毒の器から金の器へ

聖書箇所;列王記第一19章15節~17節 メッセージ題目;毒の器から金の器へ  昨日まで5日間、韓国に行ってまいりました。滞在中、「エステル祈祷運動」の祈祷会にて、メッセージを語ってまいりました。エステル祈祷運動は、妻が数年来関わってきたもので、愛国祈祷運動ともいうべきものです。その祈りの焦点はおもに5つのことに集中していて、それは、北朝鮮との福音による統一、同性愛を批判できなくする差別禁止法立法への反対、中絶反対、イスラエルのための執り成し、イスラム宣教です。妻も一朝一夕にこの運動に参加するようになったわけではなく、韓国の前の政権下でキリスト教会がコロナ対策を名目にした政策のもとにガタガタにされ、そのようになった韓国を憂える思いを禁じえず、時間をかけていろいろ勉強しているうちに導かれたのがこの運動でした。  そんな、エステル祈祷運動に、日本人の分際で関わるようになり、特に学ばされてきたことは、韓国の心あるクリスチャンが、どれほど韓国という国と、韓国人という民族のために祈っているか、その姿勢です。しかし、そのように教会が熱心にならざるを得なかった背後には、歴史的に、日本帝国主義の宗教政策というものがありました。  みなさまご存じのとおり、日本は1910年に、当時、大韓帝国という国号を名乗っていた、つまり韓国、もちろん、いまの北朝鮮を含む、朝鮮半島全体を日本の一部にしました。私はそういう経緯から、日本の帝国主義下にあった朝鮮地域をあえて「韓国」から取って「韓半島」と呼ぶことにしているのですが、ともかく韓半島において、韓国は主権を失いました。これには伏線があって、その数年前から1876年に江華島条約という不平等条約を結んで以降、日清戦争、日露戦争を経て、じりじりと日本は韓国の主権を侵すようになり、1907年の保護条約締結をきっかけに、韓国は事実上、日本の手に落ちました。そのとき、韓国のキリスト教会には大きな動きが生まれました。  その1907年、ピョンヤンを中心に、韓半島全体にリバイバルが起こりました。それは、早天祈祷運動、聖書研究運動の伴うものでしたが、何といっても強い特色といえば、それは「悔い改め」運動でした。日本に支配されるようになったのは、われわれの罪のためだ、そのように韓国においては大いなる悔い改めが起こり、教会が刷新され、多くの人が主に立ち帰りました。  そのようにして全国的に増え広がった教会とクリスチャンは、それから12年後、韓半島が完全に日本の手に落ちてから10年目の年、1919年3月1日に、三・一独立運動が起こされ、その運動のもっとも中心の担い手となりました。そんなキリスト教会が、日本によってよく見られていたはずがありません。1930年代、日中戦争が激化する中、日本は韓半島のキリスト教会に、神社参拝を強要するようになります。しかも、その手助けを積極的に行なったのは、もはや日本の国家権力の手に陥っていた、日本のキリスト教会でした。やがて1941年、日本中のプロテスタント教会は国策でひとつの教団に加入させられ、そのトップである「統理」という職にあった富田満牧師は、伊勢神宮を公式参拝することさえし、内鮮一体なる政策の手先として、神社参拝に屈しない韓半島の牧師たちを苦しめました。日本の内地のキリスト教会がそういう有様だったなか、韓半島では神社参拝を拒否したという理由で獄中で拷問を受け、聞くところによると、牧師と教会役員、合わせて58人もの方が殉教したそうです。ということは、それよりもずっと、ずっと多い方々が、獄中で塗炭の苦しみを受けておられたということです。  やがて戦争は終わり、アメリカが日本をしばらく支配するようになったころ、マッカーサー元帥の政策によって大勢の宣教師が日本に送られ、日本にはキリスト教ブームが起こりました。何せアメリカは日本を壊滅させ、天皇陛下にさえ人間宣言をさせた国です。正装して直立不動の天皇陛下の隣で、顔ひとつ分背が高くてずっと恰幅のいいマッカーサーが、ラフな軍服にポケットに手を立つ写真は、否が応でも日本人に、日本はアメリカに完全敗北したことを思い知らせました。そんな日本人は、アメリカの神のほうが強い、と思ったから、キリスト教ブームが起こったのでしょう。  しかしこれは、韓国を成長させつづけたリバイバルと、根本から異なるものです。日本は戦争に負けて、「一億総ざんげ」などというフレーズが語られましたが、その「懺悔」の対象は何だったのでしょうか。だれに対して「懺悔」するのでしょうか。少なくとも、創造主なる神さま、主イエスの父なる神さまに対する懺悔ではありませんでした。  これに対して韓国は、日本に支配されつづけたこと、国の北半分が共産主義によって占領されたこと、そういったことを、神さまからの「悔い改めなさい」というサインだと受け取り、教会は率先して悔い改め、そして成長していきました。日本は韓国教会の成長から多くを学ぼうと、弟子訓練ですとか、断食や癒しの祈りですとか、ディボーションですとか、家の教会ですとか、二つの翼ですとか、色々採り入れようとしてきましたが、根本の「悔い改め」という点においては、どうしても徹底して習うことができないというのが、長年韓国教会から学んできた日本人クリスチャンであるところの、私の見立てです。  さて、さきほど私は、愛国祈祷運動であるエステル祈祷運動が、イスラエルに重荷を持っていることをお話ししました。実は、長年韓国教会とつきあってきた私が断言することですが、韓国人のクリスチャンは、自らとイスラエル民族を同じ存在とみなす傾向がとても強いです。それは、日ユ同祖論のような、自分たちが血統的にイスラエル人であるという意味ではありません。むしろそれは例えるならば、アメリカの黒人のクリスチャンたち、すなわち、白人に支配され、同時に白人からなる信仰共同体に入れてもらえない奴隷たちが、それでも神の民として、自分たちのそばを流れる大河、ミシシッピ川を聖書に登場するヨルダン川に例えた心情に近いものと言えるかもしれません。  東北学院大学の名誉教授で旧約学の学者、浅見定雄先生も著書『旧約聖書に強くなる本』で書いていらっしゃることですが、韓国のクリスチャンは、旧約を重んじます。それは、新約のみならず聖書全体を重んじるということですが、その根底にはやはり、旧約聖書の主人公の民族であるイスラエルに、ことのほか心を寄せる気持ちがあるはずです。  私も、韓国のクリスチャンとつきあっていて、彼らがイスラエル民族と自分たちを重ね合わせながら聖書を学ぶ姿を見てまいりました。みなさんご存知の、「アバ、父よ」。アバはイスラエルのことばですが、あの「アバ」が、日本語では「お父ちゃん」だとはよく言われます。でも、そういわれて、みなさん、ピンときますか? だって、現代の子どもたちは、「お父ちゃん」なんて言いますか? 「パパ」ならいくらかピンときますが、なんといっても「パパ」は外国語っぽく、あまり日本語らしくありません。その点、韓国語で「アッパ」というと、「アバ」にそっくりで、意味もまったく通じます。私はこんな韓国語と、それを使う韓国人のクリスチャンに、日本人のクリスチャンとして嫉妬を覚えたものでした。  そんな、韓国人クリスチャンは、日本をどう見ているか、それは、イスラエルを悔い改めに至らせるために、神さまがお立てになった神の器のあり方から、その実態を知ることができます。  さきほどお読みしたみことばは、バアルとの雨乞合戦に勝利し、イスラエルの民をして「主こそ神です。主こそ神です」と言わしめたエリヤが、それなのにイスラエルの霊的状況が変わらず、激怒したイゼベル王妃にいのちを狙われるようになり、神の御前に嘆きをもって訴えたとき、神さまが示してくださったご命令です。それがこの、15節から17節のみことばです。  神さまはエリヤに、3人の器を立てるように命じられます。順に、ハザエル、エフー、エリシャです。 しかし、その持つ価値や性質は、同じ神の器でも同じではありません。たとえば、オリンピックでは最高級の成績を上げた選手やチームに、メダルが授与されます。しかし、金メダル、銀メダル、銅メダル、それぞれ価値が異なり、銅メダルの人は金メダルの人ほどには栄誉を受けることができません。  金、銀、銅、といえば、こんな話もあります。私がむかし、東京の韓国人教会にいたとき、韓国人のメンバーの方に教えていただいたことばがあります。リンゴは栄養のある果物ですが、食べるにはふさわしい時間があるというのです。こう言います。「朝のリンゴは金、昼のリンゴは銀、夜のリンゴは、ど~く(毒)。」  その伝(でん)で行くと、金の器はエリシャです。これは、言うまでもないと思います。銀の器がエフー、確かに彼は、バアル礼拝をイスラエルから追放したという点でよい王様でしたが、金の子牛礼拝をやめようとはしませんでした。だから、エリシャには及びませんが、それでも神さまはある程度の評価をエフーに与え、四代目まで王になると約束してくださり、そのとおりになったのですから、まあ、銀くらいはあげてもいいと思います。  しかし、ハザエルはどうでしょうか。彼は、神の器といっても、毒の器だったのです。聖書を読むと、エリヤがハザエルに直接油を注いだという記述はありませんが、その後継者であるエリシャがハザエルと会う、という場面なら出てきます。では、ハザエルは主に油注がれたというならば、それにふさわしい、主のみこころにかなったすばらしい人格を持った指導者なのでしょうか? そのあたりの箇所、また、それにつづく聖書のみことばを読むと、ハザエルがどんな人物かわかります。  言うまでもなく、アラムはイスラエルにとって敵の国と民族でした。しかも、アラムの王、ベン・ハダドは、創造主なる神さまではなく、リンモンという名の神を礼拝する者でした。しかし、ベン・ハダドは、大事な臣下であるナアマン将軍の癒やしを体験していましたので、イスラエルを敵国と見なしながらも、エリシャに臨んでいる霊的な力を認めていました。そんなベン・ハダドは重い病気にかかりました。そこに、アラムの首都ダマスコにエリシャが来ているという話を聞きつけ、ベン・ハダドは臣下のハザエルを遣わして、エホバの託宣を求めました。  エリシャはハザエルに会いました。そのとき神さまは、エリシャに啓示を与えられ、ベン・ハダドは必ず治る、しかし、必ず死ぬ、ということをお示しになりました。エリシャはそのようにハザエルに告げました。  すると、エリシャはハザエルの顔をじっと見つめはじめました。ハザエルが恥ずかしくなるほどにです。そしてエリシャは泣き出しました。いエリシャは言います。あなたはイスラエルに害を加える。イスラエルの要塞に火を放つ。若い男たちを剣で斬り殺す。子どもたちを八つ裂きにする。妊婦たちを切り裂く。……ますます驚くハザエルに、エリシャは言います。「主は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ。」  ハザエルは王宮に戻り、ベン・ハダド王に、陛下は必ず癒やされる、と告げます。だが、次の日、ハザエルは、寝台で横になっているベン・ハダドを暗殺します。それも、濡れた毛布を顔にかけるという、残忍な方法を用いてです。  結果として、エリシャが告げたとおり、ハザエルはアラムの王になりました。しかし、ハザエルがほんとうにエホバを恐れる人だったならば、王が元気になって寝床から立ち上がるのを見届け、そして、主の摂理のうちに死ぬことを待てたはずです。そうすれば、主はハザエルを王に立ててくださったはずです。しかし、ハザエルはその主のお導きを待つことをせず、エリシャのことばを聞いて野望に燃え、王権を奪い取りました。  案の定、ハザエル王率いるアラムは、イスラエルと戦争することになりました。ハザエルはイスラエルを侵略し、イスラエルから領土を略奪することさえしました。そんなアラムの攻撃を受けつづけたイスラエル王国において、エリシャは神の働き人、それこそ「金の器」でありつづけましたが、そんなエリシャにも世を去る時がやってきました。病床にあったエリシャは、見舞いに訪れたイスラエルのヨアシュ王に、あなたはアラムを滅ぼし尽くしなさい、と、命じます。つまり、アラムは滅ぶべきだったのです。なぜならば、神の民であるイスラエルを、これほどまでに苦しめたからです。  こんなハザエルの、神の器として果たした役割は何でしょうか? それは、イスラエルの王と民を、バアル礼拝や金の子牛礼拝のような、偶像礼拝の生活から立ち返らせるためにあえて起こされた敵、ということができます。  まさしく、ハザエルはエリシャが預言したとおりの、残忍な人物でした。しかし神さまは、ハザエルのその残忍さを用いてイスラエルを懲らしめられ、民がご自身に立ち返り、拠り頼むように導いてくださいました。  イスラエルに対するハザエル、そして彼が統べ治めるアラムのこの姿に、韓国の教会と長年おつきあいしてきた私はどうしても、日本の国と民族を思わずにはいられません。日本はどれほど韓国教会を迫害したことでしょうか。神社参拝を強要し、従わなければ逮捕して拷問し……神の民イスラエルを苦しめたアラムとハザエル王に匹敵した悪事を、日本と、日本のキリスト教会は行なったわけです。  それなら、日本の教会がリバイバルを求めるために必要なことは何でしょうか。それは、悔い改めです。たしかに、日本の教会は過去、韓国をはじめとしたアジア諸国に行なってきた罪を悔い改めてきました。それは必要なことでした。しかし、ほんとうに悔い改めるべきことは、まだたくさんあるのではないでしょうか。  はっきり申しますが、日本のクリスチャンの多くは、潜在的な偶像礼拝者です。さすがに、神社に行って車にお祓いをしてもらったり、1月1日に神社仏閣に初詣に行くクリスチャンはいないと信じたいですが、仏式や神式のお葬式のような、日本人にとって避けがたいことにおいてはどうでしょうか。これはどう弁護しようとも、神の前では偶像礼拝です。私は前任の牧師である宇佐神先生が、信徒のみなさまに、仏式のお葬式ではお焼香をしてはいけないことを徹底して教えてくださり、信徒のみなさまをそれをちゃんと守っておられたことに、心から感謝したものでした。日本の教会は多くが、そのようにきちんと教えていないために、みなさん、どこか後ろめたさを感じながらも、周りにどう思われるかが怖くて、つい、お焼香をしたり、玉串をささげたりしているわけです。  しかし、そういうことをしなければ、自分は偶像礼拝者ではない、と言えるでしょうか。コロサイ3章5節によれば、貪欲、つまり、むさぼりというものが偶像礼拝だと定義されています。つまり、自分の肉欲というものを偶像にして、結果として神との交わりを無視しているわけです。趣味、美食、習慣、これらも度を超すと、偶像礼拝になります。  韓国は21世紀になり、日本のサブカル文化が解禁され、ケーブルテレビとインターネットが普及するようになって、目を覆わんばかりに堕落しました。たしかに、アカデミー賞やノーベル文学賞を受賞するようなクリエイターが生み出されてはいますが、それは国や民族に対する神の栄光と何の関係があるのでしょうか。韓国は、子どもや若者の足が教会から遠ざかるのと軌を一にするように、性的に乱れ、人々はオカルトを好むようになり、自殺する人が相次いでいます。  しかしそれでも、心ある韓国教会はなおともしびを掲げ、反キリストの世界に向かって、悔い改めを叫びつづけています。そのように祈る人がいるから、韓国はすばらしい国です。しかし、日本はどうでしょうか。このままでは、肝心の日本にはいつまでたってもリバイバルが訪れません。  私たちがこの世と調子を合わせて生きるのをやめないならば、私たちはこの、日本社会という毒の器をなす一員でしかなくなります。それは塩気をなくした塩です。外に捨てられて踏みつけられる存在にしかなりません。また、升の下に隠したともしびです。何を照らせるというのでしょうか。早い話が、何の意味もない生き方です。  私たちがほんとうにリバイバルを求めるなら、必要なのは、悔い改めです。自分さえよければ、自分さえ救われれば、自分さえ祝福されれば……もうそう考えるのは、やめようではありませんか。何のために神さまはわざわざ、この国と民族のうちから私たちをお救いになったのですか? それは、私たちをとおして、この地に神の国、神のご支配を成し遂げてくださるためではありませんか。いまこそ、この民に無関心だったわが身を悔い改めましょう。そして、相変わらず主を無視しつづけているこの日本が悔い改め、神さまに立ち返るように祈りましょう。ほかの民族を悔い改めさせるしか能のない、毒の器から、エリシャのごとく人々に主の栄光を見せてあまりある金の器として、この国と民族をつくり変え、用いてくださるように、神さまに祈りましょう。  エリシャのことがあんなにも聖書に記録されているのは、主が私たちのことを整え、エリシャのごとく用いてくださるという希望をくださっているからです。ご覧ください。ハザエルが主の栄光を顕す姿など、聖書のどこに書かれていますか? しかし、エリシャはそれと反対に、どれほど素晴らしい器として用いられたことでしょうか? 私たちはこの民の中にあって、エリシャのごとく金の器としていただき、人々を毒の器から金の器に変えてくださるみわざに用いていただく者とならせていただきましょう。

