私たちは主にあって何者なのか

聖書箇所;ヨハネの福音書1章24節~28節 メッセージ題目;私たちは主にあって何者なのか  初対面の人には「自己紹介」というものをする。この「自己紹介」というものについて、妻に指摘されてはじめて気づいたことなのだが、日本では多くの場合、自己紹介をするとき、自分の「趣味」は何か、ということを言う。相手に対して「ご趣味は……?」と尋ねるわけである。妻にそう言われてみれば、私も結構、趣味のことを言ってきたし、逆に、韓国にいたとき、自己紹介の際には自分の趣味がどうのこうのとは言わなかったと思う。そう指摘する妻に対し、私は、そうやってもし趣味が共通していると知ったら、そこから話題を広げて、仲良くなろうとしているのかもしれないね、と言ったが、いまひとつ腑に落ちないようだった。  これは国民性のちがいだろう。私は人生の3分の2ちかくを韓国という国に関わってきたから実感することだが、韓国の人はたしかに、相手が自己紹介をする際、自分の趣味のことを言ったりしたなら、だからなんなの? と思うのだろう。韓国人には、相手の趣味が何かなどと知ろうという発想が、そもそもないわけである。それは韓国人にとって、自分にはどうでもいいインフォメーションに長々とつき合わされることなのだろう。初対面でそれはきつい。しかし、趣味にかぎらず、冗長なインフォメーションを初対面の人に聞かされるのが嫌なのは、日本人にとっても同じこと。いや、だれにとっても同じだろう。  そこで今日の箇所である。先週は23節までのみことばから学んだが、ヨハネは自分のことを「預言者イザヤが言った、主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声」であると語った。これ以上ないほど正確な、そして堂々とした自己紹介である。これは、いらないことを長々と述べる自己紹介とは対極にある。  さて、今日の箇所の、24節、25節のみことば。「彼ら」とはだれであろうか? 新改訳聖書にしたがって文脈を追うと「パリサイ人に遣わされた祭司とレビ人」のことだろうか、と思うだろう。しかし、祭司とは、パリサイ人と別個の存在であるサドカイ人に属する人たちであり、レビ人はそんな祭司の配下にあって宮に仕える者たちである。パリサイ人がサドカイ人を派遣するというこの記述は不自然に見える。この箇所は別の訳によれば、「彼らの中にはパリサイ人がいた」となる。となると、ユダヤの宗教界の既得権を握っていたサドカイ人とパリサイ人が一緒になって、ヨハネのもとにやってきた、ということになる。  先週もお話ししたが、なんといってもパリサイ人とサドカイ人は、そろって、バプテスマを受けに来た群衆の前で、ヨハネに恥をかかされた者たちである。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」ヨハネのもとに、あなたは何者なのか、と尋ねにやってきた者たちが、このとき恥をかかされたのと同じ者たちだったかどうかは聖書は語っていないが、パリサイ人やサドカイ人という宗教的権威が恥ずかしい目にあった、ということは確かである。だから、25節のこの問いは、そのような宗教的権威に歯向かうものを懲らしめるための、ことばじりを捕らえようという試みでもあった。  25節のこの問いは何を意味しているのだろうか? 単にその権威の起源が知りたくて質問したのだろうか? わかったら、ヨハネのバプテスマは天から来たものだと信じ告白するのか? もし、相手がパリサイ人やサドカイ人であろうとかまわず、恥をかかせるような存在がヨハネなのだとしたら、そんなナイーブな理由で質問したのではなかろう。キリストでもない、みことばに預言された働き人でもない分際で、バプテスマなどという大それた行為をするおまえは何者だ、というわけである。  これに対してヨハネは、26節、27節のように答えている。……これもまたヨハネの自己紹介である。しかし、ヨハネは、キリストでもなく、エリヤでもなく、「あの預言者」でもない自分が、なぜバプテスマを授けているのか、ということを、神学的な理由づけなどを用いて説明するようなことはしなかった。そうするよりも、もっと手っ取り早いやりかたがあった。それは、「あなたがたの中にいる、あなたがたの知らない方」に目を留めさせることであった。  人は、イエスさまにさえ目が行けば、そこまで導いた人は消え去ってしまっていい。