聖書箇所;ヨハネの福音書1章24節~28節
メッセージ題目;私たちは主にあって何者なのか
初対面の人には「自己紹介」というものをする。この「自己紹介」というものについて、妻に指摘されてはじめて気づいたことなのだが、日本では多くの場合、自己紹介をするとき、自分の「趣味」は何か、ということを言う。相手に対して「ご趣味は……?」と尋ねるわけである。妻にそう言われてみれば、私も結構、趣味のことを言ってきたし、逆に、韓国にいたとき、自己紹介の際には自分の趣味がどうのこうのとは言わなかったと思う。そう指摘する妻に対し、私は、そうやってもし趣味が共通していると知ったら、そこから話題を広げて、仲良くなろうとしているのかもしれないね、と言ったが、いまひとつ腑に落ちないようだった。
これは国民性のちがいだろう。私は人生の3分の2ちかくを韓国という国に関わってきたから実感することだが、韓国の人はたしかに、相手が自己紹介をする際、自分の趣味のことを言ったりしたなら、だからなんなの? と思うのだろう。韓国人には、相手の趣味が何かなどと知ろうという発想が、そもそもないわけである。それは韓国人にとって、自分にはどうでもいいインフォメーションに長々とつき合わされることなのだろう。初対面でそれはきつい。しかし、趣味にかぎらず、冗長なインフォメーションを初対面の人に聞かされるのが嫌なのは、日本人にとっても同じこと。いや、だれにとっても同じだろう。
そこで今日の箇所である。先週は23節までのみことばから学んだが、ヨハネは自分のことを「預言者イザヤが言った、主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声」であると語った。これ以上ないほど正確な、そして堂々とした自己紹介である。これは、いらないことを長々と述べる自己紹介とは対極にある。
さて、今日の箇所の、24節、25節のみことば。「彼ら」とはだれであろうか? 新改訳聖書にしたがって文脈を追うと「パリサイ人に遣わされた祭司とレビ人」のことだろうか、と思うだろう。しかし、祭司とは、パリサイ人と別個の存在であるサドカイ人に属する人たちであり、レビ人はそんな祭司の配下にあって宮に仕える者たちである。パリサイ人がサドカイ人を派遣するというこの記述は不自然に見える。この箇所は別の訳によれば、「彼らの中にはパリサイ人がいた」となる。となると、ユダヤの宗教界の既得権を握っていたサドカイ人とパリサイ人が一緒になって、ヨハネのもとにやってきた、ということになる。
先週もお話ししたが、なんといってもパリサイ人とサドカイ人は、そろって、バプテスマを受けに来た群衆の前で、ヨハネに恥をかかされた者たちである。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」ヨハネのもとに、あなたは何者なのか、と尋ねにやってきた者たちが、このとき恥をかかされたのと同じ者たちだったかどうかは聖書は語っていないが、パリサイ人やサドカイ人という宗教的権威が恥ずかしい目にあった、ということは確かである。だから、25節のこの問いは、そのような宗教的権威に歯向かうものを懲らしめるための、ことばじりを捕らえようという試みでもあった。
25節のこの問いは何を意味しているのだろうか? 単にその権威の起源が知りたくて質問したのだろうか? わかったら、ヨハネのバプテスマは天から来たものだと信じ告白するのか? もし、相手がパリサイ人やサドカイ人であろうとかまわず、恥をかかせるような存在がヨハネなのだとしたら、そんなナイーブな理由で質問したのではなかろう。キリストでもない、みことばに預言された働き人でもない分際で、バプテスマなどという大それた行為をするおまえは何者だ、というわけである。
これに対してヨハネは、26節、27節のように答えている。……これもまたヨハネの自己紹介である。しかし、ヨハネは、キリストでもなく、エリヤでもなく、「あの預言者」でもない自分が、なぜバプテスマを授けているのか、ということを、神学的な理由づけなどを用いて説明するようなことはしなかった。そうするよりも、もっと手っ取り早いやりかたがあった。それは、「あなたがたの中にいる、あなたがたの知らない方」に目を留めさせることであった。
