「悔い改めるのは私たち」

聖書本文;ヨハネの黙示録2:12~17/メッセージ題目;「悔い改めるのは私たち」 笑い話などというべきではないエピソードを、まずご紹介します。それは戦時中、クリスチャンが天皇にまつろわぬということで迫害された時代のことです。牧師のような多くのクリスチャンが警察に連行され、厳しい取り調べを受けました。 そのような中で、このように迫る刑事がいたそうです。「天皇陛下とキリストとどちらが偉いか!」そのように問われた牧師先生は、知恵を用いてこのように答えたそうです。「畏れ多くて、お答えできません!」 すっかり平和になった現代では、このような話も笑い話で済みますが、恐怖の支配していたその時代においては、信仰の先輩たちはどれほど大変な目にあっていたことだろうかと思わざるを得ません。 しかし、日本がそのようだったのは、まだ4分の3世紀にもならない、ごく最近のことです。その時代を生きた人で、まだご健在の方は多くいらっしゃいます。はるかむかしの話ではないのです。 私は何も、現代にも殉教がいつ起こるとも知れないから備えなさい、などと脅かしているわけではありません。しかし私たちは少なくとも、この平和の許されている時代において、聖書に学び、歴史に学ぶことはしてもいいのではないでしょうか? そうすることで私たちの従順の歩み、主の栄光をあらわす歩みは、一本芯の通ったものとなるはずです。 それでは早速、今日のみことばの解き明かしに入りたいと思います。今日は7つの教会の3番目、ペルガモンの教会への使信です。ペルガモンにメッセージを伝えるイエスさまは、どんなお方でしょうか?「鋭い両刃(もろは)の剣を持つ方」とあります。 黙示録1章16節にあるとおり、ヨハネが見たイエスさまは、両刃の剣が御口から出ていました。両刃の剣とは何でしょうか? お開きにならないでいいですが、ヘブル人への手紙4章12節には、このようにあります。……神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。 両刃の剣とは、イエスさまの御口から出るひとつひとつのみことばです。みことばはいのちのパンとして私たちを養いますが、それは私たちの快楽のためではありません。私たちの不要な部分、罪深い部分が取り除かれるためです。私たちはそのような部分が自分たちから取り除かれることにおいて、妥協してはなりません。 ペルガモン教会は、偶像礼拝の風土の中で大変な迫害の中にありました。しかし、そのような教会ではあっても、手放しに礼賛(らいさん)されていたわけではなく、正されるべき部分はあったのでした。主のみことばは容赦なく臨みます。このあたりのことは、のちほど詳しく見てまいります。 13節のみことばです。主は、ペルガモンという年がどういうところかを知っていると、慰めのおことばをかけてくださっています。どういう都市か、というと、サタンの王座がある、そういう都市である、ということです。 ペルガモンは、前回学びましたスミルナから北に60キロメートル、海抜300メートルの谷間の町で、ライバル関係にあったアレクサンドリアやアンテオケに代わる第一の都市になろうとしていました。 ペルガモンは海に近く、下から仰ぎ見るとまさに巨大な王座のように見えたといいます。そのペルガモンは、ローマの初代皇帝アウグストゥスを祭る神殿を山の頂に建て、紀元29年、つまり、イエスさまの公生涯がまさに始まろうとしていたときにはすでに、皇帝崇拝の中心地になっていました。初代教会のクリスチャンたちが、イエスさまを礼拝するのではなくローマ皇帝を崇拝するように強要されていたことを考えると、この都市にあるものはサタンの王座であると主がおっしゃったのはもっともなことです。 もともとこの地は、紀元前2世紀にすでに、いやしの神であるアスクレピオスを礼拝する宗教を国家宗教として取り入れていました。アスクレピオスは蛇使いでもあるので、サタンの象徴である蛇を司る者としての礼拝を人々から受けていたことになります。そういう点でも神さまの御目から見れば、この都市はサタン的でした。そのほかにもゼウス礼拝など、あらゆる偶像礼拝の巣窟でもあり、この地のキリスト教会は大変な思いを味わわされていました。 このような中で、イエスさまご自身が「わたしの確かな証人」とまで、最大級の賞賛をくださっているアンティパスが殺されたのでした。アンティパスは、ペルガモン教会の監督だったと伝えられています。一説によるとアンティパスは、雄牛のかたちをした青銅の桶の中で焼き殺されたそうです。それが事実であるにせよそうでないにせよ、ペルガモン教会は指導者をむごたらしいかたちで失ったことは事実であり、そのショックはどれほどのものだったことかと思います。しかし、ペルガモン教会はそのようなおびやかしにも負けずに、イエスさまに対する信仰を捨てませんでした。 サタンはときに、キリスト教会の指導者を打ちます。殉教という形で教会に恐怖を与えるかもしれません。あるいは、金銭、異性、権力といったことを用いて指導者を堕落させ、教会に動揺を与えるかもしれません。また、今回のコロナのようなこと、あるいは少し前でしたら震災のようなことを通して、指導者に過度のストレスを与え、教会に重圧を与えるかもしれません。 このようなとき、指導者が普段からどのような牧会をしてきたかが試されます。指導者である自分ではなく、キリストに結びつかせる牧会をしていたならば、指導者に何かあっても、かしらであるキリストに教会は堅く結びつくことができます。しかし、もし指導者が、自分がいなければ教会は成り立たない、とばかりに振る舞うならば、羊飼いが打たれたら、教会という羊の群れは散り散りになるのです。 ペルガモン教会は、アンティパスではなく、イエスさまに結びついていたと言えたぶん、褒められるべき教会でした。しかしです。ペルガモン教会には取り扱われるべき問題がありました。14節です。……ペルガモン教会には、バラムの教えをかたくなに守る者たちがいた、ということでした。 バラムとは何者でしょうか? おひらきにならないでいいですが、旧約聖書の民数記を見てみますと、バラムとは、民数記22章以下に登場しますが、イスラエルを恐れたモアブの王バラクは占い師バラムをお金で買収し、イスラエルをのろわせようとします。絶対者なる主の霊的な祝福を呪いに変えることで、イスラエルを没落させようとしたのでした。 バラムがもし、主のみこころにほんとうに通じていたのならば、バラクの要請をぴしゃりとはねのけるべきでした。しかしバラムは、もしかしたら、と態度を保留しつづけ、神さまがとどめておられるにもかかわらず、イスラエルをのろう祈りを強行しようとしました。だが、それに反して、神さまはバラムの口に、イスラエルを祝福する祈りを授けられました。バラムはイスラエルを4度にわたり祝福したのでした。 このとき、バラムは、「主のことばに背くことは、良いことでも悪いことでも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。」と、怒り狂うバラクに語っています。これだけを見ると、バラムは素晴らしい主のしもべのように見えます。 だが、バラムはのちにイスラエルによって処刑されたのでした。民数記のその記述だけを読むと、主のしもべがなぜそのような目に!? と思わないでしょうか? しかし、このバラムの一連の祈りのできごとのあと、モアブにいたイスラエルの民は、モアブの娘たちに招かれて偶像のいけにえの飲み食いをし、神々を拝み、モアブの娘たちと淫らなことをしたのでした。これによって主の怒りがイスラエルに臨みました。 なぜ、イスラエルにこんなことが……と思いますが、民数記31章16節を読むと、「この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒瀆させたのだ。」とあるように、その黒幕にバラムがいたことがほのめかされています。これがヨハネの黙示録、聖書の終わりの終わりに、それは間違いなく、バラムのしたことだと、ついに明らかにされます。ゆえに、バラムはイスラエルの手によって処刑されたのでした。 エペソ教会が排除していたニコライ派は、このみことばによれば、まさにバラムがイスラエルをまどわし、霊的にも肉体的にも姦淫を犯させ、純潔を失わせることを、キリスト教会に教えるような邪悪な存在でした。エペソ教会は正しい教理、健全な教えに堅く立って、このニコライ派が教会の中に入ってくるのを許しませんでしたが、ペルガモン教会の信徒の中には、ニコライ派の教えを受け入れてしまった信徒がいたのでした。 それは悔い改めるべきことでした。もし、悔い改めないで、ニコライ派のような間違った教えがのさばるままにするならば、イエスさまは何をなさるというのでしょうか? そうです、御口の剣をもって彼ら、ニコライ派に毒されたペルガモン教会の信徒たちと戦う、とおっしゃいました。 戦う、と言いましても、イエスさまが負けるような戦いなどありえません。イエスさまが勝利する戦いです。彼らはみことばの真理に対してありったけの力で抵抗するでしょうが、ついには負けます。そして、さばかれます。 主を信じる信徒たちにあるのは「懲らしめ」であって「さばき」ではないものですが、イエスさま以外のものを主とし、イエスさまの以外の存在に従順になれとの教えをもって教会を毒する存在にあるものは、「懲らしめ」ではなく「さばき」です。私たちはさばき主なるイエスさまを恐れ、教会の純潔を保つためにしっかり努力する必要があります。 その努力には、エペソ教会のように毅然とした態度を示すべく、教理の学びをきちんと行うことも含むでしょう。私たちが日々主のみことばに従順に従うように、みことばを黙想して適用して実践に移す、ディボーションの時間をしっかり確保することも必要でしょう。しかし何よりも必要なことは、私たちが「悔い改める」ことです。 悔い改めということは、神さまとの一対一の関係の中で成り立つことです。イスラエルの民は、呪いの祈りが祝福の祈りに変えられるほど、神さまの絶対的な霊的祝福、霊的守りを受けていました。そんな彼らが罪を犯し、神さまの怒りを受けたのは、バラムのせいということもさることながら、彼ら自身の中に、罪を犯したい欲望があったからということです。 バラムはわかっていました。イスラエルをのろいたいというバラクの野望を達成するためには、神さまに直接呪ってくださいと求めることは無理である一方で、イスラエル人の罪を犯したい欲望を刺激すれば、神さまは怒りを下され、結果的にそれがのろいとなるということをです。 問題なのは、私たちの罪を犯したい欲望です。それが日々、神さまの御前に取り扱われることがなくては、私たちは聖徒として正しくあることはできません。それゆえに私たちは、悔い改めることが必要なのです。悔い改めることなく、形だけ取りつくろったクリスチャン生活をしていても、欲望に惹かれたらどうにもなりません。私たちは欲望と背徳にまみれたニコライ派に毒されたい肉の性質があることを恥じながら認め、つねに悔い改める必要があります。 