聖書本文;マルコの福音書9:14~29
メッセージ題目;信じる者には、どんなことでもできるのです
改めましてみなさま、今年もよろしくお願いします。
2020年。今年のみなさんのお祈りの課題は何でしょうか。取り組まなければ。あるいは、これが必要だ。それを手に入れること、そうなることはみこころにかなっている。しかし、努力だけではどうにもならない、そこで、私たちは信仰を働かせるのです。
本日の本文に登場する父親も、まさにその「信仰」という問題を抱えていました。このときイエスさまは、十二弟子のトップ・スリー、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登っていらっしゃいました。そのときイエスさまは栄光に御姿が変わり、モーセとエリヤが現れてイエスさまのご最期について会話を交わすという、驚くべき、またおごそかな時間となりました。このできごとは、人の子の復活まで秘めておきなさい、と、イエスさまは弟子たちを戒められました。
一方で、残された弟子たちは、ひとつの問題に直面していました。口をきけなくする霊に取りつかれた息子から悪霊を追い出してほしい、弟子たちは父親からそのように懇願されましたが、できませんでした。そこにイエスさまがやってこられ、子どもから悪霊を追い出されて一件落着、すばらしいことが起こされたわけでした。
しかし私たちは、このできごとの背後にあった、信仰と不信仰についての問題、また祈りの問題について、特にイエスさまのみことばから学ぶ必要があります。
まず、19節、最初のイエスさまのみことばを見てみましょう。イエスさまは何とおっしゃいましたでしょうか。……
イエスさまはついその直前に、もはや歴史上の人物ですらあったモーセとエリヤが現れ、ご自身のご最期について話し合われるということを経験されたばかりでした。イエスさまは、十字架の死に向かって備えをするのみで、また、その備えをなすべく、弟子たちをよりいっそう整えるという段階にあられました。
ところが、弟子たちは何をしていたのでしょうか。イエスさまがご不在ならば、イエスさまのわざを代わりに行うべく霊的な権威が委ねられていたというのに、弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのです。それで、この悪霊追い出しをイエスさまがなさらなければならなくなったわけです。
イエスさまは嘆かれました。まことに不信仰な時代だ! 問題は、不信仰にありました。人の不信仰は、十字架の贖いの死に向かって進むべきイエスさまの歩みをとどめるかのようでした。イエスさまにとっては十字架という、もっと大事なことがあるのに、この程度のこともあなたがたは信仰によって解決できないのか!
イエスさまが問題にされたのは、だれの不信仰だったのでしょうか? それは弟子たちであり、また、この少年の父親の不信仰でもありました。そして、この記事を読む私たちひとりひとりの不信仰も、同時に問題にされるのです。問題は、不信仰にあります。
しかし、イエスさまは彼らが不信仰だからと、見捨てるようなことはなさいませんでした。「その子をわたしのところに連れて来なさい」、そのように言ってくださり、子どもにみわざを行うことを宣言されたのでした。
この父親には、イエスさまならばなんとかしてくださる、という、わらにもすがる思いのような、わずかな信仰がありました。イエスさまが戻ってくるや、つかまえました。からし種ほどの信仰があれば、その人の信仰は、空の鳥が巣をかけるほどに大きくなるように、成長させていただける、そのようにイエスさまはおっしゃいましたが、この父親の信仰も、大きいとは言えず、からし種のような大きさ、けし粒にも満たないほどの小ささだったかもしれませんが、イエスさまが大きくしてくださり、その信仰に応えて、イエスさまはみわざを行なってくださったのでした。
その子の状態はひどいものでした。20節に語られているとおりです。子どもがこのようならば、親の気持ちはどれほどつらいことでしょうか。しかしこの父親は、イエスさまの話を聞きました。イエスさまならば、必ず助けてくださる! イエスさまが来られたと聞いた父親は、矢も楯もたまらず、子どもを連れて駆けつけました。
イエスさまは、いつから子どもがそのようなのかと父親に尋ねられました。父親は、それが幼いときからで、子どもに取りついた悪霊は彼のことを殺そうと、何度でも火の中や水の中に彼を投げ込んだ、と語りました。もちろん、イエスさまは全能なるお方ですから、子どもにそういう過去があったことはすべてご存知です。それでもイエスさまが、父親にそのいきさつを尋ねられたのは、それが悪霊の働きであり、したがって神の御手によってのみ解決されるべき問題であることを、父親にあらためて認識させ、受け入れさせるという目的があったからだと言えます。
