ルカの福音書1章5~17節 「クリスマス前の自己点検」
物事には、前触れとか、準備というものがあります。偉大な人物が登場する前に、人々がふさわしく受け入れられるように、備えや予告をします。たとえば、大名行列は奴さんたちで、王様のパレードの鼓笛隊で、大相撲で横綱が登場する時も、太刀持ち露払いが先頭となります。
そのことはクリスマスも同様です。多くの神の器が、イエス様が来られる準備に用いられました。乱暴に言えば、旧約の預言者たちは、奴さんであり、鼓笛隊であり、太刀持ち露払いです。そして、最後の仕上げ役が登場します。それがバプテスマのヨハネです。彼こそが、人類がクリスマス、イエスキリストのご降誕を迎えるための最後の仕上げをしたのです。
今、私たちは、クリスマス迎えようとしています。自らが今年のクリスマスを迎える備えとして、この朝はバプテスマのヨハネに学び、倣いたいと願います。この箇所にはバプテスマのヨハネの誕生とその働きが預言されています。17節によれば、その中心は主の前触れをする事、民の心の向きを変えること、すなわち整えられた民を主の前に用意することでした。
そのために、遣わされたバプテスマのヨハネがどのような人物であったかが15節と16節に記されています。今からの時、「クリスマス前の自己点検」と題しまして、その15節と16節の御言葉を中心にみ言葉をお取次ぎします。バプテスマのヨハネのありようを基準に、三つのポイントで、自己点検をしながら、クリスマスに向けて自らを備えてゆきたいと願います。
~本論A~
では、さっそく一つ目です。「クリスマス前の自己点検」その一つ目は、「主の前に優れた者かどうか」です。人の前ではなく、主の前です。人の評価でなく、主の評価を第一に生きようとしているかどうかです。それは15節最初に一文に書かれています。「その子は、主の御前に大いなるものとなるからです。」
「彼は主の前に大いなる者となる」とあります。ここには、ヨハネが人にどう評価されるかは書かれていません。それほど大切なことではないからです。一方で、はっきりと神様からは、大いなる者と評価されると約束されているのです。イエス様もマタイの11章の中で「女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネより優れた人は出ませんでした」とおっしゃっています。
それでは、神様の前に大いなる者とはどういう人でしょう。人ではなく主の評価に生きるとはどのような歩みなのでしょうか。開かなくて結構ですが、同じルカの14章に分かりやすいたとえが登場いたします。
イエス様はおっしゃいまいした「結婚の披露宴に招かれたときには、上座に座ってはいけません。(中略)招かれたなら、末席に行って座りなさい」と。このたとえ話のポイントはただの祝宴でなく、婚礼の席である事です。今の日本でもそうですが、披露宴の席はお客が選んで決めることはできず、招待主の側が一方的に決めます。
ですから、末席に着くとは、招待主の決定に委ねることを意味します。末席で招待主から、もう少し前へと言われたら、その席に着くのです。つまり、自分で地位や立場を選んで得ようせず、主に委ねなさいという事です。このたとえ話の結論は「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする物は高くされ」です。低くするとは、自らを仕える者とするという事です。
まず末席に着いて、それから案内される席に着きなさいという事は、主が召して下さった地位や立場にあって、それにふさわしく仕えなさいという事です。そのような者を主は高くして下さると聖書は教えます。そのような人物こそが主の前に大いなる者なのです。主の召しに従い、召された立場で忠実に仕える、これこそが主に評価される生き方です。
バプテスマのヨハネは、実に召された立場に忠実な器でした。ヨハネの福音書によれば、使徒ヨハネとアンデレは、そもそもバプテスマのヨハネの弟子でした。ある時、バプテスマのヨハネがイエス様を指差して「見よ。神の子羊」と言うと、二人はイエス様の弟子になってしまいました。
普通なら、面白くないでしょう。弟子に去られたのですから。しかし、彼は、それでよしとしたのです。なぜなら、イエス様を指し示し、人々をイエスに導くのが彼の役割、使命であったからです。イエス様が栄えるためなら、自分は衰えてよい、忘れ去られてよい、省みられなくてよいと考えていたからです。あくまで、中継ぎ、橋渡し役に徹していたのです。
最後に彼は、主の正義の故に殉教しました。正しくない結婚をしたヘロデ王の罪を責め、それが原因となり処刑されました。まさにバプテスマのヨハネは自分の立場で忠実に仕えきった器です。神の前に優れた者であったのです。
以前、ラジオで昭和歌謡を代表する作詞家である中西礼さんがこうおっしゃっていました。「僕は職業に貴賎はないと思うのです。むしろ、それぞれの職業の中に貴賎があると考えています。作詞家が他の職業より立派なく、他の職業と同等だと思うのです。ただ、作詞家にもいい作詞家と悪い作詞家がいます。サラリーマンにもよいサラリーマンと悪いサラリーマンがいます。魚屋さんにも良い魚屋さんと悪い魚屋さんがいます。職業それぞれの中に貴賎があると思っています。」
