聖書本文;ヨハネの福音書1章9節~18節
メッセージ題目;恵みの上に恵み
最近よく使われることばに「伏線回収」というものがある。小説なりドラマなり、ストーリーのあちこちに伏線となるできごとがちりばめられていて、物語の最後になると、その伏線すべてに意味があったことが判明する。これを「伏線回収」というわけで、そういう、ストーリーの妙味を楽しむ物語のあらすじを、物語をまだ知らないけれども興味や関心を持とうとしている人の前でべらべらしゃべったりする行為は、「ネタバレ」と呼ばれて、とんだマナー違反となる。
牧師の千代崎秀雄先生という方がおっしゃっていたことだが、聖書を一つの推理小説に見立てると、新約聖書は「解決編」にあたり、「旧約聖書」はその「解決編」に向かう伏線ということができる、と。だから、新約聖書だけを読んでいるようでは、ほんとうに聖書を読んだことにはならない、と。いかにも、旧約学をライフワークとされ、そしてとてもユーモアに富んでおられた千代崎先生ならではのおことばだが、しかし、旧約聖書を充分に読んだうえで新約聖書に行くというのは、ユダヤ人でもないかぎり普通はありえないことである。だいいち、何の予備知識もない中でいきなり最初からずっと聖書を通読するのは難しすぎるし、そのプロセスで旧約の「伏線回収」として新約を味わうなんてことは、まず無理であろう。
だから、どうしたって、聖書を読むとなったら、まず新約聖書に書かれているイエスさまとその福音を充分に学ぶことが先になるし、それから旧約聖書を、イエスさまを鍵に読み解いていくしかない。あんなことをおっしゃった千代崎先生だって、間違いなく、最初はその読み方で聖書をお読みになったはずである。ともかく、新約を鍵に旧約を読んだ結果、その結果、ああ、新約聖書とは旧約聖書の伏線回収なのだなあ! と、しみじみするわけである。
実は、今年に入ってから連続して学んでいる、ヨハネの福音書を読むときにも、読みながらの謎解きではなく、先に答えを知ったうえで、あとになってからこんな謎が書かれていたのか、と気づくような読み方をしないと、とても難しい。いきなり、初めにことばがあった、とあるみことばを解き明かすには、どうしたって、もっとあとにある、そのことばがイエスさまであることを示す箇所をもとに語るしかない。ここまでしばらくの間、そういう前提でヨハネの福音書を読み進めてきたが、今日はついに、イエスさまのことを明らかにするみことばまでやって来た。
では、早速本文にまいりたい。すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた、とある。私たちはこのみことばをお読みして、どう思うだろうか? ああ、ついにまことの光が世を照らすのか、希望がやって来た。これでもう、暗闇に沈むことはない。苦しむことはない。そのように喜ぶだろうか。私たちならば、喜ぶのが普通だと思うだろう。
この光はこの世界をおつくりになり、この世界を所有しておられる、まことの神さま、王の王、主の主である。それなら、人はこの光とはどなたであるのか、わかっていてしかるべきであった。だが、その光によって照らされるべき「すべての人」の住む「この世」は、まず、この「まことの光」を知らなかった。知らなかったのはなぜであろうか? 光であられる神さまについて、正しく教えられていなかったからである。教えるべき人が、教えることをしなかったということである。
本来ならば、この「まことの光」を正しく指し示す役割は、神のみことばをだれよりも学んでいる、宗教指導者たちが担うべきであった。だが、彼らはその役割を果たさなかった。それはなぜであろうか? 彼らからして、自分たちが学んでいるはずのみことばが何を意味しているか、理解できなかったからである。これでは民に正しく教えることができないのは当然である。
それなら、祭司であれ、レビびとであれ、律法学者であれ、この宗教指導者たちは、まことの光が来れば、ああ、この方こそ、神さまだ、キリストだ、これまでわからなかったみことばがほんとうに成就したご存在そのものだ、と、有難く受け入れることをしたのだろうか? 本来ならばそうしてこそしかるべきであった。しかし、彼らは受け入れることをしなかったのである。それは彼ら宗教指導者たちが、自分たちが導く世界が、光に照らされることのない、暗闇のままであってほしい、と願った、ということである。要するに、まことの光に照らされたくなかったのである。
現在、どこかのテレビ局が、闇に葬っていたできごとが明るみに出たということで、そういうテレビ局の放送でコマーシャルを流せないと判断した企業が、次から次へと撤退するという、前代未聞のできごとが起こっている。あの一連のできごとが事実であるという前提で言うが、テレビ局の幹部役員としては、このまま暗闇が続いていてくれたらとどんなに願ったことだろうか。しかし、それが明るみに出ているのは、正義をもって歩む人たちが光に照らし、明るみに出しているからである。
