聖書箇所;ヨナ書1:1~17/メッセージ題目;「それでもみこころに導かれる」
先月でマルコの福音書の連続講解が切りのいいところで終わったので、今月は夏のスペシャルというわけではないが、別の箇所から学ぶ。今月はヨナ書から学びたい。
ヨナは、ニネベという都市に行って宣教せよと神から命令が下ったにもかかわらず、その命令から逃げ、まったく方向のちがうタルシシュという町に行く船に乗った。すると、その船が荒波に遭い、ついにはヨナが荒波を鎮めるために海に投げ込まれるという、短いながらも波乱万丈の物語、ヨナ書はこんなドラマティックなシーンから始まっている。
ヨナは、ニネベに行けという神さまのご命令に従いたくなかった。それはなぜか、そのことを正確に理解するために、まず、ヨナが行くように召されたニネベという都市と、聖書のほかの箇所に書かれたヨナの活動について、まず学ぼう。
ニネベという都市は、ヨナの活動した紀元前8世紀当時の中東社会で最強の国家だったアッシリア最大の都市で、のちにヒゼキヤ王時代のユダを攻撃したセナケリブ王の時代に、アッシリアの首都になった。
アッシリアは周辺国家に圧力を加え、アッシリアに比べればはるかに弱小国のイスラエル王国も抑圧された。ただ、その当時のイスラエルはみこころにかなったよい国とは言えなかった。歴代の王たちは揃いもそろって偶像礼拝者だった。ソロモン王の死後に南北に分裂したイスラエルは、南王国のユダはまだよい王がいたが、北王国イスラエルは、聖書の評価から見れば落第生の王ばかりだった。
ヨナについては聖書にこのような記述がある。列王記第二14章23節から27節。……北イスラエル王国にはヤロブアムという王が2人いたが、こちらのヤロブアムは2世のほう。ヤロブアムもまたほかのイスラエルの王同様、偶像礼拝をするような悪い王だったが、それでも、イスラエルの領土を回復するために主に用いられた人物だった。
もともと、イスラエルの領土が減らされたのは、列王記第二10章の32節から33節までをお読みすると、ハザエル王の統治するアラムの攻撃によるものだったが、それは32節にあるとおり、主のご主権によることだった。
なぜ、このような懲らしめを、主は愛するご自分の民であるはずのイスラエルに対して加えられたのか? それは、直前の10章31節のみことばにほのめかされている。
この箇所の「ヤロブアム」とは、分裂王国となったイスラエルの初代の王であったヤロブアム1世のこと。ヤロブアムは、イスラエルを統合するために、金の子牛の偶像をつくって礼拝させるという、イスラエルの王にあるまじき罪を犯した。一方エフーは、ヤロブアム一世、ナダブ、バシャ、エラ、ジムリ、オムリ、アハブ、アハズヤに続き、10番目に北イスラエルの王になった人物で、アハブ王とその妻イゼベルによるバアル神信仰をイスラエルから追放したということで、その子孫が四代目までイスラエルの王座に着くことを主から約束されるという祝福をいただいた。
しかしエフーは、ヤロブアムの罪、すなわち金の子牛礼拝をやめさせなかった。依然として偶像礼拝者であり、イスラエルを偶像礼拝の道に引き込んでいた。イスラエルの領土が削られたのは、そのような王の主に対するいいかげんな態度、偶像を愛する態度に対する懲らしめであった。
そのようにしてアラムを通して領土が削られたイスラエルの王たちは、たしかにエフーの子孫、アハズ、ヨアシュ、そしてこのヤロブアム二世が代々に王座に着いて、主の祝福の預言は成就していた。しかし、やはり主の与えられた預言は四代目まで王座が続く(四代目までしか王座が続かない)というものだったように、エフーの王朝を終焉させてしまうほど、ヤロブアム2世の偶像礼拝はひどかった。
しかし、希望もあった。このとき、ヤロブアム2世に、アラムに対し戦いを仕掛けよ、そうすれば領土を回復すると預言したのが、このヨナだった。イスラエルの存亡にかかわるような危機的な状態の中で、神の民イスラエルの預言者としての矜持にかけて、王に預言を伝え、果たしてその預言どおり、イスラエルに回復をもたらした主の器、それがヨナだった。
