教会とは何か

聖書箇所;コリント人への手紙第一1:1~3/メッセージ題目;教会とは何か  うちの教会の日曜礼拝は今年に入ってから、ヨハネの黙示録を中心に学んでまいりました。それは、コロナ下という世相の中で、世の終わりというものを意識する私たちが、みことばをベースにいかに生きるかを追求する思いで本文を選ばせていただいたからでした。  しかし、私自身がメッセージ作成のために学びを続けているうちに、世間の雰囲気は変わりました。このようなウイルスの流行に一刻も早く歯止めをかけようと、ワクチンが開発され、承認され、多くの人が接種するようになりました。うちの教会でも何人もの信徒さんがワクチンをすでに接種されました。社会的に終末を意識するというより、悲惨な状況を克服しようという雰囲気が起きつつあります。  このような中でも、終末意識に満ちた黙示録からのメッセージを続けることが、果たしてふさわしいことだろうか……祈らされているうちに、私たちにもっと必要な学びは、もう少し現実的なことに対応したことではないかと気づかされました。 コロナ下という状況がまだ続く中で教会がなかなかひとつになれない、来られる人もいれば来られない人もいる……。そのような中で、私たちがこの水戸第一聖書バプテスト教会に連なっているとはどういうことかを、あらためて学ぶ必要があるのではないか……そのような結論に達し、当初の予定を変更し、教会とは何か、ということを学びたいと思います。 ヨハネの黙示録についての学びは、いずれ機会が巡ってきましたら、また学びを再開したいと思います。楽しみにしていらっしゃった方には申し訳ありませんが、ご理解をよろしくお願いいたします。 今日の箇所は私たちにもなじみの深いコリント人への手紙第一の、冒頭の1節から3節までのみことばです。この3節分の箇所を特徴づけるみことばは、なんといっても2節のみことば、教会というものを説明しているみことばです。 コリント教会に充てられたパウロの手紙は、聖書には第一と第二の2通が合わせて収録されていますが、この中でも第一の手紙を読んでみると、特に前半の部分で、かなりきわどい問題が取り扱われているのがわかります。 しかし、それだけではありません。この書簡においては、キリストのからだとしての教会においてわれわれ信徒がその器官であり、手足であるということ、また、愛というものについて美しい表現で語られていること、聖徒の復活について……こういう大事なことも、手紙の後半部分で取り扱われています。ともすると抽象的な表現が多用されている雰囲気のあるローマ人への手紙に比べ、コリント人への手紙第一の方はかなり実際的です。そのような両面性を持つこの書簡において、パウロが最初に語っていることは、教会とは何か、ということです。 この2節のみことばから、教会とは何かということを、私たちは3つのポイントから教えられます。順に見てまいりたいと思います。 第一に、教会とは主イエス・キリストの名が呼び求められるところ、どこも、です。 2節の前半をお読みします。……コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに…… このみことばからわかることは、コリントの教会も、いたるところで主イエス・キリストの名を呼び求める人たちとともに、神の教会である、ということです。同じ神の教会であるということです。その教会はエルサレムに始まり、だんだんとあちこちにできつつあり、コリントの教会もその一つだということです。こんにちにおいては世界中にあり、この水戸第一聖書バプテスト教会もそのひとつです。 何をもって「教会」というのでしょうか? それは「イエス・キリストの名を呼び求めている」ことによってです。イエス・キリストの名が呼び求められていないならば、それは名前だけの教会にすぎません。しかし、イエス・キリストの名前が呼び求められているならば、そのような人の群れは、教会と名乗るにふさわしい存在です。 イエス・キリストの名前を呼び求めることはあたりまえのことではありません。ヘブル人への手紙11章6節にはこのようにあります。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」 イエスさまは神の御子、すなわち神さまであられる以上、このみことばの「神」を「イエスさま」に置き換えても意味は通じます。 イエスさまに近づく者は、イエスさまがおられることと、イエスさまがご自分を求める者には報いてくださることを信じなさい。しかし、イエスさまがおられることを信じ、それ以上に、イエスさまがご自分を求める者には報いてくださることを信じるには、信仰が必要です。 この信仰を人に持たせてくださるのは、聖霊なる神さまのお働きによることです。つまり、イエスさまの御名を呼び求めることは、聖霊なる神さまの恵みがあって初めて可能なこと、成り立つことです。 この、聖霊なる神さまのお働きが臨む恵みによって、イエス・キリストの御名を呼び求める群れは、教会と呼ばれるにふさわしい存在です。 すると、こういう人がいるかもしれません。「イエス・キリストの御名が呼び求められているならば、どんな群れでも教会と呼んでいいのでしょうか?」この問いに対する答えは「イエス」でもあり「ノー」でもあります。まず、大前提として、この問いに対する答えは「イエス」、イエス・キリストの御名が呼び求められているならば、どんな群れでも教会です。 それでは、これが「ノー」となるケースは、どんなケースでしょうか? それは、イエス・キリストの御名を呼び求めておきながら、牧師のような教会リーダーを神格化したり、イエスさま以上に大事なものが教会にあったりするケースです。それはカルトであり、異端です。彼らはイエス・キリストの御名を呼び求めているように見えるのでわかりにくいですが、実際のところは、別のものを崇拝しています。 第二列王記17章を見ると、アッシリアによってイスラエルが滅ぼされた後、サマリアに入植した国々の民は、主なる神さまを礼拝するのと同時に、それぞれの民族の神々も同時に礼拝したとあります。ひどいケースになると、自分たちの宗教的慣習で子どもを火で焼いたとまであります。そんな彼らも、主を礼拝しているにはしています。しかし、そのような者たちは、ほんとうの意味で主を礼拝していると果たして言えるでしょうか? それと同じことで、呼び求めるべきはイエス・キリストの御名だけです。イエス・キリストの御名「だけ」を呼び求めている、すなわち、イエスさまの御名だけに拠り頼んでいる人々こそ、「教会」と呼ばれるにふさわしいのです。 私たちはともすると、イエスさまの御名だけを呼び求めることに満足せず、まるで偶像のような存在を教会に持ち込んでしまいかねない存在です。もし私たちがそうなってしまうなら、もはや私たちは教会ではなくなるのでしょうか。しかし、私たちは過度に心配することはありません。聖霊さまがイエスさまの御名を呼び求める信仰へと導いてくださっている以上、私たちがもしも間違った信仰の歩みをしているならば、聖霊なる主ご自身が私たちの歩みを軌道修正してくださいます。 私たちは恐れることなく、主に拠り頼んでいいのです。私たちは主イエスさまの御名を呼び求めるゆえに、主の教会、主のものです。心から感謝して、主の御名をほめたたえましょう。 第二に、教会は、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた人々の集まりです。 2節の中間にあるとおりです。私たちは「聖なるもの」なのです。驚くべきことではないでしょうか? この罪深い自分の身を思うならば、私たちはどれほど「聖」ということから遠い存在でしょうか? しかし神さまは私たちのことを「聖なるもの」にしてくださったのでした。 それではどのようにして「聖なるもの」となるのでしょうか? 日本においては「聖」と書いて「ひじり」と読むように、一般的な人々には、「聖」の領域に達するには、俗世を捨てて、ひたすら修行に励むというイメージがないでしょうか? しかし、私たちが「聖なるもの」になるのは、私たちの人生経験や努力によることではありません。イエス・キリストによると、このみことばは語ります。イエス・キリストとあります。キリスト、つまり、救い主なるイエスさまが、私たちを救ってくださり、私たちは聖なるものとなるのです。 私たちは本来、罪ゆえに、神さまに向かって越すことのできないギャップを前にしていました。人間は神々をこしらえて、それに礼拝することで聖なる存在になることを目指しました。よい行いを積み重ねることで聖なる存在になることを目指しました。人間理解を深め、人々を啓蒙することで聖なる存在になることを目指しました。しかし、人は何をどうしても、聖なる存在になることはできませんでした。なぜなら、自分の中にある「罪」の問題が解決されていなかったからです。 人に罪があるかぎり、聖なる神さまは、きよい神さまは、人を受け入れることはできません。 しかし神さまは人を愛しておられ、人が罪の中に滅びることを見過ごしにはできません。神さまはどのようになさったでしょうか? 人の受けるべき罪の罰を、神のひとり子イエスさまが十字架の上で身代わりにお受けくださることによって、人を罪と死から救い出してくださいました。 こうして、イエスさまの十字架を信じ受け入れた人は、聖なる存在にしていただきました。ここからわかることは、聖なる存在になることは「ひじり」のような人間的努力によることではなく、神さまの恵みによることだということです。神さまがご計画のうちに、私たちのことを救いに定めてくださり、聖霊なる神さまが私たちのことを、イエスさまの十字架を信じる信仰へと導いてくださり、そうして私たちは聖なるものとなります。 それが、聖なるものとされる、ということです。私たちは信仰の先人の偉大な業績を見ると、それが聖書の登場人物であれ、世界や日本の歴史に残る人物であれ、自分は到底あのようになれない、自分はなんてけがれているのか、俗っぽいのか、とお思いでしょうか? それで落ち込んだり、あるいは、あの人たちは特別でも自分は関係ない、と思ったりしますでしょうか? しかし、私たちはそう思う必要はありません。私たちもまた、神さまによって聖なる存在としていただいています。このことをもっと私たちはしっかりと受け止め、神さまに感謝をしてまいりたいものです。 考えてみてください。第一コリントを読み進めていくと、このコリント教会の信徒たちはいったい「聖なるもの」と呼んで大丈夫なのだろうか、と思えてきはしないでしょうか? あまりにもとんでもない生き方をしています。しかしそれでも、彼らは聖なるものなのです。 同じことで、私たちも聖なるものとされています。私たちは自分の罪深さや平凡さを見て、落ち込むことはないのです。私たちはもはや、罪人として振る舞う必要はなく、聖なるものとして生きることが求められています。 そこで第三のポイントにまいります。教会は、聖徒として召された人たちの集まりです。 みなさん、「召された」ということばを、私たちはどのように用いていますでしょうか? 先日、私たちの兄弟が天国に行かれましたが、こういうとき私たちクリスチャンは「召される」という言い方をします。また、何らかの職業をもって神さまに献身するような人に対しても、「召し」ですとか「召される」ということばを使います。 私が牧師の働きに就き、その働きを曲がりなりにも12年にわたって続けてこられたのは、神さまの「召し」があったからです。 そこでこのみことばに戻りますが、「聖徒として召された」とは、この地上に生きながら聖徒としての生き方をするように、神さまに呼ばれ、導かれている、ということを意味します。 聖徒、クリスチャンと言い換えてもいいですが、クリスチャンであるということは、立場ですとか、肩書ですとか、そういったこと以上の意味があります。「生き方」です。あるクリスチャンの方からお聞きしたことですが、その方は自分の信仰を「キリスト教」と呼ぶことに納得していない、というのです。その方はおっしゃいました。「言うなれば『キリスト道(どう)』です、いや、もっと言えば『キリスト命(いのち)』です。ほら、観光地なんかの落書きで、恋人の名前を書いて、だれだれちゃん命、なんて書いたりするでしょ? あれと同じです。」 聖徒として召されている、それは、聖徒として生きることが神さまに求められている、ということです。キリスト命、キリストのいのちをわがいのちとして生きる生き方です。さきほど第一のポイントで、教会とはキリスト・イエスの御名を呼び求める群れであることを学びましたが、私たちがイエスさまの御名を呼び求めるように、神さまも私たちに求めていらっしゃいます。あなたがたは、地上でわたしのこころを実現してほしい、実践してほしい。 聖霊なる神さまは、人を信仰告白、救いに導いてくださるお方ですが、それだけではなく、私たち聖徒が神さまのみこころを守り行うようにつねに励まし、導いてくださるお方です。私たちは毎日、聖霊なる神さまが聴かせてくださるさやかな御声に耳を傾け、その導きにお従いすることによって、聖徒として召された存在として生きることができます。そのために私たちは、毎日みことばをお読みし、お祈りをするわけです。 聖徒として召されているということは、私たちの生活からふさわしくないものを取り除いていくことが求められているということです。先週、上の娘が小学校の卒業アルバムを持ち帰ってきて、その中に載っていたクラスメイトのいろいろな将来の夢を面白く読ませてもらいました。パティシエ、ユーチューバ、消防士、獣医師、変わったところでは県庁の職員……。 そんな彼らが大人になったとき、もし、パティシエの仕事に慣れてきて、めんどうくさい、いちいち手なんて洗わなくていい、などとなったらどうなるでしょうか? 食中毒が起こるかもしれません。消防士の仕事に慣れてきて、訓練をいいかげんにしていたらどうなるでしょうか? いざ火事や救命活動となったとき、まともに働けません。 私たちが聖徒の召しに従う生き方も、それと同じです。私たちは聖なる存在となるために一切努力する必要はありませんでしたが、聖なる存在としての召しに忠実になるためには、主に拠り頼みつつ努力する必要があります。週に一日の時間を聖別し、礼拝をおささげすることも、毎日主の御前に出て、みことばをお読みしてお祈りすることも、普段の生活の中で主にお従いする生き方を祈りつつ実践していくことも、みな一定の努力が必要です。どうせ何をしても救われているとばかりに、だらけた生活をしているならば、果たして神さまはそんな私たちのことを喜んでくださるでしょうか。 私たちはこの、水戸第一聖書バプテスト教会という教会を形づくる者として、イエスさまをともに呼び求めることのできる恵みが与えられていることを感謝しましょう。イエスさまを信じる信仰が与えられて聖なるものとしていただいたことを感謝しましょう。そのように聖なるものとされた私たちが、ますます聖なるものとしての歩みを確実にしていくことができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「さばきの日、わざわいの日」

