聖書箇所;マルコの福音書10:13~16/メッセージ題目;子どもの好きなイエスさま
今日は、子どものことについてお話しします。みことばをベースに、自分の証しも交えてお話しし、みなさまにも子どもたちに関心を持っていただければと願いつつ、メッセージを取り次がせていただきます。
イエスさまは人気者でした。ゆく先々に人々がついていっていました。本来彼らは、祭司やパリサイ人のような宗教指導者たちからいろいろ教えてもらってこそ満たされるはずでした。しかし、彼ら宗教指導者たちは、えらそうな教えを垂れながら何一つ必要を満たしてくれません。ユダヤの庶民たちは、そんな宗教指導者たちについていけないで飢え渇いていた人たちでした。
しかし、イエスさまのもとに行くならば、神さまのみことばのほんとうの意味を教えていただけました。死にそうに飢え渇いていたたましいはうるおされ、癒されました。それだけでしょうか? 医者たちに見放されていた病気まで癒やしていただき、だれにも追い出してもらえなかった悪霊まで追い出していただけたのです。イエスさまのもとに行けば、弱い自分も強くなれる、癒やされる……噂はうわさを呼んだことでしょう。そこかしこから人々が押し寄せ、ときには何千人という大群衆に膨れ上がったりもしました。
ここから先は、ちょっと日曜学校のメッセージっぽくお話しします。だいぶ脚色が入っていることをお断りします。ある日、ある家のお父さんが、とても素敵なニュースを聞きました。うちのまちにイエスさまがやってくる! その家には子どもがいます。有頂天になったお父さんは、心の中でこう叫びました。よーし、イエスさまに頼んで、うちのかわいい子に手を置いていただき、祝福していただこう! これは一生の記念になるぞ!
そう考えたお父さんはひとりではなかったようで、何人もの大人たちが、子どもを連れてイエスさまのところにやってきました。さあ、ようやくイエスさまに会えるぞ!
ところがなんとここで、みんなは信じられないようなことばをお弟子さんから聞きました。「子どもはダメです!」ガーン!……でも、仕方ないよな……年端もいかない子どもがユダヤでは一人前扱いされないのは、当たり前だもの……。帰るか……。子どもも大人も、みんながっかりです。
しかしこれを見たイエスさまは、憤られました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい! 邪魔するんじゃない!」なんで子どもたちがイエスさまのもとに来るのを邪魔してはいけないか、イエスさまはちゃんと説明してくださいました。「神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
このとき弟子たちは問われたことでしょう。子どもたちを劣っていると考えて、神の国の仲間はずれにする自分たちは、このままでひょっとして、神の国にふさわしくなくならないだろうか? イエスさまはチャレンジされているのではないでしょうか? あなたたちも、子どものように素直に神の国を受け入れているというのなら、いちばん純粋に神の国を受け入れる子どもたちを受け入れなさい。
このできごとは私たちにいろいろなことを教えてくれますが、特に教えられること、なんといってもそれは、イエスさまは子どもが大好き、ということです。
私は中学生になり、教会に通うようになりました。そして私は、イエスさまにそのまま愛されているということを実感するようになりました。そうか、子どもでいて悪いことはないのか、子どもでいいのか! そうして見てみると、教会は母体になっている診療所の産婦人科や小児科の関係で、教会の日曜学校は何十人ものお友達であふれかえっていて、どこを見ても子どもたちです。
彼らはとても純粋でした。教会学校が好きで、教会の兄弟姉妹が好き、つまり、教会が好きでした。私は彼ら子どもたちの姿を見て、子どものように神の国を受け入れるとはどういうことかを、実際に学んだのでした。
私が何度もこのメッセージの時間にお話ししているダウン症の女の子「あっこちゃん」とも、この教会学校をとおして知り合いになりました。一緒に二人して大宮駅から特急電車に乗り、長野県にある松原湖バイブルキャンプに行ったこともある仲です。私は信仰が成長していく過程において、あっこちゃんから実に多くのことを教わったと、今でも思います。そのことはのちほど改めてお話しします。
そのようにして子どもに対する意識が変わった私は、高校を卒業して、日曜学校の教師に志願しました。私は中高生の担当になりたかったし、なれるものだと思って、期待して発表を待ちました。
そして、校長先生は私をどこに配置されたかといえば……嬰児科、でした。0歳から3歳までの赤ちゃん、幼児のクラスです。校長先生は石黒妙子先生という肝っ玉母さんの産婦人科の先生で、とても逆らうことなどできません。私は数人のベテランの先生、そして子どもたちのお母さんたちに囲まれながら、見よう見真似の教師生活を始めました。わからない! 何もかも! しかし、なんとか1年やり遂げました。最後の頃にはギターを弾いて賛美をリードしたり、ネヘミヤの物語を紙芝居にして読み聞かせしたりと、少しはご奉仕らしいことをすることができました。
そこで私が学んだことは、へりくだるということでした。実はこの年、私はもうひとつのへりくだるための体験をしていました。その年の6月、私は例の松原湖バイブルキャンプの奉仕者に志願して、子どもたちの部屋ごとのまとめ役のカウンセラーになろうとしました。しかし……キャンプ場のサイドから、私はカウンセラーになるには経験が必要ということで、カウンセラーにはしてもらえませんでした。
配属されたのはグランドワーカー、あらゆる力仕事、汚れ仕事を担う働きでした。私はその打診をいただいたとき、ええ、喜んでお引き受けします、と、心にもないことを言いましたが、実際はどうだったのでしょうか?
