聖書箇所;マタイの福音書10章5節~10節
メッセージ題目;主の弟子の召命
「私は何者なのか?」考えたことがあるだろうか? 私も忙しくしていると、自分が何者か意識しなくなり、それが生活のあらゆる局面にゆがみをもたらすようになる。Who、武井俊孝は、When、この2024年という50歳になる年を毎日、Where、茨城県央の茨城町で、What、キリスト教会において神と人に仕えることを、How、弟子訓練の牧会をもって行う。しかし、それらの4W1Hを支える「Why」がしっかりしていないと、たちまち足元をすくわれる。Why、それは神さまの召命だから、つまり、神さまが「せよ」とおっしゃっている以上、しなければならないことだから。
その「Why」はしかし、普段から神さまと親密な関係を持っていなければ身についていない。私は14年以上にわたる牧師生活の中で、その生活を続けていくうえで何度となく危機を覚えたものだった。それは意志が弱いせいだからというより、忙しさにかまけているうちに、神さまとの交わりが希薄になってしまっていたからだと言える。
わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している、こういう御声がお題目のようにではなく、それこそ生きた神さまからの御声としてつねに聞けていて、愛されていることの喜びと感謝に満ちているならば、燃え尽きから守られる。これはまた、同じ召命を与えられた仲間たちとの交わりを通してでも受け取っていく必要のあることで、先週も学んだとおり、イエスさまが弟子たちを共同体のうちに生かされたのは、ともにイエスさまの御声を聴く仲間たちの存在がそれほど大事なように、イエスさまが私たちのことをおつくりになったからである。
ここで、弟子たちに対するイエスさまの召命に照らして、私たちに対するイエスさまの召命は何かを考えることに意味があるだろう。私はかつて神学生だったが、イエスさまに生涯かけて献身した者であるという召命観においては、神学生も牧師も変わらない一方で、神学生はまだ牧会の責任を負う立場には置かれていない、基礎の基礎を身につけていくべき、いわば「ひよっこ」である。段階を追って働き人になる。働き人に見合うだけのアイデンティティはまだ持ち合わせていない。その点では神学生も、まだイエスさまのもとで十二弟子の訓練を受けている弟子たちも、同じと言えよう。
ただし、神学生にしても、十二弟子の共同体にしても、のちの働きに出ていくための基礎を身に着けるプロセスにある点では同じである。神学生はヘブライ語やギリシャ語、組織神学など、実際の牧会においてはそこまで多くの割合を占めるわけではないことについてかなり勉強する。それは、確かに多くの割合を占めてはいなくても、牧会の基礎になる聖書解釈にとっては必須だからである。同じように十二使徒の働きも、その基礎にはイエスさまのもとで受けた弟子訓練がある。その弟子訓練における召命は、私たちが主の弟子としてこの世で振る舞う上でも基礎になることである。ともに学んでみたい。
まず、5節と6節のみことばを見てみよう。イエスさまは十二弟子をどこに遣わしているだろうか?「イスラエルの家の失われた羊たち」のところに行くようにとおっしゃっている。近隣のサマリア人や、ましてや異邦人の住むところではないのである。
これは、神さまのみこころの優先性に関することである。この直前のマタイの福音書9章の最後の部分で、イエスさまがイスラエルの群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている様子に、ひどく心を痛められる場面が出てくる。そんな神の民がなぜそのように弱り果てていたかというと、霊的世界を牛耳っている宗教指導者たちによって、あらゆる形で搾取され、痛めつけられていたからである。イエスさまは宗教指導者たちに対して、自分も負いきれないほどの重荷を負わせているのに、自分はそれに指一本触れようとはしないと糾弾しておらるが、そのような、みことばというよりも恣意的なみことばの解釈をみな守らざるをえなくて苦しむ民、そんな彼らの苦しみに、イエスさまは深く同情された。
しかし彼らは、神の国をずっと待ち望んでいた人たちである。そんな彼らが神の国に入るには、方法はひとつしかなかった。間違ってもそれは、パリサイ人が教えるとおりにみことばを、というよりその解釈を守り行うことではない。今まで、そうしなければ神の国に入れないと信じ込まされてきたけれども、それでは決して神の国に入れない。いまや神の国の王であるイエスさまがこの世界におられるのだから、信じるべきはイエスさまである。彼らイスラエル、神の国を激しく待望してきた民が第一に、イエスさまの福音を聴くべきであった。
