聖書本文;コリント人への手紙第一9章16節~23節
メッセージ題目;日本の教会を元気にする
聖書の中でも、コリント人への手紙第一は面白い。神さまがお選びになったのは、強い人や賢い人ではなく、弱い人や愚かな人だったというのである。今日は韓国の方が複数いらしているが、私は長年、韓国の教会に身を置いてきた。みなさまご存じのとおり、韓国の教会はとても強い。信徒の数も多く、礼拝堂も大きい。賜物のある信徒もたくさんいる。そんな教会とつい比較してしまう日本の教会を思うものだが、日本の教会は弱いゆえに選ばれたことを、このみことばから受け取り、慰めをいただくものである。
そのコリント教会、ギリシャの商業都市、港湾都市に立てられた教会という性格からして、キリスト信徒にあるまじき罪深さ、弱さの露呈した群れであり、そんな点で日本の教会に似ている。本日の聖書本文、コリント人への手紙第一は、問題の塊のようだったコリント教会で使徒パウロが奮闘する様子がそこかしこに垣間見えるみことばである。しかし、その奮闘、苦闘は、「やらされた」「強いられた」苦しみのような、悲壮感、受け身の態度を感じさせない。むしろパウロは、コリント教会を主の教会らしくさせなくしているあらゆる問題にあえて立ち向かっていくような、積極性、やる気に満ちていて、パウロのその態度は読む者に大いなるチャレンジを与えている。
コリント教会の問題はすごい。問題のデパート、総合商社だ。どのリーダーにつくかを巡っての分派分裂、みことばに対する無理解、そのくせ指導者であるパウロを認めない態度、クリスチャンとして到底ふさわしくない性的な問題、教会内の問題解決を自分たちでしないで教会外の者に任せる訴える情けなさ、聖徒としての権利ばかり主張して弱い人を顧みないこと、リーダーに立つべきではない女性がリーダーの男性を差し置いて権威をふるっていること……こんな群れを牧会するパウロはどれほど大変だったか。
しかし、その中でも今日のみことばは注目に値する。異邦人の地であるコリント、俗的な商業都市、港湾都市であるコリントにパウロが福音を宣べ伝え、教会を形成する、その原動力はどこにあったか、それがこのみことばから見えてくる。
これは、日本の地で教会を形成する私たちにとって必要なみことばである。私たちは基本的に、イエスさまを信じていない人たちに囲まれている。その人たちは悪い人かもしれないし、いい人かもしれない。しかし共通してはっきりしていることは、彼らは一様にイエスさまを信じていない、というより、イエスさまを知らないから、そもそも神の愛によって振る舞うとはどういうことか、一切学んだことも教わったこともなく、したがって神の愛を実践することなど一切できない人たち、ということである。そういう人たちに伍して生きていくことは、狼の中で羊が知恵を総動員して生きることを意味し、それだけに毎日みことばをいただき、お祈りすることが欠かせない。
要するに、彼らのことばばかり心に留めていては、私たちはこの世にこき使われるしもべで終わってしまう。そういう者がこの世に対し、いったい何の影響力を発揮することができるだろうか。せっかく生きているというのに、それではあまりにももったいないではないか。今日の本文で、パウロは奴隷の道を選択した旨語っているが、世にこき使われる不自由な奴隷という意味ではない。世のことばに左右されているなら、世の奴隷となるしかないが、そのようなものは自由ではありえない。
そこで今日のみことばである。私たちは何者なのか。何のために生きているのか。それを今日のみことばから確かめたい。実を言うと、私はこのところ、否が応でもそのことを意識せざるを得ない環境に置かれつづけてきた。先週の保守バプテスト同盟の総会につづくチームワークミーティング、そしてその帰り道に寄った、地元にカフェとして開かれている教会、なによりも、うちの教会を整備するという大事な働きをしてくださったふたりの主のしもべ……こういった方々との交わりをとおして、日本の教会を元気にするために一生懸命になっている聖徒たちの麗しさをあらためて知った。
それなら、私たちはどう生きるべきだろうか……今日はそんな思いを込めて、みことばをお取り次ぎしてまいりたい。あとでお楽しみもあるので、期待して聴いていただきたい。
16節。パウロは誇り高き福音宣教者であり、その誇りを、福音宣教の報酬を払ってやるから言うことを聞けとばかりに接してくる教会員たちに奪われてなるものか、という態度が根底にある。だからパウロは、福音宣教者として当然主張できた報酬を一切受け取らず、自発的に、この問題だらけの群れで仕えつづけた。
パウロがしたことは、教会形成であった。しかし、教会形成とは同時に、福音宣教である。イエスさまを信じれば救われますよ、とキリストを伝え、その人がイエス・キリストを救い主と信じ受け入れてバプテスマを受け、クリスチャンになったならばそれで福音宣教は終わりではない。