それを聞いて、神の前での評価も同じだなあと思いました。伝道者が一般の職業より優れた職業ではありません。人それぞれ主に召された職業や立場が最高なのです。そこに貴賎も優劣もありません。ただ、それぞれの職業や立場に貴賎があるのでしょう。
職業や役割などの召しにふさわしく、それぞれ置かれた立場で誇りをもって忠実に仕えているかどうか、主はそれをご覧になり、私たちを評価しておられるのです。私たちは、自らの座るべき席の決定を主に委ねるべきです。婚礼の席のように召して下さった方が一方的に決めて下さった席に座るのです。そして、そこで忠実に仕えるのです。それが神の前に優れたもののあり方です。
ヨハネは皮衣、野蜜とイナゴ食ばかり食べていました。ヨハネは当時の宗教家たちからは、「飲まない、食べない」ので気が狂っているという評価を受けていました。つまり変人扱いされていたのです。バプテスマのヨハネに対する宗教界の評価は「奇人、変人。狂人」でしかありませんでした。しかし、主の前に彼は大いなる者だったのです。
世俗化したこの社会では人間の価値は、その所有によって測られます。つまり、何を持っているかで人間の価値が測られるのです。財産、学歴、職歴、家柄、社会的地位、能力、資格、美しい容姿、それらを持っている人間が優れた者とされるのです。
しかし、主の前で優れているかどうかは所有に関係ありません。ヨハネのようにたとえ、所有がゼロであったとしても、与えられた立場で忠実に仕える者を主は優れたものと評価して下さるのです。そして、そのような人物こそがクリスマスの最後の仕上げに用いられたのです。
聖書は言います。「彼は主の前に大いなる者となるからです」。クリスマス前の自己点検、その一つ目は「主の前に大いなる者であるかどうか」です。お互いは、主の前にどうでしょうか。人の前での評価は二の次です。クリスマスを前にして、お互いは、主が召された席で忠実に仕えたいと願います。それぞれの遣わされている家庭、職場、学校、地域、教会において、忠実に仕え、神様の前に優れた者としてクリスマスを迎えられたらと願います。
~本論B~
続いて二つ目です。「クリスマス前の自己点検」、その二つ目は、「自らの内側はどうか」ということです。お互いは、クリスマスを迎えるにあたり、バプテスマのヨハネを模範とし、「自らの内側はどうか」を点検したいと願います。それは15節の後半に書かれています。15節の後半の一文をお読みします。「彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ、母の胎にいるときから聖霊に満たされ」
「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」とあります。バプテスマのヨハネは、神様の前に大いなる者でありました。しかし、それは彼の肉の努力や能力によるものではありませんでした。彼の内側は常に聖霊に満たされていたのです。私たちも神様の前に優れた者であるためには、聖霊に満たされている事が大切です。
では、聖霊に満たされるとは、この文脈では、どういうことでしょう?15節にそれをうかがわせる内容があります。「ぶどう酒や強い酒を決して飲まず」とあります。ここでは、聖霊に満たされる事と、お酒を飲む事、飲酒が呼応関係で対称的に書かれています。
聖霊とお酒と言えば、エペソ5章18節です。「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」とあります。聖霊に満たされる事とお酒に酔う事とは類似性があることを、ルカの1章もエペソの5章も示唆しています。
お酒と他の飲み物は決定的に違います。お酒の特殊性は、その液体が、飲んだ人の考えや、、判断、行動に影響が及ぼすことです。は酒で取り返しのつかない失敗をすること、人生を棒に振る場合もあります。お酒というものはただの液体、飲み物に過ぎませんが、時と場合によっては私たちに計り知れない大きな影響を与えます。
聖霊も同様です。私たちが救われて聖霊を内に宿すと人格に影響が起こります。考え方、物事の判断、実際の行動や生活、そして人生そのものに大きな変化が与えられます。そして、さらに聖霊に満たされるとその人は聖霊から支配的な影響を受けるのです。
ちょうど、お酒に酔った人が自分の意思が働かない程、お酒に支配されてしまうように、聖霊に満たされると、その影響が人格と生活の全分野に支配的に及ぶのです。
もちろん、聖霊は力の霊です。宣教の力を与える霊です。しかし、聖霊を満たされることを元気が出る栄養ドリンクのように考えては、一面的になってしまいます。 なぜなら、聖霊は御人格をお持ちだからです。三位一体という人格のお一人なのですから、聖霊に満たされる時、私たちは聖霊の力を受けるだけでなく、聖霊から人格的な影響を受けるのです。
普段の人間関係でも、私たちは人と交わるとその人の人柄に感化されます。「朱に交われば赤くなる」と言う通り、人間は交わる相手から人格的影響を受けます。そのように聖霊に満たされるとは聖霊という御人格に支配的影響を受けることを意味します。
主なる神様とお交わり、お従いする歩みの中で、聖霊に満たされ続けていくのです。私たちが御言葉を聴き、それに従い歩むという神様のとの人格関係の中で、祈りという神様との会話の中で私たちは、聖霊というご人格に影響を受けます。さらに、人生の運転席を自分から神様にお譲りして歩み続けるなら、いよいよ聖霊に満たれた歩みがあるのです。