聖書箇所;ヨハネの黙示録8:1~13/メッセージ題目;「さばきの日、わざわいの日」 今年初めに発行した年報や月報をご覧いただきますとお分かりのことですが、私が今年に入って「ヨハネの黙示録」の講解をすることにしたことには、いまコロナ下ということで、世の終わりというものをとても感じさせるご時世であり、このような時代にあって、世の終わりについて詳しく綴るヨハネの黙示録から学び、世の終わりに備えていこう、という大きな目的がありました。 ヨハネの黙示録は、世の終わりについてかなり独特な表現でつづられた書です。多くの箇所に、大バビロンと表現されたサタンの勢力の描写、ならびにその勢力が究極のさばきを受ける描写が登場するなど、震え上がるような描写がこれでもかと登場します。私たちは読んでいて、このような終末に自分が巻き込まれたらどうしよう、と思ったりしないでしょうか? しかし、ヨハネの黙示録は、終末の絶望だけを説くみことばではありません。いやむしろ、天上の礼拝、究極の礼拝に私たちを招くみことばであり、それこそがメインのテーマというべきです。私たちがこのヨハネの黙示録を読んですべきことは、世の破滅を思って震え上がることではなく、永遠の御国を思って希望をいだくことです。 とはいいましても、このヨハネの黙示録の講解メッセージをするにあたり、世の終わりの破滅的な様相について語ることは避けられません。はっきり書いてあるからです。しかし、あくまで語り手である私がすることは、そのさばきそのものをことさらに取り上げて、いたずらに恐怖心をあおることではなく、そのような終末の様相を迎えようとも、なお主にまことの希望を置くように語ることです。それでは、今日の箇所の学びを始めてまいりましょう。 今日の箇所は3つのポイントに従って分けられます。それぞれにキーワードがありますが、それらはみな、数字で特徴づけられます。順番に、1番目が7つ目の封印と7つのラッパで「7」、2番目が4つの災いで「4」、そして3番目が「7引く4」の「3」です。7、4、3の順に見てみましょう。 まずは第一の「7」、7つ目の封印と7つのラッパです。6章において、子羊は巻物を封じた7つの封印のうち、6つの封印を解きます。それがみな、わざわいを告げ知らせるものであったこと、7章に入ったら、天上の礼拝の場面へと展開することは、すでに学んだとおりです。 そしていよいよ、7つ目の封印が解かれます。するとこのとき、さばきが即座に行われるのではなく、「天に半時間ほどの静けさがあった」のでした。ここでは、主に叫び求める大声も聞こえません。主をほめたたえる大声も聞こえません。何の声も、音もしないのです。 この静けさは何を意味するのでしょうか。嵐の前の静けさ、ということばがありますが、天が、今にも神さまが怒りを地に注がれようとしていることに、粛然として怖れをいだいていることを示しているといえます。 この静けさの中で、7人の御使いに1つずつ、合わせて7つのラッパが渡されます。これもまた、終わりの日のさばきが行われようとしていた、ということで、その恐ろしさを思うと、天地は震え上がろうというものです。 ここまでの幻では、7つの封印が解かれていますが、7つの封印が解かれることと、7つのラッパが吹き鳴らされることは、どちらも同じ、世の終わりの破滅的な様相を、別の観点から語っているということであり、できごとが時系列に沿って展開するというわけではありません。時系列で解釈しようとすると、あちこち矛盾が生じてきます。これは、終わりの日のさばきを、別々の観点から示したものなのです。 ともかく、このとき世界は静けさに支配されていました。世界はさばきの前に恐れて口をつぐんでいました。しかし、ここにはもうひとつの解釈が成り立ちます。それは、聖徒の祈りです。聖徒の祈りはかぐわしい香のごとく御前に立ち上っていますが、それは静かな祈りだった、ということです。 私はかつて、沈黙したまま時を過ごすという体験をしたことがあります。それは韓国にある「フィルグリムハウス」という祈祷院でのことで、普通韓国の祈祷院というと、大声を上げて山にこもってお祈りする、というイメージがあっただけに、人々がいてもまるで会話しないでいる様子は、最初かなり戸惑いました。 しかし、慣れてくると、ああ、私たちはなんと、騒々しいことに慣れていたのだろうか、と、神さまの御前で自分を見つめ直す、とてもよい時間となりました。そのような場所においては、もはや叫ぶようなお祈りは必要ありませんでした。 沈黙するということは、神さまとのコミュニケーションを断ち切ることではありません。むしろその反対で、神さまは沈黙のうちにささげるお祈りを、しかと聴き届けてくださいます。 ヨハネの黙示録6章11節で、祭壇の下にいる殉教者たちがさばきを求めて叫ぶ祈りをささげていたとき、主が彼らに、殉教する聖徒たちの数が満ちるまでもうしばらくの間休んでいるようにと言い渡されましたが、この「休んでいるように」ということばが「静かにしているように」とも訳せることは、前の学びでお話ししたとおりです。そうして、殉教者の祈りは、憤りを晴らすがごとき叫ぶ祈りから、神の怒りに委ねる静かな祈りへと変わったのです。 そして5節をお読みください。このように聖徒たち、主の御名のゆえに地上で苦しみ、傷ついた聖徒たちがささげる祈りは、やがて天に満ち、神の怒りとなって地にぶちまけられます。ここから、7つの封印が解かれた巻物が、7つのラッパへと引き移っていくのです。 そこで私たちは、聖徒たちにふさわしい祈りというものを考えてみたいと思います。もし私たちが、だれかに対して恨みをいだいていて、その恨みを晴らしてくださいと神さまに叫びつづけたとしても、その恨みが一向に晴らされないならば、私たちはむなしさを覚えたりはしないでしょうか? ローマ人への手紙12章19節のみことばをご覧ください。……これが、神さまが私たちに願っていらっしゃることです。なのに私たちは、なんと誰かに対する怒りの中にとどまり、そんな自分をあらゆる形で正当化するのでしょうか? たしかに、怒りを手離すのは難しいことです。私は長年の韓国とのお付き合いでそれを痛感してきましたし、最近も、会津若松の大学を卒業したある牧師先生から、その地域の人たちは150年もむかしの戊辰戦争の影響で、いまだに山口県の人を許せないでいると聞いて、これは韓国の人が日本に対して抱く感情以上に深刻だ、と思ったものでした。 しかし私たちクリスチャンは、神さまがその義にしたがって悪者に怒りを下されることを知っている以上、私たちの持つ怒りを神さまの御手にお委ねすることができる存在です。これは「特権」とさえ言えることです。私たちが怒りを晴らしたところで、たかが知れています。 しかし、神さまが怒られたとするとどうでしょうか? 私たちの目の前にある天地はすべて滅びます。ありえないほどの破滅をもって消え去ります。悪者はことごとく火の池に投げ込まれ、昼も夜も永遠に苦しみを受けます。神さまの子どもたち、神さまのしもべたちを苦しめるということは神さまのひとみに触れることであり、それだけの報いを受けて当然なのです。 よく読まれるイザヤ書43章4節のみことば、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」この節には続きがありまして、こうなっています。「だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民(くにたみ)をあなたのいのちの代わりにする。」私たち神の民はこれほどまでに、主の敵、すなわち私たちの敵に究極のさばきが下されるほどに愛されているということです。 その神さまの怒りが、神さまの時にしたがって下されるまで、私たちのすることは、怒りに従って行動することではありません。神さまへの従順です。愛の実践です。敵を愛しなさい。敵のために祈りなさい。敵が飢えたならば食べさせなさい。渇いたならば飲ませなさい。 私たちは人を愛し、奉仕するように召されていますが、自分に敵対する人だからとその愛と奉仕の手を控えるならば、普通の人と何ら変わるところがありません。私たちは主のしもべです。だからだれに対しても愛と奉仕を実践しつづけるのです。たとえ相手が神さまを嫌い、自分を嫌う人であったとしても、愛と奉仕を控えてはならないのです。 そういう人の頭に燃える炭火を積むのは私たちではありません。神さまです。これほどまでに私たちを苦しめ、私たちが下手(したて)に出るのをいいことにマウンティングすることをやめない、そんな人は必ず、神さまがご自身の時にしたがってさばきの手を下されます。 怒りの叫びを上げずに静かに祈りつづける……それこそが、終わりの日に向けて私たちがすることです。その祈りの香の鉢がいっぱいになるまで、私たちは祈りつづけるのです。なすべき従順の行い、愛の行いに、あくまで専心することです。神さまがご自身の時に働いてくださいます。私たちは、祈りが報いられ、主がご自身の時に正義を地上に実現されることを信じて、祈りつづけ、従順の歩みを続けてまいりましょう。 二番目の鍵となる数字、「4」、これは、「4人の御使いが吹く4つのラッパ、それに伴う4つのさばき」です。静けさのあとにつづくのはけたたましいラッパの音です。ラッパは、さばきの訪れを象徴しています。7節から12節をお読みします。……これらのさばきは、モーセの時代のイスラエルが出エジプトを果たしたとき、神さまがエジプトに下されたさばきの再現とも見ることができます。 第一のラッパのさばきは、雹が落ちてあらゆる作物、人も家畜も被害を受けたことを連想します。第二、第三のラッパのさばきは、ナイル川が血になって水が飲めなくなったことを連想します。そして第四のラッパのさばきは、暗闇が地を覆ったことを連想します。 この出エジプトに際してのさばきは、神さまが、ご自身の民イスラエルの叫び求める祈りに耳を傾けてくださったことから下されたものであり、その証拠として、雹のさばきと暗闇のさばきは、イスラエル人のいるゴシェンの地には臨まなかったのでした。 同じことが、この世の終わりに際してこの世界に下されます。世界はあらゆる形で破滅に向かいます。 しかし、ここで注目すべきことがあります。ここで破滅しているものは「3分の1」であり、ということは、3分の2はまだ残されている、ということです。これは何を意味するのでしょうか? このようなさばきのただ中にあっても、神さまはまだ、地の民に対し、悔い改める余地を残していらっしゃる、すなわり、救われるチャンスを残していらしゃるということではないでしょうか? そうなったとき、人のすることは2つに1つです。悔い改めるか、悔い改めを拒絶するかです。イスカリオテのユダのことを思い出しましょう。イエスさまは、イスカリオテのユダに対して、最後まで兄弟、弟子として接されました。主のみからだと見込んで、最後の晩さんのパンとぶどう酒を分けられたのでした。それだけでしょうか? 足を洗ってくださり、ユダのしもべにまでなってくださったのでした。最後まで、これでもか、これでもか、と、悔い改めの機会を与えつづけてくださったのでした。それなのにユダはその場を飛び出し、大祭司のところに行って、イエスさまを十字架につける手引きをしたのでした。 かつてどこかで読んだ本の中で、イエスさまは、ご自身が十字架におかかりになって人類を救うというご計画を、ユダを用いて成し遂げられたのだから、ユダは救われて天国に入れられている、という意味のことが書いてあったのを読んだことがありますが、冗談ではありません。ユダは、最後まで与えられていた悔い改めの機会を自ら逃す選択をしたことによって、悪魔にたましいを売ったのでした。私たちは、こんなもっともらしい説に惑わされ、ユダも主を売る罪を犯したが用いられたのだからと、罪を犯す選択をする自分を正当化する愚かなことをしてはなりません。 今のこの世界もそうです。この4つの災いの示すような天変地異、事件、事故は、現実に私たちが生きている世界のあちこちで姿を見せています。ことに、10節のみことばに出てくる「苦よもぎ」は、ロシア語で「チェルノブイリ」です。これは知る人ぞ知る事実ですが、このことが例の原発事故に関連づけられて知られるようになるにつけ、震え上がった人も多いのではないでしょうか。しかし、そういうあらゆることを見てもなお、人は、救われようと神さまの御前に出る選択をする人と、神さまの御前に出ない選択をする人に分かれます。 私たちが今こうして、救いをいただいていることは感謝です。イエスさまを心に受け入れるべく、聖霊なる神さまが私たちに働いてくださるという、神さまのみわざを体験させていただいたからです。 この恵みが、この終わりの時に、ひとりでも多くの人に臨み、ひとりでも多く救われるように、私たちは祈る必要があります。破滅的な現実を見て恐れても、それで絶望してしまうのではなくて、神さまに立ち帰るように……。私たちは恵みにより、破滅から救っていただいた存在ですが、その救いが私たちだけにとどまることなく、みなに伝わり、ひとりでも多くの人が神の怒りと破滅から救われるように、祈ってまいりたいと思います。 三番目の鍵となる数字、それは「7つのラッパ引く4つのラッパ」、つまり「3」ですが、これは13節に登場する、1羽の鷲の大声にあらわれた「わざわいが来る」ということばが、3度繰り返されていることとも照応しています。 もともと吹き鳴らされるラッパは7本です。7つのラッパは完全に吹き鳴らされるのです。しかし、これまでの4つのラッパの呼び起こしたわざわいだけでも、地とそこに住む人はどれほどの災いをこうむったことでしょうか。それでも神さまのさばきは容赦されません。ご自身が一度定められたさばきは、完全に成し遂げられるまで行われるのです。 神さまがさばきを成し遂げられるのは、この地上の悪が完全に滅ぼされるためです。この世にすがっている人々はもしかすると、この終末のシナリオを知らないか、知っていても認めないかするかもしれません。しかし、私たち主の民は、こうして聖書が与えられている以上、今このようにして、この世界の終わりに臨む完全なさばきを知っています。 私たちは主と交わるならば、この世界がどんなに悪いか、いえ、それ以前に、以前の私たちはどんなに悪い人間だったか、思い知ることになります。私がクリスチャンになったのは中学3年の時のことで、あとちょっとで上の娘がその頃の私の年齢に並びますが、振り返ってみてもつくづく、娘たちには、あの頃の自分のようになってほしくはない、と思います。 あの頃の私は、クリスチャンになったとはいえ、神さまと関係のない歩みをすることも多く、そのまちがった歩みはことばづかいや態度、生活習慣に色濃く表れていました。きっと顔つきや放つ雰囲気も、クリスチャンらしさなどとてもなかったことでしょう。思い返しても冷や汗が出ますが、私たちがきよめられていくならば、そのような者も変えていただき、人の悪、世界の悪を好む思いから憎む思いへと変えられ、この世界に主の御手が臨むことを祈らされるようになります。 しかし、ほんとうに私たちの祈るべきは、私たちだけが助かり、あとはみんなさばかれて世界が終わることでしょうか? 決してそうであってはならないはずです。むしろ私たちの祈り求めるべきことは「悔い改め」ではないでしょうか? 悔い改め。それは人に要求する以前に、私たち自身が率先して行うべきものです。この世界の悪に気づかされ、その悪が主の御手に取り扱われることを求めることは必要ですが、それならば、私たちは自分のうちにある悪を悔い改めなくてもいいのでしょうか? それでは、人の目のちりに気を取られ、自分の目の中の梁を取り除こうとしない、間違った態度でいることです。 この、世の終わりの究極的なさばきは、必ず起こることです。神さまがそうお定めになったからです。しかしそれなら、神さまはなぜこのさばきを、1900年以上にわたって控えてこられたのでしょうか? それは、地の果てまでみことばが宣べ伝えられて、それだけ主の御名に殉じる主のしもべの数が満ちるまでに時間がかかっていることもさることながら、そのような犠牲者を生まないだけの努力を、主のしもべたちがしてきたことも多かったと考えるべきです。 しかし、その努力はおかしな形で実を結ぶようにもなります。それは、教会を構成する者たちの堕落、という形でです。こうなると殉教者は生まれなくなるかもしれませんが、教会はこの世界に対して、何の影響も及ぼせなくなります。しかし、それでいいのでしょうか? そうなったとき、私たちは、自分たちは救われているから終末のさばきを免れている、と言うことが、単なる開き直り、また慢心、怠惰の表れにしかならなくならないでしょうか? 初めの愛から離れた教会は、燭台が取り除かれます。すなわち、御霊が去り、神さまから教会として認めていただけなくなるということです。キリストへの燃える愛がない教会が、いったいどうやって、福音にいのちを懸ける教会になりうるでしょうか? そのような教会になる前に私たちに求められていることは、もし自分たちにキリストへの愛がないことに気づかされたならば、どこで間違ったかを振り返り、悔い改めて、初めの行いである、神を愛し、人を愛する愛を実践することをすることです。大事なのは悔い改めです。 イエスさまの昇天からヨハネの島流しに至るまでの初代教会の歴史は、悔い改めの歴史でもありました。自分たちの悔い改めが宣教地の悔い改めとなりました。一例をあげると、魔術を行う者として神さまの怒りのさばきのもとにあった人が、救われて怒りのさばきから免れさせていただき、その証しに買えば相当な額になる魔術書をみんな火にくべたのでした。 こんにちもそうではないでしょうか? 神の怒り、神のさばきはもう定まっているとばかりに、絶望的になることも、好き勝手に生きることも、どちらも「悔い改めない」「神さまに立ち帰らない」という点では変わるところがありません。さばきは完全に行われます。わざわいは完全にやってきます。 そのさばき、わざわいから、人々が救われることを願い、ひとりでも多くの人が悔い改めるように祈る私たちとなりますように、いえ、人の悔い改めを求める前に、まず私たちこそ悔い改める者となりますように、祈ってまいりたいと思います。 私たちは悪が相当のさばきを受けることを祈りますが、それでも私たちは、現実に目の前にいる人のことを恨んだり、憎んだりしてはなりません。愛するのです。人々がその世界から救われるように、救われるべく悔い改めるように祈るのです。そして、この悔い改めと救いが実現するために、まず私たちから悔い改めましょう。私たちは何を悔い改め、何を祈り求める必要があるでしょうか?