ヨハネはそんな思いで、自分ではなく、イエスさまに目を留めさせようとした。いみじくもヨハネは言っている。「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」  折しもヨルダン川周辺から大勢の群衆が、ヨハネを神の人と認めてその説教に耳を傾け、罪の赦しを求めてバプテスマを受けに、われもわれもと集まっていたときであった。群衆としては、このヨハネこそがキリストだ、と信じたい思いもあったことだろう。しかしヨハネは、とんでもない、私のあとから来られる方のほうがよほど偉大だ、と主張し、どこまでもイエスさまに目を留めるように仕向けたわけである。  履き物のひもを解く値打ちもない。これはどういうことかというと、当時のユダヤの人々が履いていた履き物は、こんにちの私たちがはいているような「紐靴」のようなものではない。もっと、素足が道の埃に触れるような恰好をしていた。足にフィットするサンダルのようなものである。そういう履き物をひもで固定して外出するわけだが、そのひもを解いて履き物を脱がせることは、師匠であっても弟子にはやらせなかったという。あくまでこの働きは、奴隷の働きである。つまり、私ヨハネはイエスさまの弟子にさえなれない、いや、奴隷にさえなれな存在である、という告白をしていることになる。  イエスさまとはそれほど偉大な存在である。私たちは福音書をお読みするとき、イエスさまというお方が民衆ととても距離が近いことを見るが、本来ならイエスさまはそういうお方ではないのである。イエスさまは神さま、創造主である。私たちは人、被造物である。このことだけでも、バプテスマのヨハネが言っていることは正しい。  それだけに、イエスさまが十字架にかかられる前の最後の夜、弟子たちの足を洗うという、まさしく奴隷の働きをなさったことは、弟子たちにとってどれほど衝撃的なことだったか。いや、十二弟子だけではない。これは全人類にとって衝撃的なことだった。神の奴隷になることすら許されていない人間の、その奴隷としてあえてふるまうことをお選びになった、それがイエスさまのご主権であり、イエスさまのご栄光であったのである。  その、奴隷として振る舞われた究極のお姿、それは、十字架であった。ユダヤの宗教指導者たちはナザレのイエスをキリストだと最後まで認めず、かえって、イエスさまがご自身のことをキリストだと神かけておっしゃった、まさにそのことを死に値する罪だと言い放って、イエスさまのことをただの死刑ではない、あまりに残酷、そして究極の呪われた者とする刑罰、十字架送りにしたのであった。  しかし、主はその人間のどす黒い思惑の上を行っておられた。神を十字架刑に処するなど、神を神としない人間の罪のその最たるものだった。しかし、その十字架によって、あらゆる人間のすべての罪をお赦しになるという、究極のみわざを神は行なってくださった。イエスさまは自ら十字架にかかられることによって、道の埃にまみれた足を洗ってあげるように、あらゆる罪の道を歩むゆえにけがれた私たちのことを、その流された血潮によって洗ってくださった。神の奴隷になる資格すらない私たちのために、それほどのことをしてくださったのである。  そんなイエスさまは遺言のように、弟子たちにおっしゃった。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『主』とか『先生』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」  イエスさまが足を洗ってくださったことは、十字架を象徴することだと申し上げた。だとするとこれは大変なご命令である。わたしがあなたのしもべとして十字架につくように、あなたがたもお互いのしもべとして、十字架につくほどの犠牲を伴う愛を実践しなさい。  私たちはなんとこの姿から遠いことだろう。私たちはイエスさまのこのご命令をお聞きして、どう思うだろうか?「ああ、自分はこれほどまでに人を愛せていない」と、自分のことを激しく責めるだろうか?「いや、こんなレベルの高い愛は実践できないよ」と開き直るだろうか?「こんなことを要求するなんて間違っているよ。だってだれにもできないんだから」と、教えのせいにするだろうか?  その反応は間違っていない。むしろ、そう反応せずに「わかりました! 頑張ります!」と答えるほうがよくない。できもしないことをやってみせようとするのは、人に気に入られようとするパフォーマンス、ポーズに過ぎない。  