さて、このペルガモン教会への教えは、17節のみことばで閉じられています。ここには、勝利を得る聖徒に、2つのものが与えられると書かれています。 まずは、隠されたマナです。ヘブル人への手紙9章を読みますと、幕屋の至聖所には契約の箱が置かれ、その中には「マナの入った金の壺」があったとあります。隠されたマナ、とありますと、この契約の箱の中のマナを連想しますが、マナはもともと、出エジプトの民に奇蹟のようにして与えられた食べ物です。それは、神の民にいのちを与えて養う食べ物ということであり、わたしがいのちのパンです、とおっしゃった、イエスさまを象徴しています。 イエスさまは、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持っている、とおっしゃいました。しかしこの奥義は、イエスさまについてきたほとんどの人には隠されていました。隠されていなかったのは、十二弟子だけでした。 まことのマナなるイエスさまという奥義が隠されていることは、こんにち多くの人がイエスさまのことを知っていても、イエスさまをいのちのパンと認め、イエスさまのみことばによっていのちをつなぐことをしていないことからも明らかです。まことのマナは隠されているのです。しかし私たちは、イエスさまを信じる信仰によって、この隠されたマナを食べる権限が与えられている、つまり、イエスさまをいただいてイエスさまとひとつになる特権が与えられているのです。何と感謝なことでしょうか。 今日は主の晩さんのひとときを持ちますが、それは、イエスさまというお方を私たちが口にし、味わい、ひとつとなっていることを覚えるときです。私たちはけがれていて、とうてい、イエスさまをいただく資格などない者です。しかし、そんな私たちにイエスさまは、「取りて食らえ」とおっしゃるのです。それを拒むのは不従順です。私たちはもったいない恵みに感謝して、まことの隠されたマナにあずかっていることを覚え、パンとぶどう汁にあずかりたいと思います。 白い石は何でしょうか? 解釈はさまざまです。第一に、古代では白い石は無罪を、黒い石は有罪を表しました。聖徒たちはこの世においては罪人のように扱われますが、のちの世では罪なき者として勝利に入れられます。反対に、わが世の春を謳歌する迫害者は、のちの世では永遠のさばきを受けます。第二に、古代では祝祭に入る入場券の代わりとして、石が用いられました。この解釈に従えば、主は、天国の祝宴に私たちを招いてくださる、ということです。いずれにせよ、白い石は聖徒たちが新しいエルサレムに入城することを象徴していると言えます。この白い石に名前が書かれている天のエルサレムに入る人の名は神さましか知りません。私たちは信仰を保ち、神さまに認められるにふさわしい者となりたいものです。 しかし、まことのマナなるイエスさまとの交わり、白い石に象徴される天国行きの恵みは、やはりそれをいただいている以上、大切にすべきものですし、この恵みを粗末にして落伍する人が私たちの群れから出ることのないように、私たちはさばき主なるイエスさまを恐れ、日々、そのみことばの剣によって自分の霊とたましいを切っていただき、神さまにお従いする上で必要のない部分、罪深い部分を明らかにしていただき、ことごとく悔い改める必要があります。 偶像に満ちた環境に生きる私たちの歩みは、大きな迫害にあっても、かえって信仰を強くしていただく恵みをいただけるかもしれません。しかし、私たちの中から罪を犯したい性質が取り除かれていないとしたらどうでしょうか。あっという間に堕落してしまいます。それこそ、主の敵の思うつぼになってしまいます。 だからこそ私たちには悔い改めが必要なのです。悔い改めるならば、私たちは後ろめたさのない主イエスさまとの交わりの中に保たれますし、天の御国に正々堂々と凱旋できるという確信の中に保たれます。 バラムの教えを好むのは、教会の一部の人ではありません。私自身なのです。この自覚をもって悔い改めつつ、この偶像に満ちた世界、罪に満ちた世界の中、迷うことなく主にお従いする恵みの中に保たれますように、主の御名によってお祈りいたします。

「献身する聖徒の祝福」

聖書箇所;テモテへの手紙第一3:8~13/メッセージ題目;「献身する聖徒の祝福」  今日は、コロナ下の教会総会の開催される日ということもあり、特別ヴァージョンのメッセージをいたします。長くいたしません!  本日の箇所、テモテへの手紙第一3章8節から13節は、それまでの7節の監督の条件、すなわち、教会を監督として治める立場にある人の条件に続いて、執事の条件を語っています。監督の条件については、去年くわしく学びました。ほんらい監督とは、教会を指導する教職者に当たるもので、私たちもみな、教会において仕えるリーダーシップを発揮する立場として、監督という立場を自分たちに当てはめて学んだわけでした。 しかし執事となりますと、これは明らかに、教会員として教会に仕える一般信徒の立場にある人です。しかし、つまり、このみことばは、そのような人はどうあるべきかaを説いているみことばであるわけです。  執事についてですが、基本的に、私たちバプテスト教会においては、役員クラスの信徒を執事という肩書を与えるケースが多くあります。当教会は執事という制度を今のところ敷いていませんが、バプテストの教会には執事を制度化している教会がわりとあるわけです。  ただ、私が長年身を置いた韓国の長老派の教会は、バプテスト教会とは執事に対する考えが少し異なっています。一般的に長老派の教会は、主任牧師と、選挙で選ばれた信徒代表役員の長老たちによる合議によって教会に関するほとんどのことが決められます。  このような長老教会の中で、特に韓国の長老教会にも「執事」という制度があります。これは、「長老」とは別個に存在する職制で、バプテスト教会における執事のような、教会役員クラスの重責を負う立場にはありません。だいたい、満30歳以上の既婚者、あるいは社会的立場のある信徒は、「執事」という肩書が与えられます。  もちろん、執事は、単なる名誉職のような肩書のように思ってはなりません。執事というからには、教会のお世話、信徒のお世話をしてしかるべきです。私がその例の韓国教会にいたとき、伝道師として日曜学校を担当していたのですが、その日曜学校の生徒の小学生の男の子に、執事って何ですか? という質問を受けたことがありました。 私は言いました。「教会や信徒のお世話をする人のことだよ。」すると彼は目を丸くして言いました。「えー! うちの父ちゃん、そうなの!?」  やれやれ、おうちではいったいどんなお父さんなんだろう、と思ったものでしたが、教会で見せる姿とおうちや職場で見せる姿に裏表があったら困ります。 この8節以下のみことばは、教会役員クラスの信徒に語っているとも言えますが、一方で韓国教会の成人の信徒のような、ある程度の年齢になった社会人の信徒はすべからく守るべきみことばとも言えるわけです。このみことばが「執事」を対象に語られていると考えると、教会に仕える人はどうかこのようであってください、と語っているわけですが、信徒はやはり、教会とほかの信徒に仕えてこその存在であり、そういう者として、普段の生活から備えることが求められています。   今日、ここにいらしている信徒の方々は、ほとんどの方が、ここが韓国の長老教会と仮定すると、「執事さん」と呼ばれるべき方々で、中には「長老さん」と呼ばれるべき方もいらっしゃいます。こちらのお姉さんも、いずれ大きくなったら「執事さん」と呼ばれるにふさわしい成長を遂げてほしいと切に願います。   さて、執事になるべき人はこうあっていただきたい、と、いろいろな条件が並んでいます。みな、ごもっとも、とお思いだと思うので、今日はくわしくひとつひとつを扱うことはいたしません。 ただ、ひとつだけ。執事にするにはまず審査をうけさせなさいと書かれています。どういう審査でしょうか? 教会役員としての狭い意味での執事の場合でしたら、たとえば教会総会などの場で、信徒の選挙というような形で審査を受け、ふさわしければ当選します。   しかし、私たちひとりひとりを執事と考えた場合、すなわち、韓国教会の制度のような広い意味での「執事」と解釈した場合、「審査」とは何でしょうか? あの教会学校の男の子が言ったことばのように、ちゃんと見ている人、間近で見ている人に何か言われたら、ひとたまりもないのが私たちではないでしょうか? そんな私たちにとっての「審査」とは何でしょうか?    聖書の知識を増し加えたとか、毎日聖書を読んでお祈りすることが習慣となったとか、そういうチェックをするのでしょうか? ちがいます。そういったことも、それはそれで大事なことには違いありませんが、それは広い意味での「執事」であるうえで、重要な「審査」の基準ではありません。 ほんとうに大事なのは、自分の歩みがつねに神と人の前に審査されているという緊張感をもって、キリストの似姿にふさわしい、愛の実、愛のわざを生活の中に結んでいるかどうかです。   韓国教会が成人信徒に「執事」という肩書をつけ、教会生活により一層の責任を持ってもらおうと導くことは、一種の知恵ではないかと思います。実際、若者だった信徒たちは「執事」と呼ばれることにより、それ相応の責任感が育てられています。いいことです。 ただ、それは韓国のような、一般的にも、名前プラス肩書という呼び方が敬称として用いられる国だから可能なことで、日本のような、肩書で呼ぶとよそよそしくなるような国だと、それは少し難しいと思います。どう呼んでもらえるかというよりも、自分はこの聖書箇所で語られている「執事」と呼ばれるにふさわしくあろう、という自覚が、つねに必要です。   責任の伴う生き方は、それなりにしんどいものではあります。しかし、このみことばは「執事」として生きる人に対し、豊かな祝福を説いています。13節です。   良い地歩を占める。この社会においても、キリスト者としてふさわしい証しを、良い行いを通して残し、その生活があらゆる点で祝福される、というわけです。ただし、その祝福は、世の中の人々が祝福と思っていることと、同じことも多いかもしれませんが、必ずしも百パーセント、同じとはかぎりません。特に、偶像礼拝やお酒の席、この世的な不正に対して、難しい判断を迫られて苦労する、ということも、主にお従いする生活を続けていくうちにどんどん起きてくるかもしれません。   それでも、私たちがぶれずに主にお従いする生き方をするならば、主は私たちに大きな祝福を与えてくださいます。その祝福は特に、イエスさまを信じる信仰について強い確信を持つという形で現れます。私たちはもちろん、信仰を増し加えていただきたいから、その祝福をいただきたいから、コロナをものともせずにこうして日曜日に教会に集まっているわけでしょう。私たちの信仰は増し加えていただけるのです。私たちは祝福されるのです。信じていただきたいのです。   本日は短い時間ですが、教会総会のひと時を持ちます。みなが教会と聖徒にお仕えする当事者として、今日このときにともに、一丸となって取り組みます。教会は牧師ですとか役員ですとか、一部の人だけがその責任を担うのではありません。全員が責任を持つものです。総会にしっかり取り組みましょう。   そして、おうちにお帰りになったら、今日の箇所を改めてお読みください。私たちはこのように生きる責任が与えられていること、そして、大いなる祝福が与えられていることを心に留め、この2021年度、ますます主と教会に献身するものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

