聖書本文;マルコの福音書1:1~11/メッセージ題目;「イエスさまへの導き手」/
今日から私たちは、マルコの福音書の学びを始めます。著者のマルコは「使徒の働き」によれば、一度パウロとバルナバの率いる伝道チームから離れて故郷のエルサレムに帰ってしまったというしくじりをした人でした。そのマルコを次の伝道旅行に連れて行くかどうかをめぐって、彼は連れて行くべきではないと主張したパウロと、彼にチャンスを与えようとしたバルナバの間に激しい対立が起こり、結局、パウロのチームとバルナバのチームに分かれてしまいました。いわば分裂をもたらした原因をつくった人でもあったのでした。
しかし彼は、バルナバのもとでしっかり育てられ、のちにはパウロと和解し、パウロの役に立つ働き人となりました。そしてこのようにして、四福音書の中でも最初に書かれた福音書と言われている、マルコの福音書をものしたのでした。マルコの福音書は異邦人に読まれることに主眼が置かれていて、苦難を受けるしもべとしての神の子なるイエス・キリストを強調しています。
以上のことを踏まえたうえで、それでは本文へと入っていきましょう。1節のみことばです。――神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。――このみことばは大事です。この「はじめ」ということばは、七十人訳という、イエスさまの時代のギリシャ語聖書、その創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造された」の「はじめに」と同じことばです。天地万物の存在を神さまが始めさせられたのと同じ次元で、イエスさまの福音というものが語られています。
マルコがこれから伝えようとしているのは、単なる人間イエスではありません。「神の子、イエス・キリスト」、「神は救い」という意味の「イエス」と名づけられたこのお方が、「キリスト」すなわち「油注がれた者」、このお方が「神の子」であるということです。イエスさまは神さま、王さま、救い主……この「イエス・キリスト」という名はあまりに偉大で、十戒のみことばのように「みだりに口にすべき御名ではない」ことがわかります。しかし、このお方の御名によってこそ、人は救われる、私たちも救われるのです。この名のほかに、天下に救いはありません。
このイエス・キリストの「福音」……福音とは何でしょうか? ギリシャ語で「ユーアンゲリオン」これは、新しい時代が登場した、皇帝が即位した、戦争に勝利した……そういった「よき知らせ」が本来の意味です。ウクライナとロシアの戦争が終結したとしたら、福音でしょう。コロナが終息し、人類がコロナとの戦争に勝利したとしたら、福音でしょう。そのような「よき知らせ」、イエス・キリストというお方が来られたことは、そのような「よき知らせ」に匹敵することであるというのです。
まことに、福音、よき知らせは、イエス・キリストから始まっています。イエス・キリストというお方は、その「よき知らせ」、福音そのものでいらっしゃり、その「はじめ」はこのようであった、という、天地創造のみわざに匹敵する救いのみわざの記述が、今から始まります。これは大事です。私たちはしっかり見届けましょう。
2節、3節のみことばにまいります。――預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。/荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」――預言者イザヤの書、とありますが、厳密に言えばこの箇所はいくつかの聖書箇所から引用されています。
「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす」、これは、出エジプト記23章20節のみことば、「彼はあなたの道を備える」、これは、マラキ書3章1節のみことばです。それ以降の3節のみことばがイザヤ書のみことば、イザヤ書40章3節ですが、あえて「預言者イザヤの書」と要約されているのは、この人物の出現は預言者イザヤの預言が成就したことであるのと同時に、旧約聖書そのものの預言のみことばが成就したことであることを示しています。
わたし、すなわち神さまが、あなた、すなわち神の子キリストの前に、道を備える使いを遣わされる、この使いは、荒野で叫ぶ者の声である、何と叫んでいるのかというと、「主の道を用意せよ、主の通られる道をまっすぐにせよ」……。
神の子なる救い主を迎えることにおいて、人は整った道にお迎えする必要がありました。あなたがたの人格は救い主を迎えるにふさわしく充分に整っていなさい、これが、神さまが人に対して発せられたメッセージです。この神の使いの人物は、まさにこのような備えを人々にさせるために、神さまがお送りになった人であったわけです。この人物、ヨハネは「さきがけ」とも言うべき人物です。