人は、イエスさまにさえ目が行けば、そこまで導いた人は消え去ってしまっていい。ヨハネはそんな思いで、自分ではなく、イエスさまに目を留めさせようとした。いみじくもヨハネは言っている。「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」
折しもヨルダン川周辺から大勢の群衆が、ヨハネを神の人と認めてその説教に耳を傾け、罪の赦しを求めてバプテスマを受けに、われもわれもと集まっていたときであった。群衆としては、このヨハネこそがキリストだ、と信じたい思いもあったことだろう。しかしヨハネは、とんでもない、私のあとから来られる方のほうがよほど偉大だ、と主張し、どこまでもイエスさまに目を留めるように仕向けたわけである。
履き物のひもを解く値打ちもない。これはどういうことかというと、当時のユダヤの人々が履いていた履き物は、こんにちの私たちがはいているような「紐靴」のようなものではない。もっと、素足が道の埃に触れるような恰好をしていた。足にフィットするサンダルのようなものである。そういう履き物をひもで固定して外出するわけだが、そのひもを解いて履き物を脱がせることは、師匠であっても弟子にはやらせなかったという。あくまでこの働きは、奴隷の働きである。つまり、私ヨハネはイエスさまの弟子にさえなれない、いや、奴隷にさえなれな存在である、という告白をしていることになる。
イエスさまとはそれほど偉大な存在である。私たちは福音書をお読みするとき、イエスさまというお方が民衆ととても距離が近いことを見るが、本来ならイエスさまはそういうお方ではないのである。イエスさまは神さま、創造主である。私たちは人、被造物である。このことだけでも、バプテスマのヨハネが言っていることは正しい。
それだけに、イエスさまが十字架にかかられる前の最後の夜、弟子たちの足を洗うという、まさしく奴隷の働きをなさったことは、弟子たちにとってどれほど衝撃的なことだったか。いや、十二弟子だけではない。これは全人類にとって衝撃的なことだった。神の奴隷になることすら許されていない人間の、その奴隷としてあえてふるまうことをお選びになった、それがイエスさまのご主権であり、イエスさまのご栄光であったのである。
その、奴隷として振る舞われた究極のお姿、それは、十字架であった。ユダヤの宗教指導者たちはナザレのイエスをキリストだと最後まで認めず、かえって、イエスさまがご自身のことをキリストだと神かけておっしゃった、まさにそのことを死に値する罪だと言い放って、イエスさまのことをただの死刑ではない、あまりに残酷、そして究極の呪われた者とする刑罰、十字架送りにしたのであった。
しかし、主はその人間のどす黒い思惑の上を行っておられた。神を十字架刑に処するなど、神を神としない人間の罪のその最たるものだった。しかし、その十字架によって、あらゆる人間のすべての罪をお赦しになるという、究極のみわざを神は行なってくださった。イエスさまは自ら十字架にかかられることによって、道の埃にまみれた足を洗ってあげるように、あらゆる罪の道を歩むゆえにけがれた私たちのことを、その流された血潮によって洗ってくださった。神の奴隷になる資格すらない私たちのために、それほどのことをしてくださったのである。
そんなイエスさまは遺言のように、弟子たちにおっしゃった。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『主』とか『先生』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」
イエスさまが足を洗ってくださったことは、十字架を象徴することだと申し上げた。だとするとこれは大変なご命令である。わたしがあなたのしもべとして十字架につくように、あなたがたもお互いのしもべとして、十字架につくほどの犠牲を伴う愛を実践しなさい。
私たちはなんとこの姿から遠いことだろう。私たちはイエスさまのこのご命令をお聞きして、どう思うだろうか?「ああ、自分はこれほどまでに人を愛せていない」と、自分のことを激しく責めるだろうか?「いや、こんなレベルの高い愛は実践できないよ」と開き直るだろうか?「こんなことを要求するなんて間違っているよ。だってだれにもできないんだから」と、教えのせいにするだろうか?
