祈祷/使徒信条/交読;詩篇132篇/主の祈り/讃美;讃美歌121「まぶねのなかに」/聖書箇所;マルコの福音書7:31~37/メッセージ/讃美;聖歌654「いちど死にしわれをも」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」
メッセージ;「イエスさまはいやし主」
私は医療宣教ととかく縁のある牧師である。私の父からして医師だった(クリスチャンではなかったが)。私が初めて導かれ、バプテスマも受けることになった教会は、医療伝道が母体となって立てられた教会だった。そしてこの教会も医療伝道がもとになって立てられた教会であり、現在も役員にお医者さんがいらっしゃる教会となった。
また一方で、私は病人として入院する機会が人よりも多かった。そのような中で、入院生活をとおして神さまを信じる強い信仰に導かれたこともあった。医療というものはそういうわけで、私にとって特別な存在でありつづけている。医学を専攻して医師になることはなかったが、まことの医者であるイエスさまに日々いやされながら、人をいやされるイエスさまのお働きのお手伝いをさせていただいていることを、つねに思う。
さて、今日の箇所はいやしの箇所である。耳が聞こえない、口で話すことができないというのは、とても不便なことである。一般的に人々の間に成立するコミュニケーション、交わりに大きな支障をきたしている状態である。人は話し合うということをとおして社会の一員として自由に振る舞えることを思うと、聞けない、話せないということは、どれほど大変なことだろうか。
もっとも、現代においては、そのような方々へのバリアフリーの概念が大きく発達した。私は一時期、茨城町役場に赴いて手話を勉強していたが、教えてくださる先生は耳と口が不自由な方だった。しかし、手話を使って教えてくださるその先生の隣には通訳の方がいるので、まったく不便、ということはなかった。そして、手話を用いられる先生の姿を見ていると、手話というものが立派な言語であることがよくわかったものだった。こういう、はつらつとしたお姿を見ていると、ある有名な身体障碍者のことばのとおり、「障がいは不便ですが不幸ではありません」ということばはほんとうなのだろうと思えてくる。
今日の箇所を見てみよう。この、耳が聞こえず、口がきけない人は、少なくとも、イエスさまのもとに連れてきてくれる友達に恵まれていた。それだけでもこの人は不幸ではなかった、といえないだろうか? からだの一部を欠損しても天国に入るほうが、五体満足でゲヘナに入るよりもよい、とイエスさまはおっしゃった。この世の人たちはだいたい、五体満足で便利な生活を享受しているが、彼らは自分が平安な環境に置かれている分、神さま、イエスさまのもとに行こうとしない。それを考えると、この人は周りの憐れみを受けて、イエスさまのもとに連れてこられたわけである。
その意味でこの人は、イエスさまに出会えた分、幸せだった。彼も耳が聞こえず、口がきけなかっただけに、どれほどの苦労を味わってきたことだろうか? しかしその苦労は、イエスさまに出会う道を開いた。まさに詩篇119篇71節の語るとおりである。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」神さまにお従いする道、いのちの道は、苦しみにあってこそ見出させていただくもの。私たちもそのことを、これまでの人生において体験してきたのではないだろうか?
さて、イエスさまの主要なお働きの中に、なぜ、重い病気や障がいを抱えた人をいやされた、という働きがあるのか、考えてみたい。人間とは神のかたちに造られている。そのような人間に神さまは、ご自身をみことばにおいて啓示されているわけだが、みことばを読むと、神さまには顔があり、目があり、鼻があり、口があり、耳があり、手があり、足があることがわかる。これは、人間が自分たちの姿を見て、神さまのイメージをつくり出したということではない。むしろその逆で、人間に顔や目や鼻や口や耳、手や足があるのは、それらのものをお持ちの神さまのかたちに人間がつくられている、ということである。
ということは、それらのものが病んでいたり、障がいを持っていたり、傷ついていたりするということは、その人において、神のかたちがそれだけ損なわれているということを意味する。お医者さんという働きが尊敬されるべきなのは、医術をとおして、患者さんにおいて神のかたちを回復させる働きをなさるからである。
イエスさまが人々をいやされたのも、まさにその次元で考えるべきことである。イエスさまは、生ける神の似姿へと人を回復された。この罪に満ちた地上において、あまりにも人々が病み、神のかたちとして振る舞うべき肉体が傷つき、障がいを負ってしまっていることに、イエスさまはとても心を痛められたのである。
