聖書箇所;ペテロの手紙第一3:18~22
メッセージ題目;バプテスマと主の晩さんの関係
私たちの教会は、「水戸第一聖書バプテスト教会」といいます。私たちバプテストは、入信を表明する際に行うことを「バプテスマ」と表現します。他の教団教派では一般的に「洗礼」と呼び、このことばは一般的にも使われています。
洗礼といいますと、カトリック教会や長老教会などでは、水滴を頭につける「滴礼」という形で行います。また、生まれて間もない子どもにも「幼児洗礼」というかたちで洗礼を授けたりします。しかし、私たちバプテスト教会は全身を水に浸す「浸礼」という形でバプテスマを行い、また、幼児にバプテスマを授けることはしません。
さて、主の晩さんについてですが、ここで一度、バプテスマと主の晩さんについて整理し、なぜ私たちにとってバプテスマが大事なのか、そのバプテスマを受けた私たちが主の晩さんにあずかることにはどのような意味があるのかを、本日、主の晩さんを執り行うにあたりまして、ペテロの手紙第一3章のみことばから、ともに学んでまいりたいと思います。
私たちは本日のみことばを、3つのキーワードから理解してまいりたいと思います。第一は「十字架」です。18節のみことばをお読みします。
キリストが罪のために苦しみを受けられたとあります。いうまでもなく、人間の罪です。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない、とみことばは宣言します。法律で戒められている犯罪、どろぼうですとか、傷害ですとか、殺人ですとか、そういったものももちろん罪ですが、聖書が定義する罪は、それにとどまりません。
しなければならないとわかっているのにしなかった、こういうことも罪です。電車に乗って席に座ったら目の前に腰の曲がったお年寄りが! しかし、気づかないふりをして狸寝入りをする……あと、中島みゆきの「ファイト!」という歌にありますが、駅の階段で女の人が子どもを突き飛ばした! それを見たあたしはこわくなって逃げ出した、そんなあたしの敵はあたしです、なんて、自分を責めていますが、かわいそうでもそれも本人が意識するように「罪」です。
さらにいえば頭の中で犯す罪というものもあります。いらいらして心が乱されることも、聖書の基準では罪です。だれかに対し、「あいつなんかいなくなってしまえ!」と心の中で毒づくのもやはり罪です。配偶者以外の対象に性的な妄想を抱くのも罪です。
これだけの罪を犯す私たち人間について、聖書は「義人はいない。ひとりもいない」と宣言しています。しかしこの罪があるままでは、私たちはだれひとりとして神さまのみもとに行くことはできません。私たちはその罪の罰を、死をもって、それも神さまから永遠に切り離される死の罰をもって受けなければなりませんでした。神さまはしかし、そんな私たちを憐れんで、私たちが受けるべき死の罰を、ひとり子イエスさまを十字架の上に死なせることによって、身代わりに受けさせてくださいました。
しかし、このキリストの霊は、私たちを神さまのみもとに導いてくださいました。信仰によって義と認めてくださる、つまり絶対的に正しいと認めてくださるという、完全な救いの道を開いてくださったのでした。信仰による救いは、神さまからのプレゼントです。私たちは行いによって永遠のいのち、救いをいただくのではありません。救いは信仰によって、ただでいただくのです。
イエスさまを信じる信仰は、イエスさまの統べ治める神の国、キリストのからだなる教会に入る入口です。門、と言い換えてもいいでしょう。イエスさまは、「わたしは羊の門です」とおっしゃいました。イエスさまをまことの羊飼いと戴く羊の群れの中、教会という共同体の中には、イエスさまを信じる信仰という門を通って入っていくのです。
そうです。イエスさまの十字架は、天国の入口、それも私たちの生きている地上にある入口です。私たちはイエスさまの十字架を信じる信仰によって、この地上の生活からすでに、天国を歩む歩みが始まるのです。どれほど十字架は大切なのでしょうか。十字架なくしてはキリスト教にあらず、とさえ言えます。十字架はまさしく、神さまの側で私たちの救いのために成し遂げてくださったみわざです。