そういうわけで預言者ヨナは、イスラエルを盛り上げるうえで大きく用いられた人物だった。イスラエルという国に対する愛国心ももちろんあったゆえに預言者でありつづけた。その愛国者らしい一面を念頭に置いて考えるべきことだが、今度はそんな彼が、まったくちがうことに用いられようとしていた。
それは、イスラエルを呑みこむような強大国アッシリア最大の都市、ニネベに行って、主のみことばを宣教せよというものだった。理由は2節にあるとおり、「彼らの悪が神の前に上ってきたから」ということだった。
もはやどうにもならないほど主に対する悪に満たされたニネベ……そこに、神のことばを伝えに行け……いや、あんな敵国、神の敵の民族に、救いのことばを伝えるなんて、そんなことができるものか! ヨナは神に反抗し、3節の行動に出た。
ニネベは、イスラエルの首都サマリヤから北東に1000キロほど行った内陸の都市である。しかし、タルシシュは、地中海を経て西の果てに行った場所であり、今日のスペイン南部と推測されている。ヨナの取った行動はまるで、北海道に行けと言われたのに、フィリピンとか、まったくちがう国に向かったようなものである。
ヨナがそのようにまったく違った方向に向かった動機が、「主の御顔を避けたから」であると、みことばには2度も繰り返して語られている。主のみこころは何であるか、ヨナははっきりわかっていたが、従いたくなかった。主の民を苦しめるアッシリアのニネベの者たちに、貴重な福音など伝えるものか!
しかし、ヨナの乗った船は大きな嵐に遭い、難破しそうになった。4節のみことばにあるとおり、神さまが大風を海に吹きつけられたからである。この嵐は、神さまがご自身に反抗するヨナひとりを取り扱うために備えられたものでした。ひとりの人を悔い改めに立ち帰らせる神の大きなみこころは、時にものすごい形をとって現される。主はあらゆる環境を用いても、ひとりの人を本来の道に引き戻される。私たちも例外ではない。私たちを取り巻くあらゆる環境を用いて、主はご自身のみこころを私たちに現してくださる。
しかし、船に乗っている人は、それを知る由もない。乗組員たちは、それぞれの信じている神に祈ったり、船の積み荷を海に捨てて被害を小さくしようとしたりした。ところが、肝腎のヨナはと言えば……船底に降りていって、そこで横になって寝入っていた。まるで、これで死ねるなら死んでもいい、とでも思っているようである。
主の御顔が見えなくなった人は、自分のいのちも、人のいのちも、何とも思うことができなくなる。しかし、主はヨナと、船に乗る人たちを捨て置かれなかった。主は船長を用いられた。彼は船底に降りていき、そこで横になっているヨナを見つけ、何を寝ているのか、起きて、われわれが滅びなくて済むように、あなたの信じる神に祈れ、と命じた。
7節に入り、場面は急展開する。舟に乗る者たちは、このわざわいは船にいるだれかのせいで起こったものだと、霊的な感覚から感づいていたようである。そこで、みなでくじを引き、だれのせいでこうなったのかを知ろうと発案する。
くじを引くと、そのくじはヨナに当たった。そこで彼らは、ヨナの正体をあれこれ尋ねた。ヨナはその問いに、自分はヘブル人、つまりイスラエル人であり、海と陸をつくられた天の神、主を恐れる者であると明かした。
この答えに一同は恐れた。天地万物をお造りになった神を礼拝し、そのみこころを知る者が、なぜこのような海をも揺り動かす神のわざわいを引き起こしたのか! しかし、そうこうしているうちに、海はますます荒れてきた。このままではだれも助からない。一同はヨナに、あなたのことをどのようにすれば海が鎮まるか、と問いかけた。ヨナは、この嵐は自分のせいで起こったのだから、私を捕らえて、海に投げ込んでください、と答えた。
しかし、そんな人のいのちを粗末にするようなことは、いかに嵐に遭っていのちの危機に瀕している彼らにも、簡単にできることではなかった。彼らは努力して、船を陸に戻そうと、一生懸命船をこいだ。しかし、海はますます荒れる一方だった。
ついに彼らは、自分たちがこれまで信じてきた神々ではなく、天地万物の創造主に祈りをささげた。14節。
