聖書箇所;ヨハネの黙示録2:18~29/メッセージ題目;「イゼベルが毒そうとも」
今日の箇所には「あの女、イゼベル」という表現が出てまいります。前回のメッセージの箇所で問題にされたのはバラムでしたが、今回はイゼベルです。今回も旧約聖書の箇所を参照しながら、黙示録のみことばを学んでまいりたいと思います。
今回のみことばの舞台は、ティアティラです。ティアティラは、主がヨハネにメッセージを送るように命じられた7つの教会のあるアジアの都市の中で、最も小さい都市です。前回学んだペルガモンからは60キロメートルほど南東の方角にあり、街道が交わる交通の要衝でした。ティアティラは商工業都市として発達し、銅細工や亜麻布、皮革加工、染め物、羊毛の紡績などがその主な産業で、そのようないろいろな職業の同業組合、ギルドが形成されていました。このギルドについては、のちほどあらためて触れたいと思います。
ティアティラはけっして大きな町ではありません。しかし、この教会に宛てられたメッセージは12節分にもなり、7つの教会の中ではいちばん長いメッセージになっています。このティアティラ教会に対するイエスさまのお姿は、18節にあるとおりです。「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子」……。
このお姿は、前に黙示録1章でも学びましたが、ダニエル書10章6節でダニエルが見た幻のとおりの、預言されていたさばき主なる神の子です。イエスさまは十字架におかかりになっただけのお方、しもべとして弟子たちの足を洗われただけのお方ではありません。最後にはこのような恐るべき栄光に満ちたお姿で現れるお方です。
イエスさまは燃える炎のような目で、万物を見通されるお方です。人というものは、できれば暗闇の中に閉じこもり、罪の習慣をやめないでいたい存在です。イエスさまは燃える炎のような御目をもって、そんな私たちのことを照らされ、その罪を明るみに出され、悔い改めへと促されるお方です。
そして真鍮のような足、真鍮は銅の合金であり、銅細工で栄えたティアティラにとっては近しい存在ですが、イエスさまはこの栄光に輝く御足で、敵であるサタンとそれにつく勢力を踏みつけられます。まことに真鍮のような御足は、イエスさまの絶対的な勝利を象徴しています。
このようなお姿で現れたイエスさまは、まずティアティラ教会をほめていらっしゃいます。19節です。
……ティアティラ教会のした行い、そしてティアティラ教会の愛、信仰、奉仕、忍耐が、主の御目から見て素晴しいものであったというのです。
『リビングバイブル』というバージョンの聖書は、この「行い」と訳された箇所を、具体的にこのように解釈しながら訳しています。「わたしは、あなたが貧しい人々に親切にし、物資を援助し、めんどうを見てやったことを知っています。」こうして見ますと、ティアティラ教会はけっして内向きではなく、外に向けて主の御目をもって関心を払い、それ相応の活動をしたという点で、模範的だったことが見えてきます。
そして、「初めの行いにまさる、近ごろの行い」ということばにも注目しましょう。「初めの行い」とは何でしょうか、神の愛です。そのことを、以前エペソ教会に宛てられた黙示録のメッセージから学びました。神の愛なくしては、どんな行いにも意味がありません。神の愛のない行いなど、すべては悔い改めるべき、神さまから見ればピントの外れた行いです。
しかし、人が神の愛にほんとうにとどまるなら、そこからさらに素晴らしい行いの実が具体的に結ばれていきます。神さまを愛しています、と、口だけ言っているようでは成長がありません。神さまが愛してくださっているのに、自分の愛はなんと貧しいことか、と悩み、その愛のなさを恥じて悔い改め、神さまに拠り頼んでいくならば、神さまは愛するための具体的な実践を与えてくださいます。
このような成長は、当たり前にできることではありません。少しでも神さまに認めていただけるだけの成長を遂げさせていただいたならば、それは大きな恵みというものです。愛する実践ができるようになったならば、自分を誇ることなどできません。神さまにすべてのご栄光をお帰しするのみです。
そういう点で、ティアティラ教会は実践の伴う成長の恵みを体験していた、素晴らしい教会でした。異邦の社会、異教の社会の中にあって、これだけの成長を遂げることは、なかなか簡単なことではありません。この成長という課題は私たちも取り組んでいることで、対外献金、対外奉仕においてまだまだ貧しいことを思いますが、私たちもティアティラ教会にならって、ささげるという成長、奉仕するという成長を遂げさせていただきたいものです。
