聖書箇所;エペソ人への手紙4:17~32
メッセージ題目;古い人を脱ぎ捨てる
暑いんだか寒いんだか、よくわからない日々が続いています。みなさん、おからだの具合はいかがでしょうか? このような天候で、体調を崩していらっしゃらなければと思います。
暑くなれば、意識するのは「衣替え」です。娘たちの学校は制服なので、季節の変わり目には、成長著しい小学生のこと、どうしても、新しい服のことを考えなければなりません。新しい服を手に入れたら、ちょっともったいないですが、古いのは処分します。そうでないと場所取りです。
私たちにとってこのような「衣替え」が必要なように、聖書は、「衣替え」というものを、私たちが根本的に行なう必要があるということを語っています。本日の箇所には、22節と24節に、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るという、象徴的なことばが登場します。なんとなく、言っていることはお分かりだと思います。人間、新しくなれるならば、どんなにいいことでしょうか。いつまでも自分の古い性質を引きずっていてはならないわけです。そんな自分を脱ぎ捨てて、新しくなる、それは素敵なことです。いいえ、私は古いままでいい、新しくなんかなりたくない、そんなことをおっしゃる方は、まあ、いないと思います。
問題は、どうすることが古い人を脱ぎ捨てることであり、どうなることが新しい人を着ることか、ということです。聖書は何と語っていますでしょうか? 今日の本文から、3つのポイントにわけて、ともに見てまいりたいと思います。
第一のポイントです。脱ぎ捨てるべき古い人とは、神の民ではないアイデンティティです。
17節のみことばをご覧ください。……ここで戒められている歩みは、異邦人のような歩みです。
異邦人とは何でしょうか? まことの神さまに属さない民です。旧約聖書にはこの異邦人がいろいろな形で出てきますが、それはたいていの場合、まことの神さまに敵対する存在、神さまの忌み嫌われる存在であったりするわけです。
それは、神さまを認めず、したがって神さまにお従いしないゆえ、また、それゆえに、神さまとその民に敵対するゆえです。彼らは幼いときから、偶像の神に従うことを教えられます。また、それにしたがって、まことの神さまに敵対するあらゆる非聖書的な教えを行うように導かれます。何をどうしても、行きつくところは偶像の神々だったのでした。
しかし、神さまはそのような者たちの罪に気づかせてくださり、その罪とそのさばきから救い出すべく、イエスさまの十字架を信じる信仰へと導いてくださいました。
これは、彼らの努力によることではありません。神さまの一方的なあわれみによることです。この福音のことばを聞いているエペソの人たちにしても、そのままでは女神アルテミスを神とした生活をするしかありませんでした。しかし神さまは時至って、パウロを通して彼らに福音を伝えてくださり、イエスさまを信じる信仰を与えてくださったのでした。これこそ恵みのわざです。
こうしてエペソの人たちは、異邦人という古い人を脱ぎ捨てることができました。ただしこれは、自分の努力によって脱ぎ捨てたのではありません。神さまが脱ぎ捨てさせてくださったのです。そして、神の民という、新しい衣を着せてくださったのです。
むかし、「グリーン・マイル」という、アメリカの刑務所を舞台にした映画を観ていて、暴れる囚人をおとなしくさせるために身動きを取れなくさせる「拘束衣」というものの存在を知りました。看守たちに押さえつけられてこれを着せられると、両手両足は縛られたも同然となり、もう何もできなくなります。
神の民ではない異邦人という状況も、これと同じです。異邦人という拘束衣にがんじがらめにさせられている以上、神のみこころに従うことなど金輪際ないわけです。神さまに従うには、神さまによってこの拘束を解いていただく以外にありません。
私たちもまず、神さまによってこの「異邦人」という縛りから解いていただく必要があります。ここにいらっしゃる多くの方々が、この「異邦人」という縛りから、信仰によって解いていただいた方々であろうと思います。しかし、からだというものは、癖を持っています。たとえば、このメッセージの準備をしていた際、私はパソコンに向かって原稿を書いていました。いつもの作業ではありますが、その作業が終わった後、私は必ずと言っていいほど、妻に注意されます。「ほら、背中が曲がっているよ!」そうなると私は、妻がYouTubeで見つけてくれた体操をして、少しでも曲がった背中を何とかします。
