聖書箇所;ルカの福音書10章25節~37節
メッセージ題目;良きサマリア人になるために
国会議員、参議院議員に、金子道仁という人がいます。彼は牧師先生で、もともとが、フリースクールや老健施設の経営で知られる、グッド・サマリタン・チャーチという、兵庫県の田舎にある教会の副牧師をなさっている方です。英語で「グッド・サマリタン」というと、隣人愛に富んだ人、という意味の、クリスチャンにかぎらず用いられる、美しい呼び方です。グッド・サマリタン・チャーチは今日も、その呼び名にふさわしくあるように、福祉を必須の働きとした教会形成を実践すべく、兵庫県の郡部で頑張っておられます。
グッド・サマリタン。良きサマリア人。いいことばです。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」ではありませんが、「そういう人に私はなりたい」と、聞く人をして感動させるおことばです。私もこの、良きサマリア人のようになりたい。しかし、イエスさまがこのたとえをだれに対して、どんな流れでお語りになったかをよく考えると、手放しに、美しいお話、では片づけられないものがあることに気づきます。イエスさまは「あなたも行って同じようにしなさい」とおっしゃるが、私たちには「行って同じように」できるのだろうか、そうするためには何をしなければならないだろうか、ともに考えていただけたらと思います。
ひとりの律法学者がイエスさまのもとに来て、質問します。何をしたら永遠のいのちを受け継げますか。彼がこう質問した理由をみことばは語りますが、それは、試そうとして、ということでした。律法学者、パリサイ人という立場にある者たちは、イエスさまのお語りになったことの粗を探し、罠にかけて、あわよくば訴えてやって、なきものにしてやろう、という、腹黒いことを考える集団でした。しかし、彼のそんな意図で投げかけた意地悪な質問は、イエスさまから、極めて大切な教えを引き出す結果となりました。
イエスさまはこの質問をしてきた律法学者に、「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」と、逆に質問を投げかけられました。みことばを学ぶ者は、まず、その学ぶ前提となっているみことばの読み方、受け取り方が問われます。みことばを単なる人間の書いた書物と受け取ったら、それなりの読み方になりますし、みことばは神さまのお語りになった永遠の真理と受け取ったら、そういうものとしてお聴きすることになります。うちの教会はもちろん、みことばは神さまの御口から出る永遠の真理であるという立場を、創立以来58年にわたって一貫して保ってきたわけで、だから私もそのようにみことばをお読みしています。だれが何と言おうと、聖書は誤りなき神のみことばです。
だから、イエスさまのこのご質問に対する律法学者の答えは、彼にとってのみことばの読み方、彼が専門としている律法に対する、彼なりの立場を反映したものであるわけです。前提となっているものは「何をすれば、永遠のいのちを得られますか」。それに対して、イエスさまは、あなたがそう律法を読んでいるならば、そのとおりですから、それを守り行うことです、とおっしゃいました。
しかし、私たちはここで引っかからないでしょうか。私たちは普段、イエスさまの十字架を信じる信仰によって永遠のいのちを得られる、と、エペソ人への手紙2章8節、9節から教えられています。。永遠のいのち、救いは信仰による。なのにイエスさまは、律法を守り行うことで永遠のいのちを得られる、と? これいかに?
その疑問に対する解決はとりあえず一旦置いておいて、つづきを見てみたいと思います。律法学者は、では、私の隣人とはだれのことですか、と、イエスさまにもう一度質問しました。それは、「自分の正しさを示そうとして」という動機からだったとあります。
当時のユダヤ人にとって、隣人といったらふつう、まずは家族、そして親族、さらにユダヤの共同体の人、であり、それ以外の人は眼中にありませんでした。
だから、イエスさまもユダヤの教師であるならば、当然そう答えるはずだ、そんな隣人を愛することなら、私にはお安い御用だ、私には守り行えるぞ、どうだ、私は正しいだろう、という計算が、この律法学者にあったわけです。
そこでイエスさまは、ひとつのたとえ話を始めました。……エルサレムからエリコに下る人、これは、ユダヤ人が想定されています。そのユダヤ人が、強盗たちから寄ってたかって暴行を受け、身ぐるみ剝がれ、傷ついて横になっていた……あなたは、このユダヤ人にわが身を置き換えてみなさい、というわけです。
さて、イエスさまがこうしてお語りになった、強盗たちにやられて傷ついた旅人がユダヤ人だった、これには深い意味があります。ユダヤ人は、病気になって倒れていたのではありません。強盗にやられて倒れていたのです。なぜ、イエスさまはわざわざ、強盗、という言い方をしたのでしょうか? 話によると、当時この街道にはときどき追い剥ぎが出たらしく、イエスさまのたとえもそれを念頭に置いておられたと言えるわけですが、それにしても、血なまぐさいたとえ、それならいったい、強盗とはだれでしょうか?