3節の終わりの部分から5節までをお読みします。――そのとおりに、/バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。/ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。――この旧約聖書のみことばどおりに神さまが送ってくださった人、救い主が来られるための道を人々に整えさせる人は、バプテスマのヨハネだったというのです。彼のしたことは、バプテスマを授けることでした。
当教会はバプテスト教会であり、水に沈んでいただくことで神に救われたことを公に告白します。私は教会に初めて出席した日、それは1987年の12月のことだったと記憶しますが、その日教会ではバプテスマが執り行われました。バプテスト教会を標榜していたわけではないのですが、浸礼によるバプテスマで執り行われました。
私はそれまで、滴礼による洗礼というものは知っていても、浸礼によるバプテスマというものは知らず、したがって初めて見たわけでしたが、人がガッと水に沈められ、そして引き上げられる様子に、なかば感動のようなものを覚えました。しかしその意味を知ったのはそれからだいぶ経ってからで、これはきたない身を清める儀式ではなく、悔い改めて古い人が死に、新しい人に生まれ変わらせていただいたことを公にすることであると知ったのでした。
そうです。ヨハネが説き、実践したバプテスマは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」でした。人々はそのとき、律法の細かい規則によって、自分の罪をいやでも認めざるを得ない状態にありました。
しかし、ヨハネはそんな彼らに、その罪を悔い改めるなら赦されることを説き、そのしるしとして彼らにバプテスマを授けました。悔い改めとは、自分から神さまに方向転換することです。自分は死に、神さまのいのちに生きる、それを象徴するのが悔い改めのバプテスマです。
律法を守り行うという神の基準に達しないこの罪人は水に葬られ、水から引き上げられて神さまによって新しいいのちに生かされる、この、わかりやすくも奥が深い「バプテスマ」というものを荒野を流れるヨルダン川にて行い、たちまちヨハネのもとに人々が押し寄せました。神さまはヨハネにバプテスマを執り行わせることによって、人々に必要なものは悔い改めと、新しく生まれることであることを教えられ、このようにして人々を救い主の到来に備えさせられたのでした。
そんなヨハネのライフスタイルもみことばは語っています。6節です。――ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。――ヨハネのこの格好は、第二列王記1章8節の預言者エリヤの服装そのものです。もはや王に何の期待も持てなかった時代のイスラエルに燦然と輝く預言者エリヤ……エリヤはどこまでも、人々を神さまのもとに導く導き手でした。この格好で過ごしたヨハネは、まさしくエリヤの再来でした。
ヨハネは騒がしい都会を避けて、荒野に住みました。便利な生活をしていると、なんでわざわざ荒野に住むのか、と私たちは思いませんでしょうか? たしかに荒野は厳しい環境です。しかし同時に、荒野は、出エジプトを果たしたイスラエルの民が、約束の地に入るという希望をいだいて神からの訓練を受けた場所でもあります。ヨハネは荒野において、悔い改めの先にある救い主との出会い、それゆえに神さまが与えてくださる天国の恵みへと、人々を導いていたのでした。
しかし、荒野はやはり厳しい場所であることに変わりはありません。ヨハネが口にしたものはいなごと野蜜、最低限の栄養が取れれば充分というような、きわめてシンプルな食生活です。これは、イスラエルの食べたものがマナだったことをほうふつとさせます。
しかし、マナは神さまの恵みであり、マナがなければ飢えるか、栄養失調になるかして死んでしまいます。同じように、いなごと野蜜も神さまが特別に荒野に備えてくださった食べ物です。ヨハネは少なくとも、この何の変哲もない食べ物を感謝していただき、荒野での主の働きの糧としていたのでした。
私たちはときに、生きることに厳しさを覚えるでしょうが、それでも実際の生活を見てみるならば、暖衣飽食、ヨハネのことを思うと、あまりにもぜいたくな生活をしています。せめて私たちは、感謝することを欠かしてはならないのではないでしょうか。ヨハネが最低限の食べ物で養われたことを思うならば、私たちはあまりにも、感謝することでいっぱいでしょう。
また、ヨハネのことを思えば、いらないものも結構ありはしないでしょうか? 私たちはテレビや携帯電話にどれほど向かっているでしょうか? いや、まったく不必要とはいいませんが、そこに映し出される情報は、果たして私たちの生活にとって「どうしてもなければならない」ほど大事なものでしょうか? ヨハネのシンプルさを、私たちはどこかで見習えはしないでしょうか?
