父母を敬うということ

聖書箇所;出エジプト記20章12節 メッセージ題目;父母を敬うということ  私が幼稚園から小学校にかけての頃、テレビで毎日流していたCMがあった。ある程度の年代以上の方はご記憶だろう。それは、今でいう日本財団、競艇の組織が流すもので、その会長である笹川良一という人が、子どもたちや、当時大人気だったお相撲さんの高見山関、音楽家の山本直純さん、そして動物のチンパンジーとともに、法被(はっぴ)を着て、「戸締まり用心火の用心」と歌いながら練り歩く、というもの。そのフレーズは、「地球は一家、人類はみな兄弟、お父さん、お母さんを大切にしよう」だった。  そんな、親を大切にしなさい、敬いなさい、という教えは、日本人にかぎらず、人類普遍の教えというべきだろう。それは、この十戒でも語られてるように、それがわれわれ人類の創造主である神さまのみこころだから人類はみなその教えを大切にする、と言えよう。  しかし、私たちクリスチャンにとって大切なのは、それが「なぜ」クリスチャンにとって大切なのか、ということを、みことばの語ることから再定義することである。そうしないと、下手をすると父と母をいかに敬っているといっても、その敬い方が聖書的とはいえなくて、かえってみこころを損なってしまいかねない。あるいは、敬うことが必要だとわかっていてもそれがどうしてもできないで、過度に自分のことを責めてしまう。ゆえに私たちは、神さまはなぜ「あなたの父と母を敬え」とおっしゃっているのか、そして父と母を敬う私たちに、神さまはどのような祝福をくださるのか、父と母を敬うにはどうすればいいのか、ともに学ぶ必要がある。そのようにして、私たちはふさわしいかたちで、みこころにかなった親孝行の社会を形づくっていきたいものである。  それでは見ていこう。まず、この「あなたの父と母を敬え」というこの戒めは、十戒のうちの第5の戒めである。この戒めが置かれている位置に注目したい。十戒の戒めの並び方をご覧になれば一目瞭然だが、最初の4つの戒めが神さまに対する「対神関係」の戒めであり、あとの6つが人に対する「対人関係」の戒めである。その「対人関係」の戒めの最初に来るのがこの第5の戒めというわけである。  つまり、この戒めは、十戒において神さまがどのようなお方であるかということを踏まえたうえでとらえるべきものである。すなわち、神さまはイスラエルを奴隷の家から救われたお方である、だから、「神さまのほかに神があってはならない」、「偶像をつくってはならない」、「神の名をみだりに口にしてはならない」、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」、その前提あっての「あなたの父と母を敬え」である。日本社会がそうであるように、テレビのCMも含めた世間一般が、親を敬いなさい、親孝行をしなさい、と言うから、父母を敬うのではない。救い主なる神さま、唯一の神さま、聖なる神さまのご命令だから、父母を敬う、というわけである。  この戒めが置かれた順番に注目すれば、神さまがなぜ人に対する第一のご命令として、父母を敬いなさい、とおっしゃったかが見えてくる。これは、対神関係を扱う前半の戒めと、対人関係を扱う後半の戒めの、いわば「結節点」に位置する戒めである。千代崎秀雄先生という牧師先生はこの事情について、このようにおっしゃっている。  「聖書の思想によると、子が幼い間は親は神の代理として愛の保護・育成・訓戒を与える責任があるとされる。したがって、第5を前半の中にかぞえることも可能。」そう、だから、この「あなたの父と母を敬え」という戒めは、「対神関係」の戒めと「対人関係」の戒めを同時に兼ね備える役割を果たしているといえる。それだけにとても重要である。  とはいっても、この聖書の思想のとおりに、親が神の代理として子どもに対する保護・育成・訓戒の働きを果たしおおせた、という実例は、聖書の中からなかなか探すことは難しい。  もしそういう実例があれば、たとえばミッション系の幼稚園などで保護者を対象にやっている、聖書をもとにした子育てセミナーなどはずいぶんやりやすくなるのだが、あいにくそういう具体的な模範は聖書の中からなかなか見出せるものではない。  一応、見いだせるものといったら、条件が限定されている中でそれでも母親としての役割を果たそうとした、モーセの母ヨケベテ、サムエルの母ハンナのケースといったところだろう。それでもあまり具体的に、微に入り細にわたってどういうことをしたかを書いているわけではない。あるいは、父親のケースでいえば、イサクのケースやヤコブのケースのような、ふさわしい父親というにはどこか問題を抱えたケースだろう。いわば反面教師である。ダビデはいまわの際にソロモンに王権を授ける際、王様として、と同時に、親としてもよい模範を示せたといえなくもないが、一方でダビデは、息子アムノンやアブサロム、アドニヤに対しては親として合格とはいえなかった。  新約聖書の場合は、子どもが亡くなったり、重病に陥ったりして悲嘆にくれる親、というのは出てくるが、神さまの御手に委ねるまで、子どもをふさわしく育てた親、という具体的な実例は見つけにくい。あえて言えば、イエスさまのもとに息子ヤコブとヨハネを送り出すまで、親として子どもたちを監督したゼベダイの存在や、テモテにユダヤ人クリスチャンの母親、また祖母として信仰を継承したユニケやロイスの存在が、それをほのめかしていると言える程度だろう。  ただし、聖書的な「父母」の概念をしっかり語っている箇所ならちゃんと存在する。それは第一テサロニケ2章のみことば、パウロが自分自身の牧会哲学を、母親というもの、また父親というものになぞらえて語っている箇所である。お開きいただきたい。  まず、パウロは母という存在と自分の牧会との関係について語る。7節と8節。……まず、パウロは、母親とは子どもをいとおしく思う存在だと語る。さきほど、サムエルの母であるハンナのことに少し触れたが、ハンナは神さまへの誓いどおり、長い不妊の末にようやく生まれたサムエルを神さまにおささげし、祭司エリのいる神殿に預けた。しかし、ハンナは年ごとの礼拝でシロの地に赴くたびに、自分の手で縫った小さな上着をサムエルに差し入れしている。ハンナは、神さまの御手に子どもを委ねた以上、もう関係ない、とはならなかったのである。幼いサムエルが寒い思いをしないように、と、ひと針ひと針縫う労苦を惜しまなかった。それはやはり、サムエルをいとおしんでいたからだった。そのような、母親が子どもを愛しいつくしむ、その愛情をあなたがた教会のおひとりおひとりに注ぐのです、とパウロは告白しているわけである。  そしてパウロは、自分は母親のごとく、神の福音だけではなく、自分のいのちをもあなたがたに与えたい、とも語っている。パウロが福音を語るのは、その福音を聞いた人がイエスさまを信じ受け入れて、永遠のいのちを得るためである。その人が救われてほしい一心で、また、救いの道を歩んでほしい一心で、パウロは一生懸命に福音を語り、みことばを解き明かす。しかし、それは単なることばだけの伝道ではない。自分のいのちさえも差し出すこともいとわない姿勢、それが教会形成にとって必要であるというわけである。  そのような、いつくしむ愛、子どものためなら自分がどうなってもいいという愛、その究極の愛は神さまの愛で、イエスさまが私たち神の子どもたちをいつくしんでくださり、私たちが永遠の滅びから救われ、生きるために、ご自身のいのちを十字架の上にてお捨てになった愛にあらわされている。聖書全体から受ける神さまのイメージは男性的だが、時に神さまは私たち人間を、母親の子どもを思う愛情の原点ともいえる愛をもって愛してくださる。お開きにならないでいいが、イザヤ書66章13節を見ると、神さまは、神の民が自らの罪に傷ついて沈むのをご自身が慰めてくださるその御姿が、まるで子どもを慰める母親のようだとお語りになっている。神さまはそのように、母親のような愛情を神の民である私たちに注いでくださるお方である。  もしかすると私たちは、地上の母親から充分な愛情、ふさわしい愛情を受けられないで生きてきたかもしれない。神さまはそんな私たちのことを、地上のどんな母親にもまさる愛でいつくしんでくださっている。  一方でパウロは、自身の牧会と教会形成を父親にもなぞらえている。第一テサロニケ2章11節、12節にあるとおりである。パウロは教会のひとりひとりに、神のご存在のリアルとそのみこころを示し、そのみこころにふさわしく歩むように勧め、励まし、また厳かに命じている。これが父親というものだというわけである。神を示し、その道を歩めるように訓戒する。そのためには厳格になることもいとわない。  旧約聖書、また聖書全体の総決算と言えるヨハネの黙示録における神さまは、きわめて厳格な父の姿で私たちに迫ってこられる。私たちは罪を犯した罪人なので、厳格な父の前に出るにはどうしても後ろめたさを覚え、なかなか近づけない。よく、父親とは厳格な近づきがたい存在だと言われるが、それはおよそこの世の父親というものが、聖書に啓示されている父なる神さまのお姿をこの世に示す存在であるからだろう。この世の父親が厳格であるように、いやそれ以上に、父なる神さまは厳格なお方である。  しかし、父は私たちから遠いだけの存在ではない。どうしても近づくことができないでいる私たち子どもたちのために、御子イエスさまを橋渡しをするお方として私たちのもとに送ってくださった。私たち罪人を憐れんでくださる、母親のような愛情である。というより、神さまのこのいつくしむ愛をこの地上で表現するのが、母親という存在だというべきだろう。父なる神さまは、私たちがイエスさまを信じればそれでよしとする、そのいのちの道を備えてくださったのである。私たちはイエスさまによって、父なる神さまのもとに堂々と行けるのである。  というわけで、十戒が神の民に与えられた戒めという前提で見るならば、十戒の第5の戒めは、神のみこころを神の国で実践する、神のかたちとしての父と母だから敬うべき、ということである。すなわち、神の民が父と母を敬うことは、神を恐れ、礼拝することにつながるのである。  しかしそれは、まず、父母が神さまを恐れ、神さまに従順であるということが前提となることに注意が必要である。おそらく、子どもが家族の中で最初にクリスチャンになるケースで、もっとも葛藤することはこのことではないだろうか。  私はかつて、純粋な信仰を持ったクリスチャンの高校生が、夏のバイブルキャンプを通じてバプテスマを受ける決心に導かれたものの、子どもが教会の活動に積極的になりすぎることを嫌った母親の顔色を見るあまり、バイブルキャンプから帰ってきたら、バプテスマはおろか、それきりぱったりと教会に行くことそのものをやめてしまった、という、あまりに心痛むできごとに接したことがある。私としては、父母を敬うとはそういうことではないんだよ、と教えてあげたかったが、何しろ彼女は重い障害を抱えていて、母親なしには何もできない人だったから、手の出しようがなかった。  そういう葛藤を抱えるのは、親が神さまに不従順なケースだろう。「父母を敬え」というみことばがあまりにリアルすぎて、それをまずは守ることで神のみこころに従おうとすると、どうなるか? たとえば親が、もうおまえは教会に行くな、と言ったら、それに従わざるをえなくなる。しかし、これを仕方のないことと片づけていいのだろうか? 神さまはそんな、ご自身に従おうとする者を見捨てるような、冷たいお方なのだろうか?  しかし、信仰を持って歩もうとする子どもに対し、親という存在は時に大きすぎる。そのせいで信仰生活もままならないでいる方にまず申し上げたいことだが、神さまがおっしゃっている「あなたの父と母を敬え」は、大前提として、神の民という共同体の中の家族に語られたことばである。したがって、親がもし神の民に属さず、ゆえに神にお従いすることの何たるかもわからない場合、この戒めを律法的に自分の親子関係にあてはめようとするなら、その人はとても苦しむことになる。  場合によっては、強すぎる親の存在ゆえに、やっぱり教会から離れよう、信仰から離れよう、という決断をしてしまいかねない。それは神さまの望んでおられることではない。  とはいっても、教会から離れざるをえない選択をすることも充分あり得るのは、お互い理解するしかなかろう。ただしそれは、「あなたの父と母を敬え」というみことばを、教会を離れるという行動をもって実践するからでは断じてない。言うなればこれは、やむをえない行動、不本意な行動である。しかし、その迫害をする人がそれでも血を分けた自分の親である以上、葛藤するしかない。そんな苦しみにあう聖徒は、日本にたくさん存在している。ほんとうに、そのような不条理をあえてお許しになる神さまのみこころは理解することはとても難しい。私たち教会はただ一緒に、その兄弟姉妹たちと悩みながら、静かに祈るしかない。  それでも付け加えれば、ことみことばに関しては「あなたの父と母を敬え」ということばを律法的に、守り行わなければ祝福されない、呪われる、罰が当たる、などというような命令として、律法的にとらえるべきではない。というのは、やはりこのみことばは大前提として、神の民の共同体における益について語っているからである。  それは、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」ということである。しかしこれは、単なる一代限りの長寿のようにとらえるべきではない。神さまが与えられる土地とは、この地上において神さまが王として統べ治められるあらゆる領域であり、それは教会はもちろん、教会のひと枝ひと枝として私たちが遣わされ、形成する働きに用いられるあらゆる領域を指す。それはクリスチャンホームであるかもしれない。また、クリスチャンとしての共同体であるかもしれない。  そういう場所を神さまが私たちに与えてくださるのは、この地上に私たちをとおして、神さまのご支配を実現してくださるためである。つまり、神の国は私たちがこの地上に実現させていただく。言い換えれば、神の国を実現することは、神さまと人との共同作業であり、その働きが長く続く条件は、神の支配の代理者としての父と母を敬う、その態度を保ち、それにふさわしい言動をすることであるわけである。そうすることで、この地上に神のご支配される神の国は保たれ、また、拡大する。それは私たち一代限りではなく、これからも続いていくことである。  私たちが一代目だとしたら、そのあとに続く人たちを生み、養い育てる。それは肉親としての、法律上の家族とはかぎらない。私たちが伝道して「霊的な子ども」を生み、養い育てるならば、神さまのそのご支配はさらに続く。もちろん、そのような方々に敬っていただけるような霊的生活をすることが肝心である。それはその方々にも祝福が臨むためである。  私たちはこの地上では、父と母を敬うべきと知りながらも、その父母が主にある歩みをしていなかったばかりに、とても敬えず、今に至るまで苦しい思いをしてきたかもしれない。しかし、私たちの人生はこれで終わりではない。私たちは、その過去を主の御手にお委ねし、新たに私たちをキリストにある家族として立て上げてくださる主のみこころにお従いしよう。そして私たちは、特に、もし自分たちが不幸な親子関係の中に生きてきたと思うならなおさら、その分、この世界に主にある愛情に満ちた親の愛が満ち、それによって子どもたちが喜んで父母に従える、そのような平安に世界が満たされるように、ともに祈っていこう。