もっと深刻な話をすれば、お隣の国韓国が今たいへんな状況になっていることは、ニュースでもご存じのとおりだろう。先週の礼拝後の報告をお聞きになったように、妻は目下、韓国の動向にくぎづけになっているが、日本人の聖徒のみなさまにおかれては、日本宣教の献身者がなぜ自分の国のことばかり? などとおっしゃらないで、どうかご理解いただきたい。かつて私は韓国にいたときにちょうど東日本大震災が起こり、韓国にいながらにして日本のことが気が気でなかったという体験をしているので、いるべき国にいながら祖国を思う妻のその思いは、痛いほどわかる。また、私にとっても韓国は、人生の3分の2以上の長きにわたって関わってきた国であるから、現在韓国で起きていることは、とても他人事とは思えない。
ともかく、妻はいま、韓国に関して、日本で報道されているのとは比較にならないほど多くの情報を集めているが、現在韓国で起こっている混乱のその背後には、ざっくり話すと、いま国会の多数を占めている野党議員たちは実はかなり大掛かりな不正選挙により選ばれている、だが、その証拠はたくさん挙がっている、それを明るみに出さないとこの国は終わってしまう、という、必死の闘争がいま国民全体に燎原の火のごとく広がっている、という事情がある。もちろん、それを押しとどめようとする勢力の必死の抵抗も一方で存在し、それが現在の韓国社会の混乱につながっている。それでもいまや韓国は、ほんの少し前までの状況が嘘のように、与党の支持率が野党を上回るまでになっている。これも、暗闇を光により明るく照らすための戦いであるといえよう。
聖書の話に戻すと、ユダヤの宗教指導者たちは、民が暗闇にいたままでいてくれたら、自分たちのつくったシステムの中でのうのうと暮らすことができる。権力欲も金銭欲も満たすことができる。そんな世界を照らして正そうとする者は、どんな手段を用いてでも葬り去らなければならなかった。
そして、彼らが選んだ方法は、このまことの光なるお方、イエスさまを、十字架につけるということだった。十字架という手段を彼らが選んだのは、木にかけられた者は呪われる、と定めた律法のみことばがあるからである。どうだ、こいつは木にかけられたぞ、こいつは罪人の中の罪人、呪われた野郎だ、民どもよ、これでもおまえたちは、こいつを救い主キリストと信じるつもりなのか。イエスさまを十字架につけたとき、宗教指導者たちは、ざまあみろ、この呪われた者よ、と、さぞ高笑いしていたことだろう。
しかし、彼らがどんな方法を弄しようとも、神さまは民の中から、イエスさまを信じ受け入れる人たちを起こしてくださった。彼ら民衆は、宗教指導者たちの小難しい説教で信じたのではない。イエスさまの権威に満ちたみことばを直接耳にして、何よりも、神ご自身でいらっしゃるイエスさまを直接目にして、このお方がキリストだと信じる信仰に導かれたのである。それは、イエスさまという御名を持つこの方こそがキリスト、救い主であると信じたということである。そのようにして神さまは、暗闇の中にいた民をまことの光によって照らしてくださった。そして、神さまはこのように信仰へとお導きになった民に、神の子どもとなる特権をお与えになった。
13節を見ると、神の子どもというものは、ただ、神によって生まれた存在であると語る。その一方で、それ以外のものによっては生まれていないことも語っている。このみことばによれば、神の子どもは、血によって生まれるのではない、また、肉の望むところによって生まれるのでもない、あるいは、人の意志によって生まれるのでもない、と語る。
神の子どもは血によって生まれるのではない、つまり、家門、血筋、民族が神の子であることの理由にはならない。このことは、神の民と自認するユダヤ人にとっては痛烈な宣言である。ユダヤ人は自分たちが神の民であるという歴史を誇りとしてきた。
それそのものはすばらしいことであろうが、そんな彼らはつねに堕落の歴史を歩み、そしていま、彼らの指導者たちは救い主キリストが現れてもわからない、認められないほどになっていた。そんな者たちは自分たちのことをどんなに素晴らしい選民、神の民だと思おうとも、到底、神の民と名乗れるような状態にはなかった。そんな中でイエスさまを信じて神の子となれたとするならば、それはもはや人間のわざによることではなく、神のみわざであったというわけである。
また、肉の望むところによっても神の子どもにはなれない。これが聖書の宣言である。私たちは自分が望んでイエスさまを信じたと思っているようで、実はそうではない。なぜならば、私たちを支配しつづけてきた肉の望むことは、神さまに従うよりも、神さまに敵対することを選びたがるからである。私たちは本来、イエスさまなんて信じるものか、となって当然の存在である。
