「天上の結婚式に向かって」

聖書朗読;マルコの福音書2:18~22/メッセージ題目;「天上の結婚式に向かって」 今日の本文は、先週学んだ「レビのパーティとそれに対するパリサイ人の反応、そしてそれに対するイエスさまのお答え」に続く本文である。この本文の続き方は、並行箇所であるマルコの福音書、マタイの福音書、ルカの福音書で共通していて、したがって、このパーティの席上におけるパリサイ人とイエスさまの問答と、ひとつづきになっている以上、それにつづく断食に関する問答は、レビ(マタイ)のパーティの席上で、続けて行われた可能性がある。 ここでイエスさまは3つのたとえを話されたが、そのお話が、レビのパーティの席上でなされたとすると、この中で最初に話された、「花婿に付き添う友人は断食できない」という話に包括されよう。服と継ぎきれのたとえ、ぶどう酒と皮袋のたとえが、花婿に友人が付き添う結婚式の話と関連を持っているわけである。 レビのお別れパーティは、結婚式というと唐突な印象を受けるだろうか。しかし、人はイエスさまを信じ受け入れたならば、教会のひと枝となり、教会は終わりの日に花嫁として、花婿なるイエスさまと永遠に結ばれる。レビは単にお別れパーティをしたのではない。自分はキリストのからだのひと枝として、イエスさまと永遠に結ばれることを、このパーティにおいて宣言したのである。よってこのパーティは、結婚披露宴の性質を帯びていた。 その上でイエスさまの一番目のたとえを見てみよう。まず、ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは断食をすることを常としていたが、断食もしないで飲み食いを楽しむイエスさまは、「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と人々に陰口をたたかれるお方であった(マタイ11:19)。しかし、イエスさまは何と言われようとも、このような「罪人」たちを受け入れるという「行い」をもって、みことばの示す知恵、愛の正しさを証明された。 その愛という知恵の正しさを証明するのは、イエスさまにつき従った人々である。彼らはイエスさまが振る舞われるように、自分たちも振る舞う。この人たちのことを、イエスさまはここで「花婿に付き添う友人」と表現していらっしゃる。彼らは晴れ着を着て、新しいぶどう酒に酔うのである。 しかし、聖徒が断食をする場合があるならば、それはいつなのかということについても、イエスさまは語っていらっしゃる。それは「花婿が取り去られた時」であるというわけである。私たちは十字架を覚えるとき、イエスさまが私たちから取り去られる悲しみもまた思うものである。 だが、その悲しみは、私たちのためというより、むしろ、イエスさまが見えないで、依然として悲しみの中にある隣人を思ってのものであるべきだ。それが、「泣く者とともに泣く」ということ(ローマ12:15)。その人にとっては、イエスさまがともにおられることなどとても実感できず、悲しむしかない。まるで、復活のイエスさまがいま目の前におられるのに、悲しみのあまりイエスさまが見えなくなっていたマグダラのマリアのようである。 こういう人には、イエスさまがともにおられますよ、と言ったところで、何の慰めになるだろうか。ただ、一緒に泣くしかない。それは神さまのご命令である。妻は今、祖国韓国を覚えて、折に触れて断食する生活をしているが、それは近年いろいろ乱れている、韓国を思う主の悲しみにともにあずかることであろうと、そばで見ていて思う。 断食の祈りとは、そのような、人を思い、とても物を食べることもできないような悲しみ、苦しみを実感するところから生まれてくるものであるべきだ。間違っても、宗教的聖さを求め、何やら霊的ステージが上がったような気分になるために肉体をいじめ抜くことが断食だなどと思ってはならない。それは自己満足というものであり、パリサイ人の断食と同じである。 本文に戻ると、イエスさまは服のたとえを語っておられる。これは、結婚式の晴れ着をほうふつとさせる。この晴れ着は新しい。繕わなければとても着ていられないような、ぼろい服ではない。そんな服では結婚式にも出られなかろう。だが、旧来のやり方に固執するような人々は、そのやり方を脱ぎ捨てることはあくまでしないで、「これは新しい教えだ」と思うことの「いいとこどり」をするのである。十字架と復活、罪の赦し、これは新しい教えだが、それは受け入れておく一方で、自分がこれまで固執してきた宗教行為は決してやめることをしない。 このようなことをルカの福音書では、真新しい服から布切れを引き裂いて古い服に継ぎを当てる、と表現している。そんなことをすると、せっかくの真新しい服はだめになるし、継ぎを当てた古い服を洗濯したら、真新しい服から取った布切れは縮み、それでもって古い服は破れてしまう。そういうわけで、福音という「新しい教え」は、古い服を脱ぎ捨てることをしないまま、いいとこどりするようなことをしてはいけないのである。 結婚式の文脈でこのことをイエスさまが語っておられることに注目したい。あなたはぼろい服を「これは晴れ着だ」と言い張って、結婚式に着ていくだろうか? いや、晴れ着というものは、パーティを主催した側から渡されるものであり、その結婚式を主催したのが王さまならば、下賜品ということになる。それを着ないで宴席に連なろうとするのは、王に対する侮辱である(マタイ22:2,8~13)。 王がうるさいと思うなら、ならば、と、王の下賜品の晴れ着を引き裂き、自分の服に継ぎを当てるだろうか? 表面的に取り繕うことしかしない、形だけの信仰生活も、これと同じではないだろうか? 神との交わりのない、形だけの教会生活、それは、せっかくイエスさまが来たらせてくださった新しい時代には合わない。 もうひとつ、ぶどう酒についても見てみよう。花婿に付き添う友人が、結婚パーティで花婿の出したものを飲み食いしないならば、彼は友達ではない。ちゃんと飲み食いし、気持ちよくなることが、招いてくれた花婿に対する礼儀である。 イエスさまが最初に行われた奇蹟は、水をぶどう酒、それも最上のぶどう酒に変えられるというものだった。そのみわざを行われたのは、ほかならぬ、イエスさまの招かれた結婚式の場でだった。このことからわかることは、イエスさまは結婚というものを大切にされ、その席上でぶどう酒により楽しむことを大いに奨めていらっしゃる、ということである。しかし、私たちはこの、イエスさまが奨めてくださるぶどう酒というものに、みことばをとおして深い意味を見出すものである。 来週になると、私たちは主の晩さんのグラスを傾ける。それは、主ご自身が守り行えと命じたもので、私たちはこのぶどう汁を口に含むとき、イエスさまの十字架と復活を覚えるものである。これは十字架の悲しみに終わらず、復活と臨在の喜びに至るものである。これは言ってみれば、御国にて花婿なるキリストと花嫁なる教会が結ばれる結婚式の、いわば予行演習である。予行演習だからといって重要ではないわけではない。予行演習をしっかりするならしただけ、天の御国での実際の結婚式の感激は大きい。 毎回うたっているとおりである。「懐かしくも見失せし主は、まもなく再び来たりたまわん。そのときまで十字架を負わん、救いの恵みを喜びつつ。」 この、十字架と復活というまったく新しい教えは、力がある。発酵しつづけるぶどう酒のようである。これはよく伸びる新しい皮袋に入れないと、もたない。古くてぼろい皮袋に入れたらそのぶどう酒の発酵する力で、皮袋は破け、ぶどう酒もだめになる。十字架と復活という福音、イエスさまの教えというまったく新しいものを受け入れるには、心の一新によって自分を変えていただかなければならない(ローマ12:2)。これは一生ものの取り組みである。うかうかしていると私たちは、あっという間に古い皮袋になってしまう。毎週の礼拝と毎日の聖書通読でイエスさまの教えに絶えず触れることは、新しい皮袋をいただくことである。これをしていないと、イエスさまの福音を受け入れることに耐えられなくなる。 ところで、並行箇所のルカの福音書5章39節に、「古いぶどう酒」のたとえが出てくる。もともと慣れ親しんだものがいい、新しいものなんて必要ない、と言ったら、その人は何も、新しい皮袋になる必要はない。しかし、そういう人は成長しない。成長するうえでの痛みは伴わないかもしれないが、成長することに伴う、主に用いられる喜びは味わえなくなってしまう。 私たち教会はイエスさまの花嫁として、終わりの日にともに御前に立つ。それまでの私たちの人生は、ともに取り組む花嫁修業である。美しい花嫁となるために、日々みことばに従い、愛を実践しつつ、新しい服を着て、新しい皮袋にしていただこう。 ❤祈りましょう。「主よ、私にとって      は困難なことですが、それは同時に、この困難な取り組みをとおしてキリストの似姿に変えられる、花嫁修業です。このことに取り組む力を私にください。」

「罪に病む者は癒される」

聖書本文;マルコの福音書2:13~17/メッセージ題目;「罪に病む者は癒される」 今日の箇所には、パーティが出てくる。 私にとって忘れられないパーティ、それは、2008年9月15日の祝日に、当時働いていた東京の韓国人教会で行なった、「結婚記念パーティ」である。私はそれを、たんなる自分たちの結婚のお祝いにしたくなかった。未信者の親戚や友人が参加するからだった。そのため、パーティは第一部と第二部に分け、第二部を立食パーティにする一方で、第一部は礼拝形式のセレモニーのようにし、現在、愛知県で牧師をしている友人にメッセージをしてもらい、奥様に通訳をしていただいて、教会の韓国人信徒にもわかるようにした。そんなパーティの目的は、イエスさまを証しすることだった。 本日出てくるパーティも、イエスさまを証しするパーティだった。というより、主人公はイエスさまだったとさえ言える。このパーティの楽しい雰囲気に冷や水をぶっかけるような者がいたが、イエスさまはそれに対し、実に素晴らしいフォローをなさった。 先週学んだのは、中風の人の癒やしについてだった。イエスさまが罪を赦す救い主であることを、この中風の人を実際に癒やされることをとおして、主ははっきりと証しされた。その驚くべきことを目撃したガリラヤの人たちはどうしただろうか? 13節。イエスさまのおられるところについて行ったのである。イエスさまはそこで、みことばを教えられた。 ガリラヤ湖。そこはイエスさまがみことばを教えられただけにとどまらず、弟子に対して、ご自身が全能なる神さま、お従いすべきお方であることをお示しになった場所でもある。群衆はことばだけでイエスさまの語られる神の国を知ったのではない。湖の魚さえも支配される全知全能のお方、このお方が王である神の国を、圧倒的なしるしとともに彼らは体験したのだった。私たちにとって、みわざを体験する「場所」というものは大事である。そこに帰るたびに、神さまが実際に働かれたことを思い起こし、献身を新たにするからである。私たちはそこでみことばを新たに学ぶのである。 14節を見てみよう。このようにイエスさまの話題で持ちきりでも、レビは仕事をしなければならなかった。カペナウムという地はヘロデ・アンティパスの領土とピリポの領土の境目に当たる交通の要衝であり、それだけお金の行き来が盛んだった。取税人であった彼はそれだけ通行税を取り立てることができ、金持ちだった。もちろん、普段からも住民から税を取り立て、しかも好きなように増税して、ふところに入れていた。 しかし、金持ちという結果が伴おうとも、彼はユダヤ教の宗教共同体においては除け者となっていた。ユダヤ教の宗教共同体にいる者たちは、何が悲しくてローマに貢がなければならないだろうか。この取税人は同じ民族のくせをして、金を取り立てていい気になって。まさしく、ユダヤ教の宗教共同体から蛇蝎のごとく嫌われたのが、この取税人であった。 しかし、あえて彼らを「弁護」する試みをすれば、彼らはそうしないと生きていけなかった。あながち卑屈すぎたからとか、野心のかたまりだったからというものでもなかろう。あまりこういうことは言いたくないが、彼らの存在によりユダヤ教の支配する地域において行政上の秩序が保たれたのも事実ではある。実際彼らは、彼らの納めた税金により、ローマ帝国の庇護を受けていた。しかしそれは、ユダヤ教の価値観からすれば、我慢のならないことであり、やはり彼ら取税人は、必要悪とすら扱ってはもらえなかった。 そんな彼は、イエスさまのうわさを聞いてはいただろう。しかし、それだけでは接点のつくりようがない。うわさの主(ぬし)、ヒーローのことを私たちはみな知っていても、彼らにはとても近づきになれないもの、それと同じである。 だが驚いたことに、イエスさまはご自身のほうからレビにお近づきになった。「わたしについて来なさい。」この日から、彼は取税人であることをやめ、イエスさまの弟子となった。弟子とはどうやってなるものだろうか? 私の好きな落語の世界でいえば、この師匠のもとに弟子入りしたい! という強い動機づけがまず必要で、何度断られても弟子入りをお願いする。その結果、弟子入りを認められるわけだが、師匠は、自分から頼んで弟子になってもらったわけじゃない、というスタンスは崩さない。そういう意味で厳しいことを、弟子の側もよく理解している。 しかし、イエスさまの弟子になることというのは、イエスさまからお選びになってはじめて可能になることである(ヨハネ15:16)。イエスさまが弟子にしてくださるということは、あなたはわたしについていける、と、イエスさまが見込んでくださったということを意味している。私たちは恐れずについて行っていい。私たちはすばらしい弟子になれる。 15節。この食卓は単なる食卓ではない。取税人や罪人も大勢招かれた食卓である。罪人が具体的にどういう人を指すのかは書いていないが、はっきりしているのは、ユダヤ教の戒律を守っていない人、ということである。安息日を守らない、とか、きよめのしきたりを守らない、というのも、彼らの宗教的な教えに従えば、罪人という扱いになってしまう。しかし、たとえば羊飼いのように、安息日に羊を置いて礼拝に出かけることもできないような人は、どうしよう 人間的な宗教の戒律は、どこかではみ出す人をつくってしまうのである。しかし、この人たちは、自分が「はみ出している」ことを恥じていて、だからこそ、イエスさまをお招きした食卓にこうして受け入れていただいていることに、どれほど感謝していることだろうか。まさしく、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるのである。自分はだめだ、罪深い、と思うなら、行き先はただひとつ、イエスさまのところだ。「あたしは罪深いから、神さまに救われる資格なんかないよ」といってはいけない。むしろ逆だ。「あたしは罪深いから、神さまに救っていただくしかないよ」、こう言ってほしい。 しかし、このようなイエスさまの寛容さに、異議を唱えた者がいた。16節。それはパリサイ派の律法学者、宗教指導者であり、自他ともに認める聖書の専門家だった。弟子たちに言ったのが彼らの姑息なところで、イエスさまには正面切って言えなかった。弟子たちのようなイエスさまの共同体のコアメンバーにゆさぶりをかけ、イエスさまの信用を落とそうとしたわけである。 彼らとしては、こんな罪人どもと食卓をともにするのが救い主だなんて、許せなかった。しかし、彼らが「聖書」の基準と信じてきたものは、実を言うと、「聖書解釈」でしかなかった。その聖書解釈を金科玉条のように大事にしていたが、イエスさまの評価はどうだったか。 17節。イエスさまが用いられたこのことわざは当たり前のようだが、実に深いことばである。というのも、世界には自分が病気であることを謙遜に認めない者が多くいるからである。私のことを例に挙げると、私は6年ほど前からコンタクトレンズをやめ、眼鏡をかけている。信徒の方から、目がひどく充血していると聞き、眼科に行ってみたら、眼圧もとても高く、緑内障になりかかっているという。もうコンタクトレンズがつけられなくなった。しかし、コンタクトレンズのほうが眼鏡よりもカッコイイなどとうぬぼれて、眼科にも行かなかったらどうなるか。下手をすると失明する。事程左様に、自分が病んでいることを認め、それに見合った治療をしてもらうことは大事である。だがそのためには、うぬぼれを捨てなければならない。 そんなにもわたしを信じないで、わたしのすることにけちをつけるようなあなたは、律法を宗教的に守り行うことで神さまに認められようとしているね。しかし、わたしはそんなあなたのことなど招こうにも招けないよ。わたしが招くのは、自分が罪に病んでいると心底恥じながら認め、だからこそわたしに救ってほしいと心から願う者だ。 しかし、この願いは救われた時だけのものではない。一生続く願いであるべきだ。私の友人のゴスペルバンド「ジェニュイン・グレイス」に、こんな歌詞の曲がある。「あなたの力求めていたのに/いつの間にか小さな自分を誇っていた」そう、救われた感激はいつか薄れるほど、私たちは自己中心であり、自分の努力を誇りたがるものである。私たちはいとも簡単にパリサイ人になってしまう。聖書にあれだけパリサイ人の記述が多いのは、それが私たちのことを指しているからだと考えたことがあるだろうか? こんな罪人がイエスさまに招いていただいた、その感激を思い出そう。 私たちがもっとも思い出すべきものは何だろうか? ヨハネの黙示録2章、2節から5節の、エペソ教会への警告を読めばわかるとおり、思い出すべきは初めの愛、イエスさまの十字架の愛である。この愛に立ち帰りさえすれば、パリサイ人のように自分を誇り、人をさばくことはなくなる。逆に言えば自分を誇り、人をさばいているかぎり、その人はイエスさまの十字架がわかっていないのである。つねに十字架の愛、初めの愛に立ち帰り、このお方が私を弟子にしてくださったことに感謝しよう。

