光の証し、証しの光
聖書箇所;ヨハネの福音書1章6節~8節 メッセージ題目;光の証し、証しの光 のっけから意地汚い話で恐縮だが、学生時代、大学から徒歩20分ほどの距離にあった、大塚駅前のラーメン屋「ホープ軒」が好きだった。味ももちろん素晴らしかったし、半分オープンになっているような店構えで、カウンター席の後ろを都電荒川線の電車がうなりを上げて走っていくのがたまらなかった。 自分が楽しむだけではない。よく友達を連れて行き、友達の喜ぶ顔を見てはドヤ顔を浮かべていたものだった。お店には宣伝用のチラシが備えつけてあり、それを持ち帰っては友達にあげて、一緒に行こうな、などと誘ったりしていたものだった。 あるとき、そんな自分のしていることは、まるで伝道みたいだな、と気づいた。おいおい、キリストを伝えるべきなのに、自分のやっていることはこれじゃ、ホープ軒の伝道師じゃないか。そして思った。果たして自分は、こうしてホープ軒のラーメンを宣伝するほどに、イエスさまのことを語っているだろうか? しかし、最高のものがあれば宣伝したくなるのは人の常であろう。セールスマンとしてよい成績を上げるには、その売り物がどんな特徴、どんな効能を持っていて、それが買い手にとってどんな益をもたらすかを知り尽くしているのはもちろんのこと、その売り物を、買ってほしい、どうしても手に入れてほしい、という、情熱が何より大事であろう。しかし、セールスマンが物を売るのはもっと根本的な理由がある。その売り物を売るように、雇われ、派遣されているから。そう、売ることで、雇い主の希望を実現するからである。私もなんだかんだ言って、ラーメンの味を伝えたい情熱があるばかりに、宣伝しまくった結果、ホープ軒の売上アップに「貢献」して、経営者を喜ばせてしまっていたわけであった。 本日のみことばは、ヨハネという人物を短く紹介している。バプテスマのヨハネといわれている人物である。マラキ書の4章ほか、旧約のいろいろなところで預言されていたこの人物は、時至って、この世にあらわれたのであった。 6節のみことばを見ると、このヨハネが「神から遣わされた一人の人」であると書いてある。ヨハネがいかにこの世界に生まれたか、ということについては、ルカの福音書1章に詳しく書いてあり、子を産むはずのなかった女性を神さまがお選びになり、そうして生まれたのがヨハネであった、ということで、生まれからしてヨハネは特別、神さまによって遣わされた人だったことがわかる。 それは、ヨハネの人生はヨハネの持ち物だったのではない、神さまのものだった、ということである。ヨハネはこの世界を生きながらにして、神の人として生き、神の人として振る舞った。神を離れての自分という生き方など、ヨハネはしなかったのである。 神がヨハネを遣わされたということは、ヨハネは神のみこころをこの地に伝える全権大使の役割を果たすのがみこころだった、ということである。福音書を読むと、ヨハネのおもな働きであったバプテスマならびに説教を語る場面が詳しく出てくるが、ヨハネは住む場所は荒野、恰好からして、らくだの毛衣を身にまとっていて、食べ物はというといなごと野蜜だったという。そして語ることばといえば、宗教指導者のような高い地位にある者たちのことをさえ「まむしのすえども」と呼んではばからないような、妥協なき痛烈なことばである。俗世を離れた孤高の預言者、といった感じだが、これはヨハネがそういう演出をわざとしていたわけではない。すべては神さまの導きであった。それが証拠に、イエスさまご自身が、ヨハネからバプテスマを受けることは人としてふさわしい、とおっしゃり、ヨハネからバプテスマをお受けになっている。 そのように、ヨハネが人にバプテスマを授けるということ、逆に言えば、人がヨハネからバプテスマを受けるということは、人としてふさわしいこと、あるべき姿であるのは、神さまがそうお定めになったからである。人がバプテスマを受けることは何を象徴しているだろうか? 水に沈められて古い自分が死に、水から引き上げられて新しい自分へと生かされる。そのように、神の御前に悔い改めることによって古い自分が過ぎ去り、すべてが新しくされることを象徴している。さらには、罪なきお方ゆえに悔い改める必要のないイエスさまに至っても、バプテスマをお受けになっている。