主の晩餐は弟子のしるし

聖書箇所;ヨハネの福音書6章41節~66節 メッセージ題目;主の晩餐は弟子のしるし  先週の水曜日、私たちの愛する兄弟が天の御国に凱旋されました。昨日が兄弟の葬儀でした。このような中で今日私たちは第一主日につき、主の晩餐のひとときを迎えています。さらにここには、いずれこの主の晩餐にあずかるべく、バプテスマの備えをしている姉妹もいます。……こういう状況の中で語るべきはどのみことばだろう、かなり祈って考え、今日、この箇所を選ばせていただきました。  兄弟は生前から、ご自身のご葬儀をどのようにするか、ということをよく語っていらっしゃいました。それは、死からのよみがえり、そして永遠のいのちに対する信仰を、堅く保っていらっしゃったからでした。死で終わりではない。おそらく、日本のほとんどの人は、死んだらどうなるかということを知りません。知らないということは、死ということを大いに怖れるという結果を招きます。だから、普通お葬式は悲しく暗く沈んでいます。  しかし、昨日の告別式はまったくそうではありませんでした。告別式をとおし、兄弟が主のみもとに召され、いま永遠のいのちの安息に憩っておられることを、私たちは確信しました。私たちには寂しさはもちろんありましたが、しかし平安がありました。  そう言えるのは、兄弟にはそれこそ、いまお読みいただいたみことばの44節にあるとおりの、神さまに選んでいただいているという信仰、それゆえに、終わりの日によみがえらされるという信仰があることが、確かなことだからです。イエスさまを信じて義と認められた人は、よみがえって永遠のいのちを受けます。もはや死も苦しみもありません。あるのは滅びることのない喜びだけです。まさに47節が語るとおりです。イエスさまを信じるならば、永遠のいのちを持っています。  しかし、イエスさまは群衆たちの耳に、奇妙に聞こえることもおっしゃいます。48節。わたしはいのちのパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。  それだけではありません。イエスさまはこんなことさえおっしゃっています。53節から58節。これを聞いた人々はパニックになりました。「これはひどいことばだ。」尾山令仁先生の翻訳された現代訳聖書では、このニュアンスを生かす形で、「第一、血なまぐさいし」ということばを挿入しています。ただし、これは別の解釈も可能で、韓国語の聖書では「このことばは難解だ」という意味に表現されています。しかし、ひとつ言えることは、ひどいと思ったにせよ、難しいと思ったにせよ、イエスさまの言わんとしていることがちゃんとわからなかった、ということは確かです。それで、せっかくイエスさまのことを慕ってついてきたというのに、このことばの難解さ、血なまぐささに恐れをなし、というより、俗っぽい言い方をすれば「ドン引き」して、彼らはもう、イエスさまの弟子であることを辞めて去っていってしまいました。  しかし、十二弟子はちゃんと残りました。残って、引きつづきイエスさまのみことばを聴きつづける特権にあずかりました。実は、イエスさまは群衆にお語りになるとき、多くの場合、たとえをもって語られました。それを聴いた人々は、難しい話だけれども何となくありがたい、くらいに思って、ああ、なんだか知らないけれどもいい話を聞いた、とばかりに、帰っていったのではないでしょうか。しかしこのようなみことばの聴き方は、「群衆」の聴き方です。このたびの、イエスさまのことばにつまずいた人たちもそうでした。彼らのことを聖書は「弟子」と言っていますが、イエスさまのことばを皮相的にしかとらえられなかったという点では、「群衆」のレベルにとどまっていました。  「群衆」と「弟子」を分けるものは何でしょうか? イエスさまがたとえで語られた真理の謎を解いていただき、真理をわがものとさせていただく立場になった者、それが「弟子」です。この時代の群衆は、イエスさまのたとえ話の意味を知ろうとすることにそこまでの情熱を傾けなかったため、「弟子」になりきることができませんでした。  さて、それなら、現代における「弟子」とはだれでしょうか?「弟子」というものが、イエスさまのたとえ話の解釈を直接教えていただける立場にあるものと考えるならば、聖書を手にしている人はだれであれ、「弟子」になるように招かれているといえます。なぜならば、聖書を読みさえすれば、難解なイエスさまのたとえのその意味することを、ちゃんと理解することができるからです。  しかし、言うまでもないことですが、聖書という本を持ってさえいれば「弟子」なのではありません。イエスさまのおっしゃるとおりのことを守り行う人、それが弟子ですから、まず、聖書を持っているだけではなくてちゃんと開く、毎日読む、読んで黙想し、生活に適用し、それを実践することで聖書のみことばを具体的に守り行う、毎日のその繰り返しが私たちのことを弟子に育て上げます。  では、私たちは「群衆」にとどまることと、「弟子」の道を進むことと、どちらがよりいいでしょうか? イエスさまのことばに去っていった弟子たちは、もう弟子になんてなりたくない、と思ったわけです。こんにちにおいても、弟子の歩みをわざわざするなんて馬鹿げている、と考える人が少なくありません。そのように生きていれば、いろんなことを我慢しなくていい、好き放題のことをできると考えるでしょう。  しかし、「弟子」の歩みをする人は、少なくとも、まことのいのちなるイエスさまの弟子でありつづけることゆえに、だれにも奪えないほんものの喜びを日々体験しつづけます。イエスさまとともにいる喜び、イエスさまにならって隣人を愛し仕える喜び……その喜びを日々体験できるのは、その人が「弟子」だからです。その歩みを喜べる人は、好き放題に生きることのむなしさを知るゆえに、そのような生き方をあえてしようとしません。神と隣人を愛するという、ほんとうに意味のある人生を生きようと一生懸命になります。はたして、どちらがよりよい生き方でしょうか? 申し上げるまでもないことです。  天国に行かれた私たちの愛する兄弟は、ほんとうにイエスさまの弟子だったと思います。兄弟は学校教育という世界で用いられていた方でしたが、学校教育の現場の中で、真に世の中の役に立つ人を育てるために、まず、むなしい人生観に生徒たちが支配されないように、進化論は学校教育に必要だからもちろん教える一方で、創造論の論理を提示することを常としておられたとうかがっています。勇気のいることだったと思います。しかし、兄弟は最後まで聖書の真理に立ち、創造のみわざの確かさを徹底して説く生涯を送られました。  さて、弟子であるということは、イエスさまがこうしてお語りになったことの真の意味を悟らされた人であるということですが、イエスさまはその真理、永遠のいのちを人が得るためにご自身の血と肉を分け与えてくださるということを、十字架で肉を裂かれ、血を流されることによって示してくださいました。そして人は、イエスさまの十字架の死が自分の罪の罰の身代わりであったことを信じ、そしてイエスさまが3日目に復活されて罪と死に永遠に勝利してくださったことを信じることによって、救われ、罪赦され、神の子どもとなり、永遠のいのちをいただき、天国に入れていただけます。  このことを、はっきりわかる形で私たちに示してくださったもの、それが主の晩餐です。「わたしの肉を食べ、血を飲む者に永遠のいのちがある」、これを信じられる人は、十二弟子に匹敵する献身に招かれている人であって、ちょっとやそっとのことでつまずいて去っていく群衆のような人では断じてありません。そして、その弟子の歩みをする人は、第一ペテロ3章21節にあるとおり、バプテスマを受けることをもって主に生涯お従いする誓いを立てた人です。そして、弟子だからイエスさまの血と肉にあずかれる以上、主の晩餐をもってイエスさまのみからだと血潮にあずかる人は、バプテスマをもって生涯主の弟子として歩むことを約束した人なのです。しかし、私は声を大にして申しあげますが、死の弟子として歩むクリスチャンの歩みは、イエスさまがいつもともにいてくださるという、何にも代えがたい歩みです。いま、その喜びがいまひとつ湧きあがらないという方も、主の晩餐に招かれています。召しあがってください。主が生きてうちに働いてくださるという、まさにそのことを、どうか体験していただきたいのです。  ここには、バプテスマの準備を進めておられる方がいます。その方にとって今日の主の晩餐が、どうか生涯最後の「見学」となり、来月にはバプテスマをお受けになって、ともに主の晩餐にあずかられるように、教会のみなさまで祈っていただければと思います。  主の晩餐は弟子の証しです。私は弟子です。私は弟子として歩みます。どうか弟子として歩ませてください。その切なる祈りをもって、今日の晩餐に臨みましょう。

