聖書箇所;エペソ人への手紙1:1~14
メッセージ題目;三位一体の恵み
本日から「エペソ人への手紙」の学びに入ります。このエペソ人への手紙、若い頃の私に大きなチャレンジを与えてくれた書簡です。2章のみことばをお読みして、私は日本と韓国の架け橋になりたいと願いました。5章のみことばをお読みして、結婚への召命を与えられました。その結果、今はどちらもかないました。わが家はまさに、このどちらのみことばも実現しています。だから私は個人的に、エペソ人への手紙というタイトルを見るたびに、生活に即した近しさのようなものを覚えます。みなさんはどうでしょうか? すばらしいみことばですので、一緒に学んでまいりたいと思います。
今日の箇所は、エペソ書の始まりの部分です。さてこの箇所で著者のパウロが強調していること、それは、私たちを救ってくださった神さまの「恵み」です。
今日の箇所を、3つの時制に分けて、それぞれの時制において神さまが私たちに何をしてくださったのか、ともに見てまいりたいと思います。
第一に、永遠の昔に神さまがしてくださったことです。父なる神さまが、私たちを選んでくださいました。
まず、この手紙を受け取ったエペソ人のことを考えてみましょう。パウロはこの書簡の冒頭で、キリスト・イエスの使徒の名において、キリスト・イエスにある忠実な聖徒たちと、エペソのクリスチャンたちのことを評価しています。
しかし彼らエペソのクリスチャンたちがもともと、どんな人たちだったかというと、月の女神アルテミスの都市に生まれ育った人たちです。その市民はどういう神観をふつう持っていたかということは、使徒の働き19章が証言しています。パウロの何年にもわたる働きにより、エペソにキリスト教会が定着しつつあったとき、市民たちがクリスチャンたちを排斥しようと騒乱を起こし、たいへんな騒ぎとなりました。そのとき、町の書記官が、こんなことを言って、彼らエペソの人たちをなだめました。「エペソのみなさん。エペソの町が、偉大な女神アルテミスと、天から下ったご神体との守護者であることを知らない人が、だれかいるでしょうか。」書記官一流の知恵を用いて騒ぎを鎮めたといえますが、しかしこれは同時に、アルテミスを礼拝する者にあらずばエペソ市民にあらず、とさえ言っているようです。
このような異教社会の中で、それでもまことの創造主、救い主なるキリストを信じ受け入れ、キリストに忠実な者となったと、パウロはキリストの名において評価しているのです。これは、たいへんなことです。
私たち、日本に生まれ育った者たちにとってもそうではないでしょうか。私たちも本来は、当たり前のようにして先祖代々日本の人たちが受け継いできた宗教的な習俗を受け入れていたはずです。やおよろずの神、といいますが、これは外国から見ると、やおよろずは八百万と書くので、日本には八百万も神がいる、ととらえられます。
私たち日本人は別に、八百万(はっぴゃくまん)の神々と特に意識しているわけではないでしょうが、それでも神々がとても多いことは何かにつけて気づかされるでしょう。むかし、日本の当時の総理大臣が、日本は神の国と発言して物議をかもしましたが、そういう発言がまかり通るような霊的風土ということは、みなさんも何かと感じていらっしゃるのではないかと思います。
そういう中から信仰を持つ者とされた。そういう点では、アルテミスの守護者にさえされているエペソの、その市民であったエペソ教会のクリスチャンは、われわれ日本のクリスチャンにとって誇るべき先輩と言えるでしょう。
3節をご覧ください。私たちは祝福されている、とパウロは語ります。どれくらい祝福されているのか? 天にあるすべての霊的祝福を神さまがくださっているほど、私たちは祝福されている、というのです。
その霊的祝福とは、どういうものでしょうか? 4節をご覧ください。……世界の基の置かれる前から、すなわち創造のみわざの前、永遠の定めによって、ということです。私たちが救われているということは、永遠の前からすでに神さまがお決めになっていた、ということです。
