「主は羊飼い、私たちは羊」

聖書箇所;詩篇23:1~6/メッセージ題目;「主は羊飼い、私たちは羊」 大学4年生のときのことです。私は卒業が見えてきてはいたものの、まだ進路に迷っていました。あるとき、私は学科の先輩に、そんな自分の身の上をこぼしたものでした。すると先輩はおっしゃいました。「羊飼いにでもなれば?」 私は何かにつけて、自分がクリスチャンであることを公言していたので、先輩はそんな私のことを考えてくれて、牧師になれ、という意味でおっしゃったのか、それとも、単なる冗談でおっしゃったのか、測りかねましたが、優柔不断な私の背中を押してくれたような、このおことばを有り難く頂戴し、やがて私は卒業式も待たず、韓国の神学校に入学してしまいました。 そんなこともあって、牧師とは羊飼いであるということが長年、私の中にひとつの概念としてあるわけですが、今回私は、日曜礼拝のみことばに、詩篇23篇を選ばせていただきました。 私も牧師の末席に連ならせていただいている者ですが、私もまた、一匹の羊です。何かにつけて私は、自分が羊であることを、年を追うごとに思わされるものです。私もか弱い羊、されどよき羊飼いに養っていただいている羊です。 それで、詩篇23篇です。あの王さまダビデが、なんとこともあろうに、自分のことを羊に例えているという、なんとも意表をつく組み合わせ、しかしその組み合わせをもって、私たちクリスチャンの本質を言い当てている、詩篇の中でも特に印象的な詩からお話をさせていただこうと思います。 今回のメッセージを語らせていただくにあたり、私はフィリップ・ケラーという人物の『羊飼いが見た詩篇23篇』という本を読みました。とてもいい本でした。フィリップ・ケラーは農学や牧畜学を学んだ学者でもありますが、長年にわたる羊飼いの経験を有した人物でもあり、伝道者でもあります。そのような、2つの意味での牧羊をどちらも経験された方の語るおことば、みことばの解き明かしだけに、並々ならぬ説得力を持った本であり、機会があればぜひお読みいただきたい名著です。 今回のメッセージはこの本から教えられたことをベースにお語りしてまいりたいと思います。もちろん、そのとおりになぞるのでは意味がありません。本を読んでいただいたら済む話ですので。今日は、ひとつの問いからはじめて、みことばを黙想し、私たち自身にみことばを適用してまいりたいと思います。 私たち自身に問うべき問いとは何か。「あなたにとって、だれが羊飼いですか。」 この問いを投げかけられたならば、私たちは模範解答のように、「主が羊飼いです。なぜなら、詩篇23篇1節にそう書いてあるからです」と答えますでしょうか。たしかに、聖書にはそう書いてあります。それはもっともです。 しかし、それなら私たちはつづけて問いかけなければなりません。「あなたにとって、ほんとうに、主が羊飼いですか。」 私たちは果たして、「はい」とお答えすることができますでしょうか。この問いに答えるためには、大前提として、私たち自身が「羊」であると認める必要があります。 以前私はこのメッセージの時間に、北海道で羊たちと戯れたお話をいたしました。しかし、それはもちろん、まったくほんものの羊と触れ合わないよりはよかったかもしれませんが、このたびケラー先生の本をお読みして、その程度で羊のことを知ったつもりになっていたことに、恥ずかしくなりました。 もちろん私は、いまだってケラー先生の本を読んだ程度のもので、ほんの少し羊のことが分かるようになったにすぎません。それでも、やはり学んではおくものでした。私はこのたびの読書を通じて、ああ、ほんとうに私たち人間は羊に似ている、と、あらためてしみじみ思ったものでした。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」まことに、預言者イザヤが語ったとおりです。 羊は、同じところにとどまろうとし、それは結果として同じところの草ばかり食べることになるので、うかうかしていると青々とした牧草地は荒れ果て、見るも無残になります。牧草地が荒れ果てたら自分でどうにかできるほど賢くはありません。 ほうっておくとやせ衰えて飢え死にします。だから牧者は、ちゃんと草の生えているところをリサーチし、そこに連れていきます。そこに毒草が生えたままにしないように手入れすることも、もちろん怠ってはなりません。 また、何かの拍子にひっくり返ったら自分では立てません。下手にもがいたりしてますます立てなくなり、やがて死んでしまいます。牧者は行ってちゃんと起こしてやる必要がありますが、これは相当に技術のいること、また、たいへんなことのようです。 また、やはり羊のことを放っておくと、毛がもこもこと生え、泥や糞尿がくっついて不衛生になりますし、長く生えてくると身動きが取れなくなります。したがって、牧羊をする人が定期的にきちんと刈り取ってやらなければなりません。この毛を刈る作業も、結果として羊を快適にすることであるにもかかわらず、羊はとてもいやがります。 きりがないのでこれくらいにしますが、羊というものは、ケアされることによってはじめて生きることのできる存在である、とさえ言えます。そうです。私たちも、まことの牧者なるイエスさまに牧していただくことで、生き生きと生きることができる存在です。「主は私の羊飼い」、なんと素晴らしく、また誇らしい告白でしょうか。 しかし、羊は愚かです。羊飼いによって飼われることではじめて生きるにもかかわらず、羊飼いの支配から逃れたところに自分の生きるテリトリーがあるがごとくに振る舞います。早い話が、羊飼いの目を盗んで群れから離れるのです。その結果どうなるか、といえば、くぼみに落ち込んでひっくり返り、もはや立てなくなっていのちを落とします。おおかみのような猛獣に襲われていのちを落とします。 しかし、ほんとうの羊飼いの牧する群れの中に身を置くかぎり、その羊は安全です。ダビデは自らが羊飼いで、身を挺して羊を守った体験を持っていました。ライオンや熊が襲いかかったらその口から羊を奪い返し、打ち殺すことさえしました。私がそのようにいのちを懸けて羊の群れを守ったように、主は私のことをいのちを懸けて守ってくださる羊飼い……ダビデはそう告白しています。 私たちの羊飼いが全能なる神さま、創造主であられるならば、私たちは何か乏しいことなどあるでしょうか。まさしく、「私は乏しいことはありません」。とはいいましても、私たちは生活が安定するとか、お金持ちになるとか、人間関係で成功するとか、そういうことを「乏しくない」ととらえるべきではありません。 ダビデもまた、サウルやアブサロムに追われる身になったなど、その人生が苦難の連続だったことを、聖書は克明に記録しています。しかし、ダビデにとって大きな祝福だったことは、そのような激しい困難の中にあって、主ご自身が変わらずにダビデのことを牧していてくださったことでした。 羊たちも、豊かな牧草地で養われるためには、いつまでも同じところにとどまっていては食べ尽くしてしまうので、高地の豊かな牧草地に移動する必要があります。そのとき羊たちは、いやでも、危険いっぱいの暗やみの谷を歩かされることになります。 そこがどんなに狭い道で、がけから落ちるかもしれなくても、猛獣にやられるかもしれなくても、歩くのです。そこを歩かないことには、死ぬのです。平安な場所にいれば死なないのではありません。平安な場所にいたらむしろ死ぬのです。平安な場所を出て、危険極まる暗闇の谷を歩くことで、羊は生きるのです。 ダビデもそうでした。ダビデは危険の中にいたとき、まことの牧者なる主との交わりの中で生きることができました。逆に、ダビデが死の道を選択したような状況とはどんなときでしょうか? そう、主が牧者であることを拒否したときです。バテ・シェバを寝取り、その夫のウリヤを謀殺したとき、ダビデは、主が自分の牧者であることを拒否し、悪魔にたましいを売っていました。しかしのちにダビデは真剣に悔い改め、悪魔が手にしていたダビデのたましいは買い戻されました。 むろん、このような罪を犯したダビデが無事で済むはずがなく、バテ・シェバとの間にもうけた子ども、長男のアムノンを次々に失い、三男アブサロムのクーデターでエルサレムから逃げ出します。要するに、ウリヤとバテ・シェバの家庭を破壊したダビデは、今度は自分の家庭の破壊に苦しめられることになったわけです。しかし、これはダビデに対するさばきというのとはちがいます。ダビデはすでに罪を悔い改めているので、さばかれて地獄に落ちるようなことはありません。しかし、したことの責任は取らなければなりませんでした。 それでもダビデが絶望せずに生きつづけることができたのは、このような最悪の状況にあっても、なお主が羊飼いとしてダビデを導き、養っていてくださったからです。ダビデは安らかな王宮を離れ、食べるものにも事欠いて眠れない野宿生活をしながら、あらためて自分のしてしまったことを悔いてならなかったことでしょう。しかし、ダビデは悔いるだけでは終わりませんでした。ダビデを養うまことの牧者の鞭と杖を、ダビデは体験していたのでした。 むちは、以前メッセージの時間にお話ししたような革製のものではなく、木の枝を切り出してつくるもので、これを投げつけることで猛獣を撃退します。イエスさまもみことばを用いてサタンの誘惑、実際はサタンの攻撃を退けられました。このようにむちとは、悪い者の攻撃から私たちを守るみことばを象徴しています。 杖もまた、牧者にフィットした、まるでからだの一部のような道具です。羊が出産するとき、牧者は杖を伸ばして生まれた子をやさしくその上に載せ、取り上げます。また、羊を連れ出すとき、からだにやさしく当ててあげて導きます。杖とはまさに、牧者と羊をつなげる役割を果たすものです。そうです、牧者なるイエスさまと私たちとの交わりをなしてくださる、聖霊なる神さまを象徴しています。 あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。ときにやさしく、ときにきびしく私たちを扱うむちと杖は、みことばと聖霊です。羊飼いなる主は私たちのことを、みことばと聖霊をもって守り、導き、励まし、力づけてくださいます。死を意識するような絶望の状況にあっても、主は私たちのことを死にとどまらせることなどなさらず、必ず、食卓を整え、油を注いでくださる恵みをくださいます。 例のケラー先生の本に教えられたことですが、5節のみことばは「夏」のことなのだそうです。谷間を抜けて夏の高地に導かれ、そこで草を食べるように、牧者は導きます。しかし、夏には夏特有の問題があります。それは、ハエのような小さな昆虫が顔にたかり、猛烈なかゆみを催す、そればかりか、その産んだ卵がかえって幼虫が鼻腔(びくう)などを通って脳に達すると、羊は頭がおかしくなってそこかしこにからだをぶつけ、ついには死に至る……そういうことのないように、防虫と殺虫の意味を込めて、頭部に特別な油を塗ってやることが大事なのだそうです。そうすると虫は寄りつかなくなり、健康に保たれます。羊の頭に油を注ぐとは、そういうことです。 主から注がれる油は、聖霊の象徴です。私たちは聖霊なる神さまのご臨在とお導きによって、私たちを教え導く聖書のみことばの意味を知り、実際に生活が導かれていきます。また、聖霊なる神さまは私たちを「悪い虫」から守ってくださいます。 うちも娘を持つのでしょっちゅう祈ることですが、将来娘たちが大きくなったとき、どうか悪い虫が取りつかないように、親としてそういう祈りをささげるのは当然ではないでしょうか? しかし、悪い虫がつかないためには、普段から娘たちを愛情たっぷりにケアする必要があります。 同じことで、この羊の囲いに属する私たちのことを、まことの牧者なるイエスさまは、ことのほかケアしてくださいます。悪い虫、サタンと悪霊どもが取りついて、人生を狂わせることのないように、守ってくださいます。何によってかといえば、みことばと御霊によってです。 杯、はどうでしょうか? ダビデの前に整えられる主の食卓には、食卓に必須のぶどう酒の杯があります。ぶどう酒によって人は力づけられます。さて、ぶどう酒には言うまでもなく、アルコールが含まれているわけですが、羊とアルコールとの関係に関しても、ケラー先生の本に新たに教えられたことがありました。野で迷って衰えた羊を探し当てたら、羊飼いはブランデーの水割りを少し口に含ませてやるのだそうです。そうすると羊は少しずつ元気を取り戻します。 そのように、あふれる杯は私たちを力づけ、元気づけます。それでは、その杯に注がれたぶどう酒とは、私たちにとってどんなぶどう酒でしょうか? そう、イエスさまの十字架の血潮です。イエスさまの十字架の血潮の添えられた食卓、それを羊飼いなる主は私たちのために備えてくださいます。羊飼いなるイエスさまご自身が私たちのために十字架にかかって死んでくださった、ゆえに私たちは罪赦され、神さまとともに歩むことが許されています。私たちはイエスさまの十字架の血潮によって、私たちに取りついた死に至る罪が洗い流され、まことのいのちの力をいただくのです。 私たちはこの牧者なるイエスさまを前にして、「私はいつまでも、主の家に住まいます」と告白できますでしょうか? 心底告白できますでしょうか? いざ、私たちの心が問われたら、それはとても難しいと思います。これだけの告白をしたダビデでさえ、バテ・シェバに関わったときには、主が自分の羊飼いであることを拒否したくらいです。いわんや私たちのような俗物は、どれほど主に、自分の羊飼いでいていただくことは難しいことでしょうか! しかし、あきらめないでいただきたいのです。主は私たちがこのような頑迷な羊、愚かな羊であることをすべてご存じの上で、なお私たちのことを諦めずに導きつづけていてくださいます。私たちのすることは、牧者なるイエスさまから目を離さないこと、これだけです。 具体的に、牧者なるイエスさまから目を離さないために私たちがすること、それは、牧者なるイエスさまが牧してくださっているこの群れ、水戸第一聖書バプテスト教会という群れから、離れないことです。ここから離れる選択をしてしまうなら、それはイエスさまを見失う選択に一歩近づくことを意味しています。 もちろん、いまは以前に比べ、この礼拝堂にともに集うことが相当に難しくなっています。それをすべて突破してここに来なさい、と言いたいのではありません。それぞれの事情がおありなのは仕方ないことです。それもすべてイエスさまはご存じです。しかし、そうは申しましても、どうかご自分が、この水戸第一聖書バプテスト教会という羊の囲いに属するひとりであることだけは、お忘れにならないでいただきたいのです。 最後に、あらためて自分自身に尋ねてみましょう。「あなたにとって、だれが羊飼いですか?」世の中の何ものも、自分を満たすために人を利用し、ついには見捨てる、自分のことしか考えない存在です。しかし主イエスさまはちがいます。私たちが豊かにいのちを得て、いのちを保つことで、ご栄光をお受けになるお方です。私たちがキリストによっていのちあふれる生き方をするとき、主は喜んでくださるのです。主の素晴らしさが輝くのです。 私たちは自分自身を見るとき、無力な羊のように思えてならないかもしれません。それはそうです、なぜならそのとおりだからです。しかし、私たちはイエスさまという牧者によって養っていただく羊です。強くしていただいています。守っていただいています。私たちはこの大いなる牧者を誇りとしています。そして……牧者なるイエスさまもまた、私たち羊のことを大いに誇りとしてくださっている、ゆえにどんなときでもケアしてくださり、守ってくださる……このことを忘れないでまいりたいものです。