では、聖霊の人格的影響とは具体的にはどのようなものでしょう。聖霊は人格ですからいわゆる、知、情、意があるのです。知性、感情、意志をお持ちです。ですから、聖霊に満たされると知情意に影響が現われます。
たとえば、知性が影響を受けますと物事の考える基準が聖書になります。自分の考え、自分の損得、自分の好き嫌いでない。聖書の基準で判断します。聖書は聖霊が人間に感化を与えて書いたものです。聖書の作者は聖霊ですから、聖霊に満たされると聖書的に物事を考え、判断するようになります。
感情も同様です。聖霊には感情があります。「聖霊を悲しませてはなりません。」とある通りです。聖霊に満たされると感情面、情緒面が変化します。喜怒哀楽の内容が代わるのです。自分の喜怒哀楽は二の次になり、神様と隣人のための喜怒哀楽に変わるのです。自分ために喜び、怒り、悲しみ、楽しんでいた者が神様と隣人のために喜び、怒り、悲しみ、楽しむようになるのです。私たちの感情が自分中心から神様中心と隣人中心へと変えられるのです。
意志においても同様です。何のために行動するか、その人の判断や行動の動機は何か。聖霊に満たされる時、それらが自分の都合や損得、好き嫌いから、神と人への愛に変えられるのです。損得と欲、都合と自分の好き嫌いで生きている者が神と人とを愛を動機としていきる者にされるのです。
聖書は言います。「彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ、母の胎にいるときから聖霊に満たされ」。私たちが神様の前に大いなる者として歩みためには、聖霊に満たされる事が大切です。「クリスマス前の自己点検」二つ目の点検項目は、「自らの内側はどうか」です。
クリスマスを迎えるにあたって私たちはバプテスマのヨハネにならいましょう。聖霊に満たされる事を切に求めましょう。神様との深い交わりの中で、また、み言葉に真実従って歩みを通して、聖霊に満たされつつ、クリスマスをお迎えしましょう。
~本論C~
最後に三つ目です、「クリスマス前の自己点検」。その三つ目は、「人々の間にあってどうか」ということです。お互いは、クリスマスを前に、人々の間にあって、自らはどうかを自己点検したいと願うのです。バプテスマのヨハネは神様の前に大いなる者でした。自らのうちは聖霊に満たされていました。では、人々の間にあってはどのような人物であったでしょうか。そのことは16節に書かれています。16節をお読みします。「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。」
ヨハネは多くの人々の中にあって、彼らを主なる神様に立ち返らせました。彼は自分を通して人々が神様に立ち返る事を願い、そのために生きた者でした。クリスマスを迎えようとしている私たちも、この日本の社会にあって、人々を主に立ち返らせる者でありたいと願うのです。
ある書物で読んだのですが、実は、バプテスマのヨハネには、大変興味深い伝説が残されています。バプテスマのヨハネが処刑され、埋葬された後も、体の一部は腐敗しなかったというのです。その後、火で焼いてもその部分だけは焼け残ったという伝説です。多分、これは作り話でしょうが、皆さん、それは、体のどの部分だと思いますか。
正解は、彼の人差し指です。なぜ、そのような伝説が生まれたのでしょうか。それは彼の人差し指が聖なるものだったからです。彼の人差し指は、その名の通り、一人の人物を指していました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」とイエス・キリストを指し示していたのです。
バプテスマのヨハネはキリスト教の伝統では「指し示す指」と別名呼ばれているそうです。今風に言えば「親指トム」ならぬ「人差し指ヨハネ」となるでしょう。彼の存在自体が人差し指だったのです。バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示すために生き通し、そしてそのために文字通りいのちをかけた神の器でした。
人類がクリスマスを迎える最後の仕上げに用いられた神の器、バプテスマのヨハネの人生を私なりの表現で言いますなら、「矢印人生」と言えるかと思います。「矢印人生」です。彼の存在は矢印でした。矢印の使命は自分を見てもらう事ではありません。自分を見てもらい、それを通して矢印の先を見てもらう事です。そして、矢印の先に進んでいただく事です。
登山者が山で決してしてはならない悪戯(いたずら)があります。その一つは、山道の矢印の向きを変える事です。「こちらがふもと」という矢印を反対に向けたらどうなるでしょう。それは、登山者の生死に関わることです。
私たちは皆人差し指です。クリスチャンの人生は矢印人生です。なぜ、私たちは救われてすぐ天国へ行かないのでしょうか。それは、この世に留まって一人の方を指し示す使命があるからです。私たちが矢印なら、私たちがどう歩むかは、周りの人々にとって永遠に関わります。
私たちが矢印として、どちらを指しているかで、私たちを見ている人々は永遠の命に向かう事もあれば、永遠の滅びに向かうこともあるでしょう。未信者の方々は時に、クリスチャンたちの生き様を見て神様に心向けるか、神様に背を向けるか決めるのです。そうです。時に私たちのあり方が、人の永遠を二分するのです。
