聖書箇所;ヤコブの手紙5章7節~12節
メッセージ題目;備えよう、主が来られる時に
アメリカの歴史を代表する政治家、エイブラハム・リンカーンは、大統領になって閣僚を任命するにあたり、ある人物の推薦を受けた。それでその人に面接したが、結局、閣僚に採用しないことを決めた。なぜ採用しないことにしたかと問われ、こう答えたという。「顔が悪すぎる。男は40歳になったら自分の顔に責任を持ちなさい。」
この「男は40歳になったら自分の顔に責任を持て」とは、私のように年齢よりもはるかに若く見られ、したがって人並みの苦労をしていないことがバレバレな人間からしたら、なかなか耳に痛いことばだが、小説家の中島らもは、このことばを受けて、こんなことも言っている。そうか、40になるまでは、顔に責任を持たなくていいのか、とのんきにしていたら、40になったらきっちり、無責任な顔になっているだろう。たしかに顔ほど怖いものはない。
この場合、生きるということは、どんな生き方をしてきたか、そういうことが顔に刻まれて人の目に明らかになるという、40歳というひとつのリミットに向けて生きるということだ、とも言える。そう、どう生きてきたか、それは40(しじゅう)の男なら顔であるように、わかるひとにはしっかりわかってしまうものである。だが、ほんとうのところ、人生は40歳で終わりではない。きょうび、日本は少子高齢化で、あるいは私自身が50にもなったから余計にそう思うのだろうが、40なんてまだまだ、若者の部類のように見えてしまう。人は80、90まで生きるのもざらという時代である。40で生き方の審判を受けるのはいかにも早すぎる。そしてもっと大事なのは、人の生き方を審判するのは人ではない。さばき主なる神さまである、ということ。
先週学んだみことばは、地上で神をも恐れず贅沢にふけった罪人、その不敬虔が、イエスさまを十字架につけたほどの、そんな罪人を待ち受ける、あまりに怖ろしいさばきを語っている。今日のみことばはそれに続くことばで、やはりさばき主なる主の再臨の日を語っているが、こちらはヤコブが書簡を書き送っているその読み手、教会を形成する主にある兄弟姉妹に語ることばである。そんなクリスチャンたちのことを、ヤコブはどのように励まし、また勧めているだろうか? ともに見ていこう。
7節。みことばは私たちクリスチャンに、耐え忍ぶことを教えている。それはいつまでのことか? さばき主なる主が来られる、再臨されるまでのことである。そのように耐え忍ぶべきである私たちにとっての模範が、大地の貴重な実りを待つ農夫であるとみことばは語る。
初めの雨、後の雨、とあるが、これはイスラエルの地域の季節がどうであるかということが前提となっている。日本では季節といえば春、夏、秋、冬だが、イスラエルは雨が降らない「乾季」と、雨に大地が潤される「雨季」の二つの季節となっている。言うまでもなく乾季は雨が降らないので、人も大地もからからに渇く。どんなに日が経っても一向に雨が降らないわけだから、農夫はどれほど忍耐を強いられることだろうか?
しかし、この「雨がまったく降らない」ということは、今後も変わることのない状態ではない。なぜならば時が来れば、創造主なる神さまは大地に秋の雨を降らせてくださり、乾季を終わらせてくださるからである。この、雨期に入る秋の雨、これが「初めの雨」であり、その後春に降る雨が「後の雨」である。このような雨というものは、聖書のみことばによれば、神さまの恵みの象徴である。
農夫たちは、日照りの乾季にも農作業など、しなければならない日々の厳しい仕事に取り組む。しかし、その働きを完成するものは、雨という自然のもたらす神の恵みであり、それが時至ってもたらされるということを知っていなければ、いや、それを現実に見ていない以上、信じていなければ、という方が正確だが、雨は必ず降ると信じていなければ、その激しい環境の中の重労働はあまりにむなしいものとなってしまう。そんな彼らを支える希望は、神さまが時至って、必ず雨をもって大地を潤してくださるという信仰である。
みことばは、あなたがたが忍耐することも、それと同じである、と語る。私たちを取り囲む環境は決して生易しいものではない。この手紙を読んでいた聖徒たちも、時の権力者たちの迫害に晒されながらの、文字どおり命がけの、たいへんな信仰生活を送っていた。
私たちはそれに比べると、いのちこそ安全かもしれないが、恵みを分かち合って励まし合える兄弟姉妹の数はけっして大勢とはいえないし、偶像礼拝をしてこそ当たり前、日曜日は礼拝ではなく仕事をしてこそ当たり前という、日本の環境に生きるしかない。
それだけでも大変なのに、毎日のディボーションの時間を持つにも忙しすぎたり、疲れすぎたりしている。さらに、生活の糧を得る手段である仕事も、スキルの面でも人間関係の面でも厳しく、しかもそのストレスの真っただ中の重労働のすえに得られる生活の糧はわずか、休みもろくに取れないから疲れも抜けない……そのように、苦しみの中にある点では初代教会の信徒たちと立場は同じであり、私たちもまた、ヤコブをとおして与えられるこのみことばの励ましを受け取るべき立場にある。