「聖書が存在する理由」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:30~31/メッセージ題目;「聖書が存在する理由」  本という本には、みな存在する目的があります。ミステリ小説は、読者に対するお説教ではなく、トリックと種明かしによって読者を面白がらせることにその存在する目的があります。自己啓発本は、読むことでより目的意識を持って仕事ができるようになること。詩集や画集は、情緒的に豊かになること。辞典(事典)は調べもの。教科書や参考書は勉強のため。マンガ本は気分転換のため。  そこで……私たちの手にしている聖書、この本は何のために存在するかを、今日は聖書自身の証言から確かめてみたいと思います。  まず、30節から見てみましょう。このみことばによれば、イエスさまはヨハネの福音書に記録されている以外にも、多くのわざを行われたということが明らかにされています。しかしそれらのみわざを、ヨハネはあえて記録しなかったということでした。  たしかに、弟子たちの前でということにかぎっても、イエスさまが行われたみわざのうち、このヨハネの福音書に記録されていないみわざはいろいろ存在します。 しかし、イエスさまの行われたみわざは、ヨハネの福音書どころか、四福音書、いや、旧新約聖書全体にも収録しきれるものではなかったと考えるのが自然ではないでしょうか? といいますのも、このヨハネの福音書の締めくくりに当たるみことば、21章25節には、このようにあるからです。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」  イエスさまのみわざは膨大です。それをみことばという形で人が読んで理解するには、聖霊なる神さまが聖書の書き手に働いて、イエスさまのみことばとみわざを取捨選択させられるしかありません。そうでないと、一生かけてもイエスさまのみわざを理解できないことになります。  そういうわけで、聖書はイエスさまのみわざすべてを収録した書物ではありません。しかし、イエスさまのみわざの記録が適切に編集された書物ではあります。私たちにとってみことばは、必要最小限の分量であると同時に、十分な分量です。それ以上の分量は必要なく、それ以下の分量では足りません。  聖書の終わり、ヨハネの黙示録の22章18節、19節に、このようなことが書かれています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」  なんともぞっとするみことばですが、要するに、みことばから足したり引いたりするような人は、天国の民、神の民としてふさわしくない、というわけです。言うまでもなくみことばは、私たちがこの地上を生きている間だけ必要なもので、この地上からいのちが取り去られたら、そもそもこうして聖書という本を手にする形でみことばを読むことなどないわけです。みことばを聞きたければ、神さまに直接お聞きすれば済む話ですし、地獄に落ちたら、みことばを聞いていのちを保つことなど一切かないません。 要は生きているかぎり、神さまが必要十分の分量で与えてくださった旧新約66巻のみことば全体を認め、読むことです。それでこそ私たちは神の民、神の子どもとして生きていくことができます。  では、このようにヨハネをはじめとした聖書の記者が、イエスさまのおことばとみわざを、聖書のみことばという形で編集するように聖霊なる神さまに促されたその目的は何でしょうか? それは31節に書いてあるとおりです。  31節をお読みします。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」  私たちはイエスさまのことを、キリストと告白しています。なぜならば、イエスさまは私たちにとって救い主、キリストであられるからです。しかし、聖書やキリスト教会がそのように呼んでいるからでしょうか、一般的にもイエスさまのことを、イエス・キリストと呼ぶのについてはどうでしょうか? もし、自分にとってイエスさまが救い主でもないのに、「イエス・キリスト」ですとか「キリスト」と呼んでいるならば、それは厳密に言えばおかしいことです。  ただし、この「イエス・キリスト」という呼び名、もしくは「キリスト」といえば「イエスさま」のことを当然指すものだという常識は、文明開化とともにキリスト教の文化が日本に入ってきて定着したものです。その背後には、長い時間をかけて培われてきた欧米のキリスト教会の歴史が存在し、欧米の文化ではふつうにイエスさまのことを「イエス・キリスト」ないしは「キリスト」とお呼びするので、日本もそれにならった、と言えましょう。  このように、イエスさまのことを「キリスト」であるという前提で受け取っているならば、クリスチャンでなくても、イエスさまは見るからに神々しい方と映るかもしれません。しかし、日本人にとっては神がかって見えれば何でも有難いと思えるように、イエスさまもあらゆるカミやホトケと同等の存在くらいにしか受け取られない、ということも有り得るわけです。  しかし聖書は、もちろん、そんなレベルでイエスさまのことを紹介しているわけではありません。そこで私たちは、聖書が書かれた目的、イエスはキリストであることを信じさせるために書かれた、ということについて、もう少しよく考える必要があります。  キリスト、救い主というお方はただひとりです。神のひとり子の神が、神を解き明かされ、このひとり子の神を通して、唯一の父なる神に至るのです。救い主の資格があるのは、神のひとり子イエスさまだけです。それが、イエスさまがキリストであるということです。  世の中の人たちは、慣習的にイエス・キリストと呼んでいます。それはもしかすると、イエスさまはのちのキリスト教の文化・文明のおおもとになった人物だからと、それ相応の敬意を込めて呼んでいるからかもしれません。しかし、イエスをキリストと「呼ぶかどうか」よりも、「信じるかどうか」が、私たち人間にとってはもっと大きな問題になります。  多くの日本人は「イエス・キリスト」と呼んでいても、実際に帰依している存在は、神社のカミだったり、ホトケとして祀られている先祖だったりします。そういう人が「キリスト」と呼んでも、実体はないことになります。しかし聖書を読み、「道であり、真理であり、いのちである」お方はただひとり、イエスさまだけだと知って、イエスさまを唯一の救い主と受け入れるなら、そのとき初めて人は、「イエスがキリストである」と信じることになるのです。  そうは言いましても、イエスさまをひとたびキリストと受け入れたら、それで終わりなのではありません。一生かけて信じつづける必要があります。イエスさまはひとたび受け入れれば、それで信仰が完成するわけではありません。少しでもうかうかしていると、この世の攻撃、あるいは懐柔にさらされ、私たちはいとも簡単に信仰を捨てる道を選んでしまいます。  イエスがキリストであると信じる。それは、つねにこの世のあらゆる罪のわなから救ってくださる救い主であることを信じつづけることを意味します。目に見えないお方とお交わりする上で必要なものは、信仰です。イエスさまが目に見えるお方だったら、信仰というものを働かせる必要などありません。 しかし、イエスさまは目に見えないゆえに、私たち人間の側で信仰を働かせるという行動が神さまから求められています。これは、行いによって救いを勝ち取る、ということではありません。私たちはみことばをお読みして、イエスさまが私たちのことを救ってくださったことを信じ受け入れました。しかし、そのように自分のことを救ってくださったイエスさまとの交わりを引きつづき持つには、こちらからイエスさまに近づく必要があります。 小さな子どもがお父さん、お母さんに守ってもらうために、駆け寄っていく、その厳しくも優しいことばを聞く、こういうことを「行い」と言ったらおかしいです。親としては、子どもに来てほしい。それだけ。信仰を働かせるとは、そのように親元に行くようなことです。自分のもとに来る子どもを親が守るように、神さまは、御許に来る神の子どもたちを守って、養ってくださいます。 さて、では、イエスさまを信じることはどのような意味があると、この31節のみことばは語っていますでしょうか?……そうです、「信じて、イエスの名によっていのちを得るため」とあります。聖書の存在する目的は、聖書を読む人が、イエスさまがキリスト、自分の救い主であると信じて、イエスさまの御名によっていのちを得るため、ということです。 イエスさまを信じるということは、一回こっきりで終わることではありません。信じつづける必要があるわけです。と申しますのも、人は何かの拍子に信仰をなくしてしまうことがあるからです。もちろん、主はおっしゃいました。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」だから、いちどイエスさまを心に受け入れたら、イエスさまが出ていかれるということはありません。イエスさまご自身が、あなたを決して離れないとおっしゃっている以上、そうなのです。 しかし、肝心の受け入れた側の人間は、つねに移ろいやすい、弱い存在です。イエスさまがそばにいてくださる、ともにいてくださる、そんなことも忘れてしまうほど、落ち込んでしまうことなどしょっちゅうの、弱い存在です。なぜ、そうなるのでしょうか? それは、イエスさま以外のものを見てしまうからです。 イエスさまは大波の湖の上を歩いて、十二弟子の乗った舟へと近づかれました。すごいことでしたが、ペテロはイエスさまに近づきたい一心で、私のことをみそばに近づかせてください、湖の上を歩かせてください、と、イエスさまに申し出て、聞き入れられました。そしてペテロが湖に足を踏み出すと、あら不思議、ペテロも湖の上を歩いてしまいました。しかし……ペテロは湖面の波を見て、われに返ったのでしょうか、助けて! おぼれかかってしまいました。イエスさまはペテロを助け起こされ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑うのか」とお叱りになりました。 湖面を問題なく歩いていたペテロは、なぜおぼれかかったのでしょうか? イエスさまではなく、波を見たからです。ペテロがイエスさまを一心に見つめて歩いたならば、何の問題もありませんでした。おぼれたのは、湖面の波を見たからです。しかし、よく考えると、ペテロは常識的なことをしたのではないでしょうか? いったいだれが、湖の上を歩くというのでしょうか? 大きく波打ったら、こわがるのは当然のことではないでしょうか? しかし、そのような常識は、イエスさまを見させなくするもので、その結果私たちは、イエスさまのみわざを体験することができなくなります。ペテロは、イエスさまを見つめたのと同時に、イエスさまのみことばに対して信仰を働かせました。イエスさまのおっしゃるとおりと信じて、湖の上へと一歩を踏み出しました。 私たちもまた、全能なる創造主、イエスさまのみことばだけを信じて踏み出すならば、何の問題もありません。その信仰を砕くものは、多くの場合は人間的な常識です。 私たちが信仰を働かせるとき、それはキリストにある永遠のいのちをいただきつづけるということを意味します。十字架による罪の赦しは、あるいは信じられるかもしれません。いちおう、キリスト教はそのことを教えているということは、常識となっているからです。しかし、復活と永遠のいのちがいただけるということに関しては、それ相応のふさわしい信仰がないと信じ受け入れることはできません。 聖書ははっきりと、キリストが復活されたように私たちも復活すること、信じる私たちに永遠のいのちが与えられることを語っています。聖書のみことばは、そのいのちをいただいて私たちが永遠に神さまとともに生きるようにと、私たちのために書かれたものです。だから、私たちがもし、生きたい、生きる喜びを体験したい、と思うなら、聖書のみことばをつねに読むしかありません。 クリスチャンを名乗る人の中には、まるで覇気のない人、目が輝いていない人がいます。ほんとうに残念なことです。そういう人たちも聖書を読んで、自分に与えられた永遠のいのちの素晴らしさに目が開かれ、生き生きした人になれるようにと願うものですが、これまたなんとも残念なことに、そういう人は得てして、聖書に手を伸ばしたくはないものです。かくして、ずっと覇気がないままに、クリスチャンとは名ばかりの生き方をするしかなくなります。 私たちはこの信仰共同体の中に、ひとりでも、いや、ひとりも、そんな人を生み出さないようにしたいものです。私たちがもし聖書を読んでいるならば、どんなに聖書から教えられていのちの喜びを得ているか、ぜひ、交わりの中で、積極的に分かち合っていただきたいのです。以前うちの教会でよく行われていました、礼拝の中でのお証しをしたいという方は歓迎いたします。 それとも、いつもみことばから教えられて喜びをいただいてはいるものの、なにぶんこのコロナ下で交わりを持つこともままならない、とおっしゃいますでしょうか? ならば、せめて牧師に証しのメールなりお手紙なり送っていただければと思います。コピーして、みなさまにメール配信して分かち合います。 そのような分かち合いをとおして、みことばを読もうにも読む気が起こらないで苦しんでいる兄弟姉妹も、みことばの恵みに触れることができます。あるいは、すでにみことばを読む習慣が身に着きながらも、みことばを読む喜びがいまひとつ湧き上がってこない兄弟姉妹にも、新しい恵みが与えられて、ともに喜びます。普段からみことばをお読みして喜んでいる兄弟姉妹は、よりいっそう喜ぶことになります。 私たちが、救い主イエスさまにつながっていのちを得るために与えられた必要十分なみことば……私たちが手にしている聖書は、実に素晴らしいものです。今日も聖書のみことばからともに学び、いのちの喜びが得られたことに感謝しましょう。そして、これからも聖書を学びましょう。この1週間も、毎日聖書を開き、聖書に教えられたとおりの生き方を実践し、神さまのご栄光を顕しましょう。私たち、迷う者、弱い者を導き、励まし、力づける聖書のみことばを与えてくださっている神さま、イエスさまの御名を、心からほめたたえます。ハレルヤ!

「不信仰から信仰へ」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:24~29/メッセージ題目;「不信仰から信仰へ」 うちの教会は長年、創造論という主義のもと、教会形成がなされてきました。私もそれに共感して、この教会に導かれてきたわけですが、創造のみわざを事実という前提で福音提示する創造論は、疑い深い部類の人に対しては、かなりのインパクトを及ぼすものだと思います。 しかしそれはあくまで、どこかで信じる心の準備ができている人の場合です。私は高校2年生のとき、創造論について書かれた本に夢中になり、修学旅行で、部屋で一緒になった友人たちに、その本から教えられたことを説いて聞かせたものaでした。すると、どうなったでしょうか。彼らに鼻で笑われました。「鰯の頭も信心だねえ」などと言ってのける友人までいました。そのとき私が悟ったことは、初めから疑いを捨てようとしない人には何を言っても無駄だ、ということです。 今日の箇所に登場するトマスの場合はどうでしょうか? ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』という小説の中で、このトマスの疑いを巡って、登場人物に、「トマスは信じたかったのだ」という意味のセリフを語らせ、トマスの疑いを語るこのみことばに対する深い含蓄を示していますが、それでも、トマスがイエスさまの復活を疑っていたという事実に変わりはありません。 しかしトマスは、それで終わりではありませんでした。イエスさまはそんな疑り深いトマスに顔と顔を合わせて会ってくださり、正しい信仰に導いてくださいました。私たちは、トマスを正しい信仰に導いてくださったイエスさまの愛とみこころから、何を学ぶことができるでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 第一に、復活のイエスさまに出会わないなら、人は疑いから抜けられません。 24節、25節をお読みしましょう。……トマスは何を言いたかったのでしょうか? あなたたちはイエスさまを見たと言っている、しかし私は、実際に触れてみるまでは信じない、と言っているわけです。 このトマスのことばからは、いろいろなことが見えてきます。まず見えてくるのは、トマスが信仰を働かせるよりも現実を優先させるタイプの人だった、ということです。よく、疑いを抱きたがる人をトマスになぞらえることが多いのも、まさにこのみことばが根拠になっています。 しかし、私たちならばどうでしょうか? 私たちは果たして、トマスのことを不信仰だなどと言えるでしょうか? 科学の発達は世の中を便利にした一方で、実証されないものは真実ではないと決めつけ、私たちの聖書信仰をきわめて空疎なものにしてしまいました。その風潮に多くのクリスチャンが毒されてしまっています。天地創造ばかりか、イエスさまのことさえもリアルにとらえられなくなっています。あの数々の奇蹟は事実ではないとか何とか。私たちがトマスを見るとき、それは私たちクリスチャン自身の姿を見ていることなのです。 また、先週学びましたとおり、復活のイエスさまは、教会という信徒の群れ、主の弟子の群れのただ中に現れてくださいます。トマスが復活のイエスさまに会えなかったのは、その弟子たちの群れの中に一緒にいなかったことも理由として挙げられます。 私たちが礼拝をおささげする日曜日のことを、主の日、主日(しゅじつ)とも申します。その日に礼拝をおささげするのは、なんといっても、イエスさまの復活された日であり、イエスさまのご復活を覚えるという意味があるからです。実に日曜日の礼拝は、復活のイエスさまに出会い、礼拝する日です。 トマスは、その最初の日曜日に復活のイエスさまに出会うことができませんでした。それもこれも、弟子たちの群れに一緒にとどまらなかったからです。私たちにとって日曜日の礼拝にしっかり出席することがなぜ大事かというと、そのことでともに復活のイエスさまにお会いし、イエスさまを礼拝できるからです。したがって日曜日に礼拝に集わないならば、イエスさまに出会う機会がそれだけ失われることになってしまうわけで、これは重大です。 とは言いましても、いま世の中はコロナ下で、礼拝堂のような同じ建物にともに集うことが物理的に無理な人のとても多い状況です。うちの教会の場合はメール配信という形で、ご家庭で礼拝できるように工夫しているわけですが、もし礼拝堂に来られなくてメールで礼拝、という形になった場合でも、忘れないでいただきたいことは、私たちは主の子どもどうし、たとえ場所は離れていても、ともに礼拝に集っている、ということです。日曜日にメールに向き合うことは、水戸第一聖書バプテスト教会の信徒たちとともに復活のイエスさまに出会っていることだと考えていただきたいのです。 ほかにも、トマスのことばからわかること……トマスはなんと言っているかというと、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れなければ……」と言っています。 言うまでもなくその釘の跡、槍の跡は、イエスさまが十字架にかかられたゆえにできたものです。ここからトマスは、イエスさまが十字架にかかって死なれたという事実に、非常に固執していることが見て取れます。 先生とも主ともお慕いしてきたイエスさまが十字架に手足が釘づけられ、脇腹に槍でとどめが刺されたなど、弟子たちとしては耐え難い事実でした。しかし彼ら弟子たちは、いつまでもイエスさまの十字架にこだわっていてはなりませんでした。なぜならば、イエスさまは復活されたからでした。 イエスさまの復活が心になかったならば、私たちはいつまでも、イエスさまの十字架の残酷さから目を離すことができません。イエスさまの十字架を心に留めることは大事なことにはちがいありません。イエスさまの十字架がなければ、私たちは罪を赦されることも、神さまの子どもになることもなかったからです。私たちを愛してくださるゆえに、イエスさまがどれほど十字架の上で傷つかれ、血潮を流されたか……それを心に留めるのは大事なことです。 