聖書箇所;マルコの福音書1:12~13(新約65ページ)
メッセージ題目;「神の霊により荒野へ」
初めに、本日の礼拝から、「バプテスト教理問答書」の学びを、メッセージの導入の部分において行い、その学びをメッセージの導入としたいと思います。本日は20番目の問答です。このようにあります。/問20 人が堕落した状態の悲惨とは何か。/答 全人類は堕落によって神との交わりを失い、神の怒りと呪いのもとにあり、この世におけるすべての悲惨と死そのもの、さらに永遠の地獄の刑罰を受けるべきものとされている。
人が堕落したのは、自分の意志によることです。自分から望んで神さまから離れる道を選びました。そのようになった人間とは、もはやきよい神さまは交わりをお持ちになることはできませんでした。神さまはそのようにして、けがれて神と敵対するようになった罪ある人間に対しては、怒りと呪いを抱かれ、その神さまの怒りと呪いのもとにおかれているゆえに、あらゆる悲惨、そして死そのもの、永遠の地獄の刑罰に至るまで、人間は受けるようになってしまったのでした。
よく人は言います。神がおられるならば、なぜこのようにこの世界は不幸なのか? 戦争や飢餓や貧困があるのか? しかし、聖書がはっきり語っていることは、世界がこのようになってしまったのは、人間が神さまに背を向けたためである、ということです。人間は神さまに背を向けた責任を、このようにあらゆる不幸と悲惨を身に負うという形で取らなければなりません。私たち人間の不幸は、負うべくして負っているものなのです。
では、私たちの世界にはもはや、救いはないのでしょうか? いいえ。神の御子イエスさまは、そのような死の悲惨、地獄の不幸から私たち人間を救うため、この世界に来られ、私たち人間が受けるべき罪の罰を身代わりに、十字架の上で受けてくださいました。私たち人間はただ、イエスさまの十字架による罪の赦しを信じるだけで罪赦され、救っていただき、神の子どもとしていただけます。
そのように、人を救うためにこの世界に来られたイエスさま。時が来て、イエスさまが公の生涯を始められるにあたり、ヨハネという人物からバプテスマをお受けになったことについては、先週学んだとおりです。しかし、イエスさまの公生涯、世に対するデビューの前に、イエスさまには通られなければならない場所がありました。どこを通られたのでしょうか? 12節のみことばです。
――それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。――そうです。イエスさまが行かれた場所は荒野でした。しかし、このみことばによれば、イエスさまはおひとりのご意思で荒野に行かれたわけではありませんでした。
そうです。「御霊は……追いやられた」とあります。御霊、神の霊によって、イエスさまは荒野に追いやられるようにして赴かれたのでした。その荒野にて、イエスさまはどのように過ごされたのでしょうか? 13節です。――イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。――
まず、荒野とはどのような場所でしょうか? 先週、バプテスマのヨハネについて学びましたが、ヨハネもまた荒野にいました。荒野は都会とちがって何もなく、シンプルにならざるをえない場所でした。しかしそれでも、ヨハネはいなごと野蜜を口にしていのちをつないでいました。イエスさまはといえば、マルコの福音書にはありませんが、まる40日40夜、断食をして過ごされました。荒野のような過酷な場所でそのように過ごされたのでした。こうなると、御父なる神さまに拠り頼む以外に生きるすべはありません。
