聖書箇所;コリント人への手紙第一15:1~8/メッセージ題目;「最も大切な福音――十字架と復活」
あらためまして、主イエスさまのご復活をお祝いいたします。
講壇のお花をご覧ください。今日は白百合を飾っていただきました。白百合はキリスト教会においては、イエスさまのご復活の象徴として、特にこの復活祭において飾られるお花です。
白百合を飾ることについては、聖書に根拠があります。旧約聖書に、「雅歌」という文学的なみことばがありますが、その中にこんな一節があります。「私はシャロンのばら、谷間のゆり。わが愛する者が娘たちの中にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」茨とは、十字架を負われたイエスさまの頭にかぶせられた冠です。先週も導入賛美で歌ったとおり、血に染む茨は栄えの冠、イエスさまの御頭(みかしら)を痛めつけ、血に染めた茨は、しかし、私たちのために苦しみを受けられることによって神の栄光をあらわされた、イエスさまの栄えの冠でした。
その茨の中にあって、暗闇の谷間の中にあって、イエスさまの麗しさは百合の花に例えられます。百合の花というものは、もともとが芳しい香りを放っていますが、踏みつけられれば踏みつけられるほど、さらに香りを放つといいます。イエスさまは私たちの罪のゆえに痛めつけられましたが、やがてイエスさまは白く輝くお姿をもって復活されました。イエスさまはまさしく、白百合に例えられるべきお方です。
メッセージはあまり長くしません。でも、このメッセージのあとに歌う讃美歌「うるわしの白百合」という歌は、メロディも歌詞もとても美しい歌です。メッセージのあとにはぜひ、この歌の美しさをじっくり味わいながら、歌っていただけたらと思います。
今日のメッセージのテーマは「福音」です。私が教会生活を始めた教会は、「北本福音キリスト教会」という名前でした。埼玉の田舎にあり、そこはちょうど、この教会の立っているあたりのような雰囲気でした。「福音」というものは、教会の名前にするくらい大切なことなのだな、と、当時中学生だった私は、わからないなりに思ったものでした。私たちキリスト教会は、「福音」というものを何よりも大切にします。
「福音」とは「よい知らせ」という意味です。英語では「グッド・ニュース」と言います。
聖書が語る「福音」、「グッド・ニュース」というものを知るには、もちろん、聖書を読むのがいちばんです。先ほどお読みした箇所は、まさしくこの「福音とは何か」について、私たちにはっきりした答えを語ってくれています。
まず、1節の箇所をお読みすると、こうあります。「私があなたがたに宣べ伝えた福音」、福音とは「宣べ伝える」ものです。この「コリント人への手紙第一」を書いたパウロは、聖書の教師、神学者でありましたが、同時に、今でいうところの「宣教師」でした。宣教師とは、別の民族、別の国家、別の言語を用いる人々のところに行って、聖書の教えを宣べ伝える人のことを指します。うちの妻は韓国人ですが、宣教師になるための訓練を受け、今から14年前、結婚式の翌日に、韓国の教会から宣教師として日本に派遣されました。
パウロもまた、宣べ伝える人でした。福音を宣べ伝えます。ユダヤ人のパウロはユダヤを離れ、ギリシャのコリントの教会に福音を宣べ伝えていますが、1節のみことばを読みますと、コリント教会の信徒たちは、パウロから聴いた福音を受け入れ、その福音によって立っている、とあります。
教会とは、福音を聴いて受け入れ、その福音によって立つ人々の群れです。福音はまず、聴いて教わることなしには、何を信じたらいいのかわかりません。聖書をしかるべく解き明かし、教えてくれる人が必要です。そして、ただ教わるだけではありません。その福音によって立つ、つまり、聴いて教わった福音を人生のあらゆる土台にする、ということが必要です。
人生のあらゆる場面において土台となる、福音とはそれほど大切なものであるのはなぜなのか、それは2節で語られているとおりです。人は、福音によって救われるからです。ただし、単に聞いてさえいればいい、というものではありません。「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら」救われる……条件があります。聞いて学んだことをしっかり覚えるのです。