それほど、バプテスマは人として受けるべきものである、というわけであり、ヨハネとはこのバプテスマというみこころをこの世に示すために、神さまがお遣わしになった人だった、というわけである。 だから、これははっきり申し上げたいが、神さまを信じた、つまり、イエスさまを信じたというならば、バプテスマを受けよという神さまのみこころに従順になる必要がある。イエスさまを信じているが、バプテスマは受けない、というようではいけない。バプテスマを受けたから救われるとか、天国に行けるとかいうことでは決してなく、イエスさまを信じて救われたから、バプテスマを受けるということをもって神さまのみこころに従順になる、というわけである。 さて、それがヨハネの示したバプテスマというものだが、7節のみことばによると、ヨハネは証しのために来た、光について証しするため、そして、彼によってすべての人が信じるためであった、ということである。ということは、ヨハネがほんとうに伝えたかったのは、かたちとしてバプテスマを施すこと以前に、光なるお方であった。そのお方とはもうお分かりのとおり、イエスさまである。来週詳しくお話しするが、その光なるお方がイエスさまであることは、9節以下において語られている。ヨハネとは、その闇を照らす究極の光なるお方、イエスさまを宣べ伝える存在であった、というわけである。 しかし、8節の評価を見ると、ヨハネはどんな人物だろうか? 彼は光ではなかった、ただ光について証しするために来た存在である、と語っている。これはどういうことかというと、大いなるカリスマ性を帯びて人々を惹きつけていたヨハネのことを、人々は、もしかしたら彼こそが、むかしからみことばにおいて預言されてきたメシア、キリスト、救い主ではないだろうか、と思った、と聖書にあることと関係がある。しかし、彼はそのような自分に対する評価を知って、私はキリストではありません、と公言した。そう、彼はどんなに神的権威をもって働いていたとしても、キリストではなかったのである。それは周りがどう評価しようとも、彼自身がいちばんよくわかっていた。 韓国にはむかしから、われこそは再臨のキリストであると名乗る人間がうじゃうじゃしている。そういう人にとんとお目にかからない日本からしたら信じがたい話だが、これはほんとうのことである。何十人といるらしい。その中の一人が、あるインタビューにこう答えていたそうだ。「あなたはキリストですか?」すると、彼はこう言ったという。 「いや、私にはわかりませんが、周りはそう言っているから、きっとそうなんでしょうね。」なんとも卑怯な語り口だが、ヨハネはまさにこの反対、だれが何と言おうとも、自分はキリストではないという自覚をしっかり持っていた。 しかし、確かにヨハネはイエスさまのような光ではなかったが、それなら彼はどんな意味においても、光ではなかったのだろうか? そうではない。イエスさまはヨハネのことを「彼は燃えて輝くともしびだった」と表現された。ともしびというものは暗いところを明るく照らす存在である以上、言うまでもなく光である。しかし、イエスさまと同等の意味での光ではない。たとえるならば、イエスさまは太陽のような光であろう。太陽ひとつの存在で地球を昼と夜とに分けてしまう、それほどの光、さらには、やがてこの世界が終わって天国が実現したら、イエスさまご自身がその都の明かりとして照らされ、永遠に夜がない。まさしくイエスさまは、究極の光である。 これに対してヨハネはというと、ともしびのように、照らすにしても極めて限定的な場所という意味での「光」である。このところ毎日天気がよく、夜も雲がなくて晴れわたっているが、そんな夜には月がよく見える。その煌々と光る月に夜は照らされ、月明りということばをあらためて実感する。しかし、月の光は太陽の光に遠く及ばない。 さらに言えば、月は太陽の光を反射して輝く存在である。そう、イエスさまという究極の光を映すことで、ヨハネは光としての役割を果たしていた。言い換えれば、イエスさまという光を映してはじめて、ヨハネは光となれたわけである。それはいわば、月が、太陽の光を映さないかぎり、地球から見ればないのも同じにしか見えないのと同じことである。 そういうわけで、ヨハネは光なるイエスさまを証しすることで、はじめて光としての役割を果たし、ヨハネの説教を聴いた人はことごとく、その先におられる救い主イエスさまの福音を知るに至った。 そんなヨハネの姿は、私たちクリスチャンにとっても素晴らしいモデルである。