聖書箇所;マルコの福音書6:14~29/メッセージ;「みことばに生き、みことばに死ぬ」
今日の箇所は先々週のマルコの福音書の箇所の続きだが、期せずして、というか、今日は主の晩さんを執り行う。今日の箇所は、主の晩さんの主題である、主イエスさまの死を告げ知らせることときわめて関係が深い。今日の箇所の扱う主題は、ひとことで言って「殉教」である。大きく2つに分けると、殉教に至る背景、そして、殉教の場面、となる。
まず、殉教に至る背景から見てみよう。14節から16節によると、バプテスマのヨハネのことは、ヘロデが死刑に処したことがわかる。しかし、いま人々の間では、ことばとわざに力あるお方、イエスさまが活動していて、このお方は、死んだヨハネがよみがえったのだとも、旧約の預言者エリヤが現れたのだとも、いにしえの預言者がよみがえったのだとも言われていた。この人々のうわさはヘロデの耳にも届いた。しかし、ヨハネの首をはねて死刑に処したのは当のヘロデであったので、どれほど当惑したことだろうか。
ここでわかることは、イエスさまというお方は、生きながらにしてすでによみがえりのいのちを生きておられたと見なされていた、ということである。イエスさまはのちに、友であるラザロが死んだ折、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きる」とおっしゃった。ラザロのきょうだいであるマルタがそれを聴いて、きょうだいを亡くした悲しみの中にありながらもすんなり受け入れることができたのは、イエスさまがよみがえりである、ということを、イエスさまに対する人々のうわさからも感覚的に知っていたからだろう。事実そのとおり、イエスさまはよみがえりであり、いのちであられた。
ともかく、イエスさまが働かれたことは、否が応でもヨハネのことを連想させずにはいられなかったわけだが、17節から20節までは、ヨハネとヘロデの関係を語っている。ヘロデは腹違いの兄弟ピリポの妻ヘロデヤを奪い、自分の妻にした。このことはもちろん、律法が禁止していることである。レビ記18章16節、同じくレビ記20章21節で戒められているとおりで、これらのみことばによれば、これは単なる不法行為ではなく、姦淫の罪に該当するものである。
このようなヘロデのことを、ヨハネは糾弾した。ヨハネの糾弾はまったく正当なものだったが、この糾弾は、ガリラヤという宗教的法治国家の長たるヘロデの名声を地に落とすには充分だった。ヘロデはヨハネを逮捕した。聖書の傍証資料として価値がある、ヨセフォスという歴史家の書いた『ユダヤ古代史』という書物によれば、ヨハネの罪名は「国家反逆罪」であった。
しかし、このヨセフという人物は、俗っぽい言い方をすれば「転んでもただでは起きない」人だった。獄中でもなお語りつづけ、ヘロデの面前でも語りつづけた。ヘロデは、喜んでその語ることばに耳を傾けたとみことばは語る。そしてヘロデは、非常に当惑したともある。そう、彼の名声を地に落とした人物は、これ以上ないほどのメッセージをもってヘロデに語りつづけ、それはヘロデの心を動かした。ヘロデは、このような正しい人を囚われの身にしたなんて、と、さぞ戸惑い、また、問われたことだろう。
私たちも、みことばにより問われるという経験をする。ときにはそのようなことばを、人の口をとおして聞くことがある。私たちはそんなとき、その人に対して激しい反発を覚えるかもしれない。しかし、その人がもし、さばくためではなく、愛する思いで語ってくれたのならば、私たちはそのように反発心を覚えたことを、あとで悔い改めるべきであろう。それが神の前に生きる人の態度である。
しかし、ヘロデがそうであっても、収まらない人がいた。妻のへロディアだった。ヨハネのヘロデに対する糾弾は、そっくりそのまま、ヘロデヤにも向かうものだった。ヘロデヤはヨハネのことを殺したいほど憎んだ。
人を悔い改めに導くみことばは、ありがたく受け取るべきものである。しかし、もし人が傲慢で、心がかたくなならば、そのみことばは受け取れず、そのみことばを伝えてくれるありがたい人への激しい反発を覚えるしかない。私たちは、みことばを語ってくれる人に対して柔和な心でいるか、よくよく自分自身を点検する必要があろう。