安息を持つ意味

聖書箇所;出エジプト記20章8節~11節 メッセージ題目;安息を持つ意味  韓国の民俗音楽に、4種類の打楽器を用いた「サムルノリ」というものがある。私が卒業した大学には、このサムルノリや韓国の伝統舞踊に取り組む「西ヶ原ノリマダン」というサークルがあり、私はメンバーではなかったが、メンバーに韓国語を専攻する親しい仲間がたくさんいたので、しょっちゅう部室に出入りしていた。  ある日、その打楽器のひとつ、2本の長いばちで両側からたたく、鼓を大きくしたような楽器、チャングの様子を見た友達が、血相を変えた。聞くと、チャングというものは演奏するときに皮をぴんと張った状態にして、演奏し終わったら元に戻し、皮をゆるめるのだとか。彼女はそのとき、ひとこと言った。「チャングを休ませなきゃ……。」なるほど、ゆるませることは「休ませる」ことなのか、と納得したものだった。  今日のみことばは、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という、十戒の第四の戒め。これまでの三つの戒めが「ほかに神があってはならない」「偶像をつくってはならない」「神の御名をみだりに口にしてはならない」と、「べからず」の内容だったのに対し、この第四戒は「べし」の戒め。  安息日とは何だろうか? まずその起源は、創世記1章、2章にさかのぼる。創世記1章を読めばわかるが、神さまが6日かけて世界をおつくりになったことを聖書は語っている。その次の日、7日目に神さまがなさったこと、それは、なさっていたすべてのわざを休まれた、ということである。そう、休むということ、休みの日を設けるということは、神さまがまずなさったことであることを、聖書は語っている。  神さまが6日で世界を創造され、7日目に休まれた、それを、こんにちも普通に用いている「週」「曜日」というものに適用すると、安息日は「土曜日」ということになる。ただし、聖書の民であるイスラエルは、一日というものを夕方から次の日の夕方までと定めていたため、こんにちの午前12時から次の午前12時までを一日とするやり方とは一致していない。しかしそれでも、11節に語られているとおり、神さまが安息を取られたゆえ、その被造物である人間も安息を取るべきであるという原則は変わらない。  私たちクリスチャンはこの「安息日」にあたる日を、日曜日とし、これを主の日、「主日」と呼ぶ。それは、イエスさまがお墓の中からよみがえったのが、日曜日の朝であり、それ以来クリスチャンは、この日曜日を特に大切にするしるしとして、日曜日を安息日としてきた。そういう立場からすると、日本中で流通するカレンダーがみな、週の初めの日である日曜日を特別に赤い字で記していることが、聖書的にかなっているということができよう。  今日は十戒の語る「安息」また「安息日」というものについて考えたい。この「安息日」というものは、だれにとって大事なのか? それは、主の民の個人個人にとって、また、主の民という共同体にとってである。  私たちは主の民である。しかし、そのような私たちは、この世においてはひとりひとりで活動する存在である。それは、クリスチャンホームの人であっても変わらない。うちの子どもたちも日中身を置いている場所は、まずクリスチャンを見かけない、一般の公立の学校である。みなさまのいらっしゃる場所も、クリスチャンがいるような環境ではないだろう。  そのような私たちは、9節にあるとおりのご命令に従って生きている。「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。」勤労ということは、神さまが人間に命じられたことである。神さまが人間をおつくりになった初め、人間が神さまから与えられたことは「遊び」ではなく「仕事」であった。創世記2章15節、「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」地上の環境を管理する働き、それが人間に与えられた本来の仕事である。  しかし、この仕事というものは、人間が神に背いたことによって、極めて厳しいものとなった。食べてはならないと神さまから厳重に命じられた「善悪の知識の木の実」に手を出した人間に対し、神さまは何とおっしゃっただろうか?「また、人に言われた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。/大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。/あなたは、額に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」  ほんらい、エデンの園を管理することはとても楽しく、やりがいのあることだったはずだ。しかし、いまや人は苦しんで働き、ついには死ぬという、何ともむなしい存在となり果ててしまった。そんな人間が救われる道があるとすればただひとつ、神さまに立ち帰ることだけである。神さまはご自分に立ち帰る者に対し、邪慳にはなさらない。親しく受け入れてくださるお方である。  神の民もそのようにして、神さまに立ち帰るべく選ばれた民である。ゆえに、その民が神の民として生きるうえで必要なことは、神さまの望んでおられる方法で神に立ち帰ることである。それが、安息を持つということ、神さまはその、人が安息を持つ基準として、週7日のうち1日、とお定めになった。それは、創造のわざを6日で行い、7日目に休まれた、神さまご自身にならう者と、人がなるためにである。  しかし、よく考えよう。神さまは7日目には確かに創造のわざをお休みになったが、森羅万象を動かされるというみわざまでお休みになったわけではない。いつも、つねに、働きつづけておられたし、今も休まずに働きつづけておられる、なぜならば、それが創造主だからである。しかるに人には、ご自身に倣って週に6日働き、1日休むことを命じておられる。これはどういうことだろうか? それは、私たち人間が神さまに造られた被造物、土から取られた土の器、極めて壊れやすいもの、という事実を、謙遜に受け入れる必要があるからに他ならない。神さまはお休みにならない全能の創造主であっても、私たち人間はそういうわけにはいかないのである。  というわけで、週に6日働き、1日は休む、というライフスタイルを私たち神の民が実践するとき、私たちはその生き方をもって、自分が被造物、神さまが創造主であるという、謙遜な信仰告白を具体的に実践していることになるのである。その休みの日、安息日は、ガツガツ遊ぶ日ではない。せっかくの休みだからと、元を取ろうとばかりに遊びまくって、かえって疲れて月曜病にでもなったりしたら、何のための安息なのかわからない。しかし、一日かけてじっくり体も心も休めるならば、さらなる働きにリフレッシュして出ていけることになる。  だから、「休む」ということは人間にとって必要なものである。陳腐な言い方かもしれないが、「休むのも仕事のうち」である。また、「休むことができるのがプロ、休まないのはアマチュア」ともいう。たしかに、生産性を上げるために休むことは大切であり、それゆえに社員を働きずくめにさせるような企業は今や「ブラック企業」のレッテルを貼られるような、不名誉な存在となった。そういうことが普通に語られるようになったという点では、いい時代になったといえるのかもしれない。  しかし、そういうことが理想論として語られるからと、現実に社会全体がそれを実践しているわけではない。そういうきつい職場から簡単にもっとよい条件の職場に転職ができないということは、日本の抱える大きな問題であり、私たちもみな、その問題から無縁ではありえない。週に6日働き、1日は休むということは、十戒にもある神さまのご命令だというのに、私たちはなかなか、1日を差し出して休めない。そのことに私たちは後ろめたさを覚えていることだろう。しかし、どうしようもないのが現実ではないだろうか。  そのような中で今日、こうして御前に集まることができた私たちは、いわば神の民の「代表選手」である。  今や社会が、休むことの美徳を説く一方で、休むことも簡単にさせてくれないような厳しさに満ちあふれ、私たちもそんなダブルスタンダードの社会を構成する一員にされているような中、それでもここにいる私たちは、日曜日を主の日として神の御前に出ることが許されている。  このことを当たり前と考えてはならない。世界を見渡してみると、戦争や自然災害のためだったり、キリスト教を認めない政治体制のためだったりという理由で、主日をまともに礼拝の日に充てられない人がいっぱいいる。この日本もいま述べたとおり、仕事のために、あるいは健康上の理由で、また家族の反対に会っていて、日曜日を主日として聖別できないクリスチャンが、それこそいっぱいいる。  そのような中で私たちが、この日を主の日として、礼拝のために御前に出ることができるのは神さまの恵みでなくて何だろうか。この世界に生きている以上、私たちも日曜日に仕事を入れざるをえなかったかもしれないのである。あるいは、もっとほかの事情で礼拝できなかったかもしれないのである。この私も実をいうと昨日、胸が痛みだし、すわ、病気の再発か!? と、病院に行った。結果として何もなかったからよかったが、もし入院なんて事態にでもなったら、礼拝には来られなかったのである。  私たちが日曜日を聖別できていることは、偉いのでも何でもない。日曜日に働かざるを得ない、あるいは、そのほかの諸事情でどうしても来ることのできない兄弟姉妹を代表して招かれている、それゆえに、兄弟姉妹を代表して礼拝をささげる、それくらいの意識が必要ではないだろうか。  そして私たちは、安息を持っているといっても、だらけに来ているのでも、遊びに来ているのではない。神の民として安息を得られるほんとうの場所は、神の御前である。私たちが神の御前ですることは、礼拝である。私たちは神の御前にみことばをいただき、歌い、祈り、聖徒たちと祈りの課題を分かち合い、ともに楽しみ、奉仕する。これらがみな礼拝である。このメッセージの時間からしばらくしたら「祝祷」というものがささげられるが、それでたしかに礼拝が締めくくられはするものの、厳密に言えば礼拝はそれで終わりではない。小学校の校長先生がよく、遠足の帰りの会で「家に帰るまでが遠足です」というのを聞くが、私たちにしても、「家に帰るまでが礼拝です」である。  その「礼拝」というものは、個人、または数人単位の「小さな」ものがあり、それは平日の仕事の合間にささげるものである。QTや聖書通読、お祈りの伴う毎日のディボーション、家庭礼拝、平日の聖書勉強会や祈祷会といったものがこれにあたる。ディボーションなら毎日、小グループなら週1回平日がよい。しかし、教会全体の「大きな」礼拝は、やはり主日なる日曜日にささげてこそである。私たちは主日に、教会という共同体全体として主の御前にリトリートのひとときを持ち、安息を体験する。それだけに、ここに来られない人のためにも覚えて祈ることが大事になる。  最後に、どうしても主日を聖別するのが難しい、なぜならば、日曜日にも普通に働かなければならないからだ、という方のために、ひとことメッセージをお届けしたい。お願いしたいことだが、どうか、私たちのことを主にある共同体と見込んで、祈ってほしいことをシェアしていただきたい。そうすることで、主日に集う共同体の一員として振る舞えていることになる。  また、簡単ではないと思うが、6日間は仕事をし、1日は安息の日として休むようにという、主のみこころにお従いし、どうしても日曜日に仕事をせざるをえなかったならば、平日の1日に休みを取れたら、主の御前に礼拝をささげるようにすることを、心からお勧めする。その日にはぜひ、礼拝をささげていただきたい。そのためにこの教会という環境をしっかり利用していただきたい。私ども夫婦はみなさまの礼拝のために、可能なかぎり動き、ご奉仕する所存である。そうすれば礼拝はひとりきりではなく、少なくとも私ども2人が加わることになり、礼拝は公のものとなる。どうか、ともにそういう共同体となれるように、お互いのために祈っていこう。  では、ともに感謝の祈りをおささげしよう。今日、こうして私たちが御前に出ることができることに、心から感謝しよう。そして、ひとりでも多くの兄弟姉妹が主日を聖別して礼拝をささげることができるようにお祈りしよう。