この旅人はユダヤ人で、強盗に襲われて身ぐるみ剥がれました。何を象徴しているのでしょうか? 当時の社会においては、ユダヤ人の庶民を寄ってたかって傷つけ、搾取する存在がありました。それはほかならぬ、今こうしてイエスさまがたとえ話を語り聞かせておられる相手、律法学者たち、パリサイ人たちでした。
イエスさまは、ユダヤ人の群衆が、羊飼いのいない羊のように弱り果てているのをご覧になり、はらわたもよじれんばかりに悲しまれました。ユダヤ人をこれほどまでの状態にしたのは、パリサイ人のような宗教指導者たちが、民の羊飼いとしての役割を果たし、みことばによって彼らを養い、いやすことはおろか、みことばの本来の精神を離れた自分たちなりの解釈で彼らを支配し、傷つけ、搾取することしかしなかったからです。もちろん、イエスさまはこのたとえで、強盗とはあなたがた律法学者のことです、とはおっしゃいませんでしたが、それでも、強盗のような存在に傷つけられたユダヤ人にわが身を置き換えて考えてみなさい、というチャレンジは与えておられるわけです。
さあ、その傷ついたユダヤ人の方に、つまりエルサレムへと向かう祭司がやってきました。エルサレムで主の宮にて仕える働きをするためです。しかし、彼は反対側を通り過ぎました。もちろん、祭司には彼のことが見えていないわけではありません。しかし、関わり合いになるのを避けました。実に、宗教人にあるまじき姿ですが、ここであえて、この祭司の弁護をする試みをすれば、祭司はきよい主のお働きをするために、けがれたものに触れてはなりませんでした。それは律法のみことばに書かれているとおりです。
もし仮に、この道端に横たわっている人が死んでいたならば、万が一そのからだに触れでもしたら、この祭司は「汚れた」ということになるわけです。そうなってはエルサレム神殿にて神さまの働きをすることができなくなります。祭司は、神さまとの関係を重んじて、あえてこの道端のユダヤ人から身を引いたわけです。
しかし、だからといって、この祭司がこの傷ついたユダヤ人に何の手も差し伸べなかった事実に変わりはありません。いわんやこのユダヤ人は、死んでなどいませんでした。死体に触れたら汚れて、神さまの働きができなくなる、というのは、言い訳以外の何ものでもありません。この祭司は、神さまとの関係においては、百点満点のつもりで振る舞ったことでしょう。しかし、同じユダヤ人に対して見捨てる行動をしたという点で、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という律法の命令に対しては、0点でした。隣人を愛することにおいて0点ならば、神を愛することにおいても0点になってしまうのです。
次に来たのは「レビ人」でした。やはりエルサレム神殿にて、祭司の指導のもとで働く立場にありました。彼もこのユダヤ人を避け
ました。理由は祭司と同じ、関わり合いになったら主の働きができなくなるかもしれない。このレビ人の姿は、当時の宗教社会の現実を投影していると言えます。トップにいる祭司にしてそのような、律法主義でがんじがらめになって傷ついているユダヤ人の隣人になろうとしていない。その下で働くレビ人たちもその影響を受けてしまっている。
宗教指導者たちは普段、偉そうなことを言っているけれども、ユダヤ人の抱える傷を癒やそうとも、慰めようともしない。ただ、自分たちを肥え太らせることしかしていない。上から下までみんなそうである。このたとえには、ときの宗教指導者たちに対する、イエスさまの激しい怒りが隠されているようです。
さあ、そこにやってきたのが、サマリア人でした。イエスさまが「サマリア人」とおっしゃったとたん、この律法学者はどんな顔をしたことでしょうか? なにい、サマリア人だあ!? 吐き捨てたくなったのではないでしょうか。
サマリア人。神の民イスラエルの血を引きながらも、血統的には混ざりあった混血の民と化し、宗教的にもユダヤ人から見れば純粋さを失い果てた、汚らわしい存在。ユダヤ人にとってサマリア人は、蛇蝎のごとく嫌うべき存在、もっといえば、差別して当然の存在でした。だから、イエスさまが平然と「サマリア人が」とおっしゃったとき、この律法学者は顔から血の気が引いたのではないでしょうか。
もちろん、サマリア人もユダヤ人のことを蛇蝎のごとく嫌っていることは、ユダヤ人の側もよくわかっています。それが、イエスさまのこのお話だと、サマリア人の旅人は、道端に横たわるユダヤ人に目がくぎづけになりました。かわいそうに思いました。駆け寄って、自分の大事なオリーブ油とぶどう酒を傷口に注ぎ、包帯を巻いて手当てをしました。自分が乗っていた家畜に乗せてあげて、自分は歩いて彼を乗せた家畜を引いて宿屋を探し、たどり着きました。宿屋で彼のことを、一生懸命介抱しました。2デナリものお金を宿屋の主人に払い、このユダヤ人のことを頼みました。しかし、主人に任せっきりにしないで、もっとお金がかかったら、自分が帰りに払う、と約束しました。