しかし、ヨハネがこのようにシンプルな生活をしながら荒野にいたのには、理由がありました。見てみましょう。7節と8節です。――ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。/私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
ヨハネがしていたバプテスマを授けるという働きは、たしかに大事なものでしたが、それは水によるという形式的なものにすぎないことをヨハネは自覚し、また、そのように人々に教えました。ほんとうのバプテスマは、人を新しいいのち、永遠のいのちに新生させてくださる聖霊によるものであり、このまことのバプテスマをあなたがたに授けてくださるお方が、私のあとからおいでになる。人々は私のことをすぐれた預言者のように思っているかもしれないが、その方は王なるお方であり、私はその方の足もとにひざまずいて、靴の紐を解いてさしあげる値打ちさえない、それほどすばらしいお方が、私のあとに来られるのである。さあ、この方を見なさい。
ヨハネが荒野にいたのはまさに、あとから来られる偉大なお方を人々に示すためでした。私たちの生きる目的も、このように、王の王なる救い主、神の子キリストを人々に指し示すためです。
私たちは自分のことをどう思いますでしょうか? ヨハネに比べればはるかに小物と思うかもしれませんが、何とイエスさまご自身が、天で最も小さなものでもバプテスマのヨハネより偉大です、と語っていらっしゃいます。私たちがもし、イエスさまを信じて永遠のいのちにあずかっているならば、このバプテスマのヨハネよりも偉大な存在としていただいているのです。しかし、そんな私たちの偉大さは、どのようにして現れるのでしょうか? まさに、神さまのご栄光、イエスさまのご栄光を、人々の前に現すことによってです。私たちの行いが、キリストを指し示すようにすることが必要です。
私たちの生きるこの地は、決して楽な場所ではないでしょう。なぜならば、神さまがあえてこのような厳しい場所、荒野のような場所に、私たちを送られたからです。私たちは茨城県央のこの荒野のような場所で、キリストを指し示す生き方をするように召されています。その生き方をするためにも、私たちはいなごと野蜜のようなシンプルなもので養われたヨハネの生き方にならう必要があります。
私たちがキリストを指し示す生き方をする上では、多くの物は必要ありません。イエスさまの弟子が宣教に出ていくとき、多くの物はいらないとイエスさまが送り出されたように、私たちもイエスさまを伝えるにあたっては、多くの物は必要としません。金銀はなくていいのです。私たちには全能にして偉大なるお方、ナザレのイエスの御名があります。この御名によって祈るとき、神さまはこの祈りを聴いてくださり、人々を癒し、立ち上がらせ、私たちをとおして神の国を拡大してくださるのです。
しかし、私たちはこのお方、イエスさまの御前に、まことの王であるゆえに日々ひれ伏しているでしょうか? イエスさまは私たちのことを友と呼んでくださいましたが、私たちの側からイエスさまを友とお呼びするなど、とんでもないことです。イエスさまはやはり、王さまなのです。私はイエスさまにお近づきする権限もない。そんな私たちだけど、イエスさまのほうから私たちを呼んでくださったわけです。これは恵みです。この恵みにただうち震えるようにして、イエスさまの御前に日々進み出ることが、私たちに必要です。この偉大なるお方を、その御力を、私たちは普段の生活において、力を尽くして宣べ伝えるのです。
さて、そのようにヨハネがイエスさまを宣べ伝えていたとき、イエスさまがヨハネのもとに来られました。そして、どうなったでしょうか? 9節から11節のみことばです。――そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。/イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。/すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」――