「罪赦される奇蹟」

聖書本文;マルコの福音書2:1~12/メッセージ題目;「罪赦される奇蹟」  1節と2節のみことば。カペナウムで大きなイエスさまのみわざを目撃し、イエスさまにすっかり夢中になってしまった人々……彼らはイエスさまに去られてしまって、さびしい思いをしていたかもしれない。それはもちろん、イエスさまには、カペナウムにかぎらず、ガリラヤ全域に神の国を宣べ伝えようというみこころがあったからで、彼らはそのようなイエスさまを引き止めておくことはできなかったからだが、なんとイエスさまがまた戻ってくるという。アンコール! 追加公演の知らせを聞いて喜ぶファンのようだったのではないだろうか。  彼らカペナウムの人たちの熱狂が、ほんものの知識に基づくものとなるためには、どうならなければならなかっただろうか? これは私たちにとっても無縁な問いかけではない。私たちは、何らかの奇蹟を見たことで得られる感情的な高まりを、神さまのご臨在そのものと勘違いしてしまうことがある。もしそう思ってしまうならば、私たちの感情的な高まりが冷めてしまうならば、もはや神さまに対する信仰さえも冷めてしまう、ということにならないだろうか?  カペナウムの人たちもそうなる危険を抱えていた。イエスさまが再びカペナウムに来られたのは、そのような彼らをフォローするためであったと言えよう。彼らは奇蹟を見ただけでとどまらず、みことばの教えをいただいて「学ぶ」必要があったのである。「学ぶ」、これが大事。 むかし神学生時代に奉仕していた教会の牧師先生がおっしゃっていたが、教会は「学校、それも、一生卒業のない学校」。当教会は伝統的に学校の教師が多かったから、学校で学ぶことの大切さを信徒はみな身にしみて知っている。教会に行かないでみことばを読むのは、学校に行かないで家庭学習で済ませるのと同じで、充分に学べない。やはりこの公の会堂にともに集まり、ともに学ぶことが大事である。  イエスさまは、人の家におられた。これは、かつて病気のいやしや悪霊追い出しのみわざを行われたシモン・ペテロの家の可能性が高い。イエスさまのおられるところには、人が群れなして集まってきた。ここでイエスさまはみことばを語られた。まさに「家の教会」。  そこへ、だれがやって来ただろうか? 3節のみことば。中風。全身がまひして寝たきりである。ただ死を待つしかない絶望的な状況。しかし彼は人々に愛されていた。彼の中風は、イエスさまにきっと治していただける! そう考えた人が彼の周りにいて、彼のことを何としてでもイエスさまのもとに連れて行きたいと思い、行動に移したことになる。 あるいはもしかすると、この中風の人は病の床で、カペナウムにて大きなみわざを行われたイエスさまのうわさを何らかの形で耳にし、「イエスさま……、イエスさま……」とうめいていたのかもしれない。それを聞いた周りの人たちが、「よし、わかった!」と、直ちに行動に移した。そういうことではないだろうか。並行箇所であるマタイの福音書によると、寝床のまま持ち上げて連れて行ったとある。よほどひどい病だったのだろう。  だが、彼らがいざその家に着いてみると、もう人がわんさか押し寄せていて、とても近づくことなどできない。どうしよう……彼らはあまりに奇抜な方法を思いついた。4節。  一応解説すると、この時代のこの地方の家は、壁や天井が土やわらでできたやわらかい材質だったので、屋根瓦をはがすような「工事」にはならなかった。それでも大変に骨が折れる作業にはちがいなく、寝床を吊り降ろせるだけの穴をあけたら、イエスさまも群衆も、壁土をたっぷり頭に浴びたことだろう。ここには書いていないが、群衆は絶対戸惑ったはずである。ただぽかんとしていただろうか。「俺たちはありがたい話を聞いていたんだ! 邪魔をするな!」という怒号が飛び交っただろうか。 だが、イエスさまは全能の神さまである。すぐに彼らの必要に即して、何とおっしゃったか。5節。なんと、イエスさまはお叱りにならなかったばかりか、彼らの、情熱、行動、協力の伴った信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃった。 先週のメッセージで、聖霊なる神さまは「厚かましいくらいに」執拗に求めるべきお方であると学んだ。この一週間、私たちはそのように、聖霊なる神さまを「厚かましく」求めただろうか?  本日の箇所は、まさに「厚かましく」イエスさまを求めた人々の記録である。考えてみてほしい。彼らはひとんちの屋根を破壊したのである。もし、これが仮に、イエスさまのお弟子さんであるシモン・ペテロの家だったとしても、住居を破壊したことに変わりはない。まさしく、目的のためなら手段を選ばない、それが彼ら。 だが、この箇所が教えているのは、ひとんちの屋根を壊して迷惑だ、というような話ではない。ひとりの人がイエスさまに救っていただく信仰を語っている。自分が動けなければ、人に動いてもらおうとする信仰の情熱と行動、それが協力を生むのである。  さて、イエスさまはまず、彼の病気をお癒しにならなかった。それは、彼にとって、というより、人にとって、いちばん解決しなければならない問題は、病気がいやされること以前に、罪が赦されることだからである。どんなに奇跡的に病気がいやされようと、そのたましいが罪赦され、救われなかったならば、その人には何の益になるだろうか。いっときの癒やしは体験できても、その行き先は永遠の滅びである。  イエスさまのもとに来る者は、何をいちばん必要としているか? イエスさまによって罪赦されることであるべきである。それ以外の単なるこの世での成功、お金持ちになること、健康になること、人から愛される人になること、そういうことも祝福と言わないわけではないが、イエスさまに第一に求めるべきはそういうことではない。救い、これこそがイエスさまに求めるべきことである。 この中風の男は、死を意識するような病の床で、どれほど「救い」ということを意識したことだろうか。このまま死んだら自分はどこに行くのか……もし天国に行けると信じていたら、彼はこんなしんどい思いをしてまで、イエスさまのところに連れて行ってほしがっただろうか。人は、死の向こうにある世界が天国であると信じていなかったならば、死というものはあまりにも怖い。だから、イエスさまに出会わなければならないのである。 考えてみてほしい。私たちはイエスさまに救っていただいて、天国に入れられている自分の姿しか想像がつかないだろうが、多くの人はそもそも、天国に入るとはどういうことか、天国にはどうしたら入れるのか、まったくわからないのである。そういう人がふとした拍子に「自分の死」というものを意識したら、その恐ろしさはどれほどのものだろうか。 だから私たちは、人々にイエスさまを伝えるのである。イエスさまだけがまことの救い主、罪を赦してくださる方であると。 しかし、宗教指導者たちには、イエスさまのこのおことばが受け入れられなかった。6節と7節。旧約聖書には、メシアの時代になると人々に癒やしの恵みが与えられることが語られているが、そもそも彼らには、この目の前におられるお方がメシアだとは信じられなかった。神を冒涜する食わせ物、こんな者はいなくなってしまえ、そう思ったことだろう。 しかし、イエスさまは彼らの心のうちを見抜かれた。8節と9節。これは、あっけにとられるお答えである。もし、「起きて歩け」と言って、そのとおりにならなかったら、それは詐欺師ということになる。しかし、この目にみえるわざは、イエスさまが癒し主であることを立証し、それゆえにイエスさまは神さま、すなわち、罪を赦し、人を救うお方だということを立証する。それが10節のみことばの意味である。 そして11節と12節。イエスさまはみことばどおりにみわざを成された。このことに彼ら群衆は「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と喝采したが、この「いまだかつて見たことがない」ことには、二重の意味がある。それは病の癒しと罪の赦しである。カペナウムの人々がもし、病のいやしだけを見て喝采したならば、彼らはほんとうの意味で神に栄光を帰していない。「罪が赦された」ことが現実のものとなった、目で見えた、このことに彼らが驚いたのなら、彼らの驚きは本物である。 私たちはこの「罪の赦し」のために一丸となって生きる共同体である。ひとりの人をイエスさまのもとに連れて行く。3節をもう一度見てほしい。一見すると、この中風の人を連れてきたのは4人だけのように見えるが、「人々」とあるので、実際はもっといたのかもしれない。倒れ伏している人がいればみんなで情熱をもって、協力して、救霊のために行動する、そのような共同体として成長しよう。 。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