良きサマリア人になるために

聖書箇所;ルカの福音書10章25節~37節 メッセージ題目;良きサマリア人になるために  国会議員、参議院議員に、金子道仁という人がいます。彼は牧師先生で、もともとが、フリースクールや老健施設の経営で知られる、グッド・サマリタン・チャーチという、兵庫県の田舎にある教会の副牧師をなさっている方です。英語で「グッド・サマリタン」というと、隣人愛に富んだ人、という意味の、クリスチャンにかぎらず用いられる、美しい呼び方です。グッド・サマリタン・チャーチは今日も、その呼び名にふさわしくあるように、福祉を必須の働きとした教会形成を実践すべく、兵庫県の郡部で頑張っておられます。  グッド・サマリタン。良きサマリア人。いいことばです。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」ではありませんが、「そういう人に私はなりたい」と、聞く人をして感動させるおことばです。私もこの、良きサマリア人のようになりたい。しかし、イエスさまがこのたとえをだれに対して、どんな流れでお語りになったかをよく考えると、手放しに、美しいお話、では片づけられないものがあることに気づきます。イエスさまは「あなたも行って同じようにしなさい」とおっしゃるが、私たちには「行って同じように」できるのだろうか、そうするためには何をしなければならないだろうか、ともに考えていただけたらと思います。  ひとりの律法学者がイエスさまのもとに来て、質問します。何をしたら永遠のいのちを受け継げますか。彼がこう質問した理由をみことばは語りますが、それは、試そうとして、ということでした。律法学者、パリサイ人という立場にある者たちは、イエスさまのお語りになったことの粗を探し、罠にかけて、あわよくば訴えてやって、なきものにしてやろう、という、腹黒いことを考える集団でした。しかし、彼のそんな意図で投げかけた意地悪な質問は、イエスさまから、極めて大切な教えを引き出す結果となりました。  イエスさまはこの質問をしてきた律法学者に、「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」と、逆に質問を投げかけられました。みことばを学ぶ者は、まず、その学ぶ前提となっているみことばの読み方、受け取り方が問われます。みことばを単なる人間の書いた書物と受け取ったら、それなりの読み方になりますし、みことばは神さまのお語りになった永遠の真理と受け取ったら、そういうものとしてお聴きすることになります。うちの教会はもちろん、みことばは神さまの御口から出る永遠の真理であるという立場を、創立以来58年にわたって一貫して保ってきたわけで、だから私もそのようにみことばをお読みしています。だれが何と言おうと、聖書は誤りなき神のみことばです。  だから、イエスさまのこのご質問に対する律法学者の答えは、彼にとってのみことばの読み方、彼が専門としている律法に対する、彼なりの立場を反映したものであるわけです。前提となっているものは「何をすれば、永遠のいのちを得られますか」。それに対して、イエスさまは、あなたがそう律法を読んでいるならば、そのとおりですから、それを守り行うことです、とおっしゃいました。  しかし、私たちはここで引っかからないでしょうか。私たちは普段、イエスさまの十字架を信じる信仰によって永遠のいのちを得られる、と、エペソ人への手紙2章8節、9節から教えられています。。永遠のいのち、救いは信仰による。なのにイエスさまは、律法を守り行うことで永遠のいのちを得られる、と? これいかに?  その疑問に対する解決はとりあえず一旦置いておいて、つづきを見てみたいと思います。律法学者は、では、私の隣人とはだれのことですか、と、イエスさまにもう一度質問しました。それは、「自分の正しさを示そうとして」という動機からだったとあります。  当時のユダヤ人にとって、隣人といったらふつう、まずは家族、そして親族、さらにユダヤの共同体の人、であり、それ以外の人は眼中にありませんでした。  だから、イエスさまもユダヤの教師であるならば、当然そう答えるはずだ、そんな隣人を愛することなら、私にはお安い御用だ、私には守り行えるぞ、どうだ、私は正しいだろう、という計算が、この律法学者にあったわけです。  そこでイエスさまは、ひとつのたとえ話を始めました。……エルサレムからエリコに下る人、これは、ユダヤ人が想定されています。そのユダヤ人が、強盗たちから寄ってたかって暴行を受け、身ぐるみ剝がれ、傷ついて横になっていた……あなたは、このユダヤ人にわが身を置き換えてみなさい、というわけです。  さて、イエスさまがこうしてお語りになった、強盗たちにやられて傷ついた旅人がユダヤ人だった、これには深い意味があります。ユダヤ人は、病気になって倒れていたのではありません。強盗にやられて倒れていたのです。なぜ、イエスさまはわざわざ、強盗、という言い方をしたのでしょうか? 話によると、当時この街道にはときどき追い剥ぎが出たらしく、イエスさまのたとえもそれを念頭に置いておられたと言えるわけですが、それにしても、血なまぐさいたとえ、それならいったい、強盗とはだれでしょうか?  この旅人はユダヤ人で、強盗に襲われて身ぐるみ剥がれました。何を象徴しているのでしょうか? 当時の社会においては、ユダヤ人の庶民を寄ってたかって傷つけ、搾取する存在がありました。それはほかならぬ、今こうしてイエスさまがたとえ話を語り聞かせておられる相手、律法学者たち、パリサイ人たちでした。  イエスさまは、ユダヤ人の群衆が、羊飼いのいない羊のように弱り果てているのをご覧になり、はらわたもよじれんばかりに悲しまれました。ユダヤ人をこれほどまでの状態にしたのは、パリサイ人のような宗教指導者たちが、民の羊飼いとしての役割を果たし、みことばによって彼らを養い、いやすことはおろか、みことばの本来の精神を離れた自分たちなりの解釈で彼らを支配し、傷つけ、搾取することしかしなかったからです。もちろん、イエスさまはこのたとえで、強盗とはあなたがた律法学者のことです、とはおっしゃいませんでしたが、それでも、強盗のような存在に傷つけられたユダヤ人にわが身を置き換えて考えてみなさい、というチャレンジは与えておられるわけです。  さあ、その傷ついたユダヤ人の方に、つまりエルサレムへと向かう祭司がやってきました。エルサレムで主の宮にて仕える働きをするためです。しかし、彼は反対側を通り過ぎました。もちろん、祭司には彼のことが見えていないわけではありません。しかし、関わり合いになるのを避けました。実に、宗教人にあるまじき姿ですが、ここであえて、この祭司の弁護をする試みをすれば、祭司はきよい主のお働きをするために、けがれたものに触れてはなりませんでした。それは律法のみことばに書かれているとおりです。  もし仮に、この道端に横たわっている人が死んでいたならば、万が一そのからだに触れでもしたら、この祭司は「汚れた」ということになるわけです。そうなってはエルサレム神殿にて神さまの働きをすることができなくなります。祭司は、神さまとの関係を重んじて、あえてこの道端のユダヤ人から身を引いたわけです。  しかし、だからといって、この祭司がこの傷ついたユダヤ人に何の手も差し伸べなかった事実に変わりはありません。いわんやこのユダヤ人は、死んでなどいませんでした。死体に触れたら汚れて、神さまの働きができなくなる、というのは、言い訳以外の何ものでもありません。この祭司は、神さまとの関係においては、百点満点のつもりで振る舞ったことでしょう。しかし、同じユダヤ人に対して見捨てる行動をしたという点で、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という律法の命令に対しては、0点でした。隣人を愛することにおいて0点ならば、神を愛することにおいても0点になってしまうのです。  次に来たのは「レビ人」でした。やはりエルサレム神殿にて、祭司の指導のもとで働く立場にありました。彼もこのユダヤ人を避け  ました。理由は祭司と同じ、関わり合いになったら主の働きができなくなるかもしれない。このレビ人の姿は、当時の宗教社会の現実を投影していると言えます。トップにいる祭司にしてそのような、律法主義でがんじがらめになって傷ついているユダヤ人の隣人になろうとしていない。その下で働くレビ人たちもその影響を受けてしまっている。  宗教指導者たちは普段、偉そうなことを言っているけれども、ユダヤ人の抱える傷を癒やそうとも、慰めようともしない。ただ、自分たちを肥え太らせることしかしていない。上から下までみんなそうである。このたとえには、ときの宗教指導者たちに対する、イエスさまの激しい怒りが隠されているようです。  さあ、そこにやってきたのが、サマリア人でした。イエスさまが「サマリア人」とおっしゃったとたん、この律法学者はどんな顔をしたことでしょうか? なにい、サマリア人だあ!? 吐き捨てたくなったのではないでしょうか。  サマリア人。神の民イスラエルの血を引きながらも、血統的には混ざりあった混血の民と化し、宗教的にもユダヤ人から見れば純粋さを失い果てた、汚らわしい存在。ユダヤ人にとってサマリア人は、蛇蝎のごとく嫌うべき存在、もっといえば、差別して当然の存在でした。だから、イエスさまが平然と「サマリア人が」とおっしゃったとき、この律法学者は顔から血の気が引いたのではないでしょうか。  もちろん、サマリア人もユダヤ人のことを蛇蝎のごとく嫌っていることは、ユダヤ人の側もよくわかっています。それが、イエスさまのこのお話だと、サマリア人の旅人は、道端に横たわるユダヤ人に目がくぎづけになりました。かわいそうに思いました。駆け寄って、自分の大事なオリーブ油とぶどう酒を傷口に注ぎ、包帯を巻いて手当てをしました。自分が乗っていた家畜に乗せてあげて、自分は歩いて彼を乗せた家畜を引いて宿屋を探し、たどり着きました。宿屋で彼のことを、一生懸命介抱しました。2デナリものお金を宿屋の主人に払い、このユダヤ人のことを頼みました。しかし、主人に任せっきりにしないで、もっとお金がかかったら、自分が帰りに払う、と約束しました。  傷ついた人に対して、赤の他人が、それも、敵対している民の人が、ここまでしたわけです。ヤコブの手紙に書かれた、私は行いによってあなたに自分の信仰を見せます、という教えを、地で行く実践、それをこのサマリア人はしたわけです。「よきサマリア人」と呼ばれて賞賛されるゆえんです。  この傷ついたユダヤ人に、わが身を置き換えて考えてごらん、という前提で、イエスさまはお話しになりました。その上で、イエスさまは律法学者にお尋ねになります。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」  もう、答えは明確です。しかし、この律法学者は、この期に及んで、それはサマリア人です、とは、口が裂けても言えなかったのでしょう。「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えるのが精一杯でした。そんな律法学者に対し、イエスさまはおっしゃいます。「あなたも行って、同じようにしなさい。」  さて、これは、私たちクリスチャンはすべからく、このよきサマリア人のごとくふるまうべきだ、という教えなのでしょうか? たしかに、そうとも言えますが、ここでイエスさまがなぜ、この律法学者もそうであるユダヤ人にとっては蛇蝎のごとく嫌う民族であるサマリア人をたとえにしてお語りになったか、もっとよく考える必要があります。  この律法学者は、永遠のいのちに関心がありました。しかし、彼はそれを得るには、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」という質問や、「強盗に襲われた人の隣人になったのは、その人にあわれみ深い行いをした人です」という答えに現れているとおり、彼の関心、彼の基準は、どこまでも「何をするか」ということ、つまり、「行い」にありました。  しかし、彼がもしイエスさまがおっしゃるように、「行って同じようにする」には、絶望的な壁が待ち受けています。ユダヤの律法学者、宗教指導者が、蛇蝎のごとく嫌うサマリア人に隣人として接するならば、それはその人の宗教指導者としての立場の「死」を意味します。  いや、それだけでしょうか。この律法学者が、「私の隣人とはだれですか」とイエスさまに聞いたとき、彼がその前提としていたものが、同じ民族であるユダヤ人のことを自分の隣人と思っていた、と申しました。しかし実際はどうだったか。律法学者は、ユダヤ人を寄ってたかった痛めつける強盗でした。  律法学者たちは、同族のユダヤ人に対してさえも、愛情深く隣人として振る舞うことはおろか、傷つけ、搾取し、拘束する、そういうことを当然のことのようにしていたわけです。隣人であるはずのユダヤ人に対してさえまともに隣人愛を実践できない者が、どうして、あの大嫌いなサマリア人に愛の実践などできるものでしょうか。  要するに、イエスさまがお示しになった、まことの隣人の姿など、真似しようとしても真似できないものなのです。この律法学者は行いで永遠のいのちを手にできると思っていたようですが、ほんとうのところ、行いなどで永遠のいのちは、金輪際手に入るものではありません。だから、律法学者はこのとき、みことばの要求する行いの水準がいかに高いものかを思い知り、絶望して、「イエスさま、できません! この罪人の私を憐れんでください!」と、ひざまずいて御手にすがるべきだったのです。  それにしましても、隣人の話を持ち出すにあたって、なぜイエスさまはわざわざ、サマリア人があなたの隣人だ、とおっしゃったのでしょうか。それを考えるには、このサマリア人がユダヤ人に何をしたかを考えてみましょう。かわいそうに思った。いやした。いのちが保たれるために犠牲を払った。サマリア人のこの姿は、イエスさまの姿ではないですか。  ユダヤの宗教指導者たちはサマリア人を蛇蝎のごとく嫌ったように、イエスさまのこともやはり嫌いました。なんと、彼らはイエスさまに向かって、おまえは悪霊に取りつかれたサマリア人だ、と言っています。ダビデの子、ゆえに、ユダヤ人の中のユダヤ人であるイエスさまのことを、彼らは言うに事欠いて「サマリア人」呼ばわりしたのです。しかしイエスさまは、サマリア人呼ばわり大いに結構、とばかりに、ご自身をサマリア人に例えられ、わたしがどんなにあなたたちに嫌われていようとも、あなたたちが傷つけられて苦しんでいるのを、わたしは見過ごしにはできないのですよ、わたしは癒やします、永遠のいのちを、わたしの十字架の代価をもってあなたがたに与えます、どんなに拒絶されても、イエスさまは愛してくださるのでした。  この愛を人が持つのは不可能です。なぜならば、人はどこまでも自分中心の罪人だからです。神を神と認めない、自分のことしか考えない、そんな堕落した存在である私たちが、ちょっとやそっとのよい行いでだれかを愛し、その結果永遠のいのちを得ようなんて、ナンセンスもいいところです。イエスさまはそんな律法学者の愚かさにしたがって、あえて「愚か者には、その愚かさに従って答えよ」という、箴言のみことばの原則どおりにお答えになっただけです。  しかし、私たちは律法学者の愚かさを笑う前に、自分自身の愚かさを認めるべきです。あらゆる知恵を得ようとも、決して自分を救えない。何をやっても神のきよさから外れた、自己中心、サタン中心の罪人。神さまはそんな人間のことなど、たちどころに滅ぼして当然でした。いまごろ、あなたも私も地獄の中。それでも何ひとつ文句など言えた義理ではありません。しかし、神さまはこんな愚かな人間のために、わかった、おまえたちがそれほどまでに愚かならば、わたしはお前たちの愚かさにしたがって答えよう。私のひとり子をおまえたちの身代わりに十字架につけ、死なせよう。おまえたちがこれを信じさえするならば、わたしはおまえたちを救い、永遠のいのちをあげよう。神の愚かさはここに極まりました。だが、コリント人への手紙第一1章が語るとおり、この神の愚かさは、何をどう努力しても決して自分自身を救うことのできない、人間のあらゆる知恵にまさるのです。  そう、私たちは、もはや神の御子イエスさまが身代わりに死んでくださらないかぎり、決して罪から自分を救えなかったほどの罪人、愚か者、弱い者です。  しかし、それでも私たちは、このよきサマリア人のようでありたい、この人のように無償の愛を実践したい、そう思いませんでしょうか? それは、イエスさまを信じる信仰によって救われた者として、当然の思い、というより、そういう思いに導いてくださる、神さまの恵みです。そう、まともに考えたら、こんな愛を実践することなど、しようと思ってもできないのです。  私たちは愛せません。愛する行いなど実践できません。自己中心の罪人です。しかし、それでもイエスさまは、そんな私たちに向かって、「あなたも行って同じようにしなさい」とおっしゃいます。  イエスさまはあえて不可能なことを、私たちに命令しておられるのです。それは、そうできるように、神さまが私たちのことを、みことばと御霊により、心の一新によってつくり変えてくださるからです。あなたはよきサマリア人になれるのです。イエスさまは私たちにチャレンジを与えてくださっています。  どうすればいいのでしょうか? イエスさまの愛と恵みを知りつづけることです。イエスさまが、こんな私の隣人になってくださり、愛してくださっているなんて! 癒やしてくださっているなんて! なんと感謝! なんともったいない! イエスさま、あなたさまの愛に応えさせてください! 私もだれかを愛せるように! その、イエスさまへの愛が必要です。  私たちがもし本気で、この「よきサマリア人」に憧れ、そのようになりたいと思うなら、教会全体でともに、キリストの似姿に変えていただくことです。ともにみことばをいただき、ともにみことばを握って祈り、交わりを大切にし、お互い励まし合い、慰め合い、力づけ合い、そして、家庭であれ、職場であれ、学校であれ、サークルや習い事であれ、それぞれの生活の現場に出ていって、隣人を愛し、隣人に仕えることにより、イエスさまがその人の隣人になり、癒やし、救い、永遠のいのちを与えてくださる、そのお手伝いをすることです。  みこころにかなった共同体となる第一歩、それはまずここにいる自分から、イエスさまが自分のことを愛してくださるその愛を受け取り、その愛によってだれかを愛することから始まります。まさに今年の標語、「神の愛で愛しはじめよう」、それを、まず自分から始めるのです。だれかにやってもらおうとする前に、まず自分から始めるのです。  なにも、赤の他人を愛しなさい、とか、大嫌いで口もききたくない人に、積極的に関わらなくてはなりませんよ、ということではありません。まず、そばにいる、それこそ隣人を愛することから始めるのです。それが、良きサマリア人として歩むそのはじまりです。私たちがみな、心のうちにおられるイエスさまとの交わりを日々深め、神を愛し、隣人を愛する、よきサマリア人の働きにともに用いられるものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

