何度かお話ししたことがありますが、私が本格的に信仰を持つようになったのは高校2年生のときで、折しもその頃のキリスト教会は、リバイバル、ということを旗印に、集会が派手になったり、大型化したりしていたものでした。私が献身に導かれたのはその高校2年生の夏に参加した松原湖バイブルキャンプのことでしたが、その講師だったアーサー・ホーランド、小坂忠、岩渕まことといえば、当時の大型化する集会のメインで活躍する、言ってみれば、スターのような働き人でした。
松原湖バイブルキャンプは、賛美もメッセージもあまりに恵まれるもので、私はその後も夢中になって、大型の集会、派手な集会に好んで出席するようになりました。それは、そのキャンプから5年後に、もっと本格的に教会が社会に根を下ろしている韓国に留学するまで続きました。
今思えば、松原湖で体験した大きな恵みを、その後も引きつづき体験したかった思いが強かったのだと思います。そのような体験が集中的にできた90年代前半という時代は、いい時代だったと言えるのかもしれませんが、振り返ってみると、現実の自分は、どこまで霊的に成熟しようと取り組んでいただろうか。主に従順にお従いしようとしていただろうか、そういうことを思います。
とは申しましても、やはりあのような恵みに満ちた体験をさせていただいたことは、主に感謝すべきでしょう。当時のキリスト教会の指導者の先生方も、そのような集会が必要と信じて企画していらっしゃったわけで、その取り組みは素晴らしかったと思います。問題は、そのような恵みを体験した者たちが、いかにしてその時与えられた恵みにお応えするかではないかということではないでしょうか。
今日の箇所を見てみますと、ペテロとヤコブとヨハネはすごい体験をしています。山の上で、イエスさまがそれこそ「神々しく」変わられるお姿を目撃する、しかもそこに、あのモーセとエリヤまでもが登場する、という、信じられないような光景が目の前に展開したわけです。私もいろいろな素晴らしい集会に出席しましたが、さすがにここまでのことは起こりませんでした。ペテロとヤコブとヨハネは、実に素晴らしい光景を見る恵みにあずかったわけです。
この光景を描いたこのみことばは、何を私たちに語っているのでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。
まず、1節のみことばを見てみましょう。……またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
わかりにくいことばに思えるかもしれません。特にこのみことばが、9章という区切りのいちばん最初に現れていると、特にそう感じられるかもしれません。しかし、これは先週学びましたみことば、8章の終わりの部分からの続きにあたる箇所です。イエスさまがこのみことばをお語りになった対象は、弟子たち、そして群衆です。イエスさまのみことばに聴き従うことを志して集まってきた人たちです。
そんな彼らに、イエスさまは「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」とおっしゃっています。十字架を負え、と言われて、彼らはぎょっとしたのではないでしょうか。単なる自己否定のレベルではありません。十字架にかからなければならないほどの極悪人、本来ならば神ののろいを受けるべき罪人である、という自覚をもって、イエスさまに従う、ということです。しかし、そのように、このような罪人でもイエスさまにお従いし、イエスさまとイエスさまのことばのために生きるならば、十字架のような悲惨な死を遂げるのではなく、いのちを得るのだと、イエスさまはお語りになりました。
そのように、もしあなたがたのうちに、わたしとわたしのことばのためにいのちを捨てる歩みをする者がいるならば、わたしがこの力をもって神の国を来たらせる以上、あなたがたに死を味わわせることはない、あなたがたは、わたしを信じ従う信仰によって生きるのである、と、イエスさまは約束してくださっているのです。
私たちクリスチャン、主の弟子たちは、十字架を背負ってイエスさまのみあとをお従いすべき存在です。しかし、究極的に十字架を背負ってくださるのはイエスさまです。私たちのためにイエスさまが命を投げ出してくださるからこそ、そして、復活してくださるからこそ、私たちも終わりの日の復活、永遠のいのちの信仰をもって、イエスさまのためにいのちを投げ出すことができるのです。
その前提で2節以下のみことばをお読みしましょう。イエスさまはペテロとヤコブとヨハネの3人を選抜して、高い山に登られました。この山は、ピリポ・カイサリアの北東20キロメートルの地点にあるヘルモン山であると推定されています。もしそうだとすると、現在のシリアとレバノンの国境にある、標高2800メートルを超える、一年中雪をいただく、とても景色のよい山に、イエスさまとその一行は登ったことになります。
そこで何が起こったのでしょうか? イエスさまの御姿が変わられました。御衣が、人間業ではだれにもその白さを出せないほど、白く輝きました。これは、イエスさまの栄光が、人に由来するものではない、神さまゆえのものである、ということを示していました。
折しもペテロは、そのわずか6日前に、イエスさまはキリストであると告白したばかりでした。しかし、彼のキリスト観は、キリストとは死と復活を遂げられることにより人を救うお方であるということが完全に欠落していたため、それをイエスさまによって正していただく必要がありました。彼はなお、キリストとはどのようなお方かということに目が開かれなければならなかったのですが、イエスさまはそのようなペテロたち、十二弟子の中心メンバーに、ご自身が神の子キリストであることを、こんどは目に見える形でお見せになったのでした。