そういう、からだの癖というものが、習慣によってからだにしみついてしまうように、私たちにも罪の性質が、まだきよめられていない習慣によって自分の中に残り、増え広がってしまうことを、私たちは自覚する必要があります。私たちはたしかに、もう異邦人のような神さまを認めない人々ではありません。しかし、かつての神さまを認めないゆえに習慣になっていた罪の性質というものは、そう簡単に私たちの中から去ってはくれません。
それゆえ私たちはこの領域で、古い人を脱ぎ捨てさせていただくという、神さまのお取り扱いを必要としているわけです。私が「背中が曲がっているよ」という妻の声を聞くことで、そういう自分に気づき、曲がった背中を何とかするように、聖霊なる神さまの御声を聞いて、古い人を脱ぎ捨てさせていただくのです。私たちは日々のお祈りをとおして、この古い人を脱ぎ捨てさせていただきます。
はたして神さまは、私たちが、ご自身の民にふさわしくない古い性質を引きずったまま生きることを、喜んでいらっしゃるでしょうか? もし私たちが相変わらずであったとするならば、イエスさまは何のために十字架にかかってくださり、私たちを罪からきよめてくださったのでしょうか? 私たちは日々、古い人を脱がせていただく必要があります。御霊によって、きよめていただく必要があります。
日々、主の御前に祈りのうちに進み出て、きよめをいただいて神の人としてふさわしくされる、その祝福をいただく私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。
第二のポイントにまいります。脱ぎ捨てるべき古い人とは、みことばに禁じられているあらゆる罪の性質です。
第一のポイントでは、異邦人というアイデンティティを脱ぎ捨てるようにと申しましたが、ここでは、その脱ぎ捨てるべき古い人の、具体的な中身について見てまいります。まずは18節です。……この「古い人」の特徴は、暗い知性とかたくなな心です。暗い知性は、このみことばでは「無知」とも言い換えられています。
この「暗い知性」ないしは「無知」と、「頑なな心」は、コインの裏表のように表裏一体です。どういうことかというと、人は無知である自分を自覚して賢くなろうとすればいいのですが、無知な自分を受け入れられなくて、かえって頑なに無知な自分の状態にとどまる……その頑なさのゆえに、ますます無知であることをやめられない……。
私が小5の時に担任の先生だった「山岸先生」という方がよくおっしゃっていたのは、「無知これ罪悪」ということばで、そのことばに叱咤激励されて生徒たちは勉強させられたものでした。
しかしこの「無知これ罪悪」は、聖書のメッセージでもあります。神さまのみことばを知る機会がありながらも知ろうとしない、自分の考えがすべてである、そういう頑なさの中にとどまりつづけるので、無知であることをやめられない……かくして、その人はますますみことばの真理に到達できない……その状態をみことばは、罪に定めています。そういう無知とかたくなさの中にあるかぎり、まことのいのちを与える神のみことばによってほんとうの賢さを得ようというところには、とても到達することができません。
そういう、無知とかたくなさの中にとどまりつづける者たちは、どうなるとみことばは語っていますでしょうか? まず19節、22節を見てみますと、好色、性的な不潔、情欲という形で現れることが語られています。
情欲というものはいつの時代も、人を、特に若い男性をとりこにします。現代においても、インターネットから学校の雑談に至るまで、どれほどそのようなものにあふれているでしょうか。
しかし、これが罪であることを指し示せる基準は、日本の一般社会からはほぼ消滅しています。
罪を犯したとき、後ろめたさぐらいは覚えていると信じたいですが、その後ろめたさがこの罪を抑止する力になってくれるわけではありません。ただ、それが罪であることを定めていらっしゃる神さまによって、その古い人を脱ぎ捨てていただくことによってのみ、罪を抑止することができます。
古い人の罪の形態に、まっさきに「情欲」ということが書かれているのは、理由のないことではありません。いずれエペソ書の5章を学ぶときに詳しく学びますが、教会は、キリストの花嫁です。貞潔をキリストにのみささげるべき存在、それが私たちキリストの花嫁、教会です。そのようなものが情欲に染まるということ、それは、キリストを離れ、姦淫、不倫の罪を犯すことに等しいことです。私たちは何としても、この「情欲」から身をきよめる必要があります。
