招詞 詩篇124篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇48篇/主の祈り/讃美 讃美歌501
聖書箇所 出エジプト記32:7~14
メッセージ 「あなたの民」のために祈れ
私たちは祈ります。自分のためばかりではなく、家族のためだったり、親族のためだったり、職場や学校のためだったり、さらには国や民族のために祈ります。みなさん、国や民族のために祈っていますか? 韓国の兄弟姉妹は、ほぼ例外なく、祈祷会において国や民族、つまり韓国と韓国人のために必ず祈ります。私たちがほんとうに日本という国を愛しているならば、日本という国と、日本の民族のことを覚えて祈ってしかるべきです。まさしく、内村鑑三が「ふたつのJ」、つまり、ジーザスとジャパンを愛すると言ったとおりです。
もう、あまり口にしたくありませんが、コロナウイルス流行による緊急事態宣言はまだまだ解除される見通しが立っていません。このようなとき、私たちにできることは祈ることです。「祈ることしかできない」のではありません、「祈ることができる」のです。わかりますか? ここ、間違えてはいけません。
先週から、「祈り」について学んでいます。先週はダビデの態度から、いざというときに祈る者となるためには普段から祈る必要があることを学びました。今日は、とりなしの祈りについて学びます。この日本、そして世界がこの災厄から救われるために、私たちのすることは、この世界のためにとりなしの祈りをすることです。では、私たちは、なぜとりなしの祈りをしなくてはならないのでしょうか? 本日はこの「なぜ」ということを、みことばから学んでみたいと思います。
今日の箇所は、モーセが、シナイ山に登って神さまと顔と顔を合わせて交わりを持ち、何週間にもわたって、イスラエルの民をいかに導くべきかの手ほどきを受けていたそのとき、山のふもとでは目も当てられないような事態が展開していたそのとき、モーセが神さまと交わした対話です。イスラエルの民の導き手だったモーセがいなくなり、もうそれが6週間になろうとして、民は目に見える形で神を求めはじめました。
折しもシナイ山のふもとでは、モーセの兄のアロンがモーセの代理として民を導いていました。民はアロンに詰め寄りました。それで、アロンのしたことは何だったのでしょうか? 民から金の装飾品を集め、それを溶かして子牛の像をつくりました。そして、それを民に見せ、「これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と宣言したのでした。民は喜び、その像の前で乱痴気騒ぎのお祭りを始めました。
これは、神さまご自身の御手によって導かれた民として、いちばんしてはならないことでした。それは、みなさんが子どものお父さん、お母さんならわかることでしょう。うちにも子どもがいますが、もしうちの子が、私がしばらく家を留守にしている間に、粘土で人形を作って、「お父さん!」なんて呼びかけでもしていたら、なんて、考えただけで悲しくなります。イスラエルの民は、それと同じようなことをしたのです。
神さまの御怒りが燃え上がりました。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。下りて行け。神さまはこの民をどうなさろうというのでしょうか。わたしに任せよ。わたしはこの民に怒り、この民を絶ち滅ぼす。あなたを大いなる国民(くにたみ)としよう。
神さまの御怒りはもっともです。イスラエルの民を選び、エジプトの圧政から解放された神さまのご栄光を、そのような牛の偶像と取り代えるなど言語道断です。これほどまでに神の民にふさわしくない者どものことなど、神さまは滅ぼしてしまわれて当然でした。
神さまはつづけて、なんとお語りになったでしょうか。モーセから大いなる民を起こすとおっしゃいました。モーセは、現実に神さまの御前に立って、神さまと語り合えるほど、神さまに選ばれるにふさわしい存在とされていました。堕落してしまったイスラエルとは大違いです。神さまのおっしゃることは、ごもっともと言えましょう。
しかし、モーセは神さまのこのみことばを聞いて、はい、そのとおりです、イスラエルをさばいてください、みこころどおり、私から大いなる神の民を興してください、とは言いませんでした。むしろ、神さまのこのおことばを聞いて、どうかイスラエルを赦し、御怒りを収めてくださいと嘆願しました。