私たちの目の前に差し出される足が道の埃にまみれているということは、犬の粗相がくっついているかもしれないわけである。足そのものだって、水虫にやられていたらおいそれと触れるものではない。人間のきたなさはそんなものではない。相手に関わって嫌な思いをさせられることは一度や二度ではない。そんなとき、自分の愛のなさを棚に上げて、相手のせいにすることがどんなに多いことだろうか。何のことはない、自分の方こそきたないのである。  足を洗い合うということは、足を洗ってあげるだけではない、足を洗って「もらう」ことによって、はじめて「洗い合う」ことになる。そのためには、自分の足が水虫だろうと脂性だろうと、恥ずかしがらずに、相手の手に委ねる決断が必要である。私たちが「仕え合う」ためには、ときには仕えてもらわなければならないほどの自分の弱さを認め、それを人の前で謙遜に分かち合う姿勢が必要になる。  そのようなことを私たちがするのは、それが神であるイエスさまのご命令であり、ご希望だからである。しかし実際には、私たちは人のきたなさに触れるのは嫌だし、自分のきたなさをさらけ出すのも嫌である。しかし、そんな私たちに、イエスさまは「足を洗い合うべきである」とおっしゃった。それは、私たちのために十字架にかかってくださるほど私たちを愛し、私たちに仕えてくださった、イエスさまに拠り頼めば、できるようにしていただける、ということである。イエスさまが私たちに、不可能と思えることでも命令されるのは、私たちがイエスさまの全能の御手に拠り頼むならば、できるようにしていただけるからである。  この、従順によってイエスさまのみこころをまっとうした最初の人は、バプテスマのヨハネであった。マタイの福音書によれば、イエスさまは神であられるのに、ヨハネからバプテスマをお受けになった。それが正しいことであるからとイエスさまはおっしゃった。ヨハネは、イエスさまがそうおっしゃる以上、イエスさまのおっしゃるとおりにした。それは、イエスさまのおことばに従順にお従いした、ということである。  十二弟子がきたない足をイエスさまに差し出して洗っていただいたのも、それがイエスさまのみこころに従順にお従いすることだからである。イエスさまが「わたしのからだ、わたしの血潮」とおっしゃって渡してくださるパンとぶどう汁を、何と畏れ多い、と思おうとも口にすべきなのは、「取りて食らえ」とイエスさまがおっしゃるからである。  イエスさまの履き物のひもを解くことも畏れ多くてできかねる、あの偉大なバプテスマのヨハネにしてそうだったのならば、いわんや私たちなどはどれほど低い存在なのか。だが、私たちは主にあって何者なのか。そのような低くて低い存在なのに、イエスさまが身代わりになって十字架に死んでくださり、その血潮で私たちのあらゆる罪とけがれを洗い清めてくださったほどの、あまりにも尊い存在である。  イエスさまの履き物のひもを解く値打ちもない。ヨハネのこの自己評価はまったく正しい。しかし、それ以上に真実なのは、そのヨハネにご自身へのバプテスマを授ける権限を持たせてくださった、イエスさまのへりくだりである。同じような私たちは、神の御前でとことんまでへりくだるべきである。しかし同時に見上げるべきは、そのような私たちを高めてくださる、イエスさまの十字架の愛である。  私たちは自分自身を正しく見よう。自分という存在はなぜ小さいのか? それは他人と比べてどこか劣っているからでは決してない。偉大な神さまを前にしているから小さいのである。その意識はだれもが、いつも、どこにおいても持つべきものである。  しかし、私たちが同時に持つべき意識は、私たちは「主にあって」何者なのか、ということである。王の王なるイエスさまが仕えてくださるほどの存在、それが私たちである。私たちは自分が汚れていると思い、落ち込むだろうか? 主はおっしゃる。「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない。」神さまが私たちをイエスさまの血潮できよめてくださった以上、だれが何と言おうとも、私たちはきよいのである。私たちは神のものである。ここから、ともに神のものにしていただいているゆえに、私たちはお互いのことを大事に思い、お互いに対して愛することを実践していこう。

主の道をまっすぐにせよ

