聖書朗読;マルコの福音書1:14~15/メッセージ題目;「神の国に至る悔い改めと信仰」
先週水曜日の夜は驚きました。すわ、11年前の再来か! と思われた方も多いと思います。このようなときに私たちは、自分たちの暮らしているこの地上が有限な存在であることを思いませんでしょうか?
身の回りと世界に目を転じれば、コロナの流行、ウクライナの事態、恐ろしいことばかりです。テレビを視るのも憂鬱になります。しかし、私たちは、おっかない話に翻弄されてはなりません。私たちとともにいてくださるお方はどなたですか? イエスさまはどんなお方ですか? はい、それだけでも、私たちに恐れる理由はありません。聖歌総合版493番「やすけさは川のごとく」の4番に歌うとおりです。「よし天地(あめつち)崩れ去り ラッパの音(ね)とともに 御子イエス現るるとも などて恐るべしや すべて安し 御神ともにませば」これです。これが私たちの信仰です。
世の終わりは間違いなく、ただでさえ恐ろしいことが起きている現在よりも、はるかに恐ろしい事態が繰り広げられるでしょう。そのような中、さばき主として神の子イエスさまがこの世界に来られます。それは聖書の語るとおりです。しかし、私たちは恐れることはありません。神さまがともにおられるからです。私たちは平安なのです。
「バプテスト教理問答書」の問21を見てみましょう。
問21 神は全人類を罪と悲惨のうちに滅びるままに放置したか。
答 神は全くの好意によって、永遠よりある人々を永遠のいのちに選び、罪と悲惨の状態より救い出し、贖い主により救いの状態に入れるために恵みの契約を結んだ。
戦争は人類の罪の産物で、疫病や自然災害はそのような人間の罪によって自然全体に悲惨がもたらされた結果の産物です。これほどまでに世界が悲惨なのは、人間が罪を悔い改めないためです。しかし、そもそもだれに対して悔い改めればいいのか、その対象を知らないために、悔い改めようがありません。人間の側から、立ち帰るべきお方に出会うすべがないのです。それほど神さまは、私たち人間が罪を犯したその責任を、罪と悲惨の中に放置されるという形で取るようになさっています。
それなら、人間には一切、希望はないのでしょうか? いいえ、希望はあります。この問21の答えにあるとおりです。神さまは全くの恵みによって、救われるべき人を選び、その人と恵みの契約、「あなたを滅ぼさない」という契約を結ばれました。だれをとおしてその契約が結ばれたのでしょうか? 贖い主をとおしてです。贖い主とはだれでしょうか? そう、イエスさまです。
今日の箇所は短いですが、この短い箇所の中に、イエスさまのお働きは要約されています。そして、イエスさまと私たちとの関係もまた要約されています。今日の箇所をもう一度お読みしましょう。――ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。/「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
まず、バプテスマのヨハネが捕らえられるというできごとが起こっています。ヘロデ王の不倫を告発したことで王の逆鱗に触れ、逮捕されたのでした。こうしてヨハネは、表舞台から姿を消しました。しかしそれは、イエスさまに人々を導く働きを全うした、ということでもありました。まさにヨハネが語ったとおり、イエスさまは盛んになって自分は衰えなければならないという、その告白のとおりとなったのでした。
イエスさまはガリラヤに赴かれました。マルコの福音書は、イエスさまの公の生涯をガリラヤでのお働きから描きはじめています。宗教社会の中心であったユダヤから見れば北の果ての辺境の地、疎外された地であるガリラヤ……しかし、イエスさまはまさしくその地において、お働きを展開されたのでした。
私たちがもし、自分は見捨てられている、疎外されていると感じるならば、忘れてはならないことがあります。イエスさまはそのような私たちの味方です。私たちのそばにいてくださいます。私たちに語りかけてくださいます。あとは私たちがイエスさまに近づき、イエスさまのみことばに耳を傾けることです。
今日のみことばは、イエスさまがこの地ガリラヤにてお働きを始められた、宣言ともいうべきおことばです。今日の箇所には3つのキーワードが登場します。神の国、悔い改め、福音です。順に見てみましょう。
まず、神の国です。イエスさまが来られて、神の国は近づいた、とお語りになりました。あなたがたガリラヤに住む神の民のところに、神の国は近づいたのだよ、ということです。
それまでもガリラヤの人たちにとっては、創造主なる神さまの律法に生きることは生活の一部となっていました。たしかに彼らは血筋でいえば、神の民の末裔でした。しかし彼らは、神の国を生きていたわけではありませんでした。
神の国は、神の御子イエスさまがもたらしてくださったものです。御子イエスさまが王として君臨され、王としてお治めになるのが神の国です。当時この地に住む人々は、ローマの圧政のもとにあり、ローマから解放してくれる神の民の王を待ち望んでいました。
しかし、イエスさまという神の国の王は、そのように目に見えるかたちでの国の君主ではありません。神の民ひとりひとりの心の中においてそれぞれを導く、そういう意味での王さまです。
その神の国が近づいた、とありますが、近づいた、ということばは、すでに実現している、という意味を含みます。神の国を来たらせるとき、イエスさまが神の国を実現してくださるときは、父なる神さまがすでに人間に実現してくださった。
