聖書箇所;コリント人への手紙第二4章16節~18節
メッセージ題目;「落胆しないで生きるために」
7月の礼拝で毎週語ってまいりましたメッセージ、「キリストのからだ」シリーズも、今日で最後となります。私たちが、キリストのからだなる教会のひと枝であるとはどういうことか、いろいろな局面から学んでまいりました。今日は特に、キリストのからだとして生きる私たちは、本来、落胆というものをする存在ではないということについて学びます。
落胆……がっかりするということです。期待して物事に取り組んだが、その結果はよくなかった……そんなとき私たちはがっかりします。子どものときなど特にがっかりすることは多いでしょう。その「がっかり」の積み重ねで、私たちはいろいろなことを悟りながら成長し、やがて大人になります。しかし、大人になっても、がっかりすることというのは多いものです。いえ、がっかり、というより、落胆、ということばのほうがしっくりするものではないでしょうか。予期せぬ病気や事故、事業や資産運用の失敗、家族の中の問題、人間関係のトラブル、人間的にはどうしようもない自然災害……。実に落胆させられることばかりです。
しかし、今日の箇所を見てみますと、パウロはコリント教会の信徒たちに向かって、落胆しない、と語っています。パウロがそう語る最大の理由は、普通に考えるならば問題だらけのコリント教会を前にしても、指導者である自分は落胆していない、ということを、コリント教会の信徒たちにわかってもらうためでした。
落胆ということは複雑な教会の人間関係の中にかぎらず、先ほども申しましたとおり、いつ、どこでも、私たちが生活しているかぎり起こることです。だれであれ体験することです。しかし、私たちクリスチャンは少なくとも、「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」と語られている存在です。落胆することが私たちにあまりふさわしくないのは、私たちは主の光によって明るく輝く存在だからです。それは、私たちだけが快適に生きればよいからではありません。私たちの主にあるよい行いをとおして、周りの人たちが天におられる私たちの父なる神さまをほめたたえるためです。落胆しないといっても、周りと無関係に楽天的に振る舞いさえすればいいということではありません。
私たちは、「自分は落胆しません」と語るパウロの姿から、教会としても、個人としても落胆しないために、明るく快活に振る舞って主のご栄光を顕すために、どのような態度で生きるべきか、特に、何に注目して生きるべきか、いまお読みしたみことばを一節ずつに分けて、3つのポイントからお話ししたいと思います。
第一に私たちは、内なる人に注目します。
16節をお読みしましょう。……ここでは、「外なる人」と「内なる人」が対比されています。私たちは「外なる人」につい注目します。それは、私たちの目に見えるのも、私たちが実際に感じ、考え、語り、行動するのも、すべてはこの肉体、すなわち「外なる人」を介して行われるものだからです。その、厳然と存在する「外なる人」という制約の中で生活する現実から一切自由になることなく、私たちは生きています。
しかもこの「外なる人」は、つねに衰えます。いや、成長期にある子どもは衰えていないじゃないか、とおっしゃる向きもありましょうが、やがてその成長は止まり、衰えていく一方になります。かく申します私も、49にもなりますとしわや白髪が増え、若い頃ほどは体力的に無理が利かなくなっています。いえ、それ以前に、私は中高生のときに病気になって大きな手術をして、両胸ともに大きな傷跡があります。すでに十代の頃から衰えは始まっていたのでした。
そういう現実の中に生きる私たちですが、衰えるということは同時に、天国に一歩一歩近づいていくということも意味しています。多くの人にとって衰えるということが悲しいことにしかならないのは、その完全な衰え、究極の衰えである「死」の向こうにある、イエスさまの待つ永遠の御国に行く道を、そもそも知らないからです。私たちはそうではありません。私たちは究極の衰えである「死」のその瞬間、御国に移されます。