イスラエルへの宣教は一種の戦いだった。イエスさまはすでに、あらゆる町や村を巡って、みことばを語り、しるしを行なっておられたが、イスラエルの霊的世界を牛耳る宗教指導者たちは、そのみわざは悪霊によるものだと語ってやまなかった。そのような指導者たちのせいでイエスさまに出会う道が閉ざされ、結果、弱り果てるしかなかった神の民がほんとうの意味で神の民になるためには、イエスさまの命(めい)を受けた弟子たちが複数散っていって語る必要があった。
まず、神の民から祝福を受ける道が開かれる。それがこの時の宣教の原則だったから、異邦人やサマリア人のところに行く前にまずイスラエルに、ということだったわけだが、その原則はやがて、イエスさまが全世界に弟子たちをお遣わしになり、「使徒の働き」に入って、異邦人に至るまで宣教が展開するかたちに昇華された。しかしこれは、ユダヤ人が、神の国の主そのものでいらっしゃるイエスさまを、十字架にまでつけ、そのうえで福音を受け入れなかった結果、子どもの食卓から落ちたパン屑を小犬が食べるように、異邦人にまで救いが及んだ結果であり、異邦人宣教がイスラエルへの宣教に本来優先していたわけではないので、私たち異邦人は勘違いしてはならない。
イエスさまはご自身のその、イスラエルへの宣教のわざをなされるにあたって、彼らの同胞である十二弟子をお用いになった。神の民から選抜された十二弟子からイスラエル宣教がなされ、やがてイエスさまの十字架と復活によって神の国がすべての人に開かれる道が与えられ、イスラエルから異邦人、すなわち世界宣教へと展開した。その姿は聖書において、イエスさまの昇天後の時代の記録、使徒の働きや書簡などに登場しているとおりである。
しかし、イエスさまが本来十二弟子にお語りになった宣教戦略は、どこまでもイスラエルへの宣教が優先されているものである。これは私たちを含む異邦人が差別されているということではない。むしろこう考えるべきである。創造のはじめからのみこころ、神の民を選んで律法をお授けになったみこころ、そのみこころがまずイスラエル宣教という形でなされ、その延長線上に私たちを含めた異邦人への福音宣教がある。私たちが同じイスラエルの神さまを信じるには、まず、律法と預言者、すなわち旧約聖書という基礎のあるイスラエルが、旧約の成就である神の子イエスさまを知り、そこから世界へと宣教が展開していく必要があったのである。
これを私たちに適用するとどうなるだろうか。イスラエルをこれほどまでに優先される神さまのみこころを知るために、イスラエルに注がれたみこころの集大成、旧約聖書をよく読む必要がある。偉大な神さまが特別に人を選ばれ、その人と民に特別にみこころを注がれる、その神さまの愛のリアルさは旧約を熟読することによってはじめてわかる。そして、この旧約を基礎に私たちの信仰生活があることが受け入れられ、私たちは神さまのみこころをより深く理解できるようになる。
週報にも書いたが、韓国のクリスチャンは国と民族をとても愛している。その韓国の教会は、伝統的に旧約聖書を重んじてきた。つまり、旧約に示されたイスラエルに対する神の愛に感動を覚える伝統があったのである。その、神さまのイスラエルに対する選びの愛が基礎にあって、エホバの神は特別にわが国と民族を選び、愛していらっしゃるという、クリスチャンらしい健全な愛国心につながっているのである。その旧約が信仰の基礎にしっかりあるからこそ、韓国のクリスチャンたちは日本の宗教政策であった神社参拝を、命を懸けて拒否しつづけることができたのである。そのように、神に対する深い信仰は、旧約聖書を重んじるところから生まれていて、世界宣教がイスラエルに始まっているのは、私たちもイスラエルに対する主のみこころを知る必要があるからという意味もある。
さて、その神の国を宣べ伝える宣教の働きは、第一にイエスさまの霊的権威を与えられたものである。8節のみことばは、イエスさまは創造主、癒やし主であるゆえに、これほどまでの権威が弟子たちに与えられているということであり、現代社会にはこういうことが人を通して起こらないからと、イエスさまのこのみことばを疑うのは正しくない。むしろ、イエスさまの権威を受けた十二弟子がこういうことを行えないほうがおかしいと考えるべきだろう。
逆に、このことがわざわざ聖書に記録されているということは、直弟子(じきでし)にそれだけの権威をお与えになるイエスさまのすばらしさが現れている、ということである。イエスさまはみこころならば、私たちも主の弟子である以上、私たちにこのような権威をお与えになれるお方である。私たちはだから、イエスさまの御名によって、人々から悪霊が追い出されるようにとも、お医者さんがさじを投げるような病気の人が癒されるようにとも祈るわけである。