みこころにかなう計画

聖書箇所;ヤコブの手紙4章13節~17節 メッセージ題目;「みこころにかなう計画」  今日は、メッセージの内容をもとに、あとで交わりの時間にともに分かち合いのときをお持ちしたいと思う。週報の、いつもなら牧会コラムを掲載しているページに、交わりの時間に考えていただくための質問を掲載させていただいた。今日のメッセージは、ここに掲載したことを具体的に考えながら聴いていただきたい。そして、今日、みことばをとおして示されたことがあるなら、どうかあとでともに分かち合い、せめて今日から次の主日の一週間の間だけでもまず、祈り合ってまいりたい。  今日のテーマは、「みこころにかなう計画」である。  みなさまは「計画」ということばを聞くと、どんなお気持ちになるだろうか?「さあ、何かの取り組みの前には必ず、しっかりした計画を立てるぞ! 計画大好き!」と、わくわくしてくるだろうか?「いや、計画を立てるなんて苦手だ、実行するのはもっと苦手だ!」となるだろうか? 私は残念ながら、苦手な方。むかしから計画を立てるのも、実行するのも得意ではなかった。それだけに計画を立て、それを実行することに成功したときのうれしさといったらない。でも、この教会を牧会するようになって11年になるが、計画を立てたり実行したりするのが苦手、などと言っている場合ではない。  さて、今日のみことばを読むと、のっけからかなり衝撃的なみことばとなっている。13節、14節。  13節のようなことばは、この世界に住む人は普通に口にしていることではないだろうか? 商売という経済活動で口に糊することの何がいけないというのだろうか? しかし14節を読むと、そのような計画を立てる人間がどんなにむなしい存在かということを説いている。それはそうかもしれないが、それを言っちゃあおしめえよ、とならないだろうか? 私たちはいつかこの地上からいなくなるのですから。  現にこの時代のクリスチャンたちは、迫害に絶えず囲まれていて、明日をも知れぬ状態であった。いつ殺されるかわからない。のんきに商売のことを考えている場合ではない。そしてこんにちの私たちも、ついこのあいだ、南海トラフ騒ぎがあったばかりである。いつか死ぬとは分かっているけれども、いつ死ぬかわからない。しかし、そんなことを意識していたら、明日の計画を立てることさえためらってしまう。みことばは、人はすべからく計画を立てるのをやめるべきである、と言っているとでもいうのだろうか? 計画を立てることがそんなにいけないことなのだろうか?  しかし、みことばには続きがある。15節。大前提が書かれている。「主のみこころであれば、私たちは生きていて」。この告白がつねに伴うのが、私たちクリスチャンである。主のみこころによって生かされていることを謙遜に認め、そう告白することが、私たちにとっての大前提である。  このみことばと深い関連を持ったことがらを、イエスさまはお話しになっていらっしゃる。ルカの福音書12章13節から21節。  遺産相続で取り分を多くするためにイエスさまを利用しようという者がいたが、イエスさまはその人の心の中を見抜き、それは神の前に富む態度ではないと喝破された。このみことばは、経済的な祝福を求めることが真理とばかりに駆り立てることの愚かさを語っている。もし、人が大いに富んだとしても、それは富ませてくださった神さまの恵みなのであり、それを自分の快楽のために用いることなど言語道断である。その者のいのちは神さまの御手のうちにある以上、神を認め、神の栄光をあらわすことを、富や財産の用い方においても実践すべきであった。  こういう計画を立ててはならないわけである。しかし聖書を見ると、計画を立てることが聖徒の模範として示されている箇所がたくさんあらわれている。エジプトの総理大臣に抜擢されたヨセフは、世界が飢饉に陥らないように食糧計画を立てた。ヨシュアはカナンに進攻する際作戦を立てたが、これも「計画」のひとつといえるだろう。ダビデはソロモンに神殿建築の計画を授けている。みな、計画である。  しかし、これらの計画が聖書的に見て模範であるのはなぜかはもうお分かりだろう。そう、これらはみな、「主のみこころ」が成し遂げられるための計画だからである。  もうひとつみことばを見てみたい。ピリピ人への手紙2章13節。クリスチャンにとってみこころにかなった志(こころざし)を立てること、その志にしたがってことを行うことは、祝福のわざであることをこのみことばは語る。しかし、志というものは、人の側で主体的に立てるものでもある。行ってみればクリスチャンにとっての志とは、神さまと人との「合作」であるといえるだろう。その志はやみくもに行動することで成し遂げられるのではなく、人が祈りのうちに「計画」を立てることによって成し遂げられるのではないだろうか。ヨセフの食糧計画、ヨシュアのカナン進攻の計画、ダビデの神殿建築の計画、みな、神と人との「合作」といえるものだった。  そういうわけで私たちも計画を立てる。ところが、場合によっては、16節のみことばのような警告を受けるような計画を立てることにもなりかねない。これはどういうことか? 神さまがその能力を与えてもいらっしゃらないのに、「自分にはこんなことができるぞ」とばかりに公言する。このことは、同じヤコブの手紙で警告され、イエスさまも警告しておられることと同じである。5章12節。マタイの福音書5章34節から37節。  そう、「誓う」という行為。しかし、たとえば結婚式で、神と人の前に「病めるときも、健やかなるときも、この人を愛することを誓います」という行為もいけないことになるのか。そうではない。要は「主にあって『誓う』」ということであるかどうか。14節にあるとおり、明日のことがわからないのが私たち人間であり、そういう限定的な被造物にすぎない分際で、おいそれと「誓う」という行為などできないものである。  そういう行為をしてはならないのは、自分が、何もかもお見通しで、未来に至るまでみこころの計画を立てておられる神さまになり代わることだからである。そう、神さまは創造のはじめから世の終わりに至るまで、確固たる計画を立てておられることは、神のみことばである聖書を読めばわかることである。人間が勝手に計画を立てることは、その確固たる計画を立てておられる神さまに対する挑戦であり、越権行為である。神さまはそのようなものに怒りを発しておられる。  そのような流れで17節を読むと、なすべき正しいこととは何か、それを行わないとはどういうことかがわかる。そう、なすべき正しいこととは、「主のみこころであれば」という前提のもと、へりくだって、主のみこころを絶えず求め、計画を着実に立てていくことである。だから、その正しいことを行わない罪とは、主のみこころを求めもせずに自分勝手に計画を立て、それを行おうとすることである。  先週学んだみことばに、悪い動機で願うものは与えられない、というくだりがあった。しかし考えてみよう。悪い動機、すなわちみこころから外れた動機で求めたものが与えられないということは、むしろその人にとって祝福と言えることではないだろうか? むしろ、みこころから外れたものをその人が手に入れることが、その人にとってはわざわいと言えるだろう。  計画を立てることにおいても同じことが言える。神さまに祈りもしないで立てた計画が、あとでどんなに祈ってみたところでなることがなくても、不思議ではない。そのとき、その計画がならないことを、神さま、こんなに祈っているのになぜかなえていただけないんですか! と恨み言を言ってみたところで始まらない。最初からよく祈らずに、つまりみこころと確信するだけの確信も平安もなしに始めたことだからである。  今日はともに、少し立ち止まって祈ってみたい。私たちはおそらく、いろいろと求めるべきものがあるだろう。仕事の特定のスキルだろうか? 仕事のための新たな資格だろうか? はたまた、新たな職場だろうか? 配偶者だろうか?  みな、すばらしいものにちがいない。しかし、それらのものがなぜ自分に必要なのだろうか? 神さまのみこころは、ほんとうにそういったものを私たちに与えてくださることなのだろうか?   実際、それらのものを求めることにおいて、平安があるだろうか? みことばに裏づけられた確信があるだろうか? そしてその祈りの課題は、私たち教会でともに共有して祈ってもらえているだろうか? その祈りは必ずかなえていただけるという、御霊による確信をいただいているだろうか?  みこころにかなう計画というものは、まずなによりも、神さまが与えてくださっているという確信が伴ってくるものである。そういう人には平安がある。「それ、ほんとうにみこころですか?」と突っ込まれても、動揺せずに確信をもって、「はい、みこころです」と答えることができる。裏づけとなるみことばもあれば、キリストのからだなる教会、仲間のクリスチャンたちにも同様の確信、導きが与えられ、その計画がなるようにみんな積極的に祈ってくれる。  最後に、私がこの教会に導かれたことが、ほかならぬみこころを求めつつ立てた計画の実現だったことをお証しして、メッセージを締めくくりたい。  私がイエスさまを信じ、教会員になった母教会、北本福音キリスト教会は、特定の教派に所属しない、単立の教会だった。しかし同時に、幼児洗礼を施さず、また浸礼によるバプテスマをもって洗礼を施していた。また、役員会もあったが、事実上の最高意思決定機関は、年に1回行われる、全教会員が集まって合議する総会だった。そう考えると、北本福音キリスト教会の教会形成は、バプテスト教会のそれだった。ただ、バプテストを標榜していなかっただけであり、実質バプテストだった。  のちに私は韓国教会から学ぶことで日本の教会を元気にしたい思いで、韓国の長老派の神学校に学んだ。神学生としての奉仕教会も同じ教派の教会である。その長老派の環境で私は、ひとことでまとめると「神の御前で徹底して生きる」ことをモットーとした長老派の根幹をなすカルヴァン主義に共鳴し、これが生涯目指すべきものという確信に至った。  しかし、私はいずれ日本に戻らなければならない。だが、母教会は主任牧師が立てられて間もなかった時期で、私の帰る場所はなかった。私はどこの教会、あるいは教団教派に行くべきか、『キリスト教年鑑』を購入して韓国の神学校に持ち込み、それをしょっちゅう眺めては祈っていた。  その結果、あることをきっかけに実に理想的な教会につながった。もともと、保守バプテスト同盟の重鎮だった宣教師の開拓した教会で、カルヴァン主義をもってバプテストの教会を形成する群れだった。その群れは、私が大学生の頃に取り組んでいた子ども伝道、弟子訓練の働きにも先鋭的に取り組むことで、当時日本中の教会から見学に訪れてくるような教会で、私は行ってみてたちまちとりこになり、その教会に所属しながら、神学校の残りの後半を過ごすことになった。その教会の縁で、当時韓国で押しも押されもせぬモデル教会だったサラン教会で学ばせていただくという恵みにもあずかった。  しかし、神学校を卒業して実際にその教会で働きを始めてみると、私は実は牧会者になるには向いてないのではないか、と思わされることばかりが起こり、やがて私は召命観を失ったまま、失意のうちに鬱々として何年間も過ごすこととなった。そんな中、私のことを心配した父が大芝居を打ち、自分は重い病気にかかったから帰って来い、と言い、帰っていかざるを得なくなって実家に戻り、地元の教会に厄介になることになったが、そこでも召命が回復することはなかった。  そんな私はしかし、韓国の神学校に推薦してくださった宣教師の開拓教会を、伝道師という肩書で手伝うことになった。妻ともその開拓教会の働きを通じて出会い、結婚したり、試験を受けて牧師の資格もいただいたりと、働き人として大きく前進することになったが、私はほんらい、韓国で学んだのは、日本の教会を元気にするため、すなわち日本宣教がおおもとのビジョンとして与えられていた人間である。そして妻もまた、日本宣教のビジョンをいだいて訓練を受け、来日したわけである。だがその開拓教会は韓国語で礼拝を行い、お昼には韓国料理を食べ、したがって韓国人ばかりが集まる群れであって、私は韓国語ができる日本人であったためにある程度の働きはできたものの、所詮は「小間使い」のようなものであった。  そのような下働きのような働きをしていたころ、私にはいちどでいいからやってみたいことがあった。それは「韓国での日本語礼拝の牧会」であった。  私は下の娘が生まれたタイミングで、妻と相談し、足かけ7年にわたる韓国人教会の働きを辞めることになったが、なんと渡りに船で、ちょうどそのとき、日本語礼拝部の牧師を募集している教会がソウルにあって、私どもは韓国に引っ越した。  しかし、この働きは長くできるものではないことはわかっていた。やはり私どもにとっての召命は、日本宣教であることを確信していたからである。私は神学生時代の頃のように、またいろいろな教会のことを調べながら祈りはじめた。その中でも、神学生時代に共鳴したカルヴァン主義バプテストの群れである「保守バプテスト同盟」など特に自分の召命に照らして向いているのではないか、と考えるようになった。  そのような中でお話しをいただいたのが、この水戸第一聖書バプテスト教会だった。保守バプテスト同盟の教会。ここに、神学生時代以来の長年の祈りがついにかなうことになった。そして10年以上にわたってここでお働きすることが許されていることに、主の立てさせてくださった計画を思わずにいられない。また一方で、人間的に立てた計画がならなかったことも、これまでの人生を振り返ってみるとどんなに多かったかを思う。しかし、その人間的な計画がならなかったのは、神さまの恵みであった。それがそのとおりになっていたら、少なくとも今、茨城でみなさまとともに味わっている目海にあずかることはできなかった。  あらためて、ピリピ人への手紙2章13節のみことばをお読みしよう。みなさまが主にあって確信しているみこころの計画はどうだろうか? 祈って考えていただきたい。それがみこころにかなう以上、成し遂げられるように、自分のために、そして、お互いのために祈っていこう。

