「神を『アバ』とお呼びする祝福」
聖書箇所;ローマ人への手紙8:14~16/メッセージ題目;「神を『アバ』とお呼びする祝福」 先週私は、グレゴリー・スレイトンという方の書いた『働き方改革より父親改革』という本を読み終わりました。買ってから何か月も持っていましたが、読めば読むほど考えさせられる箇所が多く、なかなか読み進めることができませんでした。それに、この本は一方的に考えを述べるタイプの本ではなく、読者に考えさせるための質問が豊富に込められていて、その質問にぶつかるたびに、私はいろいろと考えさせられたものでした。 さて、私がそのような『父親改革』のような本を好んで買って読むのは、私がよい父親であろうとするからです。私は正直に申しまして、主のみこころにかなったといえるよい父親のモデルにめぐり合うという経験を、ほとんどしてこないで育ってまいりました。あの人のようにすればよい父親である、聖書的にふさわしい父親である、というモデルが、周囲になかったのです。 さらに根本的なことを申しますと、私にとっての父親像というものは、神さまに対する見方に大きな影響を与えていることを認めなければなりません。私は講壇の上からみことばを語るなどして、聖書の語る神さま、天のお父さまとはどのようなお方かを伝えてまいりました。しかし、その当の自分が、ひょっとしてまだまだ律法的なイメージで神さまをとらえてはいなかったか……それは、自分にとっての父親という存在は、厳しいばかりのものと捉える存在だったからではないか……あらためて思わされるものです。 そこで今日は、私も含め、神さまが私たちに願っていらっしゃる、ご自身とのふさわしい関係を私たちが結ばせていただくために、特に「神さまが私たちの父であること」にスポットを当てて学んでみたいと思います。今日はいつもとパターンを変え、みことばを本文に沿って解き明かす方法ではなく、主題を先に決めてみことばを学ぶやり方で学びたいと思います。「神さまが私たちの父であること」、これが主題です。 私たちが「父」というと、それには大きく分けて2つの意味があります。ひとつは、○○の父、といったような、漠然とした概念として、何かを生み出した偉大な男性、という意味です。児童福祉の父、石井十次(いしいじゅうじ)、というような使い方をします。 もうひとつの「父」は、言うまでもなく、私たちにとって身近な「父」、つまり、○○君のお父さん、○○ちゃんのパパ、という意味の、だれかにとっての肉親の父親、ということです。本来なら「父」とは、こちらの意味です。 しかし、王族のような一部の例外を除き、多くの場合、これはきわめてプライベートなものです。たとえば、いま石井十次のことを挙げましたが、石井十次にはお嬢さんがいます。岡山の大原美術館の基礎をつくった、洋画家の児島虎次郎の奥さんになった人です。この方から見た場合の十次は、「児童福祉の父」ではなく、単なる「私のお父さん」です。 私たちは神さまのことを、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神という、三位一体のお方であると知っています。それで私たちは神さまを「父なる神さま」ですとか、「天のお父さま」とお呼びするわけですが、もしかして私たちは、「○○の父」というような、きわめて漠然としたイメージで、父なる神さまをとらえていないでしょうか? 私たちにとって父なる神さまは、「私のお父さんだから」、父なる神さまという感覚はありますでしょうか? たとえば、私たちが神さま、特に父なる神さまに向かって呼びかける場合、普通、どのように呼びかけていますでしょうか? 「神さま」でしょうか? いい呼びかけです。私たちはそのように呼びかけて、かぎりない安心感をいだくのではないでしょうか? 天地万物を創造された唯一のお方、偉大なお方は、どこにでもおられ、そして、今、ここにおられる。そんな安心感を、私たちは「神さま」という呼びかけに抱くものではないでしょうか? 日本のキリスト教会における信仰の先輩たちは、そのような信仰をもって「神さま」とお呼びしてきたはずで、そこには、同じ「神さま」ということばを使おうとも、八百万の神々と創造主をごっちゃにするような節操のなさは存在しないはずです。 あるいは私たちは「天のお父さま」と呼びかけていますでしょうか? いい呼びかけです。「天のお父さま」というと、天の偉大な御座に座しておられる、偉大な万物の父、という印象を持たないでしょうか? むかし、いいおうちのお坊っちゃんやお嬢ちゃんが、膝をついて頭を下げて「お父さま」と呼びかけるようなイメージに似ているかもしれません。 