苦難にあっても忠実であれ

聖書箇所;ヨハネの黙示録2:8~11/メッセージ題目;苦難にあっても忠実であれ  聖書は、聖徒が苦難にあうことを語っています。もちろん、そういう苦難は、私が先週立てつづけに体験したようなものとはまったくちがうものです。教会図書にある『たといそうでなくても』ですとか『サビーナ』といった本をぜひお読みいただきたいのですが、イエスさまを信じる信仰を貫いたゆえに、国家神道原理主義の日本の支配下にあった朝鮮ですとか、共産主義のルーマニアですとか、そういった国々で、聖徒たちは塗炭の苦しみを味わわされました。そんな方々のことを考えると、ごみ捨てに行けるだけのごみを出せる家に住めることも、きちんとした礼拝堂で礼拝できることも、格別の恵みというほかありません。  ヨハネの黙示録、7つの教会についての学びは今日が2回目、スミルナ教会についてです。  まず、このメッセージは、語ってくださるお方、イエスさまがどのようなお方かを告げるみことばから始まっています。スミルナ教会に語られるイエスさまは、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」であるということです。  イエスさまは7つの教会にそれぞれメッセージを語られるわけですが、そのメッセージを始められるにあたって、語ってくださるお方であるイエスさまとはどのようなお方か、修飾することばは、7つすべて異なっています。その修飾することばは特に、その教会ごとに対し意味があります。  先週私たちは、エペソ教会に対して語られたイエスさまのみことばを学びました。その修飾のことばは、「右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台を歩く方」です。七つの星、七つの燭台が、教会という意味を持っている以上、エペソ教会にこのメッセージを語られたのは、あなたがたエペソ教会が、教会、キリストのからだと呼ばれるにふさわしくあろうとするなら、初めの愛に立ち帰れ、という意味がありました。   今日の箇所、スミルナ教会に向かわれるイエスさまの御姿は、8節に書かれているとおりです。「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」……。   イエスさまがこういうお方であることは、私たちにとってどのような意味があるでしょうか? 私たち人間はいつかはこの地の生涯を終える存在であり、それはありていに言えば「死ぬ」存在である、ということです。   その「死ぬ」ということは、多くの場合、永遠の別れを意味します。だから死にたくはありません。ましてや、苦しんで死ぬなどなおさら避けたいことです。   それなのに、教会を迫害する者たちは、イエスさまを信じつづければおまえは死ぬよ、とちらつかせ、その死に対する恐怖をかきたてることで、人を信仰から引き離そうとします。   私たちは弱いです。ある牧師のお嬢さんが、『たといそうでなくても』を読んだとき、こんなことを言ったそうです。「こんな目にあったら、あたしなら信仰捨てちゃいそうだよ!」私は彼女のことを責めることなどできないと思いました。そうです、肉体的、精神的に極限まで追い詰められたら、私たちはどうすればいいというのでしょうか。   イエスさまが初めであり終わりである、死んでよみがえられた方であることを知ることは、そのように死と隣り合わせで迫害を受けかねない私たちにとって、この上なく必要なことです。十字架に死なれても三日目によみがえられたイエスさまは、私たち、有限であり、死ぬべき私たちに、よみがえりのいのち、永遠のいのちを与えてくださいます。この、永遠のいのちの信仰が、私たちを生かします。   9節を読みましょう。スミルナ教会を神さまはどう評価していらっしゃいますでしょうか? スミルナ教会は、苦難の中にあり、また窮乏していました。しかし、主はその苦難と貧しさを知っておられ、わたしはあなたがたがどんなに苦しいかよく知っているよ、と言ってくださいます。   苦しいということ、貧しいということは、できれば避けたいことです。 教会が成長するということには、経済的に豊かになって苦しさ、貧しさから抜け出すということも含まれてしかるべきです。しかし、教会は思うように成長しない、人が増えるわけでもなければ、経済的に豊かになるわけでもない、目下このコロナ下においては、礼拝に人が来なくなるという事態にもなるわけです。神さま、なぜですか! と叫び出したくなるようなそのとき……神さまは、私たちがなぜ苦しんでいるかすべてご存じで、そんな苦しみの中にある私たちのことを慰めてくださいます。   なんというみことばで慰めてくださるのでしょうか?「だが、あなたは富んでいるのだ。」そうです、経済的に、物質的に貧しいかどうか、あるいは、目に見える状況が苦しいかどうかということを、つい私たちは気にしてしまいます。しかし、神さまが私たちクリスチャン、教会をご覧になる基準は、そこにはありません。神さまがいったん、「あなたは富んでいる」とおっしゃるなら、状況はどうあれ、私たちは富んでいるのです。   教会が富んでいるかどうかは、教会の年間予算の額や、登録教会員なり礼拝出席者なりの数や、礼拝堂の大きさ、立派さで決まるのではありません。まことの富なる神さまが教会とともにおられるように、教会が神さまをお迎えしているかどうかです。もし、立派な礼拝堂を持ち、たくさんの会衆を集め、インターネットの礼拝中継はたくさんの視聴者を集め、そうとうな年間予算を誇る教会であったとしても、神さまの御声にその教会が無関心であるならば、その教会は「富んでいる」とはとても言えません。   もし、私たちがおのが貧しさを痛感し、神さまに涙をもって訴えるがごとく進み出るなら、それで私たちは「富んでいる」者となるのです。私たちは何を見て自分自身や、教会を評価するのでしょうか? お金のような目に見えるものではなく、目に見えない神さまのやさしい御目で自分たちのことを見ることができるならば、幸いなことです。   しかし、神さまがともにおられるゆえの霊的な富は、ある面では目に見える富をもたらします。「ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられている」……実は、これは富なのです。   うそではありません。これは、イエスさまがおっしゃっているとおりです。マタイの福音書5章、11節と12節に書かれているとおりです。   預言者とは、イエスさまのご到来を、その生き方をもって証しした人々です。しかし、イスラエル、ユダヤの既得権を握った者たちは、まことに神に従順であったそんな彼らを忌み嫌い、苦しめました。そのように、スミルナ教会はユダヤ人といいながら、まことの救い主であるイエスさまを信じない者たちから、塗炭の苦しみを味わわされていました。   だが、マタイ伝のイエスさまのみことばによれば、そんな聖徒たちは、天で大きな報いを受けるということです。天の御国においては、地上でイエスさまの御名のゆえに苦しんだ者、特に、イエスさまを信じ従っているというその理由で迫害を加えてくる者たちの、その迫害を耐え忍んだ聖徒たちに、主は大きな報いを与えてくださいます。   私たちがもし、この地上の生涯で終わりならば、そのような苦しみには意味がないことになるでしょう。しかし主は、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」です。この永遠のいのちなるお方が私たちのことを、永遠の御国へと迎えてくださるゆえ、私たちはこの地上の苦しみを耐え忍ぶことに、大きな意義をいだくことができるのです。それは、イエスさまのあとについて自分の十字架を背負う生き方ですが、最高の祝福です。   10節にまいりましょう。「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。」このようにイエスさまがおっしゃるのは、苦しい思いをすることは、普通に考えるならば恐れることである、ということが前提となっています。いやー、自分はどんな目にあっても全く平気だよー、こわくないよー、なんて言うのは、ほんとうに苦しいとはどういうことかわかっていないからそう言っているだけに過ぎません。私も若い頃は、そのようなことを言ったものでしたが、それは、向こう見ず、というか、無謀、というか、いえ、そんなかっこいいものではなく、無知、だったということです。   苦しみを恐れないのは、無謀だからでも、無知だからでもありません。イエスさまがその苦しみを、完全に受けてくださったからです。考えてみましょう。神の御子があらゆるあざけりを受け、十字架でなぶり殺しにされ、ついには御父とのいのちの交わりが絶ち切られたと考えてください。そのイエスさまの苦しみはいかばかりか! それに比べたら、私たちの体験する苦しみなど、何ほどのこともありません。かつて、信仰の先達は、たいへんな迫害を受けましたが、彼らは何と言って耐えたのでしょうか。イエスさまの十字架に比べれば、こんなことは苦しみのうちに入らない……。 私は、このようにして迫害に耐えた先達のことばを、声を大にしてお伝えしたいのです。主は私たちにも、このように十字架を負う恵みを与えてくださるのだと。もちろん、このように語る私自身が失格者になってはなりません。自分を打ちたたいてでも、この永遠のいのちをくださったイエスさまにお従いしていく必要があります。 みことばは続きます。「見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。」これは、脅かして言っているのではなく、実際にあなたがたはそうなる、とおっしゃっていることばです。これは警告、つまり、そうならないように避けなさい、というおことばではありません。あなたはサタンによって迫害を受け、試されます。でも、死に至るまで忠実でありなさい。 「あなたは十日の間、苦難にあう」。この「十日」ということばは、文字どおりの十日、240時間という意味と取るべきでしょうか? それよりも、これは「象徴」としての時間と考えるといいでしょう。 私たちは苦しみに遭います。しかし、その苦しみに終わりがあると知っているなら、私たちは耐えられるのではないでしょうか?「十日」という時間は、案外長くない時間と考えられるでしょう。二週間にも満たない期間です。