聖書本文;コリント人への手紙第一5:1~13/メッセージ題目;「罪を犯さない歩みとは」
先週学びましたヨハネの福音書8章のみことば、姦淫の女性をイエスさまがお赦しになった箇所ですが、あのときイエスさまは最後に女性になんとおっしゃったでしょうか? そうです。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
このみことばからはいろいろ考えられるでしょう。イエスさまに罪を赦していただいたならば、もう罪が赦されたのだから何をやってもいい、というわけではない、罪を犯さない生き方をしなければならない……しかしそれなら、どうすれば罪を犯さないようになれるのだろうか……。
今日お読みした箇所、第一コリント5章のみことばは、このように「これからは決して罪を犯さない」生き方をするうえで大事なヒントを私たちクリスチャンに与えてくれています。「決して罪を犯さない歩み」、それは何か、今日ともに学んでまいりたいと思います。
第一コリントは5章に入りまして、急展開します。パウロは思い上がっているコリント教会の罪深さを4章までにおいて指摘していますが、5章はかなり具体的なその罪の内容の指摘から始まっています。1節のみことばです。……これは、かなりショッキングな事実ではないでしょうか? もちろん、この「父の妻」は、「実の母親」のことではないでしょう。そうならそうと書くはずです。母親以外の別の父の妻といったところでしょう。それでも、これは「ありえない」話です。神の民としての律法を持つユダヤから見れば整っていない異邦人、その異邦人の社会にさえないような話であると、パウロは呆れかえっています。
もし、コリント教会が主のからだなる教会であるという自覚があるならば、このような目に見える罪を犯しているような者に対しては、それ相応の措置を講じてしかるべきです。このように、教会が罪ある信徒に対して懲罰の手段を講じることを「戒規」といい、たとえば主の晩さんにあずかることが禁止されたり、もっと重い懲罰の場合は「会員権の停止」、さらには「除名」となったりします。この「戒規」の持つ意味については、あとで詳しく扱います。
コリント教会の場合も、このような度を越した姦淫をやめようとしない者に対し、しかるべき「戒規」を施すべきでした。しかし彼らは何をしていたのでしょうか? 2節のみことばです。
……彼らはそのような「罪人」の存在を悲しむこともありませんでした。では、何が思い上がっていたことだったか、というと、それは、どんな罪も、ふさわしくないことも許される、と、やりたい放題のことをしていた、ということです。
教会はきよい神の民であると同時に、罪人の集まりです。放っておくとこのようなことにもなりかねません。しかしパウロは、コリント教会を監督する者の立場から、このように罪を悔い改めない者に対して、しかるべき措置を講じました。3節から5節です。……さばいた、ですとか、サタンに引き渡した、とあります。これはどういうことかというと、この罪人を教会から除名した、ということです。
パウロはここでこの「罪人」の名前を具体的に上げてはいませんが、この手紙を受け取ったコリント教会は、ああ、この人はコリント教会からすでに除名されているのか、と、それ相応の手はずを整えることになります。それは、罪人ひとり除名できない程度の自浄作用しか持ち合わせていないコリント教会に対して、パウロがそこまで面倒を見なければおけなかったということですが、この「除名」ということに関しては、もうひとつの側面があります。
それは、パウロのような使徒的な監督のもとに教会をつくっているわけではない、こんにち世界中に存在するすべての教会に言えることですが、罪を犯している人は第一に「神の前に」罪を犯している人です。そのような者は、教会という交わりの中でたとえそのひそかに犯している罪がばれていなくても、神さまの御前にはすべてお見通しです。神さまはそのような罪人に対し、それ相応のお取り扱いをされます。
そのような罪人は、神さまの領域である教会の中にとどまるよりも、サタンの領域であるこの世に出ていくことを選びます。つまり、教会から除名されるということは、除名する側の神の教会が意地悪だったり、冷たかったりするのではなく、その「罪人」の望むままを行なってあげている、ということでもあります。
しかし、そのような世間は、サタンが支配している以上、彼らにとって決して幸せになれる場所ではありません。多くの傷を負いますし、心とからだが病みもします。そうなったとき、その人は、まるで放蕩息子が父の家に帰る決断をするように、御父のもとに、御国に、帰りたいと願わないでしょうか? そのことが、終わりの日に救われるうえで主イエスさまに対する信仰を働かせるうえで原動力とならないでしょうか? 除名という、この冷たいことばの響きを持つこの行為は、そう考えると、罪人をほんとうの悔い改めに導くための、どこまでもその人のために存在する有難い制度であるわけです。