次のキーワードにまいります。第二のキーワード、それはバプテスマです。19節から21節をお読みします。
このところ私たちは日曜ごとに「ノアの洪水」の箇所から学んでまいりました。この第一ペテロのみことばによれば、ノアが箱舟をつくっていた間、やがて来たるべき大いなるさばきが来ることを、その時代の人々に対し、ほかでもなくキリストが宣べ伝えていらっしゃったことが暗示されています。結局のところ、その時代の人々はそのさばきのことばにも関わらず、悔い改めることをせず、ことごとく滅ぼされたわけでした。
ある解釈では、この捕らわれの霊とは、死んでハデスに留め置かれた霊のことであり、その霊たちにキリストが宣教されたということで、キリストを信じなくて死んだ人でも、死後にもセカンドチャンス、救われる可能性はある、といいます。しかしこれは、セカンドチャンスの根拠にはなりえません。人が救われる可能性は、どこまでも、この地上においてイエスさまの十字架を信じるという羊の門を通るかどうかにあります。
滅びの宣告がなされたにも関わらず聴き従わないならば、その責任は聴き従わなかった者に帰します。ヨナが宣教したニネベをご覧ください。ヨナはニネベの滅びを宣告しただけなのに、人々は本気で悔い改めました。神さまはそれをご覧になり、滅びの御手を下されることをやめられたのでした。
ノアたちは、箱舟に乗って助かりました。地を滅ぼす水が轟々と波打つその中を、サバイブしたのでした。そしてこのペテロのことばによれば、それがバプテスマを象徴するものであったということでした。神さまのみことばに従順になって箱舟をつくり、そしてその中に入って洪水をサバイブしたノアとその家族は、イエスさまを信じてバプテスマにあずかる神の家族の象徴です。この水を通ることが、神さまが救いに定められた者の証しであるのです。
時代は下り、バプテスマを授ける人が現れました。バプテスマのヨハネです。彼が説いたのは、悔い改めのバプテスマです。人々が罪ある自分自身から罪なき神さまに方向転換する、これが聖書の語る悔い改めです。イエスさまもヨハネからバプテスマを受けられました。イエスさまはもちろん、悔い改めのバプテスマを受けるだけの罪があるようなお方ではありません。むしろヨハネ自身が言ったように、ヨハネこそが罪なきイエスさまからバプテスマを受けるべきでした。しかしイエスさまはあえて、ヨハネからバプテスマをお受けになり、人として正しく歩むべき道、父なる神さまに対する従順を実践されたのでした。
ノアの家族がノアの従順によって一緒に箱舟で暮らしたように、私たち主の民は、イエスさまの従順によってイエスさまと一緒に、神の国、キリストのからだなる教会という共同体をなすのです。バプテスマ、それはイエスさまと一緒に水に浸かることです。神さまの側でしてくださった「救い」に対する人の応答、それが「バプテスマ」です。イエスさまは天に帰られるとき、このバプテスマを世の終わりまで、あらゆる国の人々を対象に守り行うように、弟子たちに遺言を残されました。
21節もご覧ください。イエスさまは死なれただけではありません。復活されました。ノアの一家が箱舟の外に出て、新しいいのちに生かされるようになったように、私たちもイエスさまの十字架を信じる信仰により、イエスさまの復活にあずかるものとされました。私たちは永遠に罪に勝利し、永遠のいのちが与えられたのです。バプテスマにおいて、いったん水に沈み、そして引き上げられるのは、まさにイエスさまの十字架の死と復活にあずかっていることを象徴しています。
そしてバプテスマは「誓約」です。イエスさまが私のために血を流してくださった、その契約を、私も生涯お従いすると約束することで交わさせていただきます、という誓約です。だから、バプテスマを受けるならば、生涯イエスさまにお従いする歩みをしてしかるべきです。
したがって教会は、すべてバプテスマを受けた者が生涯の誓約を果たす従順な歩みをする上で成長していくべく、互いに教え、励ましていく使命が託されている共同体です。バプテスマは、私たちがイエス・キリストの共同体に属しているという証しになるものです。心に信じ、口で信仰を告白しているならば、私たちは時を移さず、バプテスマを受けるように、励まし合ってまいりたいものです。