そうだと知るならば、私たちはまず、外の人の衰えにことさらに目を留めないで生きることが大事になります。外の人は衰え、病み、傷つくことばかりで、それを食い止めるにはどうすればいいか、ということばかりを考えてしまいます。なにも、そのような努力が「悪い」と言いたいわけではありません。よい食事をすることも、運動をすることも、みんな大切です。しかし、所詮それは「食い止める」、ないしは「遅らせる」努力であるだけで、衰えを「解決する」、「根治する」ことにはなりません。ただし、これらの努力には一定の意味はあります。それについてはのちほどお語りします。
私たちが目を留めるべきは、「内なる人」です。この「内なる人」は、外なる人が衰えてもなお依然として存在する、私たちの存在そのものであるのと同時に、イエスさまを信じる信仰によって主に贖われ、天の御国に入れていただく保障をいただいた存在です。私たちクリスチャンは、この「内なる人」という存在があるゆえに、その存在をもって天の御国に入れられ、永遠に生きるものです。
この「内なる人」が主と交わり、主を知る知識で満たされ、主の栄光を顕すという、主に喜ばれることを行いたいと願うものです。しかし、外なる人という現実ばかりが見えてしまっているならば、内なる人の持つ底知れぬポテンシャル、すなわち、全能なる主のみわざを、主の手足となって執り行う、主の愛をもって隣人を愛する、そのようにして主のご栄光を顕す、その生き方が、著しく制限されてしまいます。こんな傷ついた自分になんて、こんな弱い自分になんて、こんな未熟な自分になんて、そう思って、内なる人の、主のご栄光を顕したい、顕したい、そのために霊的に成長したい、成長したい、という、聖なる欲求をがんじがらめにしてしまうのです。
礼拝でみことばに耳を傾けることがなぜ必要なのでしょうか? 聖徒の交わりにおいてみことばを分かち合うことがなぜ必要なのでしょうか? ディボーションと聖書通読で毎日みことばを読むことがなぜ必要なのでしょうか? それは、衰える外なる人ではなく、日々新たにされる内なる人こそが、私たち個人個人にとっても、教会にとっても本当の現実であると知り、その現実の中でこそ私たちが実際に生きるためです。私たちは主と交わることによってはじめて、内なる人が日々新たにされているという、その現実を実感し、それゆえに落胆することがなくなります。個人個人がそうなれば、教会全体がそうなりますし、教会全体がそうなれば、個人個人がそうなります。
それでは、第二のポイントにまいりましょう。第二に私たちは、重い永遠の栄光に注目します。
17節のみことばをお読みしましょう。……この節は、「一時(いっとき)の軽い苦難」がもたらすものは、それとは比べ物にならないほどの「重い永遠の栄光」であると語ります。
私たちはだれしも、苦難を体験します。ここで礼拝をささげている私たちも、現実に今、苦難のただ中にいてとても苦しい思いをしているかもしれません。ところが、その苦難とは、このみことばによれば「軽い」というのです。
どうすればこの苦難を「軽い」ととらえられるようになるのでしょうか? それは、この苦難のすえに私たちがたどり着く「重い永遠の栄光」があることを心から信じることによってです。そもそも、苦難というものは、それが自分の身に起こるたびに「自分は悪くないのになんで自分ばかりこんなひどい目に」という態度でいるならば、私たちはいつまでたっても被害者のポジションから抜けられず、生産的ではない自己憐憫に陥るしかありません。
私たちが身に帯びる苦難というものは、何であれ、私たちに向けられた主のみこころと無関係に存在するものはありません。主は私たちが苦難にあうことをお許しになることによって、私たちをご自身に拠り頼むようにさせ、私たちをあらゆる面で成長させ、強くしてくださいます。また、ご自身の働き、すなわち、神の愛を隣人に対して実践するものとして、私たちのことをふさわしく整えてくださいます。
その、無数のプロセスの果てに、私たちはキリストの満ち満ちた身丈、キリストの似姿に成長させられ、その人生の終わりに、栄光の天国に至るわけです。そのような私たちは、その日、この地上で何をなしてきたか問われることになります。私たちがいかにして主の御国のために労してきたか、時にそのために苦難にあうことも選択してきたか、問われます。そのとき私たちは、恥ずかしくなく主の御前に立つことができるでしょうか?
