聖書箇所;エペソ人への手紙6章4節
メッセージ題目;従順と養育の相似形 後篇――子どもを怒らせない教育
インターネット上には怒りと呪いのことばがあふれています。それは、人は何かで怒り、鬱憤を晴らしたいからではないかと思います。しかし多くの場合、その怒りはとても幼稚なものです。なぜ人は幼稚な怒りをいだくのでしょうか? それはもしかすると、幼いときからいだいてきた怒りの感情を、大人になってそれ相応に成熟してきたはずなのに、いまだに捨てることができないでいるせいではないでしょうか?
怒るのは大人の特権ではありません。子どもも怒ります。エペソ書6章4節、私たちはこの短い箇所から、子ども怒らせない教育、主の教育と訓戒によって育てる教育はいかにあるべきか、ともに考えてみたいと思います。
まず、親である大人が子ども怒らせるときとは、どのようなときでしょうか?
それは子どもが、してはならないことをしたり、するべきことをしなかったりして、叱責し、その結果、反抗心をいだいて怒った場合でしょうか? そうではありません。
多くの教育理論においては、反抗期というものが当たり前に存在することを教えます。しかし、この理論に、真っ向から異議を唱える牧師先生が日本にいらっしゃいます。岡野俊之先生という方で、弟子訓練を軸とした牧会で、とても健康に教会形成をされている方です。以前も岡野先生のことは、メッセージの時間にお話ししたことがあるので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。
岡野先生はおっしゃいます。いったい、反抗期というものは、聖書に書いてありますか? クリスチャンのみなさんは、聖書よりも、一般的な教育理論のほうを正しいと思っているのですか?
私もときに、子どもの教育に手を焼くことがあります。私以上に子どもに関わる時間の長い妻などは、なおさらそう感じていることと思います。しかし、岡野先生のお話をお聞きして以来、私は子どもたちのその跳ね返る態度を、反抗期という、まことしやかに語られているもののせいにするまい、と考えるようになりました。
それなら、子どもが怒って反抗するならば、それを親である大人はどうとらえるべきなのでしょうか? それは「罪」と見なすべきです。箴言のみことばをご覧ください。箴言はどれほど、子たる者に、親に対して従順であるべきことを説いていることでしょうか? また、親に対する不従順のもたらす害毒について、これでもか、と語っていることでしょうか?
私も親ですので、子どもが罪を悔い改めないままでいてほしくありません。私自身を振り返ってみると、時に自分が親としてふさわしくない、親と呼ばれるに値するほど成熟していないことを痛感させられますが、しかしそのたびに立ち帰らされる事実、それは、ほかならぬ神さまが、私のことを2人の娘の親に立ててくださったという事実です。私がいかに未成熟であろうとも、また人格に欠けがあろうとも、その欠けは、神さまにあって解決すべき問題です。それなのになお、私が自分のことを親失格などと言うとすれば、それは私のことを親にしてくださった、神さまに対する冒瀆ということになります。私がどうしても自分の欠けに目が留まってならないならば、それを満たしてくださる神さまにこそ目を留めるべきです。
そういうわけで親に立てていただいた者として、子どもが罪の状態にとどまることがないように、時には厳しいことも言わなければなりません。子どもが悔い改めるならば、とても素晴らしい神の子どもとしてふさわしい人に、またひとつ変えていただくことができるからです。
『境界線』という題名の本があります。ご存知でしょうか。読めば人生観が変わるようなとてもいい本です。お読みいただければと思います。『境界線』という本です。その本は、ヘンリー・クラウド先生とジョン・タウンゼント先生というお二人の共著で、人はそれぞれ、神さまから定められた境界線を持っている、その境界線の中でこそ責任を果たし、境界線を乗り越えてくるような者たちには「ノー!」と言うことを学びなさいと言う、なかなかのチャレンジを与えてくれる内容ですが、このお二人は子育てということに関しても、これまた素晴らしいことをおっしゃっています。
「親の仕事は、子どもの中に眠っている『神の似姿』が成長し、それが花開くように手助けすることです。」