御名をみだりに口にするとは

聖書箇所;出エジプト記20章7節 メッセージ題目;御名をみだりに口にするとは  アメリカにはいろいろなスラングがあって、日本人などにも、アメリカ人の真似をして、粋がって使いたがる人がいる。あまりいろいろ挙げるのは礼拝メッセージの時間にふさわしくないから詳しくは言わないが、神さまに関するものもいくつかある。そのなかに(ごめんなさい、ここだけはあえて口にします)、「オーマイガー」というものがあるのをご存じだろう。言うまでもなく「なんてこった!」という意味で、略して「OMG」と言ったりする。  しかし、クリスチャンの場合は、同じ「OMG」でも、「オー・マイ・グッドネス」というのが常である。「グッドネス」とは、「よいこと」という意味であるが、究極の「よいお方」である神さまのことを暗に指すことばでもある。こういう言い方をすることによって、「ゴッド」と直接口にすることを避ける。  その背景にあるのは、この出エジプト記20章7節、十戒の第三戒のいましめである。「なんてこった!」という俗っぽいことを口にするのに、畏れ多くも「ゴッド」はないだろう、というわけである。このように、やたらと神さまの御名を口にしないことは、旧約のむかしからイスラエルの間で行われていたことで、子音の文字だけが書かれている聖書を読むとき、「YHWH」という4文字、すなわち「神」を意味する4文字に差し掛かったら、朗読する人は口を閉ざし、次の単語からまた読み直す。  そうしているうちに、「YHWH」の読み方が失われ、この「YHWH」は「神聖四文字」と呼ばれるようになった。しかし、まったく音読しないわけにはいかないので、この四文字に、「主」を意味する「アドナイ」の母音を当て、「ヤホワ」と読むようになった。これは日本式に言えば「エホバ」であり、現在も流通している「文語訳聖書」ではこの「YHWH」の部分、新改訳聖書では太い字で「主」と書いてある部分に「エホバ」の呼び名が当てられている。しかし、これとて正確な呼び名ではなく、研究の結果、これはおそらく「ヤハウェ」と読んだのだろうということになっている。しかし、神さまのことを「ヤハウェさま」とはあまり言わない。私も言わない。  こういうことの根拠になっているのがこの第三戒のみことばだが、第三戒が意味することは、単なる「YHWH」を発音しない、なぜなら、神の御名は聖だからだ、というレベルにとどまるものではない。神の御名がみだりに唱えられるべきではない聖なるものだ、ということには、もっといろいろな意味がある。  そのことについてご説明する前に、「名前」というものについてもう少し見てから、3つのポイントに移って学びたいと思う。「名は体を表す」ということわざがあるが、聖書の世界においては特にそうである。「アブラハム」といえば、「多くの国民の父」という意味があり、その名のとおり、信仰をもって神の子となった、数えきれないほど多くの人の「信仰の父」となった。「モーセ」は「引き出す」、ナイル川の岸辺から引き出され、エジプトからイスラエルを引き出す人となった。「イエス」は「神は救い」、言うまでもなく救い主、救いの神、また、救いを与える父なる神へと導き、救ってくださるお方。そして「YHWH」は、「生成する、○○である」という意味があるといわれ、そうすると、創造主、絶対的に存在する永遠の主権者、ということになる。  そういう「名前」は人格的な存在として扱われるべきものである。日本では、名字だけで呼ぶ、呼び捨てで呼んでいいのは、スポーツ選手や芸能人のような有名人くらいのものだが、それとて本人を前にしたら、呼び捨てで呼ぶわけにはいかない。名前を尊重することは礼儀だというだけではなく、その人そのものを大切にすることだからと言えるだろう。  そのような「名前」を「その人そのもの」として用いる究極の形、それは「お祈り」である。私たちは「イエスさまのお名前によって」お祈りする。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、イエスさまこそが、父なる神さまに人が至るための唯一の道だからである。  ほかの名前を使ってはいけない。「主の御名によって」ならいいが、「神さまの御名によって」とは言わないし、「天のお父様の御名によって」とか「聖霊さまの御名によって」などと祈ったらアウトである。「イエスさまの御名によって」が正しい。  そういうわけで、「神の御名」とは、「神さまご自身」を象徴するもの、と言えよう。そう考えると、「YHWH」を発音しないうちにほんとうの読み方がわからなくなった、ということは、ナンセンスどころか、一理あるとさえ言えてくるかもしれない。つまり、まるでそれは、神さまが目に見える存在ではないように、口にできる存在ではない、と言えるのかもしれない、ということである。  では、3つのポイントを見てみよう。第一に、神の御名をみだりに口にするとは、「神が聖なる存在であることを引き下げる行動」である。  具体的にいえば、「YHWH」を発音しなくなったいきさつや、アメリカで「オー・マイ・グッドネス」というようになったことなど、罪深くも汚らわしい人間が、聖なる神の御名を口にするなら、それは神への冒瀆だ、ということが含まれるだろう。それも確かにそうである。しかし、神が聖なる存在であることを引き下げることは、それにとどまらない。もっと深刻な問題である。  それは、「神の民」を名乗る人の生き方に現れる問題である。聖書を読むと、きよい神の民であるはずのイスラエルが、どんなにひどいことを考え、ひどいことを口走り、ひどい行いをしていたかが、これでもか、これでもか、と書かれている。そんな彼らイスラエルはしかし、創造主なる神さまの民、きよい神さまの民として生きることが、民としての変わらぬ旗印、究極のアイデンティティではなかったか。しかし、彼らは悪い行いで神を否定して恥じるところがなかった。  そんな彼らはしかし、形式的な宗教生活の中で、相変わらず神の御名を唱えることをしていたのであった。さらには、イエスさまを十字架につけた宗教指導者たち。彼らは、自分たちこそは純粋に神さまを礼拝し、神さまの御名を呼ばわっていた者たちだという自負心があったことだろう。だが彼らのやったことは、神の御子イエスさまを十字架送りにしたことだった。そんな彼らはいくら熱心に神の御名を唱えてみたところで、神は彼らの呼ぶ声を、ご自身の御名をみだりに唱える声としか見なしてくださらなかった。  現代においても同じことが行われている。異端などまさしくそれで、彼らは自分たちこそが神に対して純粋かつ熱心な群れ、この世に存在するキリスト教会はみな間違いと言わんばかりだが、実は彼らの口にする神の御名は、神とは似ても似つかないものの名前である。彼らについて行くならば、その人には救いは一切ありえない。だから私たちは、異端というものを警戒しなければならないのである。間違っても彼らのことを、キリスト教の一派とか、主にある兄弟とか見なしてはならない。  しかし、異端だけだろうか? 異端とよく似た反社会的な、キリスト教会を標榜する集団がある。いわゆる「カルト」である。詳しくは言わないが、教会を名乗っていても実はとんでもないことをしている団体は日本のいたるところに存在し、そこではパワハラやセクハラが横行し、いくつかの教会の不祥事はマスコミで報道された。こうして世間的に、だからキリスト教は怖い、などという、とんでもないメッセージが送られるに至った。そんな彼らは確かに正統の教義を持ち、少なくとも信仰告白という点では問題がないように見えた。それに、神の御名を呼び求めていたという点では模範的にさえ見えた。だが、彼らの礼拝や伝道や交わりは、ほんとうのところは、神の御名をみだりに口にしていたことにしかならなかったと言えよう。  しかしである。人様を批判する私たちもまた、神の御名をみだりに口にするあやまちを犯すものであることを心に留める必要がある。私たちがもし、「どうせどんな罪を犯していても自分はイエスさまの十字架によって赦されている」とばかりに、自分勝手な考えや態度や言動を悔い改めなかったとしたらどうだろうか? そういう人が神の御前に祈ってみたところで、それは「神の御名をみだりに口にする」ことにしかなっていないのではないだろうか?  だから、「神の御名をみだりに口にする」ということは、「私はクリスチャンとして、『なんてこった!』というときに『オー・マイ・グッドネス!』と言っているから問題ない」とか、そういう次元の問題ではないのである。私たちの生き方で神さまがそしられているのに、何食わぬ顔で神さまを礼拝するようでは、それは「神の御名をみだりに口にする」ことになる。まさしく、テトスが相手をしていた、クレタ人のクリスチャンたちのようである。パウロは彼らに対し、テトスへの手紙1章16節にあるとおり、実に辛辣きわまる評価を下しているが、私たちもこのことばのような評価を神さまから下されることのないように、口先だけの敬虔さではなく、行いにおいて、神さまを証しする生活ができるようになってまいりたい。  第二に、神の御名をみだりに口にするとは、ふさわしい神礼拝のあり方を逸脱した方法で神を礼拝するという行動である。  具体的なことはイエスさまがいくつか語っておられる。それらはおもに、マタイの福音書5章から7章に記された「山上の垂訓」にあらわれているが、その中でも6章、わざわざ人前で、人に褒めてもらえるように敬虔ななりをすることはいけない、と語っておられる。そう言うようにして御名を語るならば、それは神の御名をみだりに唱えることになるだろう。  たとえば断食の祈り。「断食」するやつれた顔を人前にさらして、「さすが、敬虔なクリスチャン!」とほめてもらうようでは、それは、「みだりに御名を口にする」ことである。断食して苦しい中だからより神さまに聞いていただける、とか、そういう問題ではない。それは所詮、肉を満足させる苦行であり、そうして御名を呼び求めたところで、「みだりに御名を口にする」ことにしかならない。神さまがもし人を断食に導かれるとしたら、それは食事ものどを通らない、食べて楽しむどころではない、というくらい祈りに打ちこまなければならないと思うようにされるときであり、そうなったら人はどんなに周りが止めても、断食をするだろう。そういう、神さまとの関係の中で行うものではない、パフォーマンスの断食は、御名をみだりに口にすることに通じる。  またイエスさまは、同じことばをただ繰り返して祈ってはならない、ともおっしゃった。ことば数が多ければ聴かれる、と思うのは、異邦人的な発想、つまり、神の民にふさわしくない発想である、と。そう、日本でもお経や題目を繰り返したり、繰り返し寺社にわざわざ足を運んで参拝したりすることでご利益がある、願いが叶う、ということが常識になっていて、そういう行動をちゃんと続けられている人は「偉い」と評価される。  しかし、まことの神さまはそういうお方ではない。私たちは親を呼ぶとき、「おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん……」などと延々呼ぶ必要はないし、また、そう呼んだら何が言いたいか、何を伝えたいか、いよいよわからなくなるから、そう呼んではいけない。お母さんだって怒るだろう。神さまも、私たちの父なるお方である以上、そのように御名を繰り返す呼び方をしてはいけない。それは「みだりに御名を口にする」ことである。  20年ほど前、歴代誌第一4章10節のみことばをもとに、「ヤベツの祈り」というものがキリスト教会に流行した。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください」という、ヤベツが祈ったというこの単純かつ意味の深い祈りは、それを何度も繰り返すように祈ることが奨励されたりもしたが、もしこれを何の考えもなく祈るならば、やはり「みだりに御名を口にすること」にも通じる。  イエスさまはそれで、こう祈りなさいと「主の祈り」をお示しになった。神さまの御名がほめたたえられることを第一に求めるこの祈りからしたら、私たちは何と、欲にまみれた祈りばかりささげていることだろうか。まさしく、私たちの祈りは「神の御名をみだりに口にする」もの、すなわち、「肉を満足させるために神さまのご主権を利用することもいとわない」傲慢なものでしかないか、よく考える必要がある。  いかがだろうか? このようなことを私たちはしていないだろうか? この戒めのみことばは、「御名をみだりに口にする者を主は罰せずにはおかない」と語っている。実に怖ろしい。  だとすると、私たちはみな、すべからく神の罰を受けるべき存在ということになりはしないか? しかし、この罰はイエスさまが十字架の上で受けてくださったことこそ、私たちが第一に思い起こすべきことである。私たち、神以外のものを神としてしまうような者、神を神としないような者、それゆえにむさぼりという偶像をつくり、それに肉の欲を用いてしまうような者、その肉の欲がかなえられるように、神さまの御名さえも用いてしまうようなピントの外れた罪人……そのような者の罪は、イエスさまの十字架の上にくぎづけにされた。  私たちは、神の御名をみだりに口にする、肉的な罪人であることを、ふさわしくない形で礼拝をささげたつもりになっているようなものであることを、今こそ認めて悔い改めよう。主は必ず、私たちの罪を赦し、神さまのみこころにかなう礼拝者として整えてくださる。  しかし、私たちはそうなると、考えてしまうかもしれない。いったい、「神の御名をみだりに口にしない」ものになるにはどうすればいいのだろうか? そこで第三のポイントである。神の御名をみだりに口にするかどうかは、神さまと自分との関係性で決まる。単純に言えば、神さまとの交わりがあるかないかで決まる。  ここまで見てきた、神の御名をみだりに口にするケースは、いずれも「神さまとの交わりがまともに成立していない」から起こっていることである。神さまとの交わりがない状態でも、人は「宗教的」な仮面をかぶり、いかにも自分が敬虔な神の民であるようにごまかすことなど、いくらでもできる。しかし、神さまと自分との関係ができていて、その中で神さまとの交わりを保っているならば、このような、みこころにかなっていない神さまの呼ばわり方など、とてもできないものである。  神さまと交わりを持とうと努める人は、神さまがいちばん大切なこととして私たちにお語りになった教え、聖書のみことばに日々教えられることを大切にする。そして、聖霊の交わりがつねに生活にあるように、お祈りすることを大切にする。しかし、その根底にあるものは、神を神とする、神を恐れる態度である。しかし、同時にこの恐れるべきお方、神さまの前に、大胆に出ていくことができるようにしてくださった、イエスさまの十字架に日々感謝する態度もまた、私たちの大切にすべきことである。  このことを考えるヒントとして、きわめて胸の痛むケースをお語りしたい。もう亡くなられた方だが、私には神学生時代の恩師にあたる牧師がいる。韓国のキリスト教会で、その名前を知らない人はいないほどの先生である。  この先生はとても大きな教会を牧会しておられた関係で、その影響のもとにあった信徒は数知れず、また、その先生から牧会の手ほどきを受けた副牧師はやがて韓国全土や海外に散り、それぞれの地で実に聖書的かつ健康な教会を立てておられ、この先生が生涯大切にされた、主の弟子として整えられつつ歩むことの喜びは、多くの信徒たちの生活の中で実践されている。素晴らしいことである。  しかし、この先生の息子のことにも触れなければならない。彼はとても頭がいい人で、ベストセラー作家でもある。彼は間違いなく、父親であるこの先生に愛されたし、またおそらく、この偉大な先生の息子として、信徒たちや副牧師たちにことのほか愛されただろう。だが、彼は今どんな人になっているか? キリスト教会、そしてその根底にある、聖書の語る福音を否定する人になった。それどころか、そのような反キリスト的な教えを韓国中に広めるインフルエンサーになってしまった。今や韓国でたいへんな影響力を持つ人になり、彼に扇動されて信仰をなくす人も現れ、大勢の韓国人クリスチャンの中に及んでいる悪影響は計り知れないものがある。  しかし、彼がこれだけの有名人になれたのは、あの偉大な牧師が父親であったから、以外の何ものでもない。あの先生の愛息の語ることだから聴かなければ、という動機で彼の言うことを聴いた人はとても多かったはずである。  私も彼の著書を5冊ほど買ったが、その最大の理由は、彼がすばらしい人だからということ以上に、まさに父上が私の恩師だったからである。たしかに、それらの本を読めば、彼は説得力にあふれた語り方をする頭のいい人ということはわかる。しかし彼は、そういう偉大な父親を持たなければ、まともなクリスチャンならば相手にしないような話をしているだけの人である。  不肖の息子、ということばがあるが、彼などまさにそうだろう。彼は、父親のもっとも大切にしている福音、キリストの弟子として歩む生き方を、一切受け継がなかった。しかし、その牧師先生がそんな息子を持ったからだめな人だったと評価するようなクリスチャンは、まともな人ならばいない。それは、ダビデがアムノンやアブサロム、アドニヤのような悪い息子たちがいても、なおみこころにかなっているのと同じことである。実際、この先生を生涯尊敬し、この先生が大切にしておられたように、主の弟子として整えられることに励むクリスチャンは、韓国中に、そして世界のいたるところにおられ、そういう方々が健康な教会を日々形づくっている。私も足りないながら、その先生に少しでもあやかろうという精神で、日々歩み、取り組むものである。とにかく、この先生が今なお及ぼしているよい影響は、この息子の及ぼしている悪い影響とは、比べ物にならないほど大きい。この息子と、韓国と世界にいる、この先生の霊的影響力のもとにあるクリスチャンたちと、どちらがその先生の名前を公に口にすることがふさわしいか、言うまでもないだろう。  私たちにとって、神さまの御名をみだりに口にするかどうかも、これと同じこと。神さまが大切にしておられるみこころを無視して生きる者の礼拝など、神の御名をみだりに口にすること以上のものではない。しかしそうではなく、神さまを心から愛し、そのみこころに喜んで従順に従いたいと切に願う者の礼拝は、神さまが喜んで受け入れてくださる。その、神さまに受け入れられるにふさわしい礼拝をささげることは、人として最高の喜び、そして祝福である。その礼拝をささげることも、恵みによる。恵みを求めて祈ろう。神さまはこの祈りを、みだりに呼ばわる声どころか、ご自身に対する真剣な声として、大いに喜んで受け入れてくださると信じ感謝して、お祈りしよう。