平和をつくるために

聖書箇所;ヤコブの手紙4章1節〜12節 メッセージ題目;「平和をつくるために」  先週の15日、日本は終戦記念日を迎えた。1945年8月15日、昭和天皇のスピーチがラジオ放送され、日本国民が敗戦を知った日である。しかしこの日はところ変われば、まったく違う意味を持つ。韓国なら何の日だろうか? 光復節といい、同じ1945年8月15日、日本の支配から脱したことを記念する日である。  このような、戦争を記念することにおいて世間がデリケートになっているさなか、パリオリンピックのメダリストが、戦争の記念館を訪問したいと発言して物議をかもした。その反響が韓国や中国のような国に及んでいるのを見ると、つくづく、このようなことを語ることの難しさを痛感するものである。  私は韓国人と国際結婚をしたほか、韓国とのつながりを人一倍持ちつづけてきた立場から、日本は韓国と平和を保ってほしいと願うし、また、同じように世界が平和でいてほしいと願う。それはクリスチャンにかぎらず、人であるならばだれもが願うべきことだろう。  私たちクリスチャンは、イエスさまから、平和をつくる人は幸いです、その人は神の子と呼ばれるからです、と言っていただいている存在である。イエスさまを信じて神の子にしていただいているならば、主が願っていらっしゃるように、平和を愛するのみならず、平和をつくり出してしかるべきである。それでは、私たちはどのようにして平和をつくるのだろうか? 今日のみことばはそのことを語っている。  1節。みことばは、なぜ人は戦い、争うのか、それはその人の欲望が、戦いたいと願うから、争いたいと願うから、と喝破する。何か人のせい、環境のせいではない、自分のせいで戦い、争うのである。  2節。その、戦い、争う欲望はどこから出てくるのかが語られている。そう、何ものかを欲しがっても、それが手に入れられない場合、戦ったり、争ったりする。世界で起きている戦争や紛争など、まさに領土や財産を手に入れようとしての争いだろう。まさにそれゆえの破壊と人殺し、それが戦争、紛争である。  しかし、この「人殺し」というものは、実際に人のことをあやめるという行動に出なくても、私たちがしてしまう罪であることを、イエスさまは言っておられる(マタイ5:22、23)。主にある兄弟に「おまえは馬鹿だ」と腹を立てることが人殺しであり、それは最高のさばきを受けて地獄ゆきがふさわしい、と。考えてみよう。私たちは欲しいものが自分のものにならないと、「いいなー」はまだしも、「不公平だ」とか「けち」とか「あいつばかりいい思いして」とか、人を引き下げるようなことを思ったり、口にしたりしないだろうか。  そういう態度は神さまの御前で一切正当化されない。なぜそのようなことを言ったりしてはいけないか。それは、神さまが愛してやまない存在をさばく、すなわち、神さまの愛のみこころをかぎりなく粗末にすることだからである。言い換えれば、神さまのみこころを傷つけることである。この、さばくということの害悪については、あとであらためて学んでみたい。  2節の続きを読むと、願っても欲しいものが手に入らないのは、求めないからだ、とある。神さまは必要とあらば必ずくださるのに、祈り求めないから、もらえるものももらえなくなる。  しかし、祈りはしたものの、手に入らない場合もある。それは3節で語っているとおりである。悪い動機、肉的な動機で願っているから、というわけである。私たちがみこころにかなっていると思って祈り求めているものが、実は神さまのみこころと関係ない、自分の肉欲でしかなかったということは案外あるものである。もし、祈り求めている対象がそういうものだったら、それを手に入れるために、あくどい手段を選ぶことも辞さないだろう。しかしそうなるとそれはもはや、祈って求めていることにはならない。  4節を見てみよう。このような自己中心の祈りは、世を愛することであり、それは神に敵対すること、節操のないことであると語る。しかし私たちは考えないだろうか? ヨハネ3章16節のみことばはたしかに、神はひとり子イエスさまをくださるほどにこの世を愛された、神さまがこの世を愛しておられるのに、私たちはこの世を愛してはならないのか?  しかし、ここでいう「世を愛する」というのは、「神の愛」ではない。聖書を原語で読むとフィレオーの愛、すなわちもとが兄弟愛を意味することばだから、「世の仲間になる」こととでも解釈すればいいだろう。このみことばではそれを「世の友となる」と言い換えている。つまり、神さまのみこころを知って、神さまが私たちに必要と定めていらっしゃるものを求める代わりに、世の中の人たちの価値観にしたがって、世の中の人たちがあたりまえのように求めているものを求めること、あたかもそれが神さまのみこころであるかのように振る舞うことを、厳しく戒めているわけである。  世はそもそも、神さまにお従いすることを選ばない。少しでも神さまのみこころが漂うように思えたら、たちどころに拒否する。それが世の中であるのだから、私たちはもしかしたら、世の人たちから嫌われたくない一心で、いろいろな面で妥協したりしていないだろうか。「いや、そのようにして自分はこの世にイエスさまを証ししている」とでも言うのだろうか。しかしそれでも、実際はこの世に妥協している点では変わらない。  この世に妥協することは、イエスさまを証しすることにはならない。なぜならば私たちがこの世に妥協してみせたところで、この世はそれをクリスチャンとして当然の態度と思いこそすれ、私たちのへりくだりを認めてイエスさまを信じたりなどしないからである。私たちがこの世においてイエスさまを証しするために必要なことは、イエスさまを脇に置いてこの世に妥協することではなく、たとえ世の中からどう思われようとも、イエスさまにお従いする態度を徹底することである。 5節のみことばは、神さまが私たちをどう思っていらっしゃるか、ということを語っている。このみことばは2種類の訳し方をすることができ、それはこの聖書本文、また欄外の訳注にそれぞれ書かれているが、まず父なる神さまは、私たちのうちに御霊なる神さまを住まわせてくださっている。そして、私たちのうちに住まわせられた御霊を御父がねたむほど慕っておられる、ということは、欄外の別訳でもわかるとおり、御霊が私たちのことをねたむほど慕っておられる、ということ。  私たちは御霊に満たされるべき存在である。なぜならば、私たちはもはや世の者、肉に属するものではなく、神のもの、キリストのものだからである。御霊に満たされることは、神さまが願っていらっしゃることであり、御霊に満たされるなら、私たちは世の思いではなく、神さまのみこころに従うことができるようになる。御霊なる主は、私たちの努力でどうにもならない、神さまにお従いすることをできるようにしてくださるお方である。  それが、私たちには御霊さまというお方がありながら、神さまのみこころを無視する歩みをするならばどうであろうか。主なる神はねたむ神である。ねたむ、というと、私たちはつい人間的などろどろした、否定的なものととらえがちかもしれないが、自分の愛する人をどこの馬の骨とも知れぬものに取られ、帰ってこないなら、そのとき覚える感情は「ねたみ」といっていいのではないだろうか? 果たして、神さま以上の愛を注ぐことのできる存在がこの世にあるというのか? それを知っていてなお、ほかのものに心を寄せるならば、それは神さまの御怒りを買うべきことである。  しかし、神さまは私たちに怒ってばかりのお方ではない。6節のみことば。神さまは豊かに恵んでくださる。神さまのおおもとのみこころは、救いという最高の恵みを与えていただいた私たちのことを、さらに豊かに恵んでくださることにある。  神さまは私たちを恵みたい。なぜなら、私たちの身代わりに御子イエスさまを十字架につけてくださったほどに、私たちのことを愛してくださっているからである。肉の思い、この世の思いに浮気しないで、ただ一心に神さまに向かう私たちのことを、神さまは恵まずにはいられない。神さまの愛を信頼しよう。  しかし、条件がある。高ぶらないでへりくだることである。高ぶるとは、神さまを認めないで自分中心に振る舞うこと。へりくだるとは、神さまを認めて被造物、神のしもべ、キリストの弟子としての分をわきまえて振る舞うことである。へりくだっているならば、互いを自分よりもまさった人だと心から認めることができ、その態度で生きる人を神さまは喜んでくださる。そのような人を大いに恵んでくださる。  そのために必要なことは何だろうか? 7節。まず、神に従うこと、それから、悪魔に対抗することである。この順番を間違えてはならない。神に従うとは、8節にあるとおり、神に近づくことによって可能となる。8節のみことばは、神に近づく者に神さまが近づいてくださることを語っている。自堕落な生活をやめないでいる人に神さまが近づいてくださることを期待する前に、まず悔い改めて神さまのみもとに行く必要がある。ここでも順番が大事である。神さまに近づくことによって、はじめて悪魔は私たちから去っていく。神さまに近づきもしないならば、悪魔は私たちから去ることはない。  神に近づく者のすることは、このみことばにあるとおり、罪人の手をきよめることである。つまり、間違っている罪深い行動を一切断ち切ることができるように、祈って取り組むことである。しかしそのためには、二心をきよめる、つまり、みこころに従いたい御霊の思いと、肉に従いたい思いが同居するこの二心を、完全に御霊の思いに従わせる。日々の主との交わりは、私たちにそのような献身をもたらす。こうして心が完全に主に向かうことではじめて、肉に従った罪深い行いから人は自由にしていただき、そういう者から悪魔は逃げ去る。  しかしそのための取り組みは生半可なものではない。9節を見よう。これは「いつも喜んでいなさい」というみこころと何ら矛盾しない。変えるべき喜びは、伝道者の書7章6節が語るような喜びである。だらだらとテレビやスマホを眺めて楽になった気になろうとも、神さまとの交わりがないために生まれる大きな危機から救ってはくれない。自分がどんなに大変なところにいるか自覚するなら、泣きわめくしかない。そして、徹底した悔い改めをするしかない。  10節。そのようにしてへりくだる者を主は高くしてくださる。いつ高くされるか、それはこの地上に生きている間のいつかかはわからなくても、世の終わり、新天新地が始まり、イエスさまが王として永遠に統べ治められる御国において、確実に私たちは高く引き上げていただける。それは、それだけ私たちが主のみこころにしたがってへりくだることによって、この地において主のご栄光をあらわすことができたことを、「よくやった。よい忠実なしもべだ」と、主が最大限にほめてくださるからである。  そうすることが平和をつくることにつながるのだが、11節、12節を読んでいただきたい。私たちが平和をつくるうえで妨げとなることがある。それは、互いをさばきあう、ということである。  しかし、人をさばく人は言うかもしれない。これはさばいているわけではない。悪口を言っているわけではない。建設的な批判だ。共同体の益のために必要なことだ。しかし、それは神さまから見れば、人をさばいていることに変わりはない。  人をさばく人がよって立つものは、神のみことばだろう。見なさい、この人はこんなにもみことばから外れている、よってみこころにかなっていない、罪人だ。  しかし、これはみことばを尊重していることではない。人を愛するための定めを人をさばくための定めに引き下げるという、たいへんな罪を犯していることになる。それが、律法をさばき、律法の悪口を言うということである。  私たちがクリスチャンをさばくとすると、そのように兄弟姉妹をさばく行動は、そうか、キリスト教は神のことばを盾に人をさばく宗教なのか、神のことばとはそういう冷たいものなのか、という未信者の印象につながったりしかねない。そうなると、どれほど聖書のみことば、神のおきては間違って受け取られ、そしられることになるだろうか。  人をさばくことはそれだけではない。神さまになり代わってさばき主の座につくという、この上なく不遜な態度を取っていることになる。若者がよく、分不相応な発言をする者に対して、誰だよ、などと言ったりするが、人をさばく者などは、神さまからしたらまさしく「誰だよ」である。  このように、みことばを軽んじ、神さまになり代わる、ここから争いが生じ、平和が壊される。だから、平和をつくる者となるためにまずすることは、神を神とし、みことばに従って人を尊重し、人を愛することである。  私たちはだれからも、神の子と呼んでいただくにふさわしくありたいと願わないだろうか? それは私たちの中に戦う欲望があるかぎりとてもむずかしい。まず、そのような私たちであることを神さまの御前に謙遜に認め、そこから救っていただくべく、神さまのあわれみと恵みを求めていこう。

