聖書箇所;創世記2章1節~25節
メッセージ題目;天地創造、それは主の愛のみわざ その2
神さまが天地を創造されたという事実を受け入れるとき、私たちは創造者を認め、謙遜にさせられます。そして、創造者のみこころは何であるかを知ろうとし、聖書を熱心に読むようになります。そうすれば素晴らしく用いられる、喜びに満ちた人生を歩んでいくことができます。
さて、今日の箇所は、創世記2章、神さまの最高の被造物である人間の創造について、くわしく書かれている箇所です。
人とはどのような存在か? 私たち人間は自分の存在について、たえず問いかけていますが、みことばから学ぶならば、私たちはそのことを知ることができます。そして、私たちの生きる指針をいただいて、神さまの御目にふさわしい生き方をしていくことができます。ともに学んでまいりたいと思います。
第一のポイントです。神さまは人に、霊的ないのちを与えられました。
7節のみことばをお読みしましょう。……人間の原料は、大地の土です。神さまは霊なるお方なので、物質的な形をお持ちの方ではありません。しかし人間は、物質であるわけです。創造主と被造物のちがいが、ここにも現れています。
人間の原料は土です。このことを知ることは、人を謙遜にさせないでしょうか。もし、神さまに形づくられなかったら、私たちは土の泥のような存在のままです。なんだか得体の知れない存在です。そこに何の「神のかたち」を見いだせるでしょうか。しかし私たちは土のちりにすぎなかったのに、もったいないことに、神さまの御手によって「神のかたち」に仕上げていただいたのです。
神さまのかたちに仕上げていただいたのは、人間だけです。サルの種類は人間に姿かたちが割と似ていますが、彼らは「神のかたち」ではありません。単なる獣、動物です。神さまがご自身のかたちに創造されたのは、ただ、人間だけです。
それだけでしょうか? 神さまはいのちの息を、人間に吹き込まれました。それで人間は生きるものとなったと、みことばは語ります。いのちの息、つまり霊が吹き込まれたと特にみことばが証しする被造物は、これも人間だけです。
神の息吹が吹き込まれている、これぞ、人がほんとうの意味で生きているということです。これは人が霊的な存在にされているということであって、それゆえに人は神さまと交わりを持つことが許されます。神さまとの交わりもなく、神さまのみこころをないがしろにして生きているということは、生きてはいても死んでいるような状態であるということです。
私たちの「生きたい」と願う飢え渇きを満たすことができるのは、いのちの息を吹き込んでくださった神さまだけです。だから私たちは、。朝に夕に、主を求めてまいりましょう。本来創造された主のみこころに忠実になり、いのちの息が吹き込まれた者としてふさわしく主との交わりを持ちつづけるならば、主は必ず私たちを、大いなる祝福へと導き入れてくださいます。
では、その祝福とは何でしょうか? 第二のポイントです。神さまは人に、生活の彩りと戒めをともに与えられました。
9節のみことばをお読みしましょう。あらゆる果樹が実を結びます。16節もお読みしましょう。その果樹から、好きなだけ食べていいというのです!
