聖書箇所;マタイの福音書10章11節~15節
メッセージ題目;「主の弟子は『エイレーネー』を祈る」
一部の神学校を除き、神学校というところではギリシャ語とヘブル語を勉強する。これは、およそ聖書を学ぶ人ならば、日本人ならば日本語など、自分が用いている言語の聖書に訳しきれない、もともとの聖書の意味を把握するために必要だからである。私も神学校で学んだ。本来ならば入学式の前に、1月と2月に合宿形式で学ばなければならなかったのだが、まだ日本の大学が終わっていなかったのでこれは免除していただいた。のちに1学年が終わってその合宿に参加したのだが、1年間神学校で学んで慣れていたはずだったのに、それでも大変だった。いきなり学びはじめた人たちは、どれほど大変だっただろうかと思う。
そういう、聖書原語。今日のメッセージタイトルは「主の弟子は『エイレーネー』を祈る」である。エイレーネーとは何かご存じの方もおられるとは思うが、これはギリシャ語である。今日のタイトルはあえて日本語を使わなかった。その理由も含め、エイレーネーとは何のことかあとで説明するので、楽しみに(?)お待ちいただきたい。
今日の箇所でイエスさまは、主の弟子たちが宣教を展開するにあたり、まずどのように振る舞うべきかを教えておられる。11節。まず、主の弟子たちは、「ふさわしい人」がどこにいるかを調べる。何にふさわしいのだろうか? それは追い追い読み進めればその中身がわかってくるが、まず言えることは、宣教に協力してくれる人である。
イエスさまとその弟子たちが宣教の活動を展開していくうちに、そのように、受け入れてくれる人というありがたい存在が現れるようになっていた。ベタニアのマルタ、マリア、ラザロの三きょうだいなど、その典型的な例であろう。ほかにも、イエスさまのエルサレム入城にろばを貸してくれた人、最後の晩餐に二階の大広間を提供してくれた人、まことに福音宣教は、そういう人たちの存在に支えられていた。
そういう人たちは、まず、神さまが選び、その働きに献身するように導いておられた。先週学んだみことばでは、お金も、余計な持ち物も持たずに宣教の旅に出るべきなのは、必要なものは神さまが与えてくださるという信仰を働かせ、祈るべきだからだと学んだが、ここでもイエスさまは、必要な人は神さまが起こし、導いてくださるという信仰を働かせるべきだとおっしゃっているわけである。
さて、そういう人が見つかったら、弟子たちは何をする必要があるのだろうか? 12節。ここで、平安を祈るあいさつをしなさい、とあるが、この「平安」が、原語のギリシャ語では「エイレーネー」である。宣教の拠点にふさわしい人のところにたどり着いたら、その人のために「エイレーネー」を祈りなさい、というわけである。
ここで、「エイレーネー」ということばのもうひとつの意味を見てみたい。それは「平和」である。英語ではどちらも「ピース」と訳せるが、日本語では文脈によって「平安」と「平和」と訳し分ける。しかし、これでは印象が少し違わないだろうか? また、日本語で一般的に言われている「平安」や「平和」ということばは、聖書の語るそれと同じなのか、違うのか?