そして、この「除名」ということには、もうひとつの重要な役割があります。6節から8節です。……私たちはイエスさまの十字架の血潮、完全な罪の赦しによって、罪という名の古いパン種が取り除かれた、新しいパン生地です。
古いパン種、ですが、これは、「カビ」ですとか「バイキン」といえばいいでしょうか。パン生地は悪い菌がつくと生地全体がだめになるので、古いパン種、つまり悪い菌を徹底して取り除く必要があるわけです。
そういうわけで「除名」ということには、教会という共同体をきよく保つという機能もあります。教会の中で不品行などの悪い行いを悔い改めない人が大きな顔をしているならば、ああ、自分もそれくらいのことはしてもいいのか、と考える人が、必ず出てきます。そのようにして悪い行いは伝染し、やがて教会は取り返しのつかないほど罪に汚染されることになります。そうならないためにも、罪や悪というものに対して教会は、徹底して厳しい態度で臨む必要があるわけです。
しかし、もっと積極的なことを言えば、罪を取り除くという以前に、自分たちが「誠実と真実の種なしパンで祭りをする者」という自覚をもって礼拝をし、また、教会形成をすることが大切です。私たちはイエスさまの十字架によって、完全に罪が取り除かれている、教会とはまさしく、この信仰告白の上に立つ共同体です。
先週学んだ姦淫の女のことを考えてみましょう。あのとき彼女は、さばき主であるイエスさまの前で、石を投げつけられていのちが果てる瀬戸際にいました。死をもって償うほどの罪を犯したのだから、仕方がなかったのでした。そのさばきの座はまた、人の前に自分がひそかに犯した罪がさらしものになるという、恥にまみれたときとなりました。
それが赦され、死ぬことがなかったのは、イエスさまが赦してくださったからです。その赦しは、神の愛と神の義を同時に実現した、イエスさまの十字架につながるもので、まさしく人は、イエスさまの十字架によってこそ罪が赦され、神の民となることを象徴していました。
この女性に対してイエスさまが「これからは、決して罪を犯してはなりません」とおっしゃったことは、完全に罪赦されて新しいパン生地になった者としてふさわしく生きなさい、ということです。その生き方を目指していくならば、姦淫のような罪にわざわざ身をさらすことなどなくなっていきます。
新しいパン生地、誠実と真実の種なしパンとしての生き方をしていけるならば、罪を嫌われる聖霊なる神さまが私たちのうちに住んでおられるゆえ、罪から自然と身を避け、足が遠のくようになっていきます。こうして私たちは、聖い生き方を全うしていくようになるわけです。
つまり、「決して罪を犯さない」生き方とは、ひとつひとつ生活の細かいところ、重箱の隅をつつくように罪を避ける、そのような律法主義的な生き方から生み出されるわけではなく、私たちをまことに罪から救い出してくださった、イエスさまとの関係によって、聖霊の交わりによってはじめて可能になる生き方であるわけです。私はイエスさまによってきよくされている、赦されている、この自覚が何よりも大事です。
さて、そのように聖くされている私たちは、それではほかの人たちとの付き合いをどのようにすべきか、それもみことばは語っています。まずは9節と10節をお読みしましょう。
……パウロは確かに、この第一コリント以前の書簡で、淫らな者とつき合うな、とコリント教会に警告しました。しかしそれは、この世の罪人たちとつき合うな、という意味ではないと語ります。
そもそも、コリント教会は、神さまの基準から見ればとんでもない罪人たちがキリストの救いにあずかってできた共同体です。その救われた恵みを忘れ、自分たちで内向きに固まってしまったならば、もはや宣教ということはできなくなります。この世から出ていく、つまり、早く天国に行きたいと思うばかりになったり、この世と別れた修道院のような生活をするようになったりするしかなくなります。しかしそうなったら、コリントにおいてもはやそれ以上の宣教の拡大は見込めなくなります。
私たちもそうです。私たちもこうして世から救い出していただいた者なので、もうこの世の人たちとつき合いたくない、と思うでしょうか? それはわかりますが、自分たちどうしのつきあいに凝り固まっていたら、どうしてこの世の人たちはキリストに出会うことができるでしょうか? 私たちは、たとえ自分たちの目に、彼らがひどいことをしている罪人のように見えても、彼らの中に入っていき、彼らの隣人になろうとすることをやめてはならないのです。
私たちにとっては、たしかに彼ら罪を犯している人たちはつき合いづらい人たちと感じかもしれません。しかし、彼らとつき合ったら、私たちにとっての神さまとの関係は侵されるのでしょうか?