ただし、このようなしるしはすべて、神の国と関係を持っている。もし、奇跡が起きたとして、その結果わざを行う人がほめられて、神の国が成り立たなくなったり、果ては教会に分裂が起こったりするならば、いかにミラクルなことが起こっていようとも、それはとても問題なわけである。
そうではなくて、祈りが聞かれて奇跡が起こることによって、私たちがみな神のご栄光をほめたたえ、教会が立て上げられることが大事なわけである。そうだとすると祈りとは、個人的な願望を神さまに申し述べることにとどまらず、教会全体の取り組むべきわざである。なにかの奇蹟的な現象が起きたからといって、その結果教会に深刻なダメージが及んだとすれば、その奇蹟なるものは果たして神さまのみこころにかなっていたのか、大いに疑わしい。
さて、9節と10節によれば、この宣教の働きはどこまでも、すべてを与えてくださる神さまのご主権によって行うべきことである。余計なものを持っていたら、それらのものに拠り頼み、神さまに拠り頼まないでも事をこなしてしまう癖がついてしまう。物を持ってはいけないということではない。しかし同時に、物が神さまに拠り頼むことの妨げとなってしまってはいけないことは確かである。
私たちはこの世に対してみことばを宣べ伝えるべく遣わされている。だから、この世のことはよく知る必要がある。みんながみんなバプテスマのヨハネのように、世捨て人のようなライフスタイルでいては、少なくともこの現代の日本では福音の伝わりようがない。ある程度はこの世に伍することで福音を伝える機会が開かれるのは確かである。しかし、この世に染まってしまっては、つまり、ただの人のように歩んでしまっては、私たちは世の光である自分自身を升の下に隠していることになるし、地の塩として機能しないことになってしまう。塩気をなくした塩は外に捨てられることになってしまう、と、イエスさまは警告しておられる。
私たちが第一に求めるべきものは、神の国とその義である。それを第一とするとき、私たちに必要なものは与えられる。より正確に言えば、私たちが神のみこころを行う上で必要なすべてのものは与えられる。私たちに仮にほしいものがあって、祈って求めてみても与えられなかったからと、何だ、与えられないじゃないか、となるのは、それが与えられることは実は神さまのみこころにかなっていなかったからか、まだこの時点では神さまがお与えになることはみこころではないからか、もっと素晴らしいものを神さまは用意しておらるからかのいずれかである。
要は、イエスさまが「いらない」とおっしゃっているかどうかである。お金も余計な持ち物も持つな、とおっしゃるのは、それがイエスさまのみこころだからである。その代わりイエスさまは、そのおことばに責任を持ち、必要なものを必ず、みこころにしたがって与えてくださる。これが、イエスさまのこの、一見するととても厳しいおことばからわかることである。
私たちも、自分にとって何がほんとうに必要なのか、言い換えれば、神さまは何を自分に与えてくださるのがみこころなのか、普段からの祈りとみことばによる神さまとの交わりの中で、具体的に理解している必要がある。私はかつてマンガやビデオゲームやCDがとても好きだったが、私にはそれが必要ないと神さまがおっしゃっていると受け取ったとき、それを片づけることをした。
神さまにお従いするにあたっていらないものは、神さまが示してくださる。その代わり、そのように御国のために捨てることができた人の生活は、神さまが責任を取ってくださる。その弟子にほんとうに必要と思われるものは、必ず与えてくださる。まさにマタイ19章29節にあるとおりである。だから、このみことばを信じて、みことばを宣べ伝える働きに用いられてまいりたい。
主の弟子の召命。それは、イエスさまを自分の人生のすべての領域における主と信じ、お従いすることである。その、自分にとって絶対のお方である主が、みことばを宣べ伝えよとおっしゃるから宣べ伝える。そう、みことばを宣べ伝えるのは、教会の仲間内で熱心な人に見られてほめられたいからとか、教会の規則としてどうしてもしないと後ろめたいからとかいう理由でするのではない。イエスさまの召命だからである。その召命を確かに持つためにも、旧約に始まる神の民に対する愛をみことばを読むことで、リアルに体験する必要がある。そして、そのような神の愛は厳しくある一方で、神のみこころに歩む私たちのすべてに責任を持ってくださるゆえに、私たちは余計なものを抱え込む必要はなく、ただ神さまだけに信頼することをつねに学んでいこう。