ひとつの家族

聖書箇所;エペソ人への手紙2:11~22 メッセージ題目;ひとつの家族  先週、私ども一家は韓国に行ってきた。ちょうどいま、パリオリンピックが開かれていて、日本に戻ってニュースを見てみると、いま韓国は愛国心の高揚とともに、反日感情が高まっているともいう。  それはそうかもしれない。今回の韓国滞在で、私は西大門刑務所跡の記念館に行ってきた。西大門刑務所は、日本が韓国を支配していた20世紀初頭につくられた、ソウル市内の一等地にありながらきわめて大きなもので、建築当時のレンガ造りの建物を今に残す。そこには、かつて日本が独立運動家たちに対してどれほど残酷なことをしてきたかがこれでもかと示されていて、その膨大な展示を前にしては、日本人としてさすがにうなだれるほかない。極めつけは、その片隅に今も残る小さな建物である。死刑台の建物。そこはさすがに中にまで入ることはできないが、建物に手で触ることができるほどには近づける。  こういう歴史をしっかり後世に残している国と民族が、日本に対して反感を持たないほうがおかしいと考えるべきであろう。ときどき日本では、韓国は反日教育を行なっていると批判する人がいるが、そういう批判は韓国の人にしてみれば大きなお世話であろう。日本でも、たとえば広島や長崎が原爆を記念し、のちの世代に教育することは当然のことである。もしそうしなかったら、それこそおかしいわけで、日本に支配された過去を今に伝えるのも、それと同じことではないだろうか?   そのような中で、オリンピックのような機会ともなると、やはり日本憎しの感情が盛り上がるのも仕方なかろうと思う。これは日本人が批判すべきことではない。しかしである。韓国には、このような日本を赦し、受け入れ、日本のために祈っている人たちがいる。それはクリスチャンたちである。今年の夏も韓国教会は日本の各地に短期宣教チームを送っている。なんとか日本にリバイバルが起きてほしいという、切なる思いで祈りをもって仕えてくださっている。  私は大学生のときだから30年近く前になるが、当時の日本の教会は「リバイバル」ということが一種の合言葉になっていた。私もその中で、「燃える」ムーブメントに身を投じていた。それは、100年以上宣教活動が続いていても一向に成長しない日本の教会に対して、一種の危機意識をいだいていたからではないかと思う。私はキャンパス・クルセードに入って伝道の訓練を受けたり、大きな集会に行って大声で祈ったり歌ったりした。しかし、一向に教会の成長の兆しは見えてこなかった。  きょうのみことばは、そのような葛藤の中にあり、日本ではなく、韓国の神学校で学ぶことを決意し、その入学試験のために韓国に行ったとき、ひとり聖書を読んでいて、示されたみことばである。この箇所は、過去、現在、未来の、三つの時制で語ることができるので、順番に見ていきたい。  まずは「過去」。過去、彼らエペソのクリスチャンたちは、とても悲惨な状態にあった。11節、12節。……福音が伝えられ、それを信じ受け入れる前のエペソの人たちの状態。まず彼らは、割礼を施されていない者だったとある。割礼は、創造主なる神さまとの契約のうちにあるというしるしに、男子が性器の包皮を切り取る儀式で、そのように肉体に痕跡を残しているということは、まさしくイスラエル、ユダヤという、神の民であることの証しだった。それも男性に限っての儀式であり、きわめてユニークな方法である。 そういうイスラエル、ユダヤにしてみれば、割礼を受けていないということは、イコール、神の民でない、はなはだしくは神に敵対する、憎むべき存在、ということになる。少年ダビデが巨人ゴリアテと闘ったとき、ダビデはゴリアテのことを、無割礼のペリシテ人と呼んで闘いに赴いたが、割礼か無割礼かということは、神の民にとってそれほど重要なことである。そしてもともとの神の民イスラエル、ユダヤからしてみれば、エペソの人たちは、無割礼の異邦人の群れである。 また、エペソの人たちは、「キリストから離れ」とある。道であり、真理であり、いのちであるお方、御父に至る唯一の道なるお方、このお方に出会うことなしに、どのようにしてまことの神さまを信じることができるだろうか? 約束の契約については他国人、つまり、神の民として、神さまが契約を結んでくださった民族ではない、というわけである。家であれ車であれ、売る人と買う人の契約というものをとおしてはじめて買う人の手に入るように、契約によって神さまは人に、神の民としての市民権を与えられる。イエスさまに出会っていないということは、アブラハムと交わされた契約のまことの成就である、イエスさまの十字架の血潮という契約などそもそも関係ない。そういう者であるならば、いったいどうやって創造主なる神さまに出会うことができるだろうか。まことの望みを与えてくださる神さまに出会うことができるだろうか。 ただ、彼らは、偶像にすぎないアルテミスを崇拝することで、宗教心を満足させるのが精いっぱいで、それではとてもまことの神さまに出会うことなど叶わなかった。異邦人とは、そのようなかぎりなく悲惨な状況にある存在である。このような存在に、救いはあるのだろうか?    そこで「現在」を見てみよう。彼らエペソの人たちは、キリスト・イエスによって神の民とされた。 ひとつ前のみことばの中の、「キリストから遠く離れ」ということばがかぎになる。キリストとは、道であり、真理であり、いのちであるお方である。このキリストを通してでなければ、父なる神さまに出会うことはない。 しかし、ほんとうのことを言うと、キリストから遠く離れていたのは、ユダヤ人も同じだった。我らこそはメシア待望の民、という自負心をいだいていた彼らだった。そんな彼らはイエスさまをキリストと認めず、十字架につけた。彼らもほんとうの意味でキリストに出会っていなかった。 しかし、キリスト・イエスの十字架を信じることにより神さまとの和解に導かれる、その信仰は、ユダヤ人から始まった。ペテロの説教で悔い改め、ほんとうの意味で神の民になった人たちが大いに増やされ、エルサレムに教会が形成された。この、キリストにつくユダヤ人と同じように、異邦人ゆえにまことの神に対する望みのなかったエペソの人たちも、キリスト・イエスの十字架を信じる信仰へと導かれた。 13節。「近い者となりました」とある。だれと近い者となったのか? それは、外見上の割礼によらず、イエスさまへの信仰によってまことの神の民とされたユダヤ人であり、そしてそれ以上に、そのようにまことの救いに導いてくださった、神さまに近い者とされた、ということである。もはや以前のような、神さまからも神の民からも無関係な、悲惨な存在ではなくなったのである。 14節から16節。この箇所の主語はキリストである。言うまでもなく、ユダヤ人たちが思い描いていたようなキリストではなく、イエス・キリストである。イエスさまは十字架にお掛かりになることで、イエスさまを信じる者を神さまと和解させてくださり、そのようにして、ご自身をとおして神さまに近づく者どうしを、和解に導いてくださった。お互いの間に存在していた敵意も、滅ぼしてくださった。 平和をつくる者は幸いです、とイエスさまはおっしゃった。世界のさまざまな人たちは、争いと憎しみの絶えない世界において、平和をつくる働きに献身している。それはとても素晴らしいことである。では、平和をつくる者は幸いです、とイエスさまに言われている私たちクリスチャンは、どのようにして平和をつくる働きに参与するのだろうか? それは、イエスさまを信じる者どうしで、手に手を携えるところから始まるのではないだろうか? そのようにして和解に導かれ、敵意が滅ぼされるだけではない。17節。……ユダヤはたしかにまことの神さまに近い存在だが、ほんとうの意味でイエスさまを受け入れていたわけではない。まことの神さまから遠い存在の異邦人の場合はなおさらである。どの国も、クリスチャンの多い少ないにかかわらず、宣教が必要である。その宣教のわざを通して、神さまから近い民族にも、神さまから遠い民族にも、ほんとうの意味での平和の福音は伝えられ、一つとなって御父に近づく。それがいずれ、民族どうしの和解へと導かれると、私たちは信じてまいりたい。 私たち日本のクリスチャンは、たしかにこの国に暮らしていると、マイノリティとしての弱さを痛感させられる。しかし、どうか元気を出していただきたい。私たちはけっして、彼らに見劣りする存在ではない。 私は神学生のとき、神学校のある授業で、教授に突然指されて質問されたことがあった。「日本にはどれくらいクリスチャンがいますか?」私は正確な数字を知っていたわけではなかったが、よく言われる日本のクリスチャンの割合からざっと計算してみて、そうですね、27万人くらいでしょうか、とお答えした。クリスチャンばかりの国に生まれ育った韓国人の神学生たちを前にして、恥ずかしいな、という思いもあったが、教授はすぐにこうおっしゃった。「そうですか! それなら、決して少なくありませんね!」私はこのおことばに、どれほど励まされたかわからなかった。 私たちが日本のクリスチャンであることは、誇りとすべきことである。この国の中から、この民族の中から、イエスさまを信じる信仰へと導かれた、それによって世界の兄弟姉妹とともに神さまに近づく存在とされた、なんとすばらしいことであろうか。 19節……創造主なるイエス・キリストを中心に、すべての民族はひとつの家族とされる。ことばや民族がちがおうとも、同じ家族である。このことをどうか、信仰によって受け取っていただきたい。 最後に、未来の姿。20節から22節。……民族は、単に和解させられるだけではない。創造主なるキリスト、王の王なるキリストのからだである教会を、ともに形づくる。 20節を見ると、使徒たちや預言者たちという土台、とある。使徒の著したものは新約聖書であり、預言者たちの著したものは旧約聖書である。旧約と新約、この聖書全体を土台として、教会は建てられる。 そして、その聖書の啓示するお方、キリスト・イエスを基として、教会が建てられる。いかに聖書を学び、また伝えていても、キリスト・イエスが伝わっていないならば、それは「異端」である。それをキリスト信仰と呼んではならない。しかし私たちクリスチャンはそうではない。私たちは、聖書において啓示されたお方、イエスさまを中心に、この教会、共同体を建てるべく召されている。 教会という場所は、神さまに礼拝をささげ、祈り、交わりを行い、みことばに学び、奉仕し、みことばを宣べ伝えるべく、この地上に存在する共同体である。しかしそれは、特定の民族や言語にかぎって形成する共同体ではない。民族や言語の枠を超えて、神さまに創造され、イエスさまの十字架を信じる信仰によって贖われたどうしが、ともに形づくるもの、それがまことの教会である。 しかし私たちは、この教会に対して視線を注ぐのと同時に、もうひとつのビジョン、究極のビジョンに目を留める必要があろう。それは、世の終わりのビジョンである。ヨハネの黙示録、5章6節から14節。……この大礼拝が想像できるだろうか? あらゆる民族から、あらゆる部族から、あらゆることばを話す民から、救われて主を礼拝する。この世の終わりに、私たち日本のクリスチャンも、多くの民族、部族、ことばを話す民に交じって、主の御前に召し出される。私たちはその日まで、和解の福音を語り、人々を神さまと和解させ、敵対するどうしを、福音によって和解に導く働きに用いていただこう。この民に、私たちは福音を語っていこう。そして、ともに教会形成に励み、キリストのからだなる共同体をこの地にうち立てる働きに用いられていこう。 私たちの過去を思うと、どれほど悲惨だったことだろうか。神さまから離れていた、それが私たちの現実だった。祝福を受けた民からするとこの日本は悲惨に思えてならなかったことだろう。しかし私たちは、イエスさまを信じ受け入れる信仰に導いていただき、神さまに近づき、神の民に加えていただいた。そのような私たちは今後、神さまによって召された者どうし、キリストのからだなる教会という共同体をこの地にうち立てていくように求められている。 この、喜びあふれるわざに用いられる私たちとなるように祈ろう。