そのように、主はサタンに対し、私たち主の民を苦しめるのにも長すぎる時間を許してはおられない、ということです。私たちは苦しみますが、耐えることができるのです。 私たち聖徒は、地上では苦しみに次ぐ苦しみを体験します。しかしいのちが天国に移され、主とともに永遠に生きるようになったならば、その地上の長かった苦しみなど、あたかも十日かそこらの監獄生活のようではないでしょうか? さきほども申しました『たといそうでなくても』や『サビーナ』での監獄の生活は、もちろん、数字のうえでの十日ではすみません。その登場人物の中には朱基徹(チュ・キチョル)牧師のように、長い長い獄中生活のはて、苦しんで苦しんだ末にいのちを落とした人もいたわけでした。しかし、その後に控えていたものは永遠の天国、いのちの冠であったことは、もはや疑いようがありません。 私たちが避けるべきものは何でしょうか? この地において、キリストのゆえに受ける苦難ではありません。私たちが避けるべきは、苦しまなくていいという、安逸な心、安逸な生活です。脅かして言うのでもなんでもなく、私たちはサタンの試みにあい、苦しむ定めです。 それが避けられない以上、私たちのすることは、そうなっても信仰から離れてしまうことのないように、コロナ下とはいえそれでもまだ平常時といえる今から、普段からの主との交わりに努め、この愛するイエスさまを絶対に裏切ることがないように、ますますイエスさまを愛し、兄弟姉妹のために、教会のためにお祈りすることが必要ではないでしょうか? そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える、とあります。あなた、つまり教会がいのちの冠を受けるのです。信徒個人が、だれかほかの信徒を出し抜いて信仰深くなって、ほかの信徒が受けられないいのちの冠を私が受ける、ということではありません。そういうことはありえません。教会全体が一緒にいのちの冠を受けるのです。 聖書を読むとほとんどの場合、登場人物を介して主のみわざが語られています。この新約時代も、パウロやペテロ、そしてその周辺の人々によって教会が形づくられた様子が、使徒の働きや手紙類から垣間見えます。しかし、ヨハネの黙示録をご覧ください。この黙示録を記したヨハネ以外、どんな特定の登場人物もいません。あえているとすれば、7つの教会の7人の御使いです。擬人化された教会です。教会があたかもひとりの人のように、考え、語り、みことばに従う振る舞いをするのです。 それは今の時代も同じです。著名なクリスチャンや牧師が教会をつくるのではありません。私たち全員がひとつの教会、ひとつのからだなのです。教会の歴史とは、私たち全員がみことばに従順に従うことで紡ぐものです。…

初めの愛

聖書箇所;ヨハネの黙示録2:1~7/メッセージ題目;初めの愛 むかし、日本独自のキャラメルの製法を編み出した森永太一郎という人物は、クリスチャンでした。そんな彼の信仰を反映して、彼の創業したお菓子の会社は、天使のマークなのだということです。 そういうこともあるからでしょうか、私の印象では、一般的に日本では、人々はキリスト教の象徴として天使にとても馴染んでいるように思えます。しかし、実際に聖書を読んでみますと、天使――新改訳聖書では「御使い」と表現していますが――は、案外登場しません。同じ霊的な存在でも、御父、御子、御霊なる神さまのほうがよほど大事な存在だからということもあろうかと思います。 しかし、やはり御使いは大事な存在であることに変わりはありません。御使いとはどのような存在でしょうか? ヘブル人への手紙1章14節は、御使いをこのように定義しています。「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。」というわけで御使いは霊的な存在であり、救いを受け継ぐ聖徒に仕える存在です。 さて、今日から始まる7つの教会への使信ですが、人の子、主イエスさまは、ヨハネに対し「〇〇にある教会の御使いに書き送れ」と語っておられます。7つの教会の御使いを御手の中に握っておられるお方が、ヨハネに対し、御使いに書き送れと語っておられる、これいかに? といったところでしょう。 これは、「御使い」とはどのような存在かを改めて考えることで、謎が解けていきます。今回私はこの箇所の背景を勉強し、「御使い」とは、「神の使信を教会に語り伝えるメッセンジャー」という意味もあることを知りました。してみると、この「御使い」は、目に見えない霊的な存在であるところの「天使」を意味しているとはかぎらない、ということにもなるわけです。 しかし、そうなると、またほかの疑問が生じます。なぜここでわざわざ「御使い」という表現をしているのだろうか? 人間なら、ほかの言い方をしてもよさそうなものではないだろうか? 教会は単なる人の集まりではありません。霊的な存在です。単に人の群れとしての教会に書き送っているのとは次元が異なります。 教会にこの使信を書き送るとは、教会がこの使信を共有することで御使いに象徴される教会の霊的状況が左右されるということであり、きわめておごそかなことです。 その前提で、この7つの教会への指針、まず今日はエペソ教会への使信を読んでみたいと思います。エペソ教会に宛てたこの使信は3部構成になっています。見てまいりましょう。 第一は、神さまからの賞賛です。主は、エペソ教会の行い、労苦と忍耐を覚えていらっしゃいました。 教会を運営するということは大変な労苦と忍耐を必要とします。先週の金曜日、茨城県は緊急事態宣言を発令しました。コロナウイルス流行の第三波は、これまでにない勢いで日本を、世界を呑み込んでいます。 このようなとき、教会は難しい決断を迫られるばかりで、信徒は疲弊させられます。去年の5月、水谷潔先生がたいへんショッキングなことをおっしゃっていました。日本の教会の牧師たちは、経済的理由や精神的疲弊により、今年の3月までには、1割がもう牧師を続けられなくなっているだろう……。 これを読んだとき私は大きなショックを受けたものでしたが、その3月が間近になった今、感謝なことに、日本の教会と牧会者たちはおおかた、まだやれているようです。 エペソ教会はというと、パウロが開拓し、テモテが牧会し、そして今はヨハネの手にゆだねられましたが、女神アルテミスの門前町という偶像の精神風土の中にあり、たいへんな思いをして教会が保たれてきたことが、聖書のあちこちから垣間見えます。私たちも今たいへんな思いをしていますが、エペソ教会の体験していた苦難に比べたら、ものの数でもないでしょう。 教会は苦難に遭います。しかし、そのような中でも灯を消さずにいつづけるならば、それはすばらしいことです。教会とは、天国を地上に実現する場所であり、教会がなければだれひとりとして、神さまに出会うことができず、したがってだれひとりとして、この世界においてまことの希望を持つことができません。それゆえ、教会を何としてでも存続させなければ! と、この世の勢力と戦ってでも努力することは素晴らしいことです。 その戦いはときに、自称「使徒」を試すことで成り立ちます。「使徒」を自称する者たちはいつでも教会に入りこみます。 ひとことで言えば、彼ら自称「使徒」は、「論より証拠」で迫ってきます。ほらご覧なさい、あなたがた教会は古臭い教えにこだわっていますが、私たちはこんなにも霊的ですよ、天国を知っていますよ、それが証拠に、こんな霊的なことができるのですから……ことさらに異言を唱えたり、預言なるものをしたり、いやしの働きをことさらに行なったり……。 よくわかっていない人は、このようなカギカッコつきの「霊的」な彼らの姿にだまされ、キリストの花嫁なる教会の純潔を失うのです。イエスさまではない、人をあがめ、人についていくのです。「異端」というものの存在をなぜ許してはいけないか、それは、人をキリストから離れさせるから、つまり、永遠のいのちを失わせ、二度と救われる機会を与えさせないからです。 エペソ教会は、教会の純潔のために戦いました。それまでもエペソ教会には、パウロ、テモテによってしっかりした神学がたたき込まれていたわけで、その神学に堅く立って、その神学の物差しにあわない者は、たとえ論より証拠の説得力があっても排除しました。 このたび当教会は、礼拝後の短い時間に教理問答の勉強を始めることになりました。これは教会を強くするために必要なことです。正当な教理は、消毒液がコロナウイルスを死滅させるように、異端に引き込む教えをやっつけ、教会を守ります。学びを大切にしていただきたいのです。 しかし、このような内憂外患の連続では、教会やその指導者たちは燃え尽きてしまわないものでしょうか。けれども、神さまの御目には、彼らエペソ教会は「疲れ果てなかった」のでした。これは相当な賞賛ではないでしょうか。それほど彼らは教会を大切に思い、教会に力を注ぐことを第一としてきたのでした。 私たちも、今置かれている状況はとても厳しいものがあります。「初代教会のような迫害を受けていないのなら、もっと耐え忍べ!」などという問題ではありません。その時代、その時代の厳しさがあります。私たちもつらいのです。 こんなとき私たちは、慰めを与えてくださる神さまの御声に耳を傾けたいものです。よくやった、よい忠実なしもべだ。神さまは、その御声をかけてくださるお方です。頑張って燃え尽きてしまいそうな私たちにも、疲れ果ててはいない、と、最大限の賞賛をくださるお方です。 いま、疲れてはいないでしょうか? 神さまの御声に耳を傾けましょう。 そして、元気づけてくださるみわざを体験されますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 第二は、神さまからの叱責です。 これだけほめられたエペソ教会は、しかし、神さまのお叱りを受けなければなりませんでした。4節をお読みしましょう。……エペソ教会は、初めの愛から離れてしまったのでした。 神は愛なり。神さまの愛から離れた教会は、大いにみこころを損なった存在です。 エペソ教会は神さまのためによく忍耐した教会です。正当な教理で異端を排除することもしっかり取り組みました。すばらしいことをしました。それでも……神さまの御目から見れば、初めの愛から離れたのです。 イエスさまはおっしゃいました。わたしがあなたがたを愛し、あなたがたを任命した。この、先に愛してくださったイエスさまの愛こそ、初めの愛です。世界のはじめからすでに私たちのことを選んで愛してくださっていたこの愛こそ、初めの愛です。まさに聖徒とは、イエスさまの弟子とは、イエスさまに愛されてこそ存在する、かけがえのないものです。 そんな、イエスさまに初めの愛で愛されている聖徒と、その群れである教会のすることは何でしょうか? 初めの愛にとどまることです。このときエペソ教会は、初めの愛にとどまっていませんでした。それで叱責されたのでした。 そこで、初めの愛にとどまるとはどういうことかを考えましょう。5節のみことばです。まず、「どこから落ちたのか思い起こし」、そうです、教会がイエスさまの愛から離れるには、必ず何らかのきっかけというものがあるはずです。 