しかし、それにとどまっているだけなら、私たちに何の希望があるでしょうか。イエスさまは復活されたのです。イエスさまが復活されたからこそ、イエスさまの十字架には意味があったとさえ言えます。私たちは十字架を信じるだけではありません、復活も信じ受け入れているゆえに、罪が死に、永遠のいのちに生かされているのです。 世の中は、イエスさまの十字架を知っています。十字架のアクセサリーをする人は多くいますが、十字架とはイエスさまがおかかりになったものだということは、みんな知っています。 しかし、イエスさまの復活となるとどうでしょうか? イエスさまが復活されたという最も大事なことを、単なる信仰上の問題と片づける記述に、私はしょっちゅう出会ってきました。『キリスト』なんていう子ども向きの伝記の本があるので気になって読んでみたら、十字架のことは書いていても、復活に関しては、弟子たちの間で復活の信仰が生まれたことがキリスト教のはじまりとなった、とか何とか、復活がまるで事実ではないように書いています。しかし、そんな信仰など意味があるのでしょうか? トマスは、疑り深い人であり、弟子たちの群れとともにいなかったために復活を目撃できなかった人であり、なおも十字架にこだわっていた人でした。そのいずれも、イエスさまの復活を見させなくする理由としては充分であり、その3つの要素がすべてそろったトマスは、もはやイエスさまの復活を信じるなど、とても不可能でした。 私たちもまた、不信仰に走らせるもの、復活を見させなくするものに生活が取り囲まれています。疑り深くあるようにというこの世の風潮に毒されること、復活をともに祝う教会の群れに距離を置いてしまうこと、聖書を読んでもイエスさまの十字架ばかりに目を向けて復活は二の次となってしまうこと……しかし、そもそも復活というものを目撃したことのない私たちは、いとも簡単にそのような不信仰に陥ってしまうものです。このような私たちを主が救ってくださるとしたら、それはどのようにしてでしょうか? 第二のポイントです。復活のイエスさまに出会えば、人は無条件に信じ受け入れます。 26節から28節をお読みしましょう。……イエスさまの復活を信じるということは、それこそ無条件になのです。 トマスは、鍵を閉めて閉じこもっていたはずのその家にイエスさまが現れてくださったという、その事実に圧倒されました。それだけではありません。イエスさまはトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」とお語りになりました。 イエスさまはなんと、あらかじめトマスと会ってお話しされたわけでもないのに、トマスがいちばんこだわっていたことに触れられ、言い当てられました。イエスさまにはすべてお見通しでした。そしてイエスさまはおっしゃいました。 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 なぜ、イエスさまの復活を信じない者ではなく、信じる者になりなさいとイエスさまはおっしゃったのでしょうか? それは、イエスさまの復活を信じない人は不幸だからです。喜びも楽しみも、うれしさもありません。そんな人になりたいとだれが思うでしょうか? しかしイエスさまは、ご自身についてくる弟子たちに、この世の何をもってしても奪い去ることのできない喜び、この世の何ものも与えることのできない喜びを与えてくださいます。どのようにしてでしょうか? ご自身の復活によってです。 復活を受け入れていないクリスチャンは、この世の中で最も哀れな存在です。この世で苦しむだけ苦しんで、イエスさまの復活にあずかることもわからないなんて、こんな不幸なことはありません。 あえてこの世の人たちが避けるような苦しい道をクリスチャンたちがあえて歩もうとするのは、その苦しみなど比較にならないほどの喜びを、イエスさまの復活にあずかることによって手に入れているからです。イエスさまの復活にあずかるならかぎりなく喜ぶだけではありません。この世において神の栄光を現すために、積極的に用いられていこう、一粒の種となろう、と、大いなる人生に踏み出す力が与えられます。 そうです。イエスさまに用いられるためには、イエスさまの復活を信じる信仰というものがどうしてもなくてはなりません。しかし、そのように用いられたいと願う原動力は、信仰を持っていることそのものという「事実」にあるというよりも、その信仰から出た「喜び」から来るものと言えます。 トマスはイエスさまを前にして、もはやイエスさまの傷跡に触れる必要を感じなくなっていました。十字架へのこだわりは、復活という事実の前に消し飛びました。気がつくとトマスは、「私の主、私の神よ」と告白していました。 さて、お気づきでしょうか。このときトマスは、単独でイエスさまに出会ったのではありませんでした。弟子たちの群れの中、交わりの中で、イエスさまに出会ったのでした。ここでも、イエスさまに出会うことは、神の子どもたちの群れ、弟子たちの群れ、教会の交わりの中で起こることだということがわかります。 私たちはときに、仕事ですとか病気ですとか、のっぴきならない事情で教会の礼拝を休むことがあります。そんなとき私たちは、心のどこかに責められるような思いをすることはないでしょうか? しかし、安心していただきたいのです。私たちはまた次の機会に、信徒の交わりの中に出ていって、復活のイエスさまに出会う体験をすることが許されています。それはまさに、復活の日にイエスさまにお会いできなかったトマスに、今度こそイエスさまにお会いできる機会を、イエスさまご自身がくださったようにです。 この箇所を読むと、イエスさまはまさに、トマスの不信仰を取り扱われるためということが最大の目的のようにして、弟子たちのただなかに現れてくださったように読み取れます。トマスのため。しかしこのトマスの信仰告白は、今なお怖れに震えて扉に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たち全体を喜ばせ、励ますことにもなったのでした。 ひとりの人がふさわしい復活信仰に導かれ、生きた人となることをみんなで目撃する、このことは弟子たちの群れに、計り知れない喜びを与えたのではないでしょうか? イエスさまが弟子たちの群れのただなかでこの立ち帰りの御業を行われたのは、トマスひとりのためではありません。トマスを説得できかねて困っていた弟子たち、だんだんとイエスさまの復活の事実が薄らいでまたもや怖れにとりつかれかかっていた弟子たちのことも、同時に励ましてくださるためでした。 礼拝という時間は、自分ひとりだけが復活のイエスさまに出会って喜んでそれで終わり、の時間ではありません。ほかの兄弟姉妹が復活のイエスさまに出会って喜ぶその姿を見て、自分もまた喜ぶ時間です。そういうわけで日曜日の礼拝は、ひとりでささげてそれで終わりなのではありません。ともに復活にあずかり、ともに喜ぶ時間です。ともに喜んではじめて、私たちにとっての復活の喜びはわがものになります。 とにかく、イエスさまが復活されたという事実を前にして、人にはどんな理屈も必要なくなります。信じない人に対しては、ことばで説得しようとしてもむなしいです。その人が実際に復活のイエスさまに出会って、「私の主、私の神よ」と信仰告白できるように、祈る必要があります。教会の集まりとは、そのまことの復活信仰の告白へと人を導く場です。ぜひ、復活のイエスさまを知ってほしい人のことを、教会に連れてきていただきたいのです。 もちろん、コロナ下という現実を考えると、それはかなりハードルが高いことのように思えるでしょう。しかし、このような中でも、救いを求める人は起こされるものです。コロナ下という逆風のような状況の中でも救いを求めて教会に行こうという人が周りから起こされるように、祈ってみてはいかがでしょうか? お勧めします。 第三のポイントにまいります。復活のイエスさまに出会うことは、だれにでも門戸の開かれた幸いなことです。 イエスさまはおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人は幸いです。」 もし、イエスさまを実際に見なければ救われもせず、ましてや働き人の資格もないのだとするならば、イエスさまの十二弟子以外、だれがふさわしいというのでしょうか。しかし初代教会以降2000年にわたり、キリスト教会を形づくってきたのは、イエスさまに出会ったことのない人たちでした。みことばをお読みして、みことばに啓示されたイエスさまに出会ってイエスさまにお従いしたのであって、決して、イエスさまを肉眼で見たわけではありませんでした。 イエスさまはようやく信仰を持ち直したトマスに向かい「見ずに信じる人たちは幸いです」とおっしゃいました。このみことばがヨハネの福音書に記録された意味を考えましょう。ヨハネの福音書が教会で読まれるようになった時代、イエスさまはすでに昇天されて久しく、イエスさまのみことばや御業が正しく伝えられることが必要になっていました。 その中でイエスさまがおっしゃったみことば「見ずに信じる人たちは幸いです」というみことばを信徒たちが読む必要があったのはなぜでしょうか? それは、実際にイエスさまにあったことがないことで、ヨハネのような使徒たちに対して劣等感をいだくことがないようにという、主のご配慮があったからではないでしょうか? 考えてみましょう。私たち凡人は使徒というと、何やらすごい人のように思えるかもしれませんが、彼らは復活のイエスさまを肉眼で目撃することがなければ、イエスさまの復活を信じることなどできなかった人たちでした。しかし私たちは、肉眼で目にしなくてもイエスさまの復活を信じています。 復活が事実であると受け入れ、復活が生きる原動力となっています。まさに、見ずに信じる者は幸いなのです。そしてそれはどれほど幸いかと言えば、使徒を上回る幸いとすら言えます。使徒ですらできなかった「見ずに信じる」ことを、私たちはさせていただいているからです。 私たちをこのように復活信仰の中で選んでくださり、力づけてくださるイエスさまに、心から感謝しましょう。復活は、大いなる力を及ぼします。 このときイエスさまから大いなるお取り扱いを受けたトマスは、のちに遠くインドにまで宣教し、殉教したと伝えられます。 しかし、そのような素晴らしい働きをしたトマスにも、できなかったことがあります。それは、21世紀の日本の、茨城県の人たちに宣教することです。これは私たちにこそできることです。 イエスさまは私たちにこの貴い使命、やりがいに満ちた使命を与えるために、私たちをこの地に生まれさせ、育ててくださり、イエスさまの十字架のみならず復活を信じる信仰を与えてくださいました。使徒にさえできなかった働きを、私たちはイエスさまの十二使徒に始まる世々の聖徒の働きを受け継ぎつつ、今ここにともに展開しているのです。 私たちも本来は疑いに満ちた人でした。しかし復活のイエスさまは、そんな私たちに出会ってくださり、教会の交わりの中で、信仰の人、復活のイエスさまを証しする人へとつくり変えてくださいました。 私たちはイエスさまの復活の証人です。死ぬべきいのちから、絶望から救い出してくださった復活のイエスさまを、一人でも多くの人に宣べ伝えるのです。イエスさまは私たちのことを愛してくださっているので、その貴い使命を私たちにくださいました。今日もイエスさまの復活に感謝し、主に拠り頼みつつ、用いていただけるように身をささげてまいりましょう。

「マグダラのマリアに学ぶ愛の行い」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:1~18/メッセージ題目;「マグダラのマリアに学ぶ愛の行い」 聖書の記述の中には、並行して同じできごとを別々の角度から描いているものが時折出てまいりますが、その中でも最も頭を悩ますのは、「イエスさまの復活、からっぽの墓」の記事ではないかと思います。四つの福音書を読み比べてみると、あちこちが合わないように見えることに気づきます。 私は今回のメッセージの原稿を書くに先立って、あらためて、4つの福音書を読み合わせ、どう解釈するといちばん無理がないだろうかと考えぬきました。難しい作業でしたが、推理小説を読んで結論を導き出そうとする作業に似ていると考えると、やりがいも生まれてまいりました。しかし、結果はと言いますと……神さまは簡単には、この謎を解かせてくださいませんでした。 しかし、講談社現代新書から『聖書の名句・名言』という本を出していらっしゃる、千代崎秀雄先生という牧師先生は、このからっぽの墓の記述が一致しないことについて、こんなことを語っていらっしゃいます。もし証言がぴたりと一致していたら、そのほうが口裏を合わせたみたいで、かえって信頼できないではないか……一致していないからこそかえって信頼できるとも言える……それを思い出し、私は、千代崎先生にしてそうおっしゃるなら、安心していいのか、と思ったものでした。 それでも、ひとつだけ発見したことをお話ししたいと思います。それは……このからっぽのお墓を聖書が語るにあたって、どの福音書も、そこにマグダラのマリアという女性が訪ねて行った、ということをはっきり語っています。事件の鍵を握るヒロインならぬ、からっぽの墓の記述の鍵を握るヒロイン、それはマグダラのマリアです。 マグダラのマリアがイエスさまの復活の朝、日曜日の朝に、イエスさまのお墓に行ったということは、すべての福音書に書かれています。それほど、マグダラのマリアは聖書において、大事な存在だということです。 このヨハネの福音書に描かれたマグダラのマリアの姿からわかることは、彼女がイエスさまを求めて、ひたすら行動したということです。 ほかの福音書によれば、マリアは十二弟子とともにイエスさまについて行っていた人でした。そして、イエスさまが十字架にかけられ、死んでいかれたのをじっと見つめていました。それからも、アリマタヤのヨセフがご遺体を引き取ってお墓に運んだとき、マリアは、アリマタヤのヨセフについて行き、お墓にご遺体が納められたのをじっと見届けました。安息日が明けた日曜日の早朝、マリアは香料と香油を持ってお墓に来ました。 ほかの福音書を読めばわかりますが、マリアはひとりで来たわけではなく、ほかにもヤコブの母マリアやサロメのような女性たちもいっしょでしたが、ともかくマリアは来ました。このヨハネの福音書を読んでも、「私たちには」という言い方をしていて、マリアがひとりで行ったわけではないことがほのめかされています。しかし、ヨハネの福音書はあくまで、マグダラのマリアの名前だけを挙げています。それだけ、ヨハネの福音書は、マリアという人物にスポットが当てているわけです。 イエスさまが葬られた横穴式のお墓の入口には、巨大な石が転がしかけてあります。しかもその石には、ピラトの封印が施されています。勝手に開けるなら重罰を免れません。いえ、それ以前に、その墓の前には屈強な番兵たちが、だれも墓を開けることができないように番をしていました。イエスさまのご遺体に対面するなど、とんでもないことでした。 それでもマリアは、行かなくちゃ、何が何でも行かなくちゃ、と、明るくなるころを見計らってただちに行動に移しました。マリアは、あきらめなかったのでした。それはそれほど、イエスさまを愛していたからでした。ご遺体であっても、イエスさまと対面したくてたまらなかったのでした。マリアのこの態度は、ともにおられるイエスさま、インマヌエルの主を求める態度です。主がともにいてくださることに飢え渇く姿です。 果たして、お墓の石は転がしてあり、中はからっぽでした。マリアは、墓がからっぽであることを見て動揺し、弟子たちに知らせに行きました。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちにはわかりません。」しかしこの態度は、ヨハネの福音書を読むかぎり、マリアにはまだこの時点で、復活信仰がしっかり根づいていなかったことを明らかにしています。それでも、マリアは信仰が不完全ななりに行動しました。このことは賞賛されるべきことではないでしょうか? 正統の信仰告白は私たちにとって宝物より大事なもの、いのちにも等しいもので、聖書的な信仰告白をしていることは私たちを正統な教会に所属させる点でとても大事です。しかし、その信仰を持っていることに安心して、何も行動しないというのでいいのでしょうか? 私たちは、正統の信仰を持っているでしょう。常識的な判断も下せるでしょう。しかしそんな私たちは、復活に関するイエスさまのみことばも思い出さず、ひたすら行動したマリアがおっちょこちょいだとか、愚かだとか笑えるでしょうか? お墓に行っても無駄だから行くべきではない、とマリアが思ったならば、弟子たちに至るまで復活のイエスさまに出会う道は閉ざされたままでした。十字架から三日目によみがえられるという預言は、成就したかどうかわからなくなりさえしたかもしれません。 ともかく、マリアに充分な復活信仰がなかったことが、かえってペテロやヨハネといった弟子たちをお墓へと動員するきっかけをつくったわけです。しかし、むしろこう言うべきかもしれません。主がすべてを働かせて益としてくださるにあたり、マリアのこの愛の行動力を用いてくださった、と。マリアがほめられるべきなのは、からっぽのお墓という事実、すなわち、イエスさまの復活という事実を告げ知らせるのに主がお用いになるほどの、純粋にイエスさまを愛する思い、イエスさまを慕う思いがあったからです。 マリアは、イエスさまを愛していました。これほどまでにイエスさまを愛するのは、イエスさまに愛されたからです。鍵となるのはマルコの福音書とルカの福音書におけるマリアの紹介の記述、「イエスさまに七つの悪霊を追い出してもらった」という事実です。十二弟子と一緒にイエスさまにお従いしたのは、まさに、イエスさまに七つの悪霊を追い出していただいたことと深い関係があったことが、ルカの福音書の記述にほのめかされています。 