教会が麗しいのは

聖書箇所;ピリピ人への手紙4:1 メッセージ題目;教会が麗しいのは  昨日、私ども一家は千葉にある東京基督教大学のオープンキャンパスに行ってきた。素晴らしい時間だった。それは、そこに集まった多くの人々、ことに若者たちは、みな、聖書が神のみことばであると信じ告白するクリスチャンたちであり、その聖徒の群れが献身を志して学ぼうとする姿に、希望を見る思いがしたからである。  このような場に赴くと、私たちクリスチャンは決して孤独ではない、普段どんなに離れていても、愛し合うべく召されていることを思わされる。しかしやはり、こうして教会に戻ってきて、聖徒のみなさまを前にすると、やっぱり、ここに帰ってきていいもんだ、と思う。  私たち教会は麗しい群れである。それは聖書が語っているとおり。今日の箇所から、私たちはなぜ麗しいのか、ともに学んでまいりたい。  今日の本文をあらためてお読みしよう。パウロはここで、ピリピ教会の兄弟姉妹のことをどのように呼び、また、どのようなことを勧めているだろうか?「私の愛し慕う兄弟たち」と呼んでいる。なんとも麗しい。  この「愛し慕う」の「愛」は、主の愛を現す「アガペー」から来ることばが用いられている。主が愛しておられるように、私はあなたがたを愛します、と語っているわけである。  主が愛されるように、教会の兄弟姉妹を愛する。このことは、主の愛を知る者だけができることである。主がどのように自分のことを愛してくださっているか知っているからこそ、そのように兄弟姉妹を愛したい。これぞ、私たちクリスチャンの歩むべき歩みである。  高校生の頃だからもう30年以上前のこと、私がまだ韓国語を学ぶ前、夏休みのある日、韓国から日本に短期宣教にやってきたチームに会う機会があった。日本語のできる通訳の方を介してコミュニケーションを取っていたのだが、みんなと会話しているうちに、そのチームの中の、私より少し年上の若い姉妹が私に向かい、日本語で、「わたしは、あなたを、あいします」と言った。みんな、きょとんとしている。それで、通訳の兄弟がその意味をみんなに訳してあげると、チームのみんなはどっと沸いた。真っ赤になった彼女はすかさず言った、「イエスさまの愛で愛します!」  こういうことが言えるのが、主の愛を知る者どうしの強みである。ともに主に愛されているどうし、主の愛がどんなにすばらしいか、わかっている。その愛をもって互いに愛し合う……この愛は、民族や言語や国境を越える。  またパウロは、ただ愛するだけではない、愛し「慕っている」と語る。慕うということは、そばにいたくてたまらない、ということ。これは、特別な関係である。  主が、ただ愛するにとどまらず、「慕う」関係へと導き入れてくださってはじめて、クリスチャンはパウロがピリピ教会の兄弟姉妹に対して告白するように、お互いのことを「慕う」ことができるようになる。 あの時の短期宣教の姉妹は、たしかに同じ主の愛を受けているどうし、「イエスさまの愛で愛します」くらいのことは言ってくれた。しかし、「慕ってくれていた」かというとどうだろうか? 慕うほどの特別な関係だったら、そのときかぎりの出会いで終わることなどなかったはずである。うちの妻の場合ならどうだろうか? はじめて出会ったのは今から18年前のことだが、たった2日顔を合わせただけで離ればなれになっても、それから後もしょっちゅう電話のやり取りをした。これは、お互いが慕っていたということ。  先週も申し上げたが、私はこの教会に赴任して、ちょうど10年経った。みなさまのお姿を見ていて思うことは、みなさんは教会をただ愛するのみならず、愛し慕っているのだなあ、ということ。10年前のことを振り返ってみると、教会から牧師招聘のお話をいただいたとき、私は韓国にいた。このお導きに感謝するとともに、自分は霊的面をはじめ、あらゆる面で整えられなければと願った。  そこで取り組んだことは、毎朝のように近所の教会の早天祈祷会に出席することだった。そうして祈れば祈るほど、私の中にも、教会を愛し慕う思いが確実に育っていった。今思えば、教会を愛し慕う兄弟姉妹のその愛に負けまいという思いを主がくださったのだろう。あれから10年、教会の兄弟姉妹を愛し慕う気持ちは増し加わるばかりである。  そういうわけで、愛することは主の愛の与えられたどうしならばだれでもできることであるが、慕うのは、特別な関係へと導き入れられている者がはじめてできることである。そこで私たちは、自分の身の周りの人間関係を考えてみたい。私たちには主にあって「愛し慕っている」といえる存在が、いったいどれくらいいるだろうか? もし、そのような存在がおられるならば、それはとても素晴らしいことである。その関係を大事にしていただきたい。ダビデがヨナタンとの友情をはぐくんだように、私たちも大事な人との慕い慕われる交わりをとおして、主にある愛をはぐくんでいきたい。 また、慕う対象がもしいるという実感がないならば、どうかその対象を心から慕い求めていただきたい。異性ではないほうがいい。男性は男性の、女性は女性の、それぞれ慕う対象を祈り求めていこう。  1節のつづきだが、パウロは、ピリピ教会のメンバーを指すことばに「私の喜び」という表現を用いている。ピリピ人への手紙は喜びの手紙と呼ばれている。それはピリピ教会こそがパウロの喜びそのものだったからである。  先ほども言ったことだが、私たちに愛し慕う対象がいたとする。しかし、その人に、「あなたは私の喜びです!」と言えるだろうか? ちょっとためらってはしまわないだろうか? しかし、パウロは心からそう言えた。  そう、パウロにとって、ピリピ教会は存在そのものが喜びだった。これはちょうど、親にとって子どもが、目に入れても痛くない、存在そのものが素晴らしいのと同じである。  パウロは結婚していなかったというのが定説だが、ということは、子どももいなかったことになる。しかしパウロは、実の親が子どもに注ぐのと同じように、心からの愛情をピリピ教会に注いだ。  ピリピ教会の存在そのものが、パウロにとって限りなく愛おしかったわけである。パウロはしばしば、自分が信仰に導き、訓練した信徒について「産んだ」という表現を用いている。産む、ということは、出産を経験された婦人の方ならどなたもご存知のとおり、とても大変なことであるが、いざ生まれると、その苦しみは途方もない喜びに変わる。そしてふつう親ならば、喜んで子育てをする。産むだけではなく、子育ても大変な労力を必要とするが、親ならばその労を惜しまない。それは、子どもの存在そのものが喜びだからである。  パウロも迫害を逃れつつ労苦して人を信仰告白に導き、どんな迫害にも耐えられるだけの信仰を持つように鍛え上げた。それは、主を愛していたからであるし、主から自分に託された羊の群れがたまらなく愛おしかったからである。  羊は弱いままでいてはならない、蛇のさとさと鳩の素直さを身に着けさせ、狼の群れにも勝てるようにと、羊の群れをこの上なく強力に育て上げた。それは、惜しみなく愛情を注いで、子どもを強い子に育てようとする親心そのものである。  そしてパウロはこのピリピ教会を、ただ愛し慕い、喜ぶにとどまらない。「冠」と呼んでさえいる。  頭にかぶるものは、その人が何者であるかを象徴します。プロ野球のチームの帽子ならば、そのチームのファンであることを誇りにしている人という意味合いを持ちます。YGマークの帽子をかぶれば、その人は巨人ファンである。ヒジャブと呼ばれるスカーフ状の布で頭部をおおう女性は、ムスリムないしはイスラム圏に住む女性ということになる。 その中でも、冠だったらどうだろうか? 冠をかぶる資格のある人は、王さまのような位の高い人である。あるいは、マラソンの勝者のような栄光あふれる人である。「栄冠」というぐらいである。彼らは間違っても、王座についているときや、表彰台に上るときのような、晴れの舞台で庶民のかぶるような帽子をかぶってはならない。 また冠は、栄光ある人の頭に置かれるからこそ価値があります。王冠とか月桂冠といった冠は、平凡な人かぶってはならない。 ここでパウロは、ピリピ教会を「冠」と呼んでいる。なぜパウロは彼らのことを「冠」と呼んだのだろうか? いま、マラソンの勝者に与えられる「月桂冠」のことを例に出したが、そもそも、われら終わりの日の勝者のことを「月桂冠」を授与されるスポーツ選手に例えたのは、パウロである。コリント人へ第一の手紙、9章の24節から27節をお読みしよう。 ……パウロは、朽ちない冠を受けるためにあらゆる自制をし、目標の定まった闘いをすると述べている。何のために自制するのだろうか?  コリント教会やピリピ教会のような教会を形成するために、その一方で、その指導者としてふさわしくあるように自制するのである。また、何を目標とするのだろうか? 聖徒を整えて奉仕の働きをさせ、教会全体をキリストの満ち満ちた身たけにまで成長させる、ことばを変えれば、キリストの似姿へと成長させるという目標である。 その教会の成長という目標のために、あらゆる闘いも辞さない。これぞ、牧者のあるべき姿である。そのようにしてこの世の闘いを闘いおおせて、終わりの日に主の御手から受けるわが勝利の冠、それが、あなたがた教会だというわけである。私たちは終わりの日に勝利の冠を受けるということをみことばから学んでいるが、その冠がどんなものか、イメージできるだろうか? パウロは、それは教会の兄弟姉妹であるとはっきり語った。 救い主キリストを宣べ伝えて人を永遠のいのちに導き、永遠のいのちの素晴らしさを生涯体験すべく訓練する。そのようにして、天国の民、キリストの似姿とされた人たちの存在、それが、世の終わりに永遠に王とされる者にとっての、朽ちることのない栄光なのである。 私たちはお互いのことを「冠」と信じて教会生活を送っているだろうか? お互いがお互いにみことばの恵みを語り、成長させられ、ともにキリストの似姿へと変えられていくならば、この教会の兄弟姉妹こそ、私たちを王ならしめ、勝利者ならしめる「冠」である。お互いがお互いにとって、とても大事な存在なのである。 パウロは、以上述べてきたように、ピリピ教会の信徒たちは何よりも大事な存在だからこそ、「主にあって堅く立ってください」と勧めている。教会は、締まりも必要であり、秩序も必要である。創造主なる神もキリストも認めたがらないこの世にあって、キリストが生きておられること、信じ受け入れるべきお方であることをしっかりと証しする使命が教会に与えられている。 そして、パウロはどんな思いをこめて、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と、ピリピ教会に呼び掛けたのだろうか? それは、自身が告白したとおり、キリストが心のうちに生きておられるゆえに、キリストの心を持ってそう呼びかけたのだった。 そう、私たちのことを「わたしの愛し慕う兄弟たち、わたしの喜び、冠よ」と呼んでくださるのは、イエスさまである。それほど私たちはイエスさまに愛されている。主は私たちのことを、ご自身のひとみのように守ってくださる。そして、可愛い子には旅をさせよということわざのように、冒険の生涯を通して私たちを鍛え、キリストの似姿へと変えてくださる。終わりの日には、私たちが王の王なるイエスさまを冠として飾る。 そして私たちもまた、心のうちにキリストが生きている存在である。だからこそ私たちもお互いに対して心から、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ! と言うことができる。なんと麗しいことだろうか。 私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。そうお互いに呼びかけ合う、それが心からの告白となる、その同じ思いで一致して、今日も、そしてこれからも、ともに歩んでいこう。