エペソ教会にもそのようなきっかけがあったわけですが、それと同じようなきっかけは、私たちにもたえずついて回ります。自分たちはもっと礼拝堂をきらびやかに飾ろうとしていなかっただろうか、献金額を多くしようとして無理なキャンペーンをしていなかっただろうか、地域に教会の存在を知らせようと大予算で手の込んだ宣伝をしていなかっただろうか……。きっかけはいろいろです。 そのきっかけがわかったならば、次にすることは「悔い改め」です。 悔い改め、まずすることは「悔い」、自分たちが神さまの御目から見てどんなに自己中心で、間違ったことをしていたか、その罪を認めるのです。それから「改め」、自分の罪に向いていた視線を、聖い神さまへと方向転換するのです。 その「悔い改め」の結果することが何かというと「初めの行い」であるとあります。「初めの愛」にとどまるとは、「初めの行い」をすることである、というのです。 愛は行いが伴うものです。「互いに愛し合いなさい」というイエスさまのみことばは、単なる掛け声ではありません。心の中でだれかを「愛している」と思いさえすれば、それで愛していることになるのではありません。困っているなら助けの手をさしのべる、自分の都合を差し置いてでも。そういうことができてようやく、「初めの愛」で愛している、「初めの行い」をしている、ということができるのです。 教会は、兄弟姉妹を神さまの愛で愛することが、その旗印です。エペソ教会は察するに、兄弟姉妹のあいだにあるべき愛が冷えつつあったのではないでしょうか。その、兄弟姉妹のあいだにあるべき神の愛の行いは、同じ行いでも、教会を維持するためにとても努力しただとか、神学的に正統だとか、異端をやっつけただとか、そういう「行い」が取って代われるものではありません。 その、愛の行いがないことをそのままにしていたらどうなるか、ということに対しても、主は警告のみことばを発しておられます。あなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。 これまでも学んできたとおり、燭台とは教会です。つまり、燭台を取り除くとは、もはやそこを教会ではないものにしてしまう、という、怖ろしい警告です。たしかにそこは人が集まってはいます。キリスト教という「宗教」を行う場所ではあります。 しかし、それは「宗教」とは呼べても「キリストのからだなる教会」と呼ぶわけにはいかないのです。なぜなら、そこに集う人々が、具体的に行動する兄弟愛をもって証しされる神の愛を、その集まりから排除してしまっているからです。神の愛、互いの間の愛がないなら、教会とは名ばかりで、神さまはそれを教会として扱ってはくださいません。 この警告は、私たちを含め、世界中のすべての教会に突きつけられています。私たちは自己中心の罪人です。初めの愛の行いから落ちてしまうことなど、いつだって起こりうることです。そんな自分たちであることを、こうして気づかせていただいている私たちは幸いな存在です。 つねに悔い改め、神さまとの関係を結び直せることに感謝してまいりたいと思います。 そして第三、ふたたび神さまからの賞賛です。彼らエペソ教会がニコライ派の人々の行いを憎んでいることです。 ニコライ派が何者かということは、詳しくはわかっていません。しかし、聖書、特に黙示録2章のほかの箇所から、ある程度の類推をすることはできます。まず、14節と15節です。……詳しくは来週お話ししますが、民数記を読むと、イスラエルは不品行のゆえに堕落したことがありました。 この黙示録の箇所を読むと、その背後には占い師バラムがいたことがわかります。このバラムの教えによって、神の民は偶像礼拝をし、不品行を行いました。神の民にあるまじく汚されたのです。 それと同じように、ニコライ派の教えを奉じている、とあります。それと同じように、というのが手掛かりです。神の民が自発的に偶像礼拝や不品行を行うように導いて、共同体を内側から崩壊させる教えがバラムの教えであったわけですが、ニコライ派の教えもそのような、教会に内部崩壊をもたらす教えであったことがほのめかされています。その教えに裏打ちされた行いとは、もちろん、教会分裂、教会弱体化です。 プロテスタント教会は諸教会を一元的に統括する、ローマ・カトリックで言えば「教皇庁」のような組織が存在しないだけに、「一人一派」のようなところがあります。『百万人の福音』のような雑誌は、そのようにさまざまな立場の牧師やクリスチャンがいろいろな意見を述べています。 それがその雑誌の魅力であるわけですが、彼らが意見を述べるのは、その意見を述べることで読者の霊的成長を促し、よりいっそう所属教会に献身するように導くわけです。言ってみれば、雑誌に寄稿するすべての人は、読者それぞれの教会生活のために、読者に「仕えて」いるわけです。 しかし、クリスチャン相手に意見を述べる人は、そんな善良な人たちとはかぎりません。彼らを自分の考えに染めてやりたい。彼らを自分に仕えさせたい。口に出さなくても、そのような腹黒い考えでクリスチャンに接近する者は、いつでも、どこにでも存在するものです。彼らはうまいことを言いますが、それは私たちをより一層教会に仕えさせるためではありません。 それは教会に疑問を抱かせ、教会から引き離し、自分の側につけるためです。それ以上のものではありません。 そんなとき私たちは、そうですねえ、うちの教会には愛がありませんから! と、彼らの口車に乗るのでしょうか? しかし、はっきり申しますが、愛がないのはむしろ彼らのほうです。私たちのことを利用するだけして、最後は自分だけが得をします。 私たちは、こういうことをする者たちの行いは、思いっきり憎んでいいのです。なぜなら第一に、神さまご自身が憎んでおられるからです。憎んでいいのです。彼らのしていることは、私たちの大好きなイエスさまのみからだを切り刻み、引き裂くことです。教会がイエスさまのみからだである以上、彼らはそういうことをしているのです。 ただし、私たちが憎しみに捕らえられている「だけ」ならば、エペソ教会が叱責されたように、初めの愛から離れたままになってしまうこともありえます。まず、私たちが取り戻すべきは「初めの愛」です。イエスさまが私たちを愛されるゆえに、私たちもイエスさまを愛するのです。その愛を、兄弟姉妹を具体的に愛するということで守り行うのです。…

初めであり、終わりであり、生きているキリスト

聖書箇所;ヨハネの黙示録1:9~20/メッセージ題目;初めであり、終わりであり、生きているキリスト 創造主なる神さまが私たち人間に書かれた聖書のみことばは、この世界には終わりがあることを語っています。私たちは今自分たちが生きている世界に対して、いつまでも続くものだとか、そもそも終わりがどうなるかわからないから考えたくもない、などと思ってはいないでしょうか? しかし聖書ははっきりと、この世界はいずれ終わることを語っています。 だから私たちは、この世界の終わりに向けて、自分にとって備えるべきことを備える必要があるわけです。ノアは神さまの警告を聞いて、大洪水に備えて箱舟をつくりました。同じように、私たちも備える必要があります。その備えをするために、私たちはみことばを聞くわけです。特にいま私たちは、世の終わりを語るヨハネの黙示録から学びつつあります。このみことばに、私たちはともにしっかり耳を傾けてまいりたいと思います。 それでは本日の箇所にまいります。本日もまた、3つのポイントでお話しいたします。 第一のポイントです。主は、復活のお方です。9節と10節のみことばをお読みします。 先週もお話ししましたが、ヨハネがパトモスという島にいたのは、神のことばとイエスの証しのゆえであると、この9節のみことばは語ります。ヨハネは迫害を受けて、流刑、島流しとなったのです。 これはイエスさまが予告されたことです。かつてヨハネとその兄弟ヤコブは、イエスさまが天に昇られたら、その左右の座に着きたいとイエスさまに直訴したことがありました。要するにほかの十人の弟子を出し抜こうとしたわけですが、そのときイエスさまはこの兄弟に、あなたがたは、わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか、と迫られました。兄弟は、できます、と答えました。そのときイエスさまは、ご自身の右と左に座れるかどうかはイエスさま次第ではなく、御父のみこころ次第であることをお断りになった上で、ヤコブとヨハネはイエスさまの杯を飲むことになると予告されました。 実際そのとおりに、ヤコブはヘロデ王により殺害されました。十二使徒の中の最初の殉教者です。そしてヨハネも今このようにして、島流しに遭っています。まさしく、イエスさまの受けられた十字架の苦難の杯を飲んだのです。 しかし、島流しが苦難なのは、少なくとも使徒たちにとっては、一般の人たちとはちがう理由であるはずです。島流しに遭ったならば、人々との交わりが絶たれます。それはつまり、教会を開拓することも、聖徒たちと顔と顔とを合わせて教会を牧会することもできないことを意味します。それは主のしもべとして、どれほどつらかったことでしょうか。 みこころに従順になるなら、私たちは時として理不尽な苦難、受け入れがたい苦難を身に帯びることがあります。従順ゆえの苦難、それはイエスさまが体験されたことでした。十字架とは、御父のみこころに従順になられた証しでしたが、そのために罪のないお方は、人間のあらゆる罪という罪を背負われ、父なる神さまに捨てられました。 ヨハネの苦難、聖徒たちのもとに直接行って教会を形成することのできない苦難は、まさに、イエスさまが御父に従順であられたように、神のことばとイエスの証しがほんとうであると、身をもって宣べ伝えるという、神のみこころに従順であったゆえの苦難でした。 しかし神さまは、ヨハネのことを見捨ててはいらっしゃいませんでした。主は御声をもって、この孤独の中にいたヨハネに語りかけてくださったのでした。 この声を聞いた日は、主の日であったとあります。ヨハネは孤独な島流しの生活にあって、主の日、つまり日曜日、クリスチャンとして神さまを礼拝する日を忘れずにいました。その日に主がこの励ましのことば、戦いに備えよとのことばを語られたことは、注目に値します。 主の日、日曜日、それは、イエスさまが復活された日です。主が日曜日にヨハネにお語りになったのは、ご自身が復活の主としてお語りになったということではないでしょうか。 復活の主は、どんな声でヨハネに語りかけてくださったのでしょうか?「ラッパのような大きな声」でです。 新約聖書を読むと、世に終わりが来て、死ぬべき者が死なない者に変えられる、つまり天国に導き入れられるときに下される合図は、ラッパの音であるということがいくつかの箇所に書かれています。神のラッパの音は、死んでいた人をよみがえらせるというみこころの顕れです。 ヨハネもこのとき、島流しに遭って宣教も教会形成もできず、もはや使徒としては死んだも同然でありましたが、聖書66巻を締めくくるみことばを書き記すという偉大な使命が与えられ、生き返らせていただきました。 