教会とはみことばが語りつづけられることによって形づくられるもの、という前提に立つ以上、その教会を立て上げ、形づくる教会形成とは、即、福音宣教である。パウロはその福音宣教において誇り高いプライドを持っていた。しかし彼は同時に、福音を宣べ伝えることは自分の誇りではない、とも告白している。これは矛盾しているようだが、矛盾してはいない。これは、この誇りは主にあっていだくべき誇りであって、パウロという人間個人に帰せられる誇りではない、ということである。
そして神さまはパウロに、福音を宣べ伝える生き方しかお許しにならなかった。その福音宣教に外れた生き方をすることは一切できないことをパウロはわかっていた。だからその召命に忠実に生きるしかなかった。その召命にちょっとでも外れることはわざわいであった。私たちは国道沿いを歩くとき、必ず歩道だけを歩き、車道にははみ出さない。車道にはみ出したらいのちに関わると知っているから、歩道しか歩かない。同じように、神さまの召命以外の道を歩んだらわざわいと知るから歩まない。その召命が、福音宣教である。その道を歩くとポイントが増えるからいいとか、霊的ステージが上がるからいいとかいうことではない。それ以外の道は危険だからとても歩けない、召命に従えば安全だから歩くということである。
17節によれば、パウロにとってのこの福音宣教の働きは、自発的ともいえるし、自発的ではないともいえると告白している。これはどういうことかというと、パウロの働きは神さまがさせてくださるものであり、同時に、パウロがやる気を出して取り組んでいることでもある、ということである。神さまが志を立てさせ、事を行わせてくださる。神さまと人がひとつとなって神の栄光のためのことを推し進める、召命とはそれゆえに素晴らしいものである。
さて、18節を見ると、そんな自分の働きには報いがあると告白している。まるごと読もう。……一瞬、目を疑わなかったか? 無報酬、自分の権利を用いない、これがいったい報いなのか? しかしこれはれっきとした「報い」なのである。それは、この世に属する報いではない。この世に属する報い、たとえば献金であったり、福音伝道者としての名声であったり。また、それに付随して、「エライ」先生として振る舞ったり。そういうものは神さまの御前にはすべてむなしいものである。そういう報いが一切ない、というより、そういう報いからまったく自由である、報いはなにか、神さまご自身。これは最強の報いである。
これは、イエスさまを信じれば病気が何もかも治る、とか、お金持ちになる、とか、人々から尊敬されるようになる、とか、そのような、きわめて底の浅い福音理解の対極にあるものである。いったい、そのような目に見える祝福を求めることは、神の栄光と何の関係があるというのか? 新興宗教のようなご利益を私たちクリスチャンが追求することは果たして神の前にふさわしいことだろうか? もちろん、みこころにかなえばそのような目に見えるものを祝福としてくださることもあろうが、ほんとうの祝福はそのようなものではない。神さまご自身である。私たちが「よくやった、良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」との御声を終わりの日に聞きたいなら、求めるべきは、どうかパウロのこの境地に立たせてください、私はあなたさまだけで満足します、どうか用いてください、と、つねに祈ることではないだろうか?
19節の告白を見よう。こんな境地に立てたパウロはどれほど自由だろうか? しかし、パウロは、すべての人の奴隷となったと告白する。これは、人に強いられて奴隷になったのではない。自由人として、神と人の奴隷となる道を選んだという、自由の中での選択である。したがって、この上なく不自由な立場である奴隷ではあっても、パウロはだれよりも自由であった。
それは、ここにあるとおり、「獲得するため」とある。もしパウロが、ユダヤ人という立場にこだわったり、あるいは逆に、異邦人宣教の使徒という立場にこだわったりしていたならば、パウロは自由ではありえない。しかしパウロは、あらゆる立場の人の奴隷に進んでなることによって、だれよりも自由な立場に置かされていたのである。
24節。このパウロの告白はすごい。すべてのことを福音のためにしている。私も言ってみたい。私たちの地上の歩みは、こう言い切れるほどに生きることを目指しつづける歩みである。この境地に達していないからとあきらめてはならない。この生き方を主が完成させてくださることを信じ、主に希望を置いて歩みつづけることである。