ことばでしくじる私たち

聖書箇所;ヤコブの手紙3章1節~12節 メッセージ題目;「ことばでしくじる私たち」  このところ私たちは、政治家の「ことば」に注目するニュースに接している。せんだっての選挙の候補者だった人の発言が高飛車ではないかとか、どこかの国の大統領が、よりにもよって間違えてはいけない人物の名前を何度も間違えたとか……。こういうニュースに接すると、政治家のような大集団のトップでかじ取りをする人にとって、いかにことばというものが大事かを痛感する。  しかし、こういうニュースはまた、私たちのことも考えさせられる。特に、今日のみことばと考え合わせよう。私たちは政治家でなくても、ことばはやはり大事である。1節を見ると、多くの者が教師になってはならない、と語る。それは、「より厳しいさばきを受ける」からというわけである。かつての新改訳聖書では、この箇所は、「格別厳しいさばきを受ける」と訳している。  「懲らしめ」ではない。「さばき」である。それは何によるものであるか。2節にあるとおり、「ことばで過ちを犯す」ことによる。そこからわかることは、教師の犯すあやまちは、もっぱらことばによるものである、ということ。  教師は何をする人なのだろうか? みことばを解き明かす人である。しかし、みことばをふさわしく解き明かさないならば、その影響のもとにある群れは異端になったり、カルト化したりする。つまり、教師の悪さは教師一人でとどまるものではなく、その語ることばを通じて群れ全体が悪くなるわけである。特にその群れが本来、教会、すなわちキリストのからだとして健康に保たれるべきところ、大いに病んでしまっているならば、主はその責任を教師なる牧者に問われる。  私も牧者の端くれであるが、この水戸第一聖書バプテスト教会という群れを担当させていただいている者として、その責任は重い。ほんとうに、語ることばには慎重にならざるを得ないが、しかしそれでも、悲しむべきことにことばで失敗をすることもあるものである。そしてそれは厳しいさばきに値するものだというこのみことばをお読みするとき、震え上がる思いである。  しかし、2節のみことばは別の側面も語っている。それは、「私たちはみな、多くの点で、特にことばで過ちを犯すものである」ということである。もし、ことばで過ちを犯すことがなかったならば、どうだろうか? その人は完璧だというわけである。  ことばというものは、からだの中でもとりわけ小さな器官である舌を用いて話される。3節、4節を見てみると、大きな家畜である馬も、大勢の人や大量の荷物を載せられる船も、ごく小さなものによって御することができるように、舌も人間を制御する器官であることがわかる。  だが、その舌とはどういう器官なのか? 私たちが思うほど、私たちの柔和な考えに従順ではない。5節、6節を見よう。舌とは、火であると語る。火が森についたら、火を消し止めないかぎり森は丸焼けになる。また、前に進むべき人生の車輪を焼いて進めなくしてしまう。柔和どころか、激しすぎる。破壊しかもたらさない。それが、舌というもの、すなわち、私たちの発することばというものである。  7節のみことばが語るとおり、人間は地を従えている存在である。だが、8節が語るとおり、そんな人間にも従えることができないものが舌である。それも、少しも休むことをしない悪であり、死の毒に満ちている、と語る。なんと恐ろしいものを私たちは持っているのであろうか。  その、死の毒に満ちた舌を野放しにするわれら人間の行動の一例が、9節、10節に書かれている。このヤコブの手紙の読者はクリスチャンだから、当然、主であり父である神さまをほめたたえる。素晴らしいこと、立派なことである。だが、そのように神さまをほめたたえるきよくあるべき存在が、賛美をするのと同じ口をもって、神さまの似姿につくられた人間を呪うというわけである。それは、あってはならないことだとヤコブは警告する。だが、私たちはそういう、あってはならないことを普通にしてしまうのである。  このことをヤコブは、11節、12節のように説明する。  要するに、賛美と呪いを同じ口から出すという行為は、そもそも自然の摂理に反している、というわけである。あってはならないこと、ありえないこと。  だが、そう言われたからと、私たちはここまでこのメッセージを聴いて、「わかりました! では、神さまのみこころにかなうように、これからは語ることばに気をつけ、みこころにかなったことばを語るようにします!」と決心するだろうか? しかし、はっきり申し上げたい。その決心は無駄である。  なぜだろうか? それは2節以下で語られているとおり、私たちはことばで過ちを犯すものだということは、もはや動かしがたい事実だからである。  しかし、それでもヤコブは、「賛美と呪いが同じ口から出ることは、あってはなりません」と語る。つまり、ことばで過ちを犯すことはもはや宿命で、一切どうにもならないことではない。そんな私たちであっても、必ず賛美のみを語れるようになれるからこそ、ヤコブはあえてこのような不可能に思えること、2節のみことばに照らせば矛盾のようなことを、私たちにチャレンジしているのである。  日本のことわざに「人を呪わば穴二つ」というものがある。人を呪ってはならないと戒めることわざだが、この「穴」とは墓の穴であり、人に害を加えようとして墓穴を掘る者は、その報いが自分にも及び、自分の墓穴を掘らなければならない、という意味だそうである。  それでは、日本のことわざではなくて、イエスさまなら、人を呪うことを何とおっしゃっているだろうか? マタイの福音書5章21節、22節にあるとおりである。人を呪ったならば、殺人罪のさばきを地獄に落ちて受けなければならない、ということである。みなさま、人を呪うことはどれほど私たちの人生にあふれているだろうか?「あの人さえいなくなったらいいのに」と思うだけでも立派に「呪い」、すなわち、神さまがご覧になるならば、「殺人罪」を犯すことである。人を馬鹿にすることもそう。殺人罪がなぜ罪なのか、それは、神さまのかたちに造られた人を抹殺すること、そのようにして、神さまのみこころを抹殺することだからである。  それが私たちである。私たちはそうだとすると、何度地獄に堕ちなければならないことだろうか? そんな罪人の私たち、地獄こそがふさわしい私たちは、どうしなければならないだろうか?  救いの道はただひとつしかない。イエスさまにつながることである。イエスさまは、どんなに頑張っても神さまの義の基準、聖さの基準に遠く及ばない、だから地獄行きこそがふさわしい私たちのために、私たちに注がれる御父なる神さまの怒りを十字架の上でことごとく受け止め、私たちを完全に赦してくださった。私たちにできなかったこと、すなわち、神さまの義をまっとうすることを、イエスさまは私たちの身代わりに十字架の上で成し遂げてくださり、私たちはイエスさまの十字架のみわざを信じ受け入れることによって、みことばを完全に成し遂げてくださったイエスさまとひとつになり、私たちもみことばを完璧に守り行なったと神さまに認めていただいた。そう、救いの主体は私たちの努力の行いにあるのではない。どこまでも神さま、イエスさまにある。  そのような私たちはイエスさまというぶどうの木につなげていただいた枝である。ご存じの方も多いと思うが、ぶどうの枝というものは実をつけないかぎり、何の役にも立たない。友達にぶどう農家の人がいるのだが、話を聞くと、ぶどうの枝というものはほんとうに役に立たないらしい。寒いときに集めて火をつけても、暖を取れるほどの火も燃えないそうだ。だから、ぶどうの枝は木を離れては役に立たない。役に立つときがあるとすれば、それはただひとつ、木につながっているときだけ。木につながっていれば、実を結ぶ。豊かに実を結ぶ。  イエスさまはおっしゃる。わたしにとどまりなさい。このみことばは、十二弟子という、もう充分にイエスさまにとどまってきた人たちに対しておっしゃったおことばである。十二弟子にして「わたしにとどまりなさい」と言われなければならなかったならば、いわんや私たちはどれほど、イエスさまにとどまらなければならないことだろうか。  イエスさまにとどまるということは、弟子たちにしてあえてそう命じられなければできなかったことのように、私たちも意識してとどまることが必要である。よく、「神さまが私たちとともにおられるように」と私たちは祈る。立派なことである。しかし、私たちはどこかで、「神さまがともにおられたら都合が悪い」となっているような時はないだろうか?   むしろ私たちは、「神さまに近づく」ことが必要である。神さまは必ず私たちを迎えてくださる。そのようにして、神さま、イエスさまにとどまることが、私たちにとって必要である。これはいのちの営みである。  だから、早天祈祷やディボーションや聖書通読といったものを、それをする自分は努力できたから偉い、などと考えるようでは、まだその人の発想は自己中心である。どうしても神さまにつながらなければならないからつながる、それでこそ私たちの日々の神さまとの交わりは本物となる。  そのようにしてイエスさまにとどまることによって、私たちは初めて、ことばが整えられていく体験をする。イエスさまに近づくとどうなるか? みこころにかなったことばを優先的に話せるようになるだけではない。悪いことばの飛び交うような、この世的な楽しみの場からも距離を置きたがるようになる。そうなると私たちのことばの生活、ことばの習慣が、悪いものによって損なわれることがなくなっていく。  ヤコブの用いたたとえにもう一度注目しよう。甘い水を出す泉は、甘い水を出すから価値がある。先週、日本のある町で産出するミネラルウォーターから、発がん性物質のPFASが検出されたということで問題になったが、名水のはずがからだに悪いものを含んでいてはたまらない。しかしそれは、水源が公害という、悪い環境に置かれていた、ということである。  甘い水はイエスさまが内から湧き上がらせてくださるいのちの水である。御霊の水である。ヨハネの福音書7章37節、38節でイエスさまがお語りになっているとおりである。この水が自分を潤し、人を潤すのである。そう、キリストのからだなる教会という群れの教師、牧者が、まず自分こそが優先的にみもとに近づき、御霊の水に潤されなければならない理由がここにある。自分が潤されて、人を豊かに潤すのである。  それが悪い環境に置かれたら、苦い水になる。イエスさま以外のものにつながっていたら、その泉がいつ汚され、苦い水を出すようになるかわかったものではない。だから、そのように自分を汚すものから距離を置かなければならないのである。私は常日頃、牧師が趣味を持つことは、パウロが病気がちのテモテに「少量のぶどう酒を用いなさい」と言ったように、とかく生真面目、固くなりがちな牧師の生活に潤いを与える、つまり、ひいては信徒たちに潤いを与えるうえで必要なことだと言っているが、それも程度と内容による。人に言えないような趣味は持つべきではないし、牧会そっちのけで趣味に没頭するのもだめである。さもなくば泉は苦くなり、人を潤すべきことばは荒れることになる。  もうひとつ、木はふさわしい実をつけてこそ、ということで、いちじくの木はオリーブの実をならせない、ぶどうの木はいちじくの実をならせない、とも語っているが、いちじく、オリーブ、ぶどう、すべて、神の民イスラエルに注がれた主の恵みを象徴する実である。しかし、木がまったく別の木の実をつけたならばめちゃくちゃ、第一ありえないこと。この中でも「ぶどう」の木は、ほかならぬイエスさまがご自身を指して象徴された木。私たちがイエスさまというぶどうの木にくっついて、とどまって結ぶぶどうの実は、イエスさまのみことば、人を生かす、神の口から出るひとつひとつのことばである。そう、人は神の口からであるひとつひとつのことばによって生きる、とイエスさまはおっしゃったが、そのことばを人に語って聞かせ、人を生かすのは、やはり人のすることである。  しかし、この人を潤し、人にみことばを食べさせて生かす働きは、牧師だけのすることではない。ここにいらっしゃるみなさまにはできるし、積極的にしていただきたい。分かち合いはぜひ、神さまの恵みの分かち合い、みことばの分かち合いを優先的にしていただきたい。それによって私たちは、神さまの御前にふさわしいことばが語れるようになる。  舌はもともと、みことばが語るとおり、よいものさえも焼き尽くす火であった。他人であれ、自分であれ、人を呪い殺す死の毒に満ちたものであった。しかし主は、このような私たちのことばをきよめてくださった。あとは私たちがイエスさまにつながり、とどまり、みこころにかなったことば、神の愛に満ちたことばを語らせていただくように、祈っていこう。