復活の主はこのように、死んでいた者に復活のいのちをくださるお方だということが、このみことばからもはっきりわかります。 また、この御声がラッパのような大きな音だったということには、どんな意味がありますでしょうか? 第一コリント14章を読むと、ラッパがはっきりした音を出すのは戦闘の準備をするためだ、と語っています。 ヨハネの黙示録は終わりの日の戦いを細かく描写していますが、血肉に対してではない、サタンともろもろの悪霊どもと私たち聖徒との戦いにおいて、このみことばは神さまの吹き鳴らされる「起床ラッパ」であり「進軍ラッパ」なのです。このラッパの鳴る音を聞いたならば、私たちは霊的な眠りからさめ、神のすべての武具を身に着けて戦いに赴きます。 まことに、主のみことばは、私たち人間、罪に死んでいた人間を生き返らせる、神のラッパにもなぞらえられる、大きな御声です。主は私たちひとりひとりに御声をかけてくださり、元気を出しなさい、立ち上がって歩き出しなさい、戦いなさい、と、励ましてくださいます。 このところ、私たちはニュース番組や新聞やインターネットで、ますます新型コロナウイルス感染者が増えているとかいう、憂鬱な話を目にし、耳にしています。そのほかにもいろいろな、いやになるニュースが流れています。しかし考えてみましょう。私たちを救い、天国に入れてくださっている主は、この世の憂いなどでどうにかなるようなお方ではない、偉大なお方ではないでしょうか? イエスさまは十字架にかかられただけではありません。復活されたのです。すべての罪と死に打ち勝たれました。私たちもイエスさまを信じる信仰により、圧倒的な勝利者にしていただいているのです。 落ち込むこともあるでしょう。暗い気持ちが続くこともあるでしょう。しかし私たちはここで、復活のイエスさまに目を留め、明るく輝く者とならせていただきたいものです。主は大きな音色で響くラッパの音のようなはっきりした御声をかけて、私たちのことを励ましてくださっています。立ち上がり、歩き出す力をともにいただく私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二のポイントです。主は、恐るべきお方です。 11節のみことばです。……そのラッパのような声が命じたことは、アジアの7つの教会にみことばを書き送りなさい、ということでした。 ヨハネを励まし、立ち上がらせた進軍ラッパのみことばは、7つの教会……7が完全数であるということを考えると、あらゆる教会、かつ完全な教会にみことばを語りなさい、ということでした。まことに、教会の聖徒たちにみことばを伝えることこそ、まことの励ましをいただく道です。 その声はヨハネの背後から語りかけていました。これは何を意味するのでしょうか? もし、ヨハネの目の前に主が現れて、いきなり語りかけられたのならば、ヨハネの意思に関係なく、主が現れ、語られた、しかもラッパのような大きな声で語られたということになります。 しかし主は、ヨハネの背後から語られました。するとヨハネのすることは2つに1つです。振り返るか、無視するかです。しかしヨハネは声のする方(かた)へと振り返りました。これは、ヨハネが意志をもって御声を聞く選択をしたということです。 御声を聞く、ということは、神さまが一方的に語られることがひとりでに聞こえてくる、ということではなく、神さまが語られることを意志をもって聞く選択をする、という、神さまと人との共同作業です。神と人との交わりです。神さまはここで、ヨハネに背後から語られることで、ヨハネが振り向くという行動により、意志をもって御前に進み出るという選択をさせ、自発的な交わりへと招かれたわけです。 12節をよく見てください。「自分に語りかける声を見ようとして」、とあります。これは意訳ではありません。聖書の原文が「声を見る」と表現しているのです。創造主訳聖書では「声の主を見ようとして」、リビングバイブルでは「いったいだれだろう、と振り向くと」と意訳しています。もちろん、それも間違いではありませんが、ここはひとつ、「声を見ようとして」という表現に注目したいと思います。 神さまのしもべである私たちにとっては、神の御声は「聴く」ものであるのと同時に「見る」ものです。それは、こうして印刷され、製本された聖書を目で見て読むことを、「御声を聞く」と表現することからもたしかです。そのような表現をするのも、神のことばを「聞く」ことは、同時に神のことばなるイエスさまを「見る」ことでもあるわけです。 イエスさまの弟子のトマスは、肉眼でイエスさまを見たときようやく、イエスさまの復活を信じました。そんなトマスにイエスさまは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」とおっしゃいました。 その幸いな人とはどういう人かを、使徒ペテロはこのように表現しています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」 この喜びは、私たちならだれでもわかるでしょう。目に見えないイエスさまを「見る」とは、みことばを「聞く」、すなわち「見る」ということです。その喜びを、私たちはこの年もますますみことばをお読みし、みことばに耳を傾けることで体験してまいります。 さて、こうして、ヨハネはみことば、すなわち人の子、イエスさまを「見ました」。するとそこには7つの金の燭台がありました。この7つの金の燭台は7つの教会であると、20節のみことばは解き明かしています。 燭台は金、金は何よりも尊い存在です。教会は尊いものなのです。教会は燭台ですから灯をともします。灯をともすのは暗闇の世界を明るく照らすため、そして、やがて来られる花婿なるイエスさまのおいでを待つゆえです。イエスさまがいつ来られてもいいように、花嫁にふさわしく灯を絶やさないでおくのです。 この7つの燭台の真ん中に、人の子のような方がおられた、とあります。人の子とは、イエスさまがご自身のことを指して用いられた表現であり、救い主、さばき主としてのお方を意味します。しかしここでは、「人の子の『ような』方」とあります。ヨハネは、イエスさまの十二弟子のひとりとして、イエスさまのお顔、お姿を忘れようはずがありません。 しかしここに現れたお方は、明らかに、弟子としてずっと見つづけてきたお顔、お姿とちがっていました。でもこのお方は人の子、イエス・キリスト以外のどなたでもないことが、ヨハネにはたちどころに分かったのでした。 足まで垂れた長服、まことの祭司としての服装です。そこに金の帯を身に着けておられるということは、神のきよさ、神の威厳そのものの姿として現れたということです。頭と髪は羊毛のように、雪のように白いということは、このお方は、毛を刈られる羊のような従順な姿をもって十字架にかかられ、血潮を流されたことにより、その血潮で私たちの罪を雪のように白くしてくださるお方である、ということです。 また、その目は燃える炎です。この姿はダニエル書10章6節にすでに預言されていたとおりですが、ダニエル書では「燃えるたいまつ」と表現されています。たいまつは暗闇を明るく照らすものです。 つまり主は、暗闇を煌々と照らす炎のように、どんなに隠しておきたい私たちの罪、闇のわざをも、明らかにされ、その御目の炎をもって焼き尽くされるお方であるということです。 その足は光輝く真鍮とありますが、これもダニエル書10章6節のとおりです。新改訳でダニエル書を見ると「磨かれた青銅」と書かれていますが、ヨハネが見たお方はダニエルが見たお方と異なるのではありません。新約聖書においてしばしば引用される旧約聖書は『七十人訳(しちじゅうにんやく)』というギリシア語の聖書です。この七十人訳によると、ダニエル書は「青銅」ではなく「真鍮」と表現しています。また、「青銅」も「真鍮」も、どちらも銅の合金であること、また、主の御足はそもそも金属ではなく、これは象徴であることを考えると、黙示録の「真鍮」という表現はダニエル書と一致していることになります。まさに、ダニエルが見たとおりの方が現れた、ということです。 そして、御声は大水のとどろきのようです。主の御声はラッパのようであるとともに、大水のとどろきのようでもあります。大水のとどろきのような御声、これはイザヤ書43章2節に書かれた、イザヤが見た主の御姿です。やはり預言されたとおりのお方でした。大水に関しては、同じイザヤ書の59章19節を見ると、主は激しい流れのように来られると預言されています。そのように、激しい流れのように主が来られるゆえに、東でも西でも、世界のどこにおいても主の御名、主の栄光が恐れられるとあります。まさに、激しい主の来臨のゆえに全地は激しく恐れるのです。 右手には七つの星を持っておられます。この七つの星は、7つの教会の御使いたちであると20節のみことばは解き明かします。主は御使いを遣わして、すべての教会を助けられます。イエスさまは、すべての教会を、その義の右の手で握られ、あらゆる悪しき者の攻撃から守り、御恵みをもって導いてくださるお方です。 そして、口からは両刃の剣が出ています。もうお分かりだと思います。ヘブル人への手紙4章12節にあるとおり、みことばです。私たち、全身に罪が染みこんだ罪人をばらばらに切り刻み、罪を明らかにし、取り除く剣は、主の御口から出るひとつひとつのみことばです。しかしこの「殺すことば」は、同時に私たちにとっては「いのちのパン」であり、「生かすことば」でもあります。 そして、御顔は強く照り輝く太陽です。太陽を肉眼で見つめたら失明します。御顔はそれほどの栄光に輝いています。旧約にはしばしば、主の御顔を見た者は死んでしまう、と恐れる場面が出てきます。このときもヨハネは、御顔を見極めようとして、ついにその栄光の前に死んだ者のようになり、倒れ伏しました。 イエスさまのこのようなお姿は、無抵抗に十字架にかかられたお姿とは対極にあるお姿です。人々があざけり、見捨て、葬り去ったナザレのイエスは、実は聖書に預言されていたとおりの王の王、主の主であった……なんということでしょうか。 私たちはイエスさまが目に見えないのをいいことに、ともにおられるイエスさまとの関係、イエスさまとの交わりを粗末にして、平気でいてはいないでしょうか? そんな私たちは、実はイエスさまはこのようなお方だということをしっかり見つめ、恐れをいだき、それでもこのようなイエスさまが私たちのことを友としてくださっていることに、もったいない、と、感謝するしかないのではないでしょうか? ぜひ、今日おうちに帰られたら、もういちど、この黙示録1章12節から16節までをお読みになり、イエスさまのこの御姿を黙想していただきたいのです。このお方が私たちの主なのです。そして、私たちはこのお方の友にしていただいているのです。 では、第三のポイントにまいります。主は、永遠のお方です。 17節をご覧ください。イエスさまのあまりの威厳の前に、ヨハネは倒れて死んだ者のようになりました。かつてヨハネは、イエスさまと食事をともにするとき、その胸元に寄りかかるほど、イエスさまを慕っていた人でした。そんなヨハネは大胆にも、自分のことを、イエスさまが愛しておられた弟子、と表現していました。 だが、目の前に現れたイエスさまは、もはや近くに寄ってお慕いするようなお方ではありません。このご威光、威厳の前には、死んだも同然の人になるしかありませんでした。そんな人間が生きるには、イエスさまに助け起こしていただくしかありません。 イエスさまはヨハネに、右手を置かれました。つい今しがた、7つの星、すなわち7つの教会の御使いたちを握っておられた右手です。わたしのからだである教会が大事なように、わたしにとってあなたは大事だよ、わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している……。 このお方は、初めであり、終わりであり、生きているお方です。人間には見極めることもできない世のはじめから世の終わりまで、永遠に生きておられるお方です。十字架に死なれましたが、生きておられるお方です。この方は人に殺されたようでも、あらゆるいのちを司っておられるお方です。人を永遠にさばく、死とよみの鍵、すなわち、罪人を死にてさばかれ、よみにつなぐ権限を持っておられるお方です。…