「七つの悪霊」といえば、イエスさまはかつて、「七つの悪霊」という存在について語られたことがありました。けがれた霊が人から出ていったときに、その人の心が掃除してきちんと片づいていたようになっていると、自分より悪い七つの霊を引き連れて住みつき、その人の状態はさらに悪くなる……。このみことばから察するに、マグダラのマリアはただでさえ悪霊に取りつかれていたのが、さらに悪い悪霊どもが取りつき、もはや人間には手の施しようもないほど悪くなっていた、ということだったことが窺い知れます。 人間にたくさんの悪霊が取りつくとどうなるでしょうか。福音書には墓場に住む男の話が出てきますが、裸で、つないだ鎖を引きちぎるほどの怪力を発する凶暴さで、もはやその姿は人間ではありません。あるいは、泡を吹いて転げまわり、水の中だろうと火の中だろうとあたりかまわず飛び込みます。あるいは、倫理的にひどい状態になります。深酒に陥ったり、性的に底知れず乱れたりするのは、明らかに悪霊の影響です。 しかし、人は、そんな悪霊の支配を受けている自分は間違っている、そこから救われたい、という思いを、心のどこかで持っているものです。そんな人がイエスさまに出会い、いやしをいただいたならば、イエスさまを愛さずにはいられなくなるのではないでしょうか。 マグダラのマリアはイエスさまに出会って真人間になりました。もう、以前のような、それこそ悪魔に魅入られたような行動を人前で取ることはなくなりました。それでも人は相変わらず、彼女のことを札付き扱いしたかもしれません。暗い過去を引きずる人を、人は簡単には許さず、受け入れないでしょう。 しかしイエスさまはちがいました。マリアのことを愛してくださいました。人が忌み嫌うような、特に、ユダヤの宗教社会ではことさらに忌み嫌われるような、悪霊にたっぷり取りつかれてすっかりおかしくなったこの女に触れてくださり、悪霊を追い出して真人間にしてくださいました。 イエスさまはおっしゃいました。多く赦された者が多く愛するのだと。私たちはもちろんのこと、イエスさまを愛したい思いを持っていると思います。しかし多くの場合、私たちのイエスさまに向けた愛は貧弱です。それはなぜでしょうか。それは、イエスさまがかぎりなく愛してくださっているその愛を、私たちは充分に受け止めていないからです。つまり、その愛に感謝していないからです。 みなさまもご存じだと思いますが、「ありがとう」の反対のことばは「あたりまえ」です。私たちがこうして生きているのはあたりまえ。ご飯を食べて空気を吸って生きているのはあたりまえ。仕事をしてお金を稼ぎ、生活をするのはあたりまえ。 万事につけ「あたりまえ」と思うならば、どこに感謝する心が生まれるでしょうか。そんな人にとっての感謝なんて、所詮人前で自分をよく見せるためのポーズでしかありません。しかし、私たちがもし自分の罪を悟り、その罪ゆえに本来滅びなければならなかった者が、イエスさまの十字架を信じる信仰を与えられ、永遠のいのちを与えられたと知ったならば私たちにとっての「あたりまえ」は「ありがとう」に変わります。最大の「ありがとう」は、私を罪から救ってくださったイエスさまが、こんな罪深い私といつも一緒にいてくださることです。 私たちにとって悔い改めが必須なのは、自分自身がなんて罪深いのかと絶望に浸って自分をいじめる「マゾヒズム」のゆえではありません。その罪を完全に赦してくださったイエスさまと、さらに深い交わりを持ち、さらにイエスさまを愛するためです。もし、悔い改めがマゾヒズムのような自分いじめにとどまっているならば、イエスさまは見えているようで絶対に見えてきません。その罪をすべて赦してくださったイエスさまに完全に視点が移るとき、イエスさまを愛する思いが生まれ、それがイエスさまを愛するゆえの行いを生みます。 ヤコブの手紙を読んでみますと、自分には信仰があると口だけでいうことがどんなにむなしいか、行いで信仰を示しなさい、と語られています。これを表面的に読むならば、行いで認められようとするのはパウロが聖書で語ったメッセージである信仰義認と矛盾する、という結論になってしまいますが、その解釈は正しくありません。そうではなくて、イエスさまに愛されているからイエスさまを愛する行いをする、ただそれだけのことです。 信仰が深いということは、聖書の知識の量や教会生活の長さ、献金の額などで測られるものではありません。どれだけイエスさまに愛されているその愛を受けて、イエスさまを愛しているか、そこにかかっています。 イエスさまを愛するならば、イエスさまのご命令を守ります。そのご命令は、神を愛し、人を愛しなさいというご命令です。イエスさまがどれほど御父を愛しておられるか、そして、イエスさまはどれほど私たちを愛しておられるか、それを私たちは、日々みことばをお読みして、お祈りして、教えていただき、悟らせていただき、しみじみ感動させていただくのです。 そして、そんなマリアに、イエスさまは真っ先に出会ってくださいました。弟子たちにではなかったのです。弟子たちはイエスさまの墓の中に入っても、このみことばにあったように、マリアのことばを信じることまではしても、イエスさまの復活を理解しないままその場を去りました。マリアはそこを離れられず、さめざめと泣きました。イエスさまはそんなマリアに、泣かなくてよい、と現れてくださり、わたしの復活を告げ知らせなさい、と、新しい使命を与えてくださいました。 イエスさまに愛される分、私たちはイエスさまを愛します。そんな私たちに、イエスさまは復活のいのちをもって現れてくださり、私たちを生活の現場に遣わし、わたしの復活という福音を宣べ伝えなさいと、使命を与えてくださいます。この栄光に満ちた主の働きができるのも、私たちが日々、マリアのように、イエスさまに出会って涙をぬぐっていただくゆえです。 いくつか、思い巡らしましょう。私たちは愛が行動に結びつくほど、イエスさまを愛していますでしょうか? 十分な愛になっていないなら、何が問題でしょうか? 私たちはまた、イエスさまを見失って悲しんではいないでしょうか? イエスさまはそんな私たちに出会ってくださり、悲しみをぬぐい去ってくださると、信じてまいりましょう。8

「イエスの母、十字架の前に立つ」

聖書箇所;ヨハネの福音書19:25~27/メッセージ題目;「イエスの母、十字架の前に立つ」 今日お配りした月報のほうに詳しく書きましたが、むかし同じ教会でともに働いた韓国人の婦人宣教師の先生が、おととい、天に召されました。私よりも20歳ほど年上の独身の方で、まだ働き人としての経験に乏しかった私のことを、いつも励ましてくださった方でした。しかし、何がいちばんお世話になったかといえば、妻を紹介してくださったことでした。 ともに働いていた頃のことで、忘れられないエピソードをお話しします。当時その韓国人教会には、日本人の大学生の男の子が来ていました。心痛むことですが、彼は幼いころ、お母さまを亡くしていました。ある日教会で、私が彼とその宣教師先生と3人で一緒に立ち話をしていたところ、別の韓国人の婦人がその話の輪に近づいてきて、彼に話しかけて言いました。「お母さんですか?」なるほど、年齢的にはちょうどそんな感じです。宣教師先生も男の子も、ちがいます、といいながら、まんざらでもない表情を浮かべていたのを、私は今でも覚えています。 あのとき私は、その韓国人の姉妹のことばに、勘違い以上の深い意味を見出したものでした。まことに教会という共同体は、新しいお母さんができる場所です。また、新しくお母さんと呼んでもらえる場所です。 今日はこの「母」ということを考えてみたいと思います。今日のみことばに登場するおもな人物は、イエスさまのほかに、マリアと、イエスさまの弟子です。イエスさまの弟子は、このヨハネの福音書の最後で明かされますが、福音書を記したヨハネのことです。 イエスさまの母となった人物は、歴史上ただ一人、マリアだけです。そういうこともあって、歴史的にキリスト教会はマリアという人物を特別視してきました。しかし、宗教改革の伝統を引き継ぐ私たちは、マリアを特別視することから脱し、マリアもまた、神の前にひとりの人であると見なしています。 それでもマリアは、私たちにとって学ぶべき模範であることに変わりはありません。最大の学ぶべきこと、それを知る鍵は、マルコの福音書3章31節から35節をお読みすれば見えてきます。おひらきいただきたいと思います。 みなさん、この箇所を読んで、どうしても引っかからないでしょうか? このみことばの締めくくりにイエスさまがおっしゃった、だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母、とおっしゃっています。 要するにイエスさまは、霊の家族は肉の家族に優先することを説いていらっしゃるわけですが、それにしても「だれでもイエスさまの母」という表現は、何のことだろうと思わないでしょうか? イエスさまの兄弟、ですとか、姉妹、ならまだわかるでしょう。 しかし、母、となるとどうでしょうか? 私たちがイエスさまの親になるとでもいうのでしょうか? 特に女性の方は、イエスさまを産むのだろうか、なんと畏れ多い! とお思いになりませんでしょうか? とんでもないことです。しかしイエスさまは、はっきりそうおっしゃったのでした。 もちろんこれは、イエスさまの霊的なお働きを肉の家族の論理でやめさせようとするマリアの間違いを正そうとされたという意図も含まれています。わたしの母ならば、神さまのみこころを行なってください、つまり、神の国を宣べ伝えるわたしの働きをやめさせようとしないでください、ということです。しかし、それ以上に私たちは「『だれでも』わたしの母です」とおっしゃっているこのみことばに注目する必要があります。 神のみこころを行う以上、「私たちが」イエスさまの母と見なしていただける、ということです。とは言いましても、いかにイエスさまにそう言っていただけるからと、「はい、私は神さまのみこころを行なっているから、イエスさまの母です」などと堂々と言える人など、まともな神経のクリスチャンならば恐らくひとりもいないと思います。 この難しいみことばを知るには、唯一、イエスさまの母であったマリアがどういう人であったかを、みことばから知る必要があります。イエスさまを産んだマリアのような特別な人からは何も学べない、ではないのです。神のみこころを行う者をイエスさまはご自身の母と呼んでくださるからには、私たちは母マリアから学ぶべきである、のです。 今日のメッセージは、十字架の前に立つマリアの姿と、いくつかのみことばを関連させながら語ってまいりたいと思います。 第一に、マリアは十字架の前に立つすべての人の代表選手です。 イエスさまにつき従っていた人たちの中で、十字架の前に立っていたことがはっきりみことばに記されている人は、多くはありません。弟子たちは逃げ去り、どうにか、ヨハネは十字架のそばにいた模様でした。しかし、この十字架の前にいた人たちの中で、女性たちのことがみことばに特記されています。イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリア。 ある牧師先生がこの場面のことを語られたとき、こんなことをおっしゃっていました。男は弱い! みんな逃げた! それに引き換え女性は強い! ほんとうにそうだと思います。教会の多くの部分を姉妹方に支えていただいているという事実を見るにつけ、しみじみそう思います。 婦人たちはイエスさまの十字架を見届けました。しかしその中でも、マリアはどうでしょうか? 彼女はイエスさまをみごもり、お腹を痛めて産んだ人です。それも、人口調査の旅の果てに、どこにも宿屋がなくて、馬小屋で産むという大きな苦しみを伴ってです。それから30年近く、育て、そしておそらくはヨセフが亡くなってからは、大工の家庭の大黒柱としてイエスさまに頼って生活しました。単なる関係ではないのです。親子です。 そんなマリアが、息子の傷つき果て、のろいを受けて死んでいく姿を、じっと見つめつづけたのです。私たちにそんなことが起こったならば、果たして耐えられるでしょうか? ルカの福音書2章34節と35節をご覧ください。マリアはこの預言を受けたとき、まちがいなく、まるで剣が心を刺し貫かれるようなショックを受けたはずです。この男の子によってあなたの家族は祝福されます、と言われたのではなく、人々の反対にあうしるしとして定められています、あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります……何ということを言われたのでしょうか。 シメオンのことばは続きました。「それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」人々は十字架を前にして、まるで心が剣で切り刻まれるようになって、自分の罪が明らかにされ、痛みとともに悔い改めに導かれます。 マリアは、息子を十字架に送り出すことで、果てしない痛みを心に負いました。しかしそのことによって、人々はまことの悔い改めを体験し、神さまの民として回復されるという、みこころが成就したのでした。 マリアは、十字架を前にして、心は千々に切り裂かれていました。しかしそれは、母親として死にゆく息子の前に立つということ以上の意味がありました。自分もまた、神の前に立つ罪人として、心が切り刻まれ、罪が悔い改めに導かれるという、何にもまして貴い体験をしていたのでした。 映画『ジーザス』や『パッション』などを見ると、イエスさまの十字架の残酷さに、思わず私たちは目をそむけたくなります。しかし、私たちはイエスさまの十字架の残酷さそのものに関心を持つのではありません。イエスさまがかわいそうだから心が動かされるのではありません。 そのように十字架でイエスさまをずたずたにするほど私たちの罪はひどいもの、しかし、その罪をすべて赦してくださったことを、私たちはイエスさまの十字架を思い、感謝するのです。 私たちはマリアのごとく、イエスさまの十字架の前に立ちつづけることができますでしょうか? 今週の受難週、私たちはいつにもまして、イエスさまの十字架を思うものとなりたいものです。 第二のポイントです。マリアは、十字架によって新しい家族をつくっていただくクリスチャンの象徴です。 26節、27節をお読みしましょう。……イエスさまは、十字架に死なれるという御父のみこころを成し遂げられるという大きな使命がありました。しかし、家族を残していかなければなりませんでした。特に、寡婦のマリアをどうしなければならないか、という、大きな問題がありました。 イエスさまはこのマリアを、愛する弟子のヨハネに託されました。しかし私たちは思わないでしょうか? たしかイエスさまには、弟たちがいるはずではないか? その中でもヤコブとユダは、初代教会の指導者にもなったし、聖書のみことばも書いているではないか? 彼らがマリアのケアをすればよかったのではないか? しかし、ヨハネがマリアのケアをするということは、2つの理由から必要なことでした。 まず、主の兄弟たちは、イエスさまを信じていない人たちでした。彼らがイエスさまを信じていなかったことは、ヨハネの福音書の7章にはっきり書いてあります。 また、イエスさまから「わたしの兄弟姉妹、わたしの母」というおことばを引き出すきっかけになったのは、マリアと彼ら兄弟たちがともにイエスさまを連れ戻しに来たことからでしたが、ある牧師先生によれば、主の兄弟たちがマリアをそそのかして連れ戻しにやって来たと解釈できる、いけなかったのは兄弟たちだった、ということでした。 一方でマリアは、こうしてイエスさまの十字架の前に立つほどの信仰を持っていました。十字架の前にいたということは、私はイエスの母です、と言っていることであり、それは、私はイエスを信じています、と表明しているのと同じことです。 ここでマリアは、ほんとうの意味でイエスさまがおっしゃるところの「わたしの母」となることができたのでした。イエスさまはここでマリアに向かって「女の方」と言っていますが、この呼びかけのことばは、カナの婚礼の時にぶどう酒が切れて困ったことになったとき、イエスさまに助けてもらおうとしたマリアに向かい、イエスさまが呼びかけたおことばでもありました。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」 特に日本語の聖書でこの箇所をお読みすると、イエスさま、実(じつ)のお母さんに向かってなんてつれない言い方をなさるのか、という印象を受けるかもしれません。しかし、この「女の方」というおことばは聖書によっては「お母さん」と訳してもいて、まったく突き放した言い方をなさっているとはかぎらないとも言えます。 それでも、女性に対する尊称のようなこの呼びかけを用いておられても「お母さん」とはっきり呼びかけておられないのはたしかなことで、ここにマリアは、イエスさまとは肉親としてではなく、霊の家族として結びつけられる必要があったことが垣間見えます。 そして、イエスさまは十字架にかかられ、あのときマリアに語った「わたしの時」が、ついに実現しました。あのときの呼びかけと同じ呼びかけで、イエスさまはマリアに「女の方」と呼びかけました。イエスさまの時が実現した今、あなたは霊の家族に迎え入れられるのです……。 そうです。マリアはそういうわけで、イエスさまを信じない肉の家族ではなく、霊の家族に属して生活する必要があったのでした。その、迎え入れる家族に、イエスさまはヨハネを指名されました。自分自身が告白するとおり、ヨハネはイエスさまに愛された弟子です。イエスさまの愛を受けて、イエスさまの母親をケアするのに、ヨハネほど適切な人はいませんでした。肉の家族であるイエスさまの弟たちではなく、ヨハネがケアすることで、マリアは名実ともに神の家族、キリストのからだの一員となったのでした。 