創世記1章27節をお読みすると、人は「神の似姿」に創造された、とあります。神の似姿ゆえに、聖書に啓示されている神さまに似た者へと変えられ、またそれ以上に、神と交わりを持つことができます。前にも何度か語ったことがあります。キリスト教というものはひと言でいえば「神との交わり」です。子どもが成長して、神と交わり、神のみこころを行えるだけの、神のかたちへと整えること、それが親の役割です。うちの子どもたちも、単に勉強ができるようになったり、単に身の周りのことができるようになったりすることが、教育することの目的ではないはずです。もちろん、それもたしかに大事なことでありますが、やはり大事なことは、子どものうちに神のかたちが育ち、神との交わりに生きる人になるように育ってくれることです。
しかし、そのように神のかたちが育つためには、子どものうちにある幼い罪の性質を、徹底して取り除いていく必要があります。それでも子どもは抵抗するでしょう。しかしその抵抗もまた、神さまが立ててくださった親という権威に対する不従順であり、したがって神さまに対する不従順です。育てる親の側もそのことをわきまえ、徹底して対決していく必要があります。
しかしもちろん、それは簡単なことではありません。ヘブル人への手紙12章11節をご覧ください。……このみことばには「苦しい」ということばが出てまいります。これは以前の訳の聖書では「悲しく思われる」と訳していて、もともとの意味は、単なる苦しみや悲しさではなく、「耐えがたいほどの悲しさ」を意味します。子どもの罪を取り扱うことは、その分子どもに痛みを覚えさせることであり、それはいわば、耐えがたいほどの痛みです。子育てがしばしば難しくなるのは、親の側に幼いころからの痛みが残されていて、その痛みを子どもが今まさに味わっている痛みに重ね合わせてしまうためと言えます。そういう点では、親もまた親としての役割を果たしていくために、日々主との交わりの中で傷をいやしていただく必要があります。そうしてこそ、しつけや教育のプロセスで現れる子どもの痛みに立ち向かえるようになります。
子どもは抵抗します。親から妥協や譲歩を引き出そうとするでしょう。しかし、そういうときこそ、親は、神さまが自分に与えてくださった権威のうちにとどまり、子どもに対してふさわしい導きをすることを、最後まで実践する必要があります。言うなれば、子どもとの間に引いてある、境界線にしがみつくのです。
もちろん、それは高圧的にすべしということではありません。子どもは生まれつき、自分は何でもできるという全能感の中で生きています。しかし、自分は決して全能の存在ではないというk十を思い知らせるのは、親たる大人の務めです。子どもは、自分から全能感が剥ぎ取られるとき、それをたまらなく不愉快に感じます。しかし、そうだからこそ、親はもがき苦しむ子供のそばに寄り添ってあげる必要があるわけです。そのようにして、子どもの痛みに充分に共感してあげられるならば、子どもの中には訓練された者にふさわしい、平安な義の実が結ばれ、人格的に成長し、キリストの似姿へと変えられるようになります。
しかし、このみことばが問題にしているのは、そのふさわしい子育てのプロセスで子どもが怒りを発することではありません。そうではない場合で、大人の身勝手な言動によって子どもが怒りを覚える場合、これが問題になります。
子どもが幼稚であることはもちろんなのですが、時に大人も幼稚さのゆえに子どもを怒らせることがあります。それは、子どものためを思って子どもをしつける際、その反応として子どもが怒ることとは異なります。
「つべこべ言わずにやりなさい」ということばがあります。一見するとこれは、大人が権威を示しているようでいいように思えますが、実のところ、行動だけではなくて、態度や感情においても大人の望むようにコントロールしようとすることばです。もちろん、勉強をさせたり、お手伝いをさせたりするとき、それをいやがる子どもにはそれ相応の権威をもって接する必要はありますが、その上で子どもの感情をろくに理解しようともしないで高圧的に接するならば、問題はちがってきます。