私たちはよく、この日本にはイエスさまを信じる人が少なすぎる、と、嘆くだろう。しかしそれはある意味当然のことである。表現を選ばず申しあげると、日本人にかぎらず、人というものはだれであれ、イエスさまというお方を信じたくないようにできているからである。だから、私たちがせっかく思い立って伝道したというのに、そのために祈るだけ祈ったというのに、相手がイエスさまを信じてくれなかった……こういうことが起きてもがっかりする必要はない。その反応は当然のものだからである。
そして、人の意志によっても神の子にはなれない。よし、信じよう、と願ったところで、それが神さまから由来するものでないならば、ほんとうの意味でイエスさまを信じたことにはならないのである。
要するに、人に由来するものは、血筋であれ、感情であれ、神の子どもとされることの根拠にはなりえない、ということである。もし、人がイエスさまを信じているというならば、それは、神さまがその人を信仰に導いてくださったから、というわけである。
お互いの顔を見ていただきたい。恥ずかしいだろうが、じっと見ていただきたい。目の前にいるこの人はすごいのである。なにせ、この人は、神によって、神の子として生まれた人たちだからである。私たちはいま、天使よりも素晴らしい人のお顔を見ているのである。
さて、イエスさまは神であられるのに、人となってこの世界にお住まいになった。そして、イエスさまは神であられるゆえ、栄光に輝くお方であられたが、残念なことに、みことばを学んではいてもそのほんとうの意味を一向に悟ることのできなかった宗教指導者たちは、イエスさまの栄光を見ることもできなかったほど、暗闇の中に陥っていた。
というよりも、暗闇から抜け出して光の方に行こうという気が、そもそもなかった。しかし、神さまによって神の子どもとなるように選ばれていた人は、イエスさまの栄光を見ることが許され、イエスさまの栄光に照らされて暗闇から光へと移された。
この栄光は、神のひとり子としての栄光である。それが人々の前で栄光として輝くのは、18節のみことばにあるとおり、人の目で見ることの許されていないご存在である御父を、ご自身のご存在とみことばとみわざによって解き明かされるゆえである。イエスさまのご栄光は、御父を離れて独自に存在するものではない。イエスさまの栄光は、御父の栄光を顕す栄光である。
そして、この方は恵みとまことに満ちておられた、とある。このイエスさまについてのバプテスマのヨハネの証言がそれに続く。ヨハネはイエスさまのことを、自分よりまさったお方である、なぜならば、自分よりも先におられたからである、と語っている。イエスさまはこの地に誕生されるはるかむかし、世界が創造されるより前からおられるお方、したがってイエスさまは神さま、それに比べると自分はどんなに人から尊敬を集めようとも、所詮は人間である、ということである。
イエスさまは神の恵み、神のまことをこの世に実現する、ただひとりのお方だった。確かに民には、モーセをとおして神さまご自身から伝授された律法があった。だが彼らは、律法を受け取り、学んではいても、まことのいのちに至ってはいなかった。神の子どもとなってはいなかった。というより、律法は人が罪人であることを明らかにする以上のものではなく、結果として人は、イエスさまのもとに行くしかなかった。
しかし、人はイエスさまを信じることによって、人間的ないかなる努力にもよらず、神の子どもとなるという恵み、すなわち、神さまからの無償のプレゼントをいただけることになった。恵みのうえにさらに恵みを受けたとは、人が罪人であることを悟らせる律法とは、イエスさまに救っていただいて神の子どもとしていただくという恵みを受けたことによって、実は恵みであったことがわかった、その律法という恵みが、イエスさまという恵みによって、ほんとうに恵みとなった、ということを意味する。また、恵みの上に恵みとは、かぎりなく恵みを受けた、イエスさまが来てくださったことによって、究極の恵み、これ以上ありえない恵みを人が受けた、ということも意味する。
私たちがこうして生きているのは、どこまでも、イエスさまの恵みによることであると覚えよう。それでも私たちはつい、悩んでしまうことがあるかもしれない。しかし、もし、悩むようなことがあるなら、このような者をかぎりなく恵んでくださっている、イエスさまの恵みに目を留め、感謝しよう。イエスさまの恵みの最高の現れはもちろん、この死ぬべきものを罪と死の支配から贖い出し、天国、永遠のいのちへと導いてくださった、十字架のみわざである。
また、自分の人生を振り返ってみよう。ここまで導かれてきたことは、相働きて益となす神さまの恵みではなかったか。覚えて感謝しよう。
<お祈り>
・過去を振り返り、ここまで導かれてきた恵みに感謝しよう。
・現在いただいている恵みに感謝しよう。
・未来において、神さまは私たちにさらに大きな恵みをくださると信じて感謝しよう。