マルコの福音書はこのように、イエスさまがバプテスマをヨハネからお受けになったという事実を淡々と記しているだけですが、マタイの福音書では、最初ヨハネはイエスさまにバプテスマをお授けすることを拒みました。自分こそがイエスさまからバプテスマを受けるべきなのに、イエスさまにバプテスマをお授けするとは畏れ多い、とんでもない、というわけです。しかしイエスさまは、「正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしい」とおっしゃって、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。
私たちはイエスさまが神の子であると知っています。そんな私たちからしても、イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになったことは、不思議だと思えないでしょうか? しかし、これには意味がありました。
まず、「正しいこと」とは、父なる神さまに対する従順を意味し、ヨハネがイエスさまの到来に備えたことを受けて、イエスさまが救い主としての使命を果たされることを意味します。その「正しいこと」には、ヨハネからイエスさまがバプテスマをお受けになることも含まれていました。
イエスさまがバプテスマをお受けになることはなぜ必要だったのでしょうか? それは、イエスさまがご自分の民をその罪からお救いになるためには、イエスさまご自身がその民の代表となられる必要があり、ヨハネからバプテスマをお受けになることによって、そのことが実現したのでした。イエスさまはヨハネからバプテスマをお受けになることによって、神の民イスラエルの代表としての立場が公になられました。
そのバプテスマにおいてイエスさまが水の中から上がられると、天が裂けて御霊が鳩のようにイエスさまの上に下られました。そして天から声が響きました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」このように、イエスさまが救い主、神の民の王としての公の生涯に踏み出されるにあたっては、御父と御霊のお働きも同時にありました。イエスさまは人間イエスの単独の働きでメシア、救い主として歩まれたのではなく、父、御子、御霊の三位一体の存在としてこの地上で救い主として歩まれたことが、この箇所からもわかります。
さて、このように公生涯にイエスさまが出ていかれるにあたっても、神さまはバプテスマのヨハネをお用いになりました。このことにおいてヨハネは、イエスさまが救い主として公になられるうえでの、神の器でした。神さまはこのように、イエスさまのみわざのために人をお選びになり、お用いになります。
私たちもこのように、イエスさまが救い主、きよめ主、いやし主、王の王、神の御子としてこの地上で歩まれることにおいても、用いていただく存在です。私たちはこのように、神さまに用いていただき、イエスさまを顕すことにおいてこそ意味があります。ヨハネがこのように、徹底して神さまに用いていただいたように、そう、神さまがイエスさまを救い主としてこの世に送り出されるにあたってヨハネをお用いになったように、私たちも、救い主なるキリストをこの世に現すうえで、神さまがお選びになり、お用いになっている存在です。
私たちは、どこまでもイエスさまを指し示したヨハネの姿から何を思いますでしょうか? そして、イエスさまをこの世に指し示すために、私たちは何をすることがみこころであると思いますでしょうか? ヨハネは人々を悔い改めに導くために、荒野でバプテスマを人々に授けました。これは唯一無比の働きでした。
そのように私たちにも、救い主イエスさまを人々に示すために、自分にしかできない働きを神さまは備えてくださっています。それはどんな働きか、お分かりになっていますでしょうか? こればかりは牧師ですとか、ほかの兄弟姉妹にお尋ねになっても、ヒントぐらいしかお話しすることはできません。ご自身で神さまの御前に出ていき、しっかり祈り求める必要があります。
あなたにとってイエスさまはどんなお方でしょうか? イエスさまはあなたに、どんな生き方を願っていらっしゃいますでしょうか? しばらく祈って黙想しましょう。