私が教会に通いはじめてしばらくの間、それは中高生の頃のことですが、その頃私は神さまに対しては「神さま」とお呼びするか「天のお父さま」とお呼びするものと決まっている、と思っていました。実際、ときどき訪問するよその教会でも、普通にそう呼んでいました。 しかし、大学に上がり、学生宣教団体のキャンパス・クルセードに出入りするようになって、驚いたことは、学生やスタッフが神さまに対して呼びかけるそのことばでした。 こんな風に呼びかけるのです。「お父さま」……「天の」もついていません。「お父さま」、こう言ってお祈りを始めるのです。最初はちょっとぎょっとしました。これがキャンパス・クルセードという宣教団体独特の文化なのだろうか……。 さらにびっくりしたのは、別のスタッフのことば、「お父さん」……いいんですか!? こんな風にお呼びして! 圧倒されましたが、実は私はこのスタッフから、聖書の知識やクリスチャンとしての在り方など、とてもたくさんのことを教えていただいてもいたので、だんだんと、このスタッフが持っておられる神さまとの親密さを、心底うらやましいと思うようになりました。 うらやましいと言えば、大学に上がって韓国語を学ぶようになって、だんだんと韓国教会との交わりを持つようになり、韓国の民族や韓国語が、いかに聖書の教えと親和性を持っているか、ということを知るようになり、ああ、これだから韓国教会はすごいな、とうらやましさを覚えるようになりました。そのうらやましさをおぼえた理由を、いくつかお話ししたいと思います。 みなさん、韓国語で「アンニョンハセヨ」といえば、「こんにちは」という意味なのはご存知だと思います。朝なら「おはようございます」、夜なら「こんばんは」の意味で、一日中いつでも使えます。このことばの「アンニョン」は「安寧秩序」の「安寧」と書きます。これは「平穏無事」という意味でもあり、つまりは「平安」です。「ハセヨ」は、「~でありなさい」「~しなさい」という意味で、ということはこれは「平安がありますように」という意味にもなります。お分かりですね、これは聖書の世界のあいさつ「シャローム」と同じです。韓国語とはそういうことばです。 しかし、それ以上に、日本人としてかなわんなあ、と思うことばが、まさに今日の主題にかかわってくることばで、それは「アッパ」ということばです。お分かりの方はお分かりだと思います、これは「お父さん」、というより「父ちゃん」ですとか「パパ」という意味のことばです。ことばが話せるようになった赤ちゃんがお父さんに呼び掛けることば、それが「アッパ」です。 なにかに似ていると思いませんか? はい、「アバ」です。イエスさまは御父に、ゲツセマネの園の祈りにおいて「アバ、父よ」と呼びかけられた、とマルコの福音書にあります。あの「アバ」は、まさに幼児がお父さんに呼びかける「パパ」ですとか「父ちゃん」なのです。イエスさまがそのように御父に呼び掛けられた意味についてもあとで扱いますが、ともかく「アバ」は「父ちゃん」「パパ」つまり、「アッパ」なのです。 ただし、韓国語の聖書では、日本の新改訳聖書と同じように、「アバ」と表記します。韓国語でも「アバ」なのです。しかし、私は韓国人の牧師先生のメッセージを今までずいぶん聴いてまいりましたが、先生の中には、「アバ」というべきところを「アッパ」と、しかも感情を思い切り込めて「アッパー!」とおっしゃる方がおられました。韓国でならまだしも、日本にある教会でもそういうメッセージをなさる先生がいるのを見て、私はなんというか、韓国語という言語に、日本人のクリスチャンとして、ほとんど嫉妬にも近い感情をいだいたものでした。なにしろ日本語の「パパ」も「お父さん」も、「アッパ」が「アバ」に似ているほどには発音がまるで似ていません。 そこで、ここからが本論ですが、父なる神さまに対して大胆にも「アバ」と呼びかけられたオリジナルのお方は、もちろんイエスさまです。先ほども申しましたが、イエスさまはゲツセマネの園、十字架を前にした祈りにおいて、血の汗を流してお祈りされましたが、マルコの福音書には特にこのとき、「アバ、父よ」と呼びかけられたことが記録されています。まるで小さな子どもがお父さんに呼びかけるように、イエスさまはお父さんの名を呼ばれたのです。 現代にクリスチャンとして生きる私たち、神さまが三位一体のお方であり、父なる神さまであると理解している私たちにとっては、神さまを父とお呼びすることは特段おかしなことではないように感じられるかもしれません。