日本では一般に「平安」というと、多くの場合それは「平穏無事」や「安心」というイメージではないだろうか? ほっとする、というような。また、「平和」というと、何といっても太平洋戦争で庶民が大いに苦しんだこの日本である、戦争だけはこりごりだ、というような、敵の攻撃が及ぶことが一切ない、安心していられる状態、というイメージがあろう。
そんな日本人にとっては、イエスさまがここで命じておられる、「平安(エイレーネー)を祈るあいさつをしなさい」は、「どうかあなたが平穏無事でありますように、シャローム」と挨拶するイメージでとらえてしまわないだろうか? もちろんそれも間違ってはいない。しかし、エイレーネーを祈るあいさつをするということは、それにとどまらない、もっと深く、かつスケールの大きいことである。
キリストの弟子が語るエイレーネーの本質はどこにあるだろうか? それは、キリストによって、人が神とエイレーネーを保つことにある。ローマ5章1節に語られているとおりである。この「神との平和」の「平和」とは、原語で「エイレーネー」である。
キリストは罪人である私たちのことを神と和解させてくださった。まず、キリストの福音を聴くべき人は、キリストとはそのようなお方であることを受け入れる必要がある。弟子たちがイエスさまに遣わされて福音を宣べ伝えたこの時点では、イエスさまの十字架の贖いのわざが明らかになっていなかったので、ここで弟子たちが祈る平安とは具体的にどんな根拠があるかまでわかったうえでの挨拶となっていたわけではなかろう。しかし、イエスさまの十字架を伝える以前に、イエスさまを伝えてはいた。平安を祈るあいさつの本質は、エイレーネーの主なるイエスさまのエイレーネーがその人に及ぶことである。
前にもお話ししたが、「あいさつ」とは、単に「こんにちは(シャローム)」と声掛けすることだけを指すのではない。時間をかけて行うれっきとしたコミュニケーションである。「先生にごあいさつに伺う」と言ったら、お久しぶりです、ではさようなら、ではない。ある程度時間をかけて話し合う。同じように、平安を祈るあいさつとは、神との平和、すなわちイエスさまを信じる信仰が分かち合われることである。何ごともここからスタートする。
考えてみよう、私たちもだれかによる、平安を祈るあいさつ、つまりキリストとの平和があるように祈るコミュニケーションがあったからこそ、主の働きを担う者どうしの祝福の祈りの輪に加われたのではなかったか。伝道の働きにあずかる者になれたのではなかったか。13節を見よう。私たちは平安にふさわしい者とされていた。つまり、神のエイレーネーを受け入れるにふさわしい者として選ばれていた。ふさわしいとは、単に宣教の役に立つ人としてふさわしいというにとどまらない。神のエイレーネーを受ける人としてふさわしいということである。
それなら、13節の続きのみことばはどういうことだろうか? エイレーネーにふさわしくない、つまり、エイレーネーを受け入れるにふさわしくない態度の反抗的、無関心な人、ということ、ゆえに、エイレーネーの君なるイエスさまを宣べ伝える働きに協力するつもりもない人である。そういう人がエイレーネーを祈るあいさつにふさわしくなければ、エイレーネーが返ってくるようにしなさい、これはどういうことだろうか?
これは、キリストの弟子に対して敵対的な態度の者たちに対し、どんな態度を取るようにしなさいとみことばが語っているかを見ればわかる。イエスさまは、右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい、とお語りになる。少し考えればわかるが、右の頬を打つことは一般的に利き手である右手の手のひらを使ってはできない。右手の甲で打つ。これは相手にものすごい屈辱を与えることである。そんな者にも逆の頬さえ向けなさい、ということ。これはマゾヒスティックになれと教えているのではない。そんな相手であろうとも、祝福しなさい、と教えているのである。
パウロはさらに具体的に、あなたがたを迫害する者を祝福しなさい、祝福すべきであって、呪ってはいけません。彼らが飢えたなら食べさせなさい、渇いたなら飲ませなさい、とも語っている。そんなパウロは第一コリントのみことばで、自分はののしられても相手を祝福する、と告白している。そう、キリスト者の本質はどんな相手であれ、相手を祝福することにある。
迫害する者のために祈り、敵を愛する、それでこそ御父の子どもになるのであると、イエスさまはお語りになる。御父の子どもであること以上の祝福はこの世にはありえない。全世界を手に入れても御父の子どもではなくなり、永遠のいのちから零れ落ちてしまうならば、すべてを失ったことになる。
