聖書箇所;マルコの福音書5:21~34/メッセージ題目;「一人に注目されるイエスさま」
今日の箇所は、先週からの流れで行けば、ひとりの人を大切にされるイエスさまのお姿にどうしても目が留まる。イエスさまは押し寄せる群衆をあとにして、ゲラサ人の地に行って墓場に住む狂人を癒されたが、わざわざこの人の救いのために嵐吹くガリラヤ湖を渡っていかれたかのようである。そして今日の箇所。イエスさまは一行とともに戻ってこられ、引きつづき大勢の群衆がつき従っていったが、会堂司ヤイロ(あるいはその娘)、そしてひとりの女性と、イエスさまのご関心はどこまでも、ひとりの人にあったことがわかる。
21節。イエスさまはゲラサ人の地から立ち去るように言われ、再びガリラヤに戻られた。イエスさまはデカポリスにいられなくなったわけだが、先週お話ししたとおり、これは宣教の失敗ではない。神の国の宣教ということならば、イエスさまが悪霊レギオンを追い出されたその男の人が担ったわけである。イエスさまが再びガリラヤに戻られたということは、神の民の住むこの地においてはまだイエスさまのお働きが残されていた、ということである。
ガリラヤの人は物分かりが悪かった。イエスさまがたとえで神の国について話されても、その場の雰囲気で、いい話、と思ったかもしれないが、そのほんとうに意味するところを食い下がってイエスさまにお尋ねする「弟子」になれたのは、ほんのごく一部の人でしかなかった。しかし、イエスさまが彼らのことをお見捨てにならなかったのはなぜだろうか? そこに、まことの信仰をもってイエスさまに近づく人がいたからである。
22節、23節。会堂司ならば、普段当たり前のようにして、パリサイ人のメッセージを聴きつづけていた人である。もし、パリサイ人にあおられていたならば、むしろイエスさまを排除する側に回ったことだろう。しかしヤイロは、会堂にてイエスさまが病気を癒されたり、悪霊を追い出されたりするようなみわざを行なっておられたのを目撃し、それを見て、この方こそまことの癒し主、救い主だ、と信じ受け入れていた。
折しも、彼の娘が死ぬような病気にかかっていた。12歳。ちょうどうちの娘たちくらいの歳である。私はもし、うちの娘たちが重い病気にかかったならば、主よみもとに近づかん、ああ、これで娘も天国行きですね、なんて平静な気持ちではとてもいられなかろう。死に物狂いでお祈りするはずである。現に、上の娘が予定日までまだ3か月のタイミングで、切迫早産になり、このままでは危険、となったとき、おそらく今振り返ってみても、人生であのときほどお祈りしたことはなかったと思う。いわんや、ここまで育ち、さらにどんな将来が待っていることかと期待しながら育てているときにそんなことになったなら、と、考えるだけで、神さま、それだけは! と思ってしまう。
しかしヤイロにとっては、大きなリスクと隣り合わせだった。もし、会堂司ともあろう者が、イエスさまのことをそれほど信頼し、イエスさまに神の子としての力が働いていることを認めるような信仰があることが、ただでさえイエスさまのことを目の敵にしている、メインラインの宗教指導者たち、パリサイ人たちにわかったりしたら、彼らからどんな制裁が待っているか……しかし、そのような人を恐れる思いは、ほんとうの意味で神さまを恐れ、神さまにすがる信仰に呑み込まれた。
ヤイロには、イエスさまが来てくださったならば、そして、人々から悪霊を追い出され、病を癒されたその御手を娘の頭に置いてくださるならば、娘は必ず癒される、その信仰があった。その信仰は、パリサイ人の「空気」だけではなく、「イエスさまは俺たちのものだ。邪魔をするな。勝手にどこかに連れて行くな」というような、群衆が醸し出していたその「空気」をも突破した。だれから何と思われようと、イエスさまにいらしていただかなければならない、彼には強い信仰の行動があった。そして、イエスさまにみわざをかなえていただくために、急ぐ、急がせるという行動もまた伴っていた。
イエスさまはヤイロとともに出発された。しかし、24節。群衆は行く手を阻むがごとく押し迫った。イエスさまがヤイロのところに行かれるのがみこころですから、どうぞ、行ってください、と、お譲りすることはしなかった。むしろ、これ幸いと我も我もとイエスさまに押し迫る、それが彼ら群衆の取った行動だった。
この群衆の行動を、私たちはどう評価するだろうか? イエスさまの邪魔をしてけしからん、と思うだろうか? しかし、ここはどうか、私たちがこの群衆の中にもしもいたならば、どうしただろうか、と考えてみよう。やめようよ、イエスさまの行くところに行かせてあげようよ、となるならば、何のためにイエスさまのもとに来たのだろうか? むしろ、厚かましいくらいに、祝福を求めるくらいでちょうどよくはないだろうか? こんなことでイエスさまは怒らない。それが証拠に、もし、こうして群衆が行く手を阻むことがイエスさまのみこころにかなわないことならば、イエスさまは奥の手を用いて、群衆の間を不思議なようにすり抜けて先へ行かれるだろう。これは実際なさっていることである。