傷ついた人に対して、赤の他人が、それも、敵対している民の人が、ここまでしたわけです。ヤコブの手紙に書かれた、私は行いによってあなたに自分の信仰を見せます、という教えを、地で行く実践、それをこのサマリア人はしたわけです。「よきサマリア人」と呼ばれて賞賛されるゆえんです。
この傷ついたユダヤ人に、わが身を置き換えて考えてごらん、という前提で、イエスさまはお話しになりました。その上で、イエスさまは律法学者にお尋ねになります。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
もう、答えは明確です。しかし、この律法学者は、この期に及んで、それはサマリア人です、とは、口が裂けても言えなかったのでしょう。「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えるのが精一杯でした。そんな律法学者に対し、イエスさまはおっしゃいます。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
さて、これは、私たちクリスチャンはすべからく、このよきサマリア人のごとくふるまうべきだ、という教えなのでしょうか? たしかに、そうとも言えますが、ここでイエスさまがなぜ、この律法学者もそうであるユダヤ人にとっては蛇蝎のごとく嫌う民族であるサマリア人をたとえにしてお語りになったか、もっとよく考える必要があります。
この律法学者は、永遠のいのちに関心がありました。しかし、彼はそれを得るには、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」という質問や、「強盗に襲われた人の隣人になったのは、その人にあわれみ深い行いをした人です」という答えに現れているとおり、彼の関心、彼の基準は、どこまでも「何をするか」ということ、つまり、「行い」にありました。
しかし、彼がもしイエスさまがおっしゃるように、「行って同じようにする」には、絶望的な壁が待ち受けています。ユダヤの律法学者、宗教指導者が、蛇蝎のごとく嫌うサマリア人に隣人として接するならば、それはその人の宗教指導者としての立場の「死」を意味します。
いや、それだけでしょうか。この律法学者が、「私の隣人とはだれですか」とイエスさまに聞いたとき、彼がその前提としていたものが、同じ民族であるユダヤ人のことを自分の隣人と思っていた、と申しました。しかし実際はどうだったか。律法学者は、ユダヤ人を寄ってたかった痛めつける強盗でした。
律法学者たちは、同族のユダヤ人に対してさえも、愛情深く隣人として振る舞うことはおろか、傷つけ、搾取し、拘束する、そういうことを当然のことのようにしていたわけです。隣人であるはずのユダヤ人に対してさえまともに隣人愛を実践できない者が、どうして、あの大嫌いなサマリア人に愛の実践などできるものでしょうか。
要するに、イエスさまがお示しになった、まことの隣人の姿など、真似しようとしても真似できないものなのです。この律法学者は行いで永遠のいのちを手にできると思っていたようですが、ほんとうのところ、行いなどで永遠のいのちは、金輪際手に入るものではありません。だから、律法学者はこのとき、みことばの要求する行いの水準がいかに高いものかを思い知り、絶望して、「イエスさま、できません! この罪人の私を憐れんでください!」と、ひざまずいて御手にすがるべきだったのです。
それにしましても、隣人の話を持ち出すにあたって、なぜイエスさまはわざわざ、サマリア人があなたの隣人だ、とおっしゃったのでしょうか。それを考えるには、このサマリア人がユダヤ人に何をしたかを考えてみましょう。かわいそうに思った。いやした。いのちが保たれるために犠牲を払った。サマリア人のこの姿は、イエスさまの姿ではないですか。
ユダヤの宗教指導者たちはサマリア人を蛇蝎のごとく嫌ったように、イエスさまのこともやはり嫌いました。なんと、彼らはイエスさまに向かって、おまえは悪霊に取りつかれたサマリア人だ、と言っています。ダビデの子、ゆえに、ユダヤ人の中のユダヤ人であるイエスさまのことを、彼らは言うに事欠いて「サマリア人」呼ばわりしたのです。しかしイエスさまは、サマリア人呼ばわり大いに結構、とばかりに、ご自身をサマリア人に例えられ、わたしがどんなにあなたたちに嫌われていようとも、あなたたちが傷つけられて苦しんでいるのを、わたしは見過ごしにはできないのですよ、わたしは癒やします、永遠のいのちを、わたしの十字架の代価をもってあなたがたに与えます、どんなに拒絶されても、イエスさまは愛してくださるのでした。
