聖書箇所;コリント人への手紙第一3:18~23/メッセージ題目;自由のための二つの警告
先週私たちは、私たち聖徒は神の建物であると学びました。礼拝堂という目に見える建物のことを言っているのではなく、パウロのような働き人がキリストという土台の上に建てた存在が聖徒、キリストを土台としているだけの価値ある献身で建てるべきなのが聖徒、そして何よりも、主ご自身を迎え入れた神の宮なのが聖徒です。
そのような存在とされていることを教えられなければならないのは、コリント教会がそれにふさわしい歩みをしていなかったからです。私たちも下手をすると、そのようなふさわしくない歩みをしてしまう、だから私たちは、みことばが何を語っているかをよく聴き、みこころにかなった教会形成に献身する必要があります。
今日の箇所を見てみますと、パウロは2つの警告を発しています。ひとつは「だれも自分を欺いてはいけません」、もうひとつは「だれも人間を誇ってはいけません」です。
コリント人への手紙は全体に、彼らコリント教会のレベルに合わせてやさしい表現が用いられています。しかし、この表現だけを抜き出してみると、パウロはちょっとわかりにくい言い方をしています。しかし、安心してください。わからないのは私たちが不勉強だったり、霊的に鈍すぎたりするからではありません。ほかならぬペテロが言っています。……その中には理解しにくいところがあります。……第二ペテロ3章16節にはっきり書かれています。わかりにくいからと不安がらなくていいのです。
しかし、わかりにくい内容を曲解するようで困ります。この第二ペテロ3章16節には続きがあります。……無知な、心の定まらない人たちは、聖書の中の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。……みことばをふさわしい教理どおりに理解していないならば、滅びてしまいます。いわゆる異端と呼ばれる人たちは、聖書を用いていても「キリストのからだなる教会」、すなわち、救いの恵み、永遠のいのちの恵み、天国の恵みを私たちとともに味わう人たちと言えないのは、彼らが正しい教理で聖書を解釈せず、聖書を曲解しているからです。
どうすればいいのでしょうか? 何よりも私たちは、この姿勢で聖書をお読みする必要があります。ヤコブの手紙1章、5節と6節です。……
みことばを理解する知恵は、神さまに求めるのです。神さまに求めるならば、私たちは礼拝でのみことばの解き明かしも、ふだん読むディボーションのテキストも、聖書や信仰に関する書籍も、より真剣に理解しようとするでしょうし、神さまはそのような人に、ふさわしい知識を与えてくださいます。それをしないと、いざというときに大風に吹かれて揺れ動く船のようになってしまいます。イエスさまの語られたとおりに表現を変えると、砂の上に家を建てた人のようになります。要するに、イエスさまという土台の上に根ざしていないのです。
前置きが長くなりましたが、「だれも自分を欺いてはいけません」という警告も、「だれも人間を誇ってはいけません」という警告も、それにふさわしい解釈を必要としています。どうか気分や雰囲気でわかったつもりにならないで、しっかり学んで、岩なるイエスさまの上に家を建てる人として、ともに成長してまいりたいと思います。
ではまず、「だれも自分を欺いてはいけません」の警告からまいりましょう。
18節のみことばを見てみましょう。……コリント教会の信徒は自分を欺いている、パウロはそう警告しています。どのように自分を欺いているのでしょうか?「この世で知恵がある」と思い込んでいる、ということです。
ここまでの一連の流れから、コリント教会の信徒たちは、「だれにつくか」ということで人よりも知恵がある、あるいは、自分は絶対的な知恵を得ている、と考えていることがわかります。パウロという大先生に教えられたから自分には知恵がある、ですとか、アポロという大先生に教えられたから自分には知恵がある、ですとか。
しかし、これもここまで述べられてきたとおり、パウロもアポロも、神の建物である聖徒たちを立て上げる「しもべ」にすぎません。本来、コリント教会がつくべきは、「イエスさま」であって、「パウロ」や「アポロ」のような、人間の働き人であってはいけません。
そのようなコリント教会の聖徒たちに、パウロは「自分を知恵のある者と思うなら愚かになりなさい」と語ります。しかし、彼らは知恵を最高の価値あるものとして求めるような者たちです。そういう者たちが、パウロの命じるように「愚か」になるには、どうしなければならないでしょうか?
19節のみことばです。……そうです。彼らが「知恵」と思っているものは、「神の御前で愚かである」と、徹底して認めることが必要です。そう認めることもみことばが根拠になっていて、パウロはここで、2つのみことばを引用しています。
まず、19節のほうのみことばから見てみますが、人間はどんなに自分に知恵があるように思えても、神さまはその知恵を用いて、かえってその者が知恵のない者のように振る舞わせます。
そして20節、人間にはいかに知恵があったとしても、それはしょせん、被造物の中から出てきた知恵にすぎません。創造主の知恵にははるか遠く及ばないものです。
この2つの真理の例として挙げられる聖書の記述があります。先週、マクチェイン式聖書通読の箇所になっていた、アブサロムの軍師だったアヒトフェルのことをご記憶でしょうか?