主イエスの羊を飼う資格

聖書本文;ヨハネの福音書21章15節~17節 メッセージ題目;主イエスの羊を飼う資格   本日は教会の年次総会の日です。今年に入ってから、「神の愛で愛しはじめよう」というテーマを掲げ、私たちはここまで歩んできました。そのように、神の愛で愛するためには、まず、私たちが主なる神さまに愛されているということを受け取ること、そして、主を愛するということをすること、それがどうしても必要になります。そうしてこそ初めて、私たちは主の愛によって、隣人のことを愛しはじめて、やがて、お互いが愛し合えるようになります。  先週私たちは、リビングライフによる聖書通読において、ヨハネの福音書18章のみことばをお読みして、イエスさまを逮捕しに来た兵士の耳を切り落としてしまうほどに威勢のよかったペテロが、いざイエスさまが裁判の席に引き出され、暴力を一方的にお受けになる光景を目にします。そんなペテロは、周りにいる者たちに「あなたもイエスの仲間だろう」と何度も問い詰められ、「違う。知らない」と三度も言ってしまった、そんな場面に私たちは接しました。ペテロが三度目に「知らない」としらばっくれたとき、鶏が鳴きました。それはイエスさまが予告しておられたとおりのことで、ペテロは何もかもお見通しだったイエスさまのそのおことばを思い出しました。そして、裁判を傍聴していたその群れからひとり離れ、外に出て号泣しました。  そしてイエスさまは、このあまりに不当な裁判を堂々とお受けになり、十字架におかかりになりました。そして死なれました。しかし、復活されました。  一方、イエスさまの弟子たちは、ユダヤの指導者たちは俺たちのことまで捕まえに来るんじゃないだろうか、と、怖がって家に閉じこもっていました。そこにイエスさまが現れて、平安がありますように、父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします、聖霊を受けなさい、と言って、彼ら弟子たちのことを大いに励ましてくださいました。  しかし、それでもまだ、弟子たちはすぐに、イエスさまに献身したと言える働きに踏み出せないでいました。ペテロは十二弟子時代の持ち前のリーダーシップを発揮して、俺は魚を獲る働きに行く、と言い出して、弟子仲間をぞろぞろと連れて、真夜中の湖に舟を出しました。しかし、何も獲れませんでした。  夜が明けそめたころ、岸辺から声がします。「子どもたち! 食べるものがありませんね!」話によると、この湖は離れていても音がよく聞こえるらしく、イエスさまが群衆にメッセージをお語りになるにあたり、湖という場所をお選びになったのももっともなことなのだそうです。だから、岸辺と湖面のように、遠く離れていても会話ができました。弟子たちは岸辺の声の主(ぬし)に答えます。「はい、ありません。」すると声の主が言います。「舟の右側に網を下ろしなさい。そうすれば、獲れます。」  彼らは、冗談言っちゃいけねえ、などと疑わず、素直に網を下ろしました。漁師の経験や勘よりも、岸辺の声を信じたのはなぜでしょうか? これは、3年にわたってイエスさまの御声に従順にお従いする訓練ができていたから、御声をキャッチするとそれにひとりでに従えていたからでした。まだ、この声の主がイエスさまだと気づいていなくても、ひとりでにそれが主のみこころだと判断できて、行動できていたわけです。そう、従順の行いが、頭で考えるよりも前に、本能のように身についていたわけです。  すると、獲れるわ獲れるわ! その数なんと153匹! 弟子の一人が叫びます。「主だ!」そう、あの岸辺の声の主は、イエスさまだと分かりました。水にぬれるし、汗をかく、そんな力仕事の邪魔になるからと、すっぽんぽんで漁をしていましたが、ペテロは、イエスさまに会いたい! でもこれじゃ恥ずかしい! と、服をまとって湖に飛び込み、一目散に泳いでイエスさまのおられるところに向かいました。  イエスさまは粋な方です。よくもわたしのことばを無視して、またもこの世の働きに出ていったな、などとお責めになることは、一切なさいませんでした。そうじゃなくて、イエスさまのなさっていたことは、パンと魚を用意して、炭火を起こしてその上で魚を焼いて、朝ごはんを用意する、ということでした。ほら、あなたがいま獲った魚をこの火の上に載せなさい、イエスさまは、彼らの漁の努力が意味のあるものにすることさえしてくださったのです。一晩中の漁のお仕事、よく頑張ったね、そんなふうに励ましてさえくれているようです。  弟子の足を洗ってくださったイエスさまは、ここでも弟子たちのしもべとなってくださいました。相変わらずイエスさまの言うことを聞かないで、勝手なことをしている彼らが、おなかがすいて疲れたら、食べさせてあげる。そのためにパンをこね、魚を獲り、炭火を熾して料理して……どこの世界に、先生をしくじる弟子たちにここまで尽くす、そんな先生がいるでしょうか。  彼らは、このお方がイエスさまだということをわかっていました。十字架に死なれ、お墓に葬られていなくなったのではない。復活していま、ここにともにおられる。あなたはどなたですか、なんて、聞くだけ野暮というものでした。  そしてイエスさまは、その中でもとびきりのしくじりをしたペテロに向かって、おっしゃいます。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、あなたはわたしを愛していますか。」イエスさまのおっしゃった「愛していますか」、これは欄外の脚注にあるとおり、ギリシャ語の原文では「アガパオー」、つまり、「神の愛で愛していますか」ということです。  しかし、イエスさまを三度も裏切ったペテロに、そんな大それたことがいまさら言えるでしょうか。いわんや、ここにいるほかの人たち以上にあなたを神の愛で愛しています、など、とんでもないことです。ほかの者たちがつまずいても、自分は絶対そうなりません、と大見得を切った者が、いまさらどの口でそんなことを言えるでしょうか。  それでもペテロは、イエスさまがおられると知ったら、上着をまとって精一杯の威儀を正しながら、一目散にイエスさまのもとに駆け寄っていった、イエスさまが大好きな人であることに変わりはありません。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」この「愛している」は、これも欄外の脚注にありますが、「フィレオー」、つまり「兄弟愛」です。神の愛には遠く及ばないけれども、私はあなたを愛しています、それは、わかってくださっていますよね?  そんなペテロに、イエスさまはおっしゃいます。「わたしの子羊を飼いなさい。」ルカの福音書15章4節から7節に出てくる羊飼い、いなくなった羊を一生懸命さがし、見つかったら喜んでその羊を肩に担いで帰り、その喜びをみんなに分かち合う。それほど、いと小さな存在をイエスさまの子羊と見込んで大事にする、イエスさまが何よりも大事にしておられる小さな存在を大事にすることで、イエスさまのことを大事にする、そんな人になってほしい。  でも、イエスさまはなおお尋ねになります。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」ほかの人よりも、ではないにせよ、イエスさまはこの問いにおいても「アガパオー」とおっしゃいました。しかし、ペテロは「私がフィレオーの愛であなたを愛することは、あなたがご存じです」とお答えしました。私の愛が神の愛などとんでもない、しかし、それでも私があなたを愛していることは、あなたが知っておられます。イエスさまはその答えをよしとし、「わたしの羊を牧しなさい」とおっしゃいました。ダビデがしたように、群れのことをいこいの水のほとりに導き、緑の草を食べさせる、猛獣どもの手から守りながら。そのように、教会をつくって世話をしなさい。それが、わたしを愛するということです。  しかし、なおイエスさまはペテロを放されませんでした。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」こんど、イエスさまがお用いになったのは、「フィレオー」です。  そうです。イエスさまは、ペテロが「アガパオー」には遠く及ばないにせよ、「フィレオー」の愛、その愛で、神さまを愛します、イエスさまを愛します、と言えるほどの愛を持っていることを、わかっておられました。ペテロはしかし、この質問に心を痛めました。なぜならば、イエスさまが三度も繰り返して同じ質問をされたからです。しかしこれは、三度にわたってイエスさまのことを「知らない」と言ってみせて、もはやイエスさまの弟子であることも、働き人であることも捨ててしまっていたペテロのことを、本来の召命に回復させてくださるうえで、どうしても必要なお取り扱いでした。三度問われ、三度、ペテロの口からイエスさまへの愛のことばを語らせることで、イエスさまを愛していないということを事実上口にしてしまったその「事実」を、まったくないものにしてくださったのでした。  イエスさまは、ペテロがどんなにご自身を否定したという事実があろうとも、ペテロがほんとうはご自身を愛していることを、だれよりもご存じでした。ペテロよ、もうあなたは、わたしを愛せなかったと自分のことを責めるな、あなたがわたしを愛していることは、わたしがいちばんよく知っているよ。そんなあなたのことを、あなたがわたしのことを愛する以上に、わたしは愛しているよ。だから、わたしはそんなあなただと見込んで、わたしの羊を任せるよ。さあ、お世話しなさい。  イエスさまの羊を養うことのできる資格は何でしょうか? イエスさまを愛すること、これだけです。イエスさまを愛していれば、一生懸命、イエスさまのご命令が何かということを学びますし、そして、そのご命令を守り行おう、そのようにしてイエスさまの喜びとなろうと、これまた一生懸命になるでしょう。そしてそのご命令は、イエスさまの羊を養うことです。  私たちは羊です。しかし、それと同時に羊飼いにもなります。かつて、アメリカのある宣教学の専門家の先生が、日本の教会を訪問して、日本の教会では羊飼いが羊を産んでいる、と評価されましたが、それはもちろん、信徒たちは教職者に伝道や養育を任せっきりにしている日本の教会の現状はよくない、ということではあるものの、別の見方をすれば、そうですよ、何が悪いのですか? と開き直ってもいいおことばです。というのは、私たちはイエスさまを愛するかぎり、だれであれ、羊であると同時に羊飼いだからです。牧師や宣教師だけが羊飼いなのではありません。みんな、イエスさまを愛していれば羊飼いです。  イエスさまを愛して日々、みことばをいただいてお祈りし、イエスさまのみこころを受け取りつづけているならば、私たちはこの教会という羊の群れを愛し、ひとりひとりの羊を愛したい、と思えるようになるでしょう。なぜならば、この羊を大切にすることが、イエスさまが何よりも願っていらっしゃることだからです。  だれかに愛してもらう前に、ケアされる前に、まず自分から愛せるようになりたいものですが、そのためには、神さま、イエスさまがどんなに、私たちのことを愛しておられるか、その愛を毎日、存分に受け取ることです。そうすれば、教会のひと枝ひと枝、羊たちを愛することは主のみこころだ、と心から受け取り、自分から愛しはじめることができるようになります。そうして、お互いに愛し合う共同体として成長するのです。そんな麗しい主のからだなる共同体を、今年度も、2025年度も、この地に形づくっていく者たちとして、私たちが用いられますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

私たちは主にあって何者なのか