近づいた、ならば、必ず来るのです。これはちょうど、駅のホームで電車を待つ気持ちに似ています。時刻どおりに電車が来ることがわかっていても、実際に電車が来るよりも早くホームに着き、待つならば、その待つ時間というものはとても長く感じるものです。私は中学から大学まで、電車に乗って通学しましたが、あのわずか数分の時間はとても長く、退屈に感じられたものでした。しかし、やがてホームにアナウンスが流れます。「間もなく、1番線に電車がまいります。危ないですから、白線の内側まで、下がってお待ちください。」……このアナウンスが流れると、それまで電車を待っていた数分間の苦痛をまったく忘れます。まだ電車に乗っていないにもかかわらずです。
ガリラヤの民は、数分間どころではありません。もう何百年も神の国の到来を待ち望んでいました。それが、イエスさまがおいでになったことで、まだイエスさまが何のみわざも行われる前から、そうです、究極的には、十字架による贖いを成し遂げられる前から、神の国はもうここに来ているというイエスさまの宣言を聞いたのでした。それだけでもどれほどの喜びを彼らは覚えたことでしょうか。
ただし、神さまは力ずく、腕ずくで私たち人間を支配されるお方ではありません。私たち人間の側が、イエスさまが王として支配されることを心から喜んで受け入れることが必要になります。羊飼いに従順に従う羊のように、師匠に従順に従う弟子のように、親に従順に従う子どものように、そのように、王であるイエスさまに従順に従う神の国の民として、私たちはお従いするのです。
そのときイエスさまは、私たちの心の中において私たちを統べ治め、また、私たち神の民の交わりのただ中において、私たちを統べ治めてくださいます。私たちはこの、神の民の国民であることを誇りとするものです。その誇りのゆえに、私たちはいついかなる時も、神の民として振る舞うことを喜びとします。その喜びを知るゆえに、私たちの側から喜んで、神の国の国民にしていただくよう、神さまにお近づきするのです。
しかし、このように近づいている神の国に入るには、条件があります。そこで第二のキーワードにまいります。「悔い改め」です。
「悔い改め」に関しては、先々週のバプテスマのヨハネについて学んだメッセージでも取り上げましたが、悔い改めとは、自分から神さまに方向転換することです。自分をご覧ください。罪だらけです。自分は神さまの似姿に創造されている、と教えられていても、この自分の姿には恥じ入りたくなります。
私たちは罪を犯します。陰口をたたきます。人を馬鹿にします。むさぼります。感情的になります。しなければならないこと、すなわち神と人とを愛することをしません。罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。この罪人である自分の姿に目を留めるならば、きよい神さまの基準からはあまりにも遠く、自分は到底救われない、神さまの御前に達することなどできないと思うものです。
悔い改めとは、そのような罪にけがれた自分から、きよい神さまへと方向転換することです。私たちの見るべきはきたない自分ではありません。きよい神さまです。
とは言いましても、きよい神さまに自分の目を転じるには、まず自分自身の罪を認めることがどうしても必要となります。罪は醜いものです。できれば見たくないものです。そんな罪を犯している自分であることなど、認めたくはないでしょう。しかし、自分がそれほどの罪を犯す罪人であることを、どんなにいやでも認めることがなければ、その罪を犯すことを、そして、その罪を犯すほどの罪人であることを、「悔いる」ことなどできません。「悔い改め」において最初に必要なのは「悔いる」ことです。
しかし、自分の罪にいつまでもこだわってばかりいるようではどうでしょうか? 自分が過去犯してしまったことにいつまでもこだわり、くよくよする……それは「悔い改め」ではありません。「悔い」です。「改め」になっていないのです。「悔い改め」は、自分の罪を悔いることと、きよい神さまに向けて自分の視線を「改める」ことと一(ひと)セットです。
さて、悔い改めた結果、私たちの視線は自分から神さまへと向かうわけですが、そのとき私たちは、神さまがどのようにして私たちを受け入れてくださるか、そのことも理解している必要があります。
そこで3つ目のキーワード、それは「福音」です。イエスさまはおっしゃいました。「悔い改めて福音を信じなさい。」悔い改めてきよい神さまへと目を転じるうえで必要になることは、「福音を信じる」ことです。
福音とは何でしょうか? よき知らせです。それも、ただのラッキーなことではありません。
新しい時代が来たというよき知らせ、皇帝が即位したというよき知らせ、国が戦いに勝利したというよき知らせ、それが福音ということばの原語のギリシャ語「ユーアンゲリオン」ということばの持つ意味であると、先々週のメッセージで私たちは学びました。
新しい時代が来たというよき知らせ、イエスさまがこの地に来られ、罪の縄目に捕らえられていた人々を解放してくださる時代が来ました。皇帝が即位したというよき知らせ、イエスさまが王として永遠に君臨される時代が来ました。戦いに勝利したというよき知らせ、イエスさまが罪と死とサタンに勝利し、永遠のいのちを与えてくださるという時代が来ました。まことに、イエスさまという王さま、神の国の王さまが来られたということは、人間の世界を、人間の歴史を、根本から変えました。