なぜモーセはそのように祈ったのでしょうか? 本文を読んでみますと、3つの理由がわかります。ひとつは、このイスラエルの民は神さまがエジプトから導き出された、神さまの民であるということ、そして、もし神さまがイスラエルをここで滅ぼされたならば、神さまとその民の敵は、神さまを嘲るであろうということ、そして、神さまがイスラエルを導き出されたのは、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束された新しい地に入れてくださるためだというわけです。
まず、神さまがこのイスラエルの民を導き出されたのは、イスラエルがほかならぬ、神さまご自身の民だということから見てまいりましょう。神さまはご自身の民を特別に扱われます。民を愛されます。しかしそれは、民がほかのどの民族よりも正しい行いをしているからではありません。理由はただひとつ、イスラエルは神さまの子どもだからです。
大事なのは「関係」です。親は、自分の子どもであるならば、その子がいい子であろうと悪い子であろうと、変わらずに愛情をかけます。親として育っていないと、ときにその愛情のかけ方はへたくそかもしれませんが、それでも、子どもを愛する思いに変わりはありません。いわんや天のお父さまは、どれほど正しく愛情をかけてくださることでしょうか。それもこれも、イスラエルは神さまの子どもだからです。神さまの子どもという「関係」に入れられているからです。
しかし、今やその「関係」は、風前の灯火になっていました。神さまに問題があったのではありません。子どもの側から、神さまがお父さんであることを拒否し、別のものをお父さんだと言い出したのです。神さまは、彼らの選択に任せようとされました。そうかい、わたしとの愛の関係が切れたならば、あなたはどうなるかわかっているね。
しかし、ここでモーセがとりなしました。……いいえ、この民はいまこうしてあなたさまを捨てたかのように振る舞っていますが、あなたさまの民であることに変わりはありません。モーセは、彼らの「振る舞い」以前の、彼らと神さまとの「関係」にかけて、神さまに訴え出たのでした。
これが、とりなして祈る者の姿勢です。いま世界を見てみますと、なんと多くの人がその道を外していることでしょうか。そのためになんと、多くの不義と不正が横行していることでしょうか。神さまのお気持ちを考えてみましょう。こんな世界などすぐにでも滅ぼされたって、私たちは何の文句も言えないのではないでしょうか。しかし、人が滅ぼされず、神さまのあわれみによって保たれるためには、神さま、この民はあなたさまのものです、と、とりなす者たちの存在が必要です。私たちこそ、そのとりなす者となりたいものです。私たちが神さまのあわれみによって救っていただき、神さまの子どもにしていただいたように、この世界の人々がひとりでも救われ、神さまの子どもとして回復されるように、私たちは愛をもって人をおつくりになった神さまのあわれみにすがり、祈る必要があります。
ふたつめにまいりましょう。神さま、このままあなたさまがイスラエルを滅ぼされたら、あなたさまがイスラエルをエジプトから導き出されたのは、イスラエルを荒野で滅ぼされるためだったなどと、敵どものあざけりの的となってしまいます……。
神さまはそのご主権のままに、人を生かし、また、人を滅ぼされます。それに異議を唱えることはだれにもできません。しかしそれでもモーセは、主が敵どもの嘲りにあわれてはならないから、民を滅ぼさないでいただきたいと申し上げたのでした。
モーセの祈りの焦点は、主のご栄光に当てられていました。主の栄光が顕されるように、私たちの生きる目的は、その一点であるべきですし、私たちは生活すべてを通して、主の栄光を顕すべく召されています。その生き方ができるように、私たちは日々祈るものです。