では、バプテスマが、イエス・キリストの共同体「となる」ための条件ならば、主の晩さんとは何でしょうか? それは、イエス・キリストの共同体「である」ための条件であると言えます。
ルカの福音書22章、17節から20節をお読みください。……神の国が完成するときまで、わたしはあなたがたとはぶどう酒をともに口にする喜びの交わりを持つことはない、わたしは人の罪を赦すために、血を流すのである、肉を裂くのである……あなたたちも、わたしの十字架を信じる信仰によってわたしの群れに属しているならば、このパンを口にし、杯を口にすることで、わたしの十字架を決して忘れないでいてほしい……ほかならぬ、イエスさまが定められたことです。だから、主の晩さんを守り行いつづけるのは、バプテスマをもって信仰告白を公にした者たちにとって、当たり前のことです。
しかし、もしかすると、このパンと杯にあずかる人が、バプテスマを受けた人に限定されていることを、ずるい、差別だ、と思う人がいるかもしれません。しかし、これはイエスさまの十字架を理解し、したがってこの十字架を信じる信仰を、バプテスマを受けるという形で表明する、その従順を実践した人だからこそ、味わってそのほんとうの価値がわかるものです。
すでにバプテスマを受けていらっしゃるみなさん、きょうもまた、救っていただいた喜びを胸いっぱいに、主の晩さんにあずかってください。まだバプテスマを受けていらっしゃらない方は、どうか落ち込まないで、私は必ずイエスさまを信じてバプテスマを受け、主の晩さんに早くあずかれますように、と祈りつつ、見学していただければと思います。
では、三つ目のキーワードです。それは、「天国」です。22節をお読みしましょう。
キリストは復活し、天に昇られました。キリストは天において、一切の権威を服従させて、神の右の座におられます。ここまでのみことばの流れの最後に現れたキリストは、もはや十字架に釘打たれた弱いお姿ではありません。完全な栄光に満ちた、輝きに輝くお姿です。私たちにとって仰ぎ見るべきお方は、この栄光のお方です。私たちにとって大事なのは、十字架の死を打ち破り、天にのぼり、神の右に座しておられる、キリストの栄光のお姿に似た者へと、私たちが終わりの日に変えられる、ということです。
私たちのこの地上の歩みは、天を目指す歩みです。キリストのうしろを、自分の十字架を背負ってついていく、自己否定の道です。しかし、キリストのために自分の肉の欲望、罪深い自我をたえず捨てつづけ、ただ主の栄光だけが現れることを目指して生きる人には、栄光のキリストがおられる天の御国が待っています。
クレネ人のシモンを思い出してください。ゴルゴタの丘につづく道にたまたまいた彼は、イエスさまの釘づけになる十字架をむりやり背負わされて丘に上らざるを得なかったのでした。どれほど苦しく、また恥ずかしかったことでしょうか。もしかすると、何が悲しくてこんな目にあわなければならないのか、と思ったかもしれません。しかしその息子たちは、初代教会にとって重要な人物となりました。シモンが無理やりにでも十字架を背負わされたことは、初代教会を確実に形づくったのでした。
同じことで、私たちもこの地上においては、栄光も何もあったものではないような苦しい目にあうことが多くあるものでしょう。しかし、それを主からの訓練と思って甘んじて受け、その「おのが十字架」の先にある、栄光のイエスさまの待つ天国を仰ぎ見るならば、私たちの流す涙、流す汗、流す血は、必ず報いられます。
十字架を信じる信仰、これは天国の地上の入口です。バプテスマと主の晩さん、これらは天国の地上の進行形です。しかしやがてこの世界は終わり、天国は完成します。目指すべきはこの日です。この地上で労するのは、すべては天国に行くその日のためです。
終わりの日まで天国の福音を宣べ伝え、人々を信仰に導き、バプテスマと主の晩さんを執り行いつつ、主が十字架を背負って進まれたその御跡を従う従順の生き方に献身する、そのような私たちでありますように、主の御名によってお祈りします。