聖書箇所;マルコの福音書3:7~12/メッセージ題目;「みことばは群れを導く」
現在、韓国に行くにはビザが取りにくい。コロナが落ち着いて韓国に行けるようになったとたん、東京の韓国領事館の前には徹夜の行列ができた。それで領事館は方針を変え、事前にパソコンで予約をした者だけが行けるようにしたが、それにしてもパソコンで予約を取るのは至難の業である。どうしてこのようなことになるかというと、それだけ韓国に行きたい人が多いからである。「嫌韓」などと言われて久しいが、どっこい、韓国は大人気なのである。
大人気。それはこのみことばに描かれている当時のイエスさまがそうだった。7節と8節のみことばを見てみると、南から、北から、東から、何十キロも百何十キロも旅をして、人々がイエスさまのもとに押し寄せているのがわかる。いやはや、何という人気であろうか。
しかしこのとき、イエスさまはどうだったかといえば、みわざを行われて殺されそうになっていた、その陰謀から逃れるようにしてガリラヤ湖に退いておられた。また、退くということは、休息を取るということでもあった。先週、先々週のみことばでも学んだとおり、イエスさまは安息日の主として、安息日にも善を行う働きをなされた。しかし、イエスさまも肉体を身に帯びた完全な人であられたので、休息を必要としておられた。
私たちも休むべきときには休む必要がある。その休みの場こそ、この礼拝の場である。ここには御父との交わりがある。「疲れた者、重荷を負っている者」である私たちが、その重荷をイエスさまの御前に降ろし、休むことのできる場である。休息、安息というものは、疲れたからとごろごろしていて得られるものでもなければ、がつがつと趣味に没頭することで得られるものでもない。主の御前で得るものである。このときのイエスさまと弟子たちも、その安息を目指してガリラヤ湖に退いていた。
しかし、群衆はイエスさまを放っておくことはしなかった。そこらじゅうから押し寄せた。イエスさまは休むどころではなかったのである。さて、私たちは今こうして、イエスさまも休息を必要としていらっしゃったことを見たわけだが、私たちももし、この群衆のひとりだったら、どのように行動しただろうか?「神の子といえど休息が必要だから、会いに行くのを控えよう」と思うだろうか?
私だったら、この群衆に交じって、少しでもイエスさまの近くに行けるように、押し合いへし合いすることだろう。なにしろここにいらっしゃるのは、神の子である。創造主である。永遠のいのちを与えてくださる方である。罪と死から救ってくださる救い主である。どうしたって会いたい。
私たちはそういうお方だとイエスさまのことを理解しているゆえに、イエスさまに会いたいと切望する。しかし、このイスラエルの各地から、異邦人の地からさえ集まってきた群衆は、イエスさまのことをそこまで理解していただろうか? 9節と10節。彼らは、イエスさまが中風の者をいやされたり、悪霊を人から追い出されたり、片手の萎えた者をいやされたりといった、そのような癒しのわざを行う癒し主であることを知っていた。
自分たちも癒してほしい、そんなお力があるならばせめて触りたい……私の卒業した東京の大学の近くには、「おばあさんの原宿」と呼ばれる商店街があり、加齢によりからだがいうことを聞かなくなったお年寄りが跡を絶たなかったが、彼らは、イエスさまのことをそのような、「ご利益」のあるお方と考えたにすぎなかったならばどうだろうか。このお方ならばローマの圧政からわれら神の民を解放してくださる王となられる、私もこの王さまに近づこう、と思った程度で、イエスさまのことを正しく理解していなかったとしたらどうだろうか。
ご利益信仰というものは突き詰めれば、人間中心の信仰である。病気がいやされるのはまことに結構なことだが、それを求めるのは自分の欲望を満足させるためであり、いやしてくださるお方に献身し、その素晴らしさを生涯宣べ伝えるためではない。
ただ、それなら、イエスさまは彼らに関わられなかったのだろうか? そうではない。やはり関わっておられた。ただし、彼らの望む方法によってではなく、イエスさまの定められた方法によって彼らに関わられた。それは「みことばを教える」ということによってである。
彼ら群衆がほんとうに求めるべきは、「神の国とその義」であった。神さまが統べ治める御国がこの地に来るように、御国を生きる民として召されている以上、いにしえから語られてきたみことばをどのように消化し、具体的に実践すべきか……。
イエスさまは無知蒙昧で自分のことばかり考えていたような民に教えてくださることによって、民に対するみわざを果たされた。彼らがもし、イエスさまに触れたとして、それで病がいやされたとして、その体験は一時的なものにすぎない。イエスさまがほんとうはどのようなお方かわかっていない以上、そうなのである。だから彼らは、イエスさまの語られるみことばによって、そのみことばを自分たちに語ってくださるイエスさまがどのようなお方なのか、知る必要があった。