聖書箇所;ヨハネの福音書1章24節~28節 メッセージ題目;私たちは主にあって何者なのか  初対面の人には「自己紹介」というものをする。この「自己紹介」というものについて、妻に指摘されてはじめて気づいたことなのだが、日本では多くの場合、自己紹介をするとき、自分の「趣味」は何か、ということを言う。相手に対して「ご趣味は……?」と尋ねるわけである。妻にそう言われてみれば、私も結構、趣味のことを言ってきたし、逆に、韓国にいたとき、自己紹介の際には自分の趣味がどうのこうのとは言わなかったと思う。そう指摘する妻に対し、私は、そうやってもし趣味が共通していると知ったら、そこから話題を広げて、仲良くなろうとしているのかもしれないね、と言ったが、いまひとつ腑に落ちないようだった。  これは国民性のちがいだろう。私は人生の3分の2ちかくを韓国という国に関わってきたから実感することだが、韓国の人はたしかに、相手が自己紹介をする際、自分の趣味のことを言ったりしたなら、だからなんなの? と思うのだろう。韓国人には、相手の趣味が何かなどと知ろうという発想が、そもそもないわけである。それは韓国人にとって、自分にはどうでもいいインフォメーションに長々とつき合わされることなのだろう。初対面でそれはきつい。しかし、趣味にかぎらず、冗長なインフォメーションを初対面の人に聞かされるのが嫌なのは、日本人にとっても同じこと。いや、だれにとっても同じだろう。  そこで今日の箇所である。先週は23節までのみことばから学んだが、ヨハネは自分のことを「預言者イザヤが言った、主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声」であると語った。これ以上ないほど正確な、そして堂々とした自己紹介である。これは、いらないことを長々と述べる自己紹介とは対極にある。  さて、今日の箇所の、24節、25節のみことば。「彼ら」とはだれであろうか? 新改訳聖書にしたがって文脈を追うと「パリサイ人に遣わされた祭司とレビ人」のことだろうか、と思うだろう。しかし、祭司とは、パリサイ人と別個の存在であるサドカイ人に属する人たちであり、レビ人はそんな祭司の配下にあって宮に仕える者たちである。パリサイ人がサドカイ人を派遣するというこの記述は不自然に見える。この箇所は別の訳によれば、「彼らの中にはパリサイ人がいた」となる。となると、ユダヤの宗教界の既得権を握っていたサドカイ人とパリサイ人が一緒になって、ヨハネのもとにやってきた、ということになる。  先週もお話ししたが、なんといってもパリサイ人とサドカイ人は、そろって、バプテスマを受けに来た群衆の前で、ヨハネに恥をかかされた者たちである。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」ヨハネのもとに、あなたは何者なのか、と尋ねにやってきた者たちが、このとき恥をかかされたのと同じ者たちだったかどうかは聖書は語っていないが、パリサイ人やサドカイ人という宗教的権威が恥ずかしい目にあった、ということは確かである。だから、25節のこの問いは、そのような宗教的権威に歯向かうものを懲らしめるための、ことばじりを捕らえようという試みでもあった。  25節のこの問いは何を意味しているのだろうか? 単にその権威の起源が知りたくて質問したのだろうか? わかったら、ヨハネのバプテスマは天から来たものだと信じ告白するのか? もし、相手がパリサイ人やサドカイ人であろうとかまわず、恥をかかせるような存在がヨハネなのだとしたら、そんなナイーブな理由で質問したのではなかろう。キリストでもない、みことばに預言された働き人でもない分際で、バプテスマなどという大それた行為をするおまえは何者だ、というわけである。  これに対してヨハネは、26節、27節のように答えている。……これもまたヨハネの自己紹介である。しかし、ヨハネは、キリストでもなく、エリヤでもなく、「あの預言者」でもない自分が、なぜバプテスマを授けているのか、ということを、神学的な理由づけなどを用いて説明するようなことはしなかった。そうするよりも、もっと手っ取り早いやりかたがあった。それは、「あなたがたの中にいる、あなたがたの知らない方」に目を留めさせることであった。  人は、イエスさまにさえ目が行けば、そこまで導いた人は消え去ってしまっていい。ヨハネはそんな思いで、自分ではなく、イエスさまに目を留めさせようとした。いみじくもヨハネは言っている。「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」  折しもヨルダン川周辺から大勢の群衆が、ヨハネを神の人と認めてその説教に耳を傾け、罪の赦しを求めてバプテスマを受けに、われもわれもと集まっていたときであった。群衆としては、このヨハネこそがキリストだ、と信じたい思いもあったことだろう。しかしヨハネは、とんでもない、私のあとから来られる方のほうがよほど偉大だ、と主張し、どこまでもイエスさまに目を留めるように仕向けたわけである。  履き物のひもを解く値打ちもない。これはどういうことかというと、当時のユダヤの人々が履いていた履き物は、こんにちの私たちがはいているような「紐靴」のようなものではない。もっと、素足が道の埃に触れるような恰好をしていた。足にフィットするサンダルのようなものである。そういう履き物をひもで固定して外出するわけだが、そのひもを解いて履き物を脱がせることは、師匠であっても弟子にはやらせなかったという。あくまでこの働きは、奴隷の働きである。つまり、私ヨハネはイエスさまの弟子にさえなれない、いや、奴隷にさえなれな存在である、という告白をしていることになる。  イエスさまとはそれほど偉大な存在である。私たちは福音書をお読みするとき、イエスさまというお方が民衆ととても距離が近いことを見るが、本来ならイエスさまはそういうお方ではないのである。イエスさまは神さま、創造主である。私たちは人、被造物である。このことだけでも、バプテスマのヨハネが言っていることは正しい。  それだけに、イエスさまが十字架にかかられる前の最後の夜、弟子たちの足を洗うという、まさしく奴隷の働きをなさったことは、弟子たちにとってどれほど衝撃的なことだったか。いや、十二弟子だけではない。これは全人類にとって衝撃的なことだった。神の奴隷になることすら許されていない人間の、その奴隷としてあえてふるまうことをお選びになった、それがイエスさまのご主権であり、イエスさまのご栄光であったのである。  その、奴隷として振る舞われた究極のお姿、それは、十字架であった。ユダヤの宗教指導者たちはナザレのイエスをキリストだと最後まで認めず、かえって、イエスさまがご自身のことをキリストだと神かけておっしゃった、まさにそのことを死に値する罪だと言い放って、イエスさまのことをただの死刑ではない、あまりに残酷、そして究極の呪われた者とする刑罰、十字架送りにしたのであった。  しかし、主はその人間のどす黒い思惑の上を行っておられた。神を十字架刑に処するなど、神を神としない人間の罪のその最たるものだった。しかし、その十字架によって、あらゆる人間のすべての罪をお赦しになるという、究極のみわざを神は行なってくださった。イエスさまは自ら十字架にかかられることによって、道の埃にまみれた足を洗ってあげるように、あらゆる罪の道を歩むゆえにけがれた私たちのことを、その流された血潮によって洗ってくださった。神の奴隷になる資格すらない私たちのために、それほどのことをしてくださったのである。  そんなイエスさまは遺言のように、弟子たちにおっしゃった。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『主』とか『先生』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」  イエスさまが足を洗ってくださったことは、十字架を象徴することだと申し上げた。だとするとこれは大変なご命令である。わたしがあなたのしもべとして十字架につくように、あなたがたもお互いのしもべとして、十字架につくほどの犠牲を伴う愛を実践しなさい。  私たちはなんとこの姿から遠いことだろう。私たちはイエスさまのこのご命令をお聞きして、どう思うだろうか?「ああ、自分はこれほどまでに人を愛せていない」と、自分のことを激しく責めるだろうか?「いや、こんなレベルの高い愛は実践できないよ」と開き直るだろうか?「こんなことを要求するなんて間違っているよ。だってだれにもできないんだから」と、教えのせいにするだろうか?  その反応は間違っていない。むしろ、そう反応せずに「わかりました! 頑張ります!」と答えるほうがよくない。できもしないことをやってみせようとするのは、人に気に入られようとするパフォーマンス、ポーズに過ぎない。  私たちの目の前に差し出される足が道の埃にまみれているということは、犬の粗相がくっついているかもしれないわけである。足そのものだって、水虫にやられていたらおいそれと触れるものではない。人間のきたなさはそんなものではない。相手に関わって嫌な思いをさせられることは一度や二度ではない。そんなとき、自分の愛のなさを棚に上げて、相手のせいにすることがどんなに多いことだろうか。何のことはない、自分の方こそきたないのである。  足を洗い合うということは、足を洗ってあげるだけではない、足を洗って「もらう」ことによって、はじめて「洗い合う」ことになる。そのためには、自分の足が水虫だろうと脂性だろうと、恥ずかしがらずに、相手の手に委ねる決断が必要である。私たちが「仕え合う」ためには、ときには仕えてもらわなければならないほどの自分の弱さを認め、それを人の前で謙遜に分かち合う姿勢が必要になる。  そのようなことを私たちがするのは、それが神であるイエスさまのご命令であり、ご希望だからである。しかし実際には、私たちは人のきたなさに触れるのは嫌だし、自分のきたなさをさらけ出すのも嫌である。しかし、そんな私たちに、イエスさまは「足を洗い合うべきである」とおっしゃった。それは、私たちのために十字架にかかってくださるほど私たちを愛し、私たちに仕えてくださった、イエスさまに拠り頼めば、できるようにしていただける、ということである。イエスさまが私たちに、不可能と思えることでも命令されるのは、私たちがイエスさまの全能の御手に拠り頼むならば、できるようにしていただけるからである。  この、従順によってイエスさまのみこころをまっとうした最初の人は、バプテスマのヨハネであった。マタイの福音書によれば、イエスさまは神であられるのに、ヨハネからバプテスマをお受けになった。それが正しいことであるからとイエスさまはおっしゃった。ヨハネは、イエスさまがそうおっしゃる以上、イエスさまのおっしゃるとおりにした。それは、イエスさまのおことばに従順にお従いした、ということである。  十二弟子がきたない足をイエスさまに差し出して洗っていただいたのも、それがイエスさまのみこころに従順にお従いすることだからである。イエスさまが「わたしのからだ、わたしの血潮」とおっしゃって渡してくださるパンとぶどう汁を、何と畏れ多い、と思おうとも口にすべきなのは、「取りて食らえ」とイエスさまがおっしゃるからである。  イエスさまの履き物のひもを解くことも畏れ多くてできかねる、あの偉大なバプテスマのヨハネにしてそうだったのならば、いわんや私たちなどはどれほど低い存在なのか。だが、私たちは主にあって何者なのか。そのような低くて低い存在なのに、イエスさまが身代わりになって十字架に死んでくださり、その血潮で私たちのあらゆる罪とけがれを洗い清めてくださったほどの、あまりにも尊い存在である。  イエスさまの履き物のひもを解く値打ちもない。ヨハネのこの自己評価はまったく正しい。しかし、それ以上に真実なのは、そのヨハネにご自身へのバプテスマを授ける権限を持たせてくださった、イエスさまのへりくだりである。同じような私たちは、神の御前でとことんまでへりくだるべきである。しかし同時に見上げるべきは、そのような私たちを高めてくださる、イエスさまの十字架の愛である。  私たちは自分自身を正しく見よう。自分という存在はなぜ小さいのか? それは他人と比べてどこか劣っているからでは決してない。偉大な神さまを前にしているから小さいのである。その意識はだれもが、いつも、どこにおいても持つべきものである。  しかし、私たちが同時に持つべき意識は、私たちは「主にあって」何者なのか、ということである。王の王なるイエスさまが仕えてくださるほどの存在、それが私たちである。私たちは自分が汚れていると思い、落ち込むだろうか? 主はおっしゃる。「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない。」神さまが私たちをイエスさまの血潮できよめてくださった以上、だれが何と言おうとも、私たちはきよいのである。私たちは神のものである。ここから、ともに神のものにしていただいているゆえに、私たちはお互いのことを大事に思い、お互いに対して愛することを実践していこう。