私たちもやみくもに祈ればいいわけではありません。何を祈っているのかもわからないで、どうやってお祈りを聞いていただけるのでしょうか。私たちの願っていることを具体的に聞いていただくこと、そのことが必要になります。みなさんそれぞれのお祈りの課題を具体的にノートに記録されることをお勧めします。そして、それを毎日読んでお祈りすることをお勧めします。
ともかく、この父親はイエスさまに、子どもの様子を伝えました。しかし、このことをイエスさまに伝えるにあたり、父親の態度がイエスさまに取り扱われることになりました。「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」父親はこう言いましたが、イエスさまはそのことばと態度を問題にされました。
そうです。これは不信仰だったのです。いったい、子どもが悪霊につかれている状態、精神的に病気の状態であることが、みこころにかなったことでしょうか。それは神の子イエスさまによって、いやされてしかるべき状態でした。イエスさまは、そんな悪い状態を放っておくようなお方では決してありません。父親は、みこころに反する病や悪霊憑きを放っておかれるかもしれないなどと考えて、イエスさまに対して十分な信仰を働かせてはいませんでした。それをイエスさまは問題にされました。
信じる者には、どんなことでもできるのです。イエスさまは父親に、そう語られました。それは、私がこの子に愛を注いで、いやす神であることを、あなたは信じなさい、そうおっしゃっているということです。
私たちがイエスさまに対して信仰を働かせるということ、これが、イエスさまの愛と直結していることを、お分かりになったと思います。あなたのことを愛しているよ! あなたにわたしは、わざを行うよ! それによって、わたしがあなたを愛していることを、はっきり教えてあげるよ! さあ、わたしの愛を体験して! 信じてほしい!
果たして父親は、イエスさまのこの威厳に満ちたことばに、心が動かされ、悔い改めました。信じます。不信仰な私をお助けください! 父親は、自分が不信仰であることを叫びつつ認めました。そして、イエスさまにすがりました。
私たちも、信仰が形ばかりで、ほんとうのところはイエスさまを信じていない、そんな者であることを、ときに認めざるを得なくなるときがあります。そんなとき、私たちのすることは、自分が不信仰であることを認め、悔い改めてイエスさまにすがることです。そうするとき、イエスさまは私たちの生きる現場に、実際に働いてくださいます。それは、私たちを愛してくださり、私たちのことを心配していてくださるからです。イエスさまは、不信仰から信仰に立ち帰る私たちに、必ずみわざを行なってくださいます。
かくして、イエスさまはこの子にみわざを行われました。悪霊を追い出されました。悪霊は最後の悪あがきをしました。暴れるだけ暴れて、この子から出ていくと、この子は死んだようになりました。この子の存在すべてが悪霊に支配されていたことの証拠とも言えましょう。悪霊が出ると、文字どおり彼は空っぽになりました。
しかし、イエスさまがその子の手を取って起こされると、その子は立ち上がりました。イエスさまの御手によって、その子はもはや悪霊とは関係のない、神の人となったのです。そうです、人は悪に支配されていたならば、その悪と縁を切ったとき、まるで死んだようになるでしょう。しかし、その人の生きがいは、悪に戻ることではなく、イエスさまという新しい主人に従うことです。そうするならば、その人は生きるのです。こんにちを生きる私たちは、まさにそのように人々から悪の縁(えにし)を断ち切り、イエスさまというまことの神さまに立ち帰らせ、その人を永遠に生かすことです。
しかし、弟子たちには解決すべき問題がありました。イエスさまにできることが、自分たちにできなかった。それでは、イエスさまの弟子としてふさわしくないことになります。もっとストレートに言ってしまえば、無能、ということになります。この問題を解決しなければなりません。彼らはイエスさまに、自分たちには霊を追い出せなかったのはなぜでしたか、と尋ねました。
すろと、イエスさまはお答えになりました。この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。