「聖霊を求めよ」

聖書箇所;ルカの福音書11:5~13/メッセージ題目;「聖霊を求めよ」 本日は聖霊降臨節、聖霊なる神さまについてのメッセージをします。 この箇所でイエスさまは、ご自身の弟子と話していらっしゃる。弟子とはだれだろうか? イエスさまが友と呼んでくださった存在(ヨハネ15:13~15)。そんな「あなた」にとっての「友」は、イエスさま(三位一体の神さま)。 深夜の訪問客もあなたの友なら、その訪問客をもてなすために行く先もあなたの友のところである。三位一体の神さま(の象徴/友)をもてなすために、三位一体の神さま(の象徴/友)のもとに深夜訪れる、という図式が透けて見える。 イエスさまのこのお話は、神さまに求めるということを語っているのだから、パンの持ち主が神さまの象徴というのはおかしくない。では、その一方で、「神さまをもてなす」というのはどうだろうか? 一見するとおかしいような印象を受けるかもしれないが、創世記18章で、アブラハムが主なる神さまをもてなす場面が出てくるので、つじつまは合う。 その訪問客のことをどれほど思っているか、それが、ほとんど恥知らずのような厚かましい願いになる(原語:アナイデイア)。単なる友達ならばここまで願うだろうか? やはりこの訪問客は、「戸の外に立って叩く」イエスさまの象徴と考えてよかろう。イエスさまは客なのである(ルカ19:7、黙3:20)。 三つのパンをめぐって、「あなた」の存在は消えている。ただ「友」のために労しているだけ。三つのパンを食べるのはあなたではない。ただし、三つのパンをもって友を養えたという事実は残る。これが大事なのである。 あなたは、神さまに栄光を帰すために、神さまから力をいただく存在。その力をいただくためなら、深夜のしつこい願い、厚かましくも恥知らずの願いもいとわない。深夜だと思ったり、しつこいと思ったり、われながら恥ずかしいと思ったりするならば、やめるだろう。しかし、神に力をいただきたい思いはその申し訳なさにまさってこそである。 では、ここでイエスさまがおっしゃっている、パンにあたるものが「聖霊」なのはどういうことだろうか? そこで、父と子どものたとえを見てみよう。ここでたとえとして用いられているものは、すべて「食べ物」である。 父が子どもに与えるものは、パン、魚、卵。栄養たっぷりの食べ物である。間違っても、石や蛇やサソリのような、食べたらからだをおかしくする物は与えない。子どものからだを喜びとおいしさのうちに成長させる食べ物を父が与えるように、父なる神さまが私たちに与えてくださるのが、聖霊さまだというのである。 聖霊さまによって私たちはふさわしく成長する。聖霊とは「イエスは主」と告白させてくださる、救いに導く霊(ローマ10:9)。聖霊によらなければ「イエスは主」と言うことはできない。(Ⅰコリント12:3)「イエスは主」と言うのは、たんなることばだけの問題ではない。いかにことばで「イエスは主」と告白していても、行いがふさわしくなっていないならば、それは到底「告白している」とは言えない。 私たちは生活すべてをとおして、どんなときも、全身全霊で「イエスは主」と語れる境地にともに達したい。そうして神さまを喜ばせ、それによって永遠に神を喜びたい。それを可能にしてくださるのが、聖霊なる神さまである。聖霊は神から出て、私たちの救いの達成は聖霊なる神によってなり、救われた者は神に至り、神は永遠に栄光をお受けになる。 主にあって喜ぶこと、生きることは、主の願いであり、またご命令である。私たちが求めるべきは聖霊さまである。聖霊に満たされるならば御霊の実を結ぶ(ガラテヤ5:22~23)。しかし、御霊の実を結ぶ生き方が魅力的だから聖霊を求め、聖霊に満たされようとするのは本末転倒である。御霊に満たされるのは神のご命令である(エペソ5:18)。命令だから私たちは神さまに従順にお従いするため、聖霊を切に求めるのである。 真夜中に訪ねてくるお方がイエスさまで、このお方が求めておられることが、パンを召し上がること以上に、私たちが御霊に満たされることであるならば、私たちは必死に神さまに、御霊を求めるであろう。私たちが求めつづけ、捜しつづけ、門をたたきつづけるごとく、聖霊をくださるように神さまに求めるならば、神さまは必ず、私たちをみこころにかなう者へと変えてくださる。 求めよ、さらば与えられん、ということばは、なんでも努力すれば手に入れられるという意味では決してない。何を求めるかが大事である。聖霊、すなわち神さまご自身を求めることこそみこころだから、聞いていただけるのである。 ただし、聖霊に満たしてくださいというこのお祈りが聞いていただけない場合がある。それは、不信仰にも疑うから(ヤコブ1:6~8)、また、自分の肉を満足させようなどと言う、悪い動機で願うからである(ヤコブ4:3)。 さあ、私たちは御霊に満たしてくださいと祈ろう。まだまだ私たちは御霊に逆らう肉が生きていて、悲しいことに神さまのみこころを行いきれていない。「イエスは主」という告白も、所詮口ばかり。そのような私たちの罪を告白し、悔い改め、聖霊さまに導いていただくように祈ろう。生活のすべてで「イエスは主」と告白できる者になれるように、聖霊さまを求めよう。

「有終の美に向かって」

聖書箇所;テモテへの手紙第二4:6~8/メッセージ題目;「有終の美に向かって」/ 目標を定めた競走、目標の定まった拳闘……先週私たちは、「ぶれない生き方」というものについてともに考えました。私たちが神さまにあって「ぶれない生き方」をするために、神さまが私たちに与えてくださっている「召命」は何だろうか、「賜物」は何だろうか、「志」は何だろうか……私たちは祈りのうちに考えました。そしてその3つ、召命・賜物・志が重なるところ、それに集中することで、ぶれない生き方ができるということをともに学びました。 さて、それではですが、その「ぶれない生き方」をしていくということを、私たちはどのようにイメージしていますでしょうか? 元気な精神と強い肉体で、いっしょうけんめいこなしているというイメージでしょうか? しかし、私たちはそのように生きていながらも、いずれは終わりというものを迎えます。その「終わり」をこそ、私たちはしくじらずに迎えたいものです。 アメリカのある神学校の先生がおっしゃっていたことだそうですが、主の働き人の中でよい終わりを迎える人というのは、3人に1人だそうです。これは、その講義を聴いていらっしゃった方が教えてくださったことです。その教授は、講壇から降りて学生たちの間を回りながら、順番に学生たちの頭に手を置いて、そのたびにこうおっしゃったそうです。「ダメ、ダメ、よし。ダメ、ダメ、よし。」なお、この話をしてくださった先生は、「ダメ」のほうだったそうです。 多くの働き人が、主のもとに召されるまでに牧会の働きを全うできないのだそうです。挫折してしまう。しかしこれは、主の召命に生きること、主の賜物を活かして生きること、主から与えられたやる気に満ちて生きることに挫折したともいえるわけで、そういう方は敗北感たっぷりに生きていないか、心配になります。事程左様に、召命・賜物・志をはっきりさせて生きることは必須なわけです。 ただし、これがそれこそ「空を打つ拳闘」「目標の定まらない走り方」にならないために、私たちはどこに向かって、走っていくようにして生きるものなのでしょうか? 以下、3つのみことばから学びます。 まず、ヘブル人への手紙12章1節から3節、「イエスさまから目を離さないで生きる」ことです。お読みします。 クリスチャンとはどのような人でしょうか? 雲のように多くの証人に取り囲まれている人です。旧新約聖書を読むと、信仰の先達がいかに神とともにあゆんだか、その記録に満ちていて、私たちはこれをお読みすることによって、自分と同じような平凡な人がこうして神とともに歩む祝福を受けたという事実に、励ましを受けます。 しかし、そのように雲のごとく自分を取り巻く証人の証しにふれるには、聖書のみことばをお読みすることが必要になります。ただ、このヘブル人への手紙の時代には、信徒各自が聖書を持っていたわけではありません。信徒の群れという共同体の中で分かち合われるみことばによって、信仰の先達のその歩みにふれていたわけです。 現代はその時代を考えると、各自に聖書が行きわたっていて、その点ではとても素晴らしい時代です。好きな時にいつでもみことばを読むことができます。スマートフォンを使ってでさえ、みことばが読めます。究極の携帯です。 これだけみことば全体がそばにいつもあると、それこそ、各自を雲のように主の証人が取り囲むような時代……もしかしたら、ヘブル人への手紙の筆者は予見していたのかもしれませんが、少なくともヘブル人への手紙が書かれた時代には、想像もつかなかった事態が、いま私たちの目の前に展開しています。私たちは主の証人たちの、すぐそばにいさせてもらっています。 さて、その証人は、どのようにして主とともに歩んだのでしょうか? 忍耐をもって歩みました。私たちがみことばから学ぶことは、彼らをとおして主が奇跡のわざを行われたことを、まるで彼らのすごさのように勘違いして、彼らは特別で自分とは関係ない、と思うことでは決してありません。私たちはむしろ、そんな彼らも大変な忍耐の中にいたこと、それは自分もまた体験させられていることであると受け取り、今日体験している苦しいことを、主からの訓練として耐え忍ぶ信仰を育てていただくことが必要です。 しかし、彼らはなぜ耐え忍ぶことができたのでしょうか? 2節のみことばです。……そう、それは、信仰というものの源であり、信仰というもののゴールである、イエスさまから目を離さなかったからです。私たちはイエスさまの十字架から目を離さないことによって、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、人生の競走を走りおおせることができます。 3節のみことばです。まず、イエスさまが忍耐されたのでした。イエスさまが忍耐されたゆえに、代々の聖徒たちは忍耐をすることができ、それゆえに私たちも忍耐するのです。私たちの心は元気を失っていないでしょうか? 疲れ果てていないでしょうか? イエスさまを見上げることです。 私たちが疲れてしまうのはなぜでしょうか? イエスさまが見えなくなっているからです。私たちはイエスさまのことを見上げるには、あまりにも忙しい環境に置かれています。次から次へと仕事が入ってきて、息をつく暇さえありません。でも、そんなときに、心のどこかに留めておいていただければ感謝なのですが、初代教会の使徒たちが祈りとみことばに専念することでその職務を全うしたように、私もみなさまに必要なみことばを備え、みなさまのためにお祈りしています。 特にお祈りすることは、みなさまがとてもお忙しい中にあったり、その忙しさから解放されてご自宅でしばし憩いのひとときをお持ちになったりしているとき、イエスさまから目を離さないでゆかれるように、ということです。私たちはあまりにも、この世のことに忙殺されて、結果的にイエスさまから目を離してしまうようなことの多いものです。 しかし、イエスさまはそのような私たちのことを、特別に憐れんでくださっています。世に対してよそ見してしまうような私たちのことを、イエスさまにその目を釘づけにするようにしてくださいます。 とはいいましても、私たちにもし、食べて生きていく上での時間以上に時間が残されているならば、その時間は何としてでも、イエスさまに目を留める時間に最優先で用いていただきたいのです。もちろん、じっくり時間を取るのがベストですが、たとえじっくり時間を取れなくても、一日の初穂の時間である、朝の時間を聖別して、イエスさまとの交わりの時間に充てることはできませんでしょうか? アーサー・ホーランド先生の本のタイトルではありませんが、「1ミリだけ難しく生きよう!」。ちょっとの努力で、イエスさまに少しでも目を留めてみましょう。いえ、イエスさまとの時間にこそ私たちが生き返る道があるならば、少しでもイエスさまのもとに行けるよう、私たちは積極的に取り組むことができないでしょうか? ともあれ、イエスさまから目を離さない生き方を、聖書のあらゆる聖徒から学び、私たちも実践する者となりますように、主の御名によってお祈りいたします。 2番目のみことば、それは、ピリピ人への手紙3章12節から14節です。 もちろん私たちは、イエスさまを信じる信仰によって、すでに神さまに救っていただきました。そこには何の努力もいりません。しかしだからといって、私たちはこのような救いを与えてくださった主と、無関係に生きるわけにはまいりません。このような素晴らしい救いを与えてくださる主と、私たちは全身全霊でお交わりし、このお方を人々に伝えるのです。 パウロは言っています。「私はすでに得たのではない」、「私はすでに完全にされているのでもない」、「私はすでに捕らえたなどと考えてはいない」。 考えてみればパウロは、ダマスコ途上でイエスさまに出会ったその瞬間から、イエスさまの福音を異邦人に宣べ伝えるという召命をすでにいただいていました。ただ、ダマスコ途上で救っていただいたから、その救いで充分、となっていたわけではなかったのです。パウロは、使命を全うしてこそ、この世で生きる意味がありました。でも、間違えてはいけません。パウロは「救っていただくために」使徒として働いたのではありません。「救っていただいたから」使徒として働いたのです。 この箇所をよく読みましょう。パウロは確かに、この救いを完全に自分のものとするように「捕らえる」ことに専念していると告白しています。 しかし「捕らえる」ようにしているのは、なぜであるか、それは、イエスさまが自分のことを「捕らえる」ように「捕らえて」くださっているからだ、というのです。 つまり、救いを「捕らえる」ということは、実は「捕らえるようにしてくださっている」、「捕らえさせてくださっている」ということです。救いの主体はパウロにはありません。イエスさまにあります。同じことで、私たちは救いの完成を目指して努力しますが、実際は、そう努力できるように、イエスさまが私たちのことをがっちりと捕らえていてくださるのです。 目標はわたしだよ、わたしがそばにいるから、あなたはわたしの備えたこの道を、力いっぱい走りなさい……イエスさまはいつもそばにいてくださり、私たちのことを励ましてくださっています。 14節をご覧ください。ここにも「賞」が出てきます。その「賞」とは何でしょうか?「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださる」、これこそが「賞」です。私たちはイエスさまを信じれば天国に行けます。何かを差し出したから天国に行ける、というものではないことは、忘れずに押さえておく必要があります。しかし、日々主と交わり、天国に行くための備えを日々していくならば、いざ天国に行ける日のその喜びは計り知れぬほど大きくなります。私たちの人生は、天国に行くその日に完成するのです。そこから脱落しないためにも、いえ、消極的なことを言ってはいけません、天国に行ける喜びが日々増し加わるためにも、私たちは日々、主とともに歩む必要があります。 私たちは、救われているからもう充分、と考えはしないでしょう。この救いを完成させていただくために、召命に生き、召命に生きるうえでの賜物を見出し、賜物を活用するうえでの志を新たにしたいと思いませんでしょうか? 先週取り組んだ、ぶれない生き方をするための人生の3つの要素は、これからもはっきりさせてまいりたいものです。人生を神のみこころを顕すということにおいてぶれずに生きるということは、人生の完成に向けて歩みつづけるということです。 私たちはやがて、天の御国で再会します。それは、完成したお互いの人生の姿をお互いが見て、ともに神さまをほめたたえるということを意味します。その日に向けて、主の御前で恥ずかしくなく生きる私たちになりますように、主の御名によってお祈りいたします。 最後に、テモテへの手紙第二4章6節から8節のみことばをお読みします。 これは、パウロの書いた手紙類の中で、聖書に採録されている最後の手紙の、締めくくりの部分のことばです。そう考えると、これはパウロの遺言ともいえ、また、使徒として生き抜いた人生の総括のことばともいえます。こうなると、あまり解説を加えたりするのは、野暮というものかもしれません。 私たちは言えるでしょうか?「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」カッコイイ、とか言っている場合ではありません。このことばはクリスチャンとして生きる以上、人生の終わりを迎えるときには、すべからく口にすべきことばです。 とはいっても、パウロは人生をこれで終わりにしたわけではありません。13節をご覧ください。外套は、寒さをしのぐために必要なものでしょう。しかし、それにつづく「羊皮紙のもの」は何でしょうか。テモテにはそれが何であるか、たちどころに分かったはずです。いずれにせよパウロは、牢獄の中にいて外に出られないような人生、しかもいよいよ終わりを意識するような状況の中にあって、それでもなお、勉強を続けています。成長することを心がけていたのです。 この姿から私たちは何を学べるでしょうか。私たちの人生は、主が召されるその瞬間まで、終わりというものはない、ということです。パウロはこの、臨終の告白をしてもなお、成長するために勉強する意欲にあふれていました。私たちも成長するのです。よく、哺乳類の成長曲線、それはこのように伸びて、最後は緩やかに下っていく、それは人間も同じと思いますでしょうか? いえ、そんなの嘘っぱちです。 もちろん私たちは、時に落ち込みます。しかし、それで終わりなのではありません。私たちはときに落ち込んでも、また盛り返し、さらに成長します。成長しつづけて、完成する、これが私たちの人生なのです。 想像しましょう、イエスさまが義の冠を授けてくださるその瞬間を。その日に向けて、私たちが恥じることなく歩むために、今日、何ができるでしょうか? 今年……早くも5か月が経とうとしていますが……今年、何ができるでしょうか? ヤコブの手紙にあるとおり、主のみこころなら私たちは生きていて、このことを、またはあのことをしよう、それが私たちの生き方です。神さまに許されている中、完成に向けて、有終の美に向けて歩みます。その日を思い描き、今日の働きに種を蒔く私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りします。