主の道をまっすぐにせよ

聖書箇所;ヨハネの福音書1章19節~23節 メッセージ題目;主の道をまっすぐにせよ  私の好きな詩人に、草野心平という人がいる。富士山に関する詩を多く書いているので「富士山の詩人」と呼ばれたり、もっと変わったところではカエルに関する詩を多く書いているので「蛙の詩人」と呼ばれたりしているが、もちろんそれだけではなく、宇宙的な広がりを持つ壮大な詩、そうかと思うと実に人間臭い詩など、その作品はたまらない魅力にあふれている。しかし彼の作品は、実際にはどれほど広く知られているだろうか。私はたまたま実家の蔵書で詩集を手にしたからファンになっただけで、私のようなマニアでもなければそんなにみんな知っているわけでもないだろう。  しかし、そんな彼には、日本の文学の歴史に残る偉業がある。それは、宮沢賢治の作品を世に送り出した、ということである。宮沢賢治は草野心平の創刊した詩の同人誌『銅鑼』の同人で、心平は賢治がいかに天才だったかということをだれよりもよく知る立場にあった。しかし、賢治は世に広くデビューする前に亡くなった。心平は、このまま賢治の作品が埋もれてはなるまいと、作品が世に知られるように奔走し、そしてついに陽の目を見た。それから先、賢治の作品は心平が一生かかって残した諸作品とは比べ物にならないほど有名になった。心平は賢治が亡くなってから60年ちかく作品をつくりつづけたが、賢治より有名になることはついになかった。しかし、心平はそれで満足だったはずである。  賢治を世に送り出すために努力した心平……この話を知ったのは、私がまだクリスチャンになる前のことだったが、のちに教会に通うようになり、聖書を読んでいるうちに、バプテスマのヨハネがイエスさまを知ってほしいと努力する姿は、まるで心平が賢治を世にデビューさせることに努力したようだと思ったものだった。  バプテスマのヨハネ……けっして異端ではないが、らくだの毛衣をまとって荒野に住むような、異形の人。彼はしかし、自分に注目する者たちの目を、イエスさまへと向けさせた。草野心平はたとえ宮沢賢治のデビューに関わっていなくても充分すばらしい詩人だが、ヨハネはそれとちがい、ヨハネの人生が魅力的だったとするならば、それはただひとつ、イエスさまへと人々を向けさせたからであった。  ユダヤの宗教指導者たちは、祭司やレビ人をヨハネのもとに差し向けた。彼らはヨハネに、「あなたはどなたですか」と尋ねた。その質問に対し、ヨハネは「私はキリストではありません」と答えている。ヨハネのこの答えから、彼ら宗教指導者層の質問の意図を読み取ることができる。彼らはヨハネから、「私はキリストである」という回答を引き出し、その言質を取って、ヨハネのことを、神を冒瀆したという罪名でこの社会から葬り去ろうという意図があったようである。何といっても、彼ら宗教指導者は、群衆の見ている前で、ヨハネに「まむしのすえども」と罵倒され、大恥をかかされている。そんな宗教指導者たちはヨハネのことを、自分たちの既得権を脅かす者としてマークしていたようである。  実際民衆は、ヨハネのことを、もしかしたらキリストかもしれないと思いはじめていた。宗教指導者たちにしてみれば、自分たちが独占すべき霊的既得権をすべてヨハネに持っていかれるようで、危機感を覚えるしかなかった。そんなヨハネを罠にかけるには、彼自身に、自分はキリストであると告白させるのが最もよい方法だった。そうすることで彼のことを、神への冒涜だ、と責めることができる。彼らはのちに、イエスさまを十字架にかけるときにも同じ方法を用いた。  しかし、ヨハネの答えはあっけなかった。「私はキリストではありません」。だれが何と言おうと、自分はキリストではない以上、キリストだと名乗ることはありえない。ただそれだけのことである。  しかし、宗教指導者たちの質問はそれで終わらなかった。「それでは、あなたは何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネはこの質問にも「違います」と答えた。  エリヤは、普通の人が死んで墓に葬られるようにしてこの世を去ったわけではない。列王記第二の2章をお読みになればお分かりのとおり、エリヤは神の時に、天から召されて、竜巻に乗って生きたまま肉体ごと天に引き上げられたのであった。そのエリヤがこの地に再来することは、マラキ書の4章にも予告されていて、その予告どおり、あのとき天に引き上げられたエリヤが再び地上に降りてきたのか、ということである。しかし、ヨハネはエリサベツという女性から生まれたのであり、天から降りてきて地上にいるわけではない。だから、「違います」なのである。  ただし、エリヤがこの地に来てすべてを立て直す、ということが、ヨハネが来ることによって実現した、ということは、イエスさまご自身がお認めになっている。イエスさまがヨハネをエリヤだとおっしゃっている、ということである。しかし、ヨハネの告白はイエスさまのおことばと矛盾していると見なすべきではない。ヨハネは主イエスさまがそうおっしゃる以上、エリヤである。しかし、ヨハネ自身は、われこそは再臨のエリヤであると振る舞うべきではない、なぜなら、それこそイエスさまがおっしゃるとおり、「女から生まれた者」としての分際をわきまえるべきだから、と意識していたかと見るべきである。  さて、私はエリヤではない、という答えにも納得しない宗教指導者たちは、「では、あの預言者ですか」と尋ねた。これに対してもヨハネは「違います」と答えている。  あの預言者、というのは、申命記18章15節と18節においてモーセが語る存在を指す。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたはその人に聞き従わなければならない。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。」  これは、モーセよりのちの時代にも預言者が起こされることを語ったことばだが、どの時代の預言者も、すべてモーセの語った預言のことばである律法に基礎を置いたものである以上、「私のような一人の預言者」とまで言い切れるわけではない。部分的である。モーセがほんとうの意味で語るとおりのその究極の預言者は、それこそこのことばの預言するとおり、主がお命じになることをすべて民に告げる、みことばの実現そのものの存在である。早い話が、あの預言者とはキリストのことである。その預言者を民は待ち望んでいた。宗教指導者はだから、ヨハネよ、あなたはその究極の預言者なのか、と問うているわけである。  しかしもちろん、ヨハネはそうではなかった。だから、「違います」と答えた。しかし、そうは言っても、ヨハネは主のみことばをあますことなく伝える役割を果たしてはいた。ただ、主ご自身の現れとして語っていなかっただけのことである。ヨハネは最後の最後にイエスさまへと導いたという点で、れっきとした預言者であった。  ヨハネはもちろん、自分が預言者である、すなわち、主のみことばをお預かりして人々に宣べ伝える働きに召されているという自覚を持って働いていた。その働きに誇りやプロ意識を持ってもいただろう。しかしそれでも彼は、ユダヤ人が言うところの「あの預言者」、すなわち、モーセに比肩する究極の預言者、キリストだなどと思い上がっていたわけではない。つまり、ヨハネをヨハネならしめていた神の働きが、彼を支えていたわけではなかったのである。  ヨハネのこの姿勢は、私たちにも適用できる。私たちは神にあって素晴らしい存在である。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43章4節のこのみことばをとおして私たち自身を見つめるとき、私たちは何とセルフイメージが上がることだろう。  しかし、まず忘れてはならないのは、私たちは本来、愛される資格がなかった存在である、ということである。堕落する道、神に背を向ける道を好んで選び、神の怒りがその上にとどまって当然の存在、永遠に呪われて滅ぼされるべき存在だったということである。  私たちがフォーカスを合わせるべきは、そのような者であるにもかかわらず、私たちの受けるべき罰の身代わりにイエスさまを十字架につけてくださるほどに愛してくださる神さまの御名であり、愛されている「私」であってはならないはずである。自分はクリスチャンだからと、ほかの人よりも何かすぐれているように思いこんでふるまったりする、いけ好かない人になってはならない。どこまでも、神さまのお立場から自分を見て、このような者を愛してくださる神さまをほめたたえることを忘れてはならない。  また、私たちは、礼拝をすること、奉仕をすること、そのために遠路はるばる礼拝堂にやってくることがすばらしい一方で、そういうことに労している自分って素晴らしい、などと考えてはならない。ヨハネの人格を支えていたものは、荒野暮らしという奇抜な生活スタイルでも、歯に衣着せぬことばで行う預言の働きでも、バプテスマを大勢の人に授ける働きでもない。主に召され、遣わされているという召命意識が彼を支えていた。私たちもまた、何をしているか、ということを考える前に、神さまは私を何者にしてくださっているか、でとらえるべきである。  ヨハネは何者だろうか? 彼自身が言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ぶ者の声』です。」古代の中東においては、王が道を行くときには、その前に立ちはだかる大きな石をことごとく取り除き、王が通りやすいように道を備えたという。主の道をまっすぐにするとはそういうことであり、人々をしてその働きに献身させる役割をする人の存在は大事になるわけだが、ここでヨハネは、「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫ぶ者です、とは言っていない。あくまで自分は、「声」であると言っている。  うちの子どもの中学校では年に1回、クラス対抗で合唱を競うイベントがある。ほんとうにいろいろな曲が選ばれ、そしてみんな、ほれぼれするような歌声を聴かせてくれる。そんな彼ら中学生の合唱は、彼らの伝えたいメッセージが歌に託されている、とは言えるかもしれない。しかし、歌は100パーセント、彼らのメッセージそのものである、とはいえない。なぜならば、それらの歌は彼らが作詞作曲した、オリジナルの作品ではないからである。だれかがつくった有名な歌を歌うわけで、その歌を歌うことで、歌のすばらしさが一層輝く仕掛けとなっている。この中学生たちに選ばれて、一生懸命歌われるほど素晴らしい作品なんだなあ! と。そして言うまでもなく。合唱というものは、30人なら30人、一人一人の表情や服装にくまなく目を配って感動する芸術ではない。あくまで、聴かせてくれる歌に感動する芸術である。  ヨハネも、神さまのみことばを伝える「声」に徹した。神さまのみこころと関係のない、自分の個性や主義主張を出すようなことはしなかった。しかしそれは、個性を特有の人格を殺さなければ神の働きをしたことにはならない、ということでは決してない。神さまはヨハネに、荒野での生活、らくだの毛衣という服装、いなごと野蜜という食べ物、そんな衣食住という、独特すぎるほどの個性をお与えになり、そのライフスタイルが大勢の人々を惹きつけ、結果として彼らがイエスさまを見られるようになったという側面も確かにある。  私たちも生き方をとおして、神さまのみことばを表現する「声」の役割を果たす。その「声」は何を語るのだろうか。ヨハネはいろいろなことを語り、奇抜なライフスタイルで通し、バプテスマを大勢の人に授けたが、その生活全体が一貫して語っていたことは「主の道をまっすぐにせよ」であった。イエスさまはヨハネの予告どおり人々の前に来られたが、十字架のみわざを成し遂げられ、復活し、天に昇られ、いま天にて父なる神の右の座におられる。私たちは、いまは天におられるイエスさまが、やがてこの地に再び来られ、すべてを統べ治められることを信じ告白している。  いまこの世界は、イエスさまが来られて2000年が経つ今もなお、イエスさまを認めない。この地はなお、罪と暴虐と淫乱と破壊に満ちている。この地は再びイエスさまを迎えるには、あまりにも荒れ果てていて、人の心は冷たく冷え切ってしまっている。神さまはそのような世界にあって、私たちのことを救い、ご自身の民にしてくださったが、それはなぜなのだろうか。  私たちが忘れてはならないのは、私たちとは、この地において「主の道をまっすぐにせよ」と、そのことばと行い、いや、存在のすべてをもってこの地のすべての人に呼びかける「声」とされている者である、ということである。人々の前で神さまのすばらしさを顕す、すなわち神を愛し、隣人を愛するのも「主の道をまっすぐにせよ」のため。だから、そのことばと行いに必要な知恵と導きを毎日みことばからいただき、祈って御霊の力に満たされるのも「主の道をまっすぐにせよ」のため。すべては「主の道をまっすぐにせよ」、このご命令に私たちがまず従い、このご命令を人々に、ことばと行い、自分の全存在をもって語り伝える、それが私たちなのである。 <祈りの課題> ・私たちは、主の道をまっすぐにしているか? 足りない部分が示されたら悔い改めよう。 ・私たちは、人々が「主の道をまっすぐにする」働きに用いられるために、何をどう祈るべきか? 示していただき、示していただいたら、それに取り組むための力が与えられるように、祈ろう。