主のご栄光が顕れるようにということにはもうひとつの側面があります。それは、主に敵対する者が主の御名をそしるがままにさせないことです。見てみましょう。この世界はなんと、主なる神さまの御名をそしる者たちに満ちていることでしょうか。聖書をそのまま、主のみことばとして受け入れ、お従いするような人たちのことを、やれ原理主義者だ何だと悪口を言い、まるでいけないことをしているかのようにそしります。そのような者たちは当然のこと、イエスさまをまことの神さまとして信じることをしません。イエスさまが単なる人であるとか、処女降誕も復活も作り話だなどと語ったりして、聖書の記述をちゃんと信じるクリスチャンたちを批判したり、笑いものにしたりします。しかしそれは、神さまを批判したり笑いものにしたりすることであり、神さまの栄光をいたく傷つける行為をしていることです。
彼らは神さまに敵対する言動しています。しかし、このような者たちの声が大きくなるならば、神さまに栄光をお帰ししないことが常識となり、もしかすると、私たちクリスチャンさえも、神さまの栄光を顕す生き方と関係のない生き方を選んでしまうかもしれません。そうなったとき喜ぶのは、神さまの敵だけです。
私たちの祈りは、神さまに敵対する者たちが神さまとその民を引き下げ、自分たちが正しいものであるかのように誇ることのないようにと、神さまのご介在を求める祈りであるべきです。
私たちはもちろん、そのような世界に対し、少しでも神さまに従順に従う生き方をすることで、神の栄光の小さなともしびを灯すでしょう。しかし、闇の勢力はあまりにも大きなものです。私たちはこの勢力に対して、あまりにも無力であることを謙遜に認める必要があります。しかし、無力さを悟ることは、神さまに祈ることの始まりとなります。何度でも申します。私たちは「祈ることしかできない」のではありません。「祈ることができる」のです。祈りにより、この世界の暗やみの勢力は押し流され、神さまの栄光は現れます。今こそ祈るときです。
三番目のモーセのとりなしの理由、それは、「主がエジプトから民を導き出されたのは、イスラエルの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された地に入れてくださるためではないですか」ということです。
どういうことかというと……神さま、あなたさまの約束は変わらないはずではないですか、あなたさまは約束にしたがって、神の民を空の星のように増やしてくださる、そして、この増え広がる民が、主のさだめられた地を受け継ぐ、それがみこころではないですか、ということです。
神さまが民を選ばれたということは、神さまの約束があったからです。約束は、変わることのない神さまが結ばれた以上、変わることがない効力を持っています。
約束を破るのは、いつでも人間の側です。神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに約束してくださったその約束は確かなものなのに、人間の側は神さまがその全存在をかけて結んでくださった約束をいとも簡単に忘れ、罪を犯します。それなら、と、神さまはそのようにして約束をほごにした人間に、それ相応の報いをなさって当然でした。神さまがアブラハムと契約を結ばれたとき、いけにえの獣が真っ二つに切り裂かれてささげられたのは、この約束を守らなかったならば真っ二つに切り裂かれても構わない、という意味です。しかし神の民はいまこうして、神さまとの約束を軽んじました。それゆえ今、神の民は真っ二つに切り裂かれんとしていました。
しかし、ここでモーセは神さまにとりなしました。神さま、あなたさまが契約を結んでくださった民である以上、この民は永遠にあなたさまのものではないですか、あなたさまの約束にかけて、この民をなにとぞ救ってくださいますよう、伏してお願いいたします……。
人が神さまを信じて救われるということは、アブラハムが神さまを信じて救われ、神さまと契約を結んだように、永遠のむかしから定められていたことです。神さまがアブラハムに約束された「空の星」の中に、この私たちも含まれているのです。永遠の約束に含まれているということです。
それなのに私たちは、なんとその約束にふさわしくない生き方を平気で選ぶことでしょうか。そのために神さまの愛をいたく傷つけてしまうことでしょうか。
しかし、それにもかかわらず、私たちが滅ぼされないでいるのは、神さまがアブラハムと結んでくださった契約のゆえです。あなたも、のちの子孫も、みな神の民である。私たちはこの契約に含まれているので、変わらずに神の民にしていただいているのです。