「スポーツ選手のように」

聖書朗読;コリント人への手紙第一9:24~27/メッセージ題目;「スポーツ選手のように」 昨日私は妻と一緒に、娘の体育祭を観に行きました。全部で5つのクラスごとに分かれた組別対抗戦で、その代表選手がリレーで走る姿に、中学生になって成長した分、小学校のリレーよりもさらに迫力がありました。私どもも娘のチームを応援しましたが、残念ながら優勝はできませんでした。 スポーツ観戦というものは自分がプレーしているわけでもないのに、競技や試合をする選手に感情移入して、観ている方、応援する方も燃えます。やはりそれは、勝利したものが賞を得る、その賞に向かって全力を尽くす姿に、観ている者も燃えるわけです。聖書のむかし、古代コリントにはすでに、この「賞」を得るために競技するスポーツが存在しました。 さきほどお読みした箇所、コリント人への第一の手紙9章24節から26節のパウロのことばは、競走やボクシングのような古代スポーツで賞を得るためにあらゆる節制をするスポーツ選手の姿をみれば、私たちクリスチャンにとって賞を得る歩みをするとはどういうことかわかるではないか、と説いているわけです。 パウロはこの箇所の直前で、私は多くの人を獲得するためにすべての人の奴隷となる、と語っていますが、パウロはここで、お高くとまったユダヤの律法学者の姿を捨て、荒くれた港湾都市コリントの男どもの視点に立って、彼らが好きなスポーツというものをたとえに用いて神の国を語っているわけです。このメッセージはまさに、しもべとしてのパウロの姿勢を示しています。 それはともかく、ここでパウロは、スポーツ選手はどうあるべきだと語っていますでしょうか? まず24節、「賞を受けるのは一人」ということです。オリンピック最大の花形競技、マラソンはもちろん、最初にゴールのテープを切り、金メダルをもらうことが、選手にとって最大の目標であり、また栄誉です。それが許されるのは選手が多かろうが少なかろうが、たったひとりです。 賞を受けるのはひとり、ほかのだれでもない、クリスチャンに課せられた姿勢はそのような姿勢です。ペテロは、イエスさまによって弟子としての回復、働き人の回復をいただいたとき、すぐそばにいたヨハネがふと気になり、思わずイエスさまに、こういう意味のことをお尋ねしました。「主よ、彼はあなたについていけますか。」しかし、イエスさまはおっしゃいました。「イッツ・ナン・オブ・ユア・ビジネス。彼がどうなろうと、あなたには関係ありません。あなたはわたしに従いなさい。」人のことはいいのです。私たちが第一に考えるべきことは「自分が」イエスさまについて行き、賞を得る歩みをすることです。 25節をご覧ください。その賞はどんな賞でしょうか? 朽ちない冠です。マラソンの勝者は月桂冠をその頭にかぶらされ、栄誉を称えられます。そして、たっぷりの優勝賞金をもらいます。しかし、それらはみな、この世の富であり、この世の栄誉です。手にしたとしても一時的で、いずれは朽ちていきます。 私たちの賞はそのようなものではありません。私たちは人にほめられたり、多額の富を手にしたりするために主にある歩みをするのではありません。むしろ私たちは、この世においては名もなく貧しく歩むものかもしれません。名もなく貧しく、そんな私たちは人の目には美しくなく、しかし、神の目には美しいのです。わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。このみことばをいただいて、私たちは天の御国で永遠の賞、永遠の王としての冠を神さまからいただくのです。ハレルヤ! ただ、そのためには、私たちはあらゆることについて節制する必要があります。マラソン選手でよけいな贅肉でたっぷんたっぷんしている人はいません。とにかく贅肉をそぎ落とします。贅肉がつかないようにしっかりトレーニングし、食べ物にも気を遣います。睡眠時間も考えるでしょう。スポーツ選手がこの世の栄誉や富を得るためにそこまでしているのなら、いわんや、主のために努めるべき私たちは、主にあって努力せずにいられましょうか、ということです。 ただし、ここでいう私たちにとっての「節制」は、人間的な努力とはちがいます。もちろん、ある面では重なる部分もあるかもしれませんが、私たちにとっての「節制」は、「この世と調子を合わせない」という実を結ぶべきです。なぜならば、私たちは神の栄光を顕して生きるべきであり、この世と調子を合わせるようなら、神の栄光を顕すことなど望むべくもないからです。ローマ人への手紙12章2節をお読みしましょう。 変えていただき、とあります。私たちは自分で自分を変えようとする前に、神さまに変えていただく必要があります。そのために私たちは、お祈りするのです。私たちの弱さ、私たちの罪、私たちのこの世に傾いてしまう部分を正直に主の御前に告白し、主のお取り扱いをいただく、それがいつも私たちにとって必要なことです。こうして私たちは、主にあって節制することを学びます。そうさせてくださるのは聖霊なる神さまです。私たちが節制できるようになったとしてもそれは神さまのみわざですから、私たちは自分を誇るべきではありません。 26節。スポーツ選手はただトレーニングをすればいいのではありません。ゴールとはまったくちがった方に行ったり、ボクシングでパンチが空振りしても、何にもならないわけです。マラソンでは失格にしなりますし、ボクシングでは相手にやられます。目標を外さない、これが私たちに求められている姿勢です。 27節。こういうことをコリント教会に説くパウロは、自分自身が失格者とならないように、自分ことが努力すべき存在であると語ります。私もそうです。私もこうして、高いところから語らせていただいていますが、ここでお話ししているとおりのことを私ができていないならば、絵に描いた餅にしかなりません。みなさまがこのみことばを守り行なって合格しても、私だけは失格者、そんなことになってはいやです。 さて、ここまでパウロはスポーツ選手になぞらえて、自分を含めたクリスチャンの姿勢について語ってきましたが、スポーツ選手の名言は古今東西数あれど、私にとって近しいもののうち、とても対照的な発言を取り上げてみたいと思います。 私が中学生のとき、プロ野球で、公式戦連続出場の世界記録を達成し、国民栄誉賞を受賞した選手がいました。覚えていますか? 衣笠祥雄さんです。それはプロ野球では2人目の国民栄誉賞受賞で、その前に受賞したプロ野球選手は、国民栄誉賞というものそのものを創設するきっかけをつくった人でもありました。その選手はどなたか、もうお分かりですね、王貞治さんです。ホームランの世界記録をつくった人です。 王選手と衣笠選手は、それぞれの記録にまつわる発言を見ると、とても対照的です。王さんはこういう発言をしています。「ホームランというのは準備したことがちゃんとできてるだけの話。」「練習を怠る人が上手くなることはないんですよ。修練して上手くなった人がより上手くなるんです。」いかにも努力家の王さん、ストイックな王さんらしい発言です。 では、衣笠選手は何と言っているでしょうか? もちろん、努力の大切さも語っています。しかし一方で、こんなことをも言っています。「野球が大好きでした。こんな好きなことを一日たりとも休めますか。」 もちろん、これだけの記録を打ち立てることができたのは、王さんにしても衣笠さんにしても、恵まれた体格と天才的なセンスがあったからですが、その上で、努力しなければという強い義務感、そして、好きだから頑張ろうという自発的な思いがあったからということは、言うまでもありません。 私たちはどうでしょうか? 私たちが神さまの子どもならば、私たちのうちに住まわれる神の霊によって、私たちは神の子らしく歩もうという義務感が与えられ、それにふさわしく節制しますし、神の子として歩みたいという内的衝動が与えられ、その従順はすべて自発的なものとなり、それ以前に、神の子として歩めるという自分自身の存在意義を日々発見し、その歩みが全うできるように、主との交わりを日々深めていきます。 私たちがそのようにして、日々、的を外さない、ぶれない歩みをして、主の栄光を顕すべく用いられる者となりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「聖書の語る弟子訓練」