その反応は間違っていない。むしろ、そう反応せずに「わかりました! 頑張ります!」と答えるほうがよくない。できもしないことをやってみせようとするのは、人に気に入られようとするパフォーマンス、ポーズに過ぎない。
私たちの目の前に差し出される足が道の埃にまみれているということは、犬の粗相がくっついているかもしれないわけである。足そのものだって、水虫にやられていたらおいそれと触れるものではない。人間のきたなさはそんなものではない。相手に関わって嫌な思いをさせられることは一度や二度ではない。そんなとき、自分の愛のなさを棚に上げて、相手のせいにすることがどんなに多いことだろうか。何のことはない、自分の方こそきたないのである。
足を洗い合うということは、足を洗ってあげるだけではない、足を洗って「もらう」ことによって、はじめて「洗い合う」ことになる。そのためには、自分の足が水虫だろうと脂性だろうと、恥ずかしがらずに、相手の手に委ねる決断が必要である。私たちが「仕え合う」ためには、ときには仕えてもらわなければならないほどの自分の弱さを認め、それを人の前で謙遜に分かち合う姿勢が必要になる。
そのようなことを私たちがするのは、それが神であるイエスさまのご命令であり、ご希望だからである。しかし実際には、私たちは人のきたなさに触れるのは嫌だし、自分のきたなさをさらけ出すのも嫌である。しかし、そんな私たちに、イエスさまは「足を洗い合うべきである」とおっしゃった。それは、私たちのために十字架にかかってくださるほど私たちを愛し、私たちに仕えてくださった、イエスさまに拠り頼めば、できるようにしていただける、ということである。イエスさまが私たちに、不可能と思えることでも命令されるのは、私たちがイエスさまの全能の御手に拠り頼むならば、できるようにしていただけるからである。
この、従順によってイエスさまのみこころをまっとうした最初の人は、バプテスマのヨハネであった。マタイの福音書によれば、イエスさまは神であられるのに、ヨハネからバプテスマをお受けになった。それが正しいことであるからとイエスさまはおっしゃった。ヨハネは、イエスさまがそうおっしゃる以上、イエスさまのおっしゃるとおりにした。それは、イエスさまのおことばに従順にお従いした、ということである。
十二弟子がきたない足をイエスさまに差し出して洗っていただいたのも、それがイエスさまのみこころに従順にお従いすることだからである。イエスさまが「わたしのからだ、わたしの血潮」とおっしゃって渡してくださるパンとぶどう汁を、何と畏れ多い、と思おうとも口にすべきなのは、「取りて食らえ」とイエスさまがおっしゃるからである。
イエスさまの履き物のひもを解くことも畏れ多くてできかねる、あの偉大なバプテスマのヨハネにしてそうだったのならば、いわんや私たちなどはどれほど低い存在なのか。だが、私たちは主にあって何者なのか。そのような低くて低い存在なのに、イエスさまが身代わりになって十字架に死んでくださり、その血潮で私たちのあらゆる罪とけがれを洗い清めてくださったほどの、あまりにも尊い存在である。
イエスさまの履き物のひもを解く値打ちもない。ヨハネのこの自己評価はまったく正しい。しかし、それ以上に真実なのは、そのヨハネにご自身へのバプテスマを授ける権限を持たせてくださった、イエスさまのへりくだりである。同じような私たちは、神の御前でとことんまでへりくだるべきである。しかし同時に見上げるべきは、そのような私たちを高めてくださる、イエスさまの十字架の愛である。
私たちは自分自身を正しく見よう。自分という存在はなぜ小さいのか? それは他人と比べてどこか劣っているからでは決してない。偉大な神さまを前にしているから小さいのである。その意識はだれもが、いつも、どこにおいても持つべきものである。
しかし、私たちが同時に持つべき意識は、私たちは「主にあって」何者なのか、ということである。王の王なるイエスさまが仕えてくださるほどの存在、それが私たちである。私たちは自分が汚れていると思い、落ち込むだろうか? 主はおっしゃる。「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない。」神さまが私たちをイエスさまの血潮できよめてくださった以上、だれが何と言おうとも、私たちはきよいのである。私たちは神のものである。ここから、ともに神のものにしていただいているゆえに、私たちはお互いのことを大事に思い、お互いに対して愛することを実践していこう。