聖書;コリント人への手紙第一1:10~17/メッセージ題目;「教会は一致して十字架に歩む」
私が教会に通うようになったのは、母に連れられてでした。外国人宣教師から英語を習っていた母はやがて、教会に通いたいと強く願うようになり、行った先は埼玉の北本にある教会でした。母は幼いころ、聖公会のクラシックな礼拝堂の教会の日曜学校に通っていただけに、北本のあまりに飾り気のない礼拝堂に拍子抜けしてしまったようですが、母について教会にやってきた私は、ステンドグラスも何もないシンプルなその礼拝堂を、すっかり気に入りました。
礼拝堂は取り立てて特徴はありませんでしたが、集まっている人たちはとても個性的な方々でした。無医村伝道の診療所の礼拝から教会にまで成長させた石黒先生ご夫妻と吉住先生ご夫妻、その先生方の診療を受けて小児がんを克服した少年、大使館職員とピアニストのご夫妻、はるか横浜から埼玉の田舎まで夫婦で通ってこられる苗木会社の社長さん、テレビ局の方、暴走族出身の方……そして、牧師先生は大きなコンサートまで開くような福音歌手!……なんともバラエティに富んだ方々で、いやあ、教会って面白いところだなあ、と中学生なりに思ったものでした。
その後もいろいろな教会に所属し、神学生時代の奉仕教会や、受験生時代に客員として通った地元の教会を含めると、いまのうちの教会で通算12番目の教会になるかと思います。どの教会も愛すべき方々のいらっしゃる群れでした。中には教会自体が大きな問題を抱えた群れもありましたが、ありがたかったことに、私はどの群れの中にいても、信徒のみなさまのお祈りによってしっかり支えていただいていました。
そして私はいまこうしてうちの教会にいさせていただいているわけですが、うちの教会はこれまでのどの教会ともちがい、主任牧師という形で奉仕させていただいているわけで、みなさまの特別なお祈りの力を日々ひしひしと感じています。ほんとうに感謝なことです。
さて、そのようにして私はいろいろな教会で学んできたわけですが、最後に所属していることになるうちの教会においては、これまでそれぞれの教会で学んできたことの集大成のような形で牧会を展開してきたと思いますし、牧会8年目を迎えた今は、ますますそのように励んでいきたいと思います。
そんな私からすると、教会とは何かということを説くパウロの書簡はどれも、とても考えさせられるもので、学ばねばと思います。
そこで私たちは、聖書の語るふさわしい教会を立てるために、教会全体でともにみことばを学びたいと願わされるものです。本日の箇所も教会の本質を考えさせるみことばです。ともに学んでまいりたいと思います。
本日の箇所は、それまで続いてきたコリント教会に対するほめことばが、一転して強い勧め、それに引きつづき、苦言、叱ることばに変わります。コリント教会を愛するゆえの叱責です。そしてこの叱責は、こんにちの私たち教会が聞くべきことばであり、もし私たちがこのみことばに問われるならば、悔い改める必要があります。見てまいりましょう。
第一にパウロは、教会に一致を求めました。
10節のみことばをお読みします。……パウロは、あなたがたコリント教会は仲間割れしてはならない、語ることばにおいても、心においても、考えにおいても一致しなさいと語ります。
ここで問われているのは、教会において一致しないということです。しかし、教会というものは、身もふたもない言い方をしてしまえば、もともとが他人の集まりです。育ってきた背景も価値観も一致していません。そんな人たちは、一致しないのが当たり前なのではないでしょうか?
しかしパウロは、一致しなさい、と願います。なんと言っていますか?「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの名によって」……。まず、この他人の集まりは、兄弟なのです。兄弟ということは、親が同じ人々です。父なる創造主が親という、神の子どもたち、兄弟たち。
「兄弟は他人の始まり」なんていうことばがあります。うちの兄を見ても、つくづくそう思います。しかし兄も私も、同じ父と母から生まれています。同じことで、どんなに育ちや価値観の異なる人々も、同じ神さまを父とする、他人のようでいて実は兄弟なのです。兄弟愛をもって愛し合うべく召されている兄弟なのです。
それというのもご覧ください、「私たちの主イエス・キリストの名によって」とあります。……そうです。信徒たちが創造主なる神さまを父とする兄弟となっているのは、イエス・キリストを主、救い主と受け入れているからです。同じイエスさまによって、よりはっきり言えば、イエスさまの十字架を信じる信仰によって、兄弟なのです。
港町コリントでは当たり前だった不品行やけがれの生活を悔い改め、その罪に代表されるあらゆる罪を十字架で赦してくださったイエスさまを主と受け入れる、聖霊なる神さまのみわざを体験した兄弟、それがコリント教会のひとりひとりでした。
教会とは何でしょうか? キリストのからだであるとみことばは語ります。からだの器官どうしが調和しないならば、それは不健康とも病気とも言います。どんな人のからだもその器官が調和してしかるべきなように、キリストのからだは器官どうしが調和してこそしかるべきです。
キリストは全能なる神さまです。ということは、そのみからだは健やかに調和しているべきではないでしょうか? しかし主は、このみからだが調和した状態に保つ責任を、コリントの信徒たちに与えられました。
クリスチャンは教会に属してさえいれば、自動的に聖人君子のようになり、みんな仲良くなるわけではありません。仲良くなるようにという主のみこころに従うには、その従順をもたらす聖霊さまのみわざを受け入れるべく、へりくだって、主の助けをいただきつつ努力する必要があります。そうです、みからだが調和を保つのは、神さまと人との共同作業です。
では、そのようにパウロがあえて勧めなければならなかったのには、どんな問題があったからでしょうか? 第二のポイントです。パウロは、教会内に派閥による分裂があったことに苦言を呈しました。
11節をお読みします。……コリント教会の中には派閥争いが生じていました。どういう派閥だというのでしょうか?「私はだれだれにつく」という派閥争いです。12節によれば、「私はパウロにつく」「私はケファに」「私はアポロに」「私はキリストに」といった派閥があるということです。便宜上、「パウロ派」「ケファ派」「アポロ派」「キリスト派」としておきます。なにやら自民党の派閥みたいですが、一応これは便宜上私がそう呼ぶだけで、聖書がそう呼んでいるわけではありません。
教会が分裂のあってはならないキリストのからだだというならば、だれかにつくことによって派閥ができることなど、あってはならないことです。しかし、この4名の顔ぶれを見てみると、成熟していないコリント教会が人について派閥をつくるのは、なんとなく一理があるように見えないでしょうか?