そうなると子どもは、表面的には従うふりをしても、心の中は怒りで満ちるようになります。また、やる気を失ったりもします。それで、心から親の教えに同意して、喜んで従うという状態からは程遠いことになります。
さらに子どもは、大人のダブル・スタンダードにも耐えられません。私たち大人も、ダブル・スタンダードを人に使われていい気持ちのする人はいないはずです。自分に甘く、他人に厳しい。それを親たるものが子どもにしてしまうならば、子どもはどれほど悲しみ、また、怒ることでしょうか。そういうわけで大人も、自分自身のことを律する必要があります。それでももし大人が、自分の居場所を保ちたいと思っているならば、子どもにも居場所を確保させてあげるだけの余裕を持つことが必要になるはずです。
私自身もとても自戒させられることですが、スマートフォンに向かっていたいときに、子どもにせがまれて遊びの相手ができるならば、きっとその人は、子どもを喜んでみもとに呼び寄せた、イエスさまの心に近い人ではないかと思います。自分に死んだ人、子どものために自分を喜んで差し出せる人、それこそ主の弟子にしていただけるにふさわしい人です。
また子どもは、どんなときに怒るのでしょうか。自分の人格を否定されたり、見下すような態度や言動を取られたりしたときに、子どもは怒ります。
上から目線、ということばがあります。、本来親しく人格的な関係を結ぶべき家族の間に、封建的な上下関係が存在するとするならば、それはたまったものではありません。
もちろん、親は子どもに対して権威を示す必要はあります。しかしイエスさまは、近寄ってくる子どもたちに対して、果たしてパリサイ人や、みこころを無視する言動に出た弟子たちに対するような、とてもきびしい態度をなさったでしょうか。決してそんなことはなかったはずです。イエスさまは子どもを抱き上げて、だれでもこの子どものように神の国を受け入れる者が、天の御国でいちばん偉いのです、とおっしゃったのでした。イエスさまの用いられた権威とは、そのような柔和に満ちて、それでいて決してさげすまれることはなかったような、したたかな権威です。
そういう権威と、むかしのカミナリ親父のようなおっかないばかりの人間的な権威とを、私たちはごっちゃにしてはなりません。日本のクリスチャンがときに不幸なのは、みこころにかなう権威のモデルを示すお父さんに出会う確率が、日本の教会にいるととても低いということではないかと思います。しかし、嘆いてばかりもいられません。嘆くくらいならば、私たちがそのモデルになるように取り組み、また、そのようなお父さんが生み出されていくようにお祈りすればいいことです。
イエスさまは少なくとも、私たちの人格を否定したり、軽んじたりするように接することはなさいません。私たちもイエスさまにならい、子どもを柔和に受け入れたけれども決して子どもに見下げられることはなかった、イエスさまの権威と人格に少しでも近づくものとなりたいものです。
最後に、神さまというお方は私たちにとって、どのような「親」でいらっしゃるでしょうか。言うまでもなく完璧なお方です。しかし、時に神さまは、人が罪ゆえに道をそれることを、あえてお許しになるお方でもあられます。あれほど神さまに愛されたダビデをご覧ください。子育てにおいてどれほど失敗したことでしょうか。ダビデは子どもを4人亡くしていますが、いずれも子育てであったり、ダビデの不始末であったり、そういうことの責任を取らされた結果とも見ることができます。それを、ひどい、と言うこともできるかもしれません。しかしそれでも、ダビデは神さまに愛されたことに変わりはありません。
私たちも失敗するでしょう。子どもを怒らせてしまった、主の訓戒と教育によって育てていることからは程遠い、そんな自分の姿にほとほといやになることもあるかも知れません。しかし、神さまはそんな私たちであろうとも、変わらずに愛してくださっています。教会において、親族の中において、学校において、あとに続く世代をふさわしく育てる私たちとなることができるように、私たちのために忍耐してくださっています。私たちもまた、神さまという親に育てられています。私たちは神さまによって理不尽に怒らされたことなど、あるはずがありません。日々みことばと祈りによって、教えられ、訓戒されています。そんな私たちは、だれであれ、子どもを育てるのにふさわしい大人へと変えていただけるのです。