聖書箇所;エペソ人への手紙4:7~13/メッセージ題目;「聖書の語る弟子訓練」 先週、東京に行ったとき、その帰り道で、学生時代の親友に、ほんとうに久しぶりに再会しました。15年ぶりでしたが不思議なもので、会ったとたんにそんな時の流れなどたちまち忘れました。 そんな彼が、「武井くんに渡すものがある」といいました。彼は実をいうとミュージシャンです。さては新しいアルバムを出したかな、それをプレゼントしてくれるのかな、と思っていると、彼はたくさんのCDの入った紙袋を渡してきました。彼の新しいアルバムではありません。なんとそれは、私の学生時代のコレクションで、音楽をつくっている彼の役に立つなら、と、神学校入学を前にして、彼にあげてしまっていたものでした。その自分のコレクションに、私は何と25年ぶりに再会したことになります。びっくりするやらうれしいやら、特にそのうちのひとつは、せめてYouTubeに上がっていたりしないかな、と、検索してみても何もなく、がっかり、ということの繰り返しで、喜びもひとしお、といったところでした。 彼と私は、今から29年前、「キャンパス・クルセード」という学生宣教の団体で友達になりました。その頃、うちの教会もそうだったと思いますが、若者たちが「リバイバル」ということばを合言葉に、教会成長に向けてとても盛り上がっていた時代でした。しかしその中で、キャンパス・クルセードは確かにその「リバイバル」の流れの中にいながらも、取り組んでいたことは、ひとに伝道できるように、また、そうして信仰を持ったクリスチャンのことを、リーダーとして訓練できるまでになれるように、学生たちを鍛えていた「弟子訓練」を主体とする、地に足ついた宣教団体でした。 この団体にはいろいろな教会から集まっていましたが、一部の教会を除いて、教会というところではなかなか、このような厳しくも楽しい「弟子訓練」というものを受けられる環境にはありませんでした。私はこの団体に身を置きながら、このような「弟子訓練」をそれぞれが通う教会で受けられるならば、教会もクリスチャンもどれほど成長するだろうか……そんなことを考えるようになりました。 やがて韓国の神学校に行き、私が神学生として在籍した教会は、弟子訓練に力を入れ、大きく成長を遂げていました。 特に、最後の奉仕教会だったサラン教会は、弟子訓練による教会形成という働きにおいて韓国を代表する教会で、サラン教会のみなさまは、私がゆくゆくは日本で弟子訓練の牧会ができるものとなるように、いつも祈ってくださっていました。 このたび、東京西部の山の中で行われた修養会は、そのように弟子訓練に取り組んでこられた牧師先生がた、これから取り組むために準備を進めていらっしゃる牧師先生がたの、分かち合いをとおして学び合うすばらしい時間で、それはけっして堅苦しいものではなく、むしろ、主の恵みの中でいやされました。私もこの3日間の中で、多くのことに気づかされ、今後の牧会を進めていくにあたっての方針を再確認させられることがたくさんありました。 今日はその中で、特に分かち合いたいこと、それは、「弟子訓練はなぜ行うのか」「弟子訓練はどのように、いつ、どこで行うのか」「弟子訓練はだれが行うのか」、この3つを学び、弟子訓練による教会形成の意義を、この共同体で共有したいと思います。 では、まず、「弟子訓練はなぜ行うのか」、これは、さきほどお読みした本文から発見することができます。7節のみことばです。ここからわかることは、人、特に、クリスチャンは、神さまから賜物という恵み、その人特有のプレゼントを与えられている、ということです。ひとくちに賜物といってもいろいろあるので、今日は本文のみことばの教える「賜物」に限定して考えますが、それはあとで見るとします。 8節から10節をお読みします。まず8節、捕虜とは、死と悪魔に捕らえられた捕虜ということであり、それはかつての私たちの姿です。主は、死と悪魔に捕らえられて滅びるべき私たち罪人を、その罪を十字架によって赦してくださり、私たちを救われて、ともに天国に入れてくださいました。そのようにして、救われた人間に、贈り物、賜物を与えてくださったというのです。 なぜ、人を罪と死から解放し、救ってくださり、そればかりか人に、賜物を与えられたのでしょうか? それは「すべてのものを満たすため」です。虚しさに服したこの地は、イエスさまによって満たされる必要があります。その、満たす働きは、だれがするのでしょうか? 死の虚しさから救っていただいた、私たちがするのです。 賜物とは何か、ということは、11節に列挙されているとおりですが、それはあとであらためて見ることにして、12節をご覧ください。この賜物の与えられた献身者がすること、それは、キリストのからだを建て上げる、ということです。そのために、聖徒を整えて奉仕の働きをさせるのです。 ですから、なぜ弟子訓練をする必要があるのか、それは、キリストのからだを建て上げるために聖徒を整える必要があるため、ということです。愛するみなさん、私たちはキリストのからだを建て上げる主体である、という意識を持っていますでしょうか? それが充分にできている、あるいは、できつつある段階に置かれている、という感覚をお持ちでしょうか? 私はみなさんに、私はキリストのからだを建て上げる主体として整えられている、そういう自覚、というと厳しいですが、感覚、を、少なくとも持っていただきたいと、心から願っています。ただし、そのためには、キリストのからだの主体として整えられるためには、それなりの環境に私たち自身を置く必要があります。 そこで「環境」についてお話しします。弟子訓練は、どのように、いつ、どこで受けるのか、という問題です。ここからは今日の聖書本文の解釈をしばらく離れますが、実際的な適用として聞いてください。まず「どのように」、これは、私の25年の献身者としての生活、33年のクリスチャンとしての生活から学んだ結果、つねに実践できたかどうかは別として、間違いのないこととして確信してきたことですが、クリスチャンが整えられるには、少なくとも3つの環境があるのが理想的です。 まずは「大礼拝」です。いまこうしてささげている礼拝、これが必須です。この礼拝は、私たちが水戸第一聖書バプテスト教会という共同体、主のからだのひと枝としてささげているものであり、ここで私たちは主のみことばと主の霊によって整えられます。これは「ともに整えられる」主のわざです。 次に「小グループ」です。イエスさまは何千人もの大会衆を導かれた一方で、十二弟子の訓練に集中していらっしゃいます。さらにイエスさまは、その中からペテロとヤコブとヨハネのわずか3人を選抜して訓練してもいらっしゃいます。小グループはお互いが話し合いながら、みことばの恵みや生活の分かち合いをするので、自分には気づけなかった主の恵みに、多角的に気づかされる時間となります。いまうちの教会で、Dコースという名前で持ってきた水曜日の集まり、金曜祈祷会が、この「小グループ」にあたります。わが家でも毎晩、家族で集まって家庭礼拝の時間を持っていますが、これはまさに「小グループ」です。 そして、「ディボーション」です。「礼拝」と「小グループ」が共同体のわざなら、「ディボーション」は個人のわざです。神さまが個人的に霊とみことばによって交わりを持ってくださる時間です。この「ディボーション」は、共同体で弟子訓練される以前に、個人が弟子訓練されるために必須のプロセスです。この、個人の訓練の集合が、共同体の訓練になるからです。 以上のことをもっと詳しく扱うと、メッセージの語り方や、小グループでの学びの持ち方や、ディボーションの持ち方など多岐にわたりますが、それは時間の都合でおいておきます。以上が「how」、どのように、ですが、以下はその3つを持つ上での「where」と「when」についてお話しします。 まず、日曜礼拝は言うまでもなく「日曜日」に行います。私は長い間、日曜日に休まないで仕事をしている公共交通機関やコンビニや電気・ガス・水道関係の方々の犠牲の上に日曜礼拝は成り立っているのだから、日曜日に休む方々をさばくべきではない、と考えてきました。その考えは今も基本的に変わっていませんが、そう考えるあまり、日曜日に礼拝にやってこないことに対して、極端に甘くなっていたことを、牧師として反省させられています。 聖書は「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と教えています。これは、ユダヤ式に「今でいう金曜の日没から一日を礼拝に用いよ」ということを文字どおりに守りなさい、ということではなく、「教会は週に一度を共同体として主の御前にささげよ」という意味です。その集まりの日はイエスさまが復活された曜日である「主の日」、すなわち日曜日であったことは、すでに聖書にその起源を見ることができます。 この日を大切にすることは、そうしないとバチが当たる、とか、そんな日本的な発想で捉えてはなりません。しかし逆に、自分は律法から自由だから日曜日に礼拝することにこだわらなくていい、と考えるのも違います。私たちは礼拝において共同体がともに整えられる体験をすることで、この地を満たせというキリストのみこころを実現するのです。 みなさん、想像してみてください。全国には8000か所近くの礼拝堂がありますが、そのすべての礼拝堂が、日曜日に礼拝者でいっぱいになって礼拝をささげていると……それだけでも地は満ちていると思いませんか? いや、もっと満たされるように、礼拝者も礼拝の場所も増やされますように……そう思いませんか? 私たちが主の弟子として訓練され、整えられ、地を満たし回復するというキリストのみこころを実現するうえで、日曜日という週に一度のこの特別な日を聖別し、ともに集って礼拝をおささげすることは必須です。ともに弟子になるのです。イエスさまの説教、ペテロの説教を聴いた聴衆が大いなる立ち帰りを体験したのは、個別の体験ではなく、神の民としての集団の体験です。この礼拝は、私たちがともに主の弟子とされるためのプロセスでもあります。大事にしましょう。 場所ということでいえば、礼拝できる場所があるならば、断然礼拝堂に集まるべきです。現代はコロナ下も相まって、オンラインでの礼拝も行われ、うちの教会も実践しているわけですが、忘れてはいけないのは、これは「礼拝をささげないよりもいい」ということであって、間違っても、「ともに礼拝堂に集ってささげる礼拝に取って代わるもの」にはならない、ということです。そういうわけで、コロナ下ということは極めてきつい現実ですが、それだけに、今少しずつでも、日本の諸教会が集まれるようになったのはすばらしいことです。 次に小グループ、初代教会において、その場所となったのは「家庭」でした。家庭を開放して信徒が集まるわけです。現代の教会もこの考えをもとに、「家の教会」というものを実践しています。しかし、家庭が解放できることは家族全体の献身につながることで、それも素晴らしいことですが、うちの教会のように礼拝堂が存在し、集まる場所があるならば、礼拝堂に集まって小グループを持つことも、教会のわざという点で素晴らしいことです。集まるのは家だ、いや教会だ、などと、場所にこだわるよりも、信徒が互いに近い距離で交わり、みことばの恵みを分かち合える環境にあることが大事なわけです。 そしてディボーション。これはご自分が置かれている場所、どこででもです。毎日ささげるものなので、基本的にはご自宅ですが、出張や旅に出られても、そこでおささげする必要があります。ご飯を食べなければ弱るように、私たちはディボーションによって神さまと交わりを持たなければ弱ります。 場所と時間は、心が落ち着けて、だれにもじゃまされない環境。となると、やはり朝です。マルコの福音章1章を学びましたが、イエスさまは、朝早く暗いうちに、さびしいところに出ていかれました。朝という時間ははっきり言って眠い! 寝ていたい! 冬になると外も暗いし、布団はぬくぬくしているし、なおさら! いや、明るくなって暖かくなったらなったで、やはり寝ていたいのが私たちです。 しかし、ここはひとつ、起きましょう。このとき起きて主と交われば、最高です。俗に「早起きは三文の徳」といいますが、私たちは早起きして無為に過ごすのではありません。神さまと交わって、一日の初穂をささげるのです。それが、イエスさまにお従いする弟子の姿勢です。こうして私たちは、ディボーションによって弟子として整えられます。 以上、弟子訓練の「環境」について見てまいりましたが、最後に、弟子訓練は「だれが」施すのかを見てみます。さきほど飛ばした11節をご覧ください。……そうです。賜物が与えられていることを自覚し、主に献身した人が弟子訓練を行います。 使徒、預言者、伝道者、牧師、教師。この5つの働きのうち、使徒と預言者という働きはこんにち停止されているというのが、多くの教会において一般的に信じられている立場です。私も、聖書のみことばはこれ以上つけ加えられてはならないという点において、聖書を書く立場としての使徒と預言者はもう起こらないという立場には賛成します。 しかし、一方で、イエスさまに遣わされて、もといた場所から離れてみことばを携え、異言語、異文化、異民族に福音を宣べ伝えたのが使徒と理解するならば、こんにちの「宣教師」は、形を変えた「使徒」と理解できなくもありません。もちろん、霊的権威においては、みことばを書けるわけでもなく、初代教会の使徒とは比べ物にならず、宣教師を「使徒」と呼ぶなどとんでもないことです。しかし、使徒のした「役割」の一部に限定するならば、その役割はなぞることはできます。そう考えると、イエスさまが信徒たちにそれぞれ分け与えられた「使徒」という賜物は、こんにちにおいてもある面で有効と考えられなくもありません。 いえ、宣教師にかぎりません。こんにち存在するすべての教会は、この地に主から遣わされて存在する以上、本質において使徒の性質を帯びています。だれか特定の人が使徒なのではありません。教会というキリストのからだ全体が使徒の性質を帯びているのです。 「預言者」、これも注意を要することばです。いま、世界の教会には不思議な現象が起こっていて、かつてなく「預言」ということが強調されるようになりました。実際、幻を見るなど、特別なインスピレーションを受けるクリスチャンというのも、多く現れていますし、私の身近にもそういう人はちらほらいらっしゃいました。 もちろん、その預言なるものは必ずしも神さまから来るものとはかぎらないものという場合もあるので、このことに関しては慎重な態度が必要です。私個人は、主が特別にお語りになる、ということは、ある、と見ていますが、それでも、それをこの礼拝のような場所で大々的に語ることは、今のところ控えたいと思います。こんにちにおいて預言はない、という立場の先生方の主張にも一定の説得力があることは認めていますので、こんにちにも預言がある、という立場は、いまのところ、あくまで私個人の立場ということにかぎらせていただきます。 しかし、もっと一般的な意味に広げるならば、預言とは「神さまのみことばをお預かりしてお伝えする」ということであり、これは、特に聖書のみことばを学び、礼拝の講壇なり小グループや個別の牧会なりの場面でみことばを語ることで、相手を悔い改めに導いたり、励ましたり、慰めたりする働きといえるでしょう。献身者という立場は、まさにその訓練を受けている人です。もちろん、この働きはフルタイムの働き人のような「献身者」の働きにかぎりません。いわゆる一般信徒にも担える働きです。いや、働きというより、ふだんのみことばの分かち合いが、即、預言のような役割を果たすともいえます。 でも、語ることは、あくまで聖書のみことばです。聖書と無関係のインスピレーションは、間違っても語ってはなりません。だからこそ聴く側も、果たしてそのとおりか毎日聖書を調べた、ベレヤの信徒たちのように、ふだんからよくみことばに親しんでいる必要があります。 「伝道者」、福音を宣べ伝え、人々を救いに導く聖霊なる神さまの働きに用いていただく存在です。現代でも伝道者という働きがあり、古くはビリー・グラハムですとか、現代ならば岸義紘先生やアーサー・ホーランド先生といった方がそれにあたります。しかし、伝道というものは、所定の訓練を受けていればだれにでもできるものであり、私もさきほど申しましたキャンパス・クルセードで伝道の訓練を受け、まだ大学生だったときから、伝道を実際にしたものでした。そのように、クリスチャンが伝道をできるように訓練する働きをする方も、広い意味では伝道者といえます。以前、うちの教会にいらっしゃり、「爆発伝道」の手ほどきをしてくださった山中知義先生がこれにあたります。 牧師、いうまでもありません。牧会という名前で教会の信徒の全般的なケアをします。しかし、牧師はよほどの場合ではないかぎり、信徒の諸問題を代わりに解決する立場にはなく、教会という共同体が「完全な大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長する」ためにケアをするのですから、もし信徒が成長しないような牧会をしているならば、その牧会はやはり正しくはないことになります。成長を目指して牧会するのです。 教師、聖書のみことばを教える人です。これはたとえば神学校の教師のような働きともいえますが、牧師とはみことばを教えることなしには成り立たない働きであるわけで、それゆえに「牧師また教師」と書かれているともいえます。教団教派によっては、牧師按手を受けて牧師の資格を持つ先生のことを「教師」という呼び方をします。 以上のことを見てみますと、この5つの働きは、献身者がみな、何らかの形で兼ね備えているものです。ほんとうのことをいうと、この5つの賜物が別々の兄弟姉妹に顕著に現れるほど、そのほど教会の中で「分担」というものができるほど、教会は成長しているべきなのですが、教会が小さい段階ではそれは理想の域を出ません。しかし、私たちはいずれ、そのようになれるほどに教会が成長し、虚しさに服したこの地を満たす働きに用いていただくように祈るべきです。 私たちは主の弟子として、遣わされた人から、みことばの預けられた人から、みことばを聴いて救いを確信し、みことばによってケアされて成長し、みことばをさらに深く学びます。それが、大礼拝、小グループ、ディボーションがふさわしいものとなるために必須のプロセスです。 だから、私たちがふさわしい聖書理解の中で、聖霊の訓練を受けて成長するものとなるために、その教えを語る牧師のために祈っていただきたいのです。牧師が祈ること、学ぶことに集中するだけ、教会は成長します。それは、私たちがともに主の恵みをいただいて成長するということです。 でも、教会成長のために献身すること、弟子訓練のために献身することは、ほんとうは牧師だけの働きではありません。献身というと大げさに聞こえるかもしれませんが、献身はフルタイムの働き人になることだけを指すのではありません。この5つの役職は、私たちもどこかで少しずつでも賜物としていただいているものです。私たちの賜物は何でしょうか? 発見させていただき、その賜物、召しにしたがって、なすべきことを実践させていただきましょう。 さあ、今日のメッセージを、私たちはどのように適用しますでしょうか? 私たちは成長することに無関心ではなかったでしょうか? あるいは、成長というものを、単に個人的なものに限定し、虚しさに服したこの地を満たせというキリストのご命令に従うためということを、忘れてはいなかったでしょうか? この、地を満たせという主のみこころに従順になるために、私たちも御霊に満たされてこの地を愛によって満たす訓練を受けます。それが弟子訓練です。私たちは礼拝、小グループ、ディボーションという3つの取り組みによって満たされ、その満たしによって、キリストの愛によって愛して地を満たします。 その主のみこころを実現するために、この者はみなさまを訓練させていただく者ですが、その働きを担う上での賜物は、私たちひとりひとりに、何らかの形であります。みことばを分かち合うだけでも、その行いは預言者のようであり、教師のようです。いえ、それで聞いた方が成長するならば、牧師のようでさえあります。そして将来、この教会がさらなる成長を遂げ、どこか別の場所に開拓教会するようなことにでもなれば、新約時代の使徒の働きにならうことにさえなります。いえ、天の御国からすでにこの地に遣わされてキリストのからだをここ茨城に形づくっていることからして、私たち教会は使徒としての性質を帯びています。 私たちはこれまで、自分をそのようなものと捉えてきましたでしょうか? もし、それが充分ではなかったならば、今日から始めましょう。弟子として訓練される、その訓練に飛び込み、あらゆる虚しさに陥ったこの地を満たす働きに、用いていただきましょう。