キャンプが始まってみると、子どもたちの目につかないところで労働することは体力を必要とする上に、大変な気苦労の伴うことでした。
午前4時に物音を立てないで水洗ではないおトイレを掃除したり、台風がやってきたら低い建物の入り口にたまった泥水をバケツリレーで汲み出したり、終わって疲れた体を休めるのは自分たちで立てたプレハブ小屋の中の古い布団だったり……そんな生活をしていて、私は3日目でからだをおかしくし、みんなに気を遣ってもらい、仕事を減らしてもらいながら11日目まで働くという、なんとも情けないことになったものでした。
その頃の私を振り返ると、赤ちゃんの働きにせよ、グランドワーカーにせよ、子どもの働きをするにはまず謙遜になれ、というメッセージをいただきながらの訓練のただ中にいたと思います。私は、自分にではできる、という思いが砕かれることがどうしても必要だったのでした。
しかし、訓練はこれで終わってはいませんでした。大学を卒業して、私は韓国の神学校に行き、ソウル日本人教会で奉仕をはじめました。その奉仕の一環として、ソウル市内の日本人の集住地域で、日本人の子どもたちを対象に教会学校の教師をすることになりました。それは私にとって、はじめてリーダーシップを取って働く教会学校の働きでした。私はこの働きに誇りを持ち、神学校の友達を誘って一緒に働いたりしました。
子どもたちは言うことを聞かないなりにとても可愛かったものですが、すぐに私は日本人教会から現地の教会に移籍することになりました。とても残念だったのですが、私はせっかくリーダーシップを取って働けていた働きをあえなく手離しました。
今思えば私は、自分が握っていた働きを手離し、神さまの導きにゆだねて従順になるように導かれていたのだと感じます。そうです、働き、わけても子どもの働きは人に属するものではなく、神さまのものであることを知ったのでした。あのとき子どもたちにはかわいそうな思いをさせたように思い、心を痛めましたが、しばらくたってその子たちに再会したとき、同じ日本人の集住地域にある別の教会の教会学校に通っていることを知り、心底ほっとしたものでした。やはりこれは、神さまのお導きだと知ったわけでした。
そのほかにもそれ以降、子どもの働きは数多く取り組んでまいりました。中でも、自閉症の子どもにかかわることが何回かありました。それはとても難しい働きでしたが、その一方で、そういう子どもの独特な感性に驚かされたり、ときに感動したりといったこともあったものでした。
そのような、長年の子どもたちとの付き合いからはっきり言えることは、子どもは大人よりも確実に、神の国を素直に受け入れる人たちだ、ということです。まさしく、イエスさまがおっしゃったとおりです。
ここで、先ほど先延ばしにしていたあっこちゃんの話の続きをしたいと思います。私とあっこちゃんは同い年ですが、高校3年、松原湖バイブルキャンプに参加する最後のチャンスになったとき、講師は前の年のキャンプに大好評だったアーサー・ホーランド、小坂忠、岩渕まことのお三方がまた来てくださり、またもや大きく盛り上がりました。あっこちゃんは思い余って、ノンクリスチャンのお母さまに電話をかけ、洗礼を受けたいと訴えました。お母さまは許してくれたと、そばであっこちゃんの電話を見守っていたカウンセラーの方からあとで伺いました。私はどれほどうれしかったかわかりません。
さあ、お母さまはどんなふうに迎えてくださるだろうか……キャンプから一緒に帰り、大宮駅でお母さまにお目にかかると、私は「あっこちゃんの洗礼を許してくださりありがとうございます」と申し上げました。
ところが、お母さまは言下に否定されたのでした。「いいえ、私はそういう意味で言ったのではありません。あっこが興奮していたからそう言うしかなくて……噓をついたわけじゃなかったんですよ……まったく、このキャンプは洗礼を受けている人じゃないと参加できない、ってなっていればよかったんですけどねえ……。」その間あっこちゃんは何も言えず、ただじっとお母さまにしがみついていました。私は家に帰っても何も手につかず、半日ほど放心状態でいました。それから二度と、あっこちゃんはあれほど好きだった教会学校に姿を見せなくなりました。
しかし、それからだいぶたってのことですが、この、子どものような心を持つあっこちゃんらしいエピソードを、私は当時の中高生科を担当していらっしゃった婦人の先生からお伺いしたのでした。
先生はあっこちゃんのところに電話をしました。あっこちゃんは元気でした。よくお祈りもしていたそうです。
しかし、それだけではありません。あっこちゃんは先生に、自分の空想話を聞かせてくれたのだそうです。それは先生をとおして間接的に聞いても、実に新鮮で、感動的なものでした。
あっこちゃんはこう言ったそうです。……ある夜ね、イエスさまが「泊まるところがないから泊めて!」と、あたしのところを尋ねてきたの。でね、イエスさまはどんな格好をしていたと思う? パジャマを着ていたの!
