聖書箇所;ルカの福音書10章3節
メッセージ題目;「宣教する弟子は何者なのか」
現在、大相撲初場所だが、その話題のひとつとして、十両に新しく「白熊」というしこ名の力士が誕生したことがある。その色白のアンコ型の風貌と相まって、かわいい、などと言われている。対戦相手のしこ名も動物にちなむものがいくつかあり、千代翔馬や欧翔馬といったお相撲さんに勝てば、今日は馬に勝った、とか、獅司というお相撲さんに負ければ、今日はライオンに負けた、などと、他愛のないこともニュースになっている。
人間はなぜか、多種多様な動物にいろいろなキャラクターをなぞらえたがる。童話や絵本を読んでも、動物ばかり登場する物語がとても多い。キツネはずる賢く、熊は気はやさしくて力持ち、などという設定になったりする。
今日の箇所でも、イエスさまが動物のたとえを用いておられる。あなたがた宣教する弟子は羊です、とおっしゃっている。羊とは弱く、頭もそんなによくなく、そのくせ頑迷ときている。あなたがたはそういう羊のようなものです、それをわたしは、狼の群れに送り込むのです、イエスさまはそうおっしゃっている。
さて、すると、狼とはなにか、ということを理解することで、私たち羊がいかにしてこの世界で宣教する弟子としての役割を果たしていくか、ということが明らかになる。狼とは凶暴な動物ということに異論はなかろう。それも、羊を取って食う獣である。それなら、狼はサタンなのだろうか? あるいは、サタンの手下の悪霊なのだろうか?
それは、狼という獣は聖書の中でどのような存在のたとえで用いられているかを見れば一目瞭然である。創世記49章27節でヤコブがベニヤミンを狼になぞらえ、その預言がかなうかのように、はるかのちの時代になってベニヤミンはほかのイスラエルの部族と戦いを交えることになるが、狼はベニヤミン族という人でこそあれ、サタンや悪霊のような霊的存在ではない。
エレミヤ書5章6節。神の民ユダへのさばきが、獅子、豹と並んで、狼のような猛獣になぞらえられた存在によりもたらされるとあるが、これはサタンや悪霊というよりは、イスラエルを吞み込もうとするバビロンの国と民族と言えよう。つまり、これも人、ないしは人の群れ。
エゼキエル書22章27節とゼパニヤ書3章3節。神さまに不従順なイスラエルの指導者たちが、民を食い物にする狼になぞらえられている。また、新約聖書に入ると、マタイの福音書7章15節。神の民の共同体を荒らす偽預言者が狼になぞらえられている。やはり人である。
その一方でこんなみことばもある。イザヤ書11章6節、同じくイザヤ書65章25節。終末における平和をこう描写しているが、狼も子羊も単数形である。この子羊は神の子羊なるイエスさまだろうか、それとも、イエスさまは心に宿す私たちひとりひとりという「羊」だろうか? しかし、どちらにしても、狼が「サタン」ないしは「悪霊」であるならば、こんなことはありえないことである。以上のことから、狼とは「人」または「人の群れ」であることがわかる。
そのような狼がうようよするところであろうとも、イエスさまはあえて弱くて愚かで頑迷な羊のような私たちのことを、その真っただ中にお送りになるのである。この世界にいる者たちがことごとく狼だから、羊であるおまえたちは勝てない、とはおっしゃらなかった。羊であろうとも出ていきなさい、と、イエスさまは彼らの中に出ていく使命を私たちに与えられたのである。
イエスさまは狼をさばいて切り捨てるお方ではない。むしろ、狼が子羊とともに草をはむ、まことの平和を実現するために、狼が狼としての生き方、自己中心によって他人を食い物にする生き方をやめるように導かれる。
ということは、自分はほんとうは狼ではなく、子羊であることに気づかせていただいて、牧者なるイエスさまに導かれてみことばの糧を兄弟姉妹とともにいただく、すなわち、まことの神の子羊なるイエスさまとともに食卓を囲む恵みをくださるわけである。狼をそのように導く働きはだれがするのか? それは、羊である私たちである。
私は少年院での篤志面接委員の働きを始めて8か月以上になった。少年と面会するたびに思うことは、彼らはほんとうは羊のようにいい子だということである。ところが彼らのことを食い物にする悪い連中、それこそ狼のような連中が、彼ら羊を狼にしてしまう。狼のような考え方、狼のような言葉遣い、狼のような人間関係、狼のような時間の使い方へと染めていき、ついには少年院に入るだけの犯罪、人を食い物にする悪い行いに手を染めさせる。そんな彼ら、もともと羊だった彼らも、立派に狼になってしまっていたのである。
でも、考えてみたい。私たちももともと、自己中心で人に迷惑をかけることを平気で行うような、狼ではなかっただろうか? 愛やきよさとは正反対の悪い考え、悪いことばづかい、悪い態度、悪い行いばかり、そんな私たちが、実は狼ではなく羊であった、羊だからこそまことの牧者なるイエスさまに養っていただかなくては生きられないものだと気づかせていただいた、ゆえにイエスさまが愛してくださったように愛する者になろう、イエスさまがきよいようにきよい者となろうと、神さまの恵みの中で努力させていただく者となった。