「赦し」

聖書箇所;エペソ人への手紙4章30節~32節 メッセージ題目;「赦し」 メッセンジャー;キム・サムエル牧師(クァンミョン教会副牧師)  シャローム! お会いできてうれしいです。  샬롬 반갑습니다.  私は、韓国の議政府(ウィジョンブ)にある光明(クァンミョン)教会から日本に派遣された祈祷宣教チームのリーダーを拝命しております、キム・サムエルと申します。私とともに、8人からなるチームがともに来日しました。いま特別賛美をおささげした、お美しい姉妹たちです。 저는 대한민국 의정부에 있는 광명교회에서 온 기도팀의 팀장을 맡고 있는 김삼열 목사라고 합니다. 저와 함께 8명의 기도팀이 함께 왔습니다. 방금 특송한 아름다운 자매님들이십니다.  私どものチームは、神さまの全面的な恵みとお導きのうちに、こちら水戸第一聖書バプテスト教会に到着し、一週間にわたって教会と水戸市内にて、茨城のために熱くお祈りしました。 저희 팀들은 하나님의 전적인 은혜와 인도하심 가운데 이곳 미토제일성서침례교회에 도착하여 한 주간 교회와 미토시 나아가 이바라키현을 위해 간절히 기도했습니다.  私どものことをみなさまの教会までお導きくださり、聖霊を注いでくださり、お祈りさせてくださった神さまに、感謝と賛美をおささげします。 저희들을 이곳 교회까지 인도해주시고…

偶像礼拝とは自分可愛さの罪

聖書箇所;出エジプト記20章1節~4節メッセージ題目;「偶像礼拝とは自分可愛さの罪」  先週から始まった十戒の学び、今日は第二戒である。 茨城は巨大な像があちこちに存在する。水戸常澄のダイダラボウ、水戸内原のハニワ、石岡の獅子頭、そして何といっても、牛久の仏像。いずれも、桁外れに大きい像である。これらの巨大な像は礼拝の対象であったり、なかったりする。しかし、いずれの像も極めて霊的な意味を持っているのはたしかで、そういう意味ではこの第二戒で戒められている、つくることも拝むことも神の民には禁じられている、偶像に分類できよう。そう考えると、茨城観光にやってくるようなお客さんのことは、あんまりお連れしたくないような場所である。 先週のメッセージで、ほかに神がいてはならないはずのイスラエル民族が、その律法が与えられてほとんど時間が経たないうちに、金の子牛の像をつくってそれをこぞって拝んだ、神の民にしてそうだったのである、という内容のことをお語りした。では、そんな私たちには、偶像はないのだろうか? 私たちはつい、偶像というと、神社仏閣や新興宗教の施設にお参りするイメージを思い浮かべ、いや、自分はそんなことなどしていないから大丈夫だ、などと思ったりしていないだろうか? そんな私たちは、偶像とは何か、そして、この第二戒で戒められている、自分のために偶像を造ってはならないとはどういうことかを知る必要がある。以下、見てまいりたい。 第一に、第二戒は、「いわゆる宗教行為としての偶像礼拝」のために偶像を造ってはならない、という意味である。 これはさきほども述べたとおり。現在私たちはマクチェイン式聖書通読で、列王記第一を読んでいるが、南北に分裂したイスラエルの、北イスラエル王国は、金の子牛を拝ませた。出エジプトの途上で起こった忌まわしいことをそっくりそのまま再現したわけである。さらに時代が下ると、アハブ王の時代になって、バアル、アシェラといった偶像神が礼拝される時代になる。 金の子牛にせよ、バアルやアシェラにせよ、唯一神なる神の民であるイスラエルにはありえない存在、あってはならない存在である。しかし、現実にイスラエルにそういうものが存在し、そういうものが礼拝の対象になっているということは、とかく神さまから離れたいと願う人間の罪の性質が、神さまから離れるという悪い行いを、偶像の神々をつくり、またそれを拝むということをもって表現する、ということであるといえるだろう。 しかし、当時のイスラエルの民にとってはどうだったか。金の子牛にせよ、バアルやアシェラにせよ、国の政策で民がこぞって礼拝するように仕向けられていた存在であった。その点ではそういう国策を敷いていた王にいちばんの責任があり、列王記を読み進めていくうちに登場する様々な王の紹介に、「彼は主の目の前に悪を行い」と書かれ、国を挙げての偶像礼拝の責任が王にあることを明らかにしているのだが、それなら民は仕方なかったと免罪されるのか。そうではない。民もまた、偶像礼拝をしたものとして神のお取り扱いを受けるべき存在となるわけである。 これはとても厳しいことかもしれない。しかし、アハブが政策としてバアルとアシェラを礼拝するようにさせていた暗黒時代、預言者エリヤのほかに主のしもべはいなかったようでも、神を恐れる侍従オバデヤのような人物はいたし、バアルにひざをかがめることをしない7000人の人が残されていた。民は、偶像礼拝は仕方がない、と言い訳する余地はなかったといえる。 これに酷似した歴史は日本や朝鮮半島もかつてたどっていた。日本はかつて、国家神道の国策が敷かれていて、それは太平洋戦争に敗れ、GHQの支配下に入るまで続いたが、その国家神道の政策は朝鮮半島でも強要された。朝鮮半島は当時、あらゆる政治結社が解散させられていた中で、キリスト教会をはじめ宗教団体は辛うじて存続していたが、やがて、国家神道に従うことはキリスト教会にも強要されることになった。 現代において、こうして守られて礼拝をささげている私たちからしたら信じられない話なのだが、礼拝の前に東方遥拝、すなわち皇居のほうを向いて拝礼し、それからようやく、まことの神さまを礼拝するのである。これが偶像礼拝でなくて何であろうか。そして、当然のように神社を参拝させられた。しかし、この国家的な流れを断固として拒否した牧師や長老がいた。彼らは投獄され、牧師と長老合わせ58人が殉教したと伝えられる。神を神とするとはそういうことである。 しかし、戦時中の日本の教会はほぼ例外なく、神棚を礼拝堂に飾り、それに拝礼することを常としていた。これを私たちはどう考えるべきだろうか? 生き残るために仕方がなかったから、と考えるべきだろうか?  それならそれで、何のために生き残ろうとしたのだろうか? 神の栄光のためだろうか? では、そうすることでなぜ神の栄光が現れるのか、と問われると、どう答えるべきだろうか? 所詮は、自分のために偶像を造り、生き残ることを画策したに過ぎなかったのではないだろうか? しかし、自分のために偶像を造るという行為、それを拝むという行為は、当時の日本だけではない。現代の日本に生きる私たちにとっても大きな課題である。家々に仏壇や神棚が当たり前に存在するのがこの日本という国である。それを当たり前に拝み、家族の命日やお盆やお彼岸には墓参りをして、お線香をあげて手を合わせるのがこの日本という国の常識である。親族や知人が亡くなったら、お線香をあげに訪問するのが日本という国の常識である。そして……だれかが亡くなるという厳かなとき、仏式の葬儀ではお焼香をし、神道の葬儀では真榊をささげることもする。 こういうことを、クリスチャンでありながら行うということは、何を意味するだろうか? いや、自分はこういう行為をしているけれども、心の中では神さまにお祈りしているから大丈夫です、とでもいうのだろうか?  こういうケースで好んで引用されるみことばが、神を信じたアラムのナアマン将軍がエリシャに対し、自分の主君である王の偶像礼拝を手伝うことをお許しいただきたい、と申し出、エリシャがそれを許可した、という箇所である。エリシャが大いなるみわざのなされたナアマンにそれを許したのだから、私たちも偶像礼拝をせざるを得ないときは、しても許される、と。 しかし、これは主がその民に偶像を礼拝を許容されることもある、ということの根拠にはまったくならない。その時代にあってイスラエル民族以外に、それもイスラエルの敵に対してみわざが行われたということは限定的、例外的なことであり、神さまはなにも、ナアマン将軍をとおしてアラムにリバイバルを起こすことがみこころだったわけではない。アラムが神の民イスラエルの敵国でありつづけることは、神さまのみこころでさえあり、すなわちこの民をイスラエルにもまして祝福されるということは、少なくとも神さまのみこころではなかった。この日本における証し人として召されている私たちとナアマンとでは、状況が全く異なるのである。 