そのような新しい時代に生きる民、イエスさまを王とする民にしていただくために必要なこと、それは消極的には悔い改めですが、積極的には福音を信じることです。私たちの宗教的な努力ではどんなに頑張っても、神さまに認めていただくことはできません。しかし父なる神さまは、そのような私たちがみもとに来ることができるように、道を備えてくださいました。それが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃったお方、神の御子イエスさまという道です。
イエスさまを信じるだけ、それだけで人は救っていただけます。そこには何の努力もいりません。これほどのよき知らせはほかにありません。しかし、信じ方というものがあります。イエスさまが私の罪のために、十字架にかかってくださり死んでくださったお方、よみがえって罪と死に勝利してくださったお方と信じること、それが必要です。
さあ、悔い改めて福音を信じなさい、とおっしゃったイエスさまのみことば、それはどんな意味があるか、6つの問いから考えてみましょう。
まず、何をすることをイエスさまはお命じになったか、ですが、それは悔い改めることと福音を信じることです。それがどのようなことであるかは、すでに学んだとおりです。
そして、どのように、ですが、これもすでにお話ししましたとおり、イエスさまの十字架を信じることだけをする、です。しかしこれは、2つの意味があります。まず、まだイエスさまを信じ受け入れていない方の場合は、イエスさまの十字架を信じ受け入れることによって、心の中にイエスさまを招き入れることになります。そのように救い主としてイエスさまを心に招き入れることは、一度だけで大丈夫です。なぜならば、わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない、と、イエスさまご自身が語られていると、ヘブル人への手紙13章5節が語っているからです。
決して離れないならば、一度受け入れれば充分です。イエスさまを受け入れる祈りを何度もする必要はありません。人はそうして、神の国の民になります。
しかし、イエスさまの十字架を信じることは、クリスチャンの人生にとって一生もののことです。私たちはいかに神の子どもとされているとはいえ、まだ肉が生きていて罪を犯すものです。しかし私たちはその罪のゆえにさばかれてはなりません。私たちはどんな小さな罪でも、イエスさまの十字架の前に持っていく必要があります。日々のイエスさまとの交わりにおいて、私たちは罪を告白するのです。恥ずかしくはありません。イエスさまは私たちの犯した罪を、すべて知っておられます。
しかし、イエスさまは私たちが悔い改め、十字架によって罪が赦されていると信じるならば、その悔い改めのいけにえを喜んで受け入れてくださいます。十字架を信じることは求道者がクリスチャンになるためだけではなく、私たち主の子どもたちにとっても、いつでも必要なことです。それが神の国の民として生きる道です。
なぜ、信じなければならないのでしょうか? それは、これが神のみこころだからです。少し長いですが、ペテロの手紙第二3章3節から14節をお読みしましょう。
私は何も、この2022年はこのみことばにあるような時代になっているから信じるべきだ、と脅かしているわけではありません。このみことばは語られてすでに2000年が経とうとしていますが、2000年間有効でありつづけたみことばです。そういう意味では現代にかぎらず、イエスさまがこの地に来られ、十字架に死なれ、復活され、昇天されて以来、2000年にわたってずっと、この世界は世の終わりだったということができます。
ともかく、この世の有様が過ぎ去ろうとも、神さまは人間に対して新しい天と新しい地を用意してくださっている、そのことに希望を持っていただきたい、そして、そこに入るうえでの神さまのみこころは、この福音のみことばを信じるゆえに、悔い改めに進むことである、とおっしゃっているわけです。
では、だれが信じるのでしょうか? ここにいる私たちひとりひとりです。私たちひとりひとりが、神の国を受け継ぐために、悔い改めて福音を信じるのです。
いつ信じるのでしょうか? 今この瞬間からです。今までは充分な信仰をもつことができなかったかもしれません。しかし、神さまはそんな私たちに、チャンスを与えてくださっています。今からでも遅くありません。福音を信じるとは、福音を生きることです。神さまとひとつ、イエスさまとひとつの人生を生きることです。今から始められます。
どこで信じるのでしょうか? 今この場所からです。
そこでみなさまには、今この場で決心していただきたいのです。さきほどの第二ペテロ3章のみことばの、11節から14節をもう一度お読みします。
イエスさまの到来を待ち望んでいるならば、イエスさま、すぐにでも来てください、と、罪を避け、神さまに近づく生き方ができるはずです。それでもときに、とても神さまに見せられないような後ろめたい生き方をしてしまう、罪を犯してしまう、それが私たちです。しかし私たちは、イエスさまの十字架によって赦されています。私たちにあるものは、悔い改め、そして、かぎりない赦しと天の御国の福音を信じる信仰です。悔い改めて福音を信じる、神の民としての生き方を、今週も、そしてこれからも一生かけて全うする、その恵みを主が与えてくださいますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。
しばらく祈りましょう。だれが信じるのでしょうか? いつ信じるのでしょうか? どこで信じるのでしょうか?