40日、というのは、旧約聖書を読むと大事な数字であることがわかります。出エジプト記24章によれば、モーセが神の民のために神の教えを受けるべくシナイ山にとどまったのも40日でした。荒野の中の、さらに山の中、モーセはそこで主にまみえたのでした。また、列王記第一の19章、エリヤは主にまみえ、主ご自身から食べ物を授かって元気を回復してから、40日40夜荒野を歩き、神の山ホレブに着き、そこでまた主にまみえました。荒野における40日、それは主なる神さまにまみえるために、主が神の人に備えられた時であり、イエスさまもまたその時を荒野にて体験されたことを覚えておきたいと思います。
モーセとエリヤといえば、変貌の山にてイエスさまと、イエスさまのご最期について話し合っていた人物でもあったわけですが、彼らがそのような姿でイエスさまの御前に時を超えて現れたのは特別であり、そのことにおいても彼らは神の人でした。
しかし彼らは、単に神さまと親しい交わりを持つことができたゆえに特別だったのではありません。モーセはイスラエルの民をもろとも、神さまのみこころにしたがって出エジプトさせ、約束の地を目指して導いた神の人でした。エリヤも、偶像礼拝に腐敗したイスラエル全体にカルメル山の雨乞合戦をとおして神さまのご存在と御業を示し、彼らイスラエルをして「主こそ神です。主こそ神です」と言わせたほどの神の人でした。モーセにしてもエリヤにしても、神の民を神さまのご存在とみこころに導いた人でした。
イエスさまもまた、ご自身の民を神さまのご存在とみこころに導かれるお働きを、これからなさろうとしていらっしゃいました。それに先立って神の霊によって荒野に導かれ、そこで悪魔の試みをお受けになったのは、やはり、私たち神の民のためでした。イエスさまは神の民の初穂として、神の民を代表して荒野に導かれ、荒野にて悪魔の試みをお受けになったのでした。この「荒野」という場所において、神さまのみこころは少なくとも2つの形で現れています。
ひとつは、厳しいところを通らされる神さまのみこころ。神の霊はイエスさまを、荒野という厳しいところへと導きました。もうひとつは、厳しいところをお通りになる神の子イエスさまのみこころ。イエスさまは、荒野に行って40日40夜とどまれ、という、父なる神さまの厳しいみこころに従順になられました。
そうです。御父はイエスさまを厳しい環境に追いやられ、イエスさまはその厳しい環境の中に、御父への従順のゆえにとどまられました。その体験をイエスさまが人類の初穂、神の民の初穂としてされたということは、まずご自身が御父のきびしいみこころに従順になられることにより、神の民に対し、従順になることの意味、また、その厳しさの向こうにある祝福を、イエスさまがお示しになったということです。
先週も「荒野」という厳しい環境がむしろ祝福であることをお話しし、その繰り返しのようになりますが、人は荒野のような厳しい環境の中で神さまだけに拠り頼むようになる訓練をいただき、この世の過ぎ去るものから目を離し、神さまだけを見るようになる祝福をいただきます。この世はあらゆる情報にあふれています。悲しいニュース、人を快楽に走らせる情報、どうでもいいけれどもなぜか心惹かれてしまう情報……しかし、大事なもの、ほんとうに必要なものはひとつだけで、それは神さまとの交わりです。
神さまがほんとうに愛してくださっている人は、神さまが親密な交わりを持ってくださるために、あえて荒野のような環境に置かれることがあるものです。病気ですとか、事故ですとか、家族の問題ですとか、仕事の問題ですとか、経済的な問題ですとか……そういうことを私たちはつい、不幸のひとことで片づけてしまってはいないでしょうか?