ほかに神はいない私たち

聖書箇所;出エジプト記20章1節~3節 メッセージ題目;ほかに神はいない私たち  今日はこのメッセージのあとで、バプテスマを控えている。新たに神の民として公式的なスタートを切られる姉妹に向けたメッセージとして、今日のメッセージを用意させていただいた。  むかしのアメリカの映画で「十戒」というものがある。1956年の作品で、チャールトン・ヘストン主演。聖書が今よりもずっと尊重されていた、古き良きアメリカを象徴する映画。イスラエルの民がエジプトの圧政から救い出され、荒野に導き出され、シナイ山にて神さまと契約を結ぶ、という、出エジプト記の記述を映像化したものである。特撮の歴史に残る作品でもあり、イスラエルの民の目の前で、紅海が真っ二つに割れるシーンが特に有名。なお、なぜか日本ではこの主人公の名が「モー『ゼ』」となっているが、もちろん正しくは「モー『セ』」。一般的な日本人がとかく「モー『ゼ』」と言ってしまうのは、なんとかしてほしいところだが、この映画の日本語版のせいと言えなくもないだろう。  この作品の題名、私たちだったらなんとつけるだろうか? つい「出エジプト」と名づけてしまうかもしれない。しかし、実際には「十戒」とつけられた。実に意味のある題名となった。この作品のタイトルが「出エジプト」ではなく、「十戒」であったことは、聖書になじみのない日本人にとっても、「十戒」という聖書の教えがどれほど大事か、ということを強く印象づける役割を果たしたといえ、それはすばらしいことだった。この十戒とは、聖書66巻のもっとも基礎になるものであり、この十戒の教えによって教えられることにより、私たちは神の民としてふさわしく歩むことができる。  今日はまず、姉妹のバプテスマをお祝いする意味も込めて、第一戒から学ぶ。今年いっぱいで第十戒まで学べるので、しっかり予習してきていただきたい。少なくとも、聖書に書かれている、十戒全体をつねに読んでいただきたい。  第一戒。あなたがたは、わたし以外に、ほかの神があってはならない。  あの、チャールトン・ヘストンの映画が、「十戒」であることを日本人は知ったわけで、それなら「十戒」には何が書いてあるのだろうか、と興味を持って読んだら、その第一戒がこれ、ということで、八百万の神々の風土に生きる日本人は、そりゃないよ、と思うだろうか? しかし、ここは、なぜ神さまは「わたし以外、ほかの神があってはならない」とおっしゃったのか、そしてなぜ彼らは、そのように命じられなければならなかったのか、それをちゃんと押さえておかないと、神さまは悪い独裁者であるかのように大きく誤解をしてしまう。  このご命令、戒めは、先行するあらゆる聖書の記述が前提となる。まず、神さまがこの世界をおつくりになったこと。そして、神さまにお従いする民として、セツの子孫が増えていったこと。しかし、地上には悪が増大し、唯一ノアだけがその中で神さまのみこころにかなっていたので、ノアとその家族だけを全地球規模の滅びから救ってくださったこと。そして時が下り、神さまはアブラハムと契約を結ばれ、アブラハム、その子のイサク、その子のヤコブの神となられたこと。ヤコブとはイスラエルという名前が与えられた人であり、ヤコブの子孫たちはイスラエル民族、神さまはアブラハム、イサク、ヤコブの神であられるゆえ、イスラエル民族がもろとも、神さまの民として神さまの契約の中にある形になる。  そのイスラエルが異国の地で苦しむが、やがてもろとも救われることは、神さまがアブラハムにすでに約束してくださったことろであった。はるか昔に与えられた預言、それが時至って、出エジプトという形で成し遂げられた。時にイスラエル民族は、エジプトの地で奴隷生活を強いられ、ものすごい苦しみにあっていた。しかし民がその神に叫び求める祈りをおささげすると、神さまはその祈りを聴き届けてくださり、指導者モーセを不思議なようにして立ててくださった。  そしてモーセの導きのもと、エジプトには十種類のすさまじい災いが下され、根負けしたファラオはイスラエル民族を国から追放した。しかし、いざ追放して彼らが国からいなくなってみると、ファラオはまたもや考えを変えた。軍隊を派遣して、イスラエルを取り返しにかかった。目の前は広い海、紅海、後ろにはエジプト軍が迫るという、この危機的な状況の中で、神さまは紅海を真っ二つに分けられ、全イスラエルを通らされた。しかし、あとを追ってきたエジプト軍の上には、道の両側にそそり立つ水の壁が襲いかかり、ひとりとして残らなかった。  このようにして、この20章2節にあるとおり、神さまは、イスラエルをエジプトの地、奴隷の家から導き出した彼らの神、主としてのご栄光をあらわされたのであった。そう、彼らが苦しみと悲惨の中にあったとき、神さまがお救いになった。「だから」、わたしの言うことにとどまりなさい、というわけである。これは、神さまの親心にも似た愛である。  ほんとうに愛する子どもだったら、勝手なことは許さないだろう。それは親としての沽券にかかわるからではない。つまり、「親の顔が見たい」なんて人から侮辱されたくないから、ではない。子どもが子どもらしく、ちゃんとなるためである。夜ふかししたり、スマホばかりやったり、おいしくても栄養のない食べ物でおなかをいっぱいにしたりということを許さないのは、子どもが憎いからではない。かわいいからである。神さまもそう。ご自身の子どもがきちんとなることが、神さまにとって最高の喜びである。救われている以上、罪の奴隷になっていてはならないのである。  私たちもそうである。私たちはイスラエル民族ではないが、神さまの一方的なあわれみによって、神さまの子どもとなる契約を、イエスさまを信じる信仰によって与えていただいた、という点では同じである。私たちクリスチャンも契約を結び、神の民にしていただいた。  だから、2節のみことばは、地理的、歴史的な古代エジプトではないにせよ、古代エジプトがイスラエルのことを、神さまのことをまともに礼拝させないような奴隷状態、苦役にあえぐような奴隷状態に留め置いたように、私たちのことを、神なくて、罪の奴隷であった奴隷状態から、神さまが救い出してくださり、私たちはイエスさまを信じる信仰が与えられ、自由といのちを与えていただいた、という点で、私たちにも適用できる。  そういうわけで、十戒が与えられる大前提は、「救い」である。だから、そもそも、イエスさまを信じていなくて、したがって神さまの「救い」とは何かということなどまったく知らない、わからない人が、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」と言われれば反発心を覚えるのは当然である。  しかし、神さまによって救っていただいた人ならばどうか? 救っていただく前の自分の悲惨さ、それも絶望的な悲惨さを思い、そこから救ってくださったことへの感謝があってしかるべきである。神さま、こんな私のことを救ってくださり、ありがとうございます。私はこれからの人生、聖書のみことばに書いてあるとおりに、あなたさまにお従いします。そうなってこそしかるべきである。  この、神さまというお方は、ただひとり、イエスさまというお方、神の御子によって解き明かされたお方である。その解き明かしの集大成が、聖書のみことばである。だから、聖書のみことばをお読みすれば、この目に見えないまことの神さまに、どのようにお従いすべきかということがわかるようになっている。  その神さまは、天地万物をおつくりになった創造主であり、また、イエス・キリストの父なるお方である。このお方以外に神はいない。それは事実であるが、世の中の人々は、このお方以外にも神がいるかのように信じ、また振る舞っている。現代の日本に至っては、何やら素晴らしく見える人やものに至るまでも「神」と呼んではばからない。汎神論、ここに極まれり、といった感じだが、私たちはだれが何と言おうとも、創造主なる唯一の神さま以外のものは、すべて限りある被造物である、という信仰告白を曲げない生き方をするように召されている。  3節の表現にもう少し注目しよう。わたしのほかに神はない、とは言っていない。「あなたには」と言って、「あってはならない」と言っている。つまり、神さまと私たちひとりひとりの関係の中で、わたしは「あなたにとって」ただひとりの神なのだよ、「あなたには」ほかに神はいてはならないんだからね、と語っておられるわけである。  それゆえ、私たちは、生きているかぎり、つねに自分の目の前に唯一の神さまをお迎えする生き方を徹底する必要がある。何といっても、このような戒めが与えられて間もなくというタイミングで、早くもイスラエルの民は、自分たちを導き出した神だ、といって、金の子牛の像を刻んでそれに礼拝する、という、たいへんな罪を犯している。神さまの御手によって数々の奇跡を体験しながら救いを味わった彼らにしてそうだったのである。そう、神ならぬものを神とするという態度は、私たちのうちにつねにあるものである。私たちはそれを絶えず警戒しなければならない。  そのような、神ならぬものを神とする態度の種とでもいうべきものは、私たちの中に絶えずある。私たちがもし、自分のお金や時間や人生の関心を、まことの神さまにつかえるためよりも、もっと別のものに用いがちだったならば、それは「ほかの神」が私たちの中にあるせいかもしれない。音楽、遊び、グルメといった趣味が、それこそ「神」になってしまっているのである。あるいは、人前で自分がクリスチャンであるように振る舞わない、振る舞えないとしたら、その理由はもしかして、イエスさまを信じていることが周りにばれたら恥ずかしい、と思っているからではないだろうか? そうだとすると、私たちは周りの人たちのことを、神さまよりも大事にしている、言い換えれば、「世間様」という「神」に仕えていることになる。  しかし、いちばん警戒しなければならない「神」は「自分自身」である。自分が好きなように振る舞う。神さまを無視して自分のことばかり考える。そうなると、神さまのみこころは行えなくなる。自己中心。それが「罪」の究極の形である。しかし、神さまは私たちがそのような存在であることをすべてご存じの上、ひとり子イエスさまという完璧なささげ物によって、私たちを罪から贖いだしてくださった。救われるために、私たちはそれに何かつけ加える必要はない。ただ、信じればいいのである。  今日、バプテスマをお受けになる姉妹は、ただ、イエスさまの十字架の贖いを信じる信仰により、救われ、神さまの子どもにしていただく契約を結んだ、大事な私たちの家族でいらっしゃる。姉妹にとって、神さまのほかに神はないように、私たちにとっても、神さまのほかに神はない。私たちはともに、神さまのほかに神はない歩みをしていくように、励まし合っていく、大事な存在とされている。今日のバプテスマをお祝いし、私たちがひとつ家族にしていただいていることに感謝しよう。