信仰が死なないために

聖書箇所;ヤコブの手紙2章14節~26節 メッセージ題目;信仰が死なないために  教会に備えつけの『オペレーション日本祈りのガイド』はとてもすぐれている。日本中のキリスト教会にまつわる施設の情報が都道府県ごとに掲載されていて、各都道府県のためにとりなして祈るうえでとても役に立つ。しかし、そうして各都道府県の祈りの課題を見てみると、病院のような医療関係、老人ホームのような福祉関係、幼稚園や学校のような教育関係と、クリスチャンの働きが実に多岐にわたっていて、しかもそれが、病気の人やお年寄りや子どものような、社会的に見れば「弱者」の働きに集中していることがわかる。  先週の木曜日、茨城キリスト教学園にお伺いして、もと玉川聖学院中学高校の校長の水口洋先生という方のお話をお聴きした。そこで教えられたことのひとつに、日本の教会は歴史的に、病気の人や障碍者や子どもや女性といった社会的弱者のための教育や医療、福祉に力を入れることで、その領域になかなか光を届けることができていなかった世の中の信頼を勝ち得てきた、ということがあった。いま、多くのそのような働きがブランド化、形骸化してしまったという嘆かわしい現実にも触れてくださったが、本来、私たちキリスト者の取り組むべき働きはそういうもの、社会的弱者に関わる愛の実践をすることだと、はっとさせられたものだった。  この教会は多くの方が、医療、教育、福祉に関わっている。それはこの教会の特徴と言えないだろうか。言い換えれば、本来そのようにして世の中に対し、生ける神さま、弱い者の味方であるイエスさまを証しすべきキリスト教会の本来の使命を果たしうる教会、それが私たちの群れではないだろうか。  そんな私たちだが、ほんとうの意味で神の愛を実践するために、どのような実を結ぶことが神さまから期待されているだろうか。本日はそのことをみことばから学んでみたい。  14節。これは、ヤコブの手紙全体を貫くテーマのようである。しかしこれは、信仰より行いが大事であると説いているわけではない。信仰があるというなら行いがあってしかるべきである、と語っているわけである。  私たちは行いで神さまに認められようとしてはならない。しかし、私たちのすべきことはイエスさまが完全に成し遂げてくださった。私たちはイエスさまを信じ受け入れ、ひとつとなることによって、私たちに求められている律法の要求が全うされるのである。私たちにできないことは、イエスさまがしてくださった。  それが信仰ということであるのだから、イエスさまのみこころのとおりに振る舞えていない、つまり、行いの実を結んでいないということは、おかしいことなのである。「自分はイエスさまを信じているから、何をやっても許される!」と言うことができないのは、だからなのである。  しかし、人を愛されるイエスさまとひとつになるゆえに、隣人を愛する愛の実を結ぶべき私たちが、しばしばこんなことを言わないだろうか。15節と16節。  中身が伴わないで口だけ。なんとも冷たいことばだと思うだろう。しかし、これと同じことを、私たちはふつうに、平気でやっているのである。ほんとうである。それは、「祈っています」とたやすく口にすることである。  たとえば、社員を採用する企業は、俗に「お祈りメール」と呼ばれるものを、選考で落とした応募者に送る。「残念ながら、ご期待に添いかねる結果となりました……」云々。そして最後に、「末筆になりますが、○○さまのこれからのご活躍を心よりお祈り申し上げます」で締めくくる。しかし、ほんとうにその人の活躍を祈っているならば、ちゃんと採用すべきではないだろうか? 人事部の人のその「祈り」など、むなしい、というか、偽善的、というかしかない。  同じことを私たちクリスチャンもする、とこのみことばは警告している。私たちは祈る。それは結構なことだ。  しかし、祈っているとおりにその貧しい人が食べるものを食べ、着るものを着るには、身銭を切ってその人のために使わなければ、嘘である。その人に食べものや着るものが天から降ってくることを求める以前に、なぜ自分の食べものや着るものを差し出さないのか。奇蹟を求めるのもいいが、神さまはまず日常生活の中で愛のやり取りをするところから働かれることを忘れてはならない。  しかし私たちは、実際の自分自身を見てみよう。私たちの目の前、身の回りには、困っている人、貧しい人がたくさんいないだろうか? そういう人のために何もできていないわが身であることを、私たちは気づかされないだろうか? そんなとき、私たちは何と愛のないものであるかと悟らされ、がっかりさせられないだろうか?  ここに私たちは、イエスさまのあわれみを求める必要があることを思い知らされる。主よ、あなたはこんな私を愛してくださっているのに、私は周りのだれのこともまともに愛せません。私には愛がありません。こんな愛のない私を助けてください。その祈りをささげるとき、主は私たちに、少しでも愛する力を私たちに与えてくださる。  私たちの信仰が死なないためにすることは、脅迫的に行いに走ることではない。まずはそのように、自分は愛の実を結ぶ信仰がないものであることを認め、主の御前に降伏し、ただあわれみを求めることである。主はそこから私たちの信仰を生かしてくださる。  18節をお読みしよう。信仰と行いというものは、しばしば対照的なものとして描かれる。「信仰か、行いか」、そういう二元論のような捕らえ方を、われわれ人間はついしてしまう。クリスチャンであってもそういう傾向がある。  パウロが書簡の中で語っている、恵みのゆえに信仰によって救われた、行いによるのではない、ということは、誤解してとらえてしまうと、行いが必要ない、となってしまう。しかしそうなってしまうなら、このただでさえ悪い世界において、私たちキリスト者はイエスさまがおっしゃるとおりの、世の光、地の塩としての役割を、何一つ果たせないことになってしまう。  そういうことだから、世にあるあらゆる宗教の中には、世直し的な奉仕にいそしむことで神的存在に認められようという教えを説く群れも現れる。こういう群れは押しなべて世の中の評判がいい。なにしろいいことをボランティアでしてくれているからである。しかし、いかにいいことをしていたからといって、ほんとうの神さまを信じ従っているわけではない以上、神さまがそういう人たちの善い行いを認めてくださるとはかぎらない。それと同じようなやりかたで、神さまに認められようとすることを私たちキリスト者もしてはいないか、ということは、つねに問われるところでないだろうか。  行いによって自分の信仰を見せる、ということは、そのどちらでもない。なぜならば、行いの実を結ぶ信仰は、人に由来するものではなく、神さま、イエスさまに由来するものだからである。私には一切できない善い行いを、この堕落しきった私のことを完全に救ってくださったイエスさまがさせてくださる。そのように、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きてくださっているほどに、私のことを救ってくださり、私と完全に一つとなってくださっている。この境地から、行いによって自分の信仰を見せることができるのである。  19節はこの流れの中で、唐突に挿入されているような印象を受ける。しかし流れに従って読むと、これは唐突ではない。悪魔は唯一の神になり代われない。そんな悪魔は、少しでも永遠の滅亡をともにする人間が現れるように、すでに救われていて、もっと多くの人を救いに導こうとするクリスチャンたちの力を削ぐことに必死になっている。そこで悪魔はこういう作戦を用いる。悪魔はクリスチャンたちに、神はおひとりだと信じるほどの立派な信仰を持ちさえすればそれで万事が解決したと思わせる。  間違っても、信仰が行いの実を結ぶようなイエスさまとの交わり、聖霊の満たしなど体験させない。聖霊の満たしと呼びながらも、そのじつ何の愛の実も結ばない、世の中に対して毒にも薬にもならないことにだったら集中させる。  言ってみれば、クリスチャンをたんなる「宗教」の信者にするか、「カルト」の熱狂的な分子にするかして、けっして「世の光、地の塩」にはさせない。それが、神がおひとりであることに身震いする悪魔が、人間、わけてもクリスチャンに対して取る戦略である。  20節以下を見てみよう。行いのない信仰がむなしい代わりに、行いのある信仰がどんなに意味があるかを、ヤコブは旧約聖書の2つの実例から挙げている。まず、21節から23節。アブラハムが神を信じた、その信じたことはいかなる行いに現れたかについて語っている。  一見すると、子どもを犠牲にして殺すようなことが信仰の行いとして尊い、と受け取ってしまわないだろうか。しかしこれは、新約聖書のヘブル人への手紙11章17節から19節を合わせて読まないと分からない。  つまり、アブラハムの行動は、神さまはイサクから子孫を生まれさせてくださるという約束を受け取っている以上、イサクは必ず生きて子孫をもうけると信じ切っていたゆえにできたことであった。そしてアブラハムのこの行動は、はるかのちに御父なる神さまがひとり子イエスさまを十字架におつけになり、そしてよみがえらされたことに通じる。なんと、イエスさまの十字架の贖いと復活さえもはるかに望み見た行いとなった。つまり、アブラハムの行いはどこまでも信仰によること、信仰ゆえに行いに出られたわけだった。  もちろん、私たちはアブラハムのこの犠牲を見るとき、自分にはとてもそんなことはできない、と思うしかないだろう。だからこそ私たちは、私の中にはこのような行いができる何かなど、何一つないことを認めるしかない。ただ、その犠牲は御父なる神さまが、イエスさまを十字架につけることによって成し遂げてくださった、そのイエスさまと私がひとつにしていただいていることで、私たちは少しでも愛の行い、犠牲の働きができるようにしていただいている、そうして主に用いていただいている、そのことに感謝するばかりである。  もうひとつのケースとして、ヨシュア記に登場する遊女ラハブのことが書かれている。エリコに偵察に来たイスラエルの兵士をエリコの軍からかくまった女性である。このケースの場合、ラハブのいのちをエリコ聖絶から助けたのは、イスラエルの兵士たちであった。しかし、ラハブがイスラエルの兵士をかくまったのは、まことの神さまに対する信仰のゆえであったことを、やはりヘブル人への手紙の11章は証ししている。お従いすべきはまことの神さまである、このお方によればやがてこの邪悪な都市は崩され、滅びる、なんとか助からなくては、そういう思いが持てたのは、まことの神さまに対する信仰による。ほんとうに信じるべきお方がだれかをわかっていたゆえに、だれの味方になるべきかが判断できた。  26節のみことば。このみことばは、人間のからだを信仰、霊を行いになぞらえている。普通なら逆になぞらえたくならないだろうか?   信仰は霊的なものであり、行いは人間の肉体を用いてするものだからである。しかし、この箇所を見ると、逆である。つまり、からだと霊、信仰と行いは、切っても切り離せないものだということである。  さて、この一連のみことばから、私たちは行いがとにかく必要だということを教えられるが、「だから行いを大事にします!」では、苦しくなるばかりである。神さまはそんなことを私たちに望んではいらっしゃらない。私たちは「行えない」、そのことを徹底して認める必要がある。行えるのはただ一人、イエスさまである。このイエスさまと私たちはひとつにならせていただいている、ゆえにそこから、少しでも行いの実が結ばれ、主のご栄光をあらわすものとして用いていただける……このことのゆえに感謝しよう。  信仰が死なないために。行おうと努力しなくていい。まず、すべてを成し遂げてくださったイエスさまとひとつにしていただいてることに感謝しよう。いまこのとき、イエスさまとの交わりに入れていただこう。