そして、ヨハネがマリアのケアをした、もっと大きな理由……それは、神さまご自身がそう願われた、ということです。 のちに主の兄弟たちは、イエスさまを信じて神の家族に加わり、長じて初代教会の指導者にまでなりました。しかし、そんな彼らが、だからということでマリアを改めて家族として受け入れたという記述は、聖書にありません。あるのは、ヨハネがマリアを母親のように受け入れて生活した、という記述だけです。 この記述はヨハネの福音書に書かれているわけですが、記述がほかならぬヨハネによる福音書に残されていることは、初代教会の人間関係を知る手掛かりとなります。それは、マリアをケアする責任をイエスさまから託されたヨハネ自身の偽らざる告白が、そこになされているということ、そして、福音書というものが初代教会の産物である以上、マリアをケアすることが、主の兄弟たちを含む初代教会の指導者たちに広く認められていたということ……というより、彼ら指導者たちも、ヨハネがマリアのケアをすることはイエスさまのみこころだと認めていたこと……そういうことがこの26節、27節のみことばから見えてきます。 十字架は私たちを、愛し合う家族にします。それが天のお父さまの願っていらっしゃることです。十字架によって私たちは天のお父さまを、お父さんと呼ばせていただく、同じ家族になります。マリアが肉の家族を超えて、霊の家族に入れられたように、私たちも霊の家族に入れられ、ともに成長するのです。 うちの教会も親子でクリスチャンという方が何家族かいらっしゃいますが、肉の家族であることで終わるのではなく、霊の家族が肉の家族にしていただいた存在として、ともに生活するものとなりたいものです。私たちクリスチャンの大前提は、霊の家族です。 イエスさまは、だれでも神のみこころを行うならその人はわたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母とおっしゃいました。唯一イエスさまの母であったマリアは、イエスさまの十字架の前にひとりの人として立ち、心が剣で刺し貫かれました。私たちもイエスさまの十字架の前に立つならば、心が刺し貫かれます。この受難週、特にイエスさまの十字架を思い、心からの悔い改めに導かれますようにお祈りします。 また、この悔い改めは一人で完結するものではありません。ともに神の家族とされている私たちが、ともに行うことです。私たちは、同じ神さまを父としてともに悔い改め、ともに罪赦されます。 そのようにして罪赦されたどうしが、愛し合い、仕え合い、神の国をこの地に宣べ伝えるのです。それがイエスさまの願っていらっしゃる、神のみこころを行うことであり、イエスさまはそのような私たちのことを喜んで、ご自身の家族と呼んでくださいます。 この受難週、十字架の前にともに進み出て、ともに主の家族とされていることを感謝してまいりたいと思います。では、お祈りします。

ピラトとは私たちである

聖書箇所;ヨハネの福音書19:1~22/メッセージ題目;ピラトとは私たちである 「茨城世の光伝道協力会」、今週金曜日に総会がうちの教会の礼拝堂を会場に開かれますが、この協力会の機関紙の名前は「茨の城を花園に」といいます。茨城県がまだまだ福音宣教が大いになされるべき荒野のような場所、というイメージをかきたてられます。まさに茨城は「茨の城」、茨の地です。 茨、というものは、アダムの罪以来、土地がのろわれたゆえに地が生えさせたのろいの象徴です。そう考えますと、茨城とは、なんと重い名前だろうか、と思わざるを得ません。うちの教会の所在地なんてどうでしょうか? 茨城県東茨城郡茨城町、「茨」がこれでもかと出てきます。それだけに、冗談ではなく、茨の冠をかぶられたイエスさまをより深く思い、茨の地、茨城を覚えてとりなして祈る私たちとなりたいと、切に思います。 さきほどお読みしたみことばの中に、茨の冠をかぶせられたイエスさまのお姿が登場します。この冠をかぶせたのは、総督ピラトです。 私たちが礼拝ごとに告白する「信徒信条」の中に、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」というくだりがあります。この告白には、ローマ総督として実在したポンテオ・ピラトの下でイエスさまは確実な苦しみを受けられた、ということ、また、ポンテオ・ピラトとはイエスさまを苦しめた張本人であった、ということが明らかにされています。 しかし、私たちがいつも礼拝のたびに、ポンテオ・ピラトの名前を口にして、ああ、彼は悪い人だ、という理解にとどまっているだけならば、私たちの信仰はまだ幼い段階にあります。私たちにもし、自分こそがイエスさまを十字架につけた罪人だ、という意識があるならば、この「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という告白には、心が痛むのではないでしょうか? ああ、ポンテオ・ピラトとは私のことだ。 今日はポンテオ・ピラトの姿から学びましょう。もちろん、反面教師としてのピラトですが、この姿は私たちの姿でもあります。私たちがイエスさまとの正しい関係を保つため、悔い改めるべき罪を悔い改めるため、ピラトの姿から学びたいと思います。 第一にピラトは、残忍な者でした。 ピラトは、イエスさまには十字架刑に当たる罪がないことを知っていました。ユダヤの宗教指導者たちは、自分たちの権威が失われるから、イエスさまをなき者にしよう……十字架につけて神にのろわれた者としてしまい、イエスさまの権威を一切葬り去ろう ……このようなユダヤの宗教指導者の言い分をそのまま認めるということは、ローマの権威を託された政治家の沽券にかかわることでした。 しかし、ピラトはここで自分に与えられた権威を、あらぬ方向に用いました。イエスさまを痛めつけたのでした。 みなさま、むちで打つといいますと、どんなイメージを受けますでしょうか? むかしの欧米などでの子どもの躾でしょうか? しかし、イエスさまに当てられたむちは、あんな細いものではありません。もっと太くて堅牢なものです。 東京の寄席に、落語の合間に手品を披露する、伊藤夢葉(いとうむよう)という手品師がいます。この人は舞台に登場すると、自己紹介のあいさつ代わりに、ブル・ホイップという、かなり長くて太いむちを取り出して、それを一振りします。バン! という、凄まじい音が客席に響きます。新宿末廣亭(しんじゅくすえひろてい)のような建物がめちゃくちゃ古い寄席でそれをやると、舞台が壊れるんじゃないかとひやひやしますが、夢葉さんによると、この大きな音は空気を切る音で、床には一切当たっていないとのことです。 ……でも、それだけの芸で、手品でもなんでもない、観客は拍子抜けして笑いだす仕掛けなのですが、私などはそれを見て、なんか勉強になったような気がしたものでした。ブル・ホイップ……イエスさまやパウロもあのようなむちでたたかれたのかな……あんなのでたたかれたらひとたまりもありません。 しかも、イエスさまの当時のむち打ち刑といえば、そのようなブル・ホイップのようなむちに、あちこち、石や鉄の破片を埋め込んでおき、それでたたくわけです。からだがずたずたに……すみません、前の席にはそういう話が大嫌いなお嬢さんが座っているので、詳しくは話しませんが、これで何度も叩かれたら、血まみれ、こぶだらけ、骨折、脱臼……。 それに飽き足らず兵士たちは、茨の冠をかぶせました。私たちがよく見かけるバラのとげのようなものではありません。もっとずっと太く、鋭いものです。これで頭を締めつけるなら、顔も血まみれになりますし、痛いでは済まないことです。 そして、「ユダヤ人の王さま、万歳」と嘲りながら、顔をたたきました。畏れ多くも神の子に対して、なんという侮辱でしょうか。ピラトたちはイエスさまのことを、肉体的に痛めつけるに飽き足らず、精神的に痛めつけることに快楽を見出していた、ということです。 注解書を読むと、このようにイエスさまを痛めつけた上でユダヤ人の前に引き出したのは、この哀れな姿を見るがいい、この姿に免じて、おまえたちの言うところの「罪」を許してやれ、と、ピラトがユダヤ人たちにあわれみを乞うたからだ、と説明するものもあります。 たしかに、そのような要素はあったでしょう。しかし、そうまでしてユダヤ人のあわれみに訴えようとしたのならば、なぜこのむち打ちをユダヤ人の面前でではなく、総督官邸の中という、ユダヤ人の見ていないところで行なったのでしょうか。百歩譲って、激しいむちうちのあとが残る形でイエスさまをユダヤ人の前に出したとしても、そのような形が残るわけでもないあざけり、ユダヤ人の王さまがどうたらこうたら、とか、証拠も残らないことを兵士たちがすることを、なぜピラトは許したのでしょうか。 それは、それだけ残忍だったからとしか説明のしようがありません。さすがはピラト、ガリラヤ人を虐殺し、彼らが神さまにささげるいけにえに彼らの血を混ぜるようなことをしただけのことはあります。 しかし、ピラトだけが特別な罪人なのでしょうか? 私たちはどうなのでしょうか? 詩篇1篇1節にはこのようにあります。幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人……このことばから詩篇が始まっているのは象徴的です。それは私たち人間がみな罪人であり、悪しき者にふさわしいはかりごとをする者であり、人を嘲る者だからである、ということではないでしょうか? それなら私たちは、みなピラトのようであり、詩篇1篇1節の語る「幸いな人」の反対に当たる人ということではないでしょうか? そう考えると、私たちは残忍なのです。いや、私はそんな残忍ではありません、それが証拠に、イエスさまのことを迫害していません、私はピラトとちがいます、と言いますでしょうか? しかしほんとうのところ、私たちは人をのろい、神をのろうような罪人です。行動に移さないだけで、私たちは残忍なのです。 ヤコブの手紙によれば、人をのろうということは、神にかたどって造られた存在をのろうということです。それはとどのつまり、神をのろうということ、神の子イエスさまを迫害することにならないでしょうか? 私たちは正義の味方になったつもりで人をさばきますが、問題なのは人を憎むこと、人を見下げることそのものです。 それは実のところ畏れ多いこと、神をも恐れぬことをしていることを、私たちはもっと意識する必要があります。繰り返します。私たちは残忍なのです。 私たちがだれかのことをあざけったり、こきおろしたりすることなら、それはイエスさまに対し、むちをふるうことです。神さまがご自身のかたちに創造された存在をのろうことを私たちがしているかぎり、私たちはその責めを負うことになります。私たちがこの責めからのがしていただくためには、まず私たちはそのような罪人、神の子にむちを振るう罪人であることを認める必要があります。このことを認めることはとてもつらく、直視に耐えないことですが、するしかありません。そこから私たちは、血まみれの罪からのがしていただく道が開けます。 第二にポイントにまいります。ピラトは、保身の者でした。 ピラトは、血まみれになり、さらにはあわれな王の格好をさせられたイエスさまを宗教指導者たちの前に連れてきました。どうだ、見たか、これで気が済んだだろう……しかし、ピラトの目論見は失敗に終わりました。彼らはこんなになったイエスさまを見てもなお、十字架につけろ、十字架につけろ、と叫びつづけました。 この叫びに対し、ピラトは言います。おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけるがよい。私はこの人に罪を見出せない。 要するにピラトは、イエスさまを十字架につける責任者という立場から逃げようとしたのです。責任者はおまえたちだ。私は知らない。ピラトの保身が読み取れます。 しかし、ユダヤ人たちは容赦しませんでした。私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。 律法は何と言っていますでしょうか? 彼ら宗教指導者たちは、レビ記24章16節を適用した模様です。神の御名を汚した者は死刑に処せられる。ご自身を神の子であると告白したイエスさまは、宗教指導者たちにしてみれば、神の御名を汚した者ということになります。 だが、彼らにとって律法がそれほど大事なものの割に、彼らはきわめて重要なことを、意図して捻じ曲げています。まず、ご自身が神の子であるとイエスさまが告白されたことを神への冒瀆と判断したことは、ユダヤの宗教指導者という人間しての判断でこそあれ、神さまご自身によるご判断ではありませんでした。彼ら宗教指導者たちがねたみゆえにそのような判断を下したとわかる余地があり、ピラトもそのことに気づいていました。 また、よしんばそれが神への冒瀆だったとしても、彼らにとってそれほど神さまとそのみことばが大事な割には、処刑の方法が間違っていました。 神への冒瀆をした者は石打ちで処刑されるべきでした。ステパノの殉教もそのようにして石打ちで殺されたものでした。それが十字架だというのです。石打ちで死ねば英雄の殉教と見なされるでしょうが、十字架で死んでは何をどうしても、のろわれた極悪人にしかなりません。ユダヤ人がイエスさまに手を下すには、十字架以外に方法がなかったのでした。 しかし彼らユダヤ人は、勝手に人を十字架で処刑することなど許されていませんでした。もしそれをしてしまったら、それは宗主国ローマに対する越権行為であり、十字架刑を施したほうが重罪に問われます。したがってユダヤ人がイエスさまを十字架につけるには、ローマの権威を用いるしかなく、ローマの全権を帯びた総督ピラトを動かすしかなかったのでした。 しかし、当のピラトにしてみれば、せいぜいそれはユダヤ民族の内輪のもめごとに過ぎません。いかにピラトが残忍でも、無実の者をよりにもよって十字架刑に処するわけにはいきません。 だがここで宗教指導者たちは、イエスはわれらの律法によれば死刑だ、とピラトに迫りました。その一方ですでにユダヤ人たちは、私たちはだれも死刑にすることが許されていません、とも言っています。つまり、私たちユダヤ人が死刑と決めた者は、ピラトよ、あなたが死刑にしなければならないのです、ということです。 ピラトは震え上がりました。今度はピラトは、あらためてイエスさまに尋問することにしました。あなたはどこから来たのか、と問いますが、その問いに黙秘を貫かれるイエスさまに対し、ピラトは、私に話さないのか、私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか、と迫りました。 だが、ピラトはここで重大な勘違いをしていました。ピラトには実際のところ、イエスさまを釈放する権威も十字架につける権威もありませんでした。 ピラトのその権威は、ローマ帝国という後ろ盾があってはじめて存在するものでした。いえ、もっと言えば、そのローマ帝国の権威すら、全地の王であられる神さまの権威があって初めて成り立っているものでした。 イエスさまはそんなピラトの尊大な勘違いを指摘され、おっしゃいました。上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。 ピラトとちがって、イエスさまをローマの権威に引き渡したカヤパたち宗教指導者は、そもそも権威とは何かということをよくわかっていましたし、またわかっていなければならない立場にありました。彼らにとっての権威は、神さましかないはずです。だが彼らは、神さまよりもピラトの権威を上だと見なし、畏れ多くもそのこの世の権威にイエスさまを引き渡すということをしたのでした。 ピラトも残忍、また尊大、それでいて卑怯という点において大いなる罪人でしたが、イエスさまはそれ以上にカヤパたちの罪が大きいとおっしゃいました。その姿は、ついには「カエサルのほかに、私たちに王はありません」と告白した姿に明白に現れました。かつて彼ら宗教指導者たちは、カエサルに税金を納めることは律法にかなっていますか、かなっていませんか、とイエスさまに迫りました。あのことばとなんとも矛盾していますが、イエスさまをなき者にしようという点で、宗教指導者たちのことばは一致していたと言えます。 だからといって、ピラトの罪が減じられるかというと、そんなことはありません。やはり使徒信条が告白するとおり、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」なのです。いかなる理由であれ、ピラトが判断を下したからこそ、イエスさまは十字架につけられたのです。 暴動が起こったらその責任を問われ、ローマ総督の座を追われるかもしれない……マタイの福音書によれば、ピラトは水を持ってこさせてそれで手を洗ってみせ、自分の責任を逃れるパフォーマンスをしました。 だがやはり、ピラトは残忍な男でした。ヨハネの福音書には書いてありませんが、ほかの福音書を読むと、ピラトは判決を下してイエスさまのことを十字架につけるにあたり、ただでさえむち打ちで血まみれ、傷だらけになっていた主のみからだを、まるでだめ押しのようにむち打ちにしました。自分には責任がないなんて大嘘です。責任は大ありなのです。 エデンの園で、善悪の知識の木の実を食べたことを神さまにとがめられたとき、アダムは言いました。「あなたが私のそばに置いた女が食べろと言ったので、私は食べたのです。」エバは言いました。「蛇が私をだましたのです。」人の罪とは、自分が罪を犯したことを、神さまのせい、他人のせい、悪魔のせいにして、けっして自分で責任を取らないことです。しかしはっきりしていることは、何をどうあがこうとも、その罪の責任は必ず自分が取らなければならないことです。 保身に走って罪の責任から逃れようとするピラトの姿は、私たちの姿です。自分が罪を犯したことを神と人の前に認めることは、とても難しいことです。 しかし、しなければならないことです。だからこそ私たちは、神さまのあわれみにすがる必要があります。イエスさまは、罪を認めて悔い改めることも簡単にはしないような、そんな私たちであることをご存じで、そんな私たちの身代わりに十字架にかかってくださいました。私たちは、自分の中には罪を認めて悔い改める力はありません。日々十字架の前に自分を引き出し、ひざまずくのみです。 第三のポイントにまいります。ピラトは、はからずも主のみこころを成し遂げた者でした。 ピラトは言ってみれば、負けたのでした。それも、自分が支配しているはずのユダヤの宗教指導者たちに負けたとは、たいへんな屈辱というべきことでした。ピラトはイエスさまの十字架に掲げる罪状書きに「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書きました。それも、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語なので、エルサレムに過越の巡礼に来ていた人は、みんなそれを読んで理解できる仕掛けになっていました。 もちろん、宗教指導者たちはピラトのこの措置に不満をいだきました。われわれが十字架につけたのはユダヤ人の王ではない、ユダヤ人の王を自称した者だ。 しかし、ピラトはここで最後の抵抗をしました。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」これはもともとのことばを直訳すると、「私が書いたものは、私が書いたのだ」となります。これは要するにこういうことです。ユダヤ人どもよ、おまえたちがイエスを十字架につけたのは、私ピラトの権威によってではないか、ならば、イエスを十字架につけるだけの罪状を定める権威は私ピラトにあると認めよ、おまえたちユダヤ人は、この件について一切発言することを許さぬ……。 もし罪状書きに、ユダヤ人の王を自称したと書いたならば、それこそピラトはユダヤ人の言い分に屈服したという証拠になり、ピラトの面目は丸つぶれです。ではなぜ、ピラトは罪状書きを「ユダヤ人の王」にしたのでしょうか? それは、ピラトがイエスさまを尋問してきた中で、「ユダヤ人の王」ほどふさわしい「罪状書き」はなかったと確信したからではないでしょうか? とは言いましても、なぜ、ピラトがその確信に至ったかは、ピラトの心理分析のようなことを行なっても、恐らく正解は出てきません。確実に言えることは、ピラトはイエスさまのみことばを聞いて、イエスさまのおっしゃっている「ユダヤ」とは、自分が支配している「ユダヤ」のこと、という意味以上に、イエスさまのみことばをお聴きしてお従いするすべての人のこと、という、それまで考えてもみなかった真理を教えられたことです。…