再臨に向けて

聖書箇所;ヨハネの黙示録1:1~8/メッセージ題目;再臨に向けて  今年2021年の年間テーマは「イエスさまを迎える準備をしよう」とさせていただきました。  昨年は新型コロナウイルス流行に世界は揺れに揺れ、いやでも人々は終末というものを意識しました。しかし私たちクリスチャンは、この終末、世界の終末というものは、神さまがもたらされるものということを信じ受け入れています。  私たちがもし、イエスさまの再臨を待ち望んでいるならば、すなわち、イエスさまが再びこの地に来られて世界を終わらせられ、私たちが永遠の天国に迎えていただくことを待ち望んでいるならば、私たちはやはり、この世界の終わりについてみことばはなんと語っているかを、みことばから学ぶ必要があるはずです。  このことを最もよく語るみことばは、ヨハネの黙示録です。というわけで本日から、ヨハネの黙示録を学びます。難解な聖書箇所なので、慎重な解き明かしを必要とする一方で、読み進めていくうちに非現実的な描写に終始するようになりますので、メッセージをお聴きになるみなさまも、ぜひ祈っていただければと思います。その祈りをもって、お聴きになる心備えをしていただければとも思います。  それでは、早速、ヨハネの黙示録の学びを始めます。 では、本日の箇所を、3つのキーワードから解き明かしてまいりたいと思います。  最初のキーワードからまいります。1番目のキーワードは「証し」です。  まず、1節からまいります。この黙示、啓示は、イエス・キリストの啓示です。これは、すぐに起こるべきことであると語ります。これが、難解かつ怖ろしい描写に満ちているヨハネの黙示録を読み解くうえでの大前提です。 ヨハネの黙示録が啓示するお方はイエスさまです。ある大衆伝道者の先生は、人々の前でお祈りをされるとき、「やさしいイエスさま」ということばでよく始められます。先生のキャラクターも反映されていて、ほんわかしてきます。たしかにイエスさまは、この先生がおっしゃるとおりにやさしいお方でいらっしゃいます。 しかし、ヨハネの黙示録で啓示されるイエスさまは、やさしい、というイメージと大いに異なっているのではないでしょうか。凄まじい戦いの末に究極の勝利を得られる、雄々しくも恐ろしいお方です。私たちは、再臨のイエスさま、終末に臨まれるイエスさまが、このようなお姿で現れてくださることを見落としてはなりません。 そして、ヨハネの黙示録の語る内容は、「すぐに起こるべきこと」です。そう、この書に書かれていることは「必ず起こること」であり、「必ず起こらなければならないこと」です。起こることが神さまのみこころである、ゆえに神さまは必ず、みこころをもってこれらのできごとを起こされる、という前提で読むべき書です。 それも、すぐに起こるべきことという前提で読みなさい、というわけです。というわけで、このヨハネの黙示録が記録された紀元90年からずっと、クリスチャンは今に至るまで、終末を意識させられてきました。 終末は必ず来ます。おとといの元日礼拝で、ペテロの手紙第二の3章のみことばをお読みしましたが、まだ終末がこの世界にやってこないのは、この世界に住む人々のことを神さまが忍耐していらっしゃるからであって、終末は「ない」からではありません。その忍耐が2000年にもなろうとは、どれほど神さまは忍耐してこられたことか、と思いませんでしょうか? 2000年という歳月を計ってみたら、イエスさまからさかのぼると、ダビデやモーセを通り越して、なんと創世記11章のアブラハムにまで至ります。それほどの歳月を神さまはなお忍耐していらっしゃるのです。しかし、2000年でも、すぐ、です。一日は千年、千年は一日、この神さまの「時」を考えれば、2000年は決して長すぎる時間ではありません。 この、すぐに起こるべきことを父なる神さまは、ご自身のしもべたちである教会の兄弟姉妹にお示しになるため、この啓示をキリストに与えられ、イエスさまは御使いをとおしてヨハネに与えられました。 ヨハネとは、イエスさまの十二弟子、十二使徒で、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙を書いた使徒ヨハネです。ある解説書は、黙示録のヨハネは使徒ヨハネではないと語りますが、そのように主張する根拠も妥当性もありません。黙示録のヨハネは、あのヨハネです。 ともかく、イエスさまが黙示をヨハネに届けられたのは、最終的に神のしもべたち、教会に伝えるためです。そのためにヨハネがしたこと、それは2節にあるとおり、「証し」です。 神さまは、ご自身のみこころを、人々を用いて「証し」をさせるという形で伝えてくださいます。このときもヨハネを用いてくださいました。ヨハネは、この黙示録を諸教会に「証し」したのです。そして神さまが諸教会に求められたことは、この黙示録のみことばを「朗読する」こと、つまり、印刷技術がなく、会衆がともにみことばに耳を傾ける唯一の方法が「朗読」であった当時、そうすることで会衆全体がみことばを共有すること、そして、このヨハネの黙示録のみことばを「守り行う」ことです。 みことばは耳を傾けるものです。ヨハネの黙示録はとかく難解で、敬遠されがちなみことばでしょう。しかし神さまは、このみことばに「耳を傾けなさい」とおっしゃっています。それだけではありません。このみことばを「守り行う」のです。 こんな難しいみことばをどのように守り行うのか! そもそも、このみことばは何を語っているのか! 途方にくれたりはしないでしょうか? しかし、みことばがわかるように祈りつつ、励まし合って、しっかり取り組みましょう。私たちは必ず、このみことばの意味を悟り、具体的に実践できるように知恵が与えられると信じていただきたいのです。 具体的なみことばの実践。証しとは、その具体的なみことばの実践が教会全体でできるようになるために、耳を傾け、目にするべきものです。みことばは素晴らしいですが、実践されていなければ、絵に描いた餅です。 逆に言えば、みことばの素晴らしさは、私たちがそのみことばのとおりに生きる、証しの生活をすることを通して現されるものです。 次週学ぶみことばに書かれていますが、ヨハネはこのとき、パトモスという島にいました。それは、「神のことばとイエスの証しのゆえ」であると語られています。イエスさまを証しするみことばを語ったゆえにパトモス島にいたわけです。これは、流刑、島流しの刑です。まさに、生き方そのものが教えに殉じた人の生き方、いよいよこの生き方により、イエスさまが本物であることが証しされたわけです。その証しの集大成が、そのパトモス島でものされた「ヨハネの黙示録」であるわけです。 今年私たちは、イエスさまの再臨を待ち望む思いでみことばから学びます。この学びは、私たちの普段の生き方を変えるものとなるようにと、祈りつつ取り組んでいただきたいのです。自分の生き方を変え、人々の心を再臨のイエスさまへと向けるように……まさしく、証しになる生き方です。私たちを十字架によって罪から救ってくださったイエスさまと、再びこの世界に来てくださるイエスさまと、日々祈りとみことばによって交わっていくならば、私たちの生き方が変わります。証しの生き方へと変えられます。 そのようにして、私たちをとおして、イエスさまが周りに証しされて、この年、主を信じる人がひとりでも多く起こされて生きますように、主の御名によってお祈りいたします。  次のキーワードにまいります。2番目のキーワードは「神との交わり」です。 4節をご覧ください。このヨハネの黙示録は、アジアの7つの教会にあてて書かれた書簡であることがわかります。アジアと言っても、日本や韓国、中国の極東まで含むアジアではなく、今でいうトルコの地域を指し、小さいアジア、「小アジア」と言います。  教会の数は7つです。聖書で7という数字は「完全」を意味します。この7つの教会がいかなる教会で、主がそれらの教会ひとつひとつにどのようなみこころを持っておられたかについては、黙示録の2章と3章に詳しく出てきますが、この7つの教会は、「7つ」という数からもわかるとおり、これは完全な教会の姿、あるいは、現代に至るまで約2000年間存在しつづけたすべての教会のあらゆる様相を示しているとも言えます。  この7つの教会、完全な教会に向かわれるお三方が登場します。今おられ、昔おられ、やがて来られる方、つまり、永遠なる神さまです。このお方はヨハネの黙示録が記録されたそのときにも、そして2021年1月3日のこのときにも、おられるお方です。世界が創造された昔から存在してこられたお方です。 そしていずれの日、神さまが定められた日に、さばき主として、しかし神の民にとっては永遠の天国に召してくださるお方として、私たち人間の前に来てくださるお方です。 そして、御座の前におられる7つの御霊、これは、御霊の数を数えると7人おられた、ではありません。御霊はおひとりのお方です。しかしここでは、7つの御霊と表現しています。これは、完全な御霊という意味であり、全地に満ち満ちておられるほど完全なお方という意味です。 しかしこの全地に満ちておられる御霊なる神さまは、7つの教会それぞれを、つまりすべてのキリストのからだなる神の教会を、完全な存在としてくださるお方である、という意味に解釈すると妥当です。この7つの御霊と表現された御霊なる神さまが、7つの教会と表現されたあらゆる教会に向かわれ、語られるのです。 そして、イエスさまです。イエスさまは確かな証人、神さまを解き明かされた、父なる神さまのふところにおられるひとり子の神なるお方です。そして、死者の中から最初に生まれたお方、十字架の死からの復活をもって、ご自身神であることを証しされ、イエスさまを信じるすべての人を罪と死に打ち勝たせてくださったお方です。