聖書箇所;ヨハネの福音書13:1~15
メッセージ題目;仕え合う弟子の共同体、教会
今日お読みいただいたみことばは、このようなことばから始まっています。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」神は愛なり、とみことばが語り、イエスさまが父なる神さまとひとつなる神さまでいらっしゃる以上、イエスさまのお示しになるものは、愛そのものです。私たちはイエスさまの愛を、どのようにして体験するのでしょうか? それは、特に十二弟子に愛情を注がれた、その愛に、みことばを通して触れることによってです。特に、このヨハネの福音書の13章から17章までは、弟子たちに対して最後のメッセージをなさる箇所であり、イエスさまが究極的にお示しになった愛にふれる上で、特に大事なみことばです。
イエスさまがこの世を去られるにあたってなさったことは、この世のものに愛を残るところなく示されることでした。イエスさまの十二弟子は、そのイエスさまの愛を受け取った、すべての人類、すべての被造物の代表選手といえる存在です。だから、イエスさまが弟子たちをどのように愛されたかを学ぶならば、イエスさまが私たちのことをどんなに愛しておられるかを知ることができます。
キーワードになりますのは、愛です。イエスさまは単に、御国を拡大する働きの担える後継者をビジネスライクに育てていたわけではありません。弟子たちと苦楽をともにし、主にあって愛するとはどういうことかを弟子たちに教えるため、つまり、弟子たちもイエスさまの愛をもって教会のひとりひとりを愛する者となるため、自ら愛することを実践されたのでした。
イエスさまと弟子たちは、これから過越の食事をともにされます。イエスさまがこの過越の食事を弟子たちとともにすることを「どんなに待ち望んでいたことか」と表現なさったように、切に待ち望んでいたということが、ルカの福音書に記されています。これが、ご自身が十字架の上で窮極の過越、最後の過越を成し遂げられるその前ぶれとして、ご自身が執り行われた過越の食事であったわけです。そういうわけで、この場にともに連ならせてもらった十二弟子は、もっとも幸いな存在でした。
しかし、こんにち私たちが主の晩さんにあずかるということは、私たちもまたイエスさまに愛されている主の弟子たちであることを確かめる、だいじな時間をお持ちしているということになります。私たちも弟子たちと同じ立場で、イエスさまの晩さんに招かれていて、その晩さんにあずかることができるのです。
しかし、この晩さんの席上、弟子たちは何をしていたのでしょうか? この期に及んで、自分たちの中でだれがいちばん偉いかということを議論していました。イエスさまが御国につくなら、その次の座にはいったいだれが座るのか、それは自分だ、などとでも言い合っていたのでしょうか。そのような議論したことをかつてイエスさまに戒められたというのにです。しかし、そんな弟子たちの姿をご覧になったイエスさまは、その食事の席から立ち上がり、たらいに水を入れ、弟子たちひとりひとりの足を洗いはじめられました。
足を洗うのはしもべの仕事、奴隷の仕事です。つまりイエスさまは、この弟子たちのしもべとして振る舞われたのです。弟子たちはどれほどうろたえたことでしょうか。イエスさまをしもべにしてしまったなんて、なんと申し訳ない! イエスさまに洗っていただくなんて、なんともったいない! 恥ずかしい! でもありがたい! いろいろな思いが弟子たちの間に錯綜したにちがいありません。
さて、このような中にあって、ひとこと多いのはペテロです。ペテロは、弟子のリーダーとしてのプライドを見せようとしたのでしょうか。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」このようなことを言ってうろたえるペテロに、イエスさまはおっしゃいました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
ペテロはのちに、イエスさまの十字架を目の前にして激しい挫折を体験しましたが、のちには立ち上がり、イエスさまのしもべとしての生涯を全うしました。ペテロはイエスさまにならう生き方を歩むことで、イエスさまがなぜあのとき、自分のようなもののしもべになってくださったのか、分かったはずです。ペテロもまた、初代教会の羊たちのしもべとして歩むことを選択したのでした。
だが、このときのペテロに、そのような将来の歩みなどわかりませんでした。決して私の足をお洗いにならないでください。ペテロはかつて、ことばで失敗したことがあります。イエスさまが、宗教指導者たちに迫害されて殺されるであろうと予告されたとき、ペテロは、そんなことがあってはなりませんとイエスさまを諌めました。しかしイエスさまはそんなペテロの姿に、十字架を拒むサタンの動きを認められ、下がれ、サタン、と、主の弟子としてはとても聞くに堪えないようなおことばをもってペテロをお叱りになりました。
そしてペテロはここでも、決して私の足をお洗いにならないでください、と、イエスさまのお働きに異議を唱え、それをやめさせようとしました。しかしイエスさまはおっしゃいました。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
イエスさまが足を洗わない人はイエスさまとは関係がない。どういうことでしょうか。イエスさまが仕えてくださっている人でなければ、イエスさまとは関係がない、ということです。
それではイエスさまは、どのようにして人に仕えてくださったのでしょうか? 十字架です。まさしく十字架とは、神が人に仕えることでありました。神が人に仕える! そんなことがあっていいものでしょうか? しかし、神の子キリストが十字架につかれたとは、そういうことです。
いったい、天地万物の創造主であり全能者であられる方が、ちっぽけな被造物、それも罪を犯して創造主に反抗した者の罪を赦し、永遠のいのちを与えるために、むごたらしくも十字架の上でいのちをお捨てになる必要があったでしょうか? 仕えることはそういうことです。しかし、イエスさまはあえてそのような人間に仕える者の姿をとられ、実に十字架の死をもって、人の罪を洗いきよめてくださいました。汚れた足を水できれいに洗うように、イエスさまの十字架の血潮は、罪に汚れた人のすべてを洗いきよめます。実に十字架とは、仕えることです。