この愛を人が持つのは不可能です。なぜならば、人はどこまでも自分中心の罪人だからです。神を神と認めない、自分のことしか考えない、そんな堕落した存在である私たちが、ちょっとやそっとのよい行いでだれかを愛し、その結果永遠のいのちを得ようなんて、ナンセンスもいいところです。イエスさまはそんな律法学者の愚かさにしたがって、あえて「愚か者には、その愚かさに従って答えよ」という、箴言のみことばの原則どおりにお答えになっただけです。
しかし、私たちは律法学者の愚かさを笑う前に、自分自身の愚かさを認めるべきです。あらゆる知恵を得ようとも、決して自分を救えない。何をやっても神のきよさから外れた、自己中心、サタン中心の罪人。神さまはそんな人間のことなど、たちどころに滅ぼして当然でした。いまごろ、あなたも私も地獄の中。それでも何ひとつ文句など言えた義理ではありません。しかし、神さまはこんな愚かな人間のために、わかった、おまえたちがそれほどまでに愚かならば、わたしはお前たちの愚かさにしたがって答えよう。私のひとり子をおまえたちの身代わりに十字架につけ、死なせよう。おまえたちがこれを信じさえするならば、わたしはおまえたちを救い、永遠のいのちをあげよう。神の愚かさはここに極まりました。だが、コリント人への手紙第一1章が語るとおり、この神の愚かさは、何をどう努力しても決して自分自身を救うことのできない、人間のあらゆる知恵にまさるのです。
そう、私たちは、もはや神の御子イエスさまが身代わりに死んでくださらないかぎり、決して罪から自分を救えなかったほどの罪人、愚か者、弱い者です。
しかし、それでも私たちは、このよきサマリア人のようでありたい、この人のように無償の愛を実践したい、そう思いませんでしょうか? それは、イエスさまを信じる信仰によって救われた者として、当然の思い、というより、そういう思いに導いてくださる、神さまの恵みです。そう、まともに考えたら、こんな愛を実践することなど、しようと思ってもできないのです。
私たちは愛せません。愛する行いなど実践できません。自己中心の罪人です。しかし、それでもイエスさまは、そんな私たちに向かって、「あなたも行って同じようにしなさい」とおっしゃいます。
イエスさまはあえて不可能なことを、私たちに命令しておられるのです。それは、そうできるように、神さまが私たちのことを、みことばと御霊により、心の一新によってつくり変えてくださるからです。あなたはよきサマリア人になれるのです。イエスさまは私たちにチャレンジを与えてくださっています。
どうすればいいのでしょうか? イエスさまの愛と恵みを知りつづけることです。イエスさまが、こんな私の隣人になってくださり、愛してくださっているなんて! 癒やしてくださっているなんて! なんと感謝! なんともったいない! イエスさま、あなたさまの愛に応えさせてください! 私もだれかを愛せるように! その、イエスさまへの愛が必要です。
私たちがもし本気で、この「よきサマリア人」に憧れ、そのようになりたいと思うなら、教会全体でともに、キリストの似姿に変えていただくことです。ともにみことばをいただき、ともにみことばを握って祈り、交わりを大切にし、お互い励まし合い、慰め合い、力づけ合い、そして、家庭であれ、職場であれ、学校であれ、サークルや習い事であれ、それぞれの生活の現場に出ていって、隣人を愛し、隣人に仕えることにより、イエスさまがその人の隣人になり、癒やし、救い、永遠のいのちを与えてくださる、そのお手伝いをすることです。
みこころにかなった共同体となる第一歩、それはまずここにいる自分から、イエスさまが自分のことを愛してくださるその愛を受け取り、その愛によってだれかを愛することから始まります。まさに今年の標語、「神の愛で愛しはじめよう」、それを、まず自分から始めるのです。だれかにやってもらおうとする前に、まず自分から始めるのです。
なにも、赤の他人を愛しなさい、とか、大嫌いで口もききたくない人に、積極的に関わらなくてはなりませんよ、ということではありません。まず、そばにいる、それこそ隣人を愛することから始めるのです。それが、良きサマリア人として歩むそのはじまりです。私たちがみな、心のうちにおられるイエスさまとの交わりを日々深め、神を愛し、隣人を愛する、よきサマリア人の働きにともに用いられるものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。