「過去と未来を贖う『現在』」

聖書箇所;マルコの福音書1:40~45(p67)/メッセージ題目;「過去と未来を贖う『現在』」  3週連続となりますが、バプテスト教理問答書の第24問答を今週もお読みします。  問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。  答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。  本日のみことばは、ひとりの人がイエスさまに出会い、そのツァラアトをいやしていただくという場面を描いています。ツァラアト……それは重い皮膚病で、これにかかっている人は極めて重い苦しみをその身に受けなければなりませんでした。 まず、皮膚病そのものの苦しみです。肌が痛かったり痒かったりする、ただれていく、その苦しみはどれほどのものでしょうか。   社会的にも苦しめられます。隔離されるので、ただ人々の慈善にすがって生きるしかありません。  宗教的にも苦しめられます。旧約聖書のミリアムの箇所や、預言者エリシャの付き人で、ナアマン将軍に嘘をついて財物をせしめたゲハジの箇所などを読むと、ツァラアトは神のさばきの表れであり、そのような聖書的背景を知るユダヤの宗教共同体からは、ツァラアトの患者は神の呪いとさばきの表れと見なされ、忌み嫌われました。そうなるとやはり、人々の侮蔑の対象となります。また、人々にさわってももらえません。伝染するからです。共同体から外されながら生きることになります。  しかし、このツァラアトの患者もガリラヤに生まれ育っている以上、イスラエルの民、神の民として生きてきたわけです。神の民として生きる、それが本来の姿なはずなのに、ツァラアトという病を身に帯びているばかりに、神の民として生きることさえ許されない。彼の中にはどれほどの悲しみと飢え渇きがあったことでしょうか。  人が病を持ったり、障がいをもって生まれたりすることは、本来完全な神のかたちとしてつくられた人間が、アダムの罪によって堕落し、神との交わりが断絶した結果、人間の世界に罪がもたらされた結果といえます。このように体に不具合が生じるということは、それが顕著であればあるほど、人はそのように体の不自由な人を、ことさらに罪人扱いします。  しかし、ほんとうのところはどうでしょうか。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできない、と、みことばは語ります。神からの栄誉が受けられないほど罪に堕落し、罪に病んだ存在、それが人というものです。ツァラアトに冒された人だけがことさらに罪人なのではありません。  それでも、ツァラアトに冒されているということは、神さまの御目から見れば、神のかたちとして人間がきわめてふさわしくない状態に陥っていることなのは確かです。だからこそ、律法の書の中で、レビ記13章から14章にわたって、ツァラアトについて詳細に、多くの紙面を割いて、取り扱われているわけです。  この、皮膚病だけに目に見えやすい病であるツァラアトは、罪に堕落した人間の姿をわかりやすくあらわしたものと言えます。しかし、これは間違えてはいけませんが、人はだれでも、心とたましいがツァラアトに冒されているようなものです。その語ることば、取る態度は、どれほど神の栄光から遠い、罪人らしいことばづかいであり、また態度でしょうか。私たちはみな言わばツァラアトなのです。そんな罪人が、目に見える皮膚病患者だからと、ツァラアトに冒された人を差別するなど、もってのほかです。   私たちは罪に病んでいることを、どれほど自覚しているでしょうか? そこから救われたいと願っているでしょうか? もちろん私たちは、イエスさまの十字架を信じる信仰によって、これまで犯してきたすべての罪を赦していただいています。 しかし、それでも、私たちは罪に病んでいないでしょうか? 過去、ことばや行いで犯してしまった罪、今なおだれかのことを赦せない罪、だれかのことをさばいてしまっている罪が、今もなお、私たちの中にあって、その罪が雑草の根のように私たちの心の中にはびこって、私たちのことを苦しめ、病ませてはいないでしょうか?   そんな私たちは、自分がまことの神のかたちに回復され、神の国を生きるにふさわしい者となるために、何をすべきでしょうか。そこで、現在です。ツァラアトの人は、イエスさまに出会って、きよくしていただきました。  イエスさまがガリラヤをめぐっておられるという知らせを、彼は知りました。彼は居ても立ってもいられなくなり、直ちにイエスさまのもとに馳せ参じました。そして、彼は何と言ったのでしょうか?「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」  このことばには、いろいろな意味が込められています。まず、イエスさまはみこころにしたがって、全能者としてのわざを行われる神の子であるという告白です。そして、イエスさまは、ツァラアトという、神のかたちとしてふさわしくない姿からいやし、きよめてくださるお方だという告白です。さらに、そのようなみわざを行われるのは、イエスさまのみこころひとつであるという、主のご主権もともに告白し、本来自分は当然のようにその癒やしのみわざを受ける資格がないことも告白しています。彼の信仰告白は完璧でした。  イエスさまはそれに対し、何をなさったのでしょうか? まず、深いあわれみの心をお示しになりました。重い皮膚病で苦しんできたことに対するあわれみであったでしょう。社会的にも宗教的にも共同体から仲間外れにされてしまっていたことに対するあわれみでもあったでしょう。そして、神の民の共同体に加われず、民とともに受け取るべき主の恵みを受けられないで今まで過ごしてきたことに対するあわれみでもあったでしょう。実にイエスさまは、あわれんでくださるお方です。  それだけではありません。イエスさまはツァラアトの彼に手を伸ばし、さわってくださいました。ツァラアトの人にさわることは、律法で戒められています。だれもさわることはできませんし、さわらないのがあたりまえです。しかし、そのようにだれにもさわってもらえないとは、どれほどの悲しみの中にいたことでしょうか。それなのにイエスさまは、彼にさわってくださったのでした。   イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか。「わたしの心だ。きよくなれ。」そのように完全な信仰告白をもってやってきた彼のことを癒し、回復させることは、「わたしの心」、イエスさまのみこころだったのでした。そして、彼のツァラアトは消えて、彼は癒されました。  あわれみ深いお方、人を癒されることがそのみこころでいらっしゃるお方、イエスさまと、きよめられたい、赦されたい、その切なる思いを持つ者との出会い……救いといやしとは、その出会いによって成り立ちます。イエスさまのもとに行くならば、そのあわれみのみこころによって、人は救っていただき、いやしていただけます。  そのような中で、イエスさまは癒された彼に対し、43節のように接していらっしゃいます。……イエスさまは厳しい、という印象をお持ちでしょうか? しかし、これには理由がありました。44節です。  イエスさまは癒し主でいらっしゃいますが、イエスさまのいちばんの本質は、人を罪から救ってくださる救い主であり、神の国の王です。そのように、神の国を宣べ伝えるにあたって、人々がわれもわれもと押し寄せて、いやしてもらおうとするならば、イエスさまは本来のお働き、神の国を宣べ伝えるお働きができなくなります。 しかし、イエスさまはまた同時に、彼が神の民として回復されることを願われました。イエスさまはモーセの律法に従って彼が振る舞うことを命じられました。イエスさまは、彼がどこまでもイスラエルの信仰共同体の一員として振る舞うことにより、神の民として公式的に回復されるように導かれたのでした。イエスさまはもちろん、いやしてもらってうれしい、という彼の気持ちがお分かりでしたが、それだからこそ、あえて厳しく、彼のほんとうにすべきことを命じられたのでした。 私たちも時に、喜びであれ悲しみであれ怒りであれ、感情的な高まりを体験することもあるでしょう。しかし、それはすべてとは言いませんが、往々にして、聖霊なる神さまが与えてくださる主のみこころに従った感情とイコールではない場合があります。聖霊なる神さまは教会を立て上げられるお方です。しかし、クリスチャンの中には「示された!」などと言って、教会と足並みをそろえないで勝手なことをして、教会を混乱に陥らせる人というのがいるものです。 これではいけません。私たちは、劇的な主の御業を体験して、興奮状態になるようなときであればあるほど、主は実際にどんなみこころを持っていらっしゃるか、落ち着いてみことばから受け取ることをしてまいりたいものです。 しかし、彼は結局どうしたでしょうか? イエスさまがあれほど厳しく戒められたにもかかわらず、言いふらして回ったのです。みことばに従順に従う行動をする前に、感情的になって、人々に伝えて回ったのです。 いくつかの注解書を読みましたが、このことに関しては意見が真っ二つに分かれています。ひとつは、それほどまでに喜びをもたらしたイエスさまの救いのみわざが素晴らしかった、彼は当然のことをした、という意見、もうひとつは、彼のしたことは神の国の拡大を妨げることだったから、やはりよくなかった、彼は間違ったことをした、という意見です。 それは、どちらも正しいでしょう。しかし、ここで私たちが考えなければならないことがあります。それは、彼のしたことは、イエスさまの厳しいみことばに対する「不従順」の罪を犯したことである、ということです。そんな、そう言うなんてかわいそう、と思いますでしょうか? しかし、不従順であることに変わりはなく、その結果、イエスさまは表立って神の国を宣べ伝えることができなくなっているわけですから、神の国の拡大という御業を妨げることにもつながったわけです。 もちろん、イエスさまのみわざが、彼をしてイエスさまの戒めを忘れさせ、みんなにふれて回らせてしまうほどにすばらしいものなのは疑いのないことで、イエスさまが彼に対してみわざを行われたことそのものには何の問題もありませんでした。彼がイエスさまの救いのみわざを、感情的にしか受け取ることをせず、それに対する不従順の反応をしてしまったことが問題だったのでした。 しかし、それなら、イエスさまは彼が、そのような不従順の行動に出てしまうことをご存知の上で、あえて彼のツァラアトをお癒しになり、しかもその上で、彼に厳しい戒めのおことばをお語りになったのでしょうか?  そのとおりです。イエスさまは、彼がこれまでの生活でどれほど苦しんできたか、よくご存じだったからこそ、彼をあわれまれたのでした。そして、彼をお癒しになろうというおこころをお示しになったのでした。その結果、彼がうれしさのあまり、イエスさまによる神の国の宣教を妨害することになろうとも、お赦しになっての上で、「わたしの心」を示されたのでした。 救われたばかりの彼は、いきなり主の弟子として振る舞うには、あまりにも整えられていませんでした。それゆえに感情が先走って、不従順の罪、みことばを守り行わない罪を犯してしまうものでした。しかし、そういう人とわかっていたら、イエスさまは彼のことをその信仰告白にしたがって、お癒しにならなかったのでしょうか? 彼の神となられることを拒否されたのでしょうか? そうではありません。彼が未来にそのような不従順の歩み、神の国の拡大を妨げる歩みをするとお分かりになってもなお、イエスさまは彼にさわられたのでした。彼が未来に罪を犯そうと、彼の神となってくださったのでした。 イエスさまのとの出会いは、病んで神のかたちを失った過去をきよめるだけではありません。未来の罪をもきよめてくださいます。私たちは、自分の過去の病がいやされているように、自分の過去の罪もまた赦していただいている者です。同じように、私たちは未来の罪をも、すでに赦していただいています。 このことは、主の晩さんの席上で、ペテロが体験していることです。イエスさまは、ペテロがご自身を裏切ることを予告されたうえで、なお、ペテロがのちにはイエスさまについて行くこともまた予告されました。これは、ペテロが未来に犯す罪、人々の前でイエスさまを知らないと言ってしまう罪をお赦しになった、ということです。 本来、人々の前でイエスさまを知らないという者は、イエスさまもまた、御父の前でその者を知らないとおっしゃるほどの大きな罪です。赦されざる罪です。だからこそペテロは、そんな罪は決して犯しませんと言い張ったのですが、結局はその罪を犯してしまいました。それなのに、イエスさまはその罪をすでに赦してくださっていたのでした。 全ての罪は、赦されないほどの罪です。その罪のゆえに、私たちは父なる神さまと断絶させられても、一切文句は言えません。私たちはそのような罪を未来に犯す可能性が、ゼロではありません。いえ、ゼロではないどころか、私たちはこの地上を生きる間、どうしても罪を犯す存在です。しかしイエスさまは、その未来の罪に至るまでも、私たちのことをすでに、ご自身の十字架によってすでに赦してくださっているのです。 とはいっても、私たちは感情が先走って、主への不従順の罪を犯すようでいてはなりません。このツァラアトがいやされた彼のことを弁護することばはいくらでも出てくるでしょう。うれしかったんだから! みわざが素晴らしかったんだから! 人々にイエスさまを証ししたかったんだから! しかしそれでも、彼はまず、イエスさまのお語りになった戒めとご命令に聞き従うべきでした。 同じことは私たちにも言えます。私たちが感情に流されて、主のみこころと関係のないことを行うことで、主への不従順の罪を犯してしまうことのないように、私たちはまず、何かの行動を起こす前に、みことばが何と言っているかをつねに聴く必要があります。毎朝ディボーションを行うのは、そのように、みこころに聴き従うことにより、少しでも感情に流されての不従順の罪を犯さないようにするためです。 それでも私たちが罪を犯してしまったとしても……それであきらめたりしないでください。イエスさまがその罪に至るまで、私たちがイエスさまを救い主と受け入れた瞬間から、すでに赦してくださっていることを、信じ受け入れてください。 本日のメッセージのタイトルを「過去と未来を贖う『現在』」と名づけたその意味をおわかりでしょうか?「現在」とはいつでも、イエスさまの十字架によってイエスさまとの関係を結んでいる「現在」です。イエスさまは過去の病んだ私たちを十字架によって贖われました。イエスさまは未来の罪に病むであろう私たちを十字架によって贖われました。しかし、十字架は過去のもの、未来のものである以上に、今ここに実現している現実、現在のものです。 お祈りしましょう。むかしから引きずってきて、今の自分を病ませている「過去」はありませんか? 私たちを不安にさせて、今の自分を病ませている「未来」はありませんか? 聖霊さまに心を探っていただきましょう。示される罪を告白しましょう。 しかし、この、イエスさまが罪深い「私」、ツァラアトに冒されているような「私」にさわってくださっている、その御手を今ここに感じ、過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦され、きよめられ、いやされているということを、今ここに実感しましょう。