これは、たいへんなことです。私たちはこの地上を生きるものでありながら、天の祝福をいただきつつ、この地上を生きる者とされる、そうなるように、神さまが私たちをあらかじめ定めてくださっていた、ということです。神さまは目に見えないお方です。だから多くの人は、神さまがほんとうにおられるかどうか、不確かな思いしかいだけません。しかし私たちは、天におられる神さまがともに歩んでくださるという、その祝福を、日々いただきつつ生きています。私たちにとって神さまとは、なによりもリアルな存在であるのです。天にあるすべての霊的祝福は、いま現実に私たちがいただいているのです。その祝福を受けるように、神さまは永遠のむかしから定めてくださっていたのです。
いえ、それだけでしょうか? 天にあるすべての霊的祝福をいただいている、ということは、永遠の天国は私たちのもの、ということにもなります。私たちはこの地上を生きていますと、苦しいことやつらいことのある一方で、喜びを体験します。その喜びは、この地上を生きていく原動力になったりもするのです。しかし、私たちが体験するその素晴らしい喜びさえ、天国を受け継ぐ祝福に比べれば、なにほどのこともありません。想像すらできないほどの祝福、それが天国を受け継ぐ祝福です。その天国に入れるように、神さまが永遠のむかしからすでに私たちを選んでくださっていた、ということです。
さて、ここでパウロが、「私たち」がその祝福をいただくと言っていることにも注目です。私たち。アルテミスの民であったエペソの人、生粋のユダヤ人でエリートの律法学者であったパウロ、立場はまったく異なりますが、どちらもキリストに出会っていなかったということでは同じです。しかし今や、そのどちらの立場からも、キリストに出会い、まことの霊的祝福を受けるものとされた、というわけです。
この、まったくちがうところから永遠のむかしに選ばれ、みもとに集められ、「ともに」祝福を受ける喜び、御業をほめたたえる喜びが、この「私たち」ということばから伝わってくるようです。
私たちも立場はさまざまだったでしょう。イエスさまを信じ受け入れたプロセスもいろいろでした。しかし、そういうどうしがこの水戸第一聖書バプテスト教会という、ひとつところに集うべく、永遠のむかしに選ばれ、ひとつところに集められ、ともに天の霊的祝福にあずかるということ、それはどんなにすばらしいことでしょうか。ここでともに礼拝する私たちは、立場や性格の違いを超えて、ともに霊的祝福にあずかる者として選ばれている、だいじな兄弟姉妹です。
とは申しましても、いま現実にこの教会に集っていない人は、選ばれていないのではないか、などと、どうか思わないでいただきたいのです。神さまの永遠の選びというものは、人間の目によって判断できるものではありません。それこそ、私たちの周りの人たちのことも。神さまは永遠のむかしから選んでいらっしゃるかもしれないのです。だから私たちは、選ばれている人を見いだす働きに用いられるべく、伝道するのです。
神の選びというものは、かぎりある人間の立場から推し量るのはとても難しいものです。しかし、こう考えてみてはいかがでしょうか? 私がこうして信仰をもてるように、神さまが永遠のむかしから、私のことを選んでくださっていたなんて! 神さま、感謝します! 人のことはどうあれ、まず自分が選んでいただいていることに、感謝したいものです。その感謝の積み重ねが、みこころにかなったよい行いを生み、私たちを特別に選んでくださった神さまのすばらしさを、その行いをもって現すことができるようになると信じます。
第二に、2000年前に子なる神さまがしてくださったことです。イエスさまは私たちを、十字架の血によって神の子にしてくださいました。
4節のみことばをもう少し学んでまいります。神さまの選びは、「彼にあって」とあります。彼とは、キリストのことです。それは5節のみことばで解き明かしているとおり、御父がキリストによってご自分の子にしようと、私たちを選んでくださったということです。
6節を見てみますと、キリストは御父が私たちに与えてくださった恵みであると語っています。恵みとは何でしょうか? ただでもらえるものです。
私は小学生のとき、親友の石川くんという友達に、誕生パーティを開いてもらったことがあります。仲のよかった友だちが集まりました。当時私が片想いをしていた女の子も来てくれました。プレゼントもいろいろもらいました。ほんとうに楽しかったですし、またうれしかったです。一生の想い出になりました。
でももし、私が石川くんやほかの友達に、こんなことを言ったらどうなるでしょうか?