「神のしもべたちへの報い」

聖書箇所;ヨハネの黙示録7:1~17/メッセージ題目;「神のしもべたちへの報い」  先々週、私たちの愛する兄弟が主のみもとに召されたのは、あまりに突然のことで、私もどのように受け止めたらよいかわかりませんでした。それ以上に、ご家族はどれほどショックをお受けになったことだろうか……私は牧師として、何と申し上げればいいだろうか。 翌日の土曜日の朝、遠くの地から、ご家族が駆けつけられたとお聞きして、私はごあいさつに伺いました。ほんとうに、なんと申し上げるべきだろうか……自分が沈痛な面持ちでいるのが、自分でもわかりました。  しかし、ご家族は開口一番、こうおっしゃいました。「いえいえ、天国に凱旋したんですから!」凱旋……このおことばに私は、兄弟が王さまのように、勝利した兵隊さんのように、天国の門へと行進していかれるイメージがわき上がってまいりました。どんなに救われた思いになったかわかりません。 私たち、主にあって召された者の終わりは、まさに、「凱旋」と呼ぶにふさわしいものです。それはたしかにさびしいです。その気持ちまで否定してはなりませんが、私たちはむしろ、喜んでもいいのではないでしょうか。 そして聖書は、だれでも体験する人生の終わりとともに、この世界の終わりについても語っています。ヨハネの黙示録とは、この書が書かれた当時、ローマ帝国とユダヤの宗教社会との挟み撃ちに遭い、たいへんな苦しみの中にあった初代教会の主のしもべたちが報われるという希望を語りつつ、のちの世のすべての聖徒たちがキリストゆえに迫害を受けるが、最終的には報われるというよき知らせを語る書です。 今日の箇所、7章は、6章までに展開する、封印がひとつひとつ解かれていくたびに現れる、絶望的な終末の様相とはきわめて対照的な、希望に満ちた天国の情景です。地の者たちはキリストを主と告白しないゆえに、大いなるさばきに服さざるを得ません。しかし天の御国においてはどうでしょうか? この地上で苦しめられた聖徒たち、神のしもべたちが、神さまから大いなる報いを受け取ります。どのような報いでしょうか? 3つのポイントからお話ししたいと思います。第一に、神のしもべたちは、神さまに守られて御国に入れられるという報いをいただきます。 6章に展開する破滅的な場面の中で、第五の封印が解かれた場面にかぎっては、やや方向が異なります。人が終わりの日の様相に苦しむことに変わりがなくても、第五の封印が解かれて見せられるビジョンにかぎっては、反キリストに対するさばきではなく、神のしもべたちに迫害が加えられて苦しむ、という場面です。 キリスト者もまた苦しみます。この苦しみは、私たちの師であり主であるイエスさまが十字架を背負われ、私たちもその御跡を自分の十字架を背負ってついていく者である以上、私たちもまた負わなければならないものです。避けることはできません。むしろ私たちは、積極的にキリストのために苦しむ道を選び取っていくべきです。 しかし、私たち神のしもべにかぎっては、苦しみは報いられるのです。その最たるものは、私たちキリスト者には、さばきは決して臨むことがない、ということです。 1節を見ますと、御使いが四方の風を押さえつけ、地上に吹きつけないように押さえている様子が見えます。その直前の6章12節から17節を見ますと、天地万物、森羅万象に天変地異が起こり、いよいよ終末のさばきが展開する様相が、絶望的な叫びとともに描写されていますが、そのさばきが実際に地上を襲うまで、御使いが地に吹きつける風、さばきを押さえつけている、というわけです。 旧約聖書を読みますと、エレミヤ書49章36節を読んでもわかるとおり、四方からの風はさばきを象徴しています。しかし、その終末のさばきが実際に地に臨む前に、そのときが来たるのを、主ご自身が御使いに命じて遅らせられる、というのです。それはなぜでしょうか? 私たち、神のしもべのゆえです。神のしもべが完全に召され、神さまのものとなる、そのしもべの数が完全に満ちるまで、主はさばきを控えてくださいます。 この、印を押された人の数、14万4000人について、少し解説したいと思います。これは実際に、ひとり、ふたり、と数えて、14万4000人というわけではないのは、お分かりだと思います。聖書には数の象徴がよく登場するのはご存じのとおりですが、3、という数字は、天におられる神さまが、父、御子、御霊の三位のお方でいらっしゃるように、天、を象徴します。そして、4、は、本日の箇所で「四隅」とありますとおり、「地」を意味します。私たちの住む世界がまるい、ということを、私たちは教えられていますが、私たちの感覚は、世界は「東西南北の四角いもの」ではないでしょうか。地は四角、つまり、4、です。 というわけで、天の「3」と地の「4」を足した「7」という数字、また、掛けた「12」という数字が、完全数、ということになります。ことに、ここで出てくる十二部族は、完全なイスラエル、神の民、という意味になります。 その神の民も部族ごとに見ると、12掛ける1000で1万2000人です。1000、という数も、聖書の世界では「生活感覚においてとても大きな数」です。「主の御前では一日が千年、千年が一日」というのも、一年、二年と数えての文字どおりの千年というよりも、かぎりなく長い時、と解釈すべきでしょう。ヨハネの黙示録に登場する「千年の間王となる」という、いわゆる「千年王国」も、この概念で理解されるべきものでしょう。 そうだとすると、各部族から1万2000人というのも、完全掛けるかぎりなく多い数、ということになります。そしてそれに12を掛けるならば、完全で完全な、とても多い数のしもべ、ということになります。完全というのは、神さまが完全であるということであるとともに、神さまによって完全にされたしもべは完全であるということです。 いやはや、この欠けだらけ、罪だらけなのが私たちではないでしょうか。そんな私たちが、完全な神のしもべに加えていただく恵みをいただけるとは、なんということだと思いませんか? しかし、それがみこころです。 そのように主に召される者の数が完全に満ちるまで、この地には破滅的なさばきは望まないことを主は約束してくださっています。実際、ヨハネの黙示録が語られてから1900年あまり、主は忍耐をもってこの世界の罪を見過ごしにしてくださり、さばきから免れさせてくださいました。 とはいいましても、私たち日本のクリスチャンがよく知らないだけで、世界各地には主の御名のために苦しみ、いのちを落としている兄弟姉妹が実に多くいます。気がついたら神のしもべの数が満ちていた、ということも有り得るかもしれません。私たちは、主の日はまだまだ先だ、とばかりに、この世界で快楽や安逸をむさぼっている場合ではないのではないでしょうか。 しかし、私たちがこの世界において、救われた喜びに満たされ、主のために積極的に苦しみを担っていくならば、主は必ず、私たちを終わりの日のさばきから守ってくださるという、報いを与えてくださいます。感謝しつつ、今日の働きに種を蒔いてまいりたいと思います。 第二のポイントです。神のしもべたちは、天上の賛美に加えていただく報いをいただきます。 9節、10節をお読みします。……この9節の大勢の群衆が、神の民から召された14万4000人と同じか、ちがうかは議論が分かれるところですが、印を押された者たちは14万4000と数えられる、9節の大群衆は数えられない、よって別物だ、と断定するのは乱暴です。なぜなら、印を押された神の民の数はいま述べましたとおり、完全でとても多いということを意味する象徴的な数字であり、ある意味では「数えられない」ものであるという点、9節の大群衆とその点で同じだからです。 しかし、印を押された神のしもべはイスラエルの十二部族だから旧約の民、大群衆はすべての国民、部族、民族、言語に及ぶから、世界宣教が達成されて満たされた新約の民、と解釈する向きもあります。その場合、旧約の民と新約の民が合わさって完全な群衆になる、ということになるわけです。 どちらにせよいえることは、神さまと子羊イエスさまの御前に立つことが許された大群衆は、いかにたくさんいるとはいえ、全員が神さまに召された神のしもべであり、一人として欠けてはいない、完全無欠の神のしもべたち、ということです。神のしもべとしての要件を完全に満たしていて、その完全な神のしもべがひとりも欠けずに、完全な数で御前にそろっているわけです。 私たち一人ひとりも、その完全な大群衆の一人に加わっています。というより、私たちはその群衆に欠けていてはならないのです。私たちも全員加わって完全になります。信じますか? アーメンでしょうか? 神の民に加えられていることに感謝しつつ生きてまいりたいと思います。 そんな、私たちを含む神のしもべたちは何をするのでしょうか? そう、10節にありますとおり、主の栄光、主の救いをほめたたえるのです。 彼らは、天のお父さまのお導きによって、神の子羊イエスさまを救い主と信じ受け入れる恵みをいただきました。そのように救っていただいたゆえに、いまこうして天国に入れられ、神さまと子羊イエスさまの御前で大いなる賛美をおささげしているわけです。 実に、イエスさまの救いとは、天国において最もほめたたえられるべき主題です。神さまはなぜほめたたえられお方なのか? それは、神さまが救い主だからです。もちろん、12節の賛美のことばをお読みすればわかりますとおり、神さまはあらゆる賛美を受けるべき主権者でいらっしゃいます。 私がむかしキャンパス・クルセードのスタッフだった佐藤義孝さんからお聞きしたとおり、「私たちはなぜ神さまを賛美するのですか? それは、神さまだからです」ということばは、言い得て妙、以上に、それ以外に言いようがない真理であり事実です。 しかし神さまは、たんに恐いだけの主権者、人と関係のない主権者ではありません。讃美をお受けになるだけの理由をお持ちのお方です。神さまは、私たち神の民、神のしもべを永遠に救ってくださる主権者であるからこそ、賛美されるべきお方なのです。 では、私たちは何から救っていただいたゆえに、神さまを救い主とほめたたえるのでしょうか? いろいろ言えると思います。罪から救っていただいた。悪魔から救っていたただいた。地獄から救っていただいた。……しかし、なんといっても私たちが心に留めるべきことは、私たちが「神の怒りから救っていただいた」ということです。 ヨハネの黙示録6章の締めくくりで、地に住む者たちはなんと嘆いていますでしょうか?「神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」現に私たちの世界を覆うあらゆるわざわい、環境破壊や天変地異、疫病の流行といったことを見聞きすると、私たち人間は、自分たちに等しく臨む神の怒りの片鱗を見る思いがするのではないでしょうか。神さまは怒っておられる。それゆえに、この世界は破滅的に破壊される。 しかし、私たちは神さまのこの大いなる怒りとさばきから救っていただいた存在です。聖霊の印が額に押され、神さまのものとされている以上、私たちは神さまの子どもです。神さまがご自身の子どもとしてくださった以上、破滅的な怒りをもって私たちのことをおさばきになることは決してありません。私たちは救っていただいているのです。 私たちの賛美は、神さまがこのように、大いなる怒りから私たちを救ってくださったゆえに、うれしくてたまらないのでおささげするものです。クリスマスの時期など特にそうですが、神さまの救いを知らない人、信じるつもりのない人が、たわむれに賛美の歌を歌うことは、人間的になにやら宗教的高揚感に浸る以上の意味はないはずです。気持ちいいから歌っているだけ。 もちろん私たちは、そういうことを通してでもノンクリスチャンの人々がその歌詞の意味に目が開かれ、救われるようにと願ってやみませんが、歌うことそのものは「歌」以上のものではなく、「賛美」ではありません。よもや私たちにとっての「賛美」が、そのような人間的な気持ちよさのレベルにとどまったものとなっていないか、よくよく自分自身の礼拝態度を点検する必要があるのではないでしょうか。 私たちが賛美するのは、救われた喜びをもって主にすべての栄光をお帰しするゆえです。それは、礼拝の時間に歌うことはもちろんのこと、普段の生活においても、その生活態度、具体的な実践のすべてをもって、救い主なるイエスさまをほめたたえるのです。 私は救っていただいたから、人々とお酒の席で盛り上がるような快楽に陥らない。私は救っていただいたから、だらだらとテレビやインターネットに没頭して無駄に時間を過ごさない。私は救っていただいたから、朝すれ違う町の人たちに笑顔であいさつの声をかける。私は救っていただいたから、からだづくりと楽しい食卓を目指して、腕によりをかけて料理をつくる。こういう生き方はみな、神さまへの賛美の実践です。 もちろん、できること、すべきことは、みなさまおひとりおひとりでちがうと思います。よくお祈りして、何を具体的に取り組めるか、まずはこの1週間にひとつでいいですから、考えてごらんになることをお勧めします。でもその動機は、「救われた喜びの表現」です。救われた喜びをわがものとして、感謝してください。そこから行いは生まれてきます。 最後に、第三のポイントです。神のしもべたちは、地上のあらゆる苦難が報われるという報いをいただきます。この大群衆は、白い衣を着せられていました。天国の民、主の御前に出る者としてふさわしい姿をしていました。その者たちはどこから来たか知っていますか? ヨハネはそのように問われ、私の主よ、あなたこそご存じです、と答えました。 天の御国の長老は何と答えたでしょうか?「この者たちは大きな患難を経て来た者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」白い衣は、子羊の血によって洗われたゆえに白いのです。人の罪は緋のように赤いものです。しかし、その、だれもが持っている罪、ひどい罪を洗って白くしていただける唯一の道、それは、子羊イエスさまの血潮によって洗っていただく、ということです。 血によって洗ってきよくなる、という感覚は、羊を飼わない私たちにはぴんと来ないかもしれません。しかし私は以前、いまある神学校の校長先生をしていらっしゃる先生から、こんなお話を聞きました。モンゴルのような大平原で牧畜する地域では、車が必需品である一方で、壊れても直してくれるところなどないので、羊飼いは自分で車を直す必要があるそうです。そうして車を直すと、当然、手は黒い油まみれになります。その油を落とすのに、彼らは羊の血をバケツにとって、それに手を入れて洗うのだそうです。だから、羊の血できれいになるということが感覚的によくわかるのだといいます。 私は羊飼いではありませんが、これを聞いて、なるほど、子羊の血で洗って白くなるということは、牧畜を営んでいた聖書の民には感覚的にわかるのか、と腑に落ちたものでした。 それはさておき、このように子羊の血で洗っていただいて御前に立つ者は、「大きな患難を経て来た者たち」であると語られます。この、ヨハネの時代の聖徒たちがまさにそれにあたりました。 彼らはどんな約束をいただいたのでしょうか? 15節から17節です。この箇所の冒頭の「それゆえ」ということばに注目しましょう。患難を経て、子羊の血で白くされた、それゆえ、ということです。 このように、患難を経て、真に救われた者としてふさわしいことが証しされた者を御前に召してくださるという主の約束が示されました。このことに、この黙示を受け取ったヨハネも、現実に死と隣り合わせの迫害のもとにあったこの時代の聖徒たちも、どれほどの慰めをいただいたことでしょうか。 そしてこの慰めに満ちた約束は、のちの世の聖徒たちにも与えられ、そして今を生きる私たちにも与えられています。先週ご家族は、兄弟とのお別れに涙を流しましたし、私たちも兄弟をお見送りしてからも、兄弟のご意志を受け継いでさまざまな人たちのためにこの地で苦闘するならば、涙を流すことも一度や二度ではありません。しかし、天の御国においては、兄弟の涙はすでにぬぐわれていますし、私たちの涙もまた、神さまの御手によってぬぐっていただけます。 私たちも十字架を背負って主の御跡を従うならば、悲しみますし、苦しみます。しかし私たちのそのような悲しみも、苦しみも、終わりの日に天の御国にて報いていただけるのです。私たちはこのことにかぎりない希望をいだきつつ、今日の労すべき働きに取り組んでまいりたいものです。  私たちは世のさばきから守られ、天の御国に入れていただけます。私たちは神の怒りから救っていただいているゆえに、神さまを賛美する生き方に召されています。私たちのその生き方は十字架を背負う生き方ですが、終わりの日に大いなる報いをいただきます。永遠の喜び、永遠の安息に入れていただけます。 その日を目指して、今日も、明日も、労するための力と希望を、主は私たちに与えつづけてくださいます。 そのようにして私たちが、終わりの日にともに主の栄光を仰ぐ喜びを体験しますように、主の御名によってお祈りいたします。