イエスさまが彼らを教えられたのは、神さまとはどのようなお方かを語られることにより、彼らにとっては、機械的にしか信じることのできなかったお方が、実はお交わりできるほどすぐ近くにおられ、宗教生活のひずみで負いすぎるほどの重荷を負わせられ、疲れ切っていた自分たちの、その重荷を代わりに負ってくださり、解放してくださるお方ということを学び、神さまとの新しい関係に入れられるためであった。
私たちにとって、神さま、イエスさま、聖霊さまがどのようなお方であるかを普段からみことばから学び、このお方とつねに交わりを持っていないならば、神さまというご存在が頭の理解だけのものになってしまい、疲れ、重荷から解放してくださるイエスさまの慰めを体験できない。十字架にかかってくださるほどに私を愛してくださったイエスさまの愛が自分のためのものだと受け取り切れない。
私たちは体験のあるなしで信仰生活の喜びのあるなしを測ってはならない。みことばに普段から聴いて、みことばは神さま、イエスさま、聖霊さまをどのようなお方だと証言しているかを、しっかり受け止めていく必要がある。ディボーションや聖書通読は、それをしないと罰が当たるというような性質のものではない。しかし、ディボーションや聖書通読をすることで、神さまがどのようなお方かを正しく理解するならば、このお方がともにいてくださる恵みを私たちはきちんと体験でき、神さまに感謝できるようになる。
さて、イエスさまを証しするのはみことばであり、私たちはみことばを聞く必要があるが、このケースはどうだろうか? 11節、12節。イエスさまはこの者の証しを禁じられた。しかし、私たちは思わないだろうか?「あなたは神の子です」ということは正しいではないか、何がいけないのか?」なぜ禁じられたのだろうか?
それは、その証しめいたことばを語った者が、「汚れた霊ども」であったからである。けがれた霊は人から追い出され、神の子に滅ぼされるまさにこの瞬間、このことばを言った。問題なのは「何を言うか」ではない。「誰が言うか」である。異端の教祖もイエスさまは神の子であると言う(だからこそ彼らは「キリスト教」を標榜する)。しかし、それが正しいからと、私たちはその教祖を信用するだろうか。むしろ、そんな証言は私たちキリスト者にとって、百害あって一利なしである。
同じことで、イエスさまが神の子であると証言するのが悪霊であるならば、それはイエスさまの栄光を顕したことにならない。神の名がみだりに口にされているという事態である。異端のような惑わす者、悪魔と悪霊に導かれた群れは、イエスさまの御名を用いるが、信じてはいけない。第一ヨハネ4章1節から3節のみことばで判断できる。彼らはイエスさまを語っても、イエスさまを主とする生き方に人を導くことはしない。異端というものはキリスト教会の外部のみならず、内部からも起こってくるものだけに、このみことばを心に留めてしっかり警戒する必要がある。そのようなものがいかにイエスさまを語ろうとも、一切信頼してはならない。
しかし、悪霊はなぜこのタイミングでこのような暴露をしたのだろうか? それは、イエスさまのみこころどおりに導かれるべき群衆を混乱させるためという意図もあった。群衆はただでさえイエスさまのことを正しく理解していなかった。彼らを神のもとに導くのは、神の子なるイエスさまのみことばであるべきで、間違っても、神の敵であるサタンと悪霊どものことばであるべきではなかった。
私たちはまだまだナイーブである。もし自分が、堅い食べ物はまだ充分に食べられないと思うならば、読むべきはこの世の常識の本ではない。みことばである。みことばの乳を求めよ(Ⅰペテロ2:1~2、ヘブル5:12~14)。生き方指南のような本はもっともらしいことを書いてはいるが、所詮聖書には遠く及ばない。なぜかといえば、その生き方指南の源はみことばではないからである。彼らもときにはみことばにかなっているようなことを言うから、役に立つと思えるかもしれないが、イエスさまを主と告白させるみことばではない以上、ほんとうの意味で私たちの霊とたましいを生かすことはできない。
イエスさまは、群れなしてご自身のもとに来られた善男善女をどう導かれたか、といえば、それはみことばによってである。私たちは今、手に手にみことばをもっている。これはすごいことである。それは、群衆が一斉にイエスさまの同じみことばを聞けた状態と同じことである。私たちはともに耳を傾けることで成長する。ともに耳を傾けることでひとつとなる。ともに耳を傾けることでともに御国を理解し、ともに御国を生きる者となる。こうして私たちは、「群れ」から「弟子」へと成長させていただける。