私たちはこの世界を見るとき、いとも簡単に見限ってしまってはいないでしょうか? こんな神さまと関係ない生き方をしている世界のことなど知らないよ、などと。しかしそれでも、神さまはこの世界のためにとりなして祈ることを私たちに求めていらっしゃいます。なぜでしょうか。この世界の中には、神さまが選んでおられる民がいるかもしれないからです。
予定説、という神学の概念があります。神さまはすでに、救われている人を選んでいらっしゃる。私の学んだ神学校もその立場に立つので、私も基本的には予定説の立場に立っています。しかしそれは、どうせ救われている人が決まっているならば、伝道や宣教やとりなしの祈りを含め、この世界に対して何のアクションも起こさなくてよい、ということではありません。むしろその逆で、神さまがこの世界のうちにすでに救いに選んだ人を置いておられるのだから、あなたがた主の民は積極的に伝道し、宣教するのだ、と考えるのがふさわしいです。そうです、神の選びと救霊は全く矛盾しないばかりか、どちらがどちらを補うためにも必要なものです。
だとすると、この世界にはまだ私たちに見えていないだけで、神の民がたくさんいるということになりはしないでしょうか。その世界を滅ぼすことが、果たして神さまのみこころでしょうか。とんでもないことです。ここに、私たちがこの世界をおぼえてとりなす意味が出てまいります。この民のうちにもしかしたら神の民に選ばれた人がたくさんいるかもしれないと考えるならば、私たちのすることは、間違っても、この地に災厄がもたらされることを祈ることではないでしょう。この地が救われるように、回復されるように、平安が与えられるように、祈ってしかるべきです。
以上、モーセの3つのとりなしから、私たちの祈るべき内容について見てまいりましたが、最後に、モーセが「なぜ」、自分ひとりが生き残るよりも、イスラエルの民全体が救われることを神さまに祈り求めたか、その理由を考えましょう。
結論から先に申します。それは、モーセには、神の御子イエスさまの心があったからでした。実にモーセとは、イエスさまのみこころを、この出エジプトの時代において現す代表選手でした。
モーセは、山から降り、実際イスラエルの民が造って礼拝していた金の子牛を目撃しました。その存在は、主から離れたイスラエルの堕落そのものでした。怒りに燃えたモーセは、金の子牛を礼拝しないで主につくことを表明したレビ族によってイスラエルの多くの者を処刑しました。しかし、モーセがしたことはそれにとどまりませんでした。モーセはふたたびシナイ山に登り、主と対面しました。そしてモーセは、彼らの罪を赦してくださるように祈り、それがみこころにかなわないならば、自分のことをいのちの書から消し去ってほしい、つまり、滅ぼして地獄に落としても構いません、と祈ったのでした。
そのようなモーセにまず神さまがおっしゃったのは、7節にあるとおり、「あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民」というおことばです。もはや神さまは、この民は主ご自身が連れ出された主の民とはおっしゃらなかったのです。モーセよ、あなたが責任を取りなさい、と、主はモーセに迫られたのでした。その結果モーセが選んだのは、とりなし手となることでした。
これは、十字架にお掛かりになって、人のすべての罪を引き受けられ、のろわれたものとなってくださった、イエスさまの姿そのものです。モーセは、自分が救われることよりも、堕落した民の代表として、主の御前に立つことを選びました。イエスさまはなおさらそうでした。ご自身を十字架につけるような者たちを即座に滅ぼしてしまわれて当然だったのに、すべての人を代表して十字架につかれ、御父の御前に、彼らをお赦しください、と、いのちをかけてとりなされました。
とりなすとはそういうことです。私たちがイエスさまの御名によってとりなして祈るということは、自分を安全圏に置くということではありません。この罪を犯している民のひとり、代表として、この平安がなくてうろたえている民のひとり、代表として、いのちをかけて主の御前に出ていくのです。
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