パウロ、彼はコリント教会を開拓し、指導してきた人です。現にこのようにして手紙を送り、コリント教会の牧会を続けています。
コリント教会を離れた今もなお、強い影響力を及ぼしています。
ケファ、これはペテロのことですが、なんといってもイエスさまの教えを直接受けた十二弟子、それも十二弟子のリーダーで、現実にはエルサレム教会のリーダーです。神の教会、キリストの教会に属するからには、ペテロに属すると言ってみたいものでしょう。
アポロ、使徒の働きを見ると、雄弁な指導者です。コリント教会から「実際に見ると弱々しく、その話しぶりはなっていない」などと陰口をたたかれていたパウロに比べると、実に堂々としていたことでしょう。それだけではありません。使徒の働きの記述から類推するに、彼はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けていた可能性があります。ことばはあれですが、なにやら「ありがたい」人であり、十二使徒を超える評価をその点で受けていた可能性もあります。
では、「私はキリストに」は何でしょうか? パウロ、ペテロ、アポロは、現実に存在して影響を受ける可能性のある人物でしたが、「キリスト」となると、みことばの教えを受けて、ともにおられることを体験するお方です。このお方にこそつき従うべきであり、「私はキリストに」と主張する、いわゆる「キリスト派」は、その意味でほかのだれよりも説得力があると言えます。
しかしパウロは、この「キリスト派」を特別扱いせず、「パウロ派」「ペテロ派」「アポロ派」とまったく同じ扱いをしています。それは、なぜなのでしょうか? それは、派閥をつくることそのものを問題にしているからです。
このみことばは、私たちの陥りがちな罠を語ってはいないでしょうか? よく、私たちは言わないでしょうか?「私はだれにもつきません! 私がつくのはイエスさまです!」一見するともっともなことを言っているように聞こえますが、それでも問題です。なぜならば、このことばには、「あなたたちは人について派閥をつくる霊的に幼稚な人だ、でも私はキリストにつく霊的にすぐれた人だ」というふうに、高いところから人をさばく、霊的高慢の罪の中にいるとも言えるからです。
ともかく、このような分裂と派閥争いを教会の中に持ち込む人たちは、どういう人たちだというのでしょうか? 13節です。……第一に彼らは、キリストを分割する人です。教会がキリストのからだである以上、教会に分裂と争いを持ち込むのは、キリストを引き裂く人です。まさしく、十字架の上でみからだを引き裂いたその罪を現実に犯していることになるわけで、心からの悔い改めを必要とすることです。
さらにパウロは語ります。あなたがたのために十字架についたのは私パウロか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのか。
言うまでもなく、パウロが宣べ伝えたのはイエスさまの十字架であり、御父、御子、御霊の名によるバプテスマを彼らに授けました。しかし実際には、コリント教会の信徒のうち、クリスポ、ガイオ、ステファナの家族だけにしかバプテスマを授けていないことを、パウロはわざわざ強調しています。これはパウロが、自分がコリント教会に与える影響力の根拠となるカリスマ性を自覚していたからと言うことができます。
私たちはクリスチャンとして公に生きるにあたって、バプテスマを受けますし、十字架を記念した主の晩さんにあずかります。それをだれが司式するかということは大事なことにはちがいありませんが、それを過度に意識し、凝り固まったプライドを持つのは良くないことです。牧師はイエスさまではありません。誇るべきはイエスさまです。
もちろん、イエスさまを誇るといっても、さきほども申しましたが、上から目線で振る舞い、かえって教会に分裂をもたらすためであっては困ります。教会全体でともにイエスさまにつながるのです。間違っても、「あなたはだれだれさんにつくけれども、私はイエスさまにつきます」、「あなたはだれだれ先生につくけれども、私はキリストにつきます」であってはなりません。そういう言い方が許されるのは、その兄弟や先生によほど問題があり、その問題が教会全体で問題だと共有されている場合だけです。パウロやペテロやアポロがそういう人ではなかったことは、言うまでもありません。
第三のポイントです。パウロは、自分が教会に遣わされているほんとうの理由を理解してもらおうとしました。
17節のみことばです。……「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく」とあります。しかしイエスさまは最後に弟子たちに残された大宣教命令において、「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けなさい」と語っておられたのをご記憶でしょうか? イエスさまがはっきりおっしゃっているのに、パウロは、キリストが私を遣わされたのはバプテスマを授けるためではない、と言う。これはどういうことでしょうか?