教会は癒やしの共同体

聖書箇所;ヤコブの手紙5章13節~20節 メッセージ題目;「教会は癒やしの共同体」  ヤコブの手紙の学びも今日で最後となった。私たちはここまで、信仰とは行いあってこそということを学んできた。さて、その行いが、教会という共同体の中では、どのように実が結ばれるものだろうか? 今日の箇所をお読みするとまず、祈り、そして賛美をおささげすることに始まっていることがわかる。  13節。私たちの間で苦しんでいない人などひとりもいない。自分は何も苦しんでいない、という人がいるかもしれないが、そういう人もどこかで苦しんでいるものである。そのように、私たちはみな苦しんでいる。しかし私たちクリスチャンは神の子どもたちである。私たちが苦しむ姿を見つめてくださっている天の父なる神さまが私たちにはおられる。私たちが神さまに叫び求めるならば、神さまはその叫びに耳を傾けてくださり、必ず応えてくださる。  とはいえ、この叫び求める祈りを予想外に長くささげなければならない時も、私たちにはあるかもしれない。イエスさまはおっしゃっている。求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。しかし、このみことばは、求めつづけなさい、探しつづけなさい、門をたたきつづけなさい、という意味なのはみなさまご存知だろう。とすると、この苦しみから解放してください、というお祈りも、応えられるまでずっと、ずっと、ささげなければならない、ということも起こってくるかもしれない。  しかし、ここは神さまの愛を信頼していただきたい。このように、神さまは必ず祈りを聞いてくださるという信仰は忍耐を生み、その忍耐を完全に働かせると、私たちは何ひとつ欠けたところのない人として成長させていただけると、みことばは約束している。ここは忍耐して祈ろうではないか。  さて、そのようにして祈りが聞かれ、苦しみから解放されたとする。そうしたら、私たちのすることは「神さまを賛美すること」であってしかるべきである。なにも歌を歌いなさいというのではない。もちろん、歌を歌うのが賛美なのはもちろんだが、そのようなことが神さまのみわざだと認め、そのようなことをしてご自身のご栄光をあらわしてくださった神さまの御名をほめたたえる、神さまにご栄光をお帰しすることが、神さまを賛美することである。  しかし、実際には、このように「神さまを賛美する」という、人として最高のわざまでたどり着くことがなかなか人にはできない。喜んでそれで終わりということがどんなに多いことだろうか。イエスさまにツァラアトを癒やしていただいた10人の人。だが、癒やされてイエスさまのもとにやってきたのは、その中のたったひとりのサマリア人だった。イエスさまはその人のことをどんなにほめてくださったか。そして、感謝をしにやって来なかった人たちのことをどんなにお嘆きになったことか。よいことがあったら神さまをほめたたえ、感謝することは、人のなすべきわざである。  さて、苦しみの最たるもの、それは、神の栄光をあらわす信仰のわざに踏み出していきたいと願いながら、それを果たすことができないゆえの苦しみではないだろうか。早い話が病である。私たちはこの肉体を用いて主の栄光をあらわす仕組みになっている。それが病気やけがなどで主と人々のためにまともに働けない、これほど苦しいことはほかにない。  そのような人にはどうしなさいと語られているだろうか? 14節。教会の長老たちを招いて、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい、ということである。オリーブ油が基本的に食用油だと思っている日本人のわれわれからしたら、病気の人にオリーブ油を塗る、というのは不思議な感じがするかもしれない。しかし、先週私は小児科病棟に入院した話をしたが、心臓の手術をする男の子が、おへそにオリーブ油を塗ってもらっていたのを見た。看護師さんに聞いたら、消毒の意味があるとのことだった。オリーブ油にそういう効能があると知って、私は高校生なりに新しい知識を得て満足したものだった。  実際、イエスさまの「良きサマリア人」のたとえ話では、強盗に半殺しの目にあった旅人を介抱したサマリア人が、旅人の傷口にオリーブ油を注いであげた、と語っていらっしゃる。そういうわけで、オリーブ油は主イエスもお認めになる、痛みによく効く薬のようなものでもある。  15節のみことばと考え合わせてみたい。油を用いて教会の長老たちが患者のために祈るならば、その患者は救われる。何から救われるのか? その人を立ち上がれなくしている存在から救われるのである。それは病気かもしれない。その病気も、その人が犯した罪や悪習慣がもたらしたものかもしれない。しかしその人はそれを悔い改め、全面的に神さまの癒やしの御手に自分を委ねる決断をするのである。  教会の長老たちが祈るとは、教会の霊的責任を負う人たちが祈る、ということである。私たちバプテスト教会は、教会員がみな教会における霊的責任を負うという立場に立つわけで、牧師や責任役員のことが長老なのではない。長老がいるとあえて仮定するならば、私たちがみな長老である。だから、私たちがみな祈るのである。  オリーブ油を用いることは聖書のみことばに従順でありたいという信仰の姿勢から来るのならば「あり」ではある。しかし、オリーブ油が霊的に何を意味しているのかを少なくとも考える必要はあるし、それが考えられているならば、手許にオリーブ油がなくても一向にかまわないというべきだろう。教会の長老たちが油を用いて人を立ち上がらせることは、イスラエルの長老たちが油を注いで人を王に立てることを象徴しているといえよう。王とはだれだろうか? ペテロの手紙第一2章9節によれば、その王とは祭司であり、聖なる国民、神のものとされた民、とある。そしてそれは「あなたがた」、すなわち、私たちクリスチャンである。私たちクリスチャンに油を注いで「王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」としてくださるのは、聖霊なる神さまである。  したがって、私たちがだれかのために祈るならば、それは聖霊の油注ぎを祈ることであり、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民としてこの世界に雄雄しく羽ばたけるようにとりなすことになる。病気であったりけがをしたりという、弱さの中に留まったままでは、王としても祭司としても振る舞うことなどおぼつかない。それを人として、クリスチャンとして立てること、言い換えれば、王として、祭司として立てること、それが教会が御霊の力によってとりなして祈ることである。そうすれば病や痛みの中にある人も、王として振る舞えるし、祭司として振る舞える。  16節もこの文脈から読む必要がある。たとえ隠しておきたくても、教会の中では互いに対して罪を告白しあわなければならない、のではない。それを間違えると、リーダーが自分のことを一切報告義務がないところに置いたまま、教会員たちが秘密を告白しないとならないような共同体をつくってしまいかねない。それは別名「カルト」というのである。そのように、互いに対して罪を告白しなければならないと取ってはならない。目的は「癒やされるため」。罪の告白しっこの結果、共同体が病むならば、それは目的と手段を取り違えて、やってはならないことをしたことになる。  罪の告白は、共同体が、また共同体をなすひと枝ひと枝が癒やされるためにすべきものである。しかしそれもまずは、神さまの御前にすることが最優先である。また、罪の告白をするにあたっては、教会の「徳」を立てること、「徳」を高めることを最優先で考えたうえでする必要がある。そう考えると、うかつにはできないこと、慎重にすべきことであることがわかる。  しかし、こうも言うことができる。「罪」というからおどろおどろしくなるが、これを「弱さ」と言い換えたらどうだろうか? 肉体の弱さ、性格の弱さは往々にして、罪深い考え方、罪深い行動に直結する。「弱さ」と「罪」は必ずしもイコールではないが、兄弟姉妹が告白する「弱さ」のためにとりなして祈ることは、結果としてその兄弟姉妹の「罪」が取り扱われることになる。パウロも自分の肉体の「弱さ」を告白したが、同じパウロは「もし福音を宣べ伝えないならば、私はわざわいです」とも告白している。肉体の弱さのせいで福音を宣べ伝えられなくなる、わざわいな状態は、すなわちパウロにとっては罪である。  だから彼はその弱さが覆われるように祈る必要があったし、また、祈ってもらう必要があった。そのように私たちも、弱さが覆われて罪を犯さないように、いや、力強く主の働きができるようになる必要がある。その祈りは聴かれる。なぜならば、私たちは正しい人だからである。正しい人とは「義人」ともいう。私たちはことさらに、自分のことを「罪人」だと卑下していないだろうか? よく考えていただきたい。主はおっしゃるのである。「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない。」私たちをきよめてくださったイエスさまの十字架の血潮のきよめは絶対である。私たちは自分の力で祈るのではない。全能なる創造主、イエスさまの御名で祈るのである。だから私たちの祈りは聴いていただけるのである。  その祈りの力は旧約聖書に書かれているとおりである。17節、18節。みことばがこう語る以上、私たちもエリヤのように、全能なる神さまのみわざが起こるように祈れるのである。このみことばを信じない人はどうぞご自由にと言うしかない。私たちは不信仰にならず、このみことばのとおりである、このみことばのとおりになると信じて祈ろう。そしてその全能の御手は、病んでいる人を立ち上がらせるということをもって実現するのである。  最後に、教会という共同体は真理を保つためにあらゆる努力を傾けるべきだが、それでも真理が何かがわからなくなってしまう人がいる。19節、20節。真理から迷い出た人、言い換えれば罪人のことを、迷いの道から連れ戻す人とはだれだろうか? 罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪を覆う人とはだれだろうか? それはイエスさまである。  真理から迷い出るのは、イエスさまというまことの羊飼い、道であり、真理であり、いのちであられるお方についていくことをしないからである。イエスさまについていくことを怠けてしまう。その結果、目の前の何やら魅力的に感じられるものに惹かれてしまう。かくしてますます、真理から迷い出てしまう。イエスさまについて行くことをしないなら、その人は神中心ではなく、自己中心、偶像中心の生き方をしていることになり、そういう人を罪人と呼ぶ。何やら目立った罪を犯すから罪人なのではない。イエスさまという、ついて行くべき目標を外した生き方、ハマルティア、的外れの罪、だからそういう人は罪人なのである。真理から迷い出た人が罪人とは、そういうことである。  イエスさまはそのような、迷える羊を捜して、みもとに連れ戻してくださる。しかしこのみことばを見よう。イエスさまがそれをなさるとは書いていない。むしろこのみことばは、私たち教会へのチャレンジと読めないだろうか? そう、私たちはキリストのからだだから、罪人を迷いの道から引き戻すことは、教会がみんなで取り組むべきことである。  ここでも教会がいやしの共同体として機能すべきであることがはっきりする。真理の道から迷い出ている、すなわち、イエスさまについて行くことをせず、イエスさま以外のものについて行っているならば、その人は罪人であり、したがって罪に病んだ「病人」である。その人が回復するために私たちは働く必要がある。異端やカルトにやられてしまっているならば、彼らを教会の共同体からさらっていったその異端なりカルトなりのことをよく知る必要があるし、そんな彼らの「教理」に負けない、論より証拠の愛を実践して示す必要がある。  そういう点で私たちは、この世の魅力を振りまくものたちの存在や動きに無知を決め込んではならない。彼らは執拗に私たちのうちの弱い羊たちを狙ってくる。彼らの作戦を見抜き、彼らから羊たちを取り戻すために祈りをもって力を尽くしていこう。それが私たち、キリストのからだなる教会のなすべきことである。  私たちの信仰の行いは、教会という共同体、キリストのからだなる共同体において、互いの癒やしのために祈ることにおいて実現する。今日学んだとおり、そんな私たちお互いの弱さが覆われ、また迷う身から救い出され、癒やされ、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民としてふさわしく振る舞い、この地をキリストのものとしていく助けができるように、お互いのためにともに祈っていこう。