さて、イエスさまはこのいやしのみわざを、あえて群衆から離れたところで行われた。これは、この障がいを持った人をいやす働きが、人々に対するパフォーマンスとして行われるべきものではないことを示している。しかしイエスさまは、彼のことをお癒しになるために、群衆から離れて二人きりのところに連れ出された。イエスさまのみわざ、とりわけ、神のかたちに人を回復されるいやしのみわざは、イエスさまとの一対一の場で行われる。そこには人の干渉の入り込む余地がない。私たちにとって個人的なディボーションの時間が必要なのは、このように個人的にイエスさまが臨んでくださり、いやしてくださるみわざが臨むためでもある。
イエスさまはどのようにこの人を癒されただろうか? まず、イエスさまはその人の両耳に指を入れられた。いやし主なるイエスさまのタッチである。イエスさまはこのように、病んでいるところに触れてくださるお方である。そして、つばをつけて舌に触られたとある。つばというものはこの時代、ギリシャ人の間でもユダヤ人の間でも、医療のために用いられた。
こんにち、コロナ下の昨今など特に、人々はつばというものにきわめてナーバスになっているが、本来つばとはそういうものではなかった。私たちは先入観を取り除いてみことばに向かう必要がある。イエスさまはいやし主なる神の権威をもって、つばによりその人の舌をいやされた。
そして天を見上げて深く息をされたとある。これは「嘆息して」とも訳される。イエスさまは神さまだからと、瞬間的に癒しのわざを行われたのではない。全能の神、いやし主であられるイエスさまは、人として苦悩し、嘆息された中で、ご自身も肉体の弱さをまとわれたお方として、人に同情し、その人がいやされ、回復されることを切に願われた。その究極の姿は十字架である。あれほどの苦しみをイエスさまが人の身代わりに負われることにより、人ははじめて罪の赦しをいただき、神さまの御前に行くことのできるものとしていただいた。
こうしてこの人は、いやされた。しかしイエスさまは、この人がだれかにこの癒しのわざについて告げることを禁じられた。それは、この世的な王としてのメシアを待ち望んでいた民が、間違った形でイエスさまをあがめることを避ける意味もあった。また、単にいやされさえすればいいというご利益信仰で人々が押し寄せ、肝心の神の国を宣べ伝える働きが妨げられるのを避ける意味もあった。
そうはいっても、イエスさまが彼になさったいやしのわざは否定できないものであり、その喜びに彼が満たされたのは、当然のことではなかっただろうか。37節の群衆の告白に注目したい。これは、イザヤ書35章5節、6節の、主が臨まれたときどのような御業が起こされるかということを預言したみことばが、そっくりそのまま、彼ら群衆の告白となった、ということである。つまり、みことばはイエスさまのこのいやしの御業において成就した、ということである。
以上の箇所から私たちが考えるべきことは何だろうか? イエスさまはいやしのわざを行われるにあたって、耳が聞こえず、口がきけない人をいやされた。それは、御口でみことばを語られ、御耳で私たちの祈りを聞いてくださる、私たち人間と交わりを持ってくださる神さまのかたちが損なわれているのはいけないからである。私たちはこの肉体の口は話せ、耳は聞こえるかもしれない。しかし、互いに話し合うことばが、神さまの恵みとは無関係のことばかりだとしたらどうだろうか? どうでもいい情報ばかりだとしたらどうだろうか? 耳で聞くにしても、この世の情報ばかりで、神さまの御声を聴いていないとしたらどうだろうか? それは私たちも、神のかたちとしての耳が聞こえず、口がきけないことを意味している。
この障がい者は私たちのことである。私たちもまたいやされなければならない。いやされ、神のかたちに回復された耳で、私たちは何を、いつ、どこで、どのように聞くだろうか? 神のかたちに回復された口で、私たちはたとえばすぐにでもこのメッセージのあとにおささげする祈りの時間に、何を、どのように祈るだろうか?
そしてもうひとつ考えてみたい。この人はいやされたとき、イエスさまのご命令にそむいて言いふらした。イエスさまというお方は憐れみをもって人をいやされるが、その憐れみに満ちた振る舞いを人々は誤解し、正しく受け取らなかった。イエスさまを主とあがめて、その弟子としてお従いしたものはごくわずかであった。私たちは今もイエスさまの癒しをいただいているが、そのような私たちは、イエスさまをどのように理解し、イエスさまにどのようにお従いしているだろうか? このかぎりある知性をもってしては、大いなる主、イエスさまのことを正しく理解することはできない。しかし、イエスさまがご自身を教えてくださる、その教えにしっかりお従いするならば、イエスさまのことがわかる。
神さま、イエスさまを知ることは、永遠のいのちであるとイエスさまはおっしゃった。もちろん、イエスさまのことが今この時点で100%正しく理解できていないからといって、イエスさまが私たちのことをお蕎麦気になることはない。しかし私たちは、今この瞬間にも、イエスさまの御業をいただいている分、イエスさまを正しく知る歩みをしていこうではないか。