それは、イエスさまという光を映して人々をイエスさまへと導いたという点で、そのように、そのことばと行いをもってイエスさまを証ししたという点で、私たちにとってモデルなのである。 しかし、大前提がある。それは、ヨハネは神さまによって、神さまのみこころをこの地上で守り行うべく遣わされた人であった、ということである。私たちはそれを知っているから、ヨハネのことを極めて特殊な人と見てしまわないだろうか? 荒野の、らくだの衣の、いなごと野蜜の……変人! いや、とてもそのレベルに至れない聖人! しかし、ここはイエスさまのみことばに耳を傾けていただきたい。イエスさまはヨハネのことを、女から生まれた者のうちでヨハネよりもすぐれた人間はいなかった、とお語りになる。つまり、ヨハネほどすぐれた人間は歴史上いたためしがなかった、最高の人だ、というわけである。しかしイエスさまはおっしゃる。しかし、天の御国のいちばん小さな者でも、ヨハネよりも偉大である。 私たちは自分のことを何者だと思っているだろうか? 私たちはイエスさまを信じているだろうか? ならば、私たちは天の御国にすでに入れていただいている、と信じて感謝すべきである。ということは、私たちは自分が大したことがないように思っているかもしれないが、神さまの御目から見れば、天の御国の人である。もしかしたらその中でもいちばん小さな存在かもしれない。神さまのために対して何もできていないなどと考えるならば、自分なんて小さい、などと思うかもしれない。だが、そんな私たちであろうとも、神さまは私たちのことを天の御国の人にしてくださっている。そういう存在になれるように、神さまは私たちに聖霊さまを送ってくださり、イエスさまを主として、救い主として信じるようにしてくださった。それには働きの代償など一切関係ない。ただ、神さまの恵みによって救っていただき、小さかろうが大きかろうが、天の御国の人にしていただいたのである。 そんな、天の御国の人は、最も小さい人であろうとも、ヨハネよりも偉大なのである、とイエスさまは言ってくださった。このみことばを受け止めていただきたい。あの、すべての人がヨハネの証しによってイエスさまを信じるようになった、とすら聖書が評価するほどのヨハネ、これほどの大人物がいるだろうか? それなのに、そんなヨハネよりも私たちの方が偉大だと、イエスさまは言ってくださるのである。 もったいないなんてものではないおことばだ。しかし、このイエスさまのおことばは、私たちが「何をするか」に目を留めて、その結果、「ヨハネと比べると何もしていないも同然」と落ち込むか、そんなの当然じゃないかと開き直るかするような、そんな比較意識から自由にしてくれる。神さまが私たちに目を留めてくださるのは、「ヨハネのような証しをしたから」ではない。「身代わりにイエスさまを十字架につけてくださるほど、愛してくださっているから」である。 イエスさまは私たちクリスチャンのことを「あなたがたは世の光です」と言ってくださっている。「あなたがたはこれから頑張れば世の光になれます」とはおっしゃっていない。努力しようとすまいと、もうすでに私たちは、世の光にしていただいているのである。そんな私たちとして、神さまはすでに私たちに最高の評価を与えてくださり、私たちのことを用いてくださるのだから、私たちがヨハネと自分を比較したりするのはナンセンスなことである。 私たちに必要なのは、世の光として輝きたいと思えるほどに、主の恵みをいただくことである。世の光として闇の世界に遣わされ、その世界を照らす働きに用いていただくことは、なんともうれしく、また楽しいことである。しかし、それはその「行い」をしたから楽しいわけではない。イエスさまの恵みのあまりのすばらしさを受け取り、その楽しさを抑えきれないから、どうかこの素晴らしいイエスさまを知ってほしいと、暗闇の世界に出ていき、暗闇を私たちの愛のことばと行いで照らし、その働きに用いていただくことを私たちは喜ぶのである。 ヨハネがしたように、私たちがすることは「光の証し」である。また、ヨハネがそうだったように、私たちもまた「証しの光」である。先週に引きつづいて、祈りつつ考えていただきたい。光なるイエスさまによって光としていただいている私たちはことばと行いの証しをもって、どこで、だれを、いつ、どのように照らすべきだろうか?