私たちもキリストというお方を正しく知り、永遠のいのちの恵みにあずかるため、栄光に満ちたイエスさまを仰がせていただく必要があります。それでは私たちは、この神の子イエスさまのご栄光をどのようにしたら見ることができるのでしょうか? それは、この礼拝をとおしてです。イエスさまは、今ここに、私たちのただ中におられ、その栄光をもって私たちを照らしてくださっています。以前、ある韓国人宣教師の礼拝メッセージを横に立って通訳したとき、そのメッセージの冒頭で、先生はこうおっしゃいました。「私たちは今、イエスさまが御姿が変わられたその山の上にいます!」通訳していて、とても印象に残りました。そうです。今ここが私たちにとってのヘルモン山、変貌山であると、私たちは信じ受け入れて、主を礼拝するものです。
このお方がキリストであることを弟子たちが悟るうえで、重大な2人の人物が現れました。ひとりはモーセで、ひとりはエリヤでした。イエスさまはしばしば、神さまのみことばのことを「律法と預言者」という呼び方をなさっていますが、モーセは律法を授けた人物であり、エリヤは預言者を代表する人です。そんな彼らははるかむかしの人物ではないか、ここに現れているのは幻ではないか、と見る向きもあるかもしれませんが、あながちそうとばかりも言えません。申命記の締めくくりの部分を見てみると、モーセは死にましたが、モーセのことを葬ったのは全イスラエルではなく「主」であり、しかも、彼の墓を知る者はだれもいない、とあります。モーセは肉体ごと主のみもとに移された可能性があります。また、エリヤはというと、列王記第二によると、生きたまま竜巻に乗せられて天に引き上げられました。死んで墓に葬られたのではありません。すなわち、モーセもエリヤも、どちらも肉体をもって生きたままイエスさまのみもとに現れたとしても、不思議はなかった、と考えられます。
それを目撃するペテロたちは、登山の疲れでしょうか、別の福音書を読むととても眠かったとありますが、眠気が覚め、気がつくと、イエスさまがモーセとエリヤと話し合っておられました。ペテロは取り乱し、こんなことを口走りました。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
ペテロは、模範解答を言ったかと思ったら、イエスさまに対して人間的な忠告をしてしまうような人で、福音書を読むと、ペテロはその語ることばに特徴があることに気がつくのですが、ここでもペテロはそんなことを言っています。それは6節によれば、「恐怖に打たれていて、何を言ったらよいのかわからなかったから」だと説明されています。
幕屋とは本来、どこにでも遍在される神さまのご臨在の現れる場であり、そのご臨在をとどめておく機能を持ちます。ここでイエスさま、モーセ、エリヤのために幕屋を設けたら、その存在を山の上にとどめることになります。それはいかにも恵みに満ちた光景に見え、たしかに素晴らしいものに思えるかもしれません。
メッセージの冒頭で松原湖バイブルキャンプのことをお話ししましたが、教会から一緒に参加したダウン症のあっこちゃんは、キャンプファイアーが終わって、帰りたくない! と大泣きしました。数日間で終わってしまうキャンプがそうであるように、特別な恵みというものは、いつまでもとどめておけるものではありません。主のみこころはどこにあったのでしょうか? 7節のみことばです。
ペテロたちは、はっきりと御父の御声を聴きました。御父ご自身が、イエスさまのことを、愛する御子であるとおっしゃいました。イエスさまが神の御子キリストであることは、御父ご自身が明らかにしてくださったのでした。
御父の御声は続きます。「彼の言うことを聞け。」イエスさまのおっしゃることを聴くこと、これが神さまのみこころです。ペテロは、感激と恐怖が入り混じり、つい人間的な宗教的感情に任せ、言わずもがなのことを口走りましたが、彼が3つの幕屋を立てないで済んだのは、そうすることはイエスさまのおっしゃることに聴き従うことではないと分かったからでした。
信仰生活のすべての問題は、イエスさまのおっしゃることを聞かないことに始まります。イエスさまのおっしゃることを聞かない人は、イエスさま以外の存在の言うことを聴くことになります。それは人であるかもしれませんし、はたまた、サタンであるかもしれません。実際、またまたこうして失言してしまい、いわば父なる神さまからお叱りを受けた形になってしまったペテロは、そのほんの6日前にも、イエスさまに申しあげるべきではないことを言って、「下がれ、サタン」と一喝されています。イエスさまと寝食をともにした一番弟子のペテロでさえ、そのように、いざというときにイエスさまのおっしゃることよりも、サタンの言うことを聞いてしまったわけでした。いわんや私たちは、どれほど意識してイエスさまのおっしゃることに耳を傾けなければならないことでしょうか。
御父の臨在は雲となってみなを覆いました。雲が晴れると、そこにはモーセもエリヤもなく、イエスさまのお姿しか見えませんでした。偉大なモーセの授けた律法、偉大なエリヤに代表されるあらゆる預言者はイエスさまを証ししましたが、彼らはみことばをとおしてキリストを語る「声」にすぎませんでした。イエスさまという実態が明らかにされている以上、彼らはもう表舞台から去り、あとは、人はイエスさまおひとりを見さえすれば充分です。
今年の教会の年間テーマは、「主を仰ぎ見て輝く」です。私たちは輝きそのものであられるイエスさまのそのご栄光のお姿を仰ぎ見、その栄光を映しながら、この世界を輝かせるのです。その生き方は、イエスさまのおっしゃることをお聴きすることによって可能になります。また、ほかの何ものにも目を留めず、ただイエスさまだけしか見えない、そのような、イエスさまだけを見つめて生きる生き方によって可能になります。
私たちを振り返りましょう。私たちはこの時点のペテロのような、ことばにおいても、行動する動機においても、まだまだ未熟なものであるかもしれません。しかし、そのような者も、イエスさまの御声だけを聴き、イエスさまの御姿だけを見て歩むことが許されています。そのように生きることを主は望んでくださっています。主にお聴き従いするかぎり、主の御姿を仰いで生きるかぎり、そのように私たちが成長させていただけることを信じ、主に信頼しながら、今日も、そしてこれからも歩んでまいりましょう。