「みことばは正しく蒔かれていますか」
聖書箇所;マルコの福音書4:1~20/メッセージ題目;「みことばは正しく蒔かれていますか」 本日の箇所は大きく分けて、イエスさまが群衆に、たとえで説教をされた場面と、そのたとえを弟子たちの前で解き明かされた場面からなる。私たちはこの箇所を読めばもう、たとえが何を意味するか分かっているが、ひとつひとつ見ていくと、次のとおりになる。 種を蒔く人、これはみことばを蒔く人である。つまり、みことばを宣べ伝える人である。このみことばの種はまず、道端に落ちた。すると、鳥が来て種を食べてしまった。そのたとえの意味は、ある人はみことばが蒔かれて、すなわち、みことばが伝えられてみことばを聴くと、そこにサタンがやって来てその蒔かれたみことばを取り去ってしまうということである。 聖書がはっきり語るとおり、サタンはいる。聖書を読むと、イエスさまの時代において、ところどころで、悪霊に取りつかれた者の存在がクロースアップされているが、この時代の群衆は、悪霊の親玉であるサタンのことを、かなりリアルに感じていたはずである。しかし、サタンや悪霊はその時代だけに存在していたわけではなく、いまもなお、しぶとく存在している。 彼ら悪の勢力のすることは、せっかく人に伝えられたみことばを持ち去ることである。たとえば、みことばが伝えられている現場、礼拝でも伝道集会でもいいだろう、メッセンジャーはいっしょうけんめい語っているのに、居眠りしたり、別のことを考えたりしている。これは、サタンにみことばを持ち去られている状態である。 だから私たちは、せっかく蒔かれたみことばをサタンに持ち去られないための対策を講じる必要がある。みなさまの中に、メッセージのメモを取っている方がおられるが、これはみことばをサタンに持ち去られないための、とてもいい方法である。全身を耳にして「聴く」(耳と十四の心で{聴く})その内容を、手を使い、目で見ながら落とし込む作業である。こうすることで私たちは主の宮なる自分のからだと心に、がっちりとみことばを抱え込み、サタンに取られないようにできる。 また、礼拝の前日は質のよい睡眠をとる。夜食を取ったり、遅くまでテレビを見たりしないで、早く寝る。起きたら静かに祈って礼拝に期待する。こういうことも大事。最近はコロナ下ということで、空調をつけていても換気をするようになっているが、これは新鮮な空気を吸うことで脳を活性化させ、みことばに集中する上でよいことである。コロナが収まっても続けていいことではないだろうか。 サタンはなぜ、私たちにみことばが根づいたら「やばい」と思っているのか? それは、私たちがみことばに従順になったら、いよいよ自分たちが世界を支配できなくなる、この世にいよいよサタンの居場所がなくなることを知っているからである。私たちがそれほど、神さまに大いに用いられるポテンシャルを持っていることを、サタンは私たち自身以上によく知っている。私たちはだから、サタンの計略にだまされないで、みことばにとどまり、みことばを守り行う喜びに満たされてまいりたい。 ともかく、サタンは私たちにみことばが根づかないように虎視眈々と狙っているので、私たちの側でも真剣に対応する必要がある。これは戦いである。いま、私たちにとって、こぞってみことばをお聴きする時間は日曜日のこの時間をおいてほかにないのだから、一週間の計画を立てるにあたり、ぜひ日曜日の礼拝に勝利するようにすべてを調節していただきたい。私もみなさんのために祈る。 次のたとえは、土の薄い岩地に種が落ちたら、土が深くなかったのですぐに芽を出したが、日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。その意味は、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れるが、自分の中に根がなく、しばらく続くだけ。その後でみことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人のこと。 みなさんも普段からみことばを読んで感じていらっしゃることと思うが、みことばはこの世のいかなる文学や教えともちがう、独特の雰囲気と説得力、それに美しさを持っている。それはもちろん、神さまに由来するからそうなのだが、その雰囲気や美しさに惹かれる人というのは、一定数この世には存在する。だからこそ、こんなにクリスチャンがいないような日本の国においても、ホテルに聖書を置いてもらう働きがここまで保たれてきたわけである。聖書は読まれているのである。 