しかし、あえて申しますが、そのような、一般的には「不幸」と言えるできごとの中で神さまを尋ね求めるように導かれ、そこで神さまの深い慰め、また癒やしを体験できるならば、それはかえって祝福といえます。そうです、いわば「荒野の祝福」を私たちは体験します。この祝福については、のちほど詳しくお話しします。
イエスさまがいらっしゃった荒野には、3種類の存在がありました。悪魔、野の獣、御使いでした。まず、悪魔とはどのような存在でしょうか? イエスさまを試みる存在でした。悪魔は大胆不敵にも、神の子を試み、誘惑して、父なる神さまへの不従順に導き、人類を救ってくださる神さまのみこころを打ち壊そうとしたのでした。
今日の箇所にはありませんが、マタイの福音書とルカの福音書によれば、悪魔はイエスさまに対し、3つの試みを仕掛けています。まず、40日40夜の断食で空腹を覚えられたイエスさまに、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と語りかけました。イエスさまはこの誘惑を退けました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」というみことばをお示しになりました。
イエスさまが悪魔の誘惑を退けられたのは、もし、悪魔の言うことを聞いたならば、それは神さまに対する不従順であり、悪魔に対する従順であるからです。それは絶対にしてはならないことです。たとえ肉体が空腹を覚えて、食べ物を必要としていたとしても、悪魔の言うことを聞いてはなりませんでした。
実際、イエスさまにとってのほんとうの食べ物は、「神のみことばをお聞きし、お従いする」ということでした。みことばをお聞きし、お従いすることをしなければ、飢え死にしてしまう、というほどのものです。イエスさまは、ほんのわずかな安逸のために悪魔のことばを聞くのではなく、厳しさの中でいのちを保つために神のみことばを聞くことが人に必要なことを示してくださいました。
また、悪魔はイエスさまを神殿の頂に立たせ、そこから飛び降りてみなさい、と、詩篇91篇のみことばを引用し、御使いたちがあなたを守るであろう、と誘惑しました。今度はみことばを用いての誘惑です。サタンに従っているようでも、みことばのとおりに振る舞っているではないか、正しいことをしている……しかしイエスさまは、「あなたの神である主を試みてはならない」というみことばを引用して退けられました。
いかにみことばが語っているとはいえ、イエスさまは肉体を持った人であり、人がそのような高いところから飛び降りたら死んでしまいます。そのようにして死んでしまったら、イエスさまが十字架で死なれるというみこころは永遠に成し遂げられず、サタンは勝利します。しかし、サタンはあくまでそれはみこころであるかのように偽装して、大胆不敵にもみことばさえ用いました。どうだ、神の口から出るひとつひとつのことばによって人が生きるというなら、このみことばに従うことでもあなたは生きるはずだ!
みことばへの従順がいのちそのものであるイエスさまは、しかし負けてはおられませんでした。問題はみことばを文字どおりに行うことではなく、どのような精神で守り行うかにあることを、イエスさまはお示しになりました。サタンよ、おまえのみことばの用い方は、神を試みるという恐ろしい罪を犯していることだ。それをほかならぬ神のみことばがとがめている。ただちにやめよ。このようにイエスさまがお用いになったみことばは、神に示された、などと言って、教会の中には何の平安もないのに無茶な行動に出てしまうようなクリスチャンに対する戒めのことばともなっています。
そして悪魔は、世界中の国々とその栄華とをイエスさまに見せて、自分に対してひれ伏すならばこれらすべてを上げよう、と迫ってきました。これはどれほどの誘惑だったことでしょうか? イエスさまがその国々の王としてあがめられたいと思われたからではありません。
そのような栄華とは、サタンの支配下にあるかぎり、すべてはむなしく、また罪深いものです。世界中の人々はその派手さの中でサタンの奴隷として搾取され、傷つけられ、そして永遠に滅びていきます。サタンは、そのような地獄が必ず背後にあるこの世の栄華をあなたに渡す条件はただ一つ、俺さまを拝むことだ、と、イエスさまを誘惑しました。
しかし、これもイエスさまは退けられました。みことばは語っている、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」。間違ってもサタンを礼拝してはならなかったのでした。そして、イエスさまにとって主を礼拝し、主に仕えることを実践することとは、十字架におかかりになり、ご自身のいのちをもって人をサタンの束縛から贖い出すことでした。十字架こそが人々をサタンの支配から救い出すことであって、間違っても、サタンにひれ伏して救ってもらうことではなかったのでした。