聖書箇所;ヨハネの福音書1章19節~23節 メッセージ題目;主の道をまっすぐにせよ  私の好きな詩人に、草野心平という人がいる。富士山に関する詩を多く書いているので「富士山の詩人」と呼ばれたり、もっと変わったところではカエルに関する詩を多く書いているので「蛙の詩人」と呼ばれたりしているが、もちろんそれだけではなく、宇宙的な広がりを持つ壮大な詩、そうかと思うと実に人間臭い詩など、その作品はたまらない魅力にあふれている。しかし彼の作品は、実際にはどれほど広く知られているだろうか。私はたまたま実家の蔵書で詩集を手にしたからファンになっただけで、私のようなマニアでもなければそんなにみんな知っているわけでもないだろう。  しかし、そんな彼には、日本の文学の歴史に残る偉業がある。それは、宮沢賢治の作品を世に送り出した、ということである。宮沢賢治は草野心平の創刊した詩の同人誌『銅鑼』の同人で、心平は賢治がいかに天才だったかということをだれよりもよく知る立場にあった。しかし、賢治は世に広くデビューする前に亡くなった。心平は、このまま賢治の作品が埋もれてはなるまいと、作品が世に知られるように奔走し、そしてついに陽の目を見た。それから先、賢治の作品は心平が一生かかって残した諸作品とは比べ物にならないほど有名になった。心平は賢治が亡くなってから60年ちかく作品をつくりつづけたが、賢治より有名になることはついになかった。しかし、心平はそれで満足だったはずである。  賢治を世に送り出すために努力した心平……この話を知ったのは、私がまだクリスチャンになる前のことだったが、のちに教会に通うようになり、聖書を読んでいるうちに、バプテスマのヨハネがイエスさまを知ってほしいと努力する姿は、まるで心平が賢治を世にデビューさせることに努力したようだと思ったものだった。  バプテスマのヨハネ……けっして異端ではないが、らくだの毛衣をまとって荒野に住むような、異形の人。彼はしかし、自分に注目する者たちの目を、イエスさまへと向けさせた。草野心平はたとえ宮沢賢治のデビューに関わっていなくても充分すばらしい詩人だが、ヨハネはそれとちがい、ヨハネの人生が魅力的だったとするならば、それはただひとつ、イエスさまへと人々を向けさせたからであった。  ユダヤの宗教指導者たちは、祭司やレビ人をヨハネのもとに差し向けた。彼らはヨハネに、「あなたはどなたですか」と尋ねた。その質問に対し、ヨハネは「私はキリストではありません」と答えている。ヨハネのこの答えから、彼ら宗教指導者層の質問の意図を読み取ることができる。彼らはヨハネから、「私はキリストである」という回答を引き出し、その言質を取って、ヨハネのことを、神を冒瀆したという罪名でこの社会から葬り去ろうという意図があったようである。何といっても、彼ら宗教指導者は、群衆の見ている前で、ヨハネに「まむしのすえども」と罵倒され、大恥をかかされている。そんな宗教指導者たちはヨハネのことを、自分たちの既得権を脅かす者としてマークしていたようである。  実際民衆は、ヨハネのことを、もしかしたらキリストかもしれないと思いはじめていた。宗教指導者たちにしてみれば、自分たちが独占すべき霊的既得権をすべてヨハネに持っていかれるようで、危機感を覚えるしかなかった。そんなヨハネを罠にかけるには、彼自身に、自分はキリストであると告白させるのが最もよい方法だった。そうすることで彼のことを、神への冒涜だ、と責めることができる。彼らはのちに、イエスさまを十字架にかけるときにも同じ方法を用いた。  しかし、ヨハネの答えはあっけなかった。「私はキリストではありません」。だれが何と言おうと、自分はキリストではない以上、キリストだと名乗ることはありえない。ただそれだけのことである。  しかし、宗教指導者たちの質問はそれで終わらなかった。「それでは、あなたは何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネはこの質問にも「違います」と答えた。  エリヤは、普通の人が死んで墓に葬られるようにしてこの世を去ったわけではない。列王記第二の2章をお読みになればお分かりのとおり、エリヤは神の時に、天から召されて、竜巻に乗って生きたまま肉体ごと天に引き上げられたのであった。そのエリヤがこの地に再来することは、マラキ書の4章にも予告されていて、その予告どおり、あのとき天に引き上げられたエリヤが再び地上に降りてきたのか、ということである。しかし、ヨハネはエリサベツという女性から生まれたのであり、天から降りてきて地上にいるわけではない。