だから、たとえ福音を受け入れない人、それこそイエスさまがおっしゃったように、真珠を与える人に飛びかかる豚のような人が相手であろうとも、私たちのすることは神のエイレーネーをもって祝福することである。そうすることによって、私たちは神の子どもとして御前に立たせていただくという、エイレーネーをわがものとさせていただくのである。
だが、エイレーネーを受けれない人を呪ってはいけない一方で、彼らに迎合したり、彼らに受け入れられようと恋々としたりしてもいけない。すべきことは、あなたがたは神のエイレーネーを受け入れませんでした、私はあなたのその態度と選択に責任を負いません、その責任はあなたが負うのです、と、足のちりを払い落とすことである。
足のちりを払い落とすように彼らとのかかわりを絶たないならば、その土地を汚しているちりがその人を汚すように、その悪い習慣や考え、行いに染まったまま、神への従順に踏み出そうとしてしまう。私たちは人生の遍歴の中で、いろいろな人に出会ってきた。親をはじめ、兄弟、親戚、学校の友達や先輩後輩、職場の同僚、近所の人、それだけではなく、テレビや新聞や本やインターネットなどをとおしても、いろいろな人の意見を聞いてきた。いつの間にかそういう影響を受けて、ことばづかいや行いが染まってきた。そういうものを私たちはどこかで引きずって生きている。みことばを読めば、聖くあらねばならないことを教えられるが、私たちはなお世の影響を受けてしまっていて、聖い生き方ができなくなってしまっている。足についたちりのような、むかしのものを払い落とさないまま神への従順を実践しようとしても、うまくいかない。どこかでこの世と調子を合わせてしまうのである。
主の弟子がこの世と調子を合わせないためには、ローマ人への手紙12章1節にあるとおり、心の一新によって自分を変えていただくことである。どうすればいいだろうか? イエスさまに洗っていただくのである。これが悔い改め、自分から神への方向転換である。
弟子たちは俗塵にまみれた足を、恐れ多くも主なるイエスさまに洗っていただいた。イエスさまは神であるのに、私たちの足を洗ってくださるお方である。私たちは勇気を出してイエスさまに、俗塵にまみれた足を差し出そう。そしてイエスさまとの交わりの中で、エイレーネーの福音の備えをすべき足についていてはいけないこの世のちりは何か、示していただき、落とす決断をしよう。
15節をご覧いただきたい。エイレーネー、神との平和を受け入れない者には、神さまがそれにふさわしいお取り扱いをされる。ソドムとゴモラ、それは、御使いさえも辱めようとしたほど霊的に壊れた、神をも恐れぬ集団である。ロトは神のあわれみを受けた義人として、それを捨てて命がけで逃げなければならなかった。ロトの妻はしかし振り返り、その場で塩の柱になって息絶えてしまった。ふさわしくない集団に対する足のちりを払い落とせず、むしろそれに恋々としてしまった証拠である。
私たちはエイレーネーを祈る。前にも言ったが、韓国のクリスチャンたちは家や教会を訪問したらお祈りをするが、これはエイレーネーがこの家にあるように祈っているわけである。しかし私たちは、相手がふさわしかろうとふさわしくなかろうと、エイレーネーを祈るべきである。それがみこころだからである。まことに、私たちのすることは、平和の主なるイエスさまが私たちの主として統べ治めてくださるように、あらゆる時と場合に、エイレーネーを祈ることである。
最後に、マタイの福音書5章9節のみことばを読もう。この「平和をつくる者」のもともとのことばも「エイレーネー」である。単なるピースメーカーとか、平和運動、反戦運動ではない。もちろん、それもとても大事にはちがいないし、いのちをかけてそのような努力をする方々のことはとても尊敬するが、このみことばの語る「エイレーネー」は、エイレーネーの主なるイエスさまを主とするところから生まれる。神とのエイレーネーを保つという大前提あってのものである。その上でつくるエイレーネーだからそれ相応の努力を必要とする。しかしその一方で、神の恵みにとってその努力をする働きは成し遂げられる。
私たちはイエスさまとのエイレーネーに入れられていることに感謝しよう。イエスさまによって御父と保っていただいているエイレーネーにつねに憩おう。そこから、主にあってエイレーネーをつくり出す働きに用いていただこう。イエスさまの十字架こそは、エイレーネーそのもの、恵みに拠り頼んで十字架の道を生きるならば、私たちはエイレーネーをつくり出す神の子としての生き方に、必ず用いていただける。宣教とはまさしく、神と人のエイレーネーを成し遂げ、そこから人と人のエイレーネーをつくり出す働きである。用いていただき、私たちの周りから神のエイレーネーが実現していくように祈ろう。