イエスさまは弟子たちの、何を問題にされたのでしょうか? 祈らなかったことです。もし、弟子たちがちゃんと祈っていれば、この悪霊は彼らにも追い出せていた、ということを語っておられるわけです。
ここでも、信仰ということが問題にされたわけでした。弟子たちは、自分たちの力で悪霊追い出しをしようとしていました。実際、弟子たちには経験がありました。彼らが命じると、悪霊どもも言うことを聞く、ということを、実際に体験していたので、今度もきっとできるはずだ、と、彼らが過信していた可能性もあります。しかし、主のみわざに用いられるということは、経験があればだれでもどんなことでも可能である、ということではありません。イエスさまは、祈りが必要だ、とおっしゃったのです。
それでは、なぜこの働きをする上で「祈る」必要があったのでしょうか? それは、まず、自分たちの力ではできないことを認識し、しかしそれでも、この悪霊追い出しは神さまのみこころであるから、イエスさまの弟子として必ずできるという信仰に立ち、神さまの力を求める必要があったからです。
ただし、この働きは、何を差し置いても、この子どもに対する愛が必要でした。愛なきミニストリーは、たんなる「人間的な作業」にすぎません。自分も神さまの愛をいただいている者として、その愛をもって熱く子どもを愛する、ここに、信仰を働かせる余地が出てまいります。私たちにとっても、だれかのために祝福を祈ったり、いやしを祈ったりすることにおいても、このように相手を熱く愛する愛が必要で、しかし愛を十分かつ具体的に施しきれない自分であることを認め、神さまに祈る、しかし、みこころにかなうことだから必ずくださると信じて祈る、その祈りが必要となるわけです。私たちの信仰が、愛とともに問われることになります。
ある聖書の写本では、この部分に、「祈りと断食」と書かれています。それを見ると、断食の祈りというものの効果を見ることができます。しかし、注意が必要です。私たちの祈りが聞かれ、主がみわざを行われるのは、どこまでも、私たちの信仰が応えられるゆえです。一生懸命の祈りとか、断食しての祈りとか、そういうことを「行い」として実践することで、祈りを聴いていただけると思ってはなりません。それは、私たちの行いを正当化することです。
私たちには経験があると思いますが、長い時間をかけてお祈りすることは簡単なことではありません。とても体力がいります。大声で祈るとなるとなおさらです。断食ともなりますと、どれほどの体力を消耗するかわかりません。しかし、そうやって一定の時間をかけて努力して祈ったとき、罠となるのは、それだけいっしょうけんめい祈ったということに対し、自分なりに満足を覚えてしまう、ということです。それは信仰による祈りではなく、自分の正しさによる祈りということにならないでしょうか。
しかし、それならば、「祈りによって」、あるいは「祈りと断食によって」とイエスさまがおっしゃったことばは、矛盾しているのでしょうか。そういうことではありません。私たちは信仰を働かせるならば、何を差し置いても祈らなければという思いが生まれます。そして、祈るのです。祈るという行為を積み重ねて神の心を動かす、ではなく、神さまのみこころに動かされて祈るようになる、というわけです。これは、体験した人ならわかります。
時にその祈りは、断食の祈りに促されることがあります。私は断食というものについて、このように考えています。祈らなければ、という御霊の思いに支配されるあまり、食べ物ものどに通らない、祈るしかない、祈ろう、となって、結果として断食の祈りとなると考えます。そういうわけで断食の祈りは、したからといって偉いわけではありません。。
イエスさまは人を救うという目的を掲げて、時には断食もものともせずに、つねに父なる神さまと交わる祈りをささげていらっしゃいました。その祈りの対象が、たとえばこの子どもでありました。そしてイエスさまの祈る対象は、私たちひとりひとりでもあるわけです。イエスさまは今もなお、父なる神さまの右の座で私たちひとりひとりのためにとりなして祈ってくださっています。
このイエスさまと交わりを欠かさぬとき、私たちもまた、イエスさまが祈られたように、祈りに一生懸命になるように導かれます。時にそれは、食べ物ものどを通らないような祈りになるかもしれません。それでも、祈れるならば、私たちはしあわせではないでしょうか? それだけ、私たちが信仰を働かせる領域が拡大することになり、私たちを愛してくださっている主は、私たちの信仰の祈りに応えてくださいます。