備えよう、主が来られる時に

聖書箇所;ヤコブの手紙5章7節~12節 メッセージ題目;備えよう、主が来られる時に  アメリカの歴史を代表する政治家、エイブラハム・リンカーンは、大統領になって閣僚を任命するにあたり、ある人物の推薦を受けた。それでその人に面接したが、結局、閣僚に採用しないことを決めた。なぜ採用しないことにしたかと問われ、こう答えたという。「顔が悪すぎる。男は40歳になったら自分の顔に責任を持ちなさい。」  この「男は40歳になったら自分の顔に責任を持て」とは、私のように年齢よりもはるかに若く見られ、したがって人並みの苦労をしていないことがバレバレな人間からしたら、なかなか耳に痛いことばだが、小説家の中島らもは、このことばを受けて、こんなことも言っている。そうか、40になるまでは、顔に責任を持たなくていいのか、とのんきにしていたら、40になったらきっちり、無責任な顔になっているだろう。たしかに顔ほど怖いものはない。  この場合、生きるということは、どんな生き方をしてきたか、そういうことが顔に刻まれて人の目に明らかになるという、40歳というひとつのリミットに向けて生きるということだ、とも言える。そう、どう生きてきたか、それは40(しじゅう)の男なら顔であるように、わかるひとにはしっかりわかってしまうものである。だが、ほんとうのところ、人生は40歳で終わりではない。きょうび、日本は少子高齢化で、あるいは私自身が50にもなったから余計にそう思うのだろうが、40なんてまだまだ、若者の部類のように見えてしまう。人は80、90まで生きるのもざらという時代である。40で生き方の審判を受けるのはいかにも早すぎる。そしてもっと大事なのは、人の生き方を審判するのは人ではない。さばき主なる神さまである、ということ。  先週学んだみことばは、地上で神をも恐れず贅沢にふけった罪人、その不敬虔が、イエスさまを十字架につけたほどの、そんな罪人を待ち受ける、あまりに怖ろしいさばきを語っている。今日のみことばはそれに続くことばで、やはりさばき主なる主の再臨の日を語っているが、こちらはヤコブが書簡を書き送っているその読み手、教会を形成する主にある兄弟姉妹に語ることばである。そんなクリスチャンたちのことを、ヤコブはどのように励まし、また勧めているだろうか? ともに見ていこう。  7節。みことばは私たちクリスチャンに、耐え忍ぶことを教えている。それはいつまでのことか? さばき主なる主が来られる、再臨されるまでのことである。そのように耐え忍ぶべきである私たちにとっての模範が、大地の貴重な実りを待つ農夫であるとみことばは語る。  初めの雨、後の雨、とあるが、これはイスラエルの地域の季節がどうであるかということが前提となっている。日本では季節といえば春、夏、秋、冬だが、イスラエルは雨が降らない「乾季」と、雨に大地が潤される「雨季」の二つの季節となっている。言うまでもなく乾季は雨が降らないので、人も大地もからからに渇く。どんなに日が経っても一向に雨が降らないわけだから、農夫はどれほど忍耐を強いられることだろうか?  しかし、この「雨がまったく降らない」ということは、今後も変わることのない状態ではない。なぜならば時が来れば、創造主なる神さまは大地に秋の雨を降らせてくださり、乾季を終わらせてくださるからである。この、雨期に入る秋の雨、これが「初めの雨」であり、その後春に降る雨が「後の雨」である。このような雨というものは、聖書のみことばによれば、神さまの恵みの象徴である。  農夫たちは、日照りの乾季にも農作業など、しなければならない日々の厳しい仕事に取り組む。しかし、その働きを完成するものは、雨という自然のもたらす神の恵みであり、それが時至ってもたらされるということを知っていなければ、いや、それを現実に見ていない以上、信じていなければ、という方が正確だが、雨は必ず降ると信じていなければ、その激しい環境の中の重労働はあまりにむなしいものとなってしまう。そんな彼らを支える希望は、神さまが時至って、必ず雨をもって大地を潤してくださるという信仰である。  みことばは、あなたがたが忍耐することも、それと同じである、と語る。私たちを取り囲む環境は決して生易しいものではない。この手紙を読んでいた聖徒たちも、時の権力者たちの迫害に晒されながらの、文字どおり命がけの、たいへんな信仰生活を送っていた。  私たちはそれに比べると、いのちこそ安全かもしれないが、恵みを分かち合って励まし合える兄弟姉妹の数はけっして大勢とはいえないし、偶像礼拝をしてこそ当たり前、日曜日は礼拝ではなく仕事をしてこそ当たり前という、日本の環境に生きるしかない。  それだけでも大変なのに、毎日のディボーションの時間を持つにも忙しすぎたり、疲れすぎたりしている。さらに、生活の糧を得る手段である仕事も、スキルの面でも人間関係の面でも厳しく、しかもそのストレスの真っただ中の重労働のすえに得られる生活の糧はわずか、休みもろくに取れないから疲れも抜けない……そのように、苦しみの中にある点では初代教会の信徒たちと立場は同じであり、私たちもまた、ヤコブをとおして与えられるこのみことばの励ましを受け取るべき立場にある。  私たちも毎日、いわば種を蒔く生活をしている。毎日のディボーションを通じて神さまからみことばをお聴きし、そこで命じられたみことばを具体的に守り行い、隣人を愛し、隣人に仕えるという、よい働きをすることで、私たちのうちに生きておられるキリストが伝わるように努力する。ことばを用いても、あるいは無言の行動をとおしても、私たちは努力する。だが、その日々の努力を周りは何とも思っていないことがほとんどではないだろうか。そればかりか、私たちが主にあってよかれと思って語ったことやした行いが悪く受け取られ、嫌われたり、悪口を言いふらされたりする。私たちの人生に雨ひとつふらない乾季が、これでもか、と続くようである。  それでも私たちが心折れず、絶望に陥らないのは、やがてその努力が報いられる、神の恵みに潤された大地が豊かな実りをつけるがごとき、天の御国に入れていただけるという信仰が確かにあるからである。その天国に入るにあたって、私たちがイエスさまを信じてここまで来たことを堂々と言えるならば、どんなに素晴らしいことだろうか。その日を目指して、今日のあらゆることに忍耐するのである。農夫が、乾季が来る日も来る日も続こうとも心折れないのは、初めの雨と後の雨を神さまが必ずもたらしてくださるからだと知っているように、私たちもやがて入れていただける天国の恵みを覚えて、今日の働きに取り組むことができるからである。  8節。だから私たちは心を強くするのである。主は近い。それはイエスさまが天に上げられて以来、世々の聖徒たちがつねに意識し、生きていくうえでの真実であった。振り返れば2000年にわたり、主はまだこの時を来たらせてはおられなかった。それで、楽天的な人は、これからもまだまだ世は終わらない、と思うかもしれない。しかし、私たちは今の世界を見て思わないだろうか? あまりにおかしくなっていないだろうか? そんな世相を見るにつけ、主は近い、と意識しないだろうか?   主は近い。しかし、その意識を持ちつづけることは、私たちを厭世的にするのではない。むしろもっと積極的に、だから私たちは主の御前に徹底して生きよう、というやる気を起こさせることである。すぐにでも来られる主の御前に恥ずかしくなく立てるように、しっかり生きよう、そうなってしかるべきである。  さて、さばき主を意識するならば、私たちがしてはならないことについても、今日のみことばは2つ語っている。まず9節、文句を言い合ってはいけない、ということである。これは、人を罪に定めてさばくようなことを、教会という主のからだなる共同体においてお互いしてはいけない、ということである。  なぜ、聖徒は人をさばくということをしてはいけないのか? それは、だれもがほんとうのさばき主のさばきに服することになっていて、それは人様を罪に定めてさばく人も例外ではないから、ということである。人を罪に定める、さばくということをすることとは、すなわち、自分は人をさばけるだけの正しい人、きよい人だとうぬぼれていることであり、また同時に、まことのさばき主なる神さまになり代わってさばき主の座に座ることである。どれほど傲慢なことだろうか?  しかし、この罪は、神を神とする、聖書のみことばがまことであると告白するような人は特に陥りやすい罠である。新約聖書の福音書には、イエスさまがパリサイ人のことを糾弾されるみことばがこれでもか、と登場するが、あれは、律法主義ではなくて信仰によって救われた私たちクリスチャンは、こんないけ好かないパリサイ人のようでなくてよかった、と、私たちが安心するために書かれているのだろうか? それはちがうだろう。むしろ、神の恵みのゆえに信仰によって救っていただいたはずの私たちが、聖書のみことばを盾にして人をさばくようなパリサイ人になりかねないことを、これでもかと警告しておられるからではないだろうか?   ことばを選ばず申しあげれば、私たちは現代のパリサイ人である。人をさばくことで優越感を覚え、もっといえば快感を覚える存在である。いけ好かないのは私たち自身である。しかし、パリサイ人からもパウロのような人が出た。私たちはパウロがそうしたように、私たちは信仰のゆえに恵みによって救われた、行いによるのはない、と自分自身が信じ、クリスチャンたちにそう呼びかける人である。  正しいみことばを「所有している」ことで慢心するのは、自分の義に拠り頼んでいる証拠である。いわんやそのみことばを人様をさばくための道具にするなど、もってのほかである。そうではなく、私のようなこんな罪人のことさえも救ってくださった、神の恵みにのみ拠り頼むべき存在、それが私たちクリスチャンである。私たちの本来の罪深さを思うならば、どうして人様のことを罪に定め、さばく資格などあろうものか?  もうひとつ、みことばが戒めていること、それは12節にあるとおり「誓う」ことである。これは結婚式の新郎新婦や、牧師按手を受ける献身者のように、神と人の前に責任を果たすべく、厳かに約束することを言っているのではない。そういうことと本質的に異なることである。  「誓う」ことがさばき主のさばきにあうことであると警告されているのは、これが「文句を言い合う」ことと本質的に同じだからである。つまり、人間の分際で全能の主の座にのし上がることだからである。特に「誓う」ということは、こういうことは必ず起こる、と、神の名さえ用いて自分の名を高める行為である。これは十戒で戒められている「神の御名をみだりに口にする」行為である。  これは私自身のみっともない経験の分かち合いだが、わかっていただける実例だと思うので、恥を忍んでお伝えする。高校1年生のとき、私は肺の病気の入院をとおして、それまでの人生のすべてが神さまの恵みであることを知って、ものすごくうれしくなった。この体験を私は、私の入院と手術を覚えて一生懸命祈ってくださった教会のみなさまに、礼拝中の「証し」という形でお話ししたほどだった。  具体的に言えば、両方の肺を同時に手術するような大掛かりなものになるところだったのが、片方の肺を軽く手術するだけで済んだ、同時に入院した病棟が小児科の病棟に回され、おいしい病院食を食べてお友だちができるなどあまりに楽しかった、そういうことになったのは、神さまの恵みによることだったと思い至った、ということだったのだが、問題はその先、これほどまでに神さまがよくしてくださるならば、私の人生はもっと上向きになるはずだ、と考え、当時私は学年で後ろからすぐに数えられるほど成績が悪かったが、神さまが味方なら絶対に次の試験はいい成績が取れる、と、周りにそう言って回った。  しかしふたを開けてみると、成績は相変わらず悪いままだった。理由ははっきりしていた。勉強をしなかったからだった。当たり前である。しかし、この悪い成績という現実を目の前にしてくよくよしていたとき、聖書のみことばを開くと書いてあった。「一切誓ってはならない。」私は砕かれた。そうだ、私は誓うという罪を犯してしまった。  今振り返ってみると、私の何が悪かったかはわかる。私が夢見ていたものは、「キリストがたたえられること」ではなかった。むしろ、「キリストを信じている『自分』がたたえられること」だった。そんな自分がよい入院生活を送れたのは完全に神さまの恵みであり、御名がほめたたえられることであったのに、私は勘違いもはなはだしく、だいいち傲慢だった。  というわけで、私たちは主のわざを行う歩みの中で、文句を言ったり、誓ったりすることで主のみこころを損なう誘惑にさらされている弱い者であることを、謙遜に認める必要がある。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる。10節、11節を読もう。聖書は、忍耐した人たちの記録である。特にここでは、そのような信仰の先達を代表する立場として「預言者」という立場を挙げている。預言者とは読んで字のごとく「主のみことばを預かる者」である。お預かりした主のみことばをイスラエルの民の代表として語ったのが預言者だが、私たちもまた、日々の主との交わりの中でみことばをいただき、その生活において、ことばと行いをとおしてみことばをこの世に宣べ伝えるものである。その点で私たちも預言者である。  そんな私たちは、預言者がときに理不尽な目にあって苦しんだように、苦しみの中に置かれよう。中にはここで例に挙がっているヨブのごとく、答えのない中をいつまでもぐるぐると回らされる不条理を体験するかもしれない。しかしそんな私たちが覚えておくべきことがある。それはこの11節のみことばが語るとおり、「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」ということである。  信仰の鑑だったヨブも苦しみの中でさらに親友たちから責められ、神さまに対してつぶやくことばを口にしてしまった。しかしその苦しみの中でヨブはほんとうの意味で神さまに出会った。それは「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」神さまだった。  ヨブだけではない。主に選ばれ、用いられた主の働き人はことごとく、苦しみの中にあってもなお、慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主との交わりをとおして、励ましと慰めをいただき、希望を失わなかった。やがて来る初めの雨と後の雨のような、神の恵みに満ちた天の御国に入れられる日、完全に苦しみから解き放たれる日をはるかに望み見ることができていたのである。  私たちもこの地上でまだしばらくの間、苦しむ日が続くかもしれない。しかし私たちはやがてともに、恵みの雨に潤され、この世の苦しみが報われる日が来る。主が来てくださり、その恵みの日を来たらせてくださるのである。その日をともに望み見つつ、失望しないで働きつづける恵みをいただけるように祈っていこう。

