聖書本文;ヨハネの黙示録2:12~17/メッセージ題目;「悔い改めるのは私たち」
笑い話などというべきではないエピソードを、まずご紹介します。それは戦時中、クリスチャンが天皇にまつろわぬということで迫害された時代のことです。牧師のような多くのクリスチャンが警察に連行され、厳しい取り調べを受けました。
そのような中で、このように迫る刑事がいたそうです。「天皇陛下とキリストとどちらが偉いか!」そのように問われた牧師先生は、知恵を用いてこのように答えたそうです。「畏れ多くて、お答えできません!」
すっかり平和になった現代では、このような話も笑い話で済みますが、恐怖の支配していたその時代においては、信仰の先輩たちはどれほど大変な目にあっていたことだろうかと思わざるを得ません。
しかし、日本がそのようだったのは、まだ4分の3世紀にもならない、ごく最近のことです。その時代を生きた人で、まだご健在の方は多くいらっしゃいます。はるかむかしの話ではないのです。
私は何も、現代にも殉教がいつ起こるとも知れないから備えなさい、などと脅かしているわけではありません。しかし私たちは少なくとも、この平和の許されている時代において、聖書に学び、歴史に学ぶことはしてもいいのではないでしょうか? そうすることで私たちの従順の歩み、主の栄光をあらわす歩みは、一本芯の通ったものとなるはずです。
それでは早速、今日のみことばの解き明かしに入りたいと思います。今日は7つの教会の3番目、ペルガモンの教会への使信です。ペルガモンにメッセージを伝えるイエスさまは、どんなお方でしょうか?「鋭い両刃(もろは)の剣を持つ方」とあります。
黙示録1章16節にあるとおり、ヨハネが見たイエスさまは、両刃の剣が御口から出ていました。両刃の剣とは何でしょうか? お開きにならないでいいですが、ヘブル人への手紙4章12節には、このようにあります。……神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
両刃の剣とは、イエスさまの御口から出るひとつひとつのみことばです。みことばはいのちのパンとして私たちを養いますが、それは私たちの快楽のためではありません。私たちの不要な部分、罪深い部分が取り除かれるためです。私たちはそのような部分が自分たちから取り除かれることにおいて、妥協してはなりません。
ペルガモン教会は、偶像礼拝の風土の中で大変な迫害の中にありました。しかし、そのような教会ではあっても、手放しに礼賛(らいさん)されていたわけではなく、正されるべき部分はあったのでした。主のみことばは容赦なく臨みます。このあたりのことは、のちほど詳しく見てまいります。
13節のみことばです。主は、ペルガモンという年がどういうところかを知っていると、慰めのおことばをかけてくださっています。どういう都市か、というと、サタンの王座がある、そういう都市である、ということです。
ペルガモンは、前回学びましたスミルナから北に60キロメートル、海抜300メートルの谷間の町で、ライバル関係にあったアレクサンドリアやアンテオケに代わる第一の都市になろうとしていました。
ペルガモンは海に近く、下から仰ぎ見るとまさに巨大な王座のように見えたといいます。そのペルガモンは、ローマの初代皇帝アウグストゥスを祭る神殿を山の頂に建て、紀元29年、つまり、イエスさまの公生涯がまさに始まろうとしていたときにはすでに、皇帝崇拝の中心地になっていました。初代教会のクリスチャンたちが、イエスさまを礼拝するのではなくローマ皇帝を崇拝するように強要されていたことを考えると、この都市にあるものはサタンの王座であると主がおっしゃったのはもっともなことです。
もともとこの地は、紀元前2世紀にすでに、いやしの神であるアスクレピオスを礼拝する宗教を国家宗教として取り入れていました。アスクレピオスは蛇使いでもあるので、サタンの象徴である蛇を司る者としての礼拝を人々から受けていたことになります。そういう点でも神さまの御目から見れば、この都市はサタン的でした。そのほかにもゼウス礼拝など、あらゆる偶像礼拝の巣窟でもあり、この地のキリスト教会は大変な思いを味わわされていました。
このような中で、イエスさまご自身が「わたしの確かな証人」とまで、最大級の賞賛をくださっているアンティパスが殺されたのでした。アンティパスは、ペルガモン教会の監督だったと伝えられています。一説によるとアンティパスは、雄牛のかたちをした青銅の桶の中で焼き殺されたそうです。それが事実であるにせよそうでないにせよ、ペルガモン教会は指導者をむごたらしいかたちで失ったことは事実であり、そのショックはどれほどのものだったことかと思います。しかし、ペルガモン教会はそのようなおびやかしにも負けずに、イエスさまに対する信仰を捨てませんでした。
サタンはときに、キリスト教会の指導者を打ちます。殉教という形で教会に恐怖を与えるかもしれません。あるいは、金銭、異性、権力といったことを用いて指導者を堕落させ、教会に動揺を与えるかもしれません。また、今回のコロナのようなこと、あるいは少し前でしたら震災のようなことを通して、指導者に過度のストレスを与え、教会に重圧を与えるかもしれません。