さてペテロは、イエスさまがペテロを洗わなければイエスさまと自分が何の関係もないとおっしゃったことに心を痛めたのでしょう。ペテロはイエスさまを愛する人であったからです。ペテロは一転して、もし洗ってくださるのなら、足だけではなく、手も、頭も洗ってほしいと、イエスさまに訴えました。
しかしイエスさまは、このようにお答えになりました。10節です。……イエスさまに完全に立ち帰った者は、もはや罪に定められることがありません。しかしそれでも、私たちは日々罪を犯します。罪に汚れてしまうのです。だから私たちは、イエスさまに洗っていただく必要があるのです。それはあたかも、この時代のパレスチナのユダヤ人がそうだったように、サンダル履きで道を歩いて、足がどうしても汚れてしまうから、家に入ったら足を洗う必要があったようなものです。
罪に汚れるのは、いかにもキリスト者としてふさわしくありません。家の中を汚い足で歩き回ってはいけないのと同じです。私たちは日々、主の御前に心を注ぎ出し、悔い改めをなしてゆく必要があります。
しかし私たちは、もともと、どんなに自分の罪を悔い改めたとしても、決して赦されるような者ではありませんでした。ただ、イエスさまが私たちの身代わりに十字架にかかってくださった、その愛を受け入れるとき、私たちは御父への道、永遠へのいのちの道が開かれ、イエスさまとの絶えることのない交わりの中で、日々の歩みの中で犯してしまう罪さえも赦していただける者となるのです。
イエスさまが足を洗ってくださった弟子たちの中には、イスカリオテのユダがいました。ユダは、イエスさまに足を洗っていただいても、心底神さまに立ち帰っていたわけではありませんでした。宗教指導者たちにイエスさまを売り渡したのは、見ようによっては宗教的にとても模範的なことをしたようでも、イエスさまの父なる神さまの御目から見れば、どれほど呪わしいことをしたことでしょうか。そのように、形だけクリスチャンのように振る舞いながら、そのじつ心の中では、イエスさまになど従いたくない、機会があれば教会をこの世の権勢に売り渡そうが知ったことではない、という恐ろしい存在は、残念ながら存在します。
しかし、そういう者の存在を意識させられるとき、「まさか私ではないでしょう?」と心を痛めてイエスさまに立ち帰り、責められる罪があるならば悔い改めることのできる人は幸いです。イエスさまはユダにも、最後まで悔い改めの機会を与えてくださいました。しかし、ひとたびサタンにたましいを売り渡した者に対しては、イエスさまはもはやなすがままにして、十字架への道を歩まれるのみでした。
それでも私たちは、ユダではありません。イエスさまにお従いする弟子たちです。イエスさまは弟子たちに対して、何を求めていらっしゃるのでしょうか。12節から15節をお読みします。……イエスさまがいのちを差し出して私たちに仕えてくださったように、私たちもまた、互いのためにいのちを差し出して仕え合う必要がある、ということです。
ヨハネの手紙第一、3章16節をお読みしましょう。福音書ではなく、手紙のほうです。そう、互いのためにいのちを捨てなさい、と命じられています。続く17節、18節をお読みすれば、16節のみことばの言わんとしていることが明らかになります。
心のこもった行いというものは、自分を差し出す犠牲の伴ったものです。言ってみれば、私たちのいのちをすり減らして愛を実践していることになります。私たちは自分のことしか考えないような自己中心の罪人でした。そのような私たちでしたが、イエスさまの十字架の愛を知りました。イエスさまの十字架の愛を知った今、わが主でいらっしゃるイエスさまの愛の実践にならって、私たちも互いのためにいのちを投げ出す者となれるし、また、いのちを投げ出す者となるべきである……みことばはそう語ります。
まことに、私たちの愛の実践は、イエスさまの十字架を日々どれほど黙想しているかにかかっています。イエスさまの十字架の愛を知れば知るほど、私たちの行いに互いへの愛が実を結んでまいります。イエスさまがどれほど私たちを愛してくださり、仕えてくださったか、その愛にいつでも立ち帰る者となりたいものです。
さて、現在の状況に今日の教えを適用してみますと、どのようになりますでしょうか? 私たちはこのような、互いに会うこともままならないような中にあっては、愛し合うことを実践するのも難しいことのように思えるかもしれません。それならば私たちは、何によって自分たちは結ばれているか、何によって同じキリストのからだなる教会を形づくっているか、あらためて考えてみましょう。
私たちを一つにしているのは、イエスさまへの信仰です。同じイエスさまへの、同じ信仰をいだく者として、私たちはひとつになっています。私たちの好き嫌いでひとつになったりならなかったり、という問題ではありません。私たちを一つにしてくださった、イエスさまのみこころをしっかり考えてまいりたいものです。
イエスさまはどのようにして私たちを愛してくださったか、その愛を深く知るには、イエスさまがひとつからだにしてくださったお互いを愛すること以上のことはありません。愛することとは、仕えることです。
さて、聖徒を愛するには、「愛される」謙遜さも同時に必要になります。仕える人が仕えることを全うするには、「仕えられる」人の存在を必要とします。イエスさまに足を差し出すように、祈ってほしいこと、仕えてほしいことを、ほかの信徒に語ることです。もちろん、その必要を私たちが知るならば、いっしょうけんめい祈り、いっしょうけんめい仕えることです。
今はこのように、礼拝に来ることさえもままならず、そのぶん、とりなしの祈りや、奉仕の機会は多くないことになります。実践の機会そのものがあまりないわけです。しかしここは、ひとつ、へりくだって、私たちの祈ってほしいこと、ほかの兄弟姉妹の奉仕を必要とすることを、この機会に明らかにしてみてはいかがでしょうか。