「報われる苦難、報われない苦難」

聖書箇所;ヨハネの黙示録6:9~17/メッセージ題目;「報われる苦難、報われない苦難」 福音を人々に伝えるチラシ「トラクト」のもいろいろなデザインのものがありますが、みなさんご存知でしょうか、中にはすごいデザインのものもあります。前に見かけたものですが、夕暮れから夜にかけての「おおまがどき」の踏切の写真が紙面いっぱいに写っていて、しかも踏切は警報の赤いライトが毒々しく灯っています。見ているだけで、夕闇の中けたたましくカンカン鳴る警報の音さえ聞こえてきそうです。そこに白抜きの大きな字で「苦しい時は必ず過ぎ去る」……。 すごいインパクトでしたが、普段から苦しみにさいなまれる人々に呼びかけるメッセージです。私はそれを見て、なんとかひとりでもこれを手に取って苦しみから救われてほしい、助かってほしいと願わされたものでした。苦しい時は過ぎ去るのです。このことを私たち人間は希望として持ちつづける必要があります。 さて、人間はだれしも、苦しみ、苦難というものを身に負うものですが、その苦難には、報われる苦難と報われない苦難の2つがあることを、みことばは語っています。今日の箇所はそのコントラストを如実に表しています。 先週のメッセージで私たちは、御座におられるほふられた小羊なるイエスさまがひとつひとつ巻物の封印を解いていかれるたび、終末にふさわしい恐ろしさをもたらす騎馬がひとつひとつ、合計4つ、この地に遣わされることを学びました。偽キリスト、戦争、飢餓、それらのもたらす死……本日はそれに続く、第五と第六の封印が解かれていく様について学びます。私たちはそのような終末の様相の中で、どのような希望を持ち、何を祈るのでしょうか? ともに見てまいりましょう。 まずは第五の封印が解かれる様です。9節から11節をお読みします。 9節から見てみましょう。どのような者たちがいたのでしょうか?「神のことばと、自分たちが立てた証しのために殺された者たち」がいたのでした。 言うまでもなく、神のことばはユダヤ人の社会には普及していました。しかし、神のことばは、イエスは主であると語っていると宣べ伝えるゆえに、イエスさまを十字架につけたユダヤの宗教社会は、そのようなキリスト教会に迫害を加えました。 兄弟姉妹は、聖書のみことばが「イエスは主である」と語っただけではありません。この聖書の証しする唯一の救い主、イエスさまを信じたことで、自分たちが永遠のいのちをいただいた、どうか信じてほしいと、証しのことばを宣べ伝えたのでした。しかし、彼らユダヤ人の態度は変わらなかったばかりか、ますます頑なになり、激しい迫害を加えました。こうして、使徒の働き7章に記録されているとおり、ステパノは石打ちにあって殺されたのでした。また、同じく使徒の働きの12章を見ると、そのようなユダヤ人の機嫌を取ろうというヘロデの差し金で、使徒ヤコブが剣で殺されました。 迫害を加えたのはユダヤの宗教社会だけではなく、ローマ帝国も同様でした。カエサルではなくイエス・キリストこそ王であると宣べ伝えるクリスチャンたちに対し、ローマ帝国は、それなら、と、カエサルに従うのではなく、イエスさまにお従いする選択をしたのではなく、かえって、カエサルに背く不逞の輩であると、クリスチャンに激しい迫害を加えました。聖書には記録されていませんが、ネロ皇帝による迫害は特に激しいもので、自らローマに火を放ち、その大火事はクリスチャンが火を放ったからだと濡れ衣を着せ、クリスチャンを捕らえて殺し、夜を照らすたいまつの代わりにその死体を掲げて燃やしたと伝えられています。 そのような中でヨハネも捕らえられ、現にこうして島流しの憂き目にあっていたわけですが、ヨハネが見たのは、祭壇の下で、このように殉教した聖徒たちのたましいが、大声で主に叫び求める姿です。 彼らは何を叫んでいたのでしょうか? 10節です。……彼ら殉教者は、もう自分たちは天国に入れられているから、この地上で何が起こっていようと関係ない、となっているのではありません。地上の聖徒たちがいまもなお死の苦しみにさらされていることを悲しみ、嘆いています。主よ、早く、彼らに迫害を加えている者たちをさばいてください! この地上にて苦しむ者たちは、孤独な戦いを強いられているのではありません。天の御国において、殉教していった信仰の先達が、とりなして祈っていてくれるのです。速やかに主の御手が敵の手にくだり、主のしもべたちが守られますように……。そのような殉教者のたましいに対し、どのようなことが起きたでしょうか? 11節です。白い衣……天の御国の民としてふさわしい者たちが着る物ですが、これは「着せられる」ものです。自分で手に入れて着るのではありません。すなわち、人が天国に入るということは、神さまの恵みです。神さまがよしと認めてくださった者が、天国に入れるのです。 この殉教者たち、叫び求める者たちは、天国に入れられる恵みをいただきました。そのとき、どんな御声があったでしょうか? あなたがた、神のしもべたちの仲間で、あなたがたと同じように殺される者の数が満ちるまで、もうしばらく休んでいなさい、と語られました。 彼ら殉教者たちは、どれほどの悲しみの叫びを発していたことでしょうか? 自分たちはこうして地上のいのちを終え、天の御国に入れられている。しかし、地上で私たちのしもべ仲間はどんなに苦しんでいることか! 主よ、なんとかしてください! 苦しみを与える者どもを、早くさばいてください! これは、単に恨みを晴らすという次元の話ではありません。主が愛をもって創造された世界に、依然として悪と不義がはびこり、その悪と不義は主のしもべたちを激しく迫害するという形で露骨に現れている、こうして、主の栄光が地上でいたくけがされている、それは主に献身するしもべたちにとって、あまりにも耐えがたいことでした。 そんな彼らに、主は何とおっしゃいましたでしょうか?「休んでいなさい」とおっしゃいました。この「休んでいなさい」は、新共同訳という訳の聖書を読むと、「しばらく静かに待つように」と書かれています。すなわち「休む」とは、「静かにしていて待つ」ということです。 「静かにする」ということは、「大声で叫ぶ」ことと対照的です。聖書はところどころで、叫び求めて祈る者の幸いを語っていますが、この箇所に関しては、叫ばないで、静かにしていなさい、というのが、神さまのみこころでした。 なぜ、神さまは彼らの悲しみ、痛みを知りながら、「静かに待ちなさい」とおっしゃるのでしょうか? それは、神さまが必ず、終わりの日に、彼らに報いをするからです。 すでに初代教会の数十年間のあいだにも、おびただしく血が流されていました。しかしそれでも、地の果てまで福音が宣べ伝えられるためには、それから約2000年にわたって、さらに多くの犠牲が伴ってきました。今も多くの主のしもべたちが犠牲を強いられています。中には殺された人もたくさんいます。 しかし、主はそのすべての苦しみを覚えてくださっています。だからこそ私たちは、今日の苦しみに耐えることができるのです。この苦しみは必ず報われる。 いま私たちはもしかすると、主のために苦しみを担っているかもしれません。主の愛で人を愛そうとするとき、大きな反発にあって、かえって傷つけられている。主を証ししようとするとき、それを拒まれて迫害される。クリスチャンらしく振る舞おうとすると周りから馬鹿にされる。 それは、海外でいのちが左右されるような迫害にあっている兄弟姉妹のことを考えると、とても軽いものであるかもしれませんが、それでも苦しんでいることに変わりはありません。日本という国は肉体的な命を奪うような迫害は加えないかもしれませんが、いじめや同調圧力などの精神的な迫害を加え、霊的に死んだ状態に追いやるような迫害は、そう意識するにせよしないにせよ、加えてくる民族の国ではないでしょうか。こういう民にキリストを証しすることは、どれほど苦しいでしょうか。 しかし、この苦しみは報われます。なぜなら、主が天における殉教者の叫びに耳を傾け、みわざを成してくださるからです。私たち日本の教会はいのちを落とすような危険にさらされているわけではありませんが、かつて私の尊敬する玉漢欽先生は私の母校で、並みいる神学生たちを前にしておっしゃいました。「日本の教会は、生きた殉教者です。」そのおことばを聞いていらい、私は韓国教会に比べて日本の教会に力がないことに劣等感をいだくのをやめ、誇りを持つようになりました。 生きた殉教者である日本の教会の一員として、天上の殉教者たちの祈りが応えられるまで、終わりの時に至るまでその数を満たすべくこの地上で、主が私たちのことをこの地上で証し人として用いてくださるように、主の御名によってお祈りいたします。 では、もうひとつの苦難の方も見てみましょう。こちらは早い話が、「報われない苦難」です。12節、13節をお読みします。……これは、地上と天体の異常、天変地異です。終わりの日には、こういうことが起こるというわけです。 このような滅亡……読むだけでも恐ろしいものです。できるならば私たちはこの現場に居合わせたくはないものです。ここに書かれているようなことは、ヨハネの黙示録が人類に啓かれてから1900年あまり、まだそのとおりに実現したわけではありません。しかし、このような天変地異が終わりの日に起こることは、マタイの福音書24章29節のイエスさまの予言、ペテロの手紙第二3章の10節と12節の預言のように、聖書のほかの箇所にもしっかり書かれている以上、これは確実なことだと受け取るべきです。 しかし私たち人類は、この2000年のあいだにも、きわめて破滅的な自然災害、天変地異に接することがしばしばあったものでした。そういうことを体験すると、この第六の封印が解かれて起こされる天変地異も、あながち空想の産物ではない、と思えてくることでしょう。実際、この四半世紀近くの間の日本にかぎっても、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本大震災など、大地震が何度となく起こりました。いま世界は、コロナというどうにもならない現実に怯えています。そのたびに私たちは、いよいよ世の終わりということを肌で感じ、身震いしてきたものでした。 しかし、人がほんとうに身震いする理由は何でしょうか? 破壊的な天変地異によってこの世界が終わってしまうことでしょうか? それももちろんですが、そのことそのものよりももっと大きなことを人々は恐れているというべきです。15節から17節をお読みします。 15節を見てみますと、このような天変地異に際して、人々が洞穴や山の岩間に身を隠すと語られています。洞穴、とありますが、これはもしかしたら、ヨハネよりもあとの時代に世界中に無数に掘られることになるトンネルや地下鉄、地下街も含まれるのかもしれません。実際、そういう地下の施設は、有事の際にはシェルターの役割を果たします。モスクワやピョンヤンの地下鉄は特にそのことが意識されていて、とても深いところにトンネルが掘られているそうです。 そこに入って身を隠す者のリストを見ると、王や高官、高位の軍人、金持ちや有力者が優先的にリストアップされています。やはりこの、主のしもべなるクリスチャンたちに対してきわめて敵対的、冷笑的だった、この世で力や支配権を持つ者たちがこぞって逃げ込んでいます。 しかしそれに加えて、すべての奴隷と自由人、ともあります。もちろんヨハネの時代にも奴隷はいましたが、ヨハネが見た幻が未来的、終末的なものであったことを考えると、ヨハネの時代には、こんにちのような規模や仕組みで組織や企業が人を雇うという形態はなかったわけで、もしかするとここでいう「奴隷」とは、むちで叩かれているようなかわいそうなイメージで捉えるべきものではなく、給料で生活する人たちのことを指しているのかもしれません。それに加えての「自由人」ですから、要するに、どんな生活形態をしていようと、社会的な地位や権力があろうとなかろうと、みんな逃げる、というわけです。 しかし、ほんとうの天変地異、終末の天変地異が訪れたら、そんなものはいかに頑丈につくられていても役に立ちません。人々を覆う苦しみは言語を絶するものがあり、人々は生きるよりもむしろ、この山々が崩れてでも、自分を死の恐怖、神の御怒りから隠してほしいと願うのです。 彼らが繰り返して、「子羊の御怒り」と語っていることは、注目に値します。つまり彼らは、自分の罪が子羊イエスさまを十字架につけた、それほど自分の罪は激しく、またひどいものだったことを知っていたのでした。子羊は今や、従順に十字架へと歩まれたお方ではありません。世界の終わりをもたらすべく、天と地のすべてを揺るがし、滅ぼされる、激しい怒りを行使されるお方となっていました。 それでも彼ら罪人は、この期に及んで勘違いをしていました。それは自分のいのちを左右さえする勘違いです。彼らは、神さまとイエスさまから逃げることが、その御怒りから逃れることだという、一縷の望みにかけていました。しかしそれは、人として最もやってはいけないことでした。イエスさまから逃げてはいけないのです。しかし、御怒りは天地万物の破滅とともに迫ってきています。逃げなければなりません。どこに逃げるのでしょうか? イエスさまの中に逃げるのです。 しかし、主の民を苦しめてきた者たちのうち、果たして何人がそのような決断をすることができるというのでしょうか? 彼ら主に敵対する者たちは、主の民が苦しむのを尻目に、この世では快楽を謳歌してきました。そのような者たちは終わりの日にイエスさまのもとに逃げ込むこともできず、報われない苦しみに陥ります。そうです、このように、世の終わりの苦しみに巻き込まれることこそ、ほんとうの苦しみ、報われない苦難です。 私たちはどうでしょうか? テサロニケ人への手紙5章の2節から5節のみことばをお読みしましょう。……私たちはこの「報われない苦難」から守っていただける存在です。それはどれほど感謝なことでしょうか? しかし、なぜ守っていただけると言えるのでしょうか? 続く6節から8節をお読みすれば、その理由がわかります。……そうです、私たちがこの時代の快楽に酔いつぶれてしまうことなく、この時代を警戒し、いずれはこの時代に臨む破滅を見据えつつ、つねに目を覚まして霊的に武装するからです。 私たちにとって、この世はふさわしい場所ではありません。だからこそ私たちはこの世に生きていて、苦しむのです。しかし、私たちの苦しみは、終わりの日に必ず報いられます。神さまご自身が報いてくださいます。その報いは、神の敵、すなわち私たち神につく者たちの敵に、世の終わりにおいて、破滅的な終末を来たらされることによってかないます。 しかし、私たちはここで考えましょう。今私たちのことを苦しめている人たちは、私たちの愛すべき人たちではないでしょうか? 家族や親戚、友達や、尊敬すべき人たちではないでしょうか? そのような人たちまで一緒になって、終わりの日に罪人どもとともに地の穴になだれ込み、イエスさまから離れることを願うと考えたら、私たちの心は平安でいられるでしょうか? 彼らもまた私たちのように救われ、この世の破滅から守られ、報われない苦しみから救われるように、私たちは祈る必要があります。そしてそればかりか、この世でキリストのみあとを自分の十字架を背負って生きる苦難の生き方、報われる苦難の生き方を私たちともにしていくことができますように、そのことも祈ってまいりたいものです。 そのようにして、やがて来る破滅をいたずらに恐れるのではなく、その日に義のさばきと救いが実現され、主の栄光が顕されることを喜びつつ待ち望む私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