そういう前提でこの世の中、狼のうようよする世の中を見ると、見方が異なっては来ないだろうか? 彼らは弱い私たちのことを食い物にしようといつも狙っているようかもしれない。しかし彼らは実は、羊である。神さまが彼らのことをお救いになるのはみこころである。
しかし。私たち羊はどのようにして彼ら狼に伍していくのだろうか? 彼らのような敏捷さや強靭な肉体、牙、そのような凶暴さを備えるのだろうか? そうではない。そうしたって私たちは勝てない。なぜならば私たちはすでに自分が羊だと気づいた存在だからだ。イエスさまはそのように戦えとはおっしゃっていない。
このみことばはマタイの福音書10章16節でも語られているとおりだが、そこにはもう少し別の表現も語られている。蛇のようにさとく、鳩のように素直であれ。これが、羊が狼に勝つ方法である。
このみことばをほんとうに実践し、絶対的な勝利をした例が聖書に記録されている。それは使徒の働きの6章と7章のステパノの姿である。ステパノは素晴らしい知恵によって語り、教会を迫害するユダヤの宗教指導者たちにぐうの音も言わせなかった。負けかかった彼らは今度は卑怯な方法で、ステパノはモーセの律法と神を冒瀆することを言ったと訴えたが、神の知恵によって語ったステパノは、むしろ彼らユダヤの宗教社会こそがモーセの律法と神を冒瀆していることを証明してみせた。まさしくステパノは、蛇のごとく冷徹だった。
しかし、それだけではなかった。逆切れしたユダヤ人たちから石つぶてが投げつけられ、殉教する間際になった、ステパノはこう祈った。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」この祈りはまさに、十字架の上でイエスさまが人の罪の赦しを祈られた祈りのとおりではないか。それほどステパノは、神さまとそのみことばに対して素直だった。まさに鳩のようだった。
ステパノのこの、蛇のようにさとい宣教と鳩のように素直な敬虔は、何を生んだか? ステパノを殺すために手を下した青年律法学者サウロを、使徒パウロにした。神の教会を迫害したサウロは、それだけで神の怒りのさばきを受けて当然だった。しかしステパノのとりなしの祈り、どうか罪を負わせないでくださいという祈りは聞かれ、サウロは罪が赦された。どんな形で赦されたか? キリストのからだなる教会を大いに形づくる不世出の働き人に召されるという、最高の赦しをいただいたのである。
考えてみよう。パウロは自らを罪人のかしらと呼んだが、それはどんなに素晴らしい働きをしても、ステパノを殉教に追い込み、教会を荒らし回ったという事実は消えないからではなかったか。まさにパウロは群れを荒らし回る狼だった。使徒の働き20章29節で、パウロは自分が去ったあと狂暴な狼がエペソ教会に入り込んで荒らし回るということを語ったが、そう言い切ったのはまさに、かつては自分もまた群れを荒らし回る狂暴な狼だったという前提があったからだろう。
しかし、ここは逆に考えてはいかがだろうか? 今は私たちのことを迫害する狼のごとき人、そう、具体的にだれかさんの顔が思いつくかもしれない、その人が、私たちの、蛇のようにさとい宣教と、鳩のように素直な敬虔を通してキリストに立ち帰り、狼が、キリストというまことの牧者によって養われる羊になるということ、そう考え、あきらめずにこの世界に踏み出してはいかがだろうか?
人間はみんな騙されている。狼の生き方がかっこいい、と思っている。狼の生き方、それは、あなたはイエスさまという牧者に飼われなくてもいい、と、神さまとそのみことばを無視させる生き方である。世の中はこぞってその狼の生き方に人々を導くものだから、いつの間にか人は狼になってしまう。下手をすると私たちクリスチャンも狼のようになってしまう。別に羊のようにイエスさまに飼われなくてもいいと思い、神との交わり、すなわち、礼拝の生活、みことばを読む生活、お祈りする生活をさぼってしまっても、それをしかたがないとか、当然だとか思ってしまうのである。
私たちは、狼の中に送り出された羊だと自覚しよう。だから、イエスさまにつながらなければ無力、丸腰で、食われるしかないということをちゃんと考えよう。しかし、イエスさまと交われば最強の守りをいただけるから、日々しっかりイエスさまと交わろう。
その上で私たちはこの世界に出ていこう。まさに、攻撃の5倍の防御。そして、私たちを狼が待ち受けているが、その狼が、実は自分は羊だと気づけるように、蛇のごとく冷徹な賢さを授けていただいてこの世を見通し、それにふさわしい知恵をもってみことばを語れるように、しかし一方で鳩のような素直さでみことばを受け取り、祈りにおいて、またみことばを守り行うことにおいてみこころに従順であるように。そうすれば私たちは、狼うようよのこの社会で勝ち得てあまりある者になれる。