しかし、ヨハネの福音書5章18節をご覧ください。イエスさまが父なる神さまを「わたしの父」とお呼びすることは、神の民の中においては、絶対にあってはならないことだったのです。「わたしの父」というイエスさまのおことば、この当たり前すぎることばは、ユダヤの宗教指導者たちを震え上がらせるに充分でした。何を恐ろしいことを口にするのか! こんなやつを生かしておくこと自体が神への冒瀆だ! もちろん、そんなことを思う者こそが、神を冒瀆していた者でした。どれほどの冒瀆を行なったか? 神の子イエスさまを十字架につけるほどの冒瀆です。そして、神の霊なる聖霊をけがれた霊とみなし、そう口にする冒瀆です。決して赦されず、永遠の罪に定められる冒瀆です。 しかし、この決してけがされてはならないお方、聖霊なる神さまはどのようなお方なのでしょうか? ガラテヤ人への手紙4章6節をお読みしましょう。……御霊、聖霊なる神さまとは、「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊であると書かれています。まさに、御父に「アバ、父よ」と叫ばれた、イエスさまの霊、それが御霊です。 その霊が人に注がれるということは、御霊が人をして「アバ、父よ」と叫ばせられるとも言えるわけです。それが、私たちが父なる神さまを「アバ、父よ」とお呼びする御力です。 先ほどお読みいただいたローマ人への手紙8章15節のみことばは、そのことをさらにストレートに語っています。……まさにこの箇所の語るとおり、私たちは御霊によって、アバ、父、と叫びます。イエスさまが祈られるように、大胆に御父の御前に出ていいのです。イエスさまが御父の御怒りを十字架で受け止めてくださった今や、もはや御父を恐れることはありません。「お父さーん! アバー!」イエスさまのように、その御胸に飛び込んでいいのです。 さて、イエスさまは絶えず永遠に、御父と交わりを持っていらっしゃるお方です。しかし今から2000年前、地上において生活されたときは、そのような御父との交わりのうちに、サタンが妨害を仕掛けてくることが何度もありました。神に仕えるとは名ばかりの宗教指導者や、愚かでなかなか変わってくれない弟子たちとつきあうこと……十字架に至っては、御父との交わりの断絶に至る、御父への完全な従順という、途方もない不条理でした。イエスさまは御父への従順を果たすため、どれほどの御力を必要とされたことでしょうか。その御力に満たされるためにも、まだ朝早く暗いうちに起きて、だれにも妨害されない時間と場所で御父との交わりを持つことは、イエスさまにとって必要なことでした。 しかし、イエスさまにとっての朝のこの祈りは、いわば「宗教行為」のような「義務」ではありませんでした。むしろ喜んで御父の御前に出ていかれる時間だったと考えるべきです。 お祈りから喜びが奪われたらどうなるでしょうか? ましてや、毎朝のお祈りにおいては? 私たちも実際にトライしてみればわかることですが、このような早天の祈りがもし「お勤め」のごとき宗教行為となってしまったならば、途方もなく苦しいことになります。 私はかつて、いくつかの教会で義務として早天祈祷に毎日出ていたものですが、それはきわめてきつい体験であり、その頃その早天祈祷で祈ったことがどれほど応えられたか、はっきり申しまして、今となってはほとんど思い出せません。 早天祈祷が大事なのは知っている、なぜならばイエスさまがなさったお祈りにならうことだから、そうわかっていても喜びが全くありませんでした。言うなれば私にとっての早天祈祷は、宗教行為以上の何ものでもなかったわけです。イエスさまのように、御父を「アバー!」とお呼びするような生ける神との交わりのない時間です。 ほかの方はわかりませんが、少なくとも私にとってははっきり申しましてその時間は、御霊の満たしもお働きも体験できない時間でした。 しかし、2013年の12月末、私は水戸第一聖書バプテスト教会とつながりを持つようになったとき、聖霊なる神さまは私の心に大いなる飢え渇きを起こしてくださいました。私は毎朝4時20分に起き、翌年2014年の7月に日本に帰るまでの間ほぼ毎朝、家の近くにある教会に通って早天祈祷に出席しました。このとき私は長年夢見てきた、日本での教会の働きに専念するという夢がいよいよかなうことを前にして、ひたすら祈りました。神さま、私は日本で牧会するには、あまりに無力です! 力をください! このときは私は間違いなく、父なる神さまに「アバー!」と呼び求める信仰が育っていたと思います。 