私たち人間も、この世の中をよくするためにあれこれ考え、行動します。その働きをする人の中にはクリスチャンも多く含まれます。もちろん、そのようにして世の中を良くしていこうとする人々の存在をとおして、神さまはこの世界に平和と秩序を保っておられ、それは素晴らしいことにはちがいないのですが、私たちクリスチャンは少なくとも、十字架にかかられたイエス・キリストのほかに救いはないことをどこまでも信じ、イエスさまによって平和を実現することをしていかなければなりません。
この世はあまりにも、イエスさま以外の道をとおして平和を実現しようとしていて、クリスチャンさえもその流れに迎合しようとしています。イエスさま以外にも救いがあると主張して他の宗教と妥協するような宗教統一の運動など、その最たるものでしょう。私たちは人から何と言われようと、イエスさま以外に救いはないことを声高らかに叫ばなければなりません。
このように、悪魔の試みを受けられ、その試みをことごとくみことばによって退けられ、サタンではなく父なる神さまに従順であられたイエスさまのお姿は、私たちもそのように生きるように模範を示されたお姿であり、私たちもそのように生きることができるという希望を示されたお姿です。
神さまはあえて荒野のような環境に人を導かれ、悪魔の試みにさらされることもありますが、私たちは最後には勝つ道もまた同時に与えられています。私たちがみことばを普段からお読みし、サタンの攻撃が臨むようないざというときにみことばをもって対処するならば、私たちはサタンに勝ちます。また、私たちがサタンではなく、神さまに最後まで従順であるとき、神さまは私たちに勝利を与えてくださいます。
このように荒野とは、サタンの待ち受けている環境ではありますが、それだけではありません。荒野とは野の獣のいる場所でもあります。
野の獣、それはおとなしい獣に襲いかかり、噛み砕くような猛獣も含まれていて、そのような猛獣がたむろするような場所ならば、だれが行きたいと思うでしょうか? しかし、神の霊はイエスさまをそのような、猛獣のたむろする場へと導かれたのでした。
しかし、創造主なるイエスさまに襲いかかる猛獣はいませんでした。イエスさまはかえって、このような野の獣とともにおられながら、そのような獣が襲いかからず、平和に過ごすことを実現されました。それは、イザヤ書11章に書かれた、メシアの来臨によって世界にはどんなことが起こるかという預言の成就と言えました。イザヤ書11章の6節から10節をお読みします。
――狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。/雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。/乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。/わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。/その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。
草食動物と肉食動物の関係をひとことでまとめると、それは「弱肉強食」です。草食動物が肉食動物に襲われて食われ、血を流して死にます。それは平和の失われた状態であり、私たちはいかにそれを当然のこととして受け止めようとしても、やはりそれは残酷なさまであり、いざ目にしたら目を背けたくなるでしょう。そのような、動物の世界に展開する「弱肉強食」、その姿はそっくりそのまま、人間に当てはまります。強い者が偉い、弱い者は死ね……それが、アダムの堕落以来、人間の世界で繰り返されてきたことでした。人間はその意味で獣のようです。
しかし、イエスさまがともにおられることを認めるならば、人は弱肉強食の獣ではなく、平和をつくり出す「人」となります。人はお互いを見るならばお互いの立場のちがいや粗が見えてならず、受け入れられなくなったり争ったりするでしょう。しかし、そのような罪を同じイエスさまが十字架によって赦してくださったと信じるならばどうでしょうか? 私たちはだれが強いとか、だれが偉いと争ったりするのをやめて、ただ、イエスさまにだけともに栄光をお帰しするようになり、ひとつになれるのではないでしょうか? こうして、イエスさまによって平和が実現するのです。
私たちの生きる世界は荒野のように、弱肉強食の人間関係にさらされる場であり、神の霊はあえて私たちをそのような厳しさの中に送っていらっしゃいます。
しかし、私たちはあきらめてはなりません。この世界は獣ばかりではありません。ちゃんと、イエスさまと和解させられて平和を保っている「人間」がいる場所です。私たちはそのような「人間」とともにイエスさまのもとにいることによって、荒野の中でも平安を体験します。この「教会」こそは、まさに荒野の中でイエスさまを体験する場所です。お互いの顔を見ましょう。もう私たちはイエスさまによって、獣ではないのです。私たちの交わりをとおして、私たちを贖い、平和を与えてくださったイエスさまをあがめましょう。