恵みの上に恵み

聖書本文;ヨハネの福音書1章9節~18節 メッセージ題目;恵みの上に恵み  最近よく使われることばに「伏線回収」というものがある。小説なりドラマなり、ストーリーのあちこちに伏線となるできごとがちりばめられていて、物語の最後になると、その伏線すべてに意味があったことが判明する。これを「伏線回収」というわけで、そういう、ストーリーの妙味を楽しむ物語のあらすじを、物語をまだ知らないけれども興味や関心を持とうとしている人の前でべらべらしゃべったりする行為は、「ネタバレ」と呼ばれて、とんだマナー違反となる。  牧師の千代崎秀雄先生という方がおっしゃっていたことだが、聖書を一つの推理小説に見立てると、新約聖書は「解決編」にあたり、「旧約聖書」はその「解決編」に向かう伏線ということができる、と。だから、新約聖書だけを読んでいるようでは、ほんとうに聖書を読んだことにはならない、と。いかにも、旧約学をライフワークとされ、そしてとてもユーモアに富んでおられた千代崎先生ならではのおことばだが、しかし、旧約聖書を充分に読んだうえで新約聖書に行くというのは、ユダヤ人でもないかぎり普通はありえないことである。だいいち、何の予備知識もない中でいきなり最初からずっと聖書を通読するのは難しすぎるし、そのプロセスで旧約の「伏線回収」として新約を味わうなんてことは、まず無理であろう。  だから、どうしたって、聖書を読むとなったら、まず新約聖書に書かれているイエスさまとその福音を充分に学ぶことが先になるし、それから旧約聖書を、イエスさまを鍵に読み解いていくしかない。あんなことをおっしゃった千代崎先生だって、間違いなく、最初はその読み方で聖書をお読みになったはずである。ともかく、新約を鍵に旧約を読んだ結果、その結果、ああ、新約聖書とは旧約聖書の伏線回収なのだなあ! と、しみじみするわけである。  実は、今年に入ってから連続して学んでいる、ヨハネの福音書を読むときにも、読みながらの謎解きではなく、先に答えを知ったうえで、あとになってからこんな謎が書かれていたのか、と気づくような読み方をしないと、とても難しい。いきなり、初めにことばがあった、とあるみことばを解き明かすには、どうしたって、もっとあとにある、そのことばがイエスさまであることを示す箇所をもとに語るしかない。ここまでしばらくの間、そういう前提でヨハネの福音書を読み進めてきたが、今日はついに、イエスさまのことを明らかにするみことばまでやって来た。  では、早速本文にまいりたい。すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた、とある。私たちはこのみことばをお読みして、どう思うだろうか? ああ、ついにまことの光が世を照らすのか、希望がやって来た。これでもう、暗闇に沈むことはない。苦しむことはない。そのように喜ぶだろうか。私たちならば、喜ぶのが普通だと思うだろう。  この光はこの世界をおつくりになり、この世界を所有しておられる、まことの神さま、王の王、主の主である。それなら、人はこの光とはどなたであるのか、わかっていてしかるべきであった。だが、その光によって照らされるべき「すべての人」の住む「この世」は、まず、この「まことの光」を知らなかった。知らなかったのはなぜであろうか? 光であられる神さまについて、正しく教えられていなかったからである。教えるべき人が、教えることをしなかったということである。  本来ならば、この「まことの光」を正しく指し示す役割は、神のみことばをだれよりも学んでいる、宗教指導者たちが担うべきであった。だが、彼らはその役割を果たさなかった。それはなぜであろうか? 彼らからして、自分たちが学んでいるはずのみことばが何を意味しているか、理解できなかったからである。これでは民に正しく教えることができないのは当然である。  それなら、祭司であれ、レビびとであれ、律法学者であれ、この宗教指導者たちは、まことの光が来れば、ああ、この方こそ、神さまだ、キリストだ、これまでわからなかったみことばがほんとうに成就したご存在そのものだ、と、有難く受け入れることをしたのだろうか? 本来ならばそうしてこそしかるべきであった。しかし、彼らは受け入れることをしなかったのである。それは彼ら宗教指導者たちが、自分たちが導く世界が、光に照らされることのない、暗闇のままであってほしい、と願った、ということである。要するに、まことの光に照らされたくなかったのである。  現在、どこかのテレビ局が、闇に葬っていたできごとが明るみに出たということで、そういうテレビ局の放送でコマーシャルを流せないと判断した企業が、次から次へと撤退するという、前代未聞のできごとが起こっている。あの一連のできごとが事実であるという前提で言うが、テレビ局の幹部役員としては、このまま暗闇が続いていてくれたらとどんなに願ったことだろうか。しかし、それが明るみに出ているのは、正義をもって歩む人たちが光に照らし、明るみに出しているからである。  もっと深刻な話をすれば、お隣の国韓国が今たいへんな状況になっていることは、ニュースでもご存じのとおりだろう。先週の礼拝後の報告をお聞きになったように、妻は目下、韓国の動向にくぎづけになっているが、日本人の聖徒のみなさまにおかれては、日本宣教の献身者がなぜ自分の国のことばかり? などとおっしゃらないで、どうかご理解いただきたい。かつて私は韓国にいたときにちょうど東日本大震災が起こり、韓国にいながらにして日本のことが気が気でなかったという体験をしているので、いるべき国にいながら祖国を思う妻のその思いは、痛いほどわかる。また、私にとっても韓国は、人生の3分の2以上の長きにわたって関わってきた国であるから、現在韓国で起きていることは、とても他人事とは思えない。  ともかく、妻はいま、韓国に関して、日本で報道されているのとは比較にならないほど多くの情報を集めているが、現在韓国で起こっている混乱のその背後には、ざっくり話すと、いま国会の多数を占めている野党議員たちは実はかなり大掛かりな不正選挙により選ばれている、だが、その証拠はたくさん挙がっている、それを明るみに出さないとこの国は終わってしまう、という、必死の闘争がいま国民全体に燎原の火のごとく広がっている、という事情がある。もちろん、それを押しとどめようとする勢力の必死の抵抗も一方で存在し、それが現在の韓国社会の混乱につながっている。それでもいまや韓国は、ほんの少し前までの状況が嘘のように、与党の支持率が野党を上回るまでになっている。これも、暗闇を光により明るく照らすための戦いであるといえよう。  聖書の話に戻すと、ユダヤの宗教指導者たちは、民が暗闇にいたままでいてくれたら、自分たちのつくったシステムの中でのうのうと暮らすことができる。権力欲も金銭欲も満たすことができる。そんな世界を照らして正そうとする者は、どんな手段を用いてでも葬り去らなければならなかった。  そして、彼らが選んだ方法は、このまことの光なるお方、イエスさまを、十字架につけるということだった。十字架という手段を彼らが選んだのは、木にかけられた者は呪われる、と定めた律法のみことばがあるからである。どうだ、こいつは木にかけられたぞ、こいつは罪人の中の罪人、呪われた野郎だ、民どもよ、これでもおまえたちは、こいつを救い主キリストと信じるつもりなのか。イエスさまを十字架につけたとき、宗教指導者たちは、ざまあみろ、この呪われた者よ、と、さぞ高笑いしていたことだろう。  しかし、彼らがどんな方法を弄しようとも、神さまは民の中から、イエスさまを信じ受け入れる人たちを起こしてくださった。彼ら民衆は、宗教指導者たちの小難しい説教で信じたのではない。イエスさまの権威に満ちたみことばを直接耳にして、何よりも、神ご自身でいらっしゃるイエスさまを直接目にして、このお方がキリストだと信じる信仰に導かれたのである。それは、イエスさまという御名を持つこの方こそがキリスト、救い主であると信じたということである。そのようにして神さまは、暗闇の中にいた民をまことの光によって照らしてくださった。そして、神さまはこのように信仰へとお導きになった民に、神の子どもとなる特権をお与えになった。  13節を見ると、神の子どもというものは、ただ、神によって生まれた存在であると語る。その一方で、それ以外のものによっては生まれていないことも語っている。このみことばによれば、神の子どもは、血によって生まれるのではない、また、肉の望むところによって生まれるのでもない、あるいは、人の意志によって生まれるのでもない、と語る。  神の子どもは血によって生まれるのではない、つまり、家門、血筋、民族が神の子であることの理由にはならない。このことは、神の民と自認するユダヤ人にとっては痛烈な宣言である。ユダヤ人は自分たちが神の民であるという歴史を誇りとしてきた。  それそのものはすばらしいことであろうが、そんな彼らはつねに堕落の歴史を歩み、そしていま、彼らの指導者たちは救い主キリストが現れてもわからない、認められないほどになっていた。そんな者たちは自分たちのことをどんなに素晴らしい選民、神の民だと思おうとも、到底、神の民と名乗れるような状態にはなかった。そんな中でイエスさまを信じて神の子となれたとするならば、それはもはや人間のわざによることではなく、神のみわざであったというわけである。  また、肉の望むところによっても神の子どもにはなれない。これが聖書の宣言である。私たちは自分が望んでイエスさまを信じたと思っているようで、実はそうではない。なぜならば、私たちを支配しつづけてきた肉の望むことは、神さまに従うよりも、神さまに敵対することを選びたがるからである。私たちは本来、イエスさまなんて信じるものか、となって当然の存在である。  私たちはよく、この日本にはイエスさまを信じる人が少なすぎる、と、嘆くだろう。しかしそれはある意味当然のことである。表現を選ばず申しあげると、日本人にかぎらず、人というものはだれであれ、イエスさまというお方を信じたくないようにできているからである。だから、私たちがせっかく思い立って伝道したというのに、そのために祈るだけ祈ったというのに、相手がイエスさまを信じてくれなかった……こういうことが起きてもがっかりする必要はない。その反応は当然のものだからである。  そして、人の意志によっても神の子にはなれない。よし、信じよう、と願ったところで、それが神さまから由来するものでないならば、ほんとうの意味でイエスさまを信じたことにはならないのである。  要するに、人に由来するものは、血筋であれ、感情であれ、神の子どもとされることの根拠にはなりえない、ということである。もし、人がイエスさまを信じているというならば、それは、神さまがその人を信仰に導いてくださったから、というわけである。  お互いの顔を見ていただきたい。恥ずかしいだろうが、じっと見ていただきたい。目の前にいるこの人はすごいのである。なにせ、この人は、神によって、神の子として生まれた人たちだからである。私たちはいま、天使よりも素晴らしい人のお顔を見ているのである。  さて、イエスさまは神であられるのに、人となってこの世界にお住まいになった。そして、イエスさまは神であられるゆえ、栄光に輝くお方であられたが、残念なことに、みことばを学んではいてもそのほんとうの意味を一向に悟ることのできなかった宗教指導者たちは、イエスさまの栄光を見ることもできなかったほど、暗闇の中に陥っていた。  というよりも、暗闇から抜け出して光の方に行こうという気が、そもそもなかった。しかし、神さまによって神の子どもとなるように選ばれていた人は、イエスさまの栄光を見ることが許され、イエスさまの栄光に照らされて暗闇から光へと移された。  この栄光は、神のひとり子としての栄光である。それが人々の前で栄光として輝くのは、18節のみことばにあるとおり、人の目で見ることの許されていないご存在である御父を、ご自身のご存在とみことばとみわざによって解き明かされるゆえである。イエスさまのご栄光は、御父を離れて独自に存在するものではない。イエスさまの栄光は、御父の栄光を顕す栄光である。  そして、この方は恵みとまことに満ちておられた、とある。このイエスさまについてのバプテスマのヨハネの証言がそれに続く。ヨハネはイエスさまのことを、自分よりまさったお方である、なぜならば、自分よりも先におられたからである、と語っている。イエスさまはこの地に誕生されるはるかむかし、世界が創造されるより前からおられるお方、したがってイエスさまは神さま、それに比べると自分はどんなに人から尊敬を集めようとも、所詮は人間である、ということである。  イエスさまは神の恵み、神のまことをこの世に実現する、ただひとりのお方だった。確かに民には、モーセをとおして神さまご自身から伝授された律法があった。だが彼らは、律法を受け取り、学んではいても、まことのいのちに至ってはいなかった。神の子どもとなってはいなかった。というより、律法は人が罪人であることを明らかにする以上のものではなく、結果として人は、イエスさまのもとに行くしかなかった。  しかし、人はイエスさまを信じることによって、人間的ないかなる努力にもよらず、神の子どもとなるという恵み、すなわち、神さまからの無償のプレゼントをいただけることになった。恵みのうえにさらに恵みを受けたとは、人が罪人であることを悟らせる律法とは、イエスさまに救っていただいて神の子どもとしていただくという恵みを受けたことによって、実は恵みであったことがわかった、その律法という恵みが、イエスさまという恵みによって、ほんとうに恵みとなった、ということを意味する。また、恵みの上に恵みとは、かぎりなく恵みを受けた、イエスさまが来てくださったことによって、究極の恵み、これ以上ありえない恵みを人が受けた、ということも意味する。  私たちがこうして生きているのは、どこまでも、イエスさまの恵みによることであると覚えよう。それでも私たちはつい、悩んでしまうことがあるかもしれない。しかし、もし、悩むようなことがあるなら、このような者をかぎりなく恵んでくださっている、イエスさまの恵みに目を留め、感謝しよう。イエスさまの恵みの最高の現れはもちろん、この死ぬべきものを罪と死の支配から贖い出し、天国、永遠のいのちへと導いてくださった、十字架のみわざである。  また、自分の人生を振り返ってみよう。ここまで導かれてきたことは、相働きて益となす神さまの恵みではなかったか。覚えて感謝しよう。  <お祈り>  ・過去を振り返り、ここまで導かれてきた恵みに感謝しよう。  ・現在いただいている恵みに感謝しよう。  ・未来において、神さまは私たちにさらに大きな恵みをくださると信じて感謝しよう。