イエスさまの祈り

聖書箇所;マルコの福音書1:35~39/メッセージ題目;イエスさまの祈り 「バプテスト教理問答書」からまいります。本日は先週と同じ、問24です。 問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。 答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。 イエスさまが神の国の「王」であられることは先週学んだとおりです。しかし、イエスさまはまた同時に「祭司」でもいらっしゃいます。それも、ご自身のみからだという究極のいけにえをもって父なる神さまに祈りをささげられた、究極の祭司、最上の祭司でいらっしゃいます。 福音書を読みますと、イエスさまはいつも御父に祈っておられたことがわかります。それはイエスさまが「祭司」として、私たちのためにとりなしの祈りを御父にささげていらっしゃったということです。 今日の箇所は、イエスさまが朝まだ暗いうちに祈っておられた、ということを語っています。イエスさまの祈りはどのようなものであり、私たちとどのような関係があるのでしょうか? ともに見てまいりましょう。 第一のポイントです。イエスさまは、御父と交わられるために祈られました。 35節をご覧ください。……イエスさまは多忙な中、そして間違いなくお疲れな中で、父なる神さまの御前に出て、お祈りをしていらっしゃいました。 私たちは、神であられるイエスさまに、果たしてお祈りをなさる必要があったのだろうか、と思いませんでしょうか? しかし、そうではないのです。そう思うのは、私たちがそもそもお祈りというものを、誤解している可能性があるからです。 イエスさまにとって最優先にすべき大事だったことは、御父との交わりでした。父なる神さま、御子なるイエスさま、御霊なる神さまの交わりは、三位一体の神さまのご本質という点で、欠かしてはならないものでした。お祈りというものは、そのためにどうしても必要なことでした。 イエスさまがその、三位一体の神としてのお交わりのために「朝早くまだ暗いうち」というお時間を選んでいらっしゃったことにも注目しましょう。 この時間はいかになんでも、だれかがやって来てお働きを行われる、ということはありません。だれにも妨げられない時間と場所で、イエスさまは神としての交わりを持っておられたのでした。 ここから私たちは、自分にとってのお祈りというものを考える必要があります。いったい私たちはお祈りというものを、どのように理解していますでしょうか? お祈りとは、御父、御子、御霊なる三位一体の神さまのお交わりに入れていただき、ともに交わらせていただくことです。私たちは御父に向けて、御子イエス・キリストの御名によって、御霊なる神さまの導きにしたがって祈るのですから、私たちはお祈りするとき、確かに私たちは三位一体の神さまとの交わりの中にいます。 私たちは東洋、極東の精神世界に生まれ育った分、お祈りというものを「只管打坐(しかんたざ)」のように考えてはいないでしょうか? ひたすらにお祈りに打ち込むことで悟りを開く、といったたぐいのもの。 しかし、私たちはひたすら祈る、ということを誤解してはなりません。私たちにとってのお祈りというものは、努力で打ち込もうとするものと考えてはいないでしょうか? そうなると、神さまが招いていらっしゃるご自身との豊かな交わりの世界を、自分の努力という枠に閉じこもってしまって、味わえなくなってしまう危険が伴います。 イエスさまにとってのお祈りは、そういうものではありません。イエスさまは「わたしと父は一つです」とおっしゃっています。御父と交わられてこそのイエスさまなのです。お祈りをなさってこそのイエスさまなのです。 私たちがもし、お祈りを厳しい修行のようなものと捉え、お祈りを敬遠するようならば、それは、私たちをお祈りさせまいとする、すなわち、神さまとの交わりに入れさせまいとする、サタンの妨げにあっているということです。 私たちはお互いが、そのような妨げから解き放たれ、お祈りする喜びに導き入れられることをと祈るばかりですが、そうしてお祈りするようになったならば、もはやそのお祈りは、義務感にせき立てられてのようなきついもの、それゆえに避けたくなるものには、決してなりません。 私が献身に導かれた1990年の松原湖バイブルキャンプで、講師のアーサー・ホーランド先生がおっしゃっていたことですが、毎日のお祈りは「イエスさまとのデートの時間」だというのです。デートとは! みんな目からうろこが落ち、キラキラした目で聴いていたことと思います。 デートならば、わくわくしてその時間を待つでしょう。デートならば、遅れないように、だらしない態度をしないように、自分から努力するでしょう。これは宗教的な「修行」のたぐいではなく、「喜び」から自発的にするものへと変わります。 イエスさまにとって御父の前に出て行くことは、義務、以上のものであったと考えるべきでしょう。そう、喜び。イエスさまがバプテスマを受けられ、公の生涯を開始されたとき、御霊が鳩のようにイエスさまに降(くだ)られ、天から御父の声がしました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」そう、イエスさまのことを喜んでいらっしゃる御父との交わりこそ、イエスさまにとっての喜びでした。 私たちは何に喜びを覚えていますか? 神さまは私たちのことを喜んでいてくださるので、私たちが神さまとの交わりを持つならば、神さまはこの上なく、私たちのことを喜んでくださいます。そして、神さまのその喜びは、私たちにとっても最高の喜びとなります。 神さまは、ご自身の交わりのうちにみなさまが入って来られるのを、待っておられます。さあ、おいで! 交わろう! その御声が聞こえますでしょうか? 今日から始めましょう。ついテレビやネットを見てしまう時間を、神さまとの交わりに振り向けましょう。イエスさまがこの地上で体験していらっしゃった、神さまとの喜びの交わりを体験し、神さまに喜ばれる私たちとならせていただきましょう。 第二のポイントです。イエスさまは、御父の導きに従順になられるために祈られました。 36節から38節をお読みしましょう。……イエスさまはこのとき、働きを終えられたばかりのカペナウムにまだとどまっておられました。カペナウムの人たちは、新しい教えを語られ、癒やしと悪霊追い出しの驚くべきわざを行われたイエスさまに、もっといてほしいと願っていました。しかしイエスさまは、そのように引き留めるのを聞かず、ガリラヤ地方の次の町に出ていって働かれることを宣言されました。 カペナウムの人たちからすれば、自分たちの望みがかなえてもらえなかったということになるでしょう。しかし、イエスさまに向けられた御父のみこころは、イエスさまがいつまでもカペナウムにとどまりつづけることではありませんでした。ガリラヤ地方を巡回し、神の国を宣べ伝えられることでした。 これがもし、普通の人だったらどうでしょうか? 引き留める人たちの存在に、情(じょう)にほだされてその場にとどまりつづけるという選択をしたりはしないでしょうか? しかしイエスさまは違いました。ご自身の使命ははっきりしていて、どこにいくべきかを知っていらっしゃいました。 イエスさまがこのように毅然とした態度でおられたのは、なんといっても、父なる神さまがご自身に対してどのようなみこころを持っていらっしゃったかをよく知っておられたからでした。 みこころはどこまでも、ガリラヤ巡回! イエスさまはぶれなかったのでした。そのような確信は、その朝も持っておられた御父との交わりから生まれたものです。御父との交わりなくして、御父のみこころを知ることはできません。その交わりの時間、すなわち、今後どのようにお働きして御父のご栄光を顕されるかを知る時間を確保するために、イエスさまはだれにも妨害されない時間と場所を選ばれたのでした。 私たちも、何のために生きているのかを、自分のうちに確かにする必要があります。時に私たちは、人に好かれようとして、というより、嫌われることを恐れて、よくない選択、神さまのみこころにかなわない選択をすることはないでしょうか? しかし、そうして下した決断は、神さまに聴き従ったのではなく、人を恐れた結果でしかありません。 イエスさまは、カペナウムの人が何と思おうとも、ご自身に対する御父のみこころに従われました。その原動力となったものは、夜明け前からの御父との交わりでした。その交わりの中で、みこころを確かに受け取り、何を言われてもぶれないご意志を確かなものとされたのでした。 うちの教会で奨励されている「ディボーション」も、私たちに対する神さまのみこころを日々受け取り、その日に私たちひとりひとりに与えられたみこころを実践するために行うものです。言い換えれば、「人に左右されないように」、「人に惑わされて神さまのみこころが行えないことのないように」、ディボーションをするのです。 毎日割り当てられた聖書箇所は、とにかく、先に説明を読むことなく、聖霊なる神さまの導きによってお読みすることにチャレンジしてみてください。そこから悟ったみこころを、ただ頭の中で思うだけではなく、ノートに記録してみてください。その悟った真理を実生活に適用し、実践可能なことを書き出して、実際にその日に実践してみてください。一日の終わりには、それが実践できたかどうかを振り返り、実践できたならば神さまに感謝してください。さらには、この実践できたみことばの恵みを、教会の交わりの中で分かち合って、ともに神さまに感謝をささげてください。 だいじなのは、人に左右されないで神さまのみこころを守り行うことです。もしそれでも、神さまのみこころを受け取るうえで自信が持てなかったら、どうぞ牧師に相談にいらしてください。私は上から目線で教えることはしませんが、ともにみことばから学んでみこころを受け取るうえでのお手伝いをいたしたいと思います。 私たちひとりひとりが、そして教会が、ともにみこころを受け取り、揺れ動くことのない確信をもって神さまにお従いすることができますように、主の御名によってお祈りいたします。 最後に第三のポイントです。イエスさまは、御父の働きを執り行うために祈られました。 38節、39節をお読みしましょう。……このような力あるわざを行われたことには、原動力がありました。それは何といっても、祈りでした。祈りによってイエスさまは御力に満たされ、このような奇跡的なわざを行われたのでした。 いま奇跡的と申しましたが、イエスさまが行われたしるしや奇跡は、ナザレのイエスといういち人物の栄光を顕すためのものではありません。そのしるしや奇跡を行われることにより、父なる神さまの栄光、言い換えれば、父なる神さまのご存在を顕される、それが目的でした。 父なる神さまにお近づきするためには、イエスさまという羊の門を通らなければならない、そのことを人々が知るためには、イエスさまが父なる神さまから遣わされた神の子であるというしるしを見る必要がありました。したがって、癒やしや悪霊追い出しのようなしるしをイエスさまがお見せになったのは、人々がこのわざを行われるこのお方を信じることで、父なる神さまの御前に招かれるためです。 イエスさまにとっての祈りは、そのような、奇跡的な神のわざを行うためのものでした。このことをもっともはっきりと示した祈り、それは、ゲツセマネの園でイエスさまが御父に、血の汗を流して苦しみ悶えて祈られた、あの祈りでした。 イエスさまにとっての祈りとは、神との交わりであると申しました。しかし、十字架とは、御子イエスさまが人類のすべての罪を背負われ、父なる神さまとの交わりから断絶されるという、末恐ろしいできごとでした。人間の罪が、神の交わりを断ち切ったのです。御子イエスさまを十字架につけた私たち人間は、どれほど罪深い存在でしょうか! だが、その十字架によって、私たち人間は神の怒りから救われ、地獄に落ちるべき者が天国に入れていただく、これ以上の奇跡があるでしょうか? しかし、この奇蹟に先立っては、イエスさまの苦しみ悶えての祈りがありました。まさに、人類の歴史上空前絶後、唯一無二の奇跡、死んで滅びて地獄に行くべき罪人の人間が、罪赦され、神の子とされ、天国に入れられ、永遠のいのちが与えられるという、この上ない奇跡が実現しました。 イエスさまの地上のご生涯で行われた奇跡は、すべて、このような奇跡を行われるイエスさまを信じるならば神の子とされるという、神さまへの招きのために行われたものであり、その裏づけとなったものは、つねに御父にささげておられた祈りでした。祈りによりイエスさまは御父の御前に人々を導くわざをなされ、その究極のかたちは、ゲツセマネの園の祈りに裏づけされた十字架でした。 さきほど、イエスさまにとっての祈りとは喜びであると申しました。しかし、ゲツセマネの園の祈りに関しては、一見するととうてい、喜びと呼べるものではありませんでした。それでもイエスさまが祈られたのは、そのはるか向こうにある喜びを望み見ておられたからです。 ヘブル人への手紙12章2節をご覧ください。……これをお読みすると、イエスさまにとっての祈りの本質は、たとえゲツセマネの園の祈りのような苦悶に満ちた祈りであったとしても、やはり喜びであったことがわかります。 ひるがえって、私たちのことを考えましょう。私たちは本来、どれほど自己中心の存在でしょうか? どれほど愛のない存在でしょうか? どれほど神さまと無関係に生きていて平気な存在でしょうか? しかし、そんな私たちも、神と人を愛する者にしていただいています。そのために何ができるかをたえず考え、悩み、実践しようと努力したい思いが与えられています。これこそ奇跡ではないでしょうか? しかし、私たちにはこの奇跡を完成させられるだけの力はありません。つねに神さまとの交わりの中で、その奇跡を完成させていただけるだけの力をいただく必要があります。私たちの祈りは、そのような神と人を愛する力へと実を結びます。信じて祈ってまいりましょう。 3つのことをお祈りしましょう。 ①私たちは神さまといつ交わりますか? まずはこの1週間の計画を立てましょう。 ②私たちにとって最優先にお従いすべき神さまのみこころは何ですか? ③私たちは十字架こそ最高の奇跡であると信じ、すべてにおいて十字架の奇跡、贖いの奇跡があるようにと祈りましょう。具体的に私たちの周りのどの領域に、十字架の奇跡があるようにと祈りますか?