これは、ことばの綾というべきでしょう。たしかにパウロは使徒であるゆえに、世界に出ていって、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けて、みことばを守らせ、弟子とすべく遣わされています。しかし、バプテスマというものは、授けた側の責任もさることながら、受けた側もまた、霊的に成長するという責任を負っています。
さきほども触れましたが、バプテスマを受けることに代表される、指導者の教えを受けることは、その指導者につくという形で派閥をつくるためであってはなりません。人がバプテスマを受けたならば、その人にバプテスマを授けた指導者をカリスマ視するような幼稚な霊的理解を卒業して、イエスさまとの一対一の交わりに、教会はともに入る必要があります。それが、パウロが本来与えられた、バプテスマを授けるという使命に忠実になることです。
これはパウロひとりで完成することではなく、バプテスマを受けた側、指導を受けている側もともにそのパウロの使命を完成するのです。というわけで、パウロがここで「バプテスマを授けるためではなく」と言っているのは、「あなたがたの理解しているような形のバプテスマを授けるためではなく、人のカリスマについてこさせる宗教儀式を行うためではなく」という意味に捉えるべきです。
それではパウロは、どんな使命を帯びていると語っているのでしょうか?「キリストが私を遣わされたのは、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるため、それは、キリストの十字架が空しくならないようにするため」ということです。
パウロはもともと、聖書学者として名の通ったパリサイ人でした。そんな彼はいまこうして使徒として諸教会を指導しており、その指導に用いられた手紙類は、神学的に深く、緻密に構成されています。さすがはもともと聖書学者だっただけのことはあります。その学者として努力した経歴を、主は宣教者として用いてくださったわけです。
しかし、そんなパウロも、自分の働きはことばの知恵によらないと告白します。語ることはことばの知恵ではない、福音を語る、と言います。イエスさまの十字架による罪の赦し、それをひたすらに語るのです。
十字架の福音を人に語るのは、ことばの知恵によることではありません。あれだけ聖書の学問に通じているパウロのことばだけに、説得力があります。それでは、何によって語るのでしょうか? それは何よりも、「十字架の福音を生きることそのもの」によります。
十字架によって罪赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられたことをほんとうに知るならば、生き方が変わります。イエスさまを誇りとして生きるようになります。隣人への愛の人、奉仕の人、証しの人へと変えられます。その、イエスさまが十字架を背負われたあとを追って、自分の十字架を背負って生きる生き方を示すことこそが、十字架が空しくならない生き方です。
福音というものはあまりに単純です。難行苦行で悟りに達すると考えるような人から見れば、拍子抜けするほど単純なものです。イエスさまの十字架を信じるだけ。永遠のいのち、天国への入口は、こんなにも単純なものでした。しかし、福音が単純であることと、何も考えない、ただの人のように生きることとはまったく異なります。
単純な福音にほんとうに感謝しているならば、献身がついて来ますし、生き方が変わります。それもなしに、「自分は何をしても救われている」とうそぶき、ただの人のように生きるならば、そんな生き方がどうやって、十字架を証しできるでしょうか。周りの人に「私もこの人が信じているように、イエスさまの十字架を信じたい!」と思わせるでしょうか。実に信仰とは、頭での理解を超えて、生き方に反映するべきものです。
というわけでパウロは、学問の人、ことばの人である以上に、十字架の人でした。ましてやパウロは、バプテスマを派閥づくりと勘違いするような者たちをたきつけて、教会の中に自分の王国をつくるような人では決してありませんでした。あらゆる学問を差し置いても、キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないとまで断言するほどの、キリストの十字架のことしか考えられない人、それがパウロです。
私たちはどうでしょうか。私たちもまた、よって立つ立場があると思います。社会人であれ、主婦であれ、お仕事にプロ意識を持って取り組んでおられることと思います。学生であるならばプロを目指した大事な準備の時間です。しかしそれ以上に私たちにとって大事なのは、「キリストの十字架が空しくならない生き方」をすることです。私たちがつねに主との交わりの中で十字架を体験し、日々の悔い改めの中で遣わされ、この世においてキリストの弟子として生きるのです。人々の救いを祈りつつ、よい生き方を証しとして立てていくのです。
その生き方をともにする共同体、それが教会です。ともにその生き方ができるように、お互いのために祈り励ます、そういう共同体となるために、派閥のような人間的な発想を捨て、キリストのからだにふさわしく、一致して歩むものとなりたいものです。それではともに祈りましょう。