金持ちとはだれか

聖書箇所;ヤコブの手紙5章1節~6節 メッセージ題目;「金持ちとはだれか」  多くの人は、お金持ちになることに憧れ、またそうなれるように努力する。しかし、お金持ちというものはそんなに憧れるべきものなのだろうか? 聖書のみことばを見ると、必ずしもそうではないことがわかる。  本日の箇所は、お金持ちに対する警告である。1節のみことばからして「金持ちたちよ、よく聞きなさい」ということばから始まっている。「迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」、穏やかではないが、これが聖書のメッセージである。  もちろん、お金持ちになることが神さまの祝福のひとつであることは、聖書も語ってきたとおりである。ヨブ記のヨブがそうだったし、ダビデにしても、ソロモンにしてもそうだろう。しかし、それは特別なケースであって、だれもがお金持ちになるわけではない。むしろ神の民は、お金持ち、権力者によって虐げられてきた弱者である。  イエスさまのたとえ話に、金持ちとラザロ、という話がある。金持ちの家の前で物乞いをしていたラザロは、死んで天国に行くが、金持ちは地獄に落ちてしまう、という話。また、イエスさまは、金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴をくぐるほうがもっとやさしい、とおっしゃった。まさしく「不可能」というレベルである。  そういう前提でこのヤコブのことばを聞くと、金持ちになった以上、服するべきさばきに服さなければならないというように思えてくる。すると、もし自分がお金持ちだという自覚のある方、人からお金持ちだと言われている方は、もうだめなのだろうか? 読み進めていこう。  2節と3節。金持ちが後生大事にしている富は、腐っている。自分のことを立派に見せている服は、どんなに立派でも、実は虫に食い荒らされている。私たちはタンスに防虫剤を吊るせば虫に食われることはなくなると考えるが、ほんとうのところ、防虫剤を吊るそうが何をしようが、その服はすでに虫に食い荒らされている。  そして、金銀はさびている。さびが彼らを責め、その肉を火のように食い尽くす。考えるだけでも怖ろしいことだが、彼らがなぜそのような目にあうのかというと、「終わりの日に財を蓄えた」からだという。つまり、もう神さまはすでに終わりの日をもたらしておられる、その終わりの日に神さまを無視して、役にも立たない富や財を蓄えてきたからだ、ということである。  その人はどうしなければならなかったのだろうか? イエスさまはお教えになった。マタイの福音書6章19節から21節。自分のために蓄えるのではなく、天に蓄えればよかった。つまり、神の国とその義のために用いればよかったのである。思いつくところではいろいろあろう。教会や宣教の働きに献金するとか、貧しい人、困っている人のために用いるとか。いずれにせよ、自分の快楽のために用いない、自分さえよければという用い方をしないことである。  5節のみことばの表現を借りれば、自分の心を太らせるような財の用い方をしている人は、どういう生き方をしてきただろうか? 4節。自分が経営する組織、こんにちの日本なら会社や法人と言い換えてもいいだろう、で働く者たちが重労働にあえいでいるのに、ろくに養われない。ブラックな職場である。そんな労働者たちは神さまに叫んでいる。まさに、エジプトの横暴に耐えかねて神さまに叫んだイスラエルのようである。つまりこの場合、金持ちは神さまのみこころをいたく踏みにじる権力者と化しているわけである。  みなさまも職場でたいへんな思いをなさっていないだろうか? そのとき、主に叫んだ経験はないだろうか? 安心していただきたい。主は必ず、その叫びを覚えておられる。そして、その叫びに応えてくださる。まさにエジプトに報いられたようにである。エジプトの手からイスラエルをお救いになった神さまの御手は、今も変わらずに私たちのことを導いてくださる。  しかし私たちは、そのような主人に自分で復讐をすべきではない。これは、ローマ人への手紙12章19節と20節にあるとおりである。わざと手抜きして働いたりして、組織に損失をもたらすようなことをしてはいけない。むしろそのようなときこそ、心身の健康が許すかぎりかぎりまじめに働こう。  そうすることが相手の頭に燃える炭火を積む、とある。炭火とはイザヤ書6章のみことばにおいては、天の御国で燃やされているものであり、そこから取られた火が唇にあてられるとその人の不義はきよめられ、神のことばを宣べ伝えるにふさわしいものとされる。同じことはヨハネの福音書にも見られ、イエスさまの裁判を見守るペテロのそばで赤々と燃えていた炭火は、ペテロが土壇場になってイエスさまを裏切る罪人であることを照らし出した。  しかしのちにペテロは復活のイエスさまに会うが、そのときイエスさまはやはり燃える炭火で魚を焼いて、傷心のペテロのために朝ごはんを用意してくださり、まことの羊飼いとしての使命を回復させてくださった。このときイエスさまが用いられたものも炭火だったわけである。炭火はそのように、人の罪を示し、悔い改めに導く聖霊の働きを象徴している。だから、相手の頭に炭火を積むことは一見すると相手を焼き滅ぼすようなさばきを加えることに見えるが、ほんとうのところ、相手が罪を自覚させられて悔い改め、神さまのみこころに沿う人になるということにつながることである。  だから私たちはどんな環境でも忠実に働くことが求められるが、心身の健康が許すかぎり、これは大事。労働の結果心身の健康を壊してしまったら元も子もない。私たちの善意を悪で返す権力者はいるものである。今日の箇所で問題にしている「金持ち」とは、まさにこのタイプの悪辣な権力者、自分を肥え太らせるためならば人がどうなってもいい人のことを言っている。  そうやって人から搾取する者のすることは何か、といえば、5節にあるとおり。肥え太らせるのは「心」である。ごちそうをたらふくたべてからだが太ったら、ジムにでも行けばいい。サプリでも飲めばいい。少なくともからだは引き締まる。しかし、からだが格好よく引き締まろうとも、心に贅肉がつきまくっているという事実に変わりはない。人を人とも思わないくらい、人を愛せなくなってしまうくらい、心が肥え太って鈍くなってしまっているわけである。  屠られる日のために、とあるが、そのように贅沢のかぎりを尽くして肥え太った者は、終わりの日にほふられる。言い換えれば、永遠の死へと突き落とされる。自分のために富んでも、神の前に富まなかった生き方、その生き方がことごとくさばきにあうわけである。  さて、6節のみことばに注目しよう。金持ちの人を人と思わない生き方とは、人を不義に定めて殺す生き方だということである。金持ちに雇われる立場の人が、あえて金持ちに歯向かうことがあるだろうか? こうして、金持ちの横暴に身をさらすしかなくなり、ついにはいのちを落とす。私も高校時代の親友が働きすぎで過労死をしたが、過労死させられるような人は、まさにこの横暴の中に抵抗もできずに身をさらしつづけた、やさしい人ではないかと考える。  さて、金持ちが雇用するような人はたいていひとりではなく、少なくとも2人以上、複数だろう。しかしこのみことばを見ると、「正しい人」、「彼」と、単数になっている。これは注目すべきことである。つまり、これはひとりの人を指すと考えるべきである。  もう、おわかりだろう。同じヤコブの手紙2章6節と7節、金持ちにおもねって貧しい人を差別する教会を糾弾するみことばであるが、このように金持ちとは、主の御名をけがす存在である。そのように、主の御名をけがすことにおける究極の形、それは神の御子イエスさまを十字架につけることでなくて何だろうか。そう、イエスさまという何の罪もない正しい方を、不義に定めて殺した、イエスさまはそのような者たちに一切抵抗されず、粛々と十字架を背負われた、この6節のみことばは、時の権力者たちがイエスさまを十字架につけたことを語っているのである。  さあ、そうなると、このみことばは「イエスさまを十字架につける者」という視点で問い直す必要がある。今日学んでいるみことばは、果たして、金持ちを自認する人、人から金持ちと思われている人だけのものだろうか?   私たちも多かれ少なかれ、腐る富、虫に食われる衣、さびる金銀を後生大事に取っておく傾向がないだろうか? 私たちが肉に属する生き方をやめないなら、どうしてもこの世のものに執着するようになってしまう。その点で私たちは、世の終わりを意識もしないで自分を肥え太らせる金持ちと五十歩百歩である。  そうだとすると、私たちは客観的に見て金持ちであろうとなかろうと、自分の身に不幸が迫っていることを嫌でも考えなければならない。不幸とは何か? 持っていたものがすべて滅ぼされ、下手をすると自分まで永遠に滅ぼされかねない、ということである。  しかし、あらためて1節のみことばを見てみよう。このみことばは何と命じているか? そう、「泣き叫びなさい」である。「金持ちたちよ、よく聞きなさい。あなたがたに不幸が迫っているのはもはや避けられないから、その不幸を粛々と受け入れ、地獄に落ちて永遠に苦しみなさい」とは書いていない。「泣き叫びなさい」である。気高い金持ちにふさわしくないほどに、恥も外聞もなく泣き叫びなさい、というわけである。  泣き叫ぶその声はだれが聞くのだろうか? そう、神さまである。神さま、このままでは私は救われません! 滅んでしまいます! 私を滅ぼさないでください! 助けてください! その叫びを神さまは必ず聞いてくださる。  泣き叫ぶのは金持ちだけのすることではない。もし私たちが、ふさわしく富を用いていないと気づかされたならば、また、人を人と思わないような行動に出ていたと気づかされたならば、その罪ゆえにイエスさまが十字架におかかりになったと認め、悔い改める必要がある。泣いて叫んで悔い改めるくらいのことをしたっていい。おなかのすいた赤ちゃんが大きな声で泣くように、私たちも生きるために神さまに向かって泣き叫ぶのである。  私が韓国の教会で学んだことはたくさんあるが、その中でも特に学んだことは、神さまの御前に泣き叫ぶように大きな声を上げてお祈りすることである。これは日本のような環境ではなかなか難しいかもしれない。しかし、機会があればどこかで実践してみられることをお勧めする。神さまに実際に声を上げることによってはじめて、神さまがこの切なる叫びを聞いてくださっているということを実感できるようになるからである。論より証拠、ぜひ実践してみていただきたい。  そうして泣き叫ぶ祈りは、私たちの富の用い方、そして人との接し方を変え、ひいてはイエスさまとの関係を変える。イエスさまを十字架につけたほどの罪人にふさわしい、富を用いることにおける罪、人と接することにおける罪、そういった罪が悔い改めに導かれる。ここから私たちの行いが変えられ、行いをもって私たちの信仰が証しされるようになるのである。  何度も繰り返すが、ヤコブの手紙は私たちに対し、行いによって救われるなどと一切語ってはいない。確かにヤコブの手紙は、行いというものを強調してはいるが、それは行いによって救われると語っているわけではない。ただ、まことの信仰はまことの行いを生み出してしかるべきであると語っているわけである。  私たちの富の用い方、また、人間関係のつくり方を振り返ってみよう。私たちはこの箇所で糾弾されている金持ちのことをさばくことができるだろうか? 私たちも多かれ少なかれ同じことをしているならば、悔い改め、天に宝を積む働きをし、また、人々の赦しをいただいてこれまで以上によい関係を築いて働いていこう。そのようにして、この世に生けるイエスさまを証しする働きをするために用いられていこう。