しかし、群衆がこうして押し迫るままにされたのには、もうひとつ意味があった。それは、そうでもしないとイエスさまのみもとに行けない人がいたからであった。25節。長血、すなわち、血の漏出を伴った婦人病を患った女性がいた。このような漏出を病むことはからだが衰え果てることももちろん問題だが、ユダヤの宗教社会では避けられる人という扱いを受け、共同体から除け者になる運命であった。二重の苦しみを負っている。
彼女は治りたかった。だから治るためなら何でもした。しかし26節。元気になりたい、ユダヤの宗教共同体に属したい、という思いから彼女は足元を見られ、医者たちに金品を巻き上げられた。そして彼女は無一文になり、病気はもっと悪くなった。踏んだり蹴ったりとはこのことである。
しかし、この世の方法で一切絶望に追い込まれたとき、私たちには最後に頼るべきお方がおられる。イエスさまである。彼女はイエスさまのことを聞いていた。27節、28節。このお方に触れさえすれば、たとえお衣の裾にでも触れさえすれば、きっと治る。彼女には、イエスさまというお方が、救い主、癒し主、全能の創造主であるという信仰があった。
それでも、彼女はヤイロのように、堂々と出られるような勇気はなかった。なにせ人々から除け者にされるような病気持ちである。人目を避けて生きてきた者である。だから、彼女の取った行動は、イエスさまに声をかけていただいて、という、能動的なイエスさまのみわざを期待してのものではなかった。いわば「どさくさにまぎれて」イエスさまの力を頂戴した信仰であった。
しかし、彼女はどうなっただろうか。29節。癒されたのである。彼女の切なる思いを、神さまはみこころに留めてくださった。これで、彼女はもう、こそこそ生きる必要はなくなった。
だが、彼女がそのまま去ることを、イエスさまはお許しにならなかった。30節。これは、イエスさまに対するふさわしい信仰を持った人がそこにいた、その人と話をしなければならない、と、イエスさまが心から願われた、ということである。イエスさまが求めていらっしゃるのは、このように、ご自身に対する信仰をもっている人、その「ひとり」に注目されるのである。
しかし、弟子の当面の関心はそこにはなかった。まずはイエスさまのことを、ヤイロの娘のところに急いで行かせなければならない。イエスさまのおこころよりも、状況のほうが気になる。これは、教会や教職者によくあること、陳腐な言い方になるが、「教会あるある」「牧師あるある」である。しかし、イエスさまはここであくまで、だれが触ったかにこだわりをお見せになった。私たちはつい、イエスさまのおこころを考えずに突っ走ることの多い者だが、時には立ち止まって、イエスさまが何を願っていらっしゃるかを知る勇気も必要である。
ついに、彼女は名乗り出た。恐れおののきつつであった。イエスさまの歩みを止めてしまって、イエスさまにも、ヤイロにも申し訳ない、という恐れもあったかもしれない。しかしそれ以上に、彼女には、何もかもお見通しのイエスさまへの恐れ、これほどまでの病を一瞬にして癒されたイエスさまへの恐れ、そして、こんな私ひとりに注目してくださっているイエスさまへの恐れがあったと見るべきであろう。あらゆる恐れがないまぜになって、彼女はイエスさまの前に出ていった。
しかし、イエスさまは彼女になんとおっしゃっただろうか。34節。イエスさまは、まことの癒しを宣言された。それと同時に、まことの救いを宣言された。イエスさまが、救われたと宣言なさった以上、彼女は救われたのである。
私たちにも、イエスさまとのこのような出会いがあったはずである。救われたくて、ただやみくもにイエスさまのところに行った。すると、イエスさまが私のことを見つけてくださり、私はイエスさまの御前に、包み隠さず自分のことをお話しした。すると、イエスさまはそんな私のことを救ってくださった。
この女の人は、どうしようもない病気で、自分のことをけがらわしい罪人と認めるしかなかった。自分もそう認め、人からもそう思われていた。そこから立ち直りたいともがく努力さえ、悪い人間たちは利用するだけ利用し、彼女にはもはや何も残されていなかった。しかしイエスさまは彼女を癒され、苦しみから解放され、健康を与えてくださった。
よく、苦しみの中で神の恵みを知ったと人は言う。それは素晴らしいことなのだが、人はいつまでも病気でいることを神の恵みと思い込み、そこから抜け出さないことを当然のように思ってはいけない。癒されたいと願って、まずはイエスさまの御前に出るべきである。
それにしても、ヤイロのように、あるいはこの婦人のように、もはやいのちさえおびやかされるような苦しみにでも遭わなければ、人はイエスさまを求めないものなのだろうか? ほんとうに人間は、自分の力で何とかできると考えてしまうような、うぬぼれた、愚かな存在だが、主はそのように人を砕かれることをとおして、かえってその人を主へと向けさせてくださる。そのように主に向かう「ひとり」のことを、主は愛してくださる。この恵みを私たちは知っているだろうか?
私たちは群衆のひしめく中、どさくさにまぎれてイエスさまにふれて事を済ますような者ではない。イエスさまに声をかけていただく者である。いまもなお、私たちは苦しんでいる。健やかではない。「苦しむことなく、健やかでいなさい」というイエスさまの御声を必要としていないだろうか? その御声を聴くために、信仰をもってイエスさまに近づこう。イエスさまはあなたという「ひとり」に目をとめてくださるお方である。