それほど、私たちにとっての神さまとの交わりはその程度の薄いものなのでしょうか? 私たちがほんとうに神さまとの交わりを持っているならば、堂々と彼らの中に入っていってしかるべきなのではないでしょうか? あるいは逆に、彼らとの交わりに入るのがみこころと思うならば、それに耐えられるだけの交わりを神さまとの間に保つべきなのではないでしょうか?
いずれにしましても、問題は私たちにとっての神さまとの交わりです。そして神さまが私たちのことを、神さまとの交わりに彼ら、今は神さまの基準を外れている人を招くべく用いてくださるように、私たちは祈る必要があるのではないでしょうか? 今はまだ、みことばから見ればふさわしくない行いの中にいる人も、もしかしたらその行いを悔い改め、まったくきよくされて私たちとともに未来の水戸第一聖書バプテスト教会を形づくる人であるかもしれないのです。
しかし、罪というものはイエスさまの十字架の血潮によって消されるべきものです。私たちクリスチャンにとってはなおさらそういうものです。それなのに、罪をイエスさまの十字架の前に差し出さない人はどうなるでしょうか? 11節から13節です。
特にこの11節の罪のリスト、このような罪を犯して恥じることをしない者は、たとえ教会の中で「兄弟」と呼ばれていようとも、クリスチャンとしての扱いを受けるべきではない、ということです。「一緒に食事をしてもいけない」とは、主の晩さんにともにあずからない、ということ以上に、教会で食事をするような親しい交わりをしてはいけない、ということであり、極めて厳しい命令です。
しかしこの、「淫らな者」、「貪欲な者」、「偶像を拝む者」、「人をそしる者」、「酒におぼれる者」、「奪い取る者」……このような、教会から排除すべき罪をひとつひとつ厳密に適用するとどうなるでしょうか?