私たちも毎日、いわば種を蒔く生活をしている。毎日のディボーションを通じて神さまからみことばをお聴きし、そこで命じられたみことばを具体的に守り行い、隣人を愛し、隣人に仕えるという、よい働きをすることで、私たちのうちに生きておられるキリストが伝わるように努力する。ことばを用いても、あるいは無言の行動をとおしても、私たちは努力する。だが、その日々の努力を周りは何とも思っていないことがほとんどではないだろうか。そればかりか、私たちが主にあってよかれと思って語ったことやした行いが悪く受け取られ、嫌われたり、悪口を言いふらされたりする。私たちの人生に雨ひとつふらない乾季が、これでもか、と続くようである。
それでも私たちが心折れず、絶望に陥らないのは、やがてその努力が報いられる、神の恵みに潤された大地が豊かな実りをつけるがごとき、天の御国に入れていただけるという信仰が確かにあるからである。その天国に入るにあたって、私たちがイエスさまを信じてここまで来たことを堂々と言えるならば、どんなに素晴らしいことだろうか。その日を目指して、今日のあらゆることに忍耐するのである。農夫が、乾季が来る日も来る日も続こうとも心折れないのは、初めの雨と後の雨を神さまが必ずもたらしてくださるからだと知っているように、私たちもやがて入れていただける天国の恵みを覚えて、今日の働きに取り組むことができるからである。
8節。だから私たちは心を強くするのである。主は近い。それはイエスさまが天に上げられて以来、世々の聖徒たちがつねに意識し、生きていくうえでの真実であった。振り返れば2000年にわたり、主はまだこの時を来たらせてはおられなかった。それで、楽天的な人は、これからもまだまだ世は終わらない、と思うかもしれない。しかし、私たちは今の世界を見て思わないだろうか? あまりにおかしくなっていないだろうか? そんな世相を見るにつけ、主は近い、と意識しないだろうか?
主は近い。しかし、その意識を持ちつづけることは、私たちを厭世的にするのではない。むしろもっと積極的に、だから私たちは主の御前に徹底して生きよう、というやる気を起こさせることである。すぐにでも来られる主の御前に恥ずかしくなく立てるように、しっかり生きよう、そうなってしかるべきである。
さて、さばき主を意識するならば、私たちがしてはならないことについても、今日のみことばは2つ語っている。まず9節、文句を言い合ってはいけない、ということである。これは、人を罪に定めてさばくようなことを、教会という主のからだなる共同体においてお互いしてはいけない、ということである。
なぜ、聖徒は人をさばくということをしてはいけないのか? それは、だれもがほんとうのさばき主のさばきに服することになっていて、それは人様を罪に定めてさばく人も例外ではないから、ということである。人を罪に定める、さばくということをすることとは、すなわち、自分は人をさばけるだけの正しい人、きよい人だとうぬぼれていることであり、また同時に、まことのさばき主なる神さまになり代わってさばき主の座に座ることである。どれほど傲慢なことだろうか?
しかし、この罪は、神を神とする、聖書のみことばがまことであると告白するような人は特に陥りやすい罠である。新約聖書の福音書には、イエスさまがパリサイ人のことを糾弾されるみことばがこれでもか、と登場するが、あれは、律法主義ではなくて信仰によって救われた私たちクリスチャンは、こんないけ好かないパリサイ人のようでなくてよかった、と、私たちが安心するために書かれているのだろうか? それはちがうだろう。むしろ、神の恵みのゆえに信仰によって救っていただいたはずの私たちが、聖書のみことばを盾にして人をさばくようなパリサイ人になりかねないことを、これでもかと警告しておられるからではないだろうか?
ことばを選ばず申しあげれば、私たちは現代のパリサイ人である。人をさばくことで優越感を覚え、もっといえば快感を覚える存在である。いけ好かないのは私たち自身である。しかし、パリサイ人からもパウロのような人が出た。私たちはパウロがそうしたように、私たちは信仰のゆえに恵みによって救われた、行いによるのはない、と自分自身が信じ、クリスチャンたちにそう呼びかける人である。
正しいみことばを「所有している」ことで慢心するのは、自分の義に拠り頼んでいる証拠である。いわんやそのみことばを人様をさばくための道具にするなど、もってのほかである。そうではなく、私のようなこんな罪人のことさえも救ってくださった、神の恵みにのみ拠り頼むべき存在、それが私たちクリスチャンである。私たちの本来の罪深さを思うならば、どうして人様のことを罪に定め、さばく資格などあろうものか?