「終末の騎馬」

聖書箇所;ヨハネの黙示録6:1~8/メッセージ題目;「終末の騎馬」  ギャンブルをしない私は大まかな印象で語ることしかできませんが、いわゆる公営ギャンブルの、競馬、競輪、競艇、オートレースのうち、競馬というものはほかの競技に比べ、かなり性質が異なっていて、それが人気の秘訣となっているように思えます。それは何よりも、自転車やモーターボートやオートバイが、乗り物、ありていに言ってしまえば「道具」なのに対して、競馬の馬は「生き物」ということが最大の理由でしょう。  そして何よりも競馬の魅力は、人と馬とが一体となって疾走する、そのかっこいい姿ではないでしょうか。あるクリスチャンの方が言っていましたが、私はクリスチャンだから賭け事はしないけれども、競馬場に行ってみて、馬を見てみたい。気持ちはわかります。そうです、馬の姿はなんと言いますか、人を惹きつけてやまない魅力があります。  本日のみことばは、馬が登場します。子羊なるイエスさまが秘められた巻物の7つの封印をひとつひとつ解いていかれるとき、馬に人がまたがる騎馬が登場していきます。ヨハネの黙示録6章においては、7つの封印のうち6つの封印が解かれていきますが、ここには終末の様相が展開していきます。 今日はそのうち4つの封印が解かれる様相について学びます。それはどのような展開であり、私たちはクリスチャンとして、その展開から何を学び、それゆえに何を決断すべきでしょうか。ともに学んでまいりたいと思います。  まずその前に、だいじなことを確認しておかなければなりません。私たちは「世の終わり」すなわち「終末」というものと、「世の終わる終わりの日」というものを、厳密に区別する必要がある、ということです。  私たちはとかく、今生きている世の中に起こるあらゆる事象を見て、そう、経済危機とか地震とか津波とか放射能とか、このところではコロナとか、そういうことが現実に起こっているこの世界の有様を見ると、世の終わりは近いと言いたくなるものではないでしょうか。 しかしはっきりさせておかなければならないことは、イエスさまが復活され、天に昇られて以来、再臨されるまで、世界はずっと終末である、ということです。現実にこのような危機が訪れているから終末、もちろんそれはそうなのですが、それ以上に、今私たちが生きるこの時代は、イエスさまが天に昇られて、その再臨を待ち望む終末である、と捉えるべきです。   私たちは「世の終わる終わりの日」が今すぐにでも迫っているかのように、あわてたり、うろたえたりせず、「今生きている終末」を見据え、落ち着いて、なすべきことを祈りつつなしていくようにしていく必要があります。  ヨハネの黙示録はもちろん、「世の終わる終わりの日」を語っていますが、そこに語られている事象と現実に起こっている事象が一致しているように見えるからと、そら世の終わりだ、世界は終わるなどとなってはなりません。 とは言いましても、ヨハネの黙示録が終末を語る書であることは確かなことであり、この書が開かれてから1900年あまり、世界はこの書の警告するような歩みを繰り返して、世の終わりにふさわしい状態にありました。キリスト教会も、絶えずその生きた時代が終末であることを意識してきました。  私たちはヨハネの黙示録を、未来に対する占いのような現実離れした書物と捉えてはなりません。むしろ、今現実に生きる私たちにとっての、きわめて現実的な指針として、しっかりそのみことばを受け止めていく必要があります。  以上の前提で、ヨハネの黙示録を引きつづき学んでまいりたいと思います。本日の箇所、ヨハネの黙示録6章です。1節から8節までのみことばにおいて、2節に1つずつ、合わせて4種類の騎馬が出てまいります。まず、1節と2節を見てみましょう。……子羊イエスさまが、第一の封印を解かれます。「来なさい」と言ったのは、4章と5章に登場する4つの生き物のひとつであり、その4つの生き物のひとつが、それぞれどの生き物なのかは明確に描かれていないにせよ、合わせて4回、「来なさい」と言い、そのたびに騎馬が登場します。 この四つの生き物は、獅子のような権威、雄牛のような活力、人間の顔の象徴する知恵、鷲のような行動力を投げ出して天上にてイエスさまに礼拝をささげる存在であることは、すでに学んだとおりです。この存在は、天上の礼拝の模範を人々に示す御使いです。  御使いが「来なさい」と言うたびに、騎馬が呼び出されます。まず現れたのは、白い馬であり、冠をかぶって弓を手に携えています。彼は、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出ていきました。  この白馬にまたがった人は、いったいだれでしょうか? ヨハネの黙示録19章の、白馬にまたがった勝利の王なるイエスさまのイメージが頭にある人は、これはイエスさまだ、とおっしゃるかもしれません。 しかし、子羊なるイエスさまが封印を解いておられるときに、イエスさまが騎馬のように現れるというのもおかしなことです。それに、あとにはさらに3つの封印が解かれていきますが、そのたびに騎馬が登場するわけで、それらの騎馬のイメージと合わせて考えると、のちほどまとめて説明しますが、この白い騎馬の人物はイエスさまとは合いません。それならこれはだれでしょうか?  それはあとで見るとして、先に3節、4節を見てみましょう。子羊イエスさまは第二の封印を解かれます。すると、火のように赤い馬が出てきました。その馬にまたがる者の役割は、地から平和を奪い取り、互いに殺し合わせるようにすることです。  これは第一の馬、白い馬よりもイメージが明確です。馬が火のように赤いということは、戦いで流される血を連想します。まさに、血なまぐさい戦いの象徴です。しかし、このような存在がみこころにより呼び出されることを、私たちはどのように理解すればよろしいのでしょうか?  イエスさまは、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」とおっしゃって、すべての戦争、争いを否定されたのではないのでしょうか? それなのに、このような赤い馬が登場して戦争の存在が許されるとは、どう理解すればよろしいのでしょうか?  5節から6節です。第三の封印が解かれました。黒い馬に乗った者は秤を手にしていました。何を量るのかといえば、6節にあるとおりです。……1コイニクスが約1リットルなので、頭の中でリットルに置き換えていただければと思いますが、1デナリ、つまり1日分の稼ぎで、ようやく小麦1リットル、安い大麦なら3リットル、頑張って頑張って、ようやく口に糊するだけの食べ物が手に入れられるということであり、これは、赤い馬に象徴された戦争の結果、品不足で、たいへんな飢饉と物価の高騰が起こるということです。当時の物価から考えるならば、8倍から16倍くらいに高騰したということだそうです。500円のお弁当を食べるなら、それが4000円とか、8000円という世界です。どうしようというのでしょうか。  さて、その一方で、オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない、ということについてですが、オリーブ油もぶどう酒も、21世紀の現代においても変わらず高級品です。高級品をたしなむ、いわゆる上流階級の人は害を受けない、相変わらず守られる、貧困にあえぐのはいわゆる下層階級の人である、という、社会の二極分化が起こる、ということです。これは今現実に日本で起きていることです。金持ち、支配層は、庶民が飢えようが、貧困にあえごうが、知ったことではない、そういう不義の社会になるということです。  このような不条理がみこころによって許される、神は愛ではないのでしょうか? どう理解すべきでしょうか?  そして7節から8節、青ざめた馬の登場です。五木寛之の小説『蒼ざめた馬を見よ』は、まさにこの聖書箇所から名づけられた題名ですが、この馬は単なる「青色」ではなく、死人の顔のように青ざめた色です。  むかし、山本七平という聖書関係の書店のオーナーが、イザヤ・ベンダサンという名前のユダヤ人になりすまして『日本人とユダヤ人』というベストセラーを書き、その中で、この「青ざめた馬」という表現は誤訳だといちゃもんをつけました。これは結構知られていることのようで、私も学生時代、ある新興宗教の信者の友達から、「青ざめた馬」って誤訳らしいね、と言われた経験があります。まるで日本語の聖書が間違っていると馬鹿にされたように思えて、憮然としたものでした。  しかし、これは真に受けてはいけません。東北学院大学名誉教授の浅見定雄先生はこの件で山本七平を批判して、こんなユーモラスな表現を用いています。「なにしろこの馬に乗っているのは『死』だというのですから、馬の方も相当『あおざめ』ていなければならないのです!」というわけで「青ざめた馬」で合っていますので、惑わされないようにしたいものです。  人はどのようにして死ぬのでしょうか? ここまで見てきてわかることは、第二の馬、赤い馬のもたらす戦争によって、また、第三の馬、飢餓によって、人々は死にます。また、8節のみことばはそれに付け加えて、「死病」によって、また「野の獣」によって死ぬとも語ります。  戦争に伴い飢餓が蔓延すると、それに伴って衛生環境が劣悪になります。伝染病が流行して死ぬ人が多く現れます。現代における新型コロナウイルスの流行は戦争が直接の原因ではありませんが、ある意味「死病」という点で、この6章8節のみことばに通じる者がります。 また、戦争によって荒廃するところには野獣、猛獣が幅を利かせるのも常で、それらによって人は死にます。これは象徴的にも解釈することができるでしょう。戦いのもたらす人の心の荒廃は、人を精神的にも肉体的にも霊的にも病ませ、人を獣のようにします。そうして人は、霊肉ともに死んでいくのです。 このようにして人が倒れていくことを神は許される、どう理解すべきでしょうか? ただ、それでも救いというべきなのは、青ざめた馬、死の騎馬の権威により死ぬのは地上の4分の1であり、これはこのさばきは限定的なものである、と書かれていることです。それでもたくさんの人が死ぬことが許されているのは、変わりがありません。   さて、こうなりますと、第一に登場した「白い馬」が何者か、いよいよ気にならないでしょうか? それを解く鍵になるみことばがあります。マタイの福音書24章、3節から8節のみことばです。   ここでイエスさまは、弟子たちに対し、世の終わりに起こることを予告していらっしゃいますが、よく見ると順番があります。第一に4節と5節、惑わす者、偽キリストが出現するとあります。第二に6節と7節、戦争や戦争のうわさ、民族や国家の対立、そして第三に飢饉、それから地震とありますが、6節以下を見てみますと、子羊が開く第二の封印、第三の封印、そして来週学びますが、第六の封印と、順番が一致しています。   こういったことは、世の終わりにおいて、主がその存在と活動をお許しになるものです。なぜこの世界には戦争が存在するのか? なぜこの世界には飢饉や貧困が存在するのか? なぜこの世界には自然災害が存在するのか? 理由を問うならば、私たちは答えが見つけられなくて悩むばかりです。しかし、私たちがそれでも認めるべきことは、私たちのことを愛しておられる、愛なる神さまご自身が、これらの不条理の存在と活動を許しておられる、ということです。  そのことから何がわかりますでしょうか? 私たちが、神さまなしには生きることのできない存在である、ということです。 そこから私たちは、神さまに立ち帰る信仰が生まれてまいります。そうです、ヨハネの黙示録に展開する恐ろしい光景は、私たちがどうしても、イエスさまに立ち帰らなければならないことを教え、そこから永遠のいのちの交わりへと私たちを導く、素晴らしい導き手の役割を果たします。神さまを離れた人間の営みはいかに悲惨で、恐ろしいものしか生まないことか。その世界の破滅を意識し、恐怖におののくならば、すぐにでも主の御許に立ち帰るべきです。  そうなると、第一の封印が解かれて現れる白馬の者とは何者か、ということになるでしょう。これが再臨のキリストではないとしたらだれでしょうか? そうです、マタイの福音書24章4節、5節と考え合わせると、これは、キリストのなりをした偽キリストです。  6章2節の白馬の者は、弓という武器を持ってはいますが、その武器は利き剣のみことばではありません。また、冠をかぶってはいますが、これはギリシア語の原語を見れば一目瞭然で、王さまがかぶる王冠ではなく、スポーツの競技に勝利した者がかぶるような冠です。キリストに似ていますが、ちがうのです。 そしてこの者は、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出ていきます。戦って勝利を得つつある中で、さらなる勝利を得ようと、貪欲になっている姿です。この偽キリストにとって勝利とは何でしょうか? できれば選ばれた民をも惑わして、ひとりでも多く真理の道から迷い出させ、地獄に道連れにすることです。   戦争ですとか、飢餓ですとか、貧困ですとか、そういった問題も確かに大きなものです。しかし、そのような問題が起こる最大の理由は、キリストを差し置いて王の位に座ろうと貪欲になる者の存在です。その自己中心、イエス・キリストという真理をあらゆる代用物に取り換えようとする試み、それが戦いを生み、争いを生み、ひいては飢餓や貧困のような人間社会の闇を生み出します。   現在多くの人は、多様性ですとか人権ですとか、そのようなものが強調されることで、よりよい社会を目指し、また、そうすることでよりよい社会になっていくと信じています。 しかし、その試みは果たして、神さまの御目から見たらどうなのでしょうか。あらゆる人が平等なのはそのとおりですが、それは果たして、あらゆる宗教には等しい価値がある、ということになるのでしょうか。もしそのように主張するなら、キリストのほかに救いがないと主張する聖書のおしえ、私たちの教えなどは、多様性を尊重するという建前の社会から真っ先に抹殺されることにならないでしょうか。多様性など口ばかりです。   でも、中には「物わかりのいい」クリスチャンもいるようで、そのような社会の歩みに歩調を合わせるべきだ、と主張します。もちろんイエスさまは謙遜なお方で、私たち神の子どもたちもそうあるように、おん自ら謙遜な姿勢を示してくださいましたが、私たちは考える必要があります。この世と調子を合わせて謙遜なポーズを示すことは、果たして、イエスさまが示された謙遜な姿勢と同じものなのだろうか?   私たちがへりくだったなりをするのは、しょせんは、自分たちを受け入れてもらおうとするようなあさましい心があるからではないだろうかと、きびしく、自分自身を振り返る必要があります。クリスチャンがそうして身を低くしているうちにも、この世の勢力はどんどん、私たちのいるべき領域を奪います。   先週私は、保守バプテスト同盟の教職者の勉強会、チームワークミーティングに参加して、同志社大学で社会福祉について専攻していらっしゃる木原活信教授という方の講義をお聴きして、目が開かれたことがありました。それは、戦前日本で社会福祉といえば、国家やお役所のような行政が担うものではなかった、というのです。その頃、社会福祉の人物を3人挙げるとすれば、山室軍平、石井十次、留岡幸助、そう、3人ともプロテスタントのクリスチャンで、社会福祉というかたちで弱者に仕える人とは、当然それはクリスチャンのことだったという時代があったのでした。  しかし戦後になって、社会福祉は公的な機関が担うものへと変容させられました。それは一見すると、日本という国が福祉国家として成熟した、よいことのように見えますが、見方を変えれば、福祉の分野にキリスト教会が入り込めなくなった、弱者に仕えることで主の栄光を現す機会が奪われてしまった、ということでもあったのでした。実際、そういう施設において、どれほど宗教的な要素というものは取り除かれていったことでしょうか。そういう施設で伝道ができるでしょうか? お祈りができるでしょうか? 聖書のお話ができるでしょうか?…

天上の礼拝

聖書本文;ヨハネの黙示録5:1~14/メッセージ題目;「天上の礼拝」 20年ほど前、神学校を卒業して仙台の教会で働いていたとき、私は教会の若者たちとともに子ども相手の働きをしていました。そのとき私たちは、子どもたちにこんな質問をよくしたものでした。「ねえ、天国ってどんなところだと思う?」するとたいていの子どもはこう答えます。「うーん、花がいっぱい咲いているところ……。」 天国とはいっぱいのお花ですか、なるほどねえ……ひたち海浜公園とか、石岡フラワーパークとかを、もっとすごくした感じでしょうか……きっとこのようなイメージは、子どもにかぎらず、多くの日本人の持つイメージなのだと思います。だれでもおおまかに、天国というものに対するイメージを持っているわけです。 でも、私たちクリスチャンは、聖書をお読みすることによって、天国を垣間見ることを許されています。私たちは天国という場所に対してあれこれ詮索しないで、聖書をお読みすることによって、ふさわしいイメージを持ってまいりたいものです。お花いっぱいをイメージする方には残念なことを申し上げますと、聖書には、天国がお花いっぱいと書いてはいません。まあ、実際はもしかするとお花がいっぱいで、聖書に書いてないだけかもしれませんけれども。 ともかく、聖書の語る天国のイメージ。今日の本文を見ますと、イエス・キリストがほめたたえられ、イエス・キリストが礼拝をお受けになっている様子が描写されています。天国とは、イエスさまが礼拝をお受けになる場所です。 今日のメッセージは、特にイエスさまというお方に集中して学んでまいりたいと思います。では、本文の学びにまいります。3つのキーワードから解き明かしてまいりたいと思います。 第一のキーワード、それは「巻物」です。 今日の聖書本文の前半では、「巻物」ということばが、ひたすら繰り返し登場します。今日の本文は全部で14節ですが、その前半の方で、9節までの間に、なんと6節以外のすべての節で巻物が出てまいります。合わせて8節、全部で14節ある5章のうち8節に巻物が出てきます。半分以上です。この5章においては、巻物というものが極めて重要な役割を果たしていることが分かります。 現在私たちは、こうして製本された聖書を手にしていますが、むかしは言うまでもなく、聖書といえばたくさんの巻物に分かれていたものでした。こうして現に黙示録を記録しているヨハネの時代も、もちろん文書を記録して残す手段は巻物です。 では、ヨハネが見た巻物は何だったのでしょうか? まずそれは、御座に着いておられる方の右の手に握られていました。右の手は、神さまの力を現しています。神さまの力なる右の手、義の右の手に握られた巻物は、神の力、神の義に満ちた存在です。 しかし、これだけでは巻物の正体はわかりません。いったいこれは何が書かれた巻物でしょうか? 内側も外側も字が書かれているとありますが、何が書かれているのでしょうか? これを知る手掛かりは、旧約聖書にあります。おひらきになってください。エゼキエル書2章と3章のみことばです。 まずは8節から10節です。このとき神の民イスラエルは、まことの神さまを離れ、偶像礼拝の罪の中にあり、いよいよそのさばきがバビロン捕囚という形で実現し、完全な亡国の前夜という状況にありました。それでも心が頑なで悔い改めないイスラエル、神の民にみことばを語るべく、エゼキエルは神さまに遣わされていました。神さまはそのような状況において、幻のうちにエゼキエルに巻物をお示しになりました。 このときエゼキエルが見た巻物には、ヨハネが見たのと同じように、表にも裏にも文字が書かれていました。主はその巻物は広げられ、エゼキエルには書かれていた内容がわかりました。それは「嘆きと、うめきと、悲痛」だったというのです。 3章以下を見ますと、神さまはエゼキエルに、この巻物を食べさせ、イスラエルの民にみことばを語れとお命じになりました。この巻物は「嘆きと、うめきと、悲痛」のことばに満ちてはいましたが、口にすると蜜のように甘いものでした。しかしそのみことばは、みことばに対して心を閉ざす頑ななイスラエルに対して、それでも堂々と語るように、主がエゼキエルの口に授けてくださったものでした。 この、エゼキエルの目の前に展開された巻物は、神さまが人と結ばれた契約に人が違反した場合に注がれる呪いを象徴しているとも言えます。また、開封されてその書かれた内容が実行されるべき遺言状とも言えます。ヨハネが見た巻物も、そのような意味で共通していたと言えます。実際、ヨハネの生きた時代、ヨハネもまたその一員であったローマ帝国において、遺言状や契約書というものは、羊皮紙の表裏両面に文字が書かれたもので、詳細な内容が内側に、その要約した内容が外側に書かれ、7つの封印がなされていました。 まさにヨハネの見た幻のとおりです。ヨハネの前に提示された巻物は、ほかならぬ神のみこころそのものでした。神のみこころ、神が愛であることが実現する場は、キリストのからだなる教会においてです。この封印が解かれるなら、教会を愛しておられるという神のみこころははっきり示されます。 しかし、この封印は、7つあり、完全に、完璧に封じられていました。この完璧な封印は、天上の御使いにも、24人の長老たちにも、4つの生き物にも解けませんでした。創世以来の世々の聖徒たちにも、預言者たちにも、使徒たちにも解けませんでした。このまま神はみこころを秘められたまま沈黙されて、教会は反キリストの手によって滅びることが許されようというのだろうか……ヨハネは絶望に襲われ、激しく泣きました。 しかし……ここに大いなる希望が示されました。7つの封印を解いて、神のみこころを示すお方がいらっしゃるというのです。それはイエスさま、あらゆる神に敵対する勢力に勝利されたお方、イエスさまが、その勝利によって封印を解いてくださる、というのです。 7節をご覧ください、イエスさまは、御座に着いておられる御父の御手から巻物を受け取られました。御父が、巻物を開いて啓示することをお許しになった唯一の存在、それはイエスさまです。9節をご覧ください。4つの生き物と24人の長老たちは、イエスさまというお方が、御父から巻物を受け取られ、封印を解くにふさわしいお方だということを告白し、讃美しています。そうです。イエスさまは御父のみこころを握られ、伝えられる主権をお持ちのお方ゆえに、ほめたたえられるお方です。 ヨハネの時代、神の教会は風前のともしびだったと言えましょう。その現実を見れば、どれほど絶望に襲われるしかなかったことでしょうか。現に使徒たちは次々と殉教し、当のヨハネはパトモス島に島流しの憂き目に遭っていました。しかし、その現実以上の現実は、神さまのみこころです。神さまはイエスさまのゆえに、沈黙していらっしゃいませんでした。慰め主なるイエスさまを通して、はっきりみこころをお示しくださり、教会を力づけてくださいました。 私たちも今、コロナ下で礼拝をささげるために集うこともままならないという現実の中にいます。私たちの群れはこうして集えるだけまだよいですが、私の知っている教会の中には、礼拝そのものを中止してしまっている群れもあります。 そのような兄弟姉妹のことを思うと、胸が痛むばかりです。しかし私たちは、この現実の中で絶望していたままでいることはありません。 イエスさまは勝利を得られ、御父のみこころを示してくださいます。それはわざわいをもたらすものではなく、いのちと平安をもたらしてくださるものです。私たちはもう、自分たちの身の上の絶望的な状況を案じて泣いたり、悲しんだりすることはないのです。私たちの現実はこの悲惨に見える世界ではありません。勝利を取ってくださったイエスさまです。 では、イエスさまはどのようにして勝利を取ってくださったのでしょうか? そこで第二のキーワードにまいります。第二のキーワード、それは「屠られた小羊」です。 5節のみことばをお読みします。……ここでイエスさまは、ユダ族から出た獅子、ダビデの根、と表現されています。主がむかしからのお約束のとおりにこの地上に送ってくださったお方、このお方は獅子のごとく、近づきがたい権威をまとわれた強いお方であり、このお方が勝利された、というのです。 獅子は、勇猛果敢に獲物と闘って勝利します。イエスさまもそのように、サタンと勇猛果敢に闘って勝利され、鬣(たてがみ)をなびかせるがごとく、勝利者として君臨されます。 しかし、実際の闘いの姿は、私たちの目にはどのように見えたのでしょうか。6節のみことばをご覧ください。……屠られた子羊として、屠る人の手に従順にわが身を差し出すがごとく、十字架におかかりになりました。御父のみこころを、そのようにしてなしとげられました。 それでもこの子羊は、私たちの知っている子羊、そう、それこそ、2週間前の日曜日のその生態を学んだ、詩篇23篇の子羊とは、大いに異なった姿をしていました。7つの角と7つの目を持っていました。角とは力の象徴であり、それが7つあるということは、完全な力を身にまとっておられる、ということです。 また、7つの目、すなわち7つの御霊。この世界すべてと、この世界に存在するすべてのキリストのからだなる教会を知っておられるお方の全知の象徴です。すなわちこの子羊は、全知全能なる力あるお方、ということです。 しかしこのお方は、屠られたお姿でここにおられます。すなわち、子羊なるイエスさまにとっての究極のお姿は、十字架で死なれたお姿、ということです。しかし子羊はほふられてはいても、死んで横たわった状態でここにいるのではありません。生きて、立っておられます。 十字架で死なれて私たちを罪と死から贖い出し、御父の怒りから救い出してくださって、私たちを御父のもとへと導いてくださったまま、永遠に生きておられるのです。このお方は全知全能なるお方であり、この世界のすべてを見渡されます。そして、すべての教会を見渡していらっしゃいます。イエスさまの御目にはもちろん、この水戸第一聖書バプテスト教会のすべての聖徒たちも見えていらっしゃいます。 この時代の教会は苦難のどん底にありましたが、忘れられてはいませんでした。この地上で勝利し、のちの世で究極の勝利をするように導かれていました。私たちもまた、いまはあらゆる苦しみを体験しているかもしれません。コロナなどその最たるものでしょうし、コロナが引き金となって、私たちクリスチャンのことを悪く思ったり、色眼鏡で見たり、そのような苦しみを私たちは通らされているかもしれません。 しかし、私たちはそのような世の中であえてがんばって、自分の正しさを主張する必要はありません。すべてはイエスさまが十字架のうえで成し遂げてくださいました。私たちのすることは、このようにすべてを成し遂げてくださったイエスさまを信じることだけです。そこから賛美が生まれ、礼拝が生まれます。 私たちは、イエスさまを礼拝すべく、あらゆる部族、言語、民族、国民(くにたみ)の中から選ばれて、いまこうして御前におります。私たちはこの選びの恵みのゆえに、神さまをほめたたえずにはいられません。世々の聖徒ともに礼拝者として御前に集うことを許されているゆえに、心から感謝いたしましょう。 そこで最後の、第三のキーワードです。第三のキーワード、それは「礼拝」です。 8節をご覧ください。4つの生き物と24人の長老は、巻物を受け取った子羊、イエスさまの前にひれ伏しました。 彼らは何を手にしていましたでしょうか? 竪琴、そして聖徒の祈りという名の香の満ちた鉢を手にしていました。 竪琴、というと、もちろん、音楽のために用いるものですが、旧約聖書で竪琴というと、すぐに思いつく人物はいませんか? そう、ダビデです。ダビデはゴリアテを倒す初めての闘いの前から、悪霊に取りつかれて精神を病んでいたサウル王のそばで竪琴を奏で、悪霊を去らせる役割を果たしていたほどの、竪琴の名手でした。 そのダビデはまた、詩人として、数多くの讃美の詩を残し、その多くが「詩篇」という形で聖書に収録されました。先々週学んだ詩篇23篇は、野の羊飼いとしての体験から生まれた実に美しい詩です。 竪琴、それは、神さまをほめたたえる讃美の歌を歌うために奏でる楽器です。讃美において楽器を用いるか否かということに関しては、教団・教派で見解が分かれますが、私たちは、聖書の中にこのように楽器についての記述が多く出てくることからも、楽器は大いに活用すべきと考えてよろしいと思います。なんといっても楽器を用いる最大の根拠、それはこの5章8節のみことばではないでしょうか。楽器の伴奏のある讃美は奨励されてしかるべきです。 琴、ということにかぎっても、この礼拝堂の左右にある、オルガンは「風琴」、ピアノは「洋琴」であり、「琴」です。ギターやベースも弦楽器だから「琴」です。私たちは今もなお、讃美をささげるにふさわしい者とされているのです。 また、イエスさまを礼拝するにあたっておささげするかおり高い香は、祈りです。宗教儀式としてのお香をささげるのではありません。祈りとはイエスさまが慕わしくて、イエスさまと一緒に会話したくて、ひとりでにささげてこそではないでしょうか? まさしく祈りとは、イエスさまとの交わりです。その交わりが積み重なって、イエスさまの前に香る礼拝となるのです。 そういえばですが、みなさまの中には「いのちの道コース」を受講された方も多くいらっしゃいますが、お祈りというものの要素を改めて振り返ってみましょう。「あれをしてください!」「これをかなえてください!」そればかりがお祈りではありません。そこで、おててをご覧ください。この手の五本指は、お祈りの要素を表しています。 まずは親指。これは「賛美」です。親指、お父さん指、これは、私たちのお父さんである「神さま」です。神さまが神さまだから賛美するのです。 次に人差し指。これは「感謝」です。神さま、イエスさま、感謝します。お母さん指、先週私たちは「母の日」でしたが、「ありがとう」と言われるのは、お母さんです。なぜかお父さんはそれほど、ありがとうと言われない! ともかく、賛美して感謝するのです。 次に中指、これは五本指の中でいちばん長い、出る杭は打たれる、とありますが、杭、を、あらためる、と覚えてください、そう、「悔い改め」です。自分から神さまに方向転換する、これが「悔い改め」です。 そして薬指、薬を使って人を治します。そのように、人のために祈ります、その人の状況がよくなるように。そう、「とりなし」です。 最後に小指、赤ちゃん指、赤ちゃんが欲しいものを欲しがるように、大胆に神さまに求めます。願い求める祈りです。 以上、賛美、感謝、悔い改め、とりなし、願い求め、この祈りの生活を、私たちがしっかりしているなら、天の鉢はあふれ、イエスさまの御前に立ち上るお香はいよいよ豊かに、香り高いものとなります。 しかしこの場面をご覧ください、ここでささげられている祈りは、この5つの中でも、特に「賛美」に集中していることにお気づきだと思います。9節と10節。イエスさまがこのように、私たちを選び、王国とし、祭司として御前に立たせてくださり、地を治めさせてくださるゆえに、イエスさまをほめたたえています。当たり前のことではない、まことの恵みのゆえに、これほどまでにもったいない立場にならせていただいたとは。 そして、見渡すかぎり埋めつくす御使いは、こぞってイエスさまをほめたたえています。12節です。すべてをイエスさまにお帰ししています。そして13節、すべての被造物がほめたたえ、14節、4つの生き物は「アーメン」と言い、24人の長老はひれ伏しています。 賛美と祈りに満ち、イエスさまにご栄光をお帰しする、これこそ礼拝です。礼拝とはお勤めのような宗教的行事でもなければ、さりとてエンターテインメントでもありません。私たちの中心でイエスさまの栄光が燦然と輝き、礼拝者が謙遜のかぎりをつくし、イエスさまにすべての讃美と感謝と祈りがささげてこそ、礼拝は礼拝となります。 私たちが招かれているこの場は、まさしく、天上の礼拝が実現した場所です。このただ中にイエスさまがおられます。恐るべきお方……しかし、畏れ多くも、私たちのことを友と呼んでくださり、すべてのみこころの秘密を明らかにしてくださるお方……私たちは日曜日ごとに、そして普段の生活を通して、このお方をともに礼拝すべく招かれています。 イエスさまは十字架の死をもって、罪と死とサタンに勝利してくださいました。その勝利ゆえに、秘められたみこころは私たちに明らかになりました。そのみこころとは、私たちもまた世とサタンに勝利し、永遠に統べ治める者とならせていただく、ということです。そのように、ご自身が勝利され、私たちに勝利を与えてくださったお方、イエスさまは、永遠に礼拝をお受けになるお方です。 今このようにして、私たちも礼拝にともに連ならせていただいていることに、心から感謝しましょう。では、お祈りいたします。