「十字架を巡る反面教師」

聖書箇所;ヨハネの福音書18:28~40/メッセージ題目;「十字架を巡る反面教師」  東京の永田町には、国立国会図書館という施設があります。日本で唯一の国立図書館で、国会と名乗りますが、一般人も未成年でなければ利用できます。私も何度となく利用してきました。これまで日本で出版されて一般に出回った本ならたいてい閲覧できて、とても便利です。難しい本から、マンガも雑誌もなんでも読めます。コロナが収まったら、何かの機会にぜひ行ってみられることをお勧めします。  その貸出・返却カウンターの上のコンクリートの壁に、聖書のみことばがギリシャ語で刻まれているのをご存じでしょうか? その左側には日本語も書いてあります。「真理がわれらを自由にする」、はい、そうです、イエスさまがおっしゃったみことばで、ヨハネの福音書8章32節、「真理はあなたがたを自由にします」、このみことばの一節です。  この「真理がわれらを自由にする」ということばは、1948年に起案された国立国会図書館法という法律の前文に明記されています。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として、ここに設立される。」このように書かれたのは、当時の参議院図書館運営委員長であった歴史家の羽仁五郎が、留学先のドイツのフライブルク大学図書館で目にしたこの銘文を盛り込んだからだそうです。  イエスさまはおっしゃいました。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。人はイエスさまという真理によって自由を与えられるから意味があります。 図書館は知の結晶ともいうべき場所で、それはそれで素晴らしいにはちがいありませんが、本の数だけある真理など、果たして真理と呼ぶにふさわしいでしょうか。そのようなあいまいな真理が人を自由になどしてくれるでしょうか。だから「何が真理か」「だれが真理か」ということが、とても大事な問題になってくるわけです。 きょうの箇所でも、イエスさまを尋問するポンテオ・ピラトが、イエスさまに向かって「真理とは何なのか」という場面が出てきます。真理とは何かを問う。それは、意識ある人間ならだれでも取り組むべきことでしょう。だからこそ、ほんとうの真理に出会う必要があります。 本日のみことばにおいて、ポンテオ・ピラトの前で真実な告白をなさったイエスさまは、ご自身が宣べ伝えてこられた神の国について語りつつ、真理を明かされました。私たちはこのみことばから、何を学ぶことができるでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 この箇所には、真理なるイエスさまを巡って、三者三様の立場が登場します。イエスさまをローマの権威に引き渡した宗教指導者、それをあおってイエスさまを極刑に付そうとしたユダヤ人の群衆、そして、イエスさまをさばく立場にあったピラトです。それぞれの言動はイエスさまの御前に、その実態があぶり出されました。この三者三様の姿は、私たちにとって反面教師となります。以下、見てまいります。 まずは、宗教指導者たちです。彼ら宗教指導者たちは、イエスさまを死刑にする判決を、自分たちの最高議会、サンヘドリンで下しました。 彼らは、イエスさまを死刑にしようと躍起になっていました。彼らはこれまでも、イエスさまに石を投げつけて処刑しようとしてきましたが、果たせずにいました。しかし彼らはここで、もっと残忍な方法でイエスさまをなき者にしようと企み、ついにその企ては実行に移されたのでした。それが、十字架でした。 十字架という処刑の方法が、イスラエル、ユダヤという神の民の間で執り行われるとしたら、それはよほどのことでした。律法書を見ると人を木にかけて死刑にするという記述は申命記21章22節、23節に出てきて、木にかけられる者はのろわれた者であるとわざわざ語られていますが、実際にイスラエル、ユダヤの社会において、人を木にかけて処刑したという記録は、旧約の中にもいくつか見られます。 ヨシュア記を見てみますと、主がアイを聖絶せよと命じられたとき、イスラエルはアイの王を木にかけて処刑しました。聖絶の手段としての処刑です。 時代は下り、サウル王朝が終焉を迎えようとしていた頃のことですが、イシュ・ボシェテ王が殺されました。レカブとバアナによることです。レカブとバアナは手柄を認めよとダビデ王のもとにまいりましたが、主に油注がれた無実の人を殺すなど、よくもこんな大それた罪を犯したものだとダビデになじられ、木にかけて処刑されました。 さらに時代は下り、エステル記の時代となりましたが、ペルシャのスサにおいてユダヤ人は皆殺しにされようとしました。ところが事態は逆転し、この皆殺しをたくらんだハマンは、息子たちともども、木の柱にかけられて処刑されました。いずれも、木にかけられて殺されるとは、ただの処刑とはわけが異なり、よほどのケースです。 宗教指導者たちは、明らかにこの聖書的な背景をわかっていました。わかった上で、イエスさまをのろわれた者にしようという演出をしたわけです。彼らにとって幸いというべきか、ローマの残酷な処刑の方法である十字架刑は、ここユダヤでも実行されており、これまた彼らにとって具合のよいことに、この日の午前9時より実行されることになっていました。この十字架刑によってイエスも処刑してしまえ……のろわれた者としてしまえ……彼らのどす黒い野望が見えてくるようです。 しかし、このようなことをたくらむ彼ら宗教指導者たちは、この期に及んで宗教的であろうとしました。過越の時、宗教的なけがれを受けまいと、異邦人であるピラトの官邸に入らず、彼を外に出させました。何のことはない、宗教指導者たちは、自分たちにとってけがれていると見なす存在を実は有り難がり、彼らに手を下させてイエスさまを葬り去ろうとしたのでした。それも、のろわれた者に仕立て上げてです。どこまでも彼らは卑怯でした。 そんな彼らの宗教的な一貫性とは、いったい何でしょうか。神の前に誠実であることでしょうか? もしそうならば、彼らはイエスさまを信じたはずです。イエスさまを王としなかったことに、深い悔い改めを表明したはずです。しかし彼らのしたことは、高い地位の保障されているわが身を守ることでしかありませんでした。 みなさまにわかっていただきたいことですが、牧師のような献身者になると、自動的に神さまとの交わりを持つようになり、したがって普通の人よりも何倍もきよくなるわけではありません。むしろ神さまは、そのような者たちに対し何倍も重い責任を負わせられます。ヤコブの手紙3章1節に書かれているとおりです。 考えてみてください。イエスさまは宗教指導者たちを指して、人々に、「彼らの言うことは聞きなさい。しかし、彼らの行いをまねてはなりません」とおっしゃいました。いったい、言うことが正しくても行いが正しくない人など、果たして神の御前に正しい人と言えるでしょうか? イエスさまは、そのように「モーセの座を占め、天国の鍵を持っていながら」、人々を間違った方向に導く者たちのことを、それでも愛しておられました。 彼らが神の国に不必要ならば、イエスさまはたちどころに彼らをさばかれ、地獄に落とされたことでしょう。しかし彼らはイエスさまを前にして、いのちを長らえました。イエスさまを十字架につける大それたことをしても、なお生きていました。それは、生かされたということです。 しかし、このような立場にある人は、私のような教職者にかぎりません。イエスさまの愛をもって人々に関わっている人ならば、私たちだれしも、この宗教指導者たちと同じ立場にあると言えます。私たちはみな、さばきの前に立っています。 しかし、私たちがみなこのように、神さまのさばきの前に立っているということは、何を意味するのでしょうか。それは、神さまが私たちのことを嫌っておられ、いつでもさばきの前にさらしておられるということではありません。 わたしの愛する羊たちを、責任をもって飼いなさい、わたしはペテロを愛したように、あなたのことを愛しているよ、と、イエスさまに言っていただいているということです。私も愛されている者として、イエスさまの愛でみなさまを愛します。みなさまもその愛で、互いに愛し合う人となっていただきたいのです。宗教指導者たちのように、イエスさまなど関係ない、形だけの宗教人になっていただきたくないのです。それはとても不幸な生き方です。ともにイエスさまの愛の中にとどまれるように、私たちにとっての教会形成がふさわしい方向に行きつづけるように、お祈りいただければ感謝でございます。 二番目に、ユダヤの民衆を見てみましょう。彼らはつい何日も前ではなく、イエスさまを歓喜に満ちてエルサレムにお迎えした人々でした。彼らはイエスさまに何を期待したのでしょうか? イエスさまこそ、ローマの支配からわれら神の民を解放してくれる王さまだと期待して、イエスさまを迎えたのでした。しかし、イエスさまのなさったことといえば、エルサレム神殿に巣食う商売人たちを追い出したり、姿をくらましたり、人々の前に王として堂々と君臨する姿とは、かなり異なっていました。 その間に宗教指導者たちは、イエスさまは王ではない、大胆不敵にも自分を神とする不逞の輩だと、民を抱き込みました。民は宗教指導者たちに扇動され、ピラトの総督官邸に押し寄せました。イエスを十字架につけろと迫りました。 ユダヤの民衆は、もちろん、自分たちが創造主なる神さまの民であるという自覚を持っていました。そんな彼らはどれほど、自分たちに圧力を加えてくるローマを憎悪したことでしょうか。しかしここでは、イエスさまを葬り去るためなら、ローマの国家権力におもねることさえしたのでした。 そんな彼らは、イエスさまを決して許そうとしませんでした。暴動のかどで処刑されることになっていたバラバを釈放せよとさえ迫りました。 バラバのしたことは、それこそ十字架につけられるにふさわしい重罪です。それを釈放したら、自分たちの安全はどうなるというのでしょうか。自分たちの安全や社会の秩序と引き換えにしても、イエスさまのことを十字架につけようというのでしょうか。 怖ろしいのは群集心理です。イエスさまが自分たちにとっていちばん大事なお方、王さまだったのは、ついこのあいだのことだったというのに、同じ民が同じお方を極悪人に仕立て上げました。信仰を捨てるだけではありません。自分からイエスさまを積極的に十字架につける迫害者になるわけです。宗教指導者たちに扇動されたとか、自分たちの勝手な期待が裏切られたように感じたとか、理由はいろいろあるでしょうが、いかなる理由であれ、彼らがイエスさまを見捨て、裏切ったという事実に変わりはありません。 しかし、そんな彼らも、のちにはペテロの説教で悔い改めに導かれ、イエスさまを受け入れました。彼らのひどい罪は赦されたのでした。 かつて日本のキリスト教会は、国家権力による宗教政策に懐柔され、イエスさま以上に天皇を神として優先させる生き方をしました。信徒たちは、それが当たり前のことと教えられながら生きました。あたかもイエスさまの時代のユダヤ人が、イエスさまを十字架につけることこそ神に奉仕することだと思わされていたようにです。 日本の教会がその歴史を背負っていることを、私たちは今に至る同じ歴史を共有する者として、決して忘れてはなりません。私たちは日本に大いなる信仰の復興が起こることを願っていると思いますが、そのためには、自分もまた先祖たちと同じようにイエスさまを裏切り、十字架につけた罪人であるという自覚を持ち、悔い改める必要があります。 彼らのことを安全な場所から見下ろしてさばいてみても何も始まりません。私たちがすることは、彼らをさばくことではなく、彼らの罪を自分の罪として悔い改めることです。 私たち教会もいわば「集団」ですが、私たちひとりひとりの悔い改めが充分ではないならば、教会というその「集団」を支配する論理は、罪人の論理、すなわち、イエスさまを十字架につけるほどの罪の論理となってしまいます。少なくとも主のからだなる教会においては、そのようなことがあってはなりません。ともに自分たちの罪を認め、徹底した悔い改めを行いつづける私たちとなりますようにお祈りいたします。 第三の立場、それはピラトです。ピラトは、イエスさまを十字架につける権威も、釈放する権威もありました。ということは、ピラトは畏れ多くも、神の子をさばくということをしていたのでした。 ただしピラトは、神の民に属する者ではありませんでした。神の民に属さない者が、神の子をさばく構図です。言ってみれば、クリスチャンではない人がイエス・キリストというお方をうんぬんするのに似ています。 イエスさまは本来、このような立場の者にご自身をお委ねになる筋合いはないはずです。しかしイエスさまはこのようにして、この世の法廷に引き出され、ご自身を委ねられました。この世のさばき主としてイエスさまの前に立つピラトは、イエスさまに問います。「あなたはユダヤ人の王なのか。」これに対してイエスさまは問われます。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」 イエスさまが問われたこの問いはきわめて重要です。それはピラトにとっての「ユダヤ」が、単に自分がローマの権威によって治めている一地方か、それとも神の国かという、天と地ほどのちがいをもたらすからです。 私たちは新聞やニュース番組などで「イスラエル」ですとか「ユダヤ」などといった固有名詞を見聞きしますが、それそのものが聖書の語る「イスラエル」や「ユダヤ」を指しているわけではありません。つまりそれそのものが「神の国」を意味しているわけではありません。でも私たちは聖書を読むときに「イスラエル」ですとか「ユダヤ」という固有名詞が出てくるなら、それを「神の国」という意味に読み替えます。もちろん、すべてがすべて読み替えられるわけではなく、文脈にしたがって読み替えるわけです。 私たちはこのように、この固有名詞の持つ二重性を理解して用いていますが、一般的にはそうではありません。ピラトもユダヤの宗教共同体に属していない以上、この世の一般人です。イエスさまのご質問は、あなたはわたしのことを神の国の王と認めているのですか、それとも、あなたの治める地域の指導者たちが言うからあなたはそう言っているだけですか、と、ピラトの心の中を探るおことばでした。 しかしピラトは、私はユダヤ人なのか、そうではない、と答えます。ユダヤ人としてあなたのことが王かどうか知りたいわけではない、ということです。ピラトはユダヤの総督でしたが、ユダヤの、わけても信仰共同体とは、はっきり一線を引きました。 これにつづいてピラトは、あなたの同胞と祭司長たちがあなたを私に引き渡した、と答えました。あなたがほんとうにユダヤ人の王ならば同胞や宗教指導者たちがあなたを私に引き渡すなど、おかしいじゃないか、というわけです。 しかし、イエスさまは、わたしの国はこの世のものではありません、もしこの世のものであったならば、わたしのことをユダヤ人たちに引き渡さないようにわたしのしもべたちが戦ったはずだ、とお答えになりました。 イエスさまのこのおことばからは、2つのことが見えてきます。第一に、イエスさまはこの宗教国家としてのユダヤの王ではない、ということです。