「今日は来てくれてありがとう。プレゼントもありがとう。でも、お金がかかったよね? パーティを盛り上げるのも大変だったよね? じゃあ、お金をこれだけ払うよ」そんなことを言って、お金なんか渡したら、みんなどう思うでしょうか? プレゼントにお金などいりません。それと同じものが、神さまの恵みです。イエスさまは、父なる神さまのプレゼントです。神さまがイエスさまを私たちのために送ってくださったならば、私たちのすることは、ただひとつです。ありがたく受け取ることだけです。
では、イエス・キリストは何をしてくださったのでしょうか? 7節のみことばを説き起こしますと、イエスさまは十字架の上で血潮を流して死んでくださったことによって、私たちのことを天国に入れなくしていた原因である、私たちの罪の代価を完全に支払ってくださり、天国に私たちのいるべき場所を買い取ってくださったのでした。
その、2000年前の十字架のできごと、それを私たちは、自分のこととして信じ受け入れる信仰を与えていただいたのでした。それは自分の意志で信じたように思えても、ほんとうのことを言うと、神さまの遠大なご計画の中で、その信仰が与えられたというべきです。
私たちがまことに神さまの子どもとなるため、神さまがこの世界から買い取ってくださるために、イエスさまがしてくださったこと、それが十字架です。しかしそのために、イエスさまはどれほど苦しまなければならなかったことでしょうか。十字架の苦しみがどれほどのものであったか、それは肉体的な苦しみはもちろんのこと、最大の苦しみは、父なる神さまと引き離されなければならなかったことでした。イエスさまは十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」あのように叫んで捨てられなければならなかったのは、罪を捨てることをしない、神さまに従わないでいて平気でいる私たちだったはずです。しかし父なる神さまはそんな私たち人間を憐れんで、その罪の罰を、十字架というこの上なくむごたらしいかたちでイエスさまに負わせられました。
これが、恵みなのです。そして、その恵みをただで信じて受け入れるようにいていただいたこと、これもまた恵みです。恵みの上にさらに恵みをいただいた存在、それが私たちです。
8節から11節をお読みします。……神さまはキリストによって、罪から贖ってくださっただけではありません。みことばに啓示されたご計画を教えてくださり、キリストを救い主、主として告白するどうしを、民族や国や時代の枠を超えてあらゆるところから集めてくださり、ひとつの御国を受け継ぐ者としてくださいました。
それは、神さまの永遠のご計画によって定められていることでした。
キリストは死なれただけではありません。今も生きておられ、私たちの主でいらっしゃいます。私たちがみことばをお読みして神さまのみこころを知ることができるのは、その中心に啓示されているキリストによって、みことばを解き明かすことができるように、私たちが導かれているからです。
私たちの信仰生活を、人は「キリスト教」と呼びます。キリストのないキリスト教など、ほかの宗教と変わりのないものになってしまいます。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません、とおっしゃったキリストによって神と交わる、その生き方を許されているのが、私たちクリスチャンです。
ですから私たちは、キリストによって神との交わりにつねに招かれている者として、神との交わりにどんなときにも入っていきたいものです。いろいろなことで忙しくしているときでも、飲み物くらいは飲むでしょう。トイレくらいには行くでしょう。それならば、わずかでもいいです。すこし、祈ってみてはいかがでしょうか。みことばを思い出してみてはいかがでしょうか。長くなくていいのです。有名人がツイッターというインターネットのツールを用いて自分の意見を短く発信するとき、たまにその内容がニュースになったりしますが、短い意見でも世の中にインパクトをもたらすものです。同じように私たちの祈りは、長々としていればいいものではありません。仕事中でも構いませんから、気がついたら短くお祈りすることをお勧めします。私はこれを、「ツイッターの祈り」と呼びます。