パウロはその歩みをすることが、福音の恵みをともに受けることであると告白する。私たちは福音宣教に用いられるならば、この世の何者も与えることのできない喜びを体験する。いや、時には祈っても聞かれないような苦しみのどん底の中に置かれよう。しかし、そこにも主がともにいてくださり、御父の右の御座で私たちのために涙を流してとりなして祈ってくださっていることを知る。いかなるときにも神さまがともにいてくださること、その恵みは、すべてのことを福音のためにすることを目指しつづけることによって味わえるものである。
さて、今日のメッセージのタイトルを、私はなぜ「日本の教会を元気にする」とつけたか? それは、さきほども少し触れたが、「すべてのことを福音のためにして、福音の恵みをともに味わう」方々の姿に触れ、私たちもそうなりたい、私たちも自分の属する日本の教会を元気にする働きに用いられて、祝福と恵みを味わいたい、と思うからである。
先週火曜日と水曜日に岩手県のシオン錦秋湖で行われた、保守バプテスト同盟のチームワークミーティングは、教職者たちのための研修会である。今年のテーマはクリスチャンの「婚活」について、また「J-Venture(保守バプテスト同盟関連の宣教団体)」の働きについてで、まったくちがう2つの働きの紹介だった。しかし、一見するとミスマッチなこの両者に共通するものは、「日本の教会を元気にすること」であった。
「婚活」ということについて、「リベカ」の中西代表、辻副代表、そして「リタマリッジサービス」の津村所長のプレゼンテーションをお聴きした。商売敵が一緒にコラボを組む、なんて、とても面白い。彼らのコンセプトはこういうことである。次世代が育っていれば日本の教会はどんなに元気になっていたか、自分たちの教団教派にこだわりつづけた結果、教会を超えた信徒同士の結婚がうまくいかず、晩婚化が進んだり、日本の教会はとても弱くなってしまったではないか、クリスチャンの婚活サービスは、そんな日本の教会を元気にする、極めて福音宣教志向的なミニストリー。
J-Ventureの宣教師もすごい。教会の牧会だけではない。伝道と弟子訓練のツール開発と普及の働き、メディア宣教、ゴスペル教室やノイズミュージックといった音楽をとおしての宣教、学校の先生……実に多種多様な活動をとおしての福音宣教の働きに、アメリカやカナダからここ数年で何と40もの家庭が献身して日本にやってきた。この働きで確実に日本の教会は元気になっていることを実感した。
帰り道、私は車に乗せてくださった千葉先生という方の牧会する、山形市の「こひつじキリスト教会」に立ち寄り、おいしいコーヒーをごちそうになった。一見すると教会とは思えないようなしゃれたカフェで、ちょい悪おやじのような外見の千葉先生がコーヒーを淹れてもてなしてくださる。こうした働きで確実に山形の教会は元気になっていることを実感した。
そして、先週の木曜日、うちの教会にふたりの韓国の兄弟がいらしてくださった。とにかく日本の教会を元気にしたい情熱に燃えた、賜物がたっぷり与えられた方々である。そのお働きで見ていただきたい、照明も音響も見ちがえるようになった。うちの教会が元気になった。
まず、そのおひとり、「ジョン神谷」さんことチョン・ソンヨン兄は、「エゼルミニストリー」という働きをしていらっしゃる。もともとが有能なビジネスマンであったとともに、音響や演奏や工事などあらゆる賜物をお持ちの方だが、このたび兄弟の献身によって、音響を整えていただき、浴室を直していただいた。まさに教会を元気にする方である。神谷兄の働きは多岐にわたっていて、被災地における物心両面での復興支援、教会の夏のキャンプの企画、格安で光る十字架を礼拝堂に取りつける働きなどなど。最近力を入れているのは、千葉、浦和、八王子といった、首都圏の都市部で若者たちを複数の教会から集め、訓練して賛美集会を運営させる「リズン」という働き。こうして次世代が育てられ、教会は元気になる。その恩恵に私たちの教会もあずかったというわけで、感謝というほかない。
そしてもうひとり、ハン・ジョンソクさん。韓国の一流企業で18年にわたって建設部門を担当し、退職して信徒宣教師として日本とフィリピンの宣教に献身してこられた。ちょっとお証しをしていただこう。
あらゆるしかたでキリストが伝えられている。それによって日本の教会は元気になっている。私たちが疲れて動けなくなっているとき、主は御使いを遣わすようにして、助けてくださる兄弟姉妹を起こし、その働きをもって教会を祝福してくださる。そんな働き人の見返りなく働く献身の歩み、それは祝福の歩みというほかない。
私たちはいつか、元気にならなければ。いや、今からでも歩き出したら、主はそれに見合った力をくださるではないか。列王記第一19章のみことばのように。私たちの旅、神の栄光をあらわしつづける旅路はまだまだ続く。その旅に力を得させてくださる方々の存在ゆえに主に感謝したい。そして、私たちも力を得て、日本の教会を元気にする働きに用いられていこう。受けるより与えるほうが幸い、その祝福をともにいただこう。