「ここに上れ」

聖書箇所;ヨハネの黙示録4:1~11/メッセージ題目;「ここに上れ」 高校生の時参加した、松原湖バイブルキャンプの話です。キャンプでは三度三度のお食事の時間、特定の仲良しさんだけが固まらないように工夫して、その食事ごとにいろいろテーマを決めて高校生たちを席に着かせていました。「なになにが好きな人」はこちらのテーブルに! ですとか。 ある日のお昼ごはんだったと記憶していますが、「どこの国に行きたいですか?」という質問のとおりに、みんな席に着きました。アメリカですとか、フランスですとか。8人掛けぐらいのそれぞれのテーブルに、国の名前を書いた札が置いてあります。私は「ドイツ」にしました。特にドイツが好きだったからではありません。なんのことはない、ちょっと可愛いな、と思った女の子がそこにいたからでした。 で、私の座ったその席から隣のテーブルを見たら、国の名前が書いてある札が見えました。何と書いてあったか。「天国」。私は、しまった! と思いました。気が付くともうそのテーブルは、人でいっぱいでした。私は後ろめたいと思いと、さりとてその女の子に話しかける勇気も出なかったのとで、おいしいはずのごはんの味も忘れてしまいました。 天国、すべてのクリスチャンの憧れです。みなさん、天国に行きたいですか? でも、今すぐに行きたいですか? そう聞かれると躊躇してしまいますか? でも、この世界には天国に心からあこがれている人たちがいます。私たちが礼拝で用いている「聖歌」には、むかしのアメリカでつくられた「黒人霊歌」が多数収録されていますが、ミシシッピ川をヨルダン川に見立てて生きてきた黒人クリスチャンたちにとって、天国はとても近しいものだったにちがいありません。共産圏やイスラム圏のようなたいへんな環境でイエスさまを信じている人たちにとっても、きっと天国は近いだろうと思います。私たちにとってもそのようでありたいものです。 私たちはその時代の黒人クリスチャンたちほどには苦しくないかもしれませんが、それでも天国に希望をいだくことで、この地上の歩みに力を得られることに変わりはないはずです。本日からヨハネの黙示録の学びを再開しますが、ヨハネの黙示録はおっかない書物ではなく、天にまします神さまに希望を置く私たちにとっては、天国の望みあふれた、慰めの書物です。ともに学び、日々の歩みに力を得てまいりたいと思います。それでは今日の本文、4章です。 4章は3つのパートに分かれます。まずは1節、そして2節と3節、最後に4節から11節です。 1節から見てみましょう。1節をまとめると、「ヨハネは、イエスさまによって天国に招かれた」となります。 ここまでヨハネは、小アジアの7つの教会に対してイエスさまが語られるみことばを聴いてきました。そのみことばは、迫害の中にある彼らに対する励ましであり、また、愛が冷えたり世と妥協したりする彼らに対する叱責でした。いずれも、地上の教会に対するみことばであり、彼ら教会は地上にある以上不完全であったり、迫害を受けたりします。私たちと同じです。 イエスさまはしかし、ヨハネの視点を、地上の教会から天上に導かれます。「ここに上れ。この後(のち)必ず起こることを、あなたに示そう。」地上は不完全ですが、天上は完全です。なぜならそこは、神さまとありのまま、顔と顔を合わせてまみえる場所だからです。イエスさまはそこに、「上れ」と導かれます。 天上には開いた門がありました。門が開いているのは、ヨハネが入ることを許されたからです。イエスさまが、ご自身の啓示を伝えるために、ヨハネをお選びになったからです。 しかし、この開いた門から入って、イエスさまがお告げになるみことばを聴くためには、「ここに上れ」というイエスさまのご命令にお従いし、実際に「上る」ことをする必要があります。どのようにしてそのご命令が守られるのかは次のポイントでお話ししますが、とにかく、イエスさまは「上れ」と命令されたのです。 天国というものは、「上れ」というイエスさまのご命令があって、そのご命令にお従いする心を持つことではじめて入ることを許される場所です。逆に言えば、イエスさまが「上れ」とおっしゃっているのに、お従いする気もなく、不完全なこの地上に執着しているならば、私たちはまだまだ、みこころよりもこの世の方を大事に思っている、ということになります。 とはいいましても、ヨハネはこのように「上れ」と言われはしたものの、これで完全に天国に入って、エノクのように、あるいはエリヤのように、この地上から取り去られ、二度と地上に現れなくなったわけではありません。この一連の黙示が終わったら、また地上の歩みに引き戻されました。 しかしヨハネの歩みは、もう以前のようではありませんでした。ヨハネは、主の教会がローマ帝国とユダヤの宗教社会から激しい迫害にあい、自身もパトモス島に島流しにあっていたという現実の中で、「上れ」というみことばどおりに主が天国のビジョン、反キリストが究極的なさばきにあうことを壮大な絵巻のように見せてくださって、新しい生きる力が与えられました。ヨハネはこの黙示が与えられたことにより、主の教会に天国のビジョンを示し、力づける人となり、新しい出発を果たしたのでした。 同じように私たちも、「ここに上れ」と言われるということは、単に死んで天国に行くということを指しているわけではありません。この地上に生きていても、「上れ」というイエスさまのご命令は、いつでも私たちに与えられています。 私たちも、不完全な地上の様相、そう、いまだったらコロナに右往左往させられている現実などその最たるものですが、そのような現実に傷つき、疲れ果てているかもしれません。礼拝に集えない聖徒の存在は、島流しにあった孤独なヨハネをほうふつとさせます。 しかしイエスさまは、私たちにおっしゃいます。「ここに上れ」。私たちはそのようにして、天国に招かれ、イエスさまのみことばをお聴きして、慰めをいただくのです。今私たちは礼拝堂で御前に集い、礼拝堂にいらっしゃれない方も、こうして文字をお読みになることを通して御前に集っていらっしゃいます。あるいはどこかで、音声でメッセージに耳を傾けて礼拝をささげていらっしゃるでしょうか。 それは、「ここに上れ」というみことばをいただき、開かれた天の御国の門の中へと招いていただいている、ということです。天国の招待状、それは「ここに上れ」というイエスさまのみことばであり、いまこうして、私たちがそのお招きにお応えしていますことを、心から感謝したいと思います。 そして、ヨハネがそうだったように、私たちも主の御前にてみことばをお聴きして慰めをいただき、この慰めのみことばを地上にて宣べ伝えるという、新しい使命を帯びて遣わされ、用いていただくのです。 その生き方は私たちにとって喜び、いえ、神さまにとって喜びであり、その喜びの生き方をすることは、私たちにとって最高の生きがいとなることです。お仕事をすることも、お勉強をすることも、みな、ヨハネのように、イエスさまだけが与えてくださる慰めを地上に宣べ伝えるために、主が用いてくださるものです。それゆえによりいっそう、日々の歩みに力を得て励んでまいりたいものです。 では、私たちはいかにして、「ここに上れ」というみことばにお従いするのでしょうか。そこで、つづいて2節と3節にまいります。まとめると、「ヨハネは、聖霊によって神の御座の前に引き出された」となります。 「ここに上れ」とイエスさまがおっしゃったとたん、たちまち、聖霊なる神さまがヨハネを捕らえ、天の御座の前、御座にましておられる神さまの前に引き出されました。ヨハネが見たのは、碧玉にも赤めのうのようにも見えるお方で、御座の前にはエメラルドのように見える虹がありました。みなさん、どう思いますか? みなさんは宝石屋さんにお入りになったことがありますでしょうか? 私は子どもの頃、地元埼玉は与野の、時計屋さんを兼ねた貴金属店に入ったことがあるくらいで、宝石店というにはほど遠いものでしたが、それでもその中にディスプレイされたものはとても高価なものばかりで、子ども心にとても緊張したものでした。与野の時計屋さんでそうならば、東京の銀座や表参道の宝石店など、私の想像を絶する世界です。 でも……それらの宝石店の宝石だって、とてもとても小さなものしか置いていません。神さまはその壮大さにおいて、威厳において、美しさにおいて、スケールがちがいすぎます。巨大な宝石そのもののようなお方、その御前の巨大な宝石の虹……考えただけでくらくらしてきませんか? このまことの富、まことの美なる方の前に、私たちは引き出されているのです。それは「ここに上れ」というイエスさまのみことばに従順になるように、聖霊なる神さまに促されての結果です。 私たちはイエスさまに「ここに上れ」とおっしゃっていただいても、御霊の力がなければそのご命令に従順になることができません。私たちの礼拝するお方は最高の美であり、最高の権威であることを、頭でわかってはいても、その御前に出ていこうという気持ちにならないのです。 しかし、ヨハネは明らかに、天国を渇望していました。ヨハネは「ここに上れ」というご命令に「はい!」とお答えする前に、たちまち御霊さまがヨハネを捕らえて、天上に連れていかれたのは、ヨハネが明らかに、「ここに上れ」と言われれば、時を移さず従順にお従いすることを聖霊さまはご存じだったからです。私たちに礼拝する心、天上に引き上げられて主とまみえたい心があるならば、聖霊なる神さまは「ここに上れ」というイエスさまのみことばに従順にならせてくださり、まことの威厳、まことの富、まことの美を見せてくださいます。 私たちがもし、この地上で貧しさを覚えていたとしても、富んでいる人に対して劣等感を持つ必要はありません。まことの富、まことの美であられる主の御前に出ていくことです。あるいは私たちが富んでいるならば、そのことを誇ってはなりません。主の御前においてその富は、ないも同然です。私たちの誇るべきは自分の富ではなく、豊かな富そのものであられる主ご自身です。 私たちは今こうして、「ここに上れ」というイエスさまのご命令に、聖霊なる神さまのお導きによって従順にお従いさせていただいています。私たちは今どこにいるのでしょうか? まことの美、まことの富なる神さまの御前です。私たちがこのお方のものであるということは、このお方が私たちのものでいらっしゃるということです。 ゆえに私たちは、この世の苦しい境遇、悲惨な境遇にばかり捕らわれていてはなりません。もちろん、現実というものを無視することはできません。私たちはこの世の中という現実の中に生きて、主のご栄光を顕すものですが、そのように現実を見る目は、イエスさまのご命令にお従いすべく聖霊さまに天上に引き上げられ、神さまにお目にかかることから始まります。 私たちにとってはこの目に見える世界もたしかに現実ですが、それ以上の現実は、このようにみことばに啓示されているとおりの、天にまします神さまのご存在とみこころ、そしてみわざです。 いまこのようにしておささげしている礼拝は、ヨハネと同じ、神さまの御前に導いていただいていることです。私たちはこのお導きにより、地上のあらゆる労苦から解放され、まことの富をすでに得ており、のちの日には本当にその富にあずからせていただくということを信じるのです。 さて、そのようにして御霊によって導かれた神さまの御前において人がすることは何でしょうか? 言うまでもなく礼拝です。最後に4節から11節をまとめます。まとめますと、「被造物は、最高のものをもって神を礼拝していた」となります。主の御座のところには、二組の群れがいました。第一は24人の長老、第二は4つの生き物です。 24人の長老にはいくつかの解釈がありますが、この「24」という数字、また、「長老」という立場にある者は、ひとまとまりの民に対してリーダーシップを発揮する者であることを考え合わせると、どうなるでしょうか? 24人の長老たちとは、イスラエルの12部族、そしてキリストの12使徒の象徴を合わせたものと言えるでしょう。してみますと、旧約の民と新約の民がともに御前にいることになります。創世記のはじめに記録されている世のはじめ以来、歴史を超えて、完成された旧新約聖書を持つ現代の私たちに至るまでの、世から選び出されて御前にいる主の民すべてということができます。 彼らは一様に、白い衣をまとっています。きよい衣です。完全にきよい天の御国に入るのにふさわしい衣を着ています。黙示録19章8節によれば、花嫁に象徴された教会は、輝くきよい亜麻布をまとうとありますが、その亜麻布とは聖徒の正しい行いです。人間の努力ではない、神さまから恵みによってその行いが正しいと認められた人が、きよい衣を着せられます。 正しい行い、すなわち、イエスさまを主と受け入れ、イエスさまの十字架と復活を信じること、その行いには何の努力もいりません。赤ちゃんが抱っこしてくれるお母さんの顔を一心に見つめることを「努力」と言わないのと同じことです。神さまをたまらなく愛するように導かれる聖徒が、神さまによってきよい衣を着せられるのです。 そして、金の冠。戴冠、ということばがありますが、冠とは王さまがかぶるものです。第一ペテロ2章9節の語るような、王である祭司、聖なる国民なるクリスチャンにふさわしい象徴です。 しかし10節をご覧ください、彼ら長老はその冠を「投げ出した」とあります。彼らは王ではありますが、神さまこそがまことの王であると告白し、神さまの前に王権を放棄しています。そしてひれ伏しています。礼拝とは、神さまの御前に自分のあらゆる権利、権威、宝を放棄し、投げ出すことです。 11節の彼らの告白をお聞きください。……長老たちは、御座にますこのお方が創造主であり、全能者であることを告白しています。このように礼拝をおささげするお相手がどのようなお方なのか、よくわかった上で礼拝をささげているわけです。 イエスさまはヨハネの福音書17章3節でおっしゃいました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」神さまがどんなお方であるかを知れば知るほど、人は神さまの偉大さ、自分の小ささを悟らされ、神さまをますます礼拝するしかなくなります。 しかしその真実な礼拝は人にとって、いのちそのものです。礼拝が深まれば深まるほど、人のいのちは豊かになります。私たちがみことばを学んで、人生における知恵を知る以前に、神さまご自身がどのようなお方かを知ることは、私たちのいのちを保ち、豊かにするということで意味があることなのです。 4つの生き物はどうでしょうか? 獅子、雄牛、人間の顔、空飛ぶ鷲……この4つの被造物のうち3つ、獅子、雄牛、鷲はそれぞれ、野の獣、家畜、空の鳥のうちで最強の存在です。獅子がその権威において動物最強なのは、言うまでもないでしょう。「百獣の王ライオン」というぐらいです。雄牛はほかの家畜、ヒツジやヤギや馬やロバと比べて、大地を耕す労働力という点で際立っています。力強さの象徴です。鷲は「空飛ぶ鷲」と但し書きがあるとおり、空の上から恐るべき視力で獲物を狙い、ガッと舞い降りてそのくちばしや爪で獲物をひとさらいします。これもまた強さ、鋭さの象徴です。 人間は、これらの動物に比べるとその手足はとても弱いです。しかし、人間には顔が位置する頭があります。頭を使って武器や農耕器具をつくり、これらの動物たちにも負けない力を備えます。顔はまた、人間が知恵を備えた神のかたちであることを象徴するものです。人の顔は、ほかのあらゆる被造物と異なり、その存在には知恵があること、いえ、神と交わりをすることが許された「霊」があることを示しています。 4つの獣が絶え間なく神を賛美したということは、その権威、力、知恵、行動力のすべてを用いて、神を礼拝した、ということです。しかし、この生き物たちにはそれぞれ、6つの翼があったことも注目すべきことです。これはイザヤ書6章2節に登場する御使い、主の御前に立つセラフィムを連想させます。セラフィムは2つの翼で顔を覆い、2つの翼で足を覆い、2つの翼で飛んでいました。つまり、その力をもって行動する前に、自分自身をあらわす顔を覆う謙遜さと、自分の行動をあらわす足を覆う謙遜さを、あわせて主の御前であらわしながら、御使いとして創造された存在にふさわしく、創造主の栄光を顕して、その翼で飛んでいたのでした。 すなわち、6つの翼は、御使いのごとくたえず主の御前で礼拝する者の持つべき態度を象徴しています。そして前も後ろも目で満ちていた、あまり実物をリアルに想像することは慎んだ方がいいと思いますが、これは、どんなときもたえず目を覚ましていた、ということです。絶えず謙遜に被造物としての分をわきまえて、しかし絶えず目を覚まして、力を尽くして、存在を尽くして、神さまを賛美し、礼拝するのです。 これこそ、私たちが御前にて持つべき態度です。では、具体的にどうすればいいのでしょうか? 私たちは今こうして礼拝をささげ、また、神さまをほめたたえる歌をおささげしています。これがまず、すべてをささげる礼拝を実践することです。私たちはこのように、一週間という神さまから与えられた恵みの中から最良の時間、日曜日の午前という時間を初物として、神さまにおささげします。このように礼拝をささげるべく、聖霊なる神さまが「ここに上れ」というみことばに従順にならせてくださっていることは、何にも増して素晴らしいことです。 しかし、礼拝はこの、日曜日の特定の時間にささげるものだけではありません。ローマ人への手紙12章1節をご覧ください。……私たちの普段の生活とは、生きてささげる礼拝、そのものです。私たちがお仕事をするのは、礼拝です。私たちがおうちの中で皿洗いをするのは、礼拝です。私たちが学校で勉強をしたり、おうちに帰って宿題をしたりするのは、礼拝です。いずれも、私たちが認められるためとか、人より抜きんでた存在になるためにすることではありません。私たちをイエスさまによって救ってくださった神さまが素晴らしいから、そのあふれる恵みを受けて取り組むのです。それが礼拝です。 このようにして御霊なる神さまは、いまこうして持っているような日曜日のこの時間を通して、また、普段の生活を通して、「ここに上れ」というイエスさまのみことばに従順にならせてくださり、どんな形にせよ神さまの御前にて最高の礼拝をささげさせてくださることで、いのちを得させ、いのちの中に保ってくださいます。 私たちのすることは難しいことではありません。「ここに上れ」というイエスさまのみことばに素直に、従順になることだけです。そうすれば聖霊なる神さまが私たちを、天上の礼拝へと上らせてくださいます。私たちはそこですべてをささげる最高の礼拝をおささげするのです。私たちの歩みが、つねに神さまを礼拝する、天の礼拝に連なる歩みとなりますように、その恵みに聖霊なる神さまがつねに私たちを導いてくださいますように、主の御名によってお祈りいたします。