サムエル記は、アヒトフェルのことばは人が神に伺って得ることばのようだったと評価しています。相当な評価です。しかし、その知恵たるやどういうものだったかというと、エルサレムをあとにして落ち延びたダビデが王宮に残したそばめたちを、アブサロムに白昼堂々衆人環視のもとで寝取らせたような、悪魔のような恐ろしい知恵です。これで全イスラエルをアブサロムのほうになびかせたわけですから、ただごとではない知恵です。
その知恵を用い、アヒトフェルは作戦を立てました。この作戦のとおりにいったならば、ダビデは確実に死にました。それは、神さまがダビデのすえとしてイエスさまを生まれさせられるというご計画さえ水泡に帰するような知恵で、人間的には完璧な作戦であった一方で、悪魔的などす黒い知恵によるものでした。
しかし神さまは、ダビデがひそかにアブサロムの陣営に放ったフシャイの作戦をアブサロムが受け入れるように働かれました。結局、これほどの知恵者(ちえしゃ)だったアヒトフェルは、自らいのちを断つという悲劇的な結末を迎えました。まさにアヒトフェルは、反キリスト的な自らの知恵にとらえられて滅びたのでした。アヒトフェルにはむしろ、知恵がない方がどんなによかったかしれないとさえ言えそうです。
このような箇所をお読みすると、どんな知恵のある者も神さまの知恵には遠く及ばないことを思い知らされます。私たちはそれでも知恵ある者として振る舞いたいでしょうか?
主のみこころは、私たちが愚かであることを選択することです。
愚かであるということは、自分の知恵がむなしいことを認めるのと同時に、主こそがまことの知恵であることを認めることです。以前も学びました、第一コリント1章25節をご覧ください。……神の愚かさとは、イエスさまの十字架です。人は自分の知恵にしたがって、イエスさまの十字架など信じないし、信じたくもないというでしょう。しかし、それこそがつまずきとなり、神さまの前にへりくだって救いを得られるかどうかの境目となります。
そうです。自分を欺くということは、十字架という「神の愚かさ」によって救われたことにより、あらゆる「人間につく知恵」がむなしくされているにもかかわらず、この期に及んで「人間の知恵」に執着し、イエスさまを見失ってしまう、ということです。
このような愚かなことは、私たちもしばしば犯してはいないでしょうか? よく私たちクリスチャンがつい口にしてしまうことばですが、どこかの教会のことを話題にするとき、その教会の牧師先生の名前を挙げて、「だれだれ先生の教会」という言い方をしてはいないでしょうか? しかし、厳密に言えば、この言い方は正しくありません。教会はキリストのものであり、特定の牧師のものではありません。「だれだれ先生の教会」という呼び方をすると、まるでその先生の存在が、教会を教会ならしめているキリストにまさるかのようにしてしまいかねません。そういうことでは、あえて厳しい言い方をしますが、「私はパウロにつく」、「いや、私はアポロにつく」といって分裂した、コリント教会の幼い状態と五十歩百歩ということになってしまいます。
私たちは、イエス・キリストという岩なる土台の上に立てられた存在です。つまり、キリストのものです。父なる神さまがこのお方を、私たち聖徒の身代わりに十字架につけてくださった、それが神さまの知恵であった以上、その知恵を超える知恵はありません。その知恵を愚かだと決めつける者こそ愚かです。いわんや、この十字架によってもろとも神さまに贖われた教会を、人間的な知恵につこうとする党派心によって分裂させるなど、もっとも知恵のない愚かな行いです。
私たちは、イエスさまの十字架という知恵をいただいていることを、自分を欺かずに自分のものとして、その十字架の知恵によってすべて振る舞ってまいりましょう。この、私たちがひとつとなり、犠牲をもって隣人に仕える生き方は、この世のあらゆる知恵にまさる知恵、キリストの知恵を世に示すことです。
そのようにして自分を偽らない人に、主は豊かな祝福を与えてくださいます。ともにこの十字架の知恵を今週も、そしてこれからも求め、その知恵をもってこの世に生きる者とならせていただきましょう。
それでは21節にまいります。……次の警告は「だれも人間を誇ってはいけません」です。
人間を誇る、それはここまで見てくればお分かりのとおり、「あなたがたはパウロについているというが、パウロという人間を誇ってはいけない」、「同じように、アポロという人間を誇ってはいけない」ということです。
21節のみことばは続きます。「すべては、あなたがたのものです。」どういうことでしょうか? パウロやアポロのような教職者があなたがたを持っているわけではない、ということです。
22節に入ると、この論理はさらに具体的に展開します。……「私はパウロにつく」、「私はアポロにつく」、「私はケファにつく」などと分裂していたのが、コリント教会の現状だったわけですが、そのパウロやアポロやペテロは、あなたがたのものである、というわけです。これは誇張ではありません。ペテロは聖徒たちに向かって、あなたがたは王である、と語っていますし、使徒ヨハネも聖徒たちを指して、彼らは永遠に王である、と言っています。彼ら教職者は、その王なる聖徒たちに仕えるしもべであるわけで、したがって聖徒たちは彼らしもべを所有していると言えます。