もちろん、それだけではなく、みことばをしっかりと読み、じっくりと祈る時間を一日のうちに必ず1回は確保していただきたいと願います。みことばを黙想するならば、朝がいいでしょう。黙想するみことばの箇所は、週報に書いてありますので参照していただければと思いますが、その短い箇所を毎日、熟読玩味してみこころを受け取っていただければと思います。しかしそれは、お勤めのような宗教的な日課ではなく、キリストとの交わりとして毎日行なっていただきたいと願います。
そのようにしてイエスさまは、私たちに十字架の赦しの恵みをくださり、みことばを教えてくださる恵みをくださり、天国に入れてくださる恵みを与えてくださいます。ともに感謝いたしましょう。
第三に、今このとき、聖霊なる神さまがしてくださることです。聖霊なる神さまは、私たちに御国を受け継ぐ保証を与えてくださいます。
この保証を、13節のみことばでは「証印」と語っています。創世記やエステル記など、聖書の中にはしばしば、印、というものが出てきます。その印が押された文書には、印の持ち主である王の権威によって効力が発せられる、というわけです。
それは今日の日本でも同じことで、印の押された文書には、その人ないしは法人、団体の名により、効力が発せられます。
契約というものを結ぶならば、なおさらこの「印」というものの効力が重要になってきます。神さまと人との間にも契約が結ばれ、神さまは人をご自身の民にしてくださったわけですが、この契約の保証となってくださるお方が、聖霊なる神さまです。
神さまはもともと、イスラエルという民を特別に選び、ご自身の民としての契約を結ばれました。しかし、人がその契約を履行する際の条件であった、神さまの定めた掟を守り行うこと、それをすることのできる人は、だれひとりいませんでした。ただ、神の御子なるイエスさまだけが、御父への完全な従順をもってこの律法を完全に履行され、その従順は、十字架に死にまで至りました。この十字架は、御父が人を神の子どもにするために新しく結んでくださった契約であり、完全な契約、永遠の契約です。
聖霊なる神さまは、神さまと私たちの間にこの契約を結ぶべく働いてくださいました。私たちの力では、神さまのこの恵み、プレゼントを受け取ることなどできません。しかし聖霊なる神さまは、私たちの心にイエスさまの十字架に対する信仰を持たせてくださり、信仰による救いへと至るように、私たちを導いてくださいました。
聖霊さまのこの導きは、一生続きます。私たちがこの、十字架による罪の赦し、贖いという、永遠の契約に入れられている者にふさわしくなれるよう、私たちを日々整え、きよめてくださいます。そのために聖霊さまは、私たちが教会というキリストのからだのひと枝ひと枝となれるようにしてくださったのです。
礼拝の最後に祝祷をいたしますが、これは第二コリント13章の最後のことばをもとにしています。お祈りすることが、主イエス・キリストの恵み、父なる神さまの愛が私たちとともにあることに加え、聖霊の交わりがあるようにと祈っています。聖霊「と」の交わりとは表現しません。もちろん、たしかに「聖霊の交わり」とは「聖霊『と』の交わりではあるのですが、しかし、それは同時に、私たち信じる者どうし、教会という共同体のうちに聖霊さまが働かれることで成り立つ互いの交わり、ということを意味します。
私たちはまちがってはいけませんが、たとえクリスチャン同士でも、どうでもいいよもやま話で盛り上がることを「交わり」と呼ぶべきではありません。まあ、そういう話題になることももちろんありですが、それで終わるならば、何のために私たちはわざわざ、イエスさまを信じる者どうしで集まっているのでしょうか? しかし、もし私たちが、その会話の中で、神さまの素晴らしさ、みことばの恵みを分かち合うならば、あるいは互いの取り組んでいる課題、抱えている問題のために祈るならば、それはまさしく、交わりと呼ぶにふさわしいフェローシップが成り立っていることになります。私たちはせっかく、信じているどうしで教会に集まっているのですから、せめてそのような交わりをともに目指してまいりたいものです。そのような交わりを通して、私たちを救いに導いてくださった神さまの恵みが、私たちのうちにともにほめたたえられるようになります。
以上見てきて、お気づきになったことはありませんか? そう、私たちの救いは、御父の計画、御子の実践、御霊の適用、三位一体なる神さまがともに働かれて、成り立っている、ということです。救いに至るために、私たちが誇るような努力などなにひとつできません。すべては、三位一体なる神さまの恵みです。恵みのうちに私たちを選び、恵みのうちに私たちを贖い、恵みのうちに私たちを導く、父、御子、御霊の、三位一体の神さまの御名を、心からほめたたえてまいりましょう。