イエスさまは、待ち受ける迫害に怖気づいて、もはや蒔かれたみことばが根づくことがない人のことを説かれた。これは日本だと充分にあり得ることである。特に、バプテスマを受けることにそれが表れている。バプテスマを受けてこそ私たちは名実ともにクリスチャンと名乗れるわけだが、日本においては、それは仏壇や神棚、神社仏閣、仏式や神式の葬儀にくみしない態度で、公に表明することが要求される。そこまでみことばに従順になることはしない、というわけである。しかしこれは、弟子の態度ではない。 これを解決するには、一にも二にも、教会の教会姉妹の助けと励ましが必要である。まず、私のところに来て、祈りを要請していただきたい。そのために真剣に祈ることを約束する。そして、この祈りの課題を教会で共有し、ともに祈ることに取り組んでいただきたい。 この祈りはすでに信仰生活がある程度の年数に達している、私たちにとっても取り組むべきことである。私たちもみことばを守るべきときに、守れない、いや、守らないという選択をしてしまいかねない。その葛藤は大変なものである。神さまに問われる思いで押しつぶされそうにもなるだろう。互いのために祈る必要がある。もちろん、私も、毎日みことばをお読みしているが、そのみことばをたがえずに実践できるように、迫害を怖れて尻込みして、実践することを控えることのないように、お祈りしていただきたい。 三番目のたとえは、茨の中に種が落ちた場合。茨が伸びでふさいでしまい、実を結ばなかった。これは、みことばを聞いたのに、この世の思い煩いや富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぎ、実を結ばない、ということ。 これは覚えがないだろうか? みことばは確かにそう言っている。それはわかる。「でも」、現実はこうだ、常識はこうだ、私はそれどころじゃない、もっと大事なことがある……なんだかんだで、みことばに従うことをしない。 それらはすべて、神さまとそのみことばよりも、自分のことを大事にする姿勢から生まれる。自分ファースト。状況が悪い、あの人が悪い、だからみことばを守れない、というだろうか? いや、それは、みことばを守れないことを状況や人のせいにして、自分の責任を回避する姿勢である。 要するに、神さまよりも自分のほうが大事、と言っていることになる。これは非常によくない。私たちはつねに、心の動機を聖霊なる神さまに点検していただく必要がある。みことばに従えないのは、自分のことしか見えなくなっているからではないだろうか? そういう人はみことばを守り行なって実を結ぶことが、とても難しい。神の栄光を顕すため、人を救うために、すべてを捨てて十字架におかかりになったイエスさまの御姿を、しっかり思うことだ。わが恩師、オク・ハンフム先生は、一日5分、イエスさまの十字架を黙想せよとおっしゃった。5分ならトイレに行く時間とどっこいどっこいではないか。ぜひ実践しよう。 以上のことをイエスさまはお語りになった上で、よい地にみことばの種が落ちれば、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことを約束してくださった。 私たちがよい地になるためには、サタンがやってくるようなことのないようにしなければならない。茨城の農地にはかかしや、飛んでいる鷹のような凧が設置してあって、鳥が飛んでこないようになっているが、鳥は賢ければそんなものなどものともしない。鳥が寄ってこないためには、猟銃を構えた漁師が待ち構えるしかない。 イエスさまこそ、そのようにサタンを追い払ってくださるお方である。イエスさまとの交わりを持つことで、サタンの寄ってこないよい地になる。そのために自分には何ができるか考えよう。 私たちがよい地になるためには、薄い岩地を肥沃な大地にしなければならない。みことばを雰囲気でいいものと思うことにとどまるような初歩の段階を抜け、どんなに苦しくてもみことばに従順に従うことを選べるように、そんな信徒を養えるだけの愛と祈りの共同体を、この教会の中に育てていくことである。そのために自分には何ができるか考えよう。 私たちがよい地になるためには、茨を取り去らなければならない。茨が伸びるに任せていては、私たちはいつまでたっても、自分たちが用いていただけないことを、現実のせい、環境のせい、人のせいにすることから抜けられない。この茨を、私たちは取り除いていくために、イエスさまに、何が取り除くべき茨なのかを祈っていく必要がある。そのために自分には何ができるかを考えよう。