それに続く箇所も見てみましょう。25節以下は、古い人のいろいろな形態が列挙されています。25節では偽り、26節では怒りをやめないこと、27節では悪魔に、われわれの信仰生活に干渉する機会を与えること、28節では盗み、29節では悪いことば、30節では聖霊を悲しませること、31節では無慈悲や、怒りから発するさまざまな否定的な行動、そして悪意を挙げています。
これらひとつひとつを詳しく見るならば、1回のメッセージでは足りません。大きく2つに分けて整理したいと思います。これらの罪は、霊的な次元と、人間的な次元の2つに分けることができます。
まず、霊的な次元から見てみますと、27節の悪魔に機会を与えることと、30節の神の聖霊を悲しませることは、表裏一体と言えます。
私たちは恵みによって、神の民とされている者たちですが、そのような私たちであっても、悪魔に働く隙を与えうる存在です。初代教会においても、アナニアとサッピラの例を挙げることができるように、うかうかしていると教会においても、サタンの付け入る隙というものは生まれます。
しかし、こういう悪魔の働く機会というものは、私たちの信仰生活の持ち方のせいで、自分から招いてしまうということが往々にして起こります。みことばを読む代わりに、インターネットやテレビや雑誌や本や、その他いろいろの理由で、みことば以外のものに意識を向けたりする。祈る代わりに、自分でぐるぐる考えたり、余計な妄想をしたりする。教会に行く代わりに、よく考えれば行く必要のないところに足を運んでしまう。こういうことが度重なることで、悪魔はどんどん、私たちの心の中の陣取り合戦で、陣地を広げていって、気がつけば心の中の相当な部分を占拠してしまうのです。
こうなってしまうと、聖霊なる神さまに働いていただく余地を、私たちの力で締め出してしまっていることになりはしないでしょうか? それは聖霊なる神さまの悲しまれることです。ゆえに、このことも私たちにとっては神さまのみこころに反する、罪となります。
では、人間的な次元の罪を見てみましょう。
偽りや怒り、盗み、悪いことば、無慈悲、悪意……こういったものは、悪魔に機会を与え、神の聖霊を悲しませるしるしとして、人に現れる罪です。では、これらのさまざまな現象は、どこから来るのでしょうか?
それは要約すれば、人を人とも思わない自己中心から出たものと言えます。早い話が、愛の反対です。自分を守るために、うそをつきます。自分の気持ちの赴くままに、怒ったり、悪いことばを発したりします。自分のものにしたくて盗みます。自分さえよければと考えてあわれみの心をいだきません。
自分の基準で人をさばいて、人に悪意をいだきます。すべては、愛の反対である自己中心から出ることです。
私たちはこのような性質を、脱ぎ捨てさせていただくのです。このような性質を脱ぎ捨てるためには、ある程度の人間的な努力は必要です。しかし究極的には、人間的な努力がきよめを達成するのではありません。神さまにこの古い人を脱ぎ捨てさせていただくこと、そのことによって、ここに列挙されたあらゆる、みこころにかなわない性質から自由にならせていただくことができるのです。そうです、これもまた恵みによることです。
私たちはこのように、礼拝に集うくらいですから、キリストに似た者になりたいという聖なる願いを、ともに持っていらっしゃることと思います。しかし、なかなか変えられなくて、落ち込んだり、自分を責めたくなったりするような方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。しかし、落ち込んだり、焦ったりすることはありません。私たちの主権は、みな神さまにあります。神さまがみこころのうちに、私たちにふさわしくない古い人を脱がせてくださるのです。聖霊なる神さまが私たちをきよめ、私たちの古い性質を取り去ってくださるのです。聖霊なる神さまに期待してまいりましょう。
それでは最後に、第三のポイントです。古い人を脱ぎ捨てて着るべき新しい人とは、神さまのご性質です。
古い人を脱ぎ捨てるべきことは、ここまで何度も強調してきたとおりです。しかし、脱ぎ捨てたままだと、裸です。裸だと恥ずかしかったり、寒かったりで、とにかく不都合な状態です。何かを着なければなりません。そんなとき、古い人を着てはいけないのです。