愛を行う教会を目指して

聖書箇所;ヤコブの手紙2章1節~13節 メッセージ題目;「愛を行う教会を目指して」  現代人もそうだし、おそらく古今東西どの国や民族においてもそうだと思うが、私たちはえこひいきというものに敏感だろう。子どもなどでも、あの子のほうがボクよりもたくさんお菓子をもらった、なんてなったら、たいていは怒る。  今日のみことばの中で戒められていること、それは、人をえこひいきしてはいけない、ということである。えこひいきしてはいけない、とはっきり語っている以上、えこひいきは特にクリスチャンにはふさわしくないことである。  ただし、私たちにとって人をえこひいきするとはどういうことなのか、また、えこひいきしてはなぜいけないのか、ということも見てみたい。それが、私たちがえこひいきをすることで主のみこころを損なうことのないために必要なことである。以下、見ていきたい。  1節。私たちクリスチャンが人をえこひいきしてはいけないのは、私たちが栄光のイエス・キリストへの信仰を持っているからである。単にこの世の常識としてえこひいきがいけないのではない。私たちのうちに巣くうえこひいきという病巣は、イエス・キリストの栄光によって取り扱われ、取り除かれなければならないものである。  それがどういうことなのかは追い追い見ていくとして、ヤコブはこの問題となっているえこひいきというものについて、具体的な例を挙げている。2節と3節。  これをお読みになってどうお思いだろうか?「うわ、ひどい! それでも教会か!」と吐き捨てたくならないだろうか?   しかし、教会ならばどんな教会でもふさわしくないからとこんなえこひいきをしないなら、そう、それこそここに書いてあるような醜く露骨な差別をしないなら、そもそもこのようにヤコブが書く必要などなかった。この醜い差別、それは、私たちクリスチャンが平気で行なっていることである。  金持ちが入ってきたとする。そういう人は上座に通される。これはどういうことだろうか? それを理解するには、金持ちと教会の関係性に注目することである。  まず、金持ちは言うまでもなく、お金を持っている。そういう人が教会で歓迎されるのはなぜだろうか? 言うまでもない。献金をたくさんしてくれる可能性がとても高いからである。  この時代のヤコブが導いていた群れも恐らくそうだが、教会というところはお金がなく、お金を必要としているところである。そういう群れにお金持ちが入ってきたなら、そのようなお金持ちに献金してもらうことを期待してしまう。ときには、そういう人が教会に来たことを、クリスチャンたちは平気で、これは神さまからの祝福です、なんて口走ったりする。しかし、それでいいのだろうか?  また、金持ちはたいていの場合、この世的に名声を博している。中には取税人ザアカイのような嫌われ者もいるにはいるが、たいていの場合、金の多さとこの世での評判の高さは比例している。そのような金持ちが来るような教会ならば信頼していい、なんて、この世の人たちは思ったりして、金持ちはまるで広告塔のようになってしまう。それは、この世ではマイノリティ、弱者、迫害の対象になりがちな教会にとっては都合のいいことではあろう。しかし、それでいいのだろうか?  もちろんこれは、金持ちや有名人、有力者が教会に来てはならないということではない。そういう方々にも喜んで来てもらえる教会を目指すことも必要である。しかしその目的は、金持ちによって教会が富んだり、名声を博したりするためではない。  このみことばで、金持ちが「金の指輪」をしている人、ということに注目する必要がある。聖書の中で指輪をした人といえば、あらゆる権力者の中の権力者、王様である。新約聖書ではイエスさまのたとえ話の放蕩息子の父親である大金持ちも指輪をしているが、これとて王の王なる神さまの象徴と考えると、やはり王である。すなわち、王ほどの金持ち、権力者であろうとも、えこひいきしてはならない、というのである。これは大変なチャレンジをわれわれに突きつけているのではないだろうか?  では、もうひとつの「貧しい人」はどうだろうか?「いや、私はちゃんとケアしています」と言えるだろうか?   これからいうことはかなりストレートなものの言い方になるので、誤解しないで最後まで聞いていただきたいが、そもそも「貧しい人」を教会が歓迎しないのはなぜだろうか?  それは、身もふたもない言い方をすれば、貧しい人は献金をしてくれる見込みがない一方で、その生活を支えることが教会に求められている、すなわち、お金がかかるからではないだろうか?   しかし、それゆえに貧しい人の存在を嫌がるようでは、教会は弱い人たちの集まる場所という誇り高い呼び方などとても似合わない。  お金持ちを優遇し、貧しい人を追いやる。そういうえこひいきの態度に、聖書のみことばは鉄槌を下している。4節。それはれっきとした差別である。人をさばくことである。「いや、これは差別じゃなくて区別ですよ」とでも言うつもりだろうか?   しかし、聖書ははっきりと、えこひいきは差別という罪を犯していることだと断罪する。そもそも、貧しい人と金持ちの正体はどういうものだろうか? 5節から7節。貧しい人はこの世に身寄りがない。この世の居場所を失った人である。しかし、そんな孤独な彼らには頼るべきお方がおられる。それがイエスさまである。そして、彼らがイエスさまに頼るということは、イエス・キリストのからだなる教会に頼ることによって全うされる。そいうすることで彼らは信仰に富む者となり、ついには御国を受け継ぐにふさわしく整えられる。つまり、教会はほんらい、そんな貧しい人たちが主体であるべき共同体だということである。私たち教会を形づくるひと枝ひと枝の兄弟姉妹は、そのことを意識して信仰生活に励む必要があろう。  一方で、金持ちはどうか。このみことばでは、金持ちは3つのことをするという。まず、あなたがたクリスチャンを虐げる。あなたがたを裁判所に引いていく。あなたがたクリスチャンをクリスチャンにする尊いイエスさまの御名をけがす。  これが、この世の金持ちというもののすることである。なぜならばここでいう金持ちとは、この世の反キリストの悪い文化をつくる主体であり、その悪い世界を悪く保たせる存在だからである。そんな悪い反キリストの存在を有難がった結果、教会は貧しい人を排除しにかかるわけである。だが、それは彼らを辱めることであるとみことばは喝破する。  8節のみことばをお読みしよう。私たちは隣人を愛する存在として召されている。それも、自分を愛するように愛するのである。しかし、この「自分のように愛する」相手は、金持ち、愛しやすい人だけではない、貧しい人、愛しにくい人も当然含むのである。  それが主のみこころである。だが、私たちの語る隣人愛というものは、なんとエゴイスティックなものだろうか。  人をえこひいきして、愛しやすい人、愛したい人しか愛さない、愛したくない人には冷たい、それが、口では偉そうなことを言いながら、実際にはまるで行えていない、私たちの愛というものの実際である。  9節によれば、そういう者は違反者として責められる。早い話が罪人である。神さまの前に罪人としてさばかれるべき罪を犯していることになる。では、それはどんな罪だろうか? 10節、11節をお読みしよう。  なんとこれは「殺してはならない」という戒めを破る罪だというのである。そしてそれゆえに、律法のすべてを破る完璧な罪人だということ。そんな馬鹿な! とお思いか。しかし、「こんなお金もない、めんどくさい人なんて、教会からいなくなってほしい」などと、口にこそ出さなくても心の中で考えるならば、その人の存在を心の中で抹殺したということであり、それは神さまの御目から見れば、大事なご自身の子どもであるその貧しいを無視した、存在しない者として扱ったということ、それは存在を消すこと、すなわち殺人である。これは言い過ぎではない。兄弟に対し、「バカ」とか「能なし」とか言う者には地獄ゆきのさばきを下されるのが御父だとイエスさまがおっしゃっている、その基準を考えるべきである。  そう考えると私たちはどれほどの罪人か。しかし、私たちはここでもうひとつ考えるべきことがある。私たちの考えやことば、行いをさばいて地獄にふさわしいとささやくのは、サタンである。  では、神さまのさばきとはどのようなものだろうか? 12節。神さまの律法は自由をもたらす。どういうことか? 私たちは神さまの基準に従えば、死刑に処せられる究極の罪人である。  貧しい人をさげすみ、有力者をことさらにありがたがる私たちには、神さまから下される死のさばきを受けるにふさわしい。しかし神さまは、このような私たちのことを憐れんでくださった。  私たちの罪は律法で明らかにされたが、私たちは律法によって、神さまのあわれみにすがらなければもはや生きていけない存在だと教えられた。私たちを生かすのは律法を守り行うことではない。律法を守り行えないゆえに、私たちの身代わりに十字架の上でその死により、神の律法をまっとうしてくださったイエスさまを信じることである。そうすれば私たちは、律法を守り行えないゆえに下される神の怒り、のろいから完全に解放していただける。  そうしてイエスさまのゆえに、律法は呪いの律法ではなく、自由の律法となった。「守らなければならない」ものから、「守りたい、守れる」ものになった。神さまの愛、イエスさまの愛を思えば、貧しい人を顧みたい、積極的にかかわりたい、そうなれる。そうなる。  しかし、そうなれない自分を意識すると、神さまはこんな自分のことを怒っておられるのではないか、でもできない、13節のみことばにあるとおり、あわれみのない自分にはあわれみのないさばきが下されるに違いない、ああ、どうしよう、とならないだろうか? しかし、13節は最後まで読んでいただきたい。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る。神さまのあわれみゆえに、神さまはイエスさまを十字架におつけになり、私たちの受けるべきさばきをすべて負わせられ、もはや私たちがさばかれることは一切ない。  この神さまの愛とあわれみを思う者となろう。そうすることが、私たちを愛に富む共同体へと育て上げる。えこひいきしない、主のからだらしい共同体を形づくれる。