イエスさまにとっての朝のひそかな祈りは、ミニストリーのエネルギーを得るための儀式などというものではありません。もっと単純なものだったと考えるべきです。世のしがらみの中で、人として生きられるゆえの肉体の限界の中で、御父との時間に飢え渇き、思い切り甘えられるように「アバー!」と、その御胸に飛び込んでおられた、イエスさまにとって朝のお祈りとは、そういう時間だったと考えるべきではないでしょうか? だとすると、早天祈祷というものは、肉体に鞭を打って眠い目をこすってひたすら祈りに徹する荒行(あらぎょう)、などととらえるのは、見当違い、ということになります。 イエスさまは、それしかなかったからお祈りされた、というべきです。あたかもそれは、いのちをつなぐために食べ物を食べ、水を飲むのと同じことです。御父に祈らなければ、御父の御胸に飛び込まなければ生きられないから、イエスさまはお祈りされたのです。そこから御国の福音を宣べ伝える力、弟子を訓練する力、ついには十字架におかかりになる従順の力に、イエスさまは満たされてゆかれたのでした。 私たちはあまりにも祈っていません。神さまに拠り頼まないでも生きていられるなどと思うほど、私たちは思い上がっています。イエスさまをご覧ください。イエスさまはどれ一つとして、ご自身のご意志、またお力で行われたことなどなく、御父に祈られ、御父に示されるとおりに、御父に拠り頼まれながら、すべてのことを行われました。 神さまに祈らなくてもいいなんて、いったい私たちはイエスさまよりえらいのでしょうか? 私たち凡人、弱い者、愚かな者が祈らないで、何ができるというのでしょうか? 祈らないでことをするなら、私たちは肉に従って生きるしかなくなります。肉に従うということは、肉を利用して私たちを操作するサタンに従い、サタンの心を成し遂げることを意味します。そんなことでいいのでしょうか? もっといえば、私たちにとって神さまとは「アバー!」とその御胸に飛び込まないでもいいほど、遠いお方なのでしょうか? 神さまは私たちを子どもとしてくださったのに、子どもである私たちが、神さまの御胸に飛び込まなくていいのでしょうか? 子どもとして神さまの御胸に飛び込むことは、決して「甘えている」と非難されるべきことではありません。 「甘えている」と非難すべきことはむしろ、神さま以外のもの、テレビでもゲームでもインターネットでも、あるいはお酒でもギャンブルでも、そういう快楽におぼれて、決して神さまのほうに行かないことではないでしょうか? そんな私でも神さまは見過ごしにしてくださる、赦してくださる、と神さまを甘く見ること、これこそが神さまに対する非難すべき「甘え」ではないでしょうか? というわけで私たちは、イエスさまの霊なる御霊を受けて、「アバ、父」と大胆に神さまにお近づきする権限をいただいたのですから、堂々と「アバー!」と近づくべきです。しかし「アバー!」ではちょっと、聖書原語のカラーが強すぎるとお思いでしょうか? なら、「お父さん」でどうでしょうか? 今からちょっと祈りましょう。 これまで私たちは「神さま」とか「天のお父さま」とお呼びしてきました。それを「お父さん」と呼びかけてみてはいかがでしょうか? なにしろ「アバー!」なのですから。さらに言えば、祈りの途中で「あなた」ですとか「あなたさま」と呼びかける、その呼び方も考えましょう。私たちは自分の父親に「あなた」とか「あなたさま」とは言いません。「お父さん」と言うでしょう。「うん、お父さんの言うとおりだね」ですとか。 だからお祈りの中でも、たとえば、「神さま、私はあなた(さま)のみこころに従います」と今まで祈ってきたそのことばを、「お父さん、私はお父さんのみこころに従います」というように祈ってみてください。大丈夫です。だって、「アバ」なんですから。ほんとうは「お父さん」でもまだ堅いぐらいですが、「パパ」じゃいくらなんでもあれですから、まあ、それくらいにしましょう。さあ、一緒にお父さんに祈りましょう。しばらく祈りましょう。神さまが「アバ」、いや、「お父さん」と呼びかけていいお方であることを、ともに体験しましょう。 いかがでしたか? なかなかことばが出てきませんでしたか? 恥ずかしかったですか? それとも、もっと神さまを身近に感じられましたか? 私たち全員にとって、神さまはお父さんです。アバと呼びかけるべきお方です。私たちには、神さまをアバ、お父さんとお呼びかけできるイエスさまの霊、聖霊が注がれているのですから、安心して「お父さん」と呼んでみてください。そしてそうお呼びかけしても平安なほど、近しい交わりを神さまと毎日分かち合ってまいりましょう。