もうひとつ、みことばが戒めていること、それは12節にあるとおり「誓う」ことである。これは結婚式の新郎新婦や、牧師按手を受ける献身者のように、神と人の前に責任を果たすべく、厳かに約束することを言っているのではない。そういうことと本質的に異なることである。
「誓う」ことがさばき主のさばきにあうことであると警告されているのは、これが「文句を言い合う」ことと本質的に同じだからである。つまり、人間の分際で全能の主の座にのし上がることだからである。特に「誓う」ということは、こういうことは必ず起こる、と、神の名さえ用いて自分の名を高める行為である。これは十戒で戒められている「神の御名をみだりに口にする」行為である。
これは私自身のみっともない経験の分かち合いだが、わかっていただける実例だと思うので、恥を忍んでお伝えする。高校1年生のとき、私は肺の病気の入院をとおして、それまでの人生のすべてが神さまの恵みであることを知って、ものすごくうれしくなった。この体験を私は、私の入院と手術を覚えて一生懸命祈ってくださった教会のみなさまに、礼拝中の「証し」という形でお話ししたほどだった。
具体的に言えば、両方の肺を同時に手術するような大掛かりなものになるところだったのが、片方の肺を軽く手術するだけで済んだ、同時に入院した病棟が小児科の病棟に回され、おいしい病院食を食べてお友だちができるなどあまりに楽しかった、そういうことになったのは、神さまの恵みによることだったと思い至った、ということだったのだが、問題はその先、これほどまでに神さまがよくしてくださるならば、私の人生はもっと上向きになるはずだ、と考え、当時私は学年で後ろからすぐに数えられるほど成績が悪かったが、神さまが味方なら絶対に次の試験はいい成績が取れる、と、周りにそう言って回った。
しかしふたを開けてみると、成績は相変わらず悪いままだった。理由ははっきりしていた。勉強をしなかったからだった。当たり前である。しかし、この悪い成績という現実を目の前にしてくよくよしていたとき、聖書のみことばを開くと書いてあった。「一切誓ってはならない。」私は砕かれた。そうだ、私は誓うという罪を犯してしまった。
今振り返ってみると、私の何が悪かったかはわかる。私が夢見ていたものは、「キリストがたたえられること」ではなかった。むしろ、「キリストを信じている『自分』がたたえられること」だった。そんな自分がよい入院生活を送れたのは完全に神さまの恵みであり、御名がほめたたえられることであったのに、私は勘違いもはなはだしく、だいいち傲慢だった。
というわけで、私たちは主のわざを行う歩みの中で、文句を言ったり、誓ったりすることで主のみこころを損なう誘惑にさらされている弱い者であることを、謙遜に認める必要がある。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる。10節、11節を読もう。聖書は、忍耐した人たちの記録である。特にここでは、そのような信仰の先達を代表する立場として「預言者」という立場を挙げている。預言者とは読んで字のごとく「主のみことばを預かる者」である。お預かりした主のみことばをイスラエルの民の代表として語ったのが預言者だが、私たちもまた、日々の主との交わりの中でみことばをいただき、その生活において、ことばと行いをとおしてみことばをこの世に宣べ伝えるものである。その点で私たちも預言者である。
そんな私たちは、預言者がときに理不尽な目にあって苦しんだように、苦しみの中に置かれよう。中にはここで例に挙がっているヨブのごとく、答えのない中をいつまでもぐるぐると回らされる不条理を体験するかもしれない。しかしそんな私たちが覚えておくべきことがある。それはこの11節のみことばが語るとおり、「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」ということである。
信仰の鑑だったヨブも苦しみの中でさらに親友たちから責められ、神さまに対してつぶやくことばを口にしてしまった。しかしその苦しみの中でヨブはほんとうの意味で神さまに出会った。それは「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」神さまだった。
ヨブだけではない。主に選ばれ、用いられた主の働き人はことごとく、苦しみの中にあってもなお、慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主との交わりをとおして、励ましと慰めをいただき、希望を失わなかった。やがて来る初めの雨と後の雨のような、神の恵みに満ちた天の御国に入れられる日、完全に苦しみから解き放たれる日をはるかに望み見ることができていたのである。
私たちもこの地上でまだしばらくの間、苦しむ日が続くかもしれない。しかし私たちはやがてともに、恵みの雨に潤され、この世の苦しみが報われる日が来る。主が来てくださり、その恵みの日を来たらせてくださるのである。その日をともに望み見つつ、失望しないで働きつづける恵みをいただけるように祈っていこう。