いまは放送伝道の時代で、信徒たちは自分の霊的養いのために、手軽にパソコンやスマートフォンにアクセスして、福音放送の番組に耳を傾けますが、そのような番組は多くが、牧師たちの無給のボランティアで成り立っています。聖徒からお金を取っているわけではないのです。しかし聖徒はいつでもどこでも好きなだけ、そのような福音放送にアクセスして霊的に養われます。これは言ってみれば、聖徒が福音放送に関わる教職者たちの霊的財産を所有しているということです。
いえ、もっと根本的なことを言えば、私たちがいま聖書を手にしているということは、モーセに始まり、ヨハネに至るまで、みことばを取り継ぐということをもって私たちに献身者たちが仕えている、ということであり、さらに言えば、聖書が書かれて以来2000年にわたるキリスト教会の歴史において献身してきたすべての働き人は、いまこうして教会形成をしている主体である私たち聖徒のものである、ということになります。
私も今こうしてみなさまにお語りすることで、歴代の働き人たちの末席を汚(けが)させていただいているものですが、私はみなさまを所有する立場になどありません。水戸第一聖書バプテスト教会が「武井先生の教会」など、もってのほかです。このことについては、ぜひ今日みなさまにお配りした月報のコラムをお読みいただけたらと思いますが、ともかく、私はみなさまを所有する者ではなく、むしろ反対に、みなさまに所有していただいている者です。このことを私は片時も忘れずにお仕えしたいと願っています。
しかし、聖徒たちが所有するのは、霊的教訓を施す教職者、献身者にかぎりません。世界であれ、ともあります。これは宇宙万物、森羅万象です。ローマ人への手紙8章28節によれば、神さまはすべてを働かせて益としてくださるお方です。文字どおり、すべてです。そのような宇宙万物、森羅万象を、私たち聖徒が所有しているとは、なんと素晴しいことでしょうか。
いのちであれ、死であれ、ともあります。ピリピ人への手紙1章20節と21節をご覧ください。生きるにせよ、死ぬにせよ、キリストの御名があがめられて、主のご栄光が顕される、これが私たちクリスチャンの生き方です。私たち人間は、この地上において、生きるか、死ぬかのどちらかですが、そのどちらであれ、私たち聖徒のものだというのです。私たち聖徒は、世の人たちが執着している「生きること」からも、世の人たちがひたすら怖がっている「死ぬこと」からも、自由な存在とされていることを、しっかり受け止めてまいりたいと思います。
現在のものであれ、未来のものであれ、とあります。ここでは「過去のもの」とは語られていません。過去は変えられないものであり、つまりは、私たちの責任の及ばないものです。しかし、私たちがいまを、また未来をどう生きるかは、神さまが私たちに託してくださった事柄であり、この「現在」、また「未来」において主が私たちを用いられ、主が私たちをとおしてみわざを行なってくださるゆえに、私たちは「現在」また「未来」が私たちのものとされていることを知るのです。過去は変えられません。しかし、現在と未来は私たちが変えられます。喜んでいいのです。確信を持っていいのです。
しかし、23節に入りますと、そのようにすべてを持つ私たち聖徒のことを、やはり所有しておられる方がいらっしゃることを、私たちは教えられます。「あなたがたはキリストのもの」、そうです、私たちは、イエスさまが十字架の血潮をもって買い取ってくださった存在、すなわち、イエスさまのものです。私たちがイエスさまのものであるということは、イエスさまが私たちのかしらとなられ、私たちがイエスさまのからだにしていただいた、ということです。
そして、キリストは神のものです。イエスさまは神のみこころにどこまでも従順であられ、実に十字架の死に至るまで従順であられました。神さまはどのようなお方でしょうか? ローマ人への手紙11章36節です。……イエスさまの十字架は、神から発し、神によって成り、神に至る、神の栄光を顕すできごとでした。同じように、神さまは被造物にとってすべてのすべてであられ、私たち聖徒もまた、神から発し、神によって成り、神に至る、神の栄光をとこしえに顕す存在です。
そのように、私たち聖徒をキリストにあってご自身の民として所有していらっしゃる神さまは、私たちにすべてのものを所有させてくださいました。そのような私たちがどうして、だれか人間に所有されるべきでしょうか。私たちがだれかに属しているからと、その人を誇るべきでしょうか。私たちが誇るべきは、神さまだけです。
私たちは自分が思っているよりも、もっと自由な存在です。私たちはだれか人間に所有されている存在ではなく、むしろすべてを所有する存在です。私たちを所有しておられるのは、イエス・キリストだけです。私たちはもしかして、不自由さをどこかで感じていないでしょうか? 私たちはイエスさまとの個人的な関係の中で、また、イエスさまとの共同体全体との関係の中で、自由を味わいましょう。
しばらく祈りましょう。私たちはだれか人に自分自身を所属させてはこなかったでしょうか? イエスさまにだけついて、ほんとうの自由を味わいますように。