「主は羊飼い、私たちは羊」

聖書箇所;詩篇23:1~6/メッセージ題目;「主は羊飼い、私たちは羊」 大学4年生のときのことです。私は卒業が見えてきてはいたものの、まだ進路に迷っていました。あるとき、私は学科の先輩に、そんな自分の身の上をこぼしたものでした。すると先輩はおっしゃいました。「羊飼いにでもなれば?」 私は何かにつけて、自分がクリスチャンであることを公言していたので、先輩はそんな私のことを考えてくれて、牧師になれ、という意味でおっしゃったのか、それとも、単なる冗談でおっしゃったのか、測りかねましたが、優柔不断な私の背中を押してくれたような、このおことばを有り難く頂戴し、やがて私は卒業式も待たず、韓国の神学校に入学してしまいました。 そんなこともあって、牧師とは羊飼いであるということが長年、私の中にひとつの概念としてあるわけですが、今回私は、日曜礼拝のみことばに、詩篇23篇を選ばせていただきました。 私も牧師の末席に連ならせていただいている者ですが、私もまた、一匹の羊です。何かにつけて私は、自分が羊であることを、年を追うごとに思わされるものです。私もか弱い羊、されどよき羊飼いに養っていただいている羊です。 それで、詩篇23篇です。あの王さまダビデが、なんとこともあろうに、自分のことを羊に例えているという、なんとも意表をつく組み合わせ、しかしその組み合わせをもって、私たちクリスチャンの本質を言い当てている、詩篇の中でも特に印象的な詩からお話をさせていただこうと思います。 今回のメッセージを語らせていただくにあたり、私はフィリップ・ケラーという人物の『羊飼いが見た詩篇23篇』という本を読みました。とてもいい本でした。フィリップ・ケラーは農学や牧畜学を学んだ学者でもありますが、長年にわたる羊飼いの経験を有した人物でもあり、伝道者でもあります。そのような、2つの意味での牧羊をどちらも経験された方の語るおことば、みことばの解き明かしだけに、並々ならぬ説得力を持った本であり、機会があればぜひお読みいただきたい名著です。 今回のメッセージはこの本から教えられたことをベースにお語りしてまいりたいと思います。もちろん、そのとおりになぞるのでは意味がありません。本を読んでいただいたら済む話ですので。今日は、ひとつの問いからはじめて、みことばを黙想し、私たち自身にみことばを適用してまいりたいと思います。 私たち自身に問うべき問いとは何か。「あなたにとって、だれが羊飼いですか。」 この問いを投げかけられたならば、私たちは模範解答のように、「主が羊飼いです。なぜなら、詩篇23篇1節にそう書いてあるからです」と答えますでしょうか。たしかに、聖書にはそう書いてあります。それはもっともです。 しかし、それなら私たちはつづけて問いかけなければなりません。「あなたにとって、ほんとうに、主が羊飼いですか。」 私たちは果たして、「はい」とお答えすることができますでしょうか。この問いに答えるためには、大前提として、私たち自身が「羊」であると認める必要があります。 以前私はこのメッセージの時間に、北海道で羊たちと戯れたお話をいたしました。しかし、それはもちろん、まったくほんものの羊と触れ合わないよりはよかったかもしれませんが、このたびケラー先生の本をお読みして、その程度で羊のことを知ったつもりになっていたことに、恥ずかしくなりました。 もちろん私は、いまだってケラー先生の本を読んだ程度のもので、ほんの少し羊のことが分かるようになったにすぎません。それでも、やはり学んではおくものでした。私はこのたびの読書を通じて、ああ、ほんとうに私たち人間は羊に似ている、と、あらためてしみじみ思ったものでした。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」まことに、預言者イザヤが語ったとおりです。 羊は、同じところにとどまろうとし、それは結果として同じところの草ばかり食べることになるので、うかうかしていると青々とした牧草地は荒れ果て、見るも無残になります。牧草地が荒れ果てたら自分でどうにかできるほど賢くはありません。 ほうっておくとやせ衰えて飢え死にします。だから牧者は、ちゃんと草の生えているところをリサーチし、そこに連れていきます。そこに毒草が生えたままにしないように手入れすることも、もちろん怠ってはなりません。 また、何かの拍子にひっくり返ったら自分では立てません。下手にもがいたりしてますます立てなくなり、やがて死んでしまいます。牧者は行ってちゃんと起こしてやる必要がありますが、これは相当に技術のいること、また、たいへんなことのようです。 また、やはり羊のことを放っておくと、毛がもこもこと生え、泥や糞尿がくっついて不衛生になりますし、長く生えてくると身動きが取れなくなります。したがって、牧羊をする人が定期的にきちんと刈り取ってやらなければなりません。この毛を刈る作業も、結果として羊を快適にすることであるにもかかわらず、羊はとてもいやがります。 きりがないのでこれくらいにしますが、羊というものは、ケアされることによってはじめて生きることのできる存在である、とさえ言えます。そうです。私たちも、まことの牧者なるイエスさまに牧していただくことで、生き生きと生きることができる存在です。「主は私の羊飼い」、なんと素晴らしく、また誇らしい告白でしょうか。 しかし、羊は愚かです。羊飼いによって飼われることではじめて生きるにもかかわらず、羊飼いの支配から逃れたところに自分の生きるテリトリーがあるがごとくに振る舞います。早い話が、羊飼いの目を盗んで群れから離れるのです。その結果どうなるか、といえば、くぼみに落ち込んでひっくり返り、もはや立てなくなっていのちを落とします。おおかみのような猛獣に襲われていのちを落とします。 しかし、ほんとうの羊飼いの牧する群れの中に身を置くかぎり、その羊は安全です。ダビデは自らが羊飼いで、身を挺して羊を守った体験を持っていました。ライオンや熊が襲いかかったらその口から羊を奪い返し、打ち殺すことさえしました。私がそのようにいのちを懸けて羊の群れを守ったように、主は私のことをいのちを懸けて守ってくださる羊飼い……ダビデはそう告白しています。 私たちの羊飼いが全能なる神さま、創造主であられるならば、私たちは何か乏しいことなどあるでしょうか。まさしく、「私は乏しいことはありません」。とはいいましても、私たちは生活が安定するとか、お金持ちになるとか、人間関係で成功するとか、そういうことを「乏しくない」ととらえるべきではありません。 ダビデもまた、サウルやアブサロムに追われる身になったなど、その人生が苦難の連続だったことを、聖書は克明に記録しています。しかし、ダビデにとって大きな祝福だったことは、そのような激しい困難の中にあって、主ご自身が変わらずにダビデのことを牧していてくださったことでした。 羊たちも、豊かな牧草地で養われるためには、いつまでも同じところにとどまっていては食べ尽くしてしまうので、高地の豊かな牧草地に移動する必要があります。そのとき羊たちは、いやでも、危険いっぱいの暗やみの谷を歩かされることになります。 そこがどんなに狭い道で、がけから落ちるかもしれなくても、猛獣にやられるかもしれなくても、歩くのです。そこを歩かないことには、死ぬのです。平安な場所にいれば死なないのではありません。平安な場所にいたらむしろ死ぬのです。平安な場所を出て、危険極まる暗闇の谷を歩くことで、羊は生きるのです。 ダビデもそうでした。ダビデは危険の中にいたとき、まことの牧者なる主との交わりの中で生きることができました。逆に、ダビデが死の道を選択したような状況とはどんなときでしょうか? そう、主が牧者であることを拒否したときです。バテ・シェバを寝取り、その夫のウリヤを謀殺したとき、ダビデは、主が自分の牧者であることを拒否し、悪魔にたましいを売っていました。しかしのちにダビデは真剣に悔い改め、悪魔が手にしていたダビデのたましいは買い戻されました。 むろん、このような罪を犯したダビデが無事で済むはずがなく、バテ・シェバとの間にもうけた子ども、長男のアムノンを次々に失い、三男アブサロムのクーデターでエルサレムから逃げ出します。要するに、ウリヤとバテ・シェバの家庭を破壊したダビデは、今度は自分の家庭の破壊に苦しめられることになったわけです。しかし、これはダビデに対するさばきというのとはちがいます。ダビデはすでに罪を悔い改めているので、さばかれて地獄に落ちるようなことはありません。しかし、したことの責任は取らなければなりませんでした。 それでもダビデが絶望せずに生きつづけることができたのは、このような最悪の状況にあっても、なお主が羊飼いとしてダビデを導き、養っていてくださったからです。ダビデは安らかな王宮を離れ、食べるものにも事欠いて眠れない野宿生活をしながら、あらためて自分のしてしまったことを悔いてならなかったことでしょう。しかし、ダビデは悔いるだけでは終わりませんでした。ダビデを養うまことの牧者の鞭と杖を、ダビデは体験していたのでした。 むちは、以前メッセージの時間にお話ししたような革製のものではなく、木の枝を切り出してつくるもので、これを投げつけることで猛獣を撃退します。イエスさまもみことばを用いてサタンの誘惑、実際はサタンの攻撃を退けられました。このようにむちとは、悪い者の攻撃から私たちを守るみことばを象徴しています。 杖もまた、牧者にフィットした、まるでからだの一部のような道具です。羊が出産するとき、牧者は杖を伸ばして生まれた子をやさしくその上に載せ、取り上げます。また、羊を連れ出すとき、からだにやさしく当ててあげて導きます。杖とはまさに、牧者と羊をつなげる役割を果たすものです。そうです、牧者なるイエスさまと私たちとの交わりをなしてくださる、聖霊なる神さまを象徴しています。 あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。ときにやさしく、ときにきびしく私たちを扱うむちと杖は、みことばと聖霊です。羊飼いなる主は私たちのことを、みことばと聖霊をもって守り、導き、励まし、力づけてくださいます。死を意識するような絶望の状況にあっても、主は私たちのことを死にとどまらせることなどなさらず、必ず、食卓を整え、油を注いでくださる恵みをくださいます。 例のケラー先生の本に教えられたことですが、5節のみことばは「夏」のことなのだそうです。谷間を抜けて夏の高地に導かれ、そこで草を食べるように、牧者は導きます。しかし、夏には夏特有の問題があります。それは、ハエのような小さな昆虫が顔にたかり、猛烈なかゆみを催す、そればかりか、その産んだ卵がかえって幼虫が鼻腔(びくう)などを通って脳に達すると、羊は頭がおかしくなってそこかしこにからだをぶつけ、ついには死に至る……そういうことのないように、防虫と殺虫の意味を込めて、頭部に特別な油を塗ってやることが大事なのだそうです。そうすると虫は寄りつかなくなり、健康に保たれます。羊の頭に油を注ぐとは、そういうことです。 主から注がれる油は、聖霊の象徴です。私たちは聖霊なる神さまのご臨在とお導きによって、私たちを教え導く聖書のみことばの意味を知り、実際に生活が導かれていきます。また、聖霊なる神さまは私たちを「悪い虫」から守ってくださいます。 うちも娘を持つのでしょっちゅう祈ることですが、将来娘たちが大きくなったとき、どうか悪い虫が取りつかないように、親としてそういう祈りをささげるのは当然ではないでしょうか? しかし、悪い虫がつかないためには、普段から娘たちを愛情たっぷりにケアする必要があります。 同じことで、この羊の囲いに属する私たちのことを、まことの牧者なるイエスさまは、ことのほかケアしてくださいます。悪い虫、サタンと悪霊どもが取りついて、人生を狂わせることのないように、守ってくださいます。何によってかといえば、みことばと御霊によってです。 杯、はどうでしょうか? ダビデの前に整えられる主の食卓には、食卓に必須のぶどう酒の杯があります。ぶどう酒によって人は力づけられます。さて、ぶどう酒には言うまでもなく、アルコールが含まれているわけですが、羊とアルコールとの関係に関しても、ケラー先生の本に新たに教えられたことがありました。野で迷って衰えた羊を探し当てたら、羊飼いはブランデーの水割りを少し口に含ませてやるのだそうです。そうすると羊は少しずつ元気を取り戻します。 そのように、あふれる杯は私たちを力づけ、元気づけます。それでは、その杯に注がれたぶどう酒とは、私たちにとってどんなぶどう酒でしょうか? そう、イエスさまの十字架の血潮です。イエスさまの十字架の血潮の添えられた食卓、それを羊飼いなる主は私たちのために備えてくださいます。羊飼いなるイエスさまご自身が私たちのために十字架にかかって死んでくださった、ゆえに私たちは罪赦され、神さまとともに歩むことが許されています。私たちはイエスさまの十字架の血潮によって、私たちに取りついた死に至る罪が洗い流され、まことのいのちの力をいただくのです。 私たちはこの牧者なるイエスさまを前にして、「私はいつまでも、主の家に住まいます」と告白できますでしょうか? 心底告白できますでしょうか? いざ、私たちの心が問われたら、それはとても難しいと思います。これだけの告白をしたダビデでさえ、バテ・シェバに関わったときには、主が自分の羊飼いであることを拒否したくらいです。いわんや私たちのような俗物は、どれほど主に、自分の羊飼いでいていただくことは難しいことでしょうか! しかし、あきらめないでいただきたいのです。主は私たちがこのような頑迷な羊、愚かな羊であることをすべてご存じの上で、なお私たちのことを諦めずに導きつづけていてくださいます。私たちのすることは、牧者なるイエスさまから目を離さないこと、これだけです。 具体的に、牧者なるイエスさまから目を離さないために私たちがすること、それは、牧者なるイエスさまが牧してくださっているこの群れ、水戸第一聖書バプテスト教会という群れから、離れないことです。ここから離れる選択をしてしまうなら、それはイエスさまを見失う選択に一歩近づくことを意味しています。 もちろん、いまは以前に比べ、この礼拝堂にともに集うことが相当に難しくなっています。それをすべて突破してここに来なさい、と言いたいのではありません。それぞれの事情がおありなのは仕方ないことです。それもすべてイエスさまはご存じです。しかし、そうは申しましても、どうかご自分が、この水戸第一聖書バプテスト教会という羊の囲いに属するひとりであることだけは、お忘れにならないでいただきたいのです。 最後に、あらためて自分自身に尋ねてみましょう。「あなたにとって、だれが羊飼いですか?」世の中の何ものも、自分を満たすために人を利用し、ついには見捨てる、自分のことしか考えない存在です。しかし主イエスさまはちがいます。私たちが豊かにいのちを得て、いのちを保つことで、ご栄光をお受けになるお方です。私たちがキリストによっていのちあふれる生き方をするとき、主は喜んでくださるのです。主の素晴らしさが輝くのです。 私たちは自分自身を見るとき、無力な羊のように思えてならないかもしれません。それはそうです、なぜならそのとおりだからです。しかし、私たちはイエスさまという牧者によって養っていただく羊です。強くしていただいています。守っていただいています。私たちはこの大いなる牧者を誇りとしています。そして……牧者なるイエスさまもまた、私たち羊のことを大いに誇りとしてくださっている、ゆえにどんなときでもケアしてくださり、守ってくださる……このことを忘れないでまいりたいものです。