そのように聞くと私たちの多くは自信を失います。自分はそんな立派なクリスチャンじゃない、そんな重い責任負いきれない、期待が大きすぎると思います。しかし、皆さん、主にあって自信を持って下さい。矢印は方向が命、です。形や材質は二の次なのです。正しい方向さえ、指し示していれば、十分、その役割を果たすことができるのです。
こんなお話をお聞きしたことがあります。クリスチャンの新入社員がいました。ある日の朝のこと、彼は、寝坊をして遅刻をしていまいました。彼は職場に着くなり、多くの上司や先輩の前で「遅刻してしまいました。すいません」と大きな声で謝りました。
それを見た上司たちは言いました。「一言も言い訳もせず、素直に謝るなんて、そうそうできることではない。彼はクリスチャンだそうだね。やっぱりクリスチャンは誠実だね。」なんと遅刻したことを通して彼の評価は逆に上がってしまったのです。そして、矢印として、会社の上司や先輩にイエス様の方へ眼を向けさせることができたのです。
無遅刻無欠席の優等生でなければ、証しにならない、そんなことはありません。神様は、時には私たちの失敗や欠点さえも用いて、矢印の働きをさせてくださるのです。ですから、どうか自分を見て失望しないでください。
お互いは一流デザイナーの手による高級ブランド矢印でなくてもよいのです。純金性の何万円もする矢印でなくてもよいのです。木の枝を削った不格好な矢印でよいのです。ダンボール箱を切っただけの粗末な矢印でも十分です。矢印は方向が命です。ただ、指し示す方向だけが正しいなら、その矢印は神様が用いて下さるのです。
清く正しく美しく、模範的なクリスチャンでなければ指し示し得ないか。そんな事はありません。神様は私たちの弱さや足りなさまでも用いて下さり、私たちを矢印として働かせて下さるのです。
弱い者が主にすがり付く姿を通して、人々はその信仰者の内に神様を見るのです。失敗だらけクリスチャンが、神様に真実に悔い改め、立ち上がりもう一度歩むそのことの中にこそ、周囲の人々は神様が生きて働いておられるのを知るのです。
「クリスマス前の自己点検」、その三つ目は、「人々の間にあってどうあるか」です。クリスマスを前にお互いがバプテスマのヨハネのように、イエス様を指し示す者でありたい、多くの子らを主に立ちかえらせる者でありたいと願います。
~結論~
この朝は「クリスマス前の自己点検」と題しまして、バプテスマのヨハネのありようから三つのチェックポイントを見てきました。クリスマスに向かう今こそ、今日の御言葉の前に自己点検をしてみましょう。み言葉の前に自らを省みたいと願います。お互いは、主の前にどうでしょう。自らの内側はどうでしょう。人々の間にあってどうでしょう。
アドベントは待ち望みの時であり、また、悔い改めの時でもあります。悔い改めは罰ではなく恵みです。悔い改めとは自分を責めることではありません。間違いを認めて、正しい方向へと軌道修正することです。罪を悲しむことを含みますが、それは大きな恵みです。なぜなら、罪を悲しむことを通じて、神様は私たちを、希望と喜びに導かれるからです。そうです。お互いは、悔い改めたなら、希望と喜びをもって、主イエスをお迎えし、そのご降誕をお祝いいたしましょう。
クリスマスを迎える者として、バプテスマのヨハネに倣いましょう。まず、人前ではなく、主の前での評価に生きましょう。また、自らの内については、聖霊に満たされ歩むことを求めましょう。さらに、人々の中にあっては、主に立ち返らせる者、イエス様を指し示す指、矢印として生きましょう。 この朝、語られた御言葉を胸に、クリスマスを迎えましょう。祈ります。
~聖書本文~
5.ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6.二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7.しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。
8.さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
9.祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
10.彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
11.すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
12.これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
13.御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
14.その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
15.その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
16.イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
17.彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」