聖書本文;ヨハネの福音書21章15節~17節
メッセージ題目;主イエスの羊を飼う資格
本日は教会の年次総会の日です。今年に入ってから、「神の愛で愛しはじめよう」というテーマを掲げ、私たちはここまで歩んできました。そのように、神の愛で愛するためには、まず、私たちが主なる神さまに愛されているということを受け取ること、そして、主を愛するということをすること、それがどうしても必要になります。そうしてこそ初めて、私たちは主の愛によって、隣人のことを愛しはじめて、やがて、お互いが愛し合えるようになります。
先週私たちは、リビングライフによる聖書通読において、ヨハネの福音書18章のみことばをお読みして、イエスさまを逮捕しに来た兵士の耳を切り落としてしまうほどに威勢のよかったペテロが、いざイエスさまが裁判の席に引き出され、暴力を一方的にお受けになる光景を目にします。そんなペテロは、周りにいる者たちに「あなたもイエスの仲間だろう」と何度も問い詰められ、「違う。知らない」と三度も言ってしまった、そんな場面に私たちは接しました。ペテロが三度目に「知らない」としらばっくれたとき、鶏が鳴きました。それはイエスさまが予告しておられたとおりのことで、ペテロは何もかもお見通しだったイエスさまのそのおことばを思い出しました。そして、裁判を傍聴していたその群れからひとり離れ、外に出て号泣しました。
そしてイエスさまは、このあまりに不当な裁判を堂々とお受けになり、十字架におかかりになりました。そして死なれました。しかし、復活されました。
一方、イエスさまの弟子たちは、ユダヤの指導者たちは俺たちのことまで捕まえに来るんじゃないだろうか、と、怖がって家に閉じこもっていました。そこにイエスさまが現れて、平安がありますように、父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします、聖霊を受けなさい、と言って、彼ら弟子たちのことを大いに励ましてくださいました。
しかし、それでもまだ、弟子たちはすぐに、イエスさまに献身したと言える働きに踏み出せないでいました。ペテロは十二弟子時代の持ち前のリーダーシップを発揮して、俺は魚を獲る働きに行く、と言い出して、弟子仲間をぞろぞろと連れて、真夜中の湖に舟を出しました。しかし、何も獲れませんでした。
夜が明けそめたころ、岸辺から声がします。「子どもたち! 食べるものがありませんね!」話によると、この湖は離れていても音がよく聞こえるらしく、イエスさまが群衆にメッセージをお語りになるにあたり、湖という場所をお選びになったのももっともなことなのだそうです。だから、岸辺と湖面のように、遠く離れていても会話ができました。弟子たちは岸辺の声の主(ぬし)に答えます。「はい、ありません。」すると声の主が言います。「舟の右側に網を下ろしなさい。そうすれば、獲れます。」
彼らは、冗談言っちゃいけねえ、などと疑わず、素直に網を下ろしました。漁師の経験や勘よりも、岸辺の声を信じたのはなぜでしょうか? これは、3年にわたってイエスさまの御声に従順にお従いする訓練ができていたから、御声をキャッチするとそれにひとりでに従えていたからでした。まだ、この声の主がイエスさまだと気づいていなくても、ひとりでにそれが主のみこころだと判断できて、行動できていたわけです。そう、従順の行いが、頭で考えるよりも前に、本能のように身についていたわけです。
すると、獲れるわ獲れるわ! その数なんと153匹! 弟子の一人が叫びます。「主だ!」そう、あの岸辺の声の主は、イエスさまだと分かりました。水にぬれるし、汗をかく、そんな力仕事の邪魔になるからと、すっぽんぽんで漁をしていましたが、ペテロは、イエスさまに会いたい! でもこれじゃ恥ずかしい! と、服をまとって湖に飛び込み、一目散に泳いでイエスさまのおられるところに向かいました。
イエスさまは粋な方です。よくもわたしのことばを無視して、またもこの世の働きに出ていったな、などとお責めになることは、一切なさいませんでした。そうじゃなくて、イエスさまのなさっていたことは、パンと魚を用意して、炭火を起こしてその上で魚を焼いて、朝ごはんを用意する、ということでした。ほら、あなたがいま獲った魚をこの火の上に載せなさい、イエスさまは、彼らの漁の努力が意味のあるものにすることさえしてくださったのです。一晩中の漁のお仕事、よく頑張ったね、そんなふうに励ましてさえくれているようです。
弟子の足を洗ってくださったイエスさまは、ここでも弟子たちのしもべとなってくださいました。相変わらずイエスさまの言うことを聞かないで、勝手なことをしている彼らが、おなかがすいて疲れたら、食べさせてあげる。そのためにパンをこね、魚を獲り、炭火を熾して料理して……どこの世界に、先生をしくじる弟子たちにここまで尽くす、そんな先生がいるでしょうか。
彼らは、このお方がイエスさまだということをわかっていました。十字架に死なれ、お墓に葬られていなくなったのではない。復活していま、ここにともにおられる。あなたはどなたですか、なんて、聞くだけ野暮というものでした。
そしてイエスさまは、その中でもとびきりのしくじりをしたペテロに向かって、おっしゃいます。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、あなたはわたしを愛していますか。」イエスさまのおっしゃった「愛していますか」、これは欄外の脚注にあるとおり、ギリシャ語の原文では「アガパオー」、つまり、「神の愛で愛していますか」ということです。
しかし、イエスさまを三度も裏切ったペテロに、そんな大それたことがいまさら言えるでしょうか。いわんや、ここにいるほかの人たち以上にあなたを神の愛で愛しています、など、とんでもないことです。ほかの者たちがつまずいても、自分は絶対そうなりません、と大見得を切った者が、いまさらどの口でそんなことを言えるでしょうか。
それでもペテロは、イエスさまがおられると知ったら、上着をまとって精一杯の威儀を正しながら、一目散にイエスさまのもとに駆け寄っていった、イエスさまが大好きな人であることに変わりはありません。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」この「愛している」は、これも欄外の脚注にありますが、「フィレオー」、つまり「兄弟愛」です。神の愛には遠く及ばないけれども、私はあなたを愛しています、それは、わかってくださっていますよね?