このようなとき、指導者が普段からどのような牧会をしてきたかが試されます。指導者である自分ではなく、キリストに結びつかせる牧会をしていたならば、指導者に何かあっても、かしらであるキリストに教会は堅く結びつくことができます。しかし、もし指導者が、自分がいなければ教会は成り立たない、とばかりに振る舞うならば、羊飼いが打たれたら、教会という羊の群れは散り散りになるのです。
ペルガモン教会は、アンティパスではなく、イエスさまに結びついていたと言えたぶん、褒められるべき教会でした。しかしです。ペルガモン教会には取り扱われるべき問題がありました。14節です。……ペルガモン教会には、バラムの教えをかたくなに守る者たちがいた、ということでした。
バラムとは何者でしょうか? おひらきにならないでいいですが、旧約聖書の民数記を見てみますと、バラムとは、民数記22章以下に登場しますが、イスラエルを恐れたモアブの王バラクは占い師バラムをお金で買収し、イスラエルをのろわせようとします。絶対者なる主の霊的な祝福を呪いに変えることで、イスラエルを没落させようとしたのでした。
バラムがもし、主のみこころにほんとうに通じていたのならば、バラクの要請をぴしゃりとはねのけるべきでした。しかしバラムは、もしかしたら、と態度を保留しつづけ、神さまがとどめておられるにもかかわらず、イスラエルをのろう祈りを強行しようとしました。だが、それに反して、神さまはバラムの口に、イスラエルを祝福する祈りを授けられました。バラムはイスラエルを4度にわたり祝福したのでした。
このとき、バラムは、「主のことばに背くことは、良いことでも悪いことでも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。」と、怒り狂うバラクに語っています。これだけを見ると、バラムは素晴らしい主のしもべのように見えます。
だが、バラムはのちにイスラエルによって処刑されたのでした。民数記のその記述だけを読むと、主のしもべがなぜそのような目に!? と思わないでしょうか?
しかし、このバラムの一連の祈りのできごとのあと、モアブにいたイスラエルの民は、モアブの娘たちに招かれて偶像のいけにえの飲み食いをし、神々を拝み、モアブの娘たちと淫らなことをしたのでした。これによって主の怒りがイスラエルに臨みました。
なぜ、イスラエルにこんなことが……と思いますが、民数記31章16節を読むと、「この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒瀆させたのだ。」とあるように、その黒幕にバラムがいたことがほのめかされています。これがヨハネの黙示録、聖書の終わりの終わりに、それは間違いなく、バラムのしたことだと、ついに明らかにされます。ゆえに、バラムはイスラエルの手によって処刑されたのでした。
エペソ教会が排除していたニコライ派は、このみことばによれば、まさにバラムがイスラエルをまどわし、霊的にも肉体的にも姦淫を犯させ、純潔を失わせることを、キリスト教会に教えるような邪悪な存在でした。エペソ教会は正しい教理、健全な教えに堅く立って、このニコライ派が教会の中に入ってくるのを許しませんでしたが、ペルガモン教会の信徒の中には、ニコライ派の教えを受け入れてしまった信徒がいたのでした。
それは悔い改めるべきことでした。もし、悔い改めないで、ニコライ派のような間違った教えがのさばるままにするならば、イエスさまは何をなさるというのでしょうか? そうです、御口の剣をもって彼ら、ニコライ派に毒されたペルガモン教会の信徒たちと戦う、とおっしゃいました。
戦う、と言いましても、イエスさまが負けるような戦いなどありえません。イエスさまが勝利する戦いです。彼らはみことばの真理に対してありったけの力で抵抗するでしょうが、ついには負けます。そして、さばかれます。
主を信じる信徒たちにあるのは「懲らしめ」であって「さばき」ではないものですが、イエスさま以外のものを主とし、イエスさまの以外の存在に従順になれとの教えをもって教会を毒する存在にあるものは、「懲らしめ」ではなく「さばき」です。私たちはさばき主なるイエスさまを恐れ、教会の純潔を保つためにしっかり努力する必要があります。
その努力には、エペソ教会のように毅然とした態度を示すべく、教理の学びをきちんと行うことも含むでしょう。私たちが日々主のみことばに従順に従うように、みことばを黙想して適用して実践に移す、ディボーションの時間をしっかり確保することも必要でしょう。しかし何よりも必要なことは、私たちが「悔い改める」ことです。
悔い改めということは、神さまとの一対一の関係の中で成り立つことです。イスラエルの民は、呪いの祈りが祝福の祈りに変えられるほど、神さまの絶対的な霊的祝福、霊的守りを受けていました。そんな彼らが罪を犯し、神さまの怒りを受けたのは、バラムのせいということもさることながら、彼ら自身の中に、罪を犯したい欲望があったからということです。