そんなティアティラ教会でしたが、大きな問題を抱えていました。イエスさまが「イゼベル」と呼んでおられる女性が、教会の信徒たちを毒し、悪い方向に導いていたのでした。
イゼベルは何者でしょうか? 彼女のことは、列王記第一16章から列王記第二9章のあいだに出てきます。その間に、イスラエルの霊的指導者はエリヤからエリシャへと交替していますが、実際のイスラエルは、アハブ王によってバアル崇拝が採り入れられ、霊的に大変暗い状態にありました。聖書はこのようにしたアハブ王に、「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行(おこな)った」と、最悪の評価をしていますが、その背後にいたのはイゼベル王妃でした。
列王記のアハブの箇所を読んでみますと、アハブはたしかに悪い王さまでしたが、異邦からバアル神礼拝を持ちこみ、イスラエルに定着させたイゼベルのほうが、はるかに邪悪な印象を与えないでしょうか? 雨乞合戦に勝利したエリヤを脅迫して失脚させたことしかり、ナボテのぶどう畑を奪うために偽りの証言を用いてナボテを殺させたことしかり、実に恐ろしい女性です。
神の国を統べ治めるべき王をこのように籠絡し、国全体を堕落させる存在……これがイゼベルであるわけですが、ティアティラ教会にはこのような、イゼベルのごとき堕落をもたらす教えを宣べる女性がいた模様です。
この、「イゼベル」が教会に対し、どのようなことを行なっていたかということは、20節に書かれているとおりです。……これらのことは、先週学びました「バラムの教え」と共通します。民数記を見てみますと、イスラエルの堕落はモアブの女と淫らなことをし、偶像に備えたいけにえを食べることで宗教的におかしくなったことによるものですが、この背後にはバラムがいました。
バラムの教えがペルガモン教会を毒したことは、その教えに惹かれたクリスチャンたちの責任であることは先週学んだとおりですが、同じように、ティアティラ教会のクリスチャンたちも、この罪に惹かれる性質が取り扱われる必要があったのでした。
この問題の取り扱われ方は、エペソ教会のケースと対照的です。エペソ教会はおかしな教えを排除するだけの純潔さを持ち合わせていましたが、イエスさまの愛を失っていました。反対にティアティラ教会は、イエスさまの愛の実践に満ちていましたが、純潔さを失っていました。どちらに傾いてもならないのです。純潔であるのと同時に、愛に満ちあふれる……実に難しいことです。それだからこそ、難しいということ、つまり、人にはできないことを認めて、少しでも神さまに拠り頼む姿勢が必要になってきます。
しかし神さまは、イゼベルのような教会に腐敗をもたらす者を、すぐに一刀両断におさばきになるわけではありません。悔い改めの機会をくださいます。
問題は、悔い改めの機会がふんだんに与えられているにもかかわらず、悔い改めない、その行いを改めずに、相変わらず教会をむしばむことをやめないことです。
悔い改めない者の教えに従う者は同罪、同じように悔い改めないで神さまに反抗し、敵対している者と見なされます。そのような者たちに神さまは何をなさいますでしょうか? 22節、23節です。
これはもはや、悔い改めに導く「懲らしめ」ではありません。悔い改めないことに対する「さばき」です。このような「さばき」に関するみことばを、脅しですとか、冗談のように取ってはなりません。神さまはイエスさまの十字架によってすべての罪を赦されたのだから、何をしても大丈夫だ、というように振る舞ってはなりません。それは十字架というものを根本から誤解していることです。
主の晩さんのたびに毎回お読みしている第一コリント11章のみことばは、29節までにしていますが、29節の「みからだをわきまえないで食べ、また飲む」とは、イエスさまの十字架がどのようなものかわきまえない、ということです。
そういう人がどうなるかを、続く30節が語ります。「あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」これは象徴、シンボルではありません。現実に病んでいるではないか、死んでいるではないか、それが恐ろしいならば、さばきを受ける前に、キリストのみからだをわきまえよ、ということです。
十字架によって罪赦されたことを知るなら、十字架にかかられたイエスさまをつねに見上げてしかるべきです。ああ、私はイエスさまを十字架につけてしまったとは、なんという罪人だろう。しかし、そのような罪を完全に赦してくださったとは、何と感謝なことだろう!