果物というものは、創造のはじめから人間を養うために神さまがお造りになった、特別な存在です。果物はいろいろな形、いろいろな色をしています。味もさまざまです。
果物は実に不思議なものです。果樹が葉っぱで光合成をし、また土に下ろした根っこから水分と栄養分を取り出し、大きくなり、時が来ると実をつけます。太陽の光には味などなく、果樹も、土も、舌で舐めたらえらいことになります。それなのに、結ぶ実は甘くておいしく、栄養がたっぷりです。神さまはそういうシステムで人間を養われることを良しとされたのです。
神さまはみことばの中で、神さまとの交わりを通して私たちの生活に現れる良い結果のことを、しばしば「実」と表現しています。特に有名なのが、ガラテヤ人への手紙5章22節、23節の「御霊の実」です。これはちょっと読んでみましょう。新約聖書の382ページです。
……こういう実を結ぶには、それなりの忍耐が必要です。神さまの恵みという光を浴び、水を得るのです。時には風雪に耐えながらも、神さまのみことばという大地に根を下ろしつづける、つまり、揺るぐことのない神さまに拠り頼みつづけなければなりません。ある聖書箇所では、みことばは腹に苦かった、とありますが、土が口にできたものではないが果樹に栄養を供給するように、みことばは時に、口に甘しといえるようなものではない、厳しいものであるかもしれません。しかし、私たちはみことばに根を下ろすことで、養われ、健康に成長するのです。もし、安逸をむさぼり、神さまの恵み以外のものから栄養を得ようとするならば、その結ぶ実はひどいものであり、とても食べられたものではありません。その悪い実のことを、聖書は「肉のわざ」と呼びます。お読みしませんが、19節から21節にリストアップされています。このような悪い実を結び続けるのは、この世の快楽という肥料から栄養を取ることをやめようとしないからです。神の子どもらしく生きるならば、こんなことは早くやめるべきです。
木に代表される植物というものも、数えきれないほどの種類がこの世界には存在します。それは神さまが、私たち人間の生きるこの世界がつまらないものとならないように、かぎりない彩りを与えてくださったゆえと言えるでしょう。そのようなバラエティに富み、そして美しい被造物を見るとき、私たちは創造主なる神さまを認め、その被造物とされていることを覚えて謙遜にさせられるものです。
そう、私たちは被造物です。私たちが被造物であることを、神さまは「善悪を知る知識の木」というものを備えることによって教えてくださいました。これは、神さまの設けられた限界です。神さまが聖である、つまり、神さまは被造物と同じレベルの存在では決してありえないことを、お示しになる「教材」ともいうものでありました。それを食べるとき、あなたは必ず死ぬ。神さまはこの木によって、ご自分が聖なる存在であることを示されたのでした。あなたがもし、わたしのこの命令に背くならば、あなたは必ず死ぬ。
なぜ、従順ということが大事なのでしょうか? それは、従順がいのちだからです。しかしある人は、この従順という考え方に反発をいだきます。それは大きく分けて、2つの理由があるからです。
ひとつは、この世の従順を強いるあらゆる存在は完全ではなく、その存在のもとで従順の生き方をするならば、とても苦しい目に遭う、ということがその理由です。ブラック企業、などということばがありますが、企業の経営者が人に給料、すなわち経済的な安定を提供する代価として、長時間の労働、劣悪な環境のもとに留め置くわけです。従順というものをひどく悪用するケースでしょう。
もうひとつ、人が「従順」を嫌がる理由があるとすれば――こちらの方が深刻ですが――、それは権威に対する反発、自己中心から来るものです。神さまなど認めない、従順な生き方などするものか、自分の好きなように生きてやる……しかしこのように、神さまよりも自分の欲望を優先させる傾向の強い私たちが、神さまに従順に従う道を選ぶならば、それは幸いなことです。しかし私たちはなんと、禁止されていることを見て、自分のことを不自由だと思いたがるのでしょうか! なぜ、自分に与えられた大きな自由、恵みに目を留めようとしないのでしょうか! ここに私たちの自己中心、罪の性質が現れています。私たちはそのような発想から、早く自由になる必要があります。
私たちはぜひとも、「神さまの与えた自由」を基準としながらも、神さまに対する不従順の罪を犯させようとするあらゆる罪に警戒し、従順の歩みを実践していきますようにとお祈りします。それが、いのちの道です。
第三のポイントにまいります。神さまは人に、愛する相手を与えられました。
18節と19節をお読みします。……神さまはまず、鳥や獣をアダムのもとに連れてこられました。それは、人が名前をつけるという、その作業を与えられるためでした。