教会に来るような人でときどきいるのが、最初はこの赦しの福音を聞いて感激するのに、しばらくするとすっきりしたのか、教会を離れてまた元どおりの生活をするようになってしまう、そういう人です。イエスさまもそういう人のことを語って注意していらっしゃいましたが、福音を聞くような人は、元どおりの人になることを避けなければなりませんし、教会も、新しくやってきた人がそのようになってしまわないように、しっかりとフォローアップする必要があります。
そこで必要なことは、新しい人を着ることです。23節と24節をお読みします。
……このみことばからわかることは、新しい人を着ることとは、まず、人が霊と心において新しくされ続けることです。
たしかに人は、イエスさまを信じ受け入れることによって、すべては新しく変えられます。しかし、その変化は一回だけで終わるものではありません。一生続くものです。一生、変えられ続けるのです。さもなくば私たちは、肉の身にしみついた習慣により、古い人を着て元どおりになってしまうわけです。その変化は、私たちひとりひとりの神さまとの霊的な交わりから始まります。
そして、「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着る」とあります。新しい人を形づくる神のかたちには、それにふさわしい基準があるわけです。その基準となるものは、義と聖を規定する真理です。そう、真理のみことばなる聖書です。聖書のみことばは変わることなく、私たちの目の前に置かれています。この変わることのない聖書のみことばをお読みすることによって、私たちは神さまのみこころにふさわしく変えていただくことができます。神にかたどられた形に造り変えていただけるのです。これが、新しい人を着せていただくことです。
その、新しい人の特徴も、25節以下でいくつかでてきます。25節では、隣人に対して真実を語ること、28節では、施しのために正しい労苦を伴った働きをすること、29節では、人の成長に役立つ恵みのことばを語ること、32節では、優しい心で赦し合うことが、それぞれ語られています。
そんな私たちはどのような存在にされているのでしょうか? 30節と32節をお読みすれば、私たちがどのような存在にしていただいているかがわかります。30節では、神さまが贖いの日のために、聖霊によって証印を押してくださった存在、32節では、神さまがキリストにおいて罪を赦してくださった存在、それが私たちなのです。
神さまがキリストの十字架を信じる信仰を与えてくださったのは、聖霊の力です。聖霊なる神さまが私たちに、キリストの十字架が自分のためであったという信仰を与えてくださり、聖霊はその信仰のゆえに、私たちが天国に確実に入れるという証印を押してくださいました。つまり、30節と32節は同じことを、ことばを変えて語っているわけです。
だから私たちは、もう天国に入れられるべき者、この地上に生きながらも天国の民、神の民としていただいているのだから、新しい人を着せられるにふさわしくしていただいている存在です。その新しい人にふさわしい性質が、いま25節以下でお読みしたさまざまな性質です。
これらすべての根底にあるものは、十字架の愛です。隣人に対して真実を語るのも、成長に役立つことばを語るのも、その隣人が真実な人、神の人としてふさわしくなってほしいという、愛から出る行いです。お金を稼ぐ、それもまっとうな仕事をしてお金を稼ぐ目的が、自分や家族を養うため以前に、困窮している人に施しをするため……そんなことを私たちは、考えたことがあるでしょうか?
しかし、そういう生き方を進んでするのも、十字架に現された犠牲の愛を実践するゆえです。親切にするのも、赦し合うのも、キリストの赦しの愛を実践するため……すべては、神の愛から出ています。
もちろん、間違えてはならないことですが、私たちはこの愛の行いを積み重ねることで、神さまの愛を獲得するのではありません。神さまは私たちがどうあろうと、変わらず私たちのことを愛してくださっています。そうではなくて、神さまがこれほどまでに愛してくださっているのだから、私たちも少しでも、だれかに愛を注いでいこう……これこそ、新しい人を着せていただいた人の新しい生き方です。
私たちは古い人を着つづけていてはなりません。もはや異邦人のような神さまと関係のない存在ではなく、神の人だからです。異邦人の古い性質を、つねに脱ぎ捨てさせていただく恵みをいただいてまいりましょう。そして、キリストの愛に根ざした新しい人を着せていただいた者として、ふさわしい行いの実をお互いの間で結んでいけるように、ともに成長することを目標として、互いのために祈ってまいりましょう。私も、みなさんのためにお祈りしてまいります。
では、お祈りいたします。