だから、「違います」なのである。  ただし、エリヤがこの地に来てすべてを立て直す、ということが、ヨハネが来ることによって実現した、ということは、イエスさまご自身がお認めになっている。イエスさまがヨハネをエリヤだとおっしゃっている、ということである。しかし、ヨハネの告白はイエスさまのおことばと矛盾していると見なすべきではない。ヨハネは主イエスさまがそうおっしゃる以上、エリヤである。しかし、ヨハネ自身は、われこそは再臨のエリヤであると振る舞うべきではない、なぜなら、それこそイエスさまがおっしゃるとおり、「女から生まれた者」としての分際をわきまえるべきだから、と意識していたかと見るべきである。  さて、私はエリヤではない、という答えにも納得しない宗教指導者たちは、「では、あの預言者ですか」と尋ねた。これに対してもヨハネは「違います」と答えている。  あの預言者、というのは、申命記18章15節と18節においてモーセが語る存在を指す。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたはその人に聞き従わなければならない。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。」  これは、モーセよりのちの時代にも預言者が起こされることを語ったことばだが、どの時代の預言者も、すべてモーセの語った預言のことばである律法に基礎を置いたものである以上、「私のような一人の預言者」とまで言い切れるわけではない。部分的である。モーセがほんとうの意味で語るとおりのその究極の預言者は、それこそこのことばの預言するとおり、主がお命じになることをすべて民に告げる、みことばの実現そのものの存在である。早い話が、あの預言者とはキリストのことである。その預言者を民は待ち望んでいた。宗教指導者はだから、ヨハネよ、あなたはその究極の預言者なのか、と問うているわけである。  しかしもちろん、ヨハネはそうではなかった。だから、「違います」と答えた。しかし、そうは言っても、ヨハネは主のみことばをあますことなく伝える役割を果たしてはいた。ただ、主ご自身の現れとして語っていなかっただけのことである。ヨハネは最後の最後にイエスさまへと導いたという点で、れっきとした預言者であった。  ヨハネはもちろん、自分が預言者である、すなわち、主のみことばをお預かりして人々に宣べ伝える働きに召されているという自覚を持って働いていた。その働きに誇りやプロ意識を持ってもいただろう。しかしそれでも彼は、ユダヤ人が言うところの「あの預言者」、すなわち、モーセに比肩する究極の預言者、キリストだなどと思い上がっていたわけではない。つまり、ヨハネをヨハネならしめていた神の働きが、彼を支えていたわけではなかったのである。  ヨハネのこの姿勢は、私たちにも適用できる。私たちは神にあって素晴らしい存在である。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43章4節のこのみことばをとおして私たち自身を見つめるとき、私たちは何とセルフイメージが上がることだろう。  しかし、まず忘れてはならないのは、私たちは本来、愛される資格がなかった存在である、ということである。堕落する道、神に背を向ける道を好んで選び、神の怒りがその上にとどまって当然の存在、永遠に呪われて滅ぼされるべき存在だったということである。  私たちがフォーカスを合わせるべきは、そのような者であるにもかかわらず、私たちの受けるべき罰の身代わりにイエスさまを十字架につけてくださるほどに愛してくださる神さまの御名であり、愛されている「私」であってはならないはずである。自分はクリスチャンだからと、ほかの人よりも何かすぐれているように思いこんでふるまったりする、いけ好かない人になってはならない。どこまでも、神さまのお立場から自分を見て、このような者を愛してくださる神さまをほめたたえることを忘れてはならない。  また、私たちは、礼拝をすること、奉仕をすること、そのために遠路はるばる礼拝堂にやってくることがすばらしい一方で、そういうことに労している自分って素晴らしい、などと考えてはならない。ヨハネの人格を支えていたものは、荒野暮らしという奇抜な生活スタイルでも、歯に衣着せぬことばで行う預言の働きでも、バプテスマを大勢の人に授ける働きでもない。