クリスチャンが教会に通って聖書を学びつづけるのは、福音とは何かをつねに心に留め、自分に対する神さまの救いを完成していただくためです。そのように、しっかり学んで教えにとどまらなければ、「あなたがたが信じたことは無駄になってしまう」のです。せっかく学んだことを無駄にしてはなりません。
福音によって救われる、とありますが、救い、ということは、聖書においても教会においてもよく語られることです。私たち人間はきよい神さまの御前に罪人です。
私たちは、しなければならないとわかっているのにできない、そういうことはないでしょうか? あるいは、してはならないとわかっているのにしてしまう、そういうことはないでしょうか? それだけではなく、頭の中で、あんな人にはいなくなってほしい、とか、人を呪うようなことを考えてしまう、そういうことはないでしょうか? 聖書は、そういったことをすべて、罪、と語っています。
このような罪を犯すから、私たちは罪人なのでしょうか? もちろん、そうとも言えますが、さらに根本的なことを言えば、私たちは「罪人だから罪を犯す」のです。
聖書は、この世界を創造された唯一の神さまのご存在について明確に語っています。人は、そのほかのあらゆるものと同様、神さまによって創造されました。しかし、人とほかの被造物の間には、明確な違いがあります。人だけが、神さまと人格的な交わりをすることができます。人だけが、神さまを礼拝することができます。
しかし、そのような存在に創造されたにもかかわらず、人は神さまに背を向けました。それぞれが自分勝手な道に向かっていきました。それは言ってみれば、神さまに対する手ひどい裏切りです。神さまはそのような人間に対し、怒りを注いでおられます。その怒りに触れ、人は滅ぼされる定めとなりました。
けれども神さまは、人を愛していらっしゃいます。ご自身に立ち帰るように、道を備えられました。全人類を救い、神さまご自身の民とするために、時至って、ご自身のひとり子、イエス・キリストを、人を救ってくださる救い主として、この世界に送ってくださいました。この、イエス・キリストというお方を神さまがこの世界、私たちのもとに送ってくださったということこそ、福音そのものです。
ただし、それなら、イエス・キリストというお方がこの世界に来られたということが福音、よき知らせなのはなぜなのか、それも私たちは心に留める必要があります。その福音の内容、それは、3節から8節のみことばに書いてあるとおりです。
要約すると次のとおりです。第一に、イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれました。イエスさまは、十字架におかかりになりました。私たちが罪人ゆえに神さまから受けるべきその罰を、イエスさまは十字架の上で身代わりに受け、死んでくださいました。
そして、お墓に葬られました。ユダヤのお墓は横穴式で、ご遺体はそこに横たえられますが、イエスさまのお墓はご丁寧にも、入口に大きな石が転がしかけられて蓋がされていただけではなく、その蓋には十字架刑を下した総責任者であるローマ総督ポンテオ・ピラトの封印がされ、勝手に開ける者は重罰を受けるようにされていました。さらには番兵たちが配備されて、だれにも近づけないように番をしていました。
しかし、4節のみことばにはこうあります。「聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた」……イエスさまが死なれて3日目に復活されることは、聖書をしっかり学べばわかることでした。そのように、むかしから聖書が予告していたとおり、イエスさまは墓からよみがえられました。天使が現れ、石の蓋は封印もろとも打ち破られ、番兵たちは倒れて死人のようになり、イエスさまはよみがえってお墓は空っぽになりました。
そのようにしてよみがえられたイエスさまは、弟子たち、イエスさまにつき従っていた人たちに現れ、ご自身が復活されたことを確かにお示しになりました。コリント教会に向けてパウロがこの手紙を書いたとき、中には殉教するなどして亡くなった人もいましたが、大部分は生きていて、そんな彼らは確かに復活の証人でもありました。