私はもし、自分の人生が今日にでも終わり、主の御前に立つことになったならば、天国に入れていただける確信を持っています。天国というところはイエスさまを信じる信仰ひとつで入れていただけるところだからです。しかし、天国に入れていただけることは確かでも、私が恥ずかしくなく人生を走りおおせ、イエスさまの御前に立てるかと問われれば、まだまだです。とお答えするしかありません。それはなによりも、イエスさまが十字架を背負って私のために死んでくださったように、私も十字架を背負ってイエスさまのみあとを日々ついていきましたと、確信をもって断言できるとは思えないからです。
十字架を背負う歩みは、ひとりひとりが周りと関係なくするものではありません。この、キリストのからだなる共同体、教会においては、十字架を背負ってイエスさまにお従いするその歩みはそれぞれがしているようで、実はこの共同体にあって「ともに」していることを、私たちは自覚する必要があります。ゆえに私たちは、ほかの兄弟姉妹が今体験している苦難に無関心であってはなりません。それは「私の」問題であるからです。同時に「私の」体験している苦難は、ほかの兄弟姉妹にとっても同じように体験している苦難でもあります。分かち合えることを分かち合うことによって、私たちは重い永遠の栄光に向かう共同体として、ともにいま体験している苦難が、一時の軽いものであるととらえ、忍べるようになります。
また、重い永遠の栄光というゴールがあることを知るならば、いま体験している苦難が「被害者のように苦しまされていること」ではないことがわかります。もちろん、自分の不始末のせいで苦しい目にあっているならば、その責任は苦しい目にあうことで取らなければならないという側面もあるにはありますが、苦難とは必ずしもそういうものとはかぎりません。むしろ、主の栄光のために積極的に生きた結果、苦難を身に帯びることもあるわけで、そうであるならば、私たちは主の恵みの中で、その患難を「選択」する恵みをいただいた、とさえ言えるわけです。そう捉えますと、病気ですとか、災害ですとか、自分ではどうにもならないような領域にも、それらの苦しいことを通じて私たちに目を注がれる主のみこころを認め、感謝できるようになるのではないでしょうか。
私たちはいま体験している苦難がすべてのように思ってはなりません。苦しいときこそ、その果てに永遠の栄光に導いてくださる主の愛に目を留めましょう。ひとりひとりが、というよりも、ともに、目を留め、私たちひとりひとりを苦難のうちにあっても愛してくださる主の愛のすばらしさを、ともに分かち合ってまいりましょう。そうすることで私たちは、落胆することから守っていただけます。
最後に、第三のポイントです。私たちは、永遠に続く見えないものに目を留めます。
18節のみことばです。ここでは、見えるものが一時的であることと、見えないものが永遠に続くことが対比されています。もちろん、私たちの注目すべきは、永遠に続く見えないものです。
信仰というものは、見えないものを確信することです。私たちの信じている神さまは、目に見えるお方ではありません。
しかし私たちは、神さまを信じています。目の前におられる方として、いまここにおられる方として、信じています。これは、私たちに信仰を与えてくださる聖霊なる神さまのなしてくださるわざです。
私たちは信仰によって、このお方、神さまが、永遠のお方であることを信じ受け入れます。限りある私たち人間は、そもそも永遠というものを理解することが許されていません。ただ、永遠なる神さまを信じることにより、私たちは永遠というものを知り、信じることが許されています。
しかし、私たち人間は永遠がわからないと、目の前にあるもの、目の前にある状況が絶対だと思えてしまう弱さを抱えています。いま体験している患難、苦しみがすべて、それがなくなることはない、そう考えるから落胆してしまうわけです。そしてひとたび落胆すると、そのように落胆して当たり前、明るく生きることもできなくなってしまいます。
ふつうはそう生きるもの、そのように目を留めるものです。しかし、少なくとも私たちは、この世の常識や流れにしたがって、ただの人のように歩んで、落胆するのが当たり前のように思ってはなりません。私たちが目を留めるべきは、永遠なるお方、イエスさまです。永遠なるイエスさまはまた、愛なるお方です。ということは、私たちは、永遠の愛によって、永遠に愛されている存在です。イエスさまの十字架は2000年前のエルサレム城外、カルバリの丘での一日にも満たないできごとでしたが、その十字架によって、神さまはどれほど、私たちに対する永遠の愛を明らかにしてくださったことでしょうか。その、わずかの時間の十字架によって、イエスさまは私たちのことを、永遠に罪と死から贖い出し、永遠の神に永遠につなげてくださいました。
そのことを見るのは、信仰によることです。私たちがこうしてここに集い、礼拝をささげているのは、目に見えるのものがすべてではないこと、そして、目に見えない神さまとその愛にこそ目を留めて生きるべく召されていることを、私たちが知っているから、だから、このお方に礼拝をささげるのは当然のことであると私たちが知っているからではないでしょうか。私たちはもはや、現実そのもののようでいて実は過ぎ去っていくものに目を留める存在ではありません。永遠の神さまとその御国、その愛に目を留めて、その中に入れていただくという希望をつねに持つゆえに、一切の落胆から解放されている存在です。
もちろん、このような私たちも時に落胆することもあるでしょう。厳しいことが取り巻く現実を生身の身をもって生きる以上、私たちは傷つきますし、病むこともあるでしょう。しかし私たちは、落胆したままでいることはありません。落ち込んでしまうときこそ、私たちには見上げるべきお方がおられます。このお方を私たちひとりひとりが見上げ、また、教会という共同体で、ともに見上げるのです。そうするとき、私たちは力を受けます。最後に、イザヤ書40章の終わりのみことばをお読みましょう。
見えるものではなく見えないもの、すなわち、日々新たにされる内なる人に注目するならば、永遠の栄光に注目するならば、私たちは落胆することから守られます。この恵みが私たちとともにありますように、主の御名によってお祈りいたします。