イエスさまは、だれでも情欲をいだいて女性を見る男性は、すでに心の中で姦淫を犯していると喝破されました。このみことばの基準が適用されたら、果たして何人の信徒が生き残れるでしょうか? コロサイ書3章5節によれば、貪欲が偶像礼拝であると語られています。自分は神社仏閣を参拝しないし、神棚や仏壇を拝むこともしない、お葬式で焼香もしない、という人でも、(もちろん、それも大事ですが)スマホやテレビなどの中毒になっていたら、それは「貪っている偶像礼拝」になりはしないでしょうか。お酒とありますが、アルコールの入った飲み物を飲まなくても、体に悪い飲み物をがぶ飲みしていたら五十歩百歩です。「奪い取る者」も、強盗のような腕ずくの暴力ででなくても、こそこそと人のものを取るなら同じことです。そうだとするとみんな、教会から排除されてしまう人間です。
私たちはそのような、教会から排除されてしまう罪人である。私たちには第一に、そのような自覚が必要であり、だからこそ私たちは、そのような自分には、神の民、キリストのからだなる教会に加えていただけるだけのよいものは何もないことを謙遜に認め、キリストの十字架にすがる信仰を増し加えていただくのみです。
人の罪を取り扱えるのは、そのように自分たちが赦された罪人であるという前提から可能なことです。本来私たちは、人の罪などさばく資格のないものです。しかし神さまは私たちの罪を赦してくださったのと同時に、キリストのからだなる教会の中から罪を取り除く権限を与えてくださいました。私たちに与えられたこの権限は、お巡りさんがその身を守るために身に着けているピストルはまず撃ってはならないのが原則であるように、用いる必要がないならば用いないことが原則です。しかし、どうしても私たちがきよくあるために必要とあらば、私たちは罪を犯した人を教会から除名することも時にすべきことになります。
私たちが罪赦されてきよいパン生地とされているということは、そういうことです。私たちの罪深さを思うならば、人をさばくなんてことはできない、と思うでしょうか? しかし、私たちの罪はイエスさまの十字架に釘づけにされています。私たちは罪が取り除かれた者として、これ以上自分たちの中に罪を堂々と存在させるようなことをしないようにしなければならないのです。それが、私たちをきよくしてくださった神さまのために私たちが果たすべき責任です。
それでも私たちは、考えなければならないことがあります。さばく側に立つ私たちもまた、本来ならば罪人ゆえにさばかれて、キリストのからだなる教会のひと枝から切り落とされるべき存在であった、ということです。私たちは今、だれかを除名しなければならないようなきびしい現実に置かれているわけではありません。しかし、自分は本来ならば主のからだなる共同体から切り落とされてもしかたのない罪人である、という自覚は、つねに持っている必要があるのではないでしょうか?
それでも、私たちは切り落とされません。なぜでしょうか? イエスさまの十字架の愛のうちにとどまっているからです。「これからは、決して罪を犯してはなりません。」イエスさまは、罪赦された私たちに言ってくださっています。私たちは教会の中にとどまりたいならば、イエスさまの愛のうちにとどまる者、すなわち、イエスさまの赦しのうちにとどまる者として、教会という共同体にとどまる必要があります。
それでも、教会という共同体に背を向けてしまった人はどうなるのだろう? あの愛する兄弟姉妹も背を向けてしまったが? 私たちはそういうことも思いますでしょうか?
しかし、除名のほんとうの目的が悔い改めにあることはさきほどもお語りしたとおりです。自らを除名するような行動に出て、もはや地上の教会の交わりに加わることをしない兄弟姉妹も、いずれはこの世の悪の勢力の中で、かつての教会生活の中で受けていた恵みの素晴らしさ、真実さに立ち帰り、悔い改めて帰ってくることを、私たちは祈るべきです。
教会にとどまる私たちにせよ、教会から背を向ける兄弟姉妹にせよ、共通していえる大事なこと、それは「悔い改め」です。私たち、イエスさまの十字架を信じて救われた者には、「悔い改め」によって、神さまとのより強いきずなに結び直される恵みがつねにある、これほど感謝なことがあるでしょうか。
「罪を犯さない歩み」、それは、悔い改めたが最後、もう二度と罪を犯さない、もし罪を犯したらそれでおしまいだ、ということでは絶対にありません。ヨハネの手紙第一、2章1節をご覧ください。……神さまの恵みによりすがって、罪を犯さないように導いていただく、しかしそれでも罪は犯す、でもそれでおしまいではない、すべての罪を赦してくださるイエスさまがいてくださる……。
私たちがもし、罪を犯すな、といわれっぱなしだったら、絶望するしかありません。しかし私たちがもし、いつもイエスさまとともに歩み、たとえ罪を犯しても悔い改めて主との関係を結び直すならば、主は私たちのことを、罪を犯していない人として見てくださるのです。なんという大きな恵みでしょうか。この恵みによりすがって、今日も赦しを与えてくださる主に感謝しつつ生きてまいりましょう。ではお祈りいたします。