21節から、ヨハネの殉教の記録は後半に入る。まず、「良い機会が訪れた」とあるが、これは言うまでもなく、ヨハネを殺したいへロディアの願いを遂げる上での絶好の機会、という意味である。
イエスさまは十字架にかかられる前の晩、ゲツセマネの園にやってきた、ご自身を逮捕しようとする者たちに対し、「今はあなたがたの時、暗闇の力です」とおっしゃった。それは、十字架という、人が神に至る唯一の道を開かれるため、神さまがあえて悪魔とその群れに動く時を許された、ということであったが、この、ヨハネの殉教という「時」も、悪魔が主導権を取って動いた時というわけではなく、全知全能なる神さまの主権のもとに許されたできごとであった。
しかし、その瞬間は、鮮やかなほど皮肉なものだった。へロディアはおそらく、自分が前の夫との間に設けた娘サロメが宴席で舞を舞えば、ヘロデが上機嫌、太っ腹になることを見越していたのだろう。実際、ヘロデは上機嫌になり、求めるものは何でもやろう、などと言っている。
また、サロメはへロディアの罪の性質を受け継いで残忍だった。自分のほうびにバプテスマのヨハネの首を求めなさいと母親にそそのかされても、それを断ることをせず、ヘロデの戸惑い、心の痛みをよそに「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、いただきとうございます」と堂々と言ってのけた。ヘロデの誕生を祝う、すなわち、いのちの主のなる神によっていのちが与えられたことを祝う場を、「女より生まれた者の中で最もすぐれた人物」とイエスさまが最高の評価をなさったヨハネが、むごたらしく殺される場としたのであった。
ヨハネは、神のことばに生きた。そして、神のことばに死んだ。この姿は、預言者の生き方であり、イエスさまはその生き方を最もはっきりと実践されたお方だった。
イエスさまは肉体を取られた神のみことばとして、語ることばは神のことばであり、その語ることばによって聴く人にいのちを得させ、ご自身をさばく者には神のさばきを宣言された。まさにみことばによって生きられたお方である。
そしてイエスさまは、みことばに死なれた。宗教指導者たちがイエスさまを十字架につける決断をしたのは、イエスさまのみことばを聞いたからだった。大祭司カヤパが「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子神の子キリストなのか、答えよ」とイエスさまを詰問すると、イエスさまは「あなたが言ったとおりです」とお答えになり、さらに、ご自身が、預言の書に書かれているとおりのやがて来られるメシアであると語られた。しかし、それは彼らには冒瀆とみなされ、そのまったく正しいみことばゆえに、イエスさまは十字架につけられることになったのだった。まさにイエスさまは、みことばに死なれたのだった。
私たちはヨハネのようには、そしてイエスさまのようには、みことばに生きることも、ましてや死ぬこともできないような者ではないだろうか。ゲツセマネの園で眠りこけてしまったような弟子たち、鶏が鳴く前に3度イエスさまを知らないと言ってしまったようなペテロにシンパシーを覚えるのが当然の、弟子に召されていながら弟子になりきれない存在、それが私たちである。
そんな罪深い私たち、弱い私たちだからこそ、イエスさまは私たちが果たせなかった神への従順、律法の完成を成就するため、十字架にかかってくださった。私たちはイエスさまを信じる信仰によって、みことばに生き、そしてみことばに死ぬ栄光へと導かれる。これは一朝一夕にできることではない。日々の神との交わり、聖徒たちの神にある交わりを通し、つねに十字架と復活を体験してこそ、それは可能となる。
今日執り行われる主の晩さんは、みことばに生き、みことばに死なれたイエスさま、そして、みことばのとおりによみがえられたイエスさまの、そのみからだと血潮にあずかる時間である。私たちはみことばに生き、みことばに死ぬ力を、自分の努力で持ち合わせることはできない。ただ、イエスさまとの交わりによって、そのような神の栄光を顕す実を結ぶのである。その交わりを体験する時間として、主が今日の主の晩さんを祝福してくださるようにお祈りする。