇を象徴するもの、それは人の死である。しかし、人の死というものはなぜ必要なのだろうか? 人の死が象徴している闇というものが存在を許されているのはなぜだろうか? それは、いのちの光なるイエスさまによって滅ぼされるということをもって、イエスさまの勝利、イエスさまのご栄光が現されるゆえに、存在を許されているということである。
夜が怖い、という人がいるだろう。しかし、夜というものをいつまでも怖がる必要がないのは、やがて朝が来て、夜の闇を吹き払ってくれるからである。同じように、主にある人が死を怖がる必要がないのは、死というのがやがて、永遠のいのちに呑み込まれるからである。同じことで、闇の勢力がまだ存在しているこの世界だが、やがてこの世界は終わり、永遠に夜がない、したがって闇がない御国を、神さまは来たらせてくださる。死というもの、闇というものは、神さま、イエスさまの永遠の勝利、永遠のご栄光が顕されるための、いわば「引き立て役」でしかないのである。
だから、闇というもの、死というものをやたら意識したり、恐がったりしてはならない。ほんものは神の光であり、神のいのちである。私たちクリスチャンの生活は、この闇と死に支配されて絶望的になっているこの世に住む人々に、どうか怖がらないでほしい、あなたは生きる、ということを、確信に満ちて、そのことばと行いによって語るということである。
私たちはどこを照らしたいだろうか? そして、だれに永遠のいのちを受けてほしいだろうか? 神さま、私を遣わしてください、用いてください、ともに祈ろう。