ヨナは、自分のことを海に投げ込んでほしいと言ったが、自分から海に飛び込んで人身御供のようになろうとしたわけではなかった。船乗りたちに自分のいのちをゆだねたのであった。しかし船乗りたちはここにきて、天地万物を統べ治められると同時に、人のいのちを主管しておられる神への、限りない恐れを抱いた。どうか、あなたを恐れるこの男を海に投げ込んだからと、その血の責任を私たちに問わないでください! そして彼らは、ついにヨナを海に投げ込んだ。すると……聖書の表現をそのまま用いると、「激しい怒りがやんで、海は凪になった」。
この荒海は、神の激しい怒りを具現するものであった。しかし、神の怒りは、ヨナのみならず、「それぞれの神」を礼拝する者たちに対しても向けられていたのではなかったか? だが神は、ヨナというひとりのしもべの犠牲を通して、この偶像礼拝者たちを、まことにご自身を恐れ、礼拝する者たちへと変えられた。16節。彼らは主を恐れ、主にいけにえをささげて礼拝している。
さて、マタイの福音書12章38節以下に、イエスさまがご自身をヨナになぞらえるエピソードが出てくる。パリサイ人や律法学者はイエスさまに、しるしを見せてほしいと迫ったが、イエスさまは、ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられないと語られ、それに続き、ご自身のことを、ヨナよりもまさったものである、すなわち窮極のヨナはイエスさまである、とお語りになった。
ヨナ書第1章を見てみると、ヨナがイエスさまの象徴であることが表れている。ヨナは、ご自身に反逆する人を滅ぼそうとする御父の怒りをなだめるために、荒海に投げ込まれた。
しかし、それで神の怒りは和らぎ、海は静かになった。イエスさまの十字架というなだめの供え物によって、御父の怒りが和らぎ、人が御父と和解する道が開かれたことと同じである。実際、ヨナを海に投げ込んだ彼らは、それぞれが信じていた神々に礼拝することをやめ、まことの神を礼拝する者たちへと変えられた。
しかし、ヨナはあくまでイエスさまのモデルにすぎない。イスラエルから罪深いニネベに遣わされ、彼らを悔い改めさせる使命を帯びたヨナは、たしかに、天の御国から罪深いこの世に遣わされ、彼らを悔い改めさせる使命を帯びたイエスさまの象徴であったが、イエスさまが御父に従順に歩まれたのに対し、ヨナの心は反抗心でいっぱいだった。
それでも、神さまはヨナのことを見捨てず、また、ヨナによって宣教され、悔い改めていのちを得るべきニネベのことを見捨てず、ヨナに取り扱いの御手を伸ばされることをやめられなかった。神の取り扱いは時に、とても厳しいものになるかもしれない。時にはこの時のヨナのように、周りの人に相当な迷惑をかけてしまうこともあるかもしれない。
しかし、信じていただきたい。神はこのような大いなる取り扱いを通してでも、ご自身の愛を私たちに知らせ、ご自身の使命に立ち帰らせてくださる。私たちは従順になる上で葛藤するでしょう。イエスさまでさえ、十字架を前にして血の汗を流して葛藤されました。いわんや私たちが、主のみこころに従順に従う上で葛藤せずにはいられようか? しかしそれでも、神は私たちのことを、みこころに従う祝福が得られるように、絶えず愛のうちに導いてくださる。
私たちには今、どのようなみこころが与えられているだろうか? 従順になれなくて葛藤していないだろうか? しかし信じよう。ヨナが信じ、私たちの信じているお方は、天地万物を創造された創造主であり、それとともに愛のお方であり、私たちが今考えているよりも、はるかに偉大なお方である。
私たちの偉大な信仰が私たちをりっぱな人にするのではない。私たちは相変わらずみっともなくても、神が私たちのことを限りなく愛して、私たちを通して働いてくださる。私たちは葛藤しながらでも、主のよきみこころを信じて、従っていこう。主が私たちを通して働いてくださるという、この信仰を持ち、今日も、そして明日からも、終わりの日までも、この国の救いのために、ともに用いられていこう。主はヨナを愛されたように、私たち働き人を愛してくださる。