「聖書が存在する理由」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:30~31/メッセージ題目;「聖書が存在する理由」  本という本には、みな存在する目的があります。ミステリ小説は、読者に対するお説教ではなく、トリックと種明かしによって読者を面白がらせることにその存在する目的があります。自己啓発本は、読むことでより目的意識を持って仕事ができるようになること。詩集や画集は、情緒的に豊かになること。辞典(事典)は調べもの。教科書や参考書は勉強のため。マンガ本は気分転換のため。  そこで……私たちの手にしている聖書、この本は何のために存在するかを、今日は聖書自身の証言から確かめてみたいと思います。  まず、30節から見てみましょう。このみことばによれば、イエスさまはヨハネの福音書に記録されている以外にも、多くのわざを行われたということが明らかにされています。しかしそれらのみわざを、ヨハネはあえて記録しなかったということでした。  たしかに、弟子たちの前でということにかぎっても、イエスさまが行われたみわざのうち、このヨハネの福音書に記録されていないみわざはいろいろ存在します。 しかし、イエスさまの行われたみわざは、ヨハネの福音書どころか、四福音書、いや、旧新約聖書全体にも収録しきれるものではなかったと考えるのが自然ではないでしょうか? といいますのも、このヨハネの福音書の締めくくりに当たるみことば、21章25節には、このようにあるからです。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」  イエスさまのみわざは膨大です。それをみことばという形で人が読んで理解するには、聖霊なる神さまが聖書の書き手に働いて、イエスさまのみことばとみわざを取捨選択させられるしかありません。そうでないと、一生かけてもイエスさまのみわざを理解できないことになります。  そういうわけで、聖書はイエスさまのみわざすべてを収録した書物ではありません。しかし、イエスさまのみわざの記録が適切に編集された書物ではあります。私たちにとってみことばは、必要最小限の分量であると同時に、十分な分量です。それ以上の分量は必要なく、それ以下の分量では足りません。  聖書の終わり、ヨハネの黙示録の22章18節、19節に、このようなことが書かれています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」  なんともぞっとするみことばですが、要するに、みことばから足したり引いたりするような人は、天国の民、神の民としてふさわしくない、というわけです。言うまでもなくみことばは、私たちがこの地上を生きている間だけ必要なもので、この地上からいのちが取り去られたら、そもそもこうして聖書という本を手にする形でみことばを読むことなどないわけです。みことばを聞きたければ、神さまに直接お聞きすれば済む話ですし、地獄に落ちたら、みことばを聞いていのちを保つことなど一切かないません。 要は生きているかぎり、神さまが必要十分の分量で与えてくださった旧新約66巻のみことば全体を認め、読むことです。それでこそ私たちは神の民、神の子どもとして生きていくことができます。  では、このようにヨハネをはじめとした聖書の記者が、イエスさまのおことばとみわざを、聖書のみことばという形で編集するように聖霊なる神さまに促されたその目的は何でしょうか? それは31節に書いてあるとおりです。  31節をお読みします。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」  私たちはイエスさまのことを、キリストと告白しています。なぜならば、イエスさまは私たちにとって救い主、キリストであられるからです。しかし、聖書やキリスト教会がそのように呼んでいるからでしょうか、一般的にもイエスさまのことを、イエス・キリストと呼ぶのについてはどうでしょうか? もし、自分にとってイエスさまが救い主でもないのに、「イエス・キリスト」ですとか「キリスト」と呼んでいるならば、それは厳密に言えばおかしいことです。  ただし、この「イエス・キリスト」という呼び名、もしくは「キリスト」といえば「イエスさま」のことを当然指すものだという常識は、文明開化とともにキリスト教の文化が日本に入ってきて定着したものです。その背後には、長い時間をかけて培われてきた欧米のキリスト教会の歴史が存在し、欧米の文化ではふつうにイエスさまのことを「イエス・キリスト」ないしは「キリスト」とお呼びするので、日本もそれにならった、と言えましょう。  このように、イエスさまのことを「キリスト」であるという前提で受け取っているならば、クリスチャンでなくても、イエスさまは見るからに神々しい方と映るかもしれません。しかし、日本人にとっては神がかって見えれば何でも有難いと思えるように、イエスさまもあらゆるカミやホトケと同等の存在くらいにしか受け取られない、ということも有り得るわけです。  しかし聖書は、もちろん、そんなレベルでイエスさまのことを紹介しているわけではありません。そこで私たちは、聖書が書かれた目的、イエスはキリストであることを信じさせるために書かれた、ということについて、もう少しよく考える必要があります。  キリスト、救い主というお方はただひとりです。神のひとり子の神が、神を解き明かされ、このひとり子の神を通して、唯一の父なる神に至るのです。救い主の資格があるのは、神のひとり子イエスさまだけです。それが、イエスさまがキリストであるということです。  世の中の人たちは、慣習的にイエス・キリストと呼んでいます。それはもしかすると、イエスさまはのちのキリスト教の文化・文明のおおもとになった人物だからと、それ相応の敬意を込めて呼んでいるからかもしれません。しかし、イエスをキリストと「呼ぶかどうか」よりも、「信じるかどうか」が、私たち人間にとってはもっと大きな問題になります。  多くの日本人は「イエス・キリスト」と呼んでいても、実際に帰依している存在は、神社のカミだったり、ホトケとして祀られている先祖だったりします。そういう人が「キリスト」と呼んでも、実体はないことになります。しかし聖書を読み、「道であり、真理であり、いのちである」お方はただひとり、イエスさまだけだと知って、イエスさまを唯一の救い主と受け入れるなら、そのとき初めて人は、「イエスがキリストである」と信じることになるのです。  そうは言いましても、イエスさまをひとたびキリストと受け入れたら、それで終わりなのではありません。一生かけて信じつづける必要があります。イエスさまはひとたび受け入れれば、それで信仰が完成するわけではありません。少しでもうかうかしていると、この世の攻撃、あるいは懐柔にさらされ、私たちはいとも簡単に信仰を捨てる道を選んでしまいます。  イエスがキリストであると信じる。それは、つねにこの世のあらゆる罪のわなから救ってくださる救い主であることを信じつづけることを意味します。目に見えないお方とお交わりする上で必要なものは、信仰です。イエスさまが目に見えるお方だったら、信仰というものを働かせる必要などありません。 しかし、イエスさまは目に見えないゆえに、私たち人間の側で信仰を働かせるという行動が神さまから求められています。これは、行いによって救いを勝ち取る、ということではありません。私たちはみことばをお読みして、イエスさまが私たちのことを救ってくださったことを信じ受け入れました。しかし、そのように自分のことを救ってくださったイエスさまとの交わりを引きつづき持つには、こちらからイエスさまに近づく必要があります。 小さな子どもがお父さん、お母さんに守ってもらうために、駆け寄っていく、その厳しくも優しいことばを聞く、こういうことを「行い」と言ったらおかしいです。親としては、子どもに来てほしい。それだけ。信仰を働かせるとは、そのように親元に行くようなことです。自分のもとに来る子どもを親が守るように、神さまは、御許に来る神の子どもたちを守って、養ってくださいます。 さて、では、イエスさまを信じることはどのような意味があると、この31節のみことばは語っていますでしょうか?……そうです、「信じて、イエスの名によっていのちを得るため」とあります。聖書の存在する目的は、聖書を読む人が、イエスさまがキリスト、自分の救い主であると信じて、イエスさまの御名によっていのちを得るため、ということです。 イエスさまを信じるということは、一回こっきりで終わることではありません。信じつづける必要があるわけです。と申しますのも、人は何かの拍子に信仰をなくしてしまうことがあるからです。もちろん、主はおっしゃいました。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」だから、いちどイエスさまを心に受け入れたら、イエスさまが出ていかれるということはありません。イエスさまご自身が、あなたを決して離れないとおっしゃっている以上、そうなのです。 しかし、肝心の受け入れた側の人間は、つねに移ろいやすい、弱い存在です。イエスさまがそばにいてくださる、ともにいてくださる、そんなことも忘れてしまうほど、落ち込んでしまうことなどしょっちゅうの、弱い存在です。なぜ、そうなるのでしょうか? それは、イエスさま以外のものを見てしまうからです。 イエスさまは大波の湖の上を歩いて、十二弟子の乗った舟へと近づかれました。すごいことでしたが、ペテロはイエスさまに近づきたい一心で、私のことをみそばに近づかせてください、湖の上を歩かせてください、と、イエスさまに申し出て、聞き入れられました。そしてペテロが湖に足を踏み出すと、あら不思議、ペテロも湖の上を歩いてしまいました。しかし……ペテロは湖面の波を見て、われに返ったのでしょうか、助けて! おぼれかかってしまいました。イエスさまはペテロを助け起こされ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑うのか」とお叱りになりました。 湖面を問題なく歩いていたペテロは、なぜおぼれかかったのでしょうか? イエスさまではなく、波を見たからです。ペテロがイエスさまを一心に見つめて歩いたならば、何の問題もありませんでした。おぼれたのは、湖面の波を見たからです。しかし、よく考えると、ペテロは常識的なことをしたのではないでしょうか? いったいだれが、湖の上を歩くというのでしょうか? 大きく波打ったら、こわがるのは当然のことではないでしょうか? しかし、そのような常識は、イエスさまを見させなくするもので、その結果私たちは、イエスさまのみわざを体験することができなくなります。ペテロは、イエスさまを見つめたのと同時に、イエスさまのみことばに対して信仰を働かせました。イエスさまのおっしゃるとおりと信じて、湖の上へと一歩を踏み出しました。 私たちもまた、全能なる創造主、イエスさまのみことばだけを信じて踏み出すならば、何の問題もありません。その信仰を砕くものは、多くの場合は人間的な常識です。 私たちが信仰を働かせるとき、それはキリストにある永遠のいのちをいただきつづけるということを意味します。十字架による罪の赦しは、あるいは信じられるかもしれません。いちおう、キリスト教はそのことを教えているということは、常識となっているからです。しかし、復活と永遠のいのちがいただけるということに関しては、それ相応のふさわしい信仰がないと信じ受け入れることはできません。 聖書ははっきりと、キリストが復活されたように私たちも復活すること、信じる私たちに永遠のいのちが与えられることを語っています。聖書のみことばは、そのいのちをいただいて私たちが永遠に神さまとともに生きるようにと、私たちのために書かれたものです。だから、私たちがもし、生きたい、生きる喜びを体験したい、と思うなら、聖書のみことばをつねに読むしかありません。 クリスチャンを名乗る人の中には、まるで覇気のない人、目が輝いていない人がいます。ほんとうに残念なことです。そういう人たちも聖書を読んで、自分に与えられた永遠のいのちの素晴らしさに目が開かれ、生き生きした人になれるようにと願うものですが、これまたなんとも残念なことに、そういう人は得てして、聖書に手を伸ばしたくはないものです。かくして、ずっと覇気がないままに、クリスチャンとは名ばかりの生き方をするしかなくなります。 私たちはこの信仰共同体の中に、ひとりでも、いや、ひとりも、そんな人を生み出さないようにしたいものです。私たちがもし聖書を読んでいるならば、どんなに聖書から教えられていのちの喜びを得ているか、ぜひ、交わりの中で、積極的に分かち合っていただきたいのです。以前うちの教会でよく行われていました、礼拝の中でのお証しをしたいという方は歓迎いたします。 それとも、いつもみことばから教えられて喜びをいただいてはいるものの、なにぶんこのコロナ下で交わりを持つこともままならない、とおっしゃいますでしょうか? ならば、せめて牧師に証しのメールなりお手紙なり送っていただければと思います。コピーして、みなさまにメール配信して分かち合います。 そのような分かち合いをとおして、みことばを読もうにも読む気が起こらないで苦しんでいる兄弟姉妹も、みことばの恵みに触れることができます。あるいは、すでにみことばを読む習慣が身に着きながらも、みことばを読む喜びがいまひとつ湧き上がってこない兄弟姉妹にも、新しい恵みが与えられて、ともに喜びます。普段からみことばをお読みして喜んでいる兄弟姉妹は、よりいっそう喜ぶことになります。 私たちが、救い主イエスさまにつながっていのちを得るために与えられた必要十分なみことば……私たちが手にしている聖書は、実に素晴らしいものです。今日も聖書のみことばからともに学び、いのちの喜びが得られたことに感謝しましょう。そして、これからも聖書を学びましょう。この1週間も、毎日聖書を開き、聖書に教えられたとおりの生き方を実践し、神さまのご栄光を顕しましょう。私たち、迷う者、弱い者を導き、励まし、力づける聖書のみことばを与えてくださっている神さま、イエスさまの御名を、心からほめたたえます。ハレルヤ!