私たちが主の晩さんにあずかるのは、このように、十字架にかかって私たちの罪を完全に赦してくださったイエスさまのみからだにあずかることであり、このようなもったいない恵みをいただいている私たちは、ことさらに罪を犯すことから守られるべく、主のあわれみにすがっていく必要があります。
ヘブル人への手紙10章26節と27節には、このようにあります。「もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。」
神さまのあわれみを軽んじ、平気で罪を犯しつづけるような者は、滅びる以外ないのです。ティアティラ教会に現れた「イゼベル」は、まさにこのさばきに該当する者であり、主の正しい教えよりもこのような異端的な教えを選ぶような者たちも、やはりこの死のさばきを受ける者となります。
私たちの教会に異端的な教えを持ち込んではならないのは、そうしないと私たちは「死ぬ」からです。「死ぬ」といっても「即死」とはかぎりません。この「死ぬ」ということに関しては、アダムに宣告された「あなたは必ず死ぬ」という警告を思い出しましょう。死ぬとは、もはや神さまとのいのちの交わりを持つことができなくなることです。
教会につながるとは、神さまの与えてくださるまことのいのちの中にとどまることであるはずなのに、それは形だけで、いのちもなにもない、生きていても死んでいる者になる……実に恐ろしいことです。私たちが「即死」していないとか、「どうせいつかは死ぬのだから」という問題ではないのです。神さまとのいのちの交わりが持てない恐ろしさを、私たちはもっと考える必要があります。
私たちが神さまを恐れているならば、このようなことを単なるシンボルと受け止めるにとどまるのではなく、心底みことばを恐れ、悔い改める機会が残されているうちに悔い改めることです。
しかしイエスさまは、このような教えに毒されていない聖徒たちに対しては、最大級の慰めのことばをかけてくださっています。24節のみことばです。……
「イゼベル」の邪悪な教えを受け入れないということは、「サタンの深み」を知らないという、よいことであるというメッセージです。この「サタンの深み」ということばは、第一コリント2章10節に出てくる「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られる」というみことばに対応しています。御霊なる神さまは神の深みを私たちに示してくださいます。
これに対して「イゼベル」は、あたかも自分が神さまや聖書について何でも知っているかのように振る舞い、教えますが、所詮彼女の知っていること、教えていることは「神の深み」ではなく「サタンの深み」であるということです。
このように、「サタンの深み」を知らないということは、素晴らしいことではありますが、たいへんなことでもあります。「イゼベル」の教えに一線引けるならばよいことですが、この町にはもともと、太陽の神であるテュリムノスを祭る神殿があり、ユダヤ教と異教の混合した迷信的、魔術的宗教が支配していました。
先にも述べましたが、ティアティラにはいろいろな産業のギルド、同業組合が発達していました。この同業組合はもちろん会合を持つわけですが、その会合は神殿における異教的な儀式と関連を持っていて、この異教的なギルドに関わる以上、不道徳な慣習に従わなければならなかったといいます。
これは、つい4分の3世紀前までの日本のキリスト教会の姿でもあります。礼拝にあたっては、父なる神さまを礼拝する前に、宮城遥拝、天皇のいる方角に向かって拝礼することを先にしなければなりません。歌う讃美歌はイエスさまをたたえるというよりも、皇国日本をたたえる歌です。聖書の解き明かしはあたりさわりのないことしか言えず、多くは「詩篇」から語られるしかなかったそうです。「日本は天皇中心の神の国だ」という、国家神道原理主義がすみずみまで支配していた日本に、何の信教の自由があったというのでしょうか。
偶像神に支配されたギルドにがんじがらめにされたティアティラ教会の労苦は、のちの日の日本の教会の労苦であり、その延長線上にいまの日本の教会が味わう自由があることを、私たちは決して忘れてはなりません。
しかし、ティアティラ教会の純潔な信徒たちには、ほかの重荷を負わせないとも、イエスさまは言ってくださっています。ほかの重荷とは何でしょうか? それは、信徒たちお互いが愛し合うことです。ローマ人への手紙13章8節には、このようにあります。「だれに対しても、何の借りもあってはなりません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。」
ティアティラ教会はイエスさまの御目には、愛するということにおいては合格していました。このような苦しい中でよくやっている、と、慰めてくださっています。それ以上の重荷は負わせません、と、主は言ってくださいます。
25節の「持っているものを保つ」ということは、純粋に神さまを愛し、兄弟姉妹を愛するということです。イゼベルのごとき者は論より証拠のようなことをして、教会を毒しにかかります。
しかし、神さまに対する私たちの愛が本物なら、聖書の教えに反する教えは徹底して排除しにかかれるはずですし、兄弟姉妹に対する私たちの愛が本物なら、兄弟姉妹が間違った教えに毒されてしまわないように努めるはずです。
こうして、神と人に対する愛に裏打ちされた私たちの信仰告白は保たれ、イエスさまが再び来られるときに、恥ずかしくなく御前に立つことができます。そして来たる世で主とともに統べ治め、明けの明星のような御子の栄光を永遠に仰いで、主をほめたたえる者とならせていただきます。
私たちの生きる世界は、多くの制約があり、神さまに純粋にお従いすることもままならない中に生きています。しかし神さまは、そのような中で苦しむ私たちのことを決してお忘れになりません。ただでさえ苦しむ私たちを毒そうとする勢力は、神さまがおさばきになります。
終わりの日に花婿として私たち教会を迎えてくださるイエスさまの御前に、しみも傷もない姿でお立ちすることは、イエスさまの十字架の血潮に日々拠り頼むことなくしては不可能です。私たちの労苦をご存じの主に心からの感謝をささげ、なお、神さま以外のものに影響を受けたい、罪深い性質がきれいに洗われ、終わりの日に、イエスさまの御前に恥ずかしくなく立つ私たちとなれますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。