さて、この中で、8節のみことばはやや事情が異なります。パウロが自分のことを「月足らずで生まれたような者」と言っているのは、どういうことでしょうか? パウロは、生前のイエスさまに弟子として従っていた人物ではありません。イエスさまがこの地上で生きていらしたときは、全く関係ない律法学者、パリサイ人でした。
やがてイエスさまが天に上られ、教会が誕生していく中、イエスさまを十字架につけるもっとも大きな役割をしたパリサイ人の教えを受けていたパウロもまた、教会を迫害する者として悪名をとどろかせていました。
しかしある日、ユダヤの宗教指導者のかしらである大祭司の、教会から信者たちを逮捕してエルサレムに引っ張って来いとダマスコの宗教指導者に命じる手紙を手に、エルサレムからダマスコへと向かっていたとき、その途上で、イエスさまが現れました。パウロはまぶしい光に照らされ、地に倒れました。そして、声を聞きました。「なぜわたしを迫害するのか。」パウロは思わず、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねました。すると天からの声は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。
この体験はパウロをまったくちがう人へと変えました。それまで彼は、どんなに聖書を研究しても決して、神のひとり子イエスさまに出会うことはできず、イエスさまのあがめられる教会を迫害することしかしませんでしたが、この体験以降、彼はイエスさまを宣べ伝える者となりました。そして、福音を宣べ伝え、教会を形づくり、聖書を執筆する人として、神さまの働きのためになくてはならない人となったのでした。
これは、単なる奇跡ということ以上に、「復活のイエスさまに出会った体験」でした。パウロにとってそれまで、このイエスという人物は、十字架にかかって死んだ人物、それこそユダヤの掟によれば、木にかけられて呪われた人間以上のものではなく、そのようなイエスを主とあがめるなど、とんでもない連中だ、と、迫害を加えることしかしませんでした。しかし、パウロはここで、十字架に死なれたが今生きておられるイエスさまに出会ったのでした。
月足らず……イエスさまと寝食をともにし、3年にわたって訓練を受けてきた十二弟子に比べると、パウロはイエスさまのことを知らないも同然でした。しかし、復活のイエスさまは、そんなパウロにも現れてくださり、救ってくださったのでした。
これが、もっとも大切なことです。それをもっと要約すると、3節、4節のとおりになりますが、特に2つのことを語っています。キリストは聖書の語るとおりに私たちの罪のために死なれた、もうひとつ、キリストは聖書の語るとおりによみがえられた。
私たち罪人は、自分でこの罪を解決することができません。どんなによい人になろうとしても、どこかで悪いことを考えてしまう、どこかで悪いことを口にしてしまう、どこかで悪いことをしてしまう、それが私たちです。神さまはそんな私たちのことを憐れんで、私たちの罪の罰を身代わりに、ひとり子イエスさまに負わせてくださいました。
私たちは聖書を学ぶならば、イエスさまの十字架の贖い、またそれを実現してくださった神の愛のすばらしさを知ることができます。この教えの中にとどまるならば、私たちは幸いです。
そして、キリストは復活されました。イエスさまは死んで終わりのお方ではありません。イエスさまの復活にあずかって、私たちも罪と死に勝利します。それだけではありません。私たちもまた復活します。永遠に神さま、イエスさまとともにいるものとしていただきます。
ある神学者が言っていました。キリスト教はひと言で言って「神との交わり」であると。私たちにとって最も大切なこと、それは神さまとの交わり、十字架と復活を信じつづけるべく、聖書の教え、福音の中にとどまる、神さまとの交わりです。この復活祭、この恵みをともに味わい、神さまの御名をともにほめたたえましょう。そして、イエスさまの十字架と復活に感謝する復活祭は、ほんとうのことをいうと今日だけではありません。毎日です。毎日、イエスさまの十字架と復活をお祝いするのです。この恵みをともに味わい、心からの感謝を神さまにおささげする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りします。