ユダヤ人たちや宗教指導者たちがイエスさまを自分に委ねるとはどういうことだ、と、ピラトが首をひねりましたが、イエスさまの国がイエスさまを迫害するユダヤと同じではないという前提に立てば、それで納得できます。 しかしそれ以上に大事なのは、イエスさまの国はこの世の国ではない、ということです。この世の国は安寧秩序を保つために、軍隊という暴力装置を備えるものです。しかし、平和の王であるイエスさまが治める神の国は、そのような暴力は存在させないことが大前提です。だからペテロが剣を取って兵士に襲いかかったとき、イエスさまがそれを戒められ、ペテロの暴力で兵士が負った傷をその場でいやされたのでした。 このお答えに、ピラトはもう一度尋ねます。「それでは、あなたは王なのか。」ピラトはどのような思いでそう訊ねたのでしょうか。興味本位ででしょうか。怖れに駆られてでしょうか。自分もこのお方を王と認めようという思いが生まれたからでしょうか。それとも、王を名乗るこのお方を傲然と見下ろす態度ででしょうか。それは、聖書が語っていない以上、わかりません。 わかっているのは、ピラトが「あなたは王なのか」と問うたことだけです。しかし、これに対し、イエスさまのお答えになったおことばははっきりしています。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」 このおことばからわかることは、イエスさまは真理を証しする王さまであること、イエスさまを王としてお従いするとは、イエスさまのみことばに聴き従うことであり、その人が真理に属する人である、ということです。 ここで、イエスさまが弟子たちにおっしゃった、わたしが道であり、真理であり、いのちなのです、というみことばが真実であることがはっきりしました。イエスさまはこのように、畏れ多くも神の子をさばく異邦人の総督ピラトに、真理に属せよといういのちの道をお示しになりました。 ピラトはそれに対してひとこと言いました。「真理とは何なのか。」これまた聖書は、ピラトがどのような感情を込めてこう言ったのかについて沈黙しています。イエスさまのおことばに心を刺され、動揺してそう言ったのでしょうか。あまりにも自分には理解を絶することをおっしゃるイエスさまに対して、そんなことわかるものかと、吐き捨てるように言ったのでしょうか。わかりません。 しかし、はっきりしていることがあります。ピラトはこのおことばを聞いてすぐ、イエスさまを死刑にしない、過越の祭りの恩赦で釈放してやろう、と心を決め、群衆の前に出ていったということです。 しかし、ピラトのこの決心は水泡に帰しました。群衆は、イエスを十字架につけるためならあの札付きのバラバを釈放してくれていい、とすら言い放ったのでした。ローマ総督という権威を帯びた人間、かつてはガリラヤ人を虐殺したような暴力的な政治家としての実績、そんなことも吹き飛んでしまうほど、いまピラトはとても弱い立場にいました。 ピラトは、真理とは何かを知るべきでした。真理とは何なのか、その問いを口から出したならば、まことの真理であるイエスさまに食い下がり、いのちを得るべきでした。真理とは何か。国立国会図書館のカウンターの文字を見た人は、その膨大な蔵書を秘めた図書館に来ている安心感から、いかにも真理がそこにあるかのように思うかもしれませんが、真理は十人十色の人間の中になどありません。…

神の弱さは人よりも強いから

聖書箇所;ヨハネの福音書18:1~27/メッセージ題目;神の弱さは人よりも強いから  今月1か月間は、イエスさまの受難について、ヨハネの福音書18章、19章から学びます。この箇所、イエスさまの受難にまつわる学びは、もうみなさまの長いクリスチャン生活で、何度となく学んでこられたことと思います。そこで本日は、主題を決めてのメッセージとまいりたいと思います。題して「神の弱さは人よりも強いから」。  言うまでもないことですが、神さまはこの世のどんな存在よりも強いお方です。世界のすべてを創造され、世界のすべてを司っておられ、最後にはこの世界をすべておさばきになります。およそ神さまほど、「弱い」という形容詞が似合わない方はおられません。  また、神さまはすべての知恵の根源でいらっしゃいます。神さまは知恵と英知をもってこの世界を造られ、この世界を動かしていらっしゃいます。およそ神さまほど「愚か」という形容詞が似合わない方はおられません。  そのように神さまのことを理解している私たちですから、コリント人への手紙第一1章25節のみことばを読むと、なんというか、違和感を覚えないでしょうか?「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」。神さまが愚かとはどういうことでしょうか? また、神さまが弱いとはどういうことでしょうか?  この第一コリント1章の語ることは、十字架とは人の目には愚かに見える神の知恵である、ということです。また、神の弱さ、ということに関しては、第二コリント13章4節をお読みすると出てまいります。ここには、キリストは弱さのゆえに十字架につけられた、とあります。この地上を生きられた主は、人と同じ姿になられ、弱さを身にまとわれました。しかしそれは、まさしく、十字架という最高の強さ、力を、信じる人々に与えてくださるためでした。 このように、十字架を神の最高の知恵、最高の力と受け入れた者だけが、神さまのもとに行き、永遠のいのちをいただくことができるのです。私たちは、自分の暮らし向きを誇るべきではありません。誇るべきはイエスさまの十字架です。また私たちが知っているべきことは、イエスさま、すなわち、十字架につけられたお方のことだけです。十字架が神の力、神の知恵であるということは、十字架が私たちの力、私たちの知恵であるということです。 この前提で本日の箇所を読み解いていこうと思います。イエスさまは、十字架という神の力、神の知恵を成就されるにあたって、お祈りをされました。並行箇所を読んでみますと、それはただのお祈りではりません。 それは苦しみの果ての、汗が血のしずくのように流れ落ちた祈りです。イエスさまはできることならば、この杯が自分から過ぎ去るように、と祈られました。それは、責めと恥を受けることだからでしょうか? 極限の苦しみにさらされることだからでしょうか? それもあったでしょう。しかし、最大の理由は、御父から捨てられることだったのでした。 本来ならば私たちこそが捨てられるべきでした。捨てられるにふさわしい罪人だからです。しかし、そのすべての罪をイエスさまに背負わせられ、きよい御前からお捨てになることが、神の知恵でした。神の力でした。その力を前にして、イエスさまは無力だったと見るべきでしょうか? いいえ、十字架を背負うというまことの力を得られるように、祈りにおいて勝利するように、御使いが現れてイエスさまを力づけました。 さて、この祈りの場に伴われたペテロは、イエスさまのお別れのことばを聞いたとき、いいえ、私はあなたさまにお従いします、死ぬことも覚悟しています、と言いました。それははずみで言ったのではなく、本心にちがいありません。しかしイエスさまは、鶏が鳴く前にあなたは三度わたしのことを知らないと言います、と予告されました。三度言う、完全に知らない、と、人々の前で宣言するということです。 そんなペテロはどんな思いでイエスさまの祈る姿を見ていたことでしょうか。これまで見たこともなかった弱い姿、慟哭する姿、みこころにお従いしようと激しく葛藤する姿……ペテロはあまりに悲しくなりました。涙さえ流れてならなかったことでしょう。しかし、涙が流れつづけるなら、それはまぶたが重くなることを意味していました。心はイエスさまのために燃えようとも、肉体は弱かったのです。人の弱さが現れました。しかしイエスさまの十字架は、そのような弱さから人を贖い出す、神の力であったのでした。 しかしペテロは、いざイエスさまが逮捕されそうになったとき、蛮勇を振るって、その兵士の耳を切り落としにかかりました。言わば人の強さです。しかしイエスさまはペテロを戒められ、十字架を負われることを堂々と宣言されました。 人の強さはイエスさまに十字架を負わせなくさせるかのようでした。しかし、そうなったら、人が救われる道は永遠に閉ざされます。イエスさまは十字架を負わなければならなかったのでした。 かつてペテロは、イエスさまが十字架におかかりになると予告されたとき、そんなことがあってはなりませんとイエスさまを諌めました。しかしイエスさまは、ペテロに向かって、なんと、下がれ、サタン、と一喝されたのでした。 サタンは、人の強さを利用します。屈強な漁師だったペテロは、自分は強いと思っていたことでしょう。そんな強いペテロから見れば、自分の師匠であるイエスさまが人々から捨てられるなど、耐えられないことだったことでしょう。ペテロは、自分の強さでイエスさまを守ろうとでも考えたのでしょうか。しかしそれは、神さまのみこころを成り立たなくさせようという、悪魔の導きというもので、イエスさまはそれに対して、断固として「ノー」を突きつけられました。 イエスさまはこのようにペテロを一喝されてから、おっしゃいました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」そうです、イエスさまがペテロをはじめ、弟子たちにお求めになった姿勢は、強くなることではありません。キリストのあとを従うために、弱くなることでした。 そんなペテロは、結局は鶏の声を聞くことになったのですが、その声を聞くに至るまで、3つの弱さを突きつけられました。 まず、ペテロは、嘘も方便とはいえ、嘘をつくことでしかイエスさまに近づけなかったという弱さを突きつけられました。 ペテロは、イエスさまについていきました。しかし、大祭司の中庭の門の外に立っていました。それを見かねた弟子が門番の女性に頼み、ペテロを中に入れさせました。しかし、門番の女性はペテロに尋ねました。「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。」そのときペテロは、ちがう、と言って、中に入りました。 ここで注目すべきことは、ペテロがイエスさまに近づこうとして、嘘をついた、ということです。いったい、イエスさまにお近づきするとはどうすることなのでしょうか。イエスさまのことを知らないという者のことを、イエスさまも知らないとおっしゃると、厳重に警告されていました。ペテロは一見すると、イエスさまのそばに近づいているようでしたが、イエスさまのことを知らないなどと嘘をついて近づいている時点で、もう、イエスさまが遠ざかるような行いをしていたのでした。 これがペテロの弱さであり、人の弱さです。いざというときに人は、妥協します。イエスさまにお従いします、裏切りません、と誓ったペテロのことばは本心からものでしょう。しかしペテロはいざとなると、イエスさまを知らないと言い、単なる興味本位を装って近づくという行動に出たのでした。 私たちもまた、いざというとき、いや、私は単なる教養のため、お勉強のためにキリスト教を学んでいるのだ、などとしらを切り、イエスさまにお従いしていることを否定したりはしないでしょうか? いや、自分はそうはならない、とおっしゃいますか?  しかし、イエスさまにならって多くのわざを行なったペテロが、イエスさまを見つめて水の上を歩くことさえしたペテロが、いえ、「あなたは生ける神の御子キリストです」という、百点満点の信仰告白をしたペテロが、嘘をついてイエスさまを否定したことの意味を、私たちはもっと自分のこととして考える必要があります。 いえ、私はキリストについていっていました、私は礼拝をきっちり守っていました、こんなことばをイエスさまの前で言おうとも、いざというときの言動で否定してしまう弱さ、それが私たちの中にあることを、私たちは素直に認めたいと思います。 ペテロの第二の弱さ、それは、わが師、わが主が、目の前で法廷に引き出され、なぶりものにされているという事実です。 ペテロの見ている前で、イエスさまは大祭司の尋問を受けていました。イエスさまのお答えに、嘘偽りがあろうはずがありません。しかし、大祭司の下役は、何の権限があってそんなことをするのか、答え方が悪い、と、縛られたままのイエスさまのお顔をぶちました。 そのような光景を見ていたペテロは、いのちを懸けてついて行っていたわが主、わが師匠が、ほかならぬ宗教指導者たちによって完膚なきまでに否定されるという、その有様を見つめつづけるしかありませんでした。 ペテロはもしかすると、ここでイエスさまが神の子としての権威を大いなる御業によって示され、このような目にあわせる宗教指導者どもをたちどころに滅ぼされることを夢見たかもしれません。しかし、何も起こりませんでした。イエスさまはただ、ほふられる羊がほふり場に連れて行かれるかのように、この者たちの暴力やあざけりに身をお委ねになるばかりの御姿を見るのみでした。 これは、神の弱さです。あたかもそれは、宗教指導者という人の強さ、というよりも、罪人という人の強さが、神の弱さを凌駕しているかのようです。ペテロはその姿を見て、その弱いお方を主と告白し、師としてお従いしていたという事実に、あらためて愕然としたのでした。 ペテロは少し前に、イエスさまをこのような目に合わせる者の耳を切り落とす刃傷沙汰に及ぶほど、イエスさまを守ろうという思いでいっぱいでした。まるでそれは、神の弱さを人の強さで守ろうとするようなものでした。 しかし、その剣をイエスさまに取り上げられ、なすすべもなくなったペテロは、今や、神の弱さの前に人の弱さをさらけ出している、きわめて無防備な状態にありました。不遜にも神の弱さに襲いかかる宗教指導者という罪人の強さは、いまや自分という罪人の弱さを呑み込もうとしていることを思い、ペテロは言いようもない恐怖に取りつかれていました。 しかしこの神の弱さは、罪人をさばきます。神に勝ったと豪語するような罪人は、最終的にイエスさまの十字架によって完膚なきまでに滅ぼされます。この宗教指導者どもも、イエスさまをさばいて有頂天になっていたかもしれませんが、彼らこそが究極のさばきにふさわしいものとされていたことに、彼らは気づいていませんでした。 ペテロも、いまここで目の前に繰り広げられるイエスさまの凄惨なお姿、すなわち神の弱さに、実は自分が弱くされるのではなく、この上なく強くされていることに気づくべきでした。しかしこのとき、ペテロはそれを知るにはあまりにも弱すぎました。イエスさまの弱さを受け入れられないほど、ペテロは弱かったのでした。イエスさまのみあとを従って自分の十字架を背負ってついていくなど、今のペテロにはとんでもないことでした。 私たちも、イエスさまが十字架を背負われるこの場面を見て、目をそむけたくなるかもしれません。自分もそうなってしまったらどうしよう、そう思いませんか? でも、その一方で、そんなことを思う弱い自分は救われないかもしれない、そんなことも思いませんか?  しかし、神さまは、十字架を背負う備えにまだ至っていないクリスチャンが、そのように十字架を背負う自己犠牲の生き方ができなかったとして、そのことでその人をおさばきになるようなお方ではありません。イエスさまは、人がそのように弱いことをご存じです。なぜならイエスさまご自身が、弱い人間としてこの世界を生きられたからです。弱い私たちに同情することがおできになる方です。 いま私たちは、イエスさまのみあとをお従いするなどとてもとても、と思うかもしれません。でも、そんな自分を正当化しないで、それでもイエスさまのみあとを従っていける人になれますように、と、ともにお祈りするなら、それでいいのです。 イエスさまが十字架を背負われるために人のさばきを受けられたように、私たちも人のさばきを受けるがごとき迫害に引き出されることを恐れているでしょうか?  いえ、恐れていいですし、恐れるのが当然です。しかし、その恐れる私たちのその罪を十字架で引き受けるために、あえてイエスさまが人々の前で弱い姿を取られたことを、私たちは忘れないでまいりたいものです。 まさしく、神の弱さゆえに、私たちは神さまにお従いする強さをいただくのです。私たちのために弱くなられたイエスさまは、復活してこの上なく強いお姿で、いま私たちとともに歩んでくださっています。イエスさまから力をいただきましょう。 ペテロの第三の弱さ、それは、鶏が鳴くことを知っていたのに、それに備えられなかったことです。 イエスさまははっきり、鶏が鳴く前に3度あなたはわたしを知らないと言います、と予告されました。ペテロはこの警告に、相当なショックを受けたのではないでしょうか。しかしその一方で、鶏が鳴くとはどういう意味だろうか、と思ったかもしれません。 果たしてペテロは、3度にわたってイエスさまを知らないと言いました。3度目のことばに至っては、ほかの福音書の並行箇所を読むと、嘘ならのろわれてもよいと誓って「知らない」と言った、とあります。 ペテロは、これまでのイエスさまとの3年間の生活を、すべて「嘘」と片づけんばかりの勢いだったのでした。このイエスさまとの生活が嘘ではなかったならば、私は呪われたってかまわない。このときペテロは、まさかその直後に鶏が鳴くなどと、考えてもいなかったのでした。ということは、イエスさまの警告を信じてはいなかったということです。 実は、鶏が鳴くとイエスさまが警告されたことには、意味がありました。マルコの福音書13章35節と36節をお読みしましょう。 ここに、何と書いてあるでしょうか。鶏が鳴く、と、はっきり書いてあります。これは、世の終わりにイエスさまが再臨されるという文脈で、イエスさまがお語りになったことです。だから、目を覚ましていなさい。あなたがただけではなく、すべての人が。 こうして見ると、イエスさまが「鶏が鳴く」とおっしゃったことばのとおりになったのは、もちろん、単なる偶然という問題ではありません。でも、だからといって超自然的な預言をされたということにとどまる問題でもありません。 イエスさまのお語りになったことばのとおりになる世の終わりに際して、ペテロが霊的に眠っていたように、主の弟子として歩んできたつもりの者たちも、霊的に眠ってしまい、眠っているところを再臨のイエスさまに見られてしまうという、厳しい警告の込められたできごとでした。 霊的に眠るとは、みことばがよもやそのとおりになるまいと多寡を括る不信仰を意味します。イエスさまが再臨されると語られる以上、私たちのすることは、イエスさまが再臨されると信じることです。イエスさまが再び来られることに備えての準備を、日々怠らずに行うことです。それがみことばを信じるということです。 しかし私たちは、心が燃えていても肉体が弱い者です。イエスさまの再臨に備えなければ! と心が燃えても、その燃える心はなんと一時的なものでしょうか。たいてい私たちは眠ってしまっているものです。 そのように霊的に眠る不信仰に、私たちは絶えず置かれていることを素直に、謙遜に認める必要があります。みことばをそのとおりに信じる信仰は、神さまの恵みによってはじめて与えられるものです。 いえ、私は創世記1章1節から黙示録22章21節まで、聖書全体を信じています、とおっしゃいますでしょうか? それは結構なことですが、みことばを信じているということは、行いがそのとおりになっているということで証明されるものです。残念ながら私たちは多くの場合、信じていると口で言うほどには行いが伴っていないものです。 私たちが、すぐにでもキリストが来られるというみことばを読んでいながら、そのみことばを意識することのあまりに少ない生活を見ると、やはり本心では信じていないという事実を突きつけられます。 私たちは、このような不信仰の者であることをまず認める必要があります。私たちは自分が思っているほど、信仰のある者ではありません。いざというときに眠ってしまう弱さを身にまとっています。だからこそ、いつも目を覚ましていさせてくださいと、主に祈りつづける必要があります。私たちにその信仰がいつも保たれ、いつも祈りつづける者となりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 ペテロの弱さは、私たちの弱さです。人前でイエスさまを知らないと言いながらイエスさまについて行こうとしてしまう弱さ、イエスさまのあとをついて迫害を受けることを避けてしまう弱さ、再臨に結実するみことばを信じきれない弱さ……。…