主に召され、遣わされているという召命意識が彼を支えていた。私たちもまた、何をしているか、ということを考える前に、神さまは私を何者にしてくださっているか、でとらえるべきである。  ヨハネは何者だろうか? 彼自身が言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ぶ者の声』です。」古代の中東においては、王が道を行くときには、その前に立ちはだかる大きな石をことごとく取り除き、王が通りやすいように道を備えたという。主の道をまっすぐにするとはそういうことであり、人々をしてその働きに献身させる役割をする人の存在は大事になるわけだが、ここでヨハネは、「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫ぶ者です、とは言っていない。あくまで自分は、「声」であると言っている。  うちの子どもの中学校では年に1回、クラス対抗で合唱を競うイベントがある。ほんとうにいろいろな曲が選ばれ、そしてみんな、ほれぼれするような歌声を聴かせてくれる。そんな彼ら中学生の合唱は、彼らの伝えたいメッセージが歌に託されている、とは言えるかもしれない。しかし、歌は100パーセント、彼らのメッセージそのものである、とはいえない。なぜならば、それらの歌は彼らが作詞作曲した、オリジナルの作品ではないからである。だれかがつくった有名な歌を歌うわけで、その歌を歌うことで、歌のすばらしさが一層輝く仕掛けとなっている。この中学生たちに選ばれて、一生懸命歌われるほど素晴らしい作品なんだなあ! と。そして言うまでもなく。合唱というものは、30人なら30人、一人一人の表情や服装にくまなく目を配って感動する芸術ではない。あくまで、聴かせてくれる歌に感動する芸術である。  ヨハネも、神さまのみことばを伝える「声」に徹した。神さまのみこころと関係のない、自分の個性や主義主張を出すようなことはしなかった。しかしそれは、個性を特有の人格を殺さなければ神の働きをしたことにはならない、ということでは決してない。神さまはヨハネに、荒野での生活、らくだの毛衣という服装、いなごと野蜜という食べ物、そんな衣食住という、独特すぎるほどの個性をお与えになり、そのライフスタイルが大勢の人々を惹きつけ、結果として彼らがイエスさまを見られるようになったという側面も確かにある。  私たちも生き方をとおして、神さまのみことばを表現する「声」の役割を果たす。その「声」は何を語るのだろうか。ヨハネはいろいろなことを語り、奇抜なライフスタイルで通し、バプテスマを大勢の人に授けたが、その生活全体が一貫して語っていたことは「主の道をまっすぐにせよ」であった。イエスさまはヨハネの予告どおり人々の前に来られたが、十字架のみわざを成し遂げられ、復活し、天に昇られ、いま天にて父なる神の右の座におられる。私たちは、いまは天におられるイエスさまが、やがてこの地に再び来られ、すべてを統べ治められることを信じ告白している。  いまこの世界は、イエスさまが来られて2000年が経つ今もなお、イエスさまを認めない。この地はなお、罪と暴虐と淫乱と破壊に満ちている。この地は再びイエスさまを迎えるには、あまりにも荒れ果てていて、人の心は冷たく冷え切ってしまっている。神さまはそのような世界にあって、私たちのことを救い、ご自身の民にしてくださったが、それはなぜなのだろうか。  私たちが忘れてはならないのは、私たちとは、この地において「主の道をまっすぐにせよ」と、そのことばと行い、いや、存在のすべてをもってこの地のすべての人に呼びかける「声」とされている者である、ということである。人々の前で神さまのすばらしさを顕す、すなわち神を愛し、隣人を愛するのも「主の道をまっすぐにせよ」のため。だから、そのことばと行いに必要な知恵と導きを毎日みことばからいただき、祈って御霊の力に満たされるのも「主の道をまっすぐにせよ」のため。すべては「主の道をまっすぐにせよ」、このご命令に私たちがまず従い、このご命令を人々に、ことばと行い、自分の全存在をもって語り伝える、それが私たちなのである。 <祈りの課題> ・私たちは、主の道をまっすぐにしているか? 足りない部分が示されたら悔い改めよう。 ・私たちは、人々が「主の道をまっすぐにする」働きに用いられるために、何をどう祈るべきか? 示していただき、示していただいたら、それに取り組むための力が与えられるように、祈ろう。