私は先生からそれを聞いて、あっけにとられました。イエスさまがパジャマを着ているだなんて! しかしそれと同時に、私の心の奥底から、なんともいえない感動が沸き起こってまいりました。
私は今日のメッセージを準備するにあたり、そのときあっこちゃんが言っていたことの意味を、あらためて自分なりに考えてみました。子どもの無垢な心の空想をあれこれ解釈するなんて、野暮なことなのは重々承知していますが、それはきっと、こんなことだったのではと考えます。
パジャマというものは、外に着ていくためのものではありません。まれにゴミ捨て場にごみを捨てに行くとき、パジャマを着たまま出ていきたくなるかもしれませんが、会社や学校のようなフォーマルな場には、間違っても着ていきません。作業着やジャージは着るかもしれませんが、パジャマはまず着ません。
逆に言えば、家の中で休むときもスーツや学生服、仕事着を脱がないようでは、自分も落ち着きませんし、見ているほうも落ち着きません。やはりゆったりした服装でいてほしいです。でも、下着で歩き回るのはちょっとみっともない。そんなとき、パジャマを着ていたら、少なくとも見ているほうは安心します。ああ、お父さんは、おうちではよろいを脱いで、私たちのことを信頼してくれている! 安心してくれている! 家族はそう思ってくれるでしょう。
イエスさまがパジャマ姿であっこちゃんのお部屋を訪ねてきた、ということばに、婦人の先生も私も感動したのは、どうしてでしょうか? あっこちゃんにとってイエスさまは安心できるお方だ、ということだけではなくて、イエスさまも、あたしの存在に安心していらっしゃる、ということを、あっこちゃんが心底感じているのが、先生にも私にもわかったからだと思います。
イエスさまが、神の国は子どもたちのものだからわたしのもとに来させなさい、とおっしゃったのも、まさにこの流れで説明できないでしょうか? わたしは、わたしのことを素直に理解してくれる子どもたちと、わたしを慕ってそばに近寄ってくれる子どもたちと、一緒にいるとほっとする、気持ちがいい、どんどん来させなさい、それがわたしの力だ、とおっしゃっているようです。
これに対して、大人はどうでしょうか? 自分の学んできた知識、身に着けてきた知識はいっぱいあるかもしれません。でもそのせいで、神の国を素直に受け入れることができなくなっています。そんな人とイエスさまはいっしょにいたいとお思いになるでしょうか? まるでパジャマを着て一緒にいるような、リラックスしたお気持ちをその人と一緒にいてお感じになってくださるでしょうか?
でも、子どもたちなら、素直にイエスさまを受け入れます。イエスさまはそんな子どもたちと一緒にいることをお喜びになることでしょう。私は、イエスさまが子どものことをそのように見ていらっしゃると信じるからこそ、昨日の子どもの働きを何としても休まずやり遂げたかったのでした。その結果私は大きな力をいただきました。ああ、やってよかった! なんて元気をもらえたんだろう! 今日私は疲れを知らずに、こうしてご奉仕をさせていただいています。
私自身も問われます。イエスさまは果たして、パジャマ姿で私のところに来てくださるだろうか? よお、わたしはキミといろいろ話がしたい、ちょっといさせてもらうよ! 私は、そんなふうにイエスさまに言っていただけるだろうか、と思います。はっきり言ってちょっと自信がないですが、私もそんなふうにイエスさまに言っていただけるようになりたいと、心から思います。みなさまはいかがでしょうか? イエスさまはパジャマ姿でみなさまのところにいらしてくださると思いますか?
昨日、久しぶりに持った子どもお楽しみ会は、単なる夏の恒例行事以上の意味があることです。これを取っかかりに、子どもたちがイエスさまに出会うように、教会学校は努めてまいります。威儀を正したイエスさまよりも、パジャマ姿のイエスさまに出会ってほしい、そんな気持ちです。
みなさまにもどうか、子どもたちがイエスさまに出会う働き、子ども伝道に関心を持っていただきたいのです。うちの教会はコロナ下になっても、子ども伝道のともしびを消さないでいられたのは神さまの恵みです。この働きをする教会をイエスさまは喜び、祝福してくださる、どうかこのことを忘れないでいただきたいのです。そして、祈って支えていただきたいのです。
子どもを受け入れてくださるイエスさまの心で子どもを受け入れる、つまり、子どもたちがイエスさまを受け入れる働きを喜んでする、それゆえに神さまが私たちを祝福してくださるように、主の御名によってお祈りいたします。