慰められる者も、叱られる者も、愛されている

聖書箇所;ヨハネの黙示録3:7~22/メッセージ題目;慰められる者も、叱られる者も、愛されている  3月11日が近づいてきました。そうです、あの東日本大震災から10年です。つい先日、またもや大きな地震が福島県と宮城県を襲い、その影響は私たちの町にまで及びました。私たちが今なお地震というものを意識し、コロナに備えて防疫を意識するのと同様、防災を意識する必要がある、気が抜けない、ということを思わされています。  現在私たちは、エペソの7つの地域にある教会から学んでいます。実はこの地域小アジアは、西暦17年に大地震に見舞われ、町が壊滅しました。そのことの持つ意味はのちほどあらためて語りますが、地震という現実の中、いやでも終末ということを意識させられていた彼ら小アジアのクリスチャンたちにとって、ヨハネの黙示録は終末のまことの希望を説くみことばとして、どれほど慰めを与えることばとなったことかと思います。  今日は7つの教会のうち最後の2つの教会を、まとめて扱います。読み比べると、きわめて対照的なおことばがかけられています。フィラデルフィア教会には慰めのことば、ラオディキア教会には叱責のことばです。 しかしそれなら、フィラデルフィアはみこころにかなって合格で、ラオディキア教会は失格なのでしょうか? そうと断言することはできません。大事なのは、どちらの教会にも愛なる神さまがお語りになり、あなたがたを愛している、と、親しく語りかけてくださっていることです。   愛しているということを伝える表現は、時と場合によって違います。ある人にはやさしいことばをかけつづける必要があるでしょうし、またある人には、厳しいことばをかけることで、その人を愛していることを示す必要があるでしょう。要は、どんな態度、どんな心で、その人に接しているかです。   神は愛です。だから、神さまが愛している存在、私たちクリスチャンに対しての神さまのお取り扱いは、いつ、どんなときにも、愛です。厳しくされているようでも愛です。冷たくされているようでも愛です。 神さまはこの2つの教会に、それぞれ、どのように愛を施してくださったのでしょうか? そして私たちはそこから、何を学ぶことができるでしょうか? 私たちがどうすることが、神さまのその愛にお応えすることでしょうか? ともに学んでまいりたいと思います。   まずは、フィラデルフィア教会にイエスさまがどのような愛をお示しになったか、見てみましょう。7節、8節をお読みします。   イエスさまはここで、ダビデの鍵を持っておられるとあります。そのダビデの鍵を持つお方が、イエスさまの名を否まなかったあなたの前に、だれにも閉じることのできない門を開いておいたとお語りになりました。   門とは、天国の門、新しいエルサレムの門です。フィラデルフィアもそうでしたし、この時代の都市は、周囲に壁がめぐらされている「城塞都市」でした。よそ者はおいそれと入れないようになっていました。入るには門を通らなければなりません。   フィラデルフィアは大きくて有力な都市でしたが、そのような町もさきほど申しました地震という自然災害の前には無力でした。たびたび起こる余震のたびに、人々は建物が崩壊する危険のある都市部を避けて、門から出て、治まって危険がないようならまた門から入るを繰り返しました。 そんなとき、門が閉まっていたら大変です。門が開いているかどうかは、まさしく、彼らの生活に直結した問題でした。そんな彼らにとって、門というものはとても近しいものでした。門と聞くと、天国、新しいエルサレムに入るためのまことの羊の門、イエスさまをすぐに連想したはずです。   天のエルサレムの門はしかし、そこにふさわしくない者には開かれません。ふさわしくない者が天国に入ったら、もうそこを天国と呼ぶことはできなくなります。そこでサタンは、人が天国にふさわしくない者になり、サタンと永遠の滅びをともにするように、あらゆる誘惑を仕掛け、自分の欲望にひかれて罪を犯し、もはや神の前に出ていかせないようにします。要するに、天国の門を閉じさせようとしたり、天国の門がどこにあるかわからないようにくらましたりするのです。  しかし、イエスさまは、その御名を否まないだけの信仰を、ご自身のみこころにかなう人に残してくださいます。フィラデルフィアの聖徒たちにもその信仰を残してくださったのでした。そういう人の前には、さあ入りなさい、あなたのすることは入ることだけです、と、天国の門を開いてくださいます。 この門はイエスさまが開いてくださった以上、人にも、サタンにも、閉じることはできません。入りなさい、とおっしゃっている以上、私たちは入るのみです。  ただ、イエスさまは、ご自身の名を否まなかったという行いそのものを評価して、人を御国に招いてくださるのでしょうか? たしかに、人前でイエスさまのことを知らないという人のことを、さばきの日にはイエスさまも知らないとおっしゃいました。そのおことばが私たちを従順に駆り立てるという要素も、たしかにあるだろうと思います。 しかし、ここでイエスさまがおっしゃっている「少しばかりの力」とは、ほんとうに文字どおり、「少しばかり」の力なのです。目に見えないほど小さな力です。さて、目に見えないほど小さい、といえば、何か思い出さないでしょうか? そうです、イエスさまがおっしゃった、からし種ほどの信仰です。 ほこりの粒のように小さいその種が蒔かれると、空の鳥が巣をかけるほどの木へと生長するように、イエスさまが大きくしてくださるものは信仰です。信仰とは、行いを生むものです。イエスさまを信じた、その信仰は最初小さくても、やがてその信仰は、いのちを懸けてイエスさまにお従いするほどにまで大きく、たくましくしていただけます。そういう信仰を持つ者として、イエスさまは天国に迎え入れてくださるのです。この信仰を大きく成長させてくださるのは、神さまです。 このみことばは、イエスさまの名を否ませる勢力が世に存在することを暗示しています。9節をご覧ください、にせユダヤ人、すなわち、サタンの会衆に属している者が、神の教会、キリストのからだなる教会を攻撃してくるというわけです。しかし、たとえからし種ほどのように小さく、また人には見えなくても、確実に信仰を与えられている者に、神さまは勝利を与えてくださいます。 にせユダヤ人とありますが、これは平たく言えば、「神さまを信じていると主張しても、神のひとり子キリストを信じない」人たちのことです。より正確に言えば、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、復活され、天に昇られ、のちにこの世をさばくために来られ、ご自身を信じる人たちを天国に入れてくださるお方であることを、信じない人たちです。 イエス・キリストを信じて初めて、人は神さまを信じたことになるのであって、神さまを信じているというだけでは、ほんとうの意味で信じていることにはなりません。このような世界は、イエスさまを憎み、イエスさまにつく私たちのことを憎みます。 しかしイエスさまは、9節にあるとおり、このような私たちのことを愛してくださいます。私たちはこの地上では人々から憎まれ、苦しめられますが、終わりの日にはイエスさまを信じる信仰のゆえに、永遠のいのち、天国という名の勝利を与えていただきます。 10節をご覧ください。全世界とはどこでしょうか? このみことばが語られた時代、地上に存在するどのキリスト教会においても、患難が存在していました。そういう意味では、全世界の教会は患難のもとにあったのでした。そうだとするとこのみことばははるか遠い未来のことを指していたわけではなく、まさにさらなる患難の中に投げ込まれようとしていたフィラデルフィア教会に語られたことばであることが分かります。 しかし、患難はこれで終わったわけではありません。それ以来2000年間、すべてのキリスト教会は患難の中にありました。キリスト教会の存在してきたこの世界が新しいエルサレムの中にあるのではなく、依然として罪の支配する世界、キリストに敵対する世界に生きている以上、患難は続いているのです。 それは、いわゆるキリスト教国と呼ばれた欧米にある教会とて例外ではありません。ほんとうの意味でキリストに従う人はいつも少数であり、そのような人や教会は苦しい思いをさせられてきました。いわんやこの日本においては、私たちクリスチャンはどれほど苦しみの中にあることでしょうか。 11節、「わたしはすぐに来る」。これが、2000年間語られてきたイエスさまのメッセージです。クリスチャンは、罪人の支配するこの世界で苦しむゆえに、イエスさまが来られて、私たちを天国に導き入れてくださることを待ち望むのです。そんな私たちにとって、イエスさまのこのみことばは慰めでありつづけています。 イエスさまはまだまだ来ない、もう来ない、などと思って、好き勝手なふるまいをするクリスチャンには、希望がありません。ただ、神さまではなく、人にどう見られるかを気にして、形ばかりの信仰生活を送っているだけです。 イエスさまは私たちを永遠の王として天国に迎え入れてくださるにあたり、王の冠を備えてくださいました。この、世の終わりの最高の栄光を見つめ、その日その日に主の栄光をあらわしつつ生きることなしには、私たちの人生に意味はありません。 サタンは神さまに嫉妬して、神さまに愛されている私たちに壮絶な誘惑を仕掛けます。私たちの罪がきよめられることを日々願い、悔い改めの生活を続けていないならば、私たちはいとも簡単に罪を犯し、救いにふさわしくない生き方に陥ってしまいます。 そうなると、私たちに用意された冠を見失ってしまいます。それが果たして、神の子どもとしてふさわしい生き方でしょうか? 地上の生涯とは、終わりの日にイエスさまから冠をいただき、イエスさまとともに永遠に統べ治める者とならせていただく備えをする時間です。忘れないでまいりたいものです。 そして私たちは、終わりの日に勝利を得て、神殿の柱とされるとあります。私たちは、いやだ、なりたくない、と思いますか? しかし、そうではありません。この地上で私たちの知っている、神殿と呼ばれる壮麗な建物が、むしろ、天国で永遠の礼拝をささげる私たちにかたどって造られているのです。 地上の神殿はどこまでも人間の手による建物であり、また、壊れます。しかし、天の神殿は、永遠に神さまのみそばで神さまを礼拝する私たちの麗しい姿です。私たちは永遠に神さまのみそばを離れません。何と感謝なことでしょうか! このように、神さまはフィラデルフィア教会の兄弟姉妹を愛されるゆえ、この天国のビジョンを示してくださり、この上もなく慰めてくださっています。 さて、それでは、ラオディキア教会のほうにまいります。ラオディキアは豊かな都市でした。純金が取引される金融の町、衣類の生産される町、また、目薬の生産で名高い町でした。これらの町の特徴が、イエスさまの語られた警告のみことばと深い関連がありますが、それはのちほど見てまいります。 西暦17年の地震のことをさきほど申しましたが、ラオディキアはその大震災で町が壊滅した後、ローマ政府による援助を拒否し、自力で再建しました。それほど経済的に豊かであり、都市として活力がありました。また、大都市としてのプライドがあったわけです。 そういうことを前提に17節のみことばを読んでみると、「あなたがたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っている」というイエスさまの見立ては、むべなるかな、といったところですが、イエスさまはそれにつづき、「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」と、きわめて辛辣な評価を下していらっしゃいます。 どういう点で彼らは叱責される教会だったのでしょうか? 15節、16節です。……ラオディキアは水資源が不足していて、北に9キロ離れたヒエラポリスとコロサイから水道を引いていたといいます。 ヒエラポリスは温泉で名高く、熱いお湯を引き、冷たい水で定評のあったコロサイからは飲み水を引きました。しかし、それだけの距離を流すと、お湯は冷め、水はぬるくなります。硬度の高い硬水はミネラル分が多すぎて、おいしくありません。 教会の応接室には、本田弘慈先生が揮毫された「霊に燃え、主に仕えよ」の色紙が額に入れて飾ってあります。牧師を引き継ぐにあたって宇佐神先生にプレゼントしていただいたものですが、いかにも、戦後の日本のキリスト教会で大いに用いられた本田先生らしいおことばで、これはローマ人への手紙12章11節のみことばです。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」熱く燃えることは素晴らしいことであり、必要なことです。 しかし、冷たいことも必要です。「人の気持ちがわからないなんて、冷たいヤツ」という意味ではありません。箴言25章13節には「忠実な使者は、これを遣わす者にとって、刈り入れ時の冷たい雪のよう」とありますし、同じく25節には「遠い国からの良い消息は、疲れたたましいへの冷たい水」とあります。 イエスさまは、ご自分の弟子だからと一杯の水を飲ませる者は報いから漏れない、ということをおっしゃいましたが、まさにのどがからからに渇いたときの冷たい水です。その水を差し出すことは、キリストの弟子を愛することを実践することであり、それがすなわちキリストを愛することです。こうして見ると、熱いことは神さまに対して、冷たいことは人に対して、それぞれ愛を実践することの象徴と言えそうです。 ラオディキア教会は、神さまに対して熱心でもなく、人に対して親切でもなかったようです。そういうものはぬるくてご自身のからだの中に取り込めたものではない、吐き出すぞ、というわけです。イエスさまが吐き出す、ということは、キリストのからだの中から吐き出す、ということであり、それはつまり、キリストのからだなる教会の中から吐き出すぞ、という警告です。 あなたがたはみじめだ、哀れだ、貧しい、盲目だ、裸だ……、それなのにうぬぼれているとは何事か……。しかし、イエスさまは、そんな彼らのみっともない状況を目の当たりにされたからと、彼らをそのみっともなさにしたがっておさばきになることはしませんでした。 18節です。ここで、ラオディキアを特徴づける3つのものが登場します。神さまがほんとうに願っていらっしゃることを、反面教師的な皮肉を込めて語られたわけです。 火で精錬された金。精錬といえば何でしょうか? 箴言30章5節を見ると、「神のことばは、すべて精錬されている」とあります。そうです。ラオディキアの金融社会は純度の高い金に価値を見いだしていましたが、ラオディキアの教会は、金よりも貴いみことばを、混じり気のない乳のようにしっかり摂って成長する必要があったのでした。そうすれば、貧しくなくなります。 白い衣。これはこれまでも出てまいりました。天の御国に入るにふさわしい人が着せていただくものです。裸とは、アダムとエバ以来、恥として刈り取ることになった人間の罪の結果であり、これをほんとうの意味で覆うには、神さまに覆っていただかなくてはなりません。 目薬。盲目ではなくなるためです。イエスさまは盲人の目に泥を塗り、それを「遣わされた者」を意味するシロアムの池で洗うことで目が見えるようになる、というみわざを行われました。御父によってこの地に遣わされたイエスさまが、そして御父とイエスさまに遣わされた聖霊なる神さまが、私たちの閉ざされた目を開き、見えるようにしてくださるのです。そのためにはまず、自分は見えていないことを認める必要があります。…