そんなペテロに、イエスさまはおっしゃいます。「わたしの子羊を飼いなさい。」ルカの福音書15章4節から7節に出てくる羊飼い、いなくなった羊を一生懸命さがし、見つかったら喜んでその羊を肩に担いで帰り、その喜びをみんなに分かち合う。それほど、いと小さな存在をイエスさまの子羊と見込んで大事にする、イエスさまが何よりも大事にしておられる小さな存在を大事にすることで、イエスさまのことを大事にする、そんな人になってほしい。
でも、イエスさまはなおお尋ねになります。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」ほかの人よりも、ではないにせよ、イエスさまはこの問いにおいても「アガパオー」とおっしゃいました。しかし、ペテロは「私がフィレオーの愛であなたを愛することは、あなたがご存じです」とお答えしました。私の愛が神の愛などとんでもない、しかし、それでも私があなたを愛していることは、あなたが知っておられます。イエスさまはその答えをよしとし、「わたしの羊を牧しなさい」とおっしゃいました。ダビデがしたように、群れのことをいこいの水のほとりに導き、緑の草を食べさせる、猛獣どもの手から守りながら。そのように、教会をつくって世話をしなさい。それが、わたしを愛するということです。
しかし、なおイエスさまはペテロを放されませんでした。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」こんど、イエスさまがお用いになったのは、「フィレオー」です。
そうです。イエスさまは、ペテロが「アガパオー」には遠く及ばないにせよ、「フィレオー」の愛、その愛で、神さまを愛します、イエスさまを愛します、と言えるほどの愛を持っていることを、わかっておられました。ペテロはしかし、この質問に心を痛めました。なぜならば、イエスさまが三度も繰り返して同じ質問をされたからです。しかしこれは、三度にわたってイエスさまのことを「知らない」と言ってみせて、もはやイエスさまの弟子であることも、働き人であることも捨ててしまっていたペテロのことを、本来の召命に回復させてくださるうえで、どうしても必要なお取り扱いでした。三度問われ、三度、ペテロの口からイエスさまへの愛のことばを語らせることで、イエスさまを愛していないということを事実上口にしてしまったその「事実」を、まったくないものにしてくださったのでした。
イエスさまは、ペテロがどんなにご自身を否定したという事実があろうとも、ペテロがほんとうはご自身を愛していることを、だれよりもご存じでした。ペテロよ、もうあなたは、わたしを愛せなかったと自分のことを責めるな、あなたがわたしを愛していることは、わたしがいちばんよく知っているよ。そんなあなたのことを、あなたがわたしのことを愛する以上に、わたしは愛しているよ。だから、わたしはそんなあなただと見込んで、わたしの羊を任せるよ。さあ、お世話しなさい。
イエスさまの羊を養うことのできる資格は何でしょうか? イエスさまを愛すること、これだけです。イエスさまを愛していれば、一生懸命、イエスさまのご命令が何かということを学びますし、そして、そのご命令を守り行おう、そのようにしてイエスさまの喜びとなろうと、これまた一生懸命になるでしょう。そしてそのご命令は、イエスさまの羊を養うことです。
私たちは羊です。しかし、それと同時に羊飼いにもなります。かつて、アメリカのある宣教学の専門家の先生が、日本の教会を訪問して、日本の教会では羊飼いが羊を産んでいる、と評価されましたが、それはもちろん、信徒たちは教職者に伝道や養育を任せっきりにしている日本の教会の現状はよくない、ということではあるものの、別の見方をすれば、そうですよ、何が悪いのですか? と開き直ってもいいおことばです。というのは、私たちはイエスさまを愛するかぎり、だれであれ、羊であると同時に羊飼いだからです。牧師や宣教師だけが羊飼いなのではありません。みんな、イエスさまを愛していれば羊飼いです。
イエスさまを愛して日々、みことばをいただいてお祈りし、イエスさまのみこころを受け取りつづけているならば、私たちはこの教会という羊の群れを愛し、ひとりひとりの羊を愛したい、と思えるようになるでしょう。なぜならば、この羊を大切にすることが、イエスさまが何よりも願っていらっしゃることだからです。
だれかに愛してもらう前に、ケアされる前に、まず自分から愛せるようになりたいものですが、そのためには、神さま、イエスさまがどんなに、私たちのことを愛しておられるか、その愛を毎日、存分に受け取ることです。そうすれば、教会のひと枝ひと枝、羊たちを愛することは主のみこころだ、と心から受け取り、自分から愛しはじめることができるようになります。そうして、お互いに愛し合う共同体として成長するのです。そんな麗しい主のからだなる共同体を、今年度も、2025年度も、この地に形づくっていく者たちとして、私たちが用いられますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。