バラムはわかっていました。イスラエルをのろいたいというバラクの野望を達成するためには、神さまに直接呪ってくださいと求めることは無理である一方で、イスラエル人の罪を犯したい欲望を刺激すれば、神さまは怒りを下され、結果的にそれがのろいとなるということをです。
問題なのは、私たちの罪を犯したい欲望です。それが日々、神さまの御前に取り扱われることがなくては、私たちは聖徒として正しくあることはできません。それゆえに私たちは、悔い改めることが必要なのです。悔い改めることなく、形だけ取りつくろったクリスチャン生活をしていても、欲望に惹かれたらどうにもなりません。私たちは欲望と背徳にまみれたニコライ派に毒されたい肉の性質があることを恥じながら認め、つねに悔い改める必要があります。
さて、このペルガモン教会への教えは、17節のみことばで閉じられています。ここには、勝利を得る聖徒に、2つのものが与えられると書かれています。
まずは、隠されたマナです。ヘブル人への手紙9章を読みますと、幕屋の至聖所には契約の箱が置かれ、その中には「マナの入った金の壺」があったとあります。隠されたマナ、とありますと、この契約の箱の中のマナを連想しますが、マナはもともと、出エジプトの民に奇蹟のようにして与えられた食べ物です。それは、神の民にいのちを与えて養う食べ物ということであり、わたしがいのちのパンです、とおっしゃった、イエスさまを象徴しています。
イエスさまは、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持っている、とおっしゃいました。しかしこの奥義は、イエスさまについてきたほとんどの人には隠されていました。隠されていなかったのは、十二弟子だけでした。
まことのマナなるイエスさまという奥義が隠されていることは、こんにち多くの人がイエスさまのことを知っていても、イエスさまをいのちのパンと認め、イエスさまのみことばによっていのちをつなぐことをしていないことからも明らかです。まことのマナは隠されているのです。しかし私たちは、イエスさまを信じる信仰によって、この隠されたマナを食べる権限が与えられている、つまり、イエスさまをいただいてイエスさまとひとつになる特権が与えられているのです。何と感謝なことでしょうか。
今日は主の晩さんのひとときを持ちますが、それは、イエスさまというお方を私たちが口にし、味わい、ひとつとなっていることを覚えるときです。私たちはけがれていて、とうてい、イエスさまをいただく資格などない者です。しかし、そんな私たちにイエスさまは、「取りて食らえ」とおっしゃるのです。それを拒むのは不従順です。私たちはもったいない恵みに感謝して、まことの隠されたマナにあずかっていることを覚え、パンとぶどう汁にあずかりたいと思います。
白い石は何でしょうか? 解釈はさまざまです。第一に、古代では白い石は無罪を、黒い石は有罪を表しました。聖徒たちはこの世においては罪人のように扱われますが、のちの世では罪なき者として勝利に入れられます。反対に、わが世の春を謳歌する迫害者は、のちの世では永遠のさばきを受けます。第二に、古代では祝祭に入る入場券の代わりとして、石が用いられました。この解釈に従えば、主は、天国の祝宴に私たちを招いてくださる、ということです。いずれにせよ、白い石は聖徒たちが新しいエルサレムに入城することを象徴していると言えます。この白い石に名前が書かれている天のエルサレムに入る人の名は神さましか知りません。私たちは信仰を保ち、神さまに認められるにふさわしい者となりたいものです。
しかし、まことのマナなるイエスさまとの交わり、白い石に象徴される天国行きの恵みは、やはりそれをいただいている以上、大切にすべきものですし、この恵みを粗末にして落伍する人が私たちの群れから出ることのないように、私たちはさばき主なるイエスさまを恐れ、日々、そのみことばの剣によって自分の霊とたましいを切っていただき、神さまにお従いする上で必要のない部分、罪深い部分を明らかにしていただき、ことごとく悔い改める必要があります。
偶像に満ちた環境に生きる私たちの歩みは、大きな迫害にあっても、かえって信仰を強くしていただく恵みをいただけるかもしれません。しかし、私たちの中から罪を犯したい性質が取り除かれていないとしたらどうでしょうか。あっという間に堕落してしまいます。それこそ、主の敵の思うつぼになってしまいます。
だからこそ私たちには悔い改めが必要なのです。悔い改めるならば、私たちは後ろめたさのない主イエスさまとの交わりの中に保たれますし、天の御国に正々堂々と凱旋できるという確信の中に保たれます。
バラムの教えを好むのは、教会の一部の人ではありません。私自身なのです。この自覚をもって悔い改めつつ、この偶像に満ちた世界、罪に満ちた世界の中、迷うことなく主にお従いする恵みの中に保たれますように、主の御名によってお祈りいたします。