世界中のあらゆる動物には、名前がつきます。新種が発見されたら、ただちに新しい名前が命名されます。まことに、同じ土から造られた被造物であっても、その被造物の特徴にしたがって名前をつけることができるのは、人間だけです。動物はほかの動物に名前などつけません。これは、人間が、その与えられた知性をもって、動物に代表される被造物を統べ治める存在であることを示しています。ここに神さまが、この地を従えるわざを人間に与えられたことを見ることができます。
人はあらゆる生物に対するネーミングライツを持っていますが、その所有者は神さまです。人間が被造物を従えるということは、その被造物に対して勝手気ままに振る舞っていい、ということではありません。どこまでも創造主なる神さまとの関係で、被造物を管理する必要があります。それが、被造物である人間に与えられた使命です。
これらの被造物はみなわたしのものだ、けれどもあなたがこれを治めるのだ、私がその責任と権限をあなたに与えよう。私たちがこの環境を浪費してはならないのは、それが神さまのものだからです。しかしその一方で、この環境を保護する、というときもまた、それは創造主であり、すべての被造ぶちの持ち主である神さまとの関係において考えていくべきことです。
さて、神さまは人がこの地に増え広がるようにとみこころを定められましたが、男の助け手としてふさわしい動物はいませんでした。
それは、動物にはいのちの息が吹き込まれていない、すなわち神さまと交わりを持つことができる存在ではないことが、その大きな理由といえるでしょう。二人は一体となる、それは、肉的に一体となるということもさることながら、同じひとりの御霊によってひとつとなる、という意味を含みます。最近私は、海外のある国ではペットの犬との結婚が合法化される、などというニュースを見ましたが、とんでもないことです。それがとんでもないということは、アダムのはじめからそうでした。霊のない動物では結婚して助け手にすることなどできないのです。そのため神さまは、人から人をお造りになりました。
アダムはエバを見て、何と告白しましたでしょうか? 23節のみことばです。……ここからわかることは、男性と女性は平等な存在、ということです。心臓にいちばん近いあばら骨から取られ、造られたということがそれを象徴しています。お聞きになった方もいらっしゃると思いますが、頭の骨から取られたならば、女は男より上ということになるでしょう。足の骨から取られたならば、女は男より下ということになるでしょう。そうではなくてあばら骨、まさしく、対等の立場の助け手です。
あばら骨のそばには、いのちを司る心臓や肺があります。私はこのあたりに関しては、個人的に言うべきことがあります。私は中高生のとき、肺を手術するため、両胸のあばら骨の間にメスを入れました。それ以来、そのあたりの皮膚や筋肉の感覚がおかしくなり、30年経った今もそれは治っていません。天気が悪いときは呼吸が苦しくなり、からだ全体に影響が出ます。あばら骨を取らなくてもそうなのだから、いわんやあばら骨を取ったとしたら、それはどれほど苦しいだろうかと思います。
そう、愛するということ、助け合うということに召されているとは、相手が生きるために、あえて苦しむことです。アダムよ、エバにいのちを与えるために、そして、エバと助け合う生き方をするために、苦しみなさい、しかしその苦しみは、喜びだよ、神さまはそうおっしゃっているようです。
24節のみことばを見てみると、そのことが一層はっきりします。……このみことばは一見すると、結婚についての一般的な概念を語っているようですが、このほんとうの意味が、モーセがこのみことばを記して1600年経って、パウロによって明らかにされました。これは、キリストと教会を指したみことばだということです。
男があばら骨を取られて女をいのちに生かす。それは痛みの伴う、苦しいことです。しかし、あたかもそれは、私たち教会に永遠のいのちの喜びを与えるために、十字架の上で傷ついて苦しまれた、イエスさまの苦しみを現しているようです。しかし、もったいないことに、イエスさまは私たちを愛するあまり、喜んでご自身を差し出し、痛みを背負ってくださったのでした。私たちはイエスさまの痛みによって、生きるものとされたのでした。
私たちもまた、愛する人のために苦しむ道を選べるでしょうか? なかなかそうなれない、自己中心の醜い姿を思って落ち込むかもしれません。しかし神さまはそんな私たちであると知ってもなお、イエスさまの十字架によって私たちの罪を完全に取り去ってくださり、神さまの子どもらしく歩ませてくださいます。日々、イエスさまの十字架を思うことです。
私たちは自分には愛がないと思っているようでも、神さまの恵みによって、愛する人になれるのです。愛するためにあえて苦しみを選ぶ、祝福の生き方ができるようになるのです。その約束を握って、祈りつつ歩んでまいりましょう。
神さまは私たち人間に、霊的ないのちの祝福、従順の祝福、愛することの祝福をくださいました。私たちの人生は、あらゆる祝福に満ちています。ただ、創造主なる神さまとの交わりの中で、その祝福のほんとうの意味を知ることができます。ともにこの祝福を味わい、神さまのすばらしさを讃美してまいりましょう。