そして、荒野のイエスさまとともに、だれがいたのでしょうか? 御使いがいました。御使いとはどのような存在でしょうか? ヘブル人への手紙1章14節の定義に従うと次のとおりです。――御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。――
御使いはまず、救いそのものでいらっしゃるイエスさまに仕えました。どのように仕えたかは具体的に書いていないので、聖書のほかの箇所から類推するのみですが、イエスさまが十字架を前にして血の汗を流してお祈りされたゲツセマネの園において、御使いが来てイエスさまを力づけたとありますので、ここでも、40日の断食の祈りを完遂して御父への従順を成し遂げられるように力づけた、という形でお仕えしたと見ることができるでしょう。
私たちもまた、救いを受け継ぐことになる者として、その救いが人生において完成するように、主が万軍の御使いを送ってくださっている存在です。私たちはときに、主にお従いすることにおいて孤独な戦いを強いられていると思うことはないでしょうか? しかし、そうではないのです。
私たちが厳しい戦い、荒野のような環境に置かれているとき、御使いは神さまの命(めい)を受けて、私たちを励ましてくれています。私たちが致命的な不従順を犯すことがないように、御使いはあらゆる道で私たちが石に打ち当たらないように守ってくれています。神さまはそのように御使いに命じて、私たちを守ってくださっています。なぜでしょうか? 私たちが神さまの大事な子どもだからです。
私たちは強くありません。神さまが送り出されるこの環境が、ほんとうに耐えがたいと思えることもあるものです。しかし、私たちが打ち倒されないでいるのは、このような荒野の生活の中においても、神さまご自身が私たちのことを心配してくださり、御使いに命じて私たちのことを守っていてくださるからです。
私たちは決して孤独ではありません。このような守りをつねに与えてくださる神さまに感謝し、神さまの御名をほめたたえましょう。
私たちが生きているこの人生は、決して楽ではないと感じていらっしゃることと思います。それは、私たちの人生が荒野だからです。
荒野にはサタンが待ち構えていますし、野の獣のような怖ろしい人間もたむろしています。しかし、忘れてはならないのは、神さまが主権をもってあえてそのような環境に私たちのことを送り込まれた、ということです。イエスさまがまず、そのような荒野でサタンにみことばをもって勝利されたように、私たちもみことばによってサタンに勝利します。
そして、イエスさまの周りには、野の獣も襲いかからないような平和がありました。イエス・キリストこそ平和です。私たちもイエスさまによって、弱肉強食を当然と思うような獣から、平和をつくり出す幸いな存在、人間、神のかたちにふさわしいものにしていただきます。イエスさまにあって平和を保ちましょう。そして、イエスさまによって平和をつくりましょう。私たちはだれと平和をつくりますか?
さらに、この荒野のような人生においても、神さまは御使いを送って、私たちが救いを受ける者としてふさわしい人生を送れるよう、私たちのことを守ってくださいます。私たちのことを力づけ、励ましてくださいます。私たちは人生に絶望していないでしょうか? 逃げ出したい、と思ってはいないでしょうか? 今このときこそ、荒野の中でも瞳のように私たちを守ってくださる神さまに感謝し、ますます、神さまの守りを求めてまいりましょう。私たちは特に、どの領域に神さまの守りを必要としていますでしょうか?
しばらくお祈りしましょう。
私たちはサタンに負けている、と思っていますか? サタンに勝利したイエスさまを思いましょう。イエスさまの勝利、十字架と復活の勝利によって、私たちもサタンに勝利していることを覚え、神さまとイエスさまに感謝しましょう。
私たちの荒野の生活において、なお苦しめるような存在、それが、獣のような人間です。しかし、私たち教会の兄弟姉妹が、獣の状態からイエスさまによって平和を与えていただき、神と和解させていただいたゆえに人どうしが和解させられていて、こうしてお互いに平和が保たれていることに感謝しましょう。そして、その平和を必要としている人の顔と名前がもしも心に浮かぶならば、その人にキリストの平和が与えられ、その人とイエスさまによって和解できるように祈りましょう。
最後に、神さまご自身が荒野のような私たちの人生において、たえず守ってくださり、ご自身にのみ拠り頼むように私たちのことを導いてくださっていることを覚え、感謝しましょう。私たちは特に、どんな領域で神さまの守りをいただいているか、具体的に挙げて、感謝の祈りをおささげしましょう。