光の証し、証しの光

聖書箇所;ヨハネの福音書1章6節~8節 メッセージ題目;光の証し、証しの光  のっけから意地汚い話で恐縮だが、学生時代、大学から徒歩20分ほどの距離にあった、大塚駅前のラーメン屋「ホープ軒」が好きだった。味ももちろん素晴らしかったし、半分オープンになっているような店構えで、カウンター席の後ろを都電荒川線の電車がうなりを上げて走っていくのがたまらなかった。  自分が楽しむだけではない。よく友達を連れて行き、友達の喜ぶ顔を見てはドヤ顔を浮かべていたものだった。お店には宣伝用のチラシが備えつけてあり、それを持ち帰っては友達にあげて、一緒に行こうな、などと誘ったりしていたものだった。  あるとき、そんな自分のしていることは、まるで伝道みたいだな、と気づいた。おいおい、キリストを伝えるべきなのに、自分のやっていることはこれじゃ、ホープ軒の伝道師じゃないか。そして思った。果たして自分は、こうしてホープ軒のラーメンを宣伝するほどに、イエスさまのことを語っているだろうか?  しかし、最高のものがあれば宣伝したくなるのは人の常であろう。セールスマンとしてよい成績を上げるには、その売り物がどんな特徴、どんな効能を持っていて、それが買い手にとってどんな益をもたらすかを知り尽くしているのはもちろんのこと、その売り物を、買ってほしい、どうしても手に入れてほしい、という、情熱が何より大事であろう。しかし、セールスマンが物を売るのはもっと根本的な理由がある。その売り物を売るように、雇われ、派遣されているから。そう、売ることで、雇い主の希望を実現するからである。私もなんだかんだ言って、ラーメンの味を伝えたい情熱があるばかりに、宣伝しまくった結果、ホープ軒の売上アップに「貢献」して、経営者を喜ばせてしまっていたわけであった。  本日のみことばは、ヨハネという人物を短く紹介している。バプテスマのヨハネといわれている人物である。マラキ書の4章ほか、旧約のいろいろなところで預言されていたこの人物は、時至って、この世にあらわれたのであった。  6節のみことばを見ると、このヨハネが「神から遣わされた一人の人」であると書いてある。ヨハネがいかにこの世界に生まれたか、ということについては、ルカの福音書1章に詳しく書いてあり、子を産むはずのなかった女性を神さまがお選びになり、そうして生まれたのがヨハネであった、ということで、生まれからしてヨハネは特別、神さまによって遣わされた人だったことがわかる。  それは、ヨハネの人生はヨハネの持ち物だったのではない、神さまのものだった、ということである。ヨハネはこの世界を生きながらにして、神の人として生き、神の人として振る舞った。神を離れての自分という生き方など、ヨハネはしなかったのである。  神がヨハネを遣わされたということは、ヨハネは神のみこころをこの地に伝える全権大使の役割を果たすのがみこころだった、ということである。福音書を読むと、ヨハネのおもな働きであったバプテスマならびに説教を語る場面が詳しく出てくるが、ヨハネは住む場所は荒野、恰好からして、らくだの毛衣を身にまとっていて、食べ物はというといなごと野蜜だったという。そして語ることばといえば、宗教指導者のような高い地位にある者たちのことをさえ「まむしのすえども」と呼んではばからないような、妥協なき痛烈なことばである。俗世を離れた孤高の預言者、といった感じだが、これはヨハネがそういう演出をわざとしていたわけではない。すべては神さまの導きであった。それが証拠に、イエスさまご自身が、ヨハネからバプテスマを受けることは人としてふさわしい、とおっしゃり、ヨハネからバプテスマをお受けになっている。  そのように、ヨハネが人にバプテスマを授けるということ、逆に言えば、人がヨハネからバプテスマを受けるということは、人としてふさわしいこと、あるべき姿であるのは、神さまがそうお定めになったからである。人がバプテスマを受けることは何を象徴しているだろうか? 水に沈められて古い自分が死に、水から引き上げられて新しい自分へと生かされる。そのように、神の御前に悔い改めることによって古い自分が過ぎ去り、すべてが新しくされることを象徴している。さらには、罪なきお方ゆえに悔い改める必要のないイエスさまに至っても、バプテスマをお受けになっている。それほど、バプテスマは人として受けるべきものである、というわけであり、ヨハネとはこのバプテスマというみこころをこの世に示すために、神さまがお遣わしになった人だった、というわけである。  だから、これははっきり申し上げたいが、神さまを信じた、つまり、イエスさまを信じたというならば、バプテスマを受けよという神さまのみこころに従順になる必要がある。イエスさまを信じているが、バプテスマは受けない、というようではいけない。バプテスマを受けたから救われるとか、天国に行けるとかいうことでは決してなく、イエスさまを信じて救われたから、バプテスマを受けるということをもって神さまのみこころに従順になる、というわけである。  さて、それがヨハネの示したバプテスマというものだが、7節のみことばによると、ヨハネは証しのために来た、光について証しするため、そして、彼によってすべての人が信じるためであった、ということである。ということは、ヨハネがほんとうに伝えたかったのは、かたちとしてバプテスマを施すこと以前に、光なるお方であった。そのお方とはもうお分かりのとおり、イエスさまである。来週詳しくお話しするが、その光なるお方がイエスさまであることは、9節以下において語られている。ヨハネとは、その闇を照らす究極の光なるお方、イエスさまを宣べ伝える存在であった、というわけである。  しかし、8節の評価を見ると、ヨハネはどんな人物だろうか? 彼は光ではなかった、ただ光について証しするために来た存在である、と語っている。これはどういうことかというと、大いなるカリスマ性を帯びて人々を惹きつけていたヨハネのことを、人々は、もしかしたら彼こそが、むかしからみことばにおいて預言されてきたメシア、キリスト、救い主ではないだろうか、と思った、と聖書にあることと関係がある。しかし、彼はそのような自分に対する評価を知って、私はキリストではありません、と公言した。そう、彼はどんなに神的権威をもって働いていたとしても、キリストではなかったのである。それは周りがどう評価しようとも、彼自身がいちばんよくわかっていた。  韓国にはむかしから、われこそは再臨のキリストであると名乗る人間がうじゃうじゃしている。そういう人にとんとお目にかからない日本からしたら信じがたい話だが、これはほんとうのことである。何十人といるらしい。その中の一人が、あるインタビューにこう答えていたそうだ。「あなたはキリストですか?」すると、彼はこう言ったという。  「いや、私にはわかりませんが、周りはそう言っているから、きっとそうなんでしょうね。」なんとも卑怯な語り口だが、ヨハネはまさにこの反対、だれが何と言おうとも、自分はキリストではないという自覚をしっかり持っていた。  しかし、確かにヨハネはイエスさまのような光ではなかったが、それなら彼はどんな意味においても、光ではなかったのだろうか? そうではない。イエスさまはヨハネのことを「彼は燃えて輝くともしびだった」と表現された。ともしびというものは暗いところを明るく照らす存在である以上、言うまでもなく光である。しかし、イエスさまと同等の意味での光ではない。たとえるならば、イエスさまは太陽のような光であろう。太陽ひとつの存在で地球を昼と夜とに分けてしまう、それほどの光、さらには、やがてこの世界が終わって天国が実現したら、イエスさまご自身がその都の明かりとして照らされ、永遠に夜がない。まさしくイエスさまは、究極の光である。  これに対してヨハネはというと、ともしびのように、照らすにしても極めて限定的な場所という意味での「光」である。このところ毎日天気がよく、夜も雲がなくて晴れわたっているが、そんな夜には月がよく見える。その煌々と光る月に夜は照らされ、月明りということばをあらためて実感する。しかし、月の光は太陽の光に遠く及ばない。  さらに言えば、月は太陽の光を反射して輝く存在である。そう、イエスさまという究極の光を映すことで、ヨハネは光としての役割を果たしていた。言い換えれば、イエスさまという光を映してはじめて、ヨハネは光となれたわけである。それはいわば、月が、太陽の光を映さないかぎり、地球から見ればないのも同じにしか見えないのと同じことである。  そういうわけで、ヨハネは光なるイエスさまを証しすることで、はじめて光としての役割を果たし、ヨハネの説教を聴いた人はことごとく、その先におられる救い主イエスさまの福音を知るに至った。  そんなヨハネの姿は、私たちクリスチャンにとっても素晴らしいモデルである。それは、イエスさまという光を映して人々をイエスさまへと導いたという点で、そのように、そのことばと行いをもってイエスさまを証ししたという点で、私たちにとってモデルなのである。  しかし、大前提がある。それは、ヨハネは神さまによって、神さまのみこころをこの地上で守り行うべく遣わされた人であった、ということである。私たちはそれを知っているから、ヨハネのことを極めて特殊な人と見てしまわないだろうか? 荒野の、らくだの衣の、いなごと野蜜の……変人! いや、とてもそのレベルに至れない聖人!  しかし、ここはイエスさまのみことばに耳を傾けていただきたい。イエスさまはヨハネのことを、女から生まれた者のうちでヨハネよりもすぐれた人間はいなかった、とお語りになる。つまり、ヨハネほどすぐれた人間は歴史上いたためしがなかった、最高の人だ、というわけである。しかしイエスさまはおっしゃる。しかし、天の御国のいちばん小さな者でも、ヨハネよりも偉大である。  私たちは自分のことを何者だと思っているだろうか? 私たちはイエスさまを信じているだろうか? ならば、私たちは天の御国にすでに入れていただいている、と信じて感謝すべきである。ということは、私たちは自分が大したことがないように思っているかもしれないが、神さまの御目から見れば、天の御国の人である。もしかしたらその中でもいちばん小さな存在かもしれない。神さまのために対して何もできていないなどと考えるならば、自分なんて小さい、などと思うかもしれない。だが、そんな私たちであろうとも、神さまは私たちのことを天の御国の人にしてくださっている。そういう存在になれるように、神さまは私たちに聖霊さまを送ってくださり、イエスさまを主として、救い主として信じるようにしてくださった。それには働きの代償など一切関係ない。ただ、神さまの恵みによって救っていただき、小さかろうが大きかろうが、天の御国の人にしていただいたのである。  そんな、天の御国の人は、最も小さい人であろうとも、ヨハネよりも偉大なのである、とイエスさまは言ってくださった。このみことばを受け止めていただきたい。あの、すべての人がヨハネの証しによってイエスさまを信じるようになった、とすら聖書が評価するほどのヨハネ、これほどの大人物がいるだろうか? それなのに、そんなヨハネよりも私たちの方が偉大だと、イエスさまは言ってくださるのである。  もったいないなんてものではないおことばだ。しかし、このイエスさまのおことばは、私たちが「何をするか」に目を留めて、その結果、「ヨハネと比べると何もしていないも同然」と落ち込むか、そんなの当然じゃないかと開き直るかするような、そんな比較意識から自由にしてくれる。神さまが私たちに目を留めてくださるのは、「ヨハネのような証しをしたから」ではない。「身代わりにイエスさまを十字架につけてくださるほど、愛してくださっているから」である。  イエスさまは私たちクリスチャンのことを「あなたがたは世の光です」と言ってくださっている。「あなたがたはこれから頑張れば世の光になれます」とはおっしゃっていない。努力しようとすまいと、もうすでに私たちは、世の光にしていただいているのである。そんな私たちとして、神さまはすでに私たちに最高の評価を与えてくださり、私たちのことを用いてくださるのだから、私たちがヨハネと自分を比較したりするのはナンセンスなことである。  私たちに必要なのは、世の光として輝きたいと思えるほどに、主の恵みをいただくことである。世の光として闇の世界に遣わされ、その世界を照らす働きに用いていただくことは、なんともうれしく、また楽しいことである。しかし、それはその「行い」をしたから楽しいわけではない。イエスさまの恵みのあまりのすばらしさを受け取り、その楽しさを抑えきれないから、どうかこの素晴らしいイエスさまを知ってほしいと、暗闇の世界に出ていき、暗闇を私たちの愛のことばと行いで照らし、その働きに用いていただくことを私たちは喜ぶのである。  ヨハネがしたように、私たちがすることは「光の証し」である。また、ヨハネがそうだったように、私たちもまた「証しの光」である。先週に引きつづいて、祈りつつ考えていただきたい。光なるイエスさまによって光としていただいている私たちはことばと行いの証しをもって、どこで、だれを、いつ、どのように照らすべきだろうか?