「神の国の力」

聖書箇所;マルコの福音書1:29~34(新p66)/メッセージ;「神の国の力」  「バプテスト教理問答書」の学びを再開します。今日は問24です。  問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。  答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。  私たち罪人をその十字架の死により、罪と死とサタンの支配から贖い出してくださったイエス・キリストは、預言者であり、祭司であり、王であられます。イエスさまは王です。王ということは、イエスさまが王として統べ治める「国」があるということです。聖書はその国を「神の国」と呼びます。いま私たちは、マルコの福音書を学んでいますが、本日の箇所に先行する1章15節、イエスさまはお働きを開始されるにあたり、「時が満ち、神の国が近づいた」と宣言していらっしゃいます。  神の国、ということは、それは「国」なのです。統治する王さまもいれば、国民もいます。王さまはイエスさまです。国民は私たちです。私たちはこの地上においては、特定の国に住んでいますが、私たちのほんとうの国籍は天にあり、すなわち、神の国に国籍を置いています。この地上に生きながら、私たちの場合は日本に生きながら、天国の国民、イエスさまを王とする神の国の国民として生きています。  イエスさまは私たちにまことの神のことばを語ってくださる、まことの預言者です。イエスさまは十字架の死によって父なる神さまにご自身というまことのいけにえをささげられ、神さまと私たちとの仲立ちをしてくださった、まことの祭司です。そして、私たちに御力をもって振る舞われ、私たちを治めてくださる、まことの王です。  本日の箇所は、イエスさまがまことの王として振る舞われる、神の国を人々が具体的に体験してゆくさまを描いています。ともに学びましょう。 第一のポイントです。イエスさまは人を癒し回復されて、神の国を体験させられます。 29節から31節をお読みします。……シモン・ペテロのしゅうとめは熱を出して寝こんでいました。 単なる熱ではありません。ひどい熱です。イエスさまは、この熱により寝込んでいたシモン・ペテロのしゅうとめの手を取って起こされ、いやしてくださいました。 コリント人への手紙第一4章20節が語るとおり、神の国はことばにはなく、力にあります。これは、神の国とは上っ面のことばだけのものではなく、人間世界に実際に力をもって臨むものである、ということです。そういう点からすれば、神の国とは「論より証拠」のものです。 しかし、イエスさまというお方は、神のみことばが肉体をとってこの世界に来られたお方、神のみことばそのもののお方です。このお方がいやしのわざを行われるということは、神のみことばのわざでもあります。実際、この箇所の並行箇所であるルカの福音書4章を読みますと、イエスさまはシモン・ペテロのしゅうとめに取りついた熱を「叱りつけられた」とあります。まさに、イエスさまのお語りになったみことばが、イエスさまのみわざであったのです。   もうひとつのみわざ、32節から34節までをお読みしましょう。……ここでもイエスさまは、力強くみことばを語っていらっしゃいます。みことばをもって悪霊を追い出していらっしゃいます。このように、イエスさまが悪霊を追い出されるという御業は、神の国がすでに来ていることのしるしであると、ルカの福音書に記録されています。  重い病気になっていることであれ、悪霊に取りつかれていることであれ、人として問題を抱えているということです。神さまに創造された人間ならば、本来死ぬこともなく、したがって病気になることもありえず、また、神さまのものである以上、悪霊が取りつくということもありえないはずです。それが、病気になったり、悪霊に取りつかれたりして、人間の世界には悲惨と破壊がもたらされるようになりました。  イエスさまが来られたということは、人がそのような破滅と悲惨から救っていただき、完全なからだをいただいて神の国の民として永遠に主とともに生きる恵みが与えられる、ということです。イエスさまのみことばによるいやしや悪霊追い出しは、まさに、人が神の国に入れられることで、そのように人を神の国、救いに召してくださる、神の栄光が現れ、神さまがほめたたえられるべきことです。  私たちはやがて、復活のからだ、完全なからだをいただいて、永遠に主とともに住みます。そのときには、顔と顔を合わせて主にまみえることになります。私たちはその日を期待していますでしょうか? もし、私たちがこの地上でいろいろな悩みに苦しんでいるならば、私たちは実は、この地上ではなく、神の国を生きる者にしていただいていることを思い起こしましょう。  私たちは病に苦しんでいますか? 神の国は病のないところです。私たちは人間関係に苦しんでいますか? 神の国は罪赦されたどうし、イエスさまによって贖われたどうしが生きる、人間関係の葛藤により神の平安の損なわれることのないところです。私たちは知恵が欠けていることで悩んでいませんか? 神さまは惜しみなく知恵を与えてくださるお方だと、みことばをとおして信じ受け取り、大胆に知恵を求めればよいのです。  私たちは癒されるために、本来の神のかたちとしての人の姿を取り戻させていただくために、力ある主のみことばを求めましょう。主のみことばを味わいましょう。黙想しましょう。イエスさまがかつて、その地の人たちを愛し、癒され、回復されたそのみことばは、今この自分に語られていることを、信仰によって受け取りましょう。私たちは必ずいやさえ、回復されます。神の国の民にふさわしく整えられます。信じてまいりましょう。   第二のポイントです。イエスさまは共同体を拡大されて、神の国を体験させられます。  この箇所において癒されたのは、ペテロのしゅうとめでした。しゅうとめ、という以上、ペテロには妻がいて、その母親ということになります。ペテロには妻がいたことは、コリント人への手紙第二9章5節を見れば明らかです。 私たちは十二弟子というと、イエスさまとの共同体生活というものが真っ先に思い浮かぶでしょう。それだけに、彼らは実は結婚していたということをあまり考えないのではないでしょうか。しかし実際には、ペテロのように、妻がいる者もいたのでした。 この時代のイスラエルでは、人が成人して結婚する頃になると、その親はもう世を去っていたということは珍しくありませんでした。イエスさまの地上の父親であったヨセフも、イエスさまの公生涯の頃にはもういませんでしたし、ペテロとアンデレの兄弟の親や、ペテロの妻の父親も、おそらくもういませんでいた。 ペテロは、妻の母親であるしゅうとめをケアしていました。もしかしたらその家には、アンデレも一緒だったかもしれません。しかし今や、アンデレもペテロもイエスさまについて行ってしまいました。もう漁師として稼いでくれることはなくなったのでした。このように、ペテロやアンデレがイエスさまの弟子になるということは、彼ら自身だけではなく、その家族も犠牲を経験することだったのでした。 そんなペテロのしゅうとめが、ひどい熱を出しました。それは、イエスさまにつく信仰の共同体にとっての大事な家族が、重い病気になってしまったということです。イエスさまは、そのような家族など放っておいてわたしに従いなさい、とおっしゃったでしょうか?  とんでもありません。イエスさまは彼女の熱を癒し、彼女の手を取って立ち上がらせてくださったのでした。 ここで、イエスさまはシモンのしゅうとめを「起こされた」とありますが、この「起こされた」ということばは、聖書のほかの箇所を見てみると、「死人の中から起こされた」という意味にも用いられています。イエスさまはまさしく、死ぬべき彼女を神の御子イエスさまにあるいのち、永遠のいのちへと導き入れてくださったのでした。 そのようにして、イエスさまによって、いわば「よみがえり」にも似た体験をした彼女は、何をしたのでしょうか? いそいそと食事の支度をはじめ、イエスさまの一行をもてなしたのでした。当時のユダヤ教の厳格な教えによれば、女性が食卓の給仕をすることは厳しく戒められていたといいます。しかしイエスさまは、彼女のこの喜びの奉仕を受け入れられました。これは、まことの人の回復が、「奉仕」という形で実を結んでしかるべきである、ということの証拠ではないでしょうか? また、食卓とは何でしょうか? イエスさまがその輪の中心になり、イエスさまを囲んで持つ、喜びの交わりです。ここに、神の国の共同体が実現するのです。ペテロのしゅうとめはもはや、ペテロやアンデレがイエスさまのもとに行ってしまったからという「仕方ない犠牲」を払っているのではありません。喜びからささげる、「自発的な犠牲」です。 むろん、食事をすることそのものが神の国を実現するのではありません。パウロの手紙の送り先であった、ローマ教会、コリント教会は、かえってこの「食事」の問題が、本来麗しく保たれるべき教会における交わりをおかしくしてしまっていました。そのような問題を指摘するにあたり、パウロはこのように言っています。ローマ人への手紙14章17節です。――なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。 聖霊に満たされたイエスさまは、義なるお方であり、平和の君です。そして、このお方とともに食卓を囲むならば、喜びがあります。高い熱をたちどころに癒やしていただいた喜び、このお方ならば婿のことをお任せして安心だという喜び、そんな喜びに、厳格なユダヤの戒律も吹き飛び、思わず一行のために食卓を用意してしまった……そうです。ペテロのしゅうとめも神の国の一員に加わり、神の国の一員として堂々と振る舞ったのでした。 私たちにこのような喜びがありますでしょうか? 病み上がりの身でありながら奉仕したくてたまらなくなるような、そんな喜び。もし、私たちが久しくこの喜びを忘れているならば、今こそ私たちは神の国の民としてふさわしく、この喜びを回復させていただきましょう。それは個人のレベルでもですし、家族のレベルでもですし、教会の交わりのレベルでもです。 その喜びにみなが満たされたならば、「御国をきたらせたまえ」というお祈りは、現実のものとしていただけます。信じて祈り求めましょう。 最後に、第三のポイントです。イエスさまは人々を集められて、神の国を体験させられます。   あらためて32節から34節までを見てみますと、カペナウム中の人々が集まってきた様子が描かれています。「戸口」とありますが、これはおそらく、ペテロの家です。家の中に入るには狭かったので、外の道、あるいは共同の中庭に面した戸口に、人々が集まってきた、というわけです。 それは、夕方になって日が沈んでからのことでした。ユダヤの一日は日が沈んでから日が沈むまでです。それまでは安息日で、イエスさまのもとに人を連れて行くことも、働いてはならないという律法に触れる「労働」だからということで、律法の解釈上戒められていました。それで、こんなとっぷりと日が暮れてからみんな集まったのでした。 しかし、イエスさまはといえば、安息日といっても、会堂で教えるという働きをなさったばかりです。人々はそんなイエスさまに休む間もあげません。しかしイエスさまは、そのように連れてこられた病気の人をひとりひとり癒され、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されたのでした。 このようにペテロの家の戸口に集まってきた人たちは、その日の礼拝で、イエスさまが人から悪霊を追い出された様子を目撃していました。またこのときにも、イエスさまがペテロのしゅうとめを癒されたことを知っていました。イエスさまならば、八方手を尽くしても治らなかった、私の愛する人も治していただける! 家族でしょうか、友だちでしょうか、カペナウムの人々は、そんな愛する人、しかし今はやんだり悪霊に取りつかれたりしてどうにもならなくなっていた人のことを、イエスさまのもとに連れてきたのでした。 このいやしのわざ、悪霊追い出しのわざをとおして、彼らカペナウムの人々もまた、神の国を体験しました。そのように、神の国が力をもって臨むさまに、彼らはどんなに驚いたことでしょうか。イエスさまはこうして、彼らの中にある救霊の情熱、家族愛、隣人愛を呼び起こして、神の国をこのカペナウムに実現したのでした。 ただ、神の国というものは、それがどんなにその場に臨もうとも、また、その力を人々が体験しようとも、その神の国の力を体験した人々が、悔い改めて神の国の民になることをしないならば、意味がなくなってしまいます。 このカペナウムは、これだけのイエスさまのみわざが行われたというのに、どうなったでしょうか? マタイの福音書11章20節と23節、24節をご覧ください。――それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」 ソドムとゴモラのことは言うまでもありませんが、性的にものすごく乱れた、実に罪深い者たちの町でした。その町にはロトの家族以外に正しい者はまったくいなくて、結局、神さまは天から硫黄の火を降らせて、この町を滅ぼされました。しかし、カペナウムはなんとそのソドムやゴモラよりももっとひどいさばきにあう、ということを、イエスさまはおっしゃったのでした。 カペナウムはあれほどイエスさまのみわざ、つまり、御国そのものを体験していたはずなのに、なぜイエスさまはこんなことをおっしゃったのでしょうか? それは、彼らは御国を体験していたにもかかわらず、悔い改めなかったからです。悔い改めない者に、神さまは容赦ないさばきを下されます。 カペナウムがこのように、神さまの容赦ないさばきを受けることになることを裏づけるみことばがあります。ヘブル人への手紙6章、4節から6節のみことばです。――一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。 どうしなければならないのでしょうか? 主のみことばとみわざを体験し、神の国にあずかった者としてふさわしく、つねに悔い改めることです。 この日本は、かつて多くの人々がイエスさまを信じ、教会を津々浦々に形成していった国です。みな、御国を体験し、その喜びにあふれていたわけです。しかし、いま日本の教会は、ひと頃の力がないように見えます。 これは、御国の素晴らしさを味わったうえで、しかも堕落してしまった姿なのでしょうか? 神さまがご存じです。私たちはしかし、まだここで希望を持つべきです。私たちには悔い改めるチャンスが残っています。だから、悔い改めることです。悔い改めなくして、御国の力、救いの力をほんとうに体験することはできません。 いったい、悔い改めない者たちの群れに、神さまは教会成長を起こしてくださるでしょうか? そのような群れにおける教会成長など、むしろないほうがいいようなものです。 私たちがもし、かつて御国の素晴らしさを体験した過去があって、今そのようになっていないと嘆いているならば、信仰生活がマンネリに陥っているならば、今こそ神さまとの関係を結び直す必要があります。それは、悔い改めをとおして実現します。あれほどのみわざを見て体験したカペナウムに対するようなイエスさまの叱責を、私たちは聞きたいでしょうか? そんなはずはないでしょう。 私たちは悔い改め、今度こそまことの神の国を体験するものとなりますように、そして、このときのカペナウムの人々がそうだったように、まだイエスさまを知らない人々をイエスさまのもとにお連れして、すなわち、私たちがイエスさまをお伝えすることで、ともに神の国を体験するものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 ①私たちは神の国の民としてふさわしく、回復されるべきところがありますでしょうか? 悩み、病を告白し、いやしを受けましょう。 ②私たちは神の国の民として、喜びを回復していただきましょう。このところ、内側からあふれ出る喜びがありませんでした。主よ、喜びに満たしてください。…