いのちの光

聖書本文;ヨハネの福音書1章4節~5節 メッセージ題目;いのちの光  元日礼拝、主日礼拝を含め、今年に入って3回目の公式礼拝である。ここまでの2回、私たちは神のかたちであることを前提に、私たち人間が愛のかたちに創造されていること、また、ことばのかたちに創造されていることを学んできた。  今日の本文を見ると、神のことばなる御子イエスさまは、いのちあるお方、また、そのいのちとは人の光であることが語られている。そして、その光は闇の中に輝き、闇は光に打ち勝たなかった、と。  人が神のかたちに創造されていることを前提に語ると、人は神のかたちゆえ、その中にいのちがあるかたちに造られていること、また、その中に光があるかたちに造られていることがわかる。本日は、いのちとは何か、光とは何かを学んでまいりたい。  まず、いのちとは何か。人は土のちりで形づくられたとき、その中にいのちがなかった。それゆえ創造主なる神さまがなさったことは、人の鼻にいのちの息を吹き込まれた、ということだった。そうして人は生きるものとなった、とみことばは語る。  ゆえに人のいのちというものは、神さまによって存在させられてこそ本来の意味がある、ということになる。動物や植物はいのちの息を吹き込まれているわけではない。人間だけがいのちの息を神さまに吹き込んでいただいている、ということは、人間とは、神さまといのちの交わりを持ってしかるべき存在である、ということである。  そんな人間に対して神さまは、エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実に手を伸ばして食べてはならない、とおっしゃった。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ、と警告された。これは、善悪の知識の木の実に食べたら死ぬような毒があるから、ということではない。神さまのご命令に不従順になるとき、それは神さまとの交わりが絶たれるということを意味し、その結果人は死ぬ、というわけである。  人は空気を吸って生きる。神さまとの交わりを断つということは、空気以外のものを吸おうとする行為に等しい。当然、人は死ぬしかなくなる。神への不従順の結果人が死ぬということは、それくらい当たり前のことであった。しかし人は、神への不従順を選択した。そして人は、死ぬものとなった。  しかし人間は、皮肉なことに生きることを渇望するようになった。もしこの世界に不老不死の薬があると知ったら、人はどんな大金を積んでもそれを手に入れようと躍起になるだろう。不老不死とはいかないまでも、新聞を開いたら健康に関する情報や広告があふれている。みんな死にたくなどないのである。  しかし、死の本質とは神への不従順であるかぎり、死ぬことは避けられない。死なないために選ぶべき道はただひとつ、よみがえりであり、いのちであるお方、御父のもとに行くための唯一の道であり、真理であり、いのちであるお方、イエスさまのもとに行き、神さまとの交わりを回復するしかない。その根本的な信仰を回復しようともしないで、人はほかの方法でいのちを得ようとして、結局うまくいっていないのである。よほどイエスさまを信じることがいやと見えるが、神さまはこれしか、救われるための道を備えてはおられない。  一方で、死ぬことを意識してしまって仕方がない人がいる。聖書を読んでも、自らいのちを絶つことはしないまでも、死ぬことを意識してならなかった神の人がいたことがわかる。エリヤがそうだったし、ヨナがそうだった。どちらも、自分が望んだように事が運ばず、死を意識した。しかし神さまは、エリヤにもヨナにも不思議なみわざをお見せになり、そのたましいを回復に導かれた。エリヤが立ち直ったことははっきり聖書に書いてあるとおりで、ヨナに関しては聖書ははっきり語っていないが、ヨナ書というみことばをよく読むと、ヨナが神さまのお取り扱いを受け、神さまに対して不満を並べたことを悔い改めたことがほのめかされている。  神の人にして死を意識する、それは充分あり得ることである。しかし、普通の人と神の人との違いは、神の人には立ち帰るべき場所があるということである。それは、神の御前である。1970年に寺山修司が作詞してカルメン・マキが紅白歌合戦でも歌った、「時には母のない子のように」という歌があるが、この題名の歌は本来、黒人霊歌である。  元歌である黒人霊歌のほうの「時には母のない子のように」という歌は、こういう歌詞である。「時に私は、自分が母のない子のように思えるんだ、家から遠く離れてしまって。時に私は、もう自分は終わってしまったと感じるんだ、家から遠く離れてしまって。」しかし、この歌はこれで終わっていない。「罪人よ、罪人よ、なぜおまえは祈らないのか。」そう、私たちは時に、絶望する。しかしそれは、いのちなる神さまとの交わりがどこかで切れてしまっているからである。そんな私たちに神さまは、「生きよ」とおっしゃる。生きよというご命令にはどのようにお従いするのか? いのちなる神との交わりを持つことによってである。私たちは神との交わりによって、いのちを回復する。  だから、死ぬことを意識するのは、いのちなる神さまからもっとも離れた状態である。映画、小説、テレビドラマ、アニメ、ゲームと、やたらと私たちは「死ぬ」ということが空想の次元で身近になってしまっているが、けっしてそれは手放しで美化されるべきものではないことを、私たちは心に留める必要があろう。神さまのみこころは、どこまでも「生きよ」である。  とはいっても、神さまは私たち人間が「死ぬ」ことを前提に語っておられる箇所も、確かに聖書には存在する。「あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません」という、第一コリント15章36節のみことばなどそうであろう。しかし、死ぬのは死んで終わりになるためではない。生きるため、それも、永遠のいのちをもって生きるためである。本来、死ぬということは、神さまのみこころに不従順になる選択をした人間の受けるべき呪いであった。しかし神さまはこの「死ぬ」ということを、人間が永遠のいのちに生きるために必要なプロセスとしてくださった。  それなら、なぜ「死ぬ」という、悲しむべきことがこの世界に残されているのだろうか? それについては次のポイントについてお語りしたら、最後にまとめて結論としてお話ししたい。  では、光、について学ぼう。光とはいのちである。さらにいえば、光とは人の光である。  私の隣の家は、現在毎日、リフォーム工事をしている。それまでも空き家で、したがって明かりなど点いていなかったのだが、現在は工事のためだろう、明かりを点けている。しかし、どういうわけだか、一晩中明かりをつけっぱなしである。それが次の日の工事をするときに便利だということなのだろうが、だれもいないところに明かりがついているのはもったいないし、だいいち異様である。明かりというものは、人のいるところを照らしてこそ意味がある。  そのように、イエスさまにある光というものは、人を照らす光である。では、なぜ人をその光をもって照らされるのだろうか? その答えは5節のみことばからわかる。光は闇の中に輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。そう、人が闇の中にいてはいけないというのが、神さまのみこころだからである。  光と闇はどちらが良いもので、どちらが悪いものですか、一つにつき一つを選んでください、と言われ、「闇のほうが良いもの、光の方が悪いもの」と答える人は、かなりの偏屈であろう。そう問われたら、闇のほうが悪いに決まっている。それは聖書もそう語っているとおりである。闇の象徴するものは、悪魔であり、死であり、滅びであり、絶望であり、混沌である。  イエスさまの来られた時代のユダヤの指導者たちは、闇の勢力に属する者たちだったとイエスさまは評価しておられる。本来、神を指し示すべき者が闇の勢力だったとは、何ということであろう。しかし、それゆえにイエスさまのことを十字架につけたともいえよう。  この5節のみことばは新共同訳という訳の聖書を読むと、「暗闇は光を理解しなかった」とある。彼ら指導者たちがその立場にふさわしくイエスさまのことを理解していたら、イエスさまのことを十字架につけたどころか、すべての民がイエスさまを信じるように、率先して行動したことだろう。  しかし彼らは暗闇の勢力の者たちだったゆえ、イエスさまが救い主、人々を救いに導く光そのものでいらっしゃったことを理解できなかったし、理解しようともしなかった。  しかし、そのような闇の勢力も、光に照らされるならば変えられる。その典型的な例はパウロである。パウロは何をしただろうか? 神のみことばを堂々と解き明かし、ユダヤの宗教指導者たちに悔い改めを迫ったステパノのことを石打ちにした張本人、それがパウロである。しかし彼は、今にも教会に迫害を加えようとダマスコに向かっていたその途上で、神の光に照らされ、そのときからイエスさまのために生きる人へと変えられた。それまでのパウロは、いわば神のいのちのかたちを喪失していた状態にあった。それゆえに、神の御名を用いてさえも人を殺す、すなわち神につく人のいのちを奪うような、ほんとうのところは神をも恐れぬ所業を平気でしていた者だった。それが神のいのち、神の光に回復させられた。これは神の恵みである。  このように、闇につく者が光につく者とならせていただけるのは、恵みである。使徒ヨハネは、人間が光の方に来ないのは、光よりも闇を愛したから、その行いが悪いからだと喝破している。光よりも闇を愛する行い、すなわち悪い行いとは何であろうか? ローマ人への手紙1章に語られているとおり、神を神としないことである。すべての罪、すべての悪は、人が神を神としないことに始まる。人は神を神としない結果、あらゆるけがれ、あらゆるむさぼりに身を委ねることになってしまった。  しかし、イエスさまという方は、そのあらゆるけがれ、あらゆる罪、あらゆる悪をもたらす闇の勢力を、ご自身の十字架の贖いをもって滅ぼしてくださった。闇を光によって照らしてくださったのである。闇というものは、ひとたび光に照らされたら消えるしかない。  闇を象徴するもの、それは人の死である。しかし、人の死というものはなぜ必要なのだろうか? 人の死が象徴している闇というものが存在を許されているのはなぜだろうか? それは、いのちの光なるイエスさまによって滅ぼされるということをもって、イエスさまの勝利、イエスさまのご栄光が現されるゆえに、存在を許されているということである。  夜が怖い、という人がいるだろう。しかし、夜というものをいつまでも怖がる必要がないのは、やがて朝が来て、夜の闇を吹き払ってくれるからである。同じように、主にある人が死を怖がる必要がないのは、死というのがやがて、永遠のいのちに呑み込まれるからである。同じことで、闇の勢力がまだ存在しているこの世界だが、やがてこの世界は終わり、永遠に夜がない、したがって闇がない御国を、神さまは来たらせてくださる。死というもの、闇というものは、神さま、イエスさまの永遠の勝利、永遠のご栄光が顕されるための、いわば「引き立て役」でしかないのである。  だから、闇というもの、死というものをやたら意識したり、恐がったりしてはならない。ほんものは神の光であり、神のいのちである。私たちクリスチャンの生活は、この闇と死に支配されて絶望的になっているこの世に住む人々に、どうか怖がらないでほしい、あなたは生きる、ということを、確信に満ちて、そのことばと行いによって語るということである。  私たちはどこを照らしたいだろうか? そして、だれに永遠のいのちを受けてほしいだろうか? 神さま、私を遣わしてください、用いてください、ともに祈ろう。