さらに、地の王たちの支配者、終わりの日にあらゆる権威、権力の上にまし、永遠の王となられるお方です。 この、三位一体なる神さまから、7つの教会、つまり、地にあるすべての、神さまの御目から見れば完全な教会に対し、何が臨むことを使徒ヨハネは祈っていますでしょうか?「恵みと平安」です。 「恵みと平安がありますように」という祈りは、新約聖書に収録されている使徒パウロが書いた13の手紙すべてで、パウロが手紙の読み手のために祈ったことばです。このことばはペテロの手紙第一と第二、ヨハネの手紙第二にも登場します。平安を祈る祈りも含めたら、もっと多くの書簡に登場します。それほど大事なことばです。 初代教会は、形成されて間もなく、たいへん迫害に晒されることになりました。恵みと平安、神さまご自身が御手を伸ばして守ってくださり、導いてくださるその恵みと、その守りの結果与えられる、世の何ものをもってしても奪い去ることのできない平安を、教会は必要としていました。ヨハネという指導者を失ったアジアの7教会もまた例外ではありませんでした。その諸教会に神さまの恵みのみ手が臨み、神さまが与えてくださる平安の中にいられるように……。 ヨハネのこの切なる祈りは、こんにち、すべての教会が必要としているものです。共産圏やイスラム圏のようなキリスト教会に対してむき出しの敵意を示す地域において、主にある私たちの兄弟姉妹が守られるように、私たちは祈る必要があります。これに対して私たち、彼らに比べるとあまりに危険のない地域にいるクリスチャンたちはどうでしょうか? やはり、恵みと平安を求める祈りを必要としています。 私たちがこれほど安全なのは、神さまが守ってくださっているから、それゆえに平安をいただいている……このことに私たちは無感覚になってはなりません。当たり前だと思ってはなりません。そうです。恵みと平安があるように、とは、「自分たちが無事であることは神さまの恵みと平安があるゆえであることを、信じ、神さまに感謝できるように」という意味でもあるのです。 では、三位一体の神さまが

「『その日』が近づく私たち」

聖書箇所;ヘブル人への手紙10章25節/メッセージ題目;「『その日』が近づく私たち」  昨年来の新型コロナウイルス流行は、戦後最大の危機を日本のキリスト教会にもたらしたと言えましょう。なにしろ、集まって礼拝をささげなくなっただけではありません。礼拝のために集まらないことが当たり前になり、さらには、集まらないことが、これほど正当化されたことがあったでしょうか。  新しい生活様式、などとよく言われましたが、新しい生活様式というものは、私たちキリスト教会にも否応なく押し寄せてきました。ただ、教会の場合、そのそれぞれの歴史、置かれた地域の特性によって、判断はさまざまであり、新しい生活様式なるものも教会によってちがいます。東京のような都会の教会は、集まらずにオンラインの礼拝中継に切り替える判断をした教会も少なからず存在したようです。 私たちの場合は感謝なことに、まだ大々的な感染拡大に至らず、1回も欠かさずに礼拝をささげつづけることができています。これは私たちが偉いのでもなんでもなく、恵みです。神さまにご栄光をお帰ししましょう。ハレルヤです。  ともに集まるかどうかという判断を下す場合もそうですが、私たちは何を基準に判断すべきでしょうか。やはりみことばです。もちろん、みことばどおりに行うことができなくて、苦しいところを通らされることも、教会としては充分にあることです。それでも、いざというときの判断の基準があるのとないのとでは、大きな違いがあります。  新聞やテレビの報道もたしかに大事でしょう。しかし私たちにとってそれらの報道は、絶対視するべきものでしょうか? 聖書とニュースと、どちらが大事でしょうか? 世相はいかようにも変わります。それらの揺れ動く報道を絶対視するならば、私たちも揺れ動くのであり、そうなったら、教会は果たして何のために存在するのか、教会を教会ならしめる聖書のみことばは何のために存在するのか、ということになりはしないでしょうか。  ただし私は、聖書とニュースは対立するものであると言いたいのではありません。言うまでもなく私たちの生きている現実は、ニュースという形で反映されていて、それを無視することはできません。要は、聖書のみことばから悟った真理を、いかにして、ニュースという形で映し出される現実の世界に反映させ、適用するか、ということです。  その原則から、今日のみことばをあらためてお読みしたいと思います。  まず、「ある人たちの習慣は、一緒に集まることをやめることであった」ということがわかります。  どうもこの時代のヘブル人クリスチャンの中には、一緒に集まって礼拝や交わりを持つことをやめて、単独で信仰生活を送ろうとしていた人が存在し、そういう存在が教会に少なからぬ影響を与えていた、ということが読み取れます。  一緒に集まることをやめる。理由はいろいろでしょう。この時代のクリスチャンは苛酷な迫害に晒されていたので、教会に集まるのは危険だと考えた、ですとか、あるいはもっと単純な理由、教会の中の人間関係につまずいて、もう教会には行きたくなくなった、ですとか。  そういう人たちの存在は、一緒に集まることをためらわせる大きな理由となったと思います。集まらない人はそれなりに正当な理由を持っている。右へならえ。いっそのこと、もうみんなで一緒に集まるのをやめてしまおう。  しかし、このみことばに示された原則は、一緒に集まることをやめてはならない、ということです。  一緒に集まることをやめてはならない。昨年の新型コロナウイルス流行で多くの教会は集会を中止しましたが、恐らくそれらの諸教会の聖徒たちの中にはこのみことばがあり、相当な苦渋の決断を強いられたことと思います。そんな諸教会のことを、うちのような集まりが持てた教会は決してさばくべきではありません。私たちはむしろ、このみことばを守り行う恵みを与えてくださった神さまに、心からの感謝と賛美をおささげするべきです。  しかし、もし集まることが許されているならば、私たちは決して、一緒に集まることをやめてはならないのです。それが、聖書のみことばが私たち聖徒たちに命じていることです。  では、なぜ私たち聖徒は、一緒に集まることをやめてはならないのでしょうか。それは「励まし合う」ためです。  信仰生活というものは、ひとりでするものではありません。ひとりで信仰生活ができるならば、教会というものはそもそもいりません。教会は共同体です。それは、神さまというお方が、おひとりであられるのと同時に、御父、御子、御霊の三位一体の共同体でいらっしゃるようにです。  お互いがもっと神さまにつながっていられるように。お互いがもっと神さまのみことばを守り行い、神さまのご栄光を顕せるように。そのために、お互いを覚えて祈る。この共同体の営みがあってこそ、私たちはともに信仰が増し加わっていくのです。教会という場で聖徒たちが励まし合うことで、私たちはそれぞれの信仰が成長するのです。  したがって、励まし合うためにともに集まるのでないならば、その集まりには意味がありません。励まし合いが集まりの目的となっていないならば、どうだ、よその教会とちがってうちは集まれたぞ! などという、的はずれな誇り、パリサイ人のような誇りにつながってしまいかねません。  そのように、聖徒たちが励まし合う理由……それは、その日が近づいている、ということです。その日とは何でしょうか? イエスさまが再び来られる日です。  このみことばからわかることは、イエスさまの再臨は、教会が始まったばかりのこの時代から、すでに切に待望されていたものであった、ということです。すぐにでもイエスさまは来られますよ、私たちキリストの花嫁なる教会はいっしょに、灯を掲げて、花婿なるキリストを待ち望みましょう……。  花婿なるキリストを待ち望むことは、ひとりですべきことではありません。いっしょになって、ともにみことばをお読みして、お祈りして、みことばを守り行いながら、教会全体で待ち望むものです。この水戸第一聖書バプテスト教会が待ち望みます。日本のすべての教会が待ち望みます。世界のすべての教会が待ち望みます。  この1年で、世界の教会はオンライン礼拝、リモート礼拝が花盛りとなりました。それは時代の趨勢、時代の要請と言えることでしょう。しかし、ここで憂慮されることがあります。それは、リモートで礼拝することによって、キリストのからだなる教会のひと枝とされている意識が希薄になってしまう信徒が多く現れてしまうのではないか、ということです。  ともに礼拝堂に集う場合と比較してみましょう。礼拝堂に集うならば、ちゃんと早起きして朝ご飯を食べ、女性の方ならばしっかりお化粧するでしょう。そして、威儀を正し、車に乗って数十分の時間をかけて礼拝堂に行きます。もうその時から祈り心をもって整えられているわけです。そして礼拝堂に到着し、礼拝室の中に入ったらお祈りします。これだけでも相当な心構えです。 しかし、リモート礼拝の場合、そこまでの準備をなさいますでしょうか。それができているならば素晴らしいことですが、何しろ家でパソコンに電源を入れ、インターネットに接続したら、すぐ礼拝です。ともに集うために祈り心を持って準備するという意識を持つか持たないかは、事程左様(ことほどさよう)に違ってしまうわけです。 だから、もしどうしてもリモートでなければ礼拝できない、という方は、それだけ充分な祈り心をもって礼拝に備えていただきたい、と、切に願います。特にその祈りを、神さまに向けてくださるのと同時に、所属していらっしゃる教会という共同体の兄弟姉妹を覚えての祈りとしていただきたいと思います。  要は、イエスさまの再臨にともに備えて、励まし合うために、共同体に召されたどうしを大切にすることです。いまこうして集っていられることは、集うこともままならないでいる教会から見ればとても贅沢なことです。この恵みをむだにしないでいただきたいのです。  今日、ここに集う兄弟姉妹のことを、再臨をともに備えるために励まし合う、大事な兄弟姉妹と考えていただきたいのです。そして……ここにともに集っていなくても……クリスチャンであるならば、同じイエスさまの十字架の血潮によって贖われ、神さまの子ども、天国の民にしていただいたどうし、ともに再臨を待ち望みつつ励まし合う、大事な存在です。  今年、うちの教会は、世の終わりがいかに訪れるかを語るみことば、ヨハネの黙示録から学びます。それは、単に聖書知識を増し加えるためではありません。みことばにともに耳を傾けることで、水戸第一聖書バプテスト教会というこの群れに主が持っておられるみこころをともに知り、励まし合うためです。  最後に、私たちはいかにして励まし合うものとなるべきか……やはりそれはみことばによってです。一箇所みことばを開(ひら)きたいと思います。ペテロの手紙第二、3章3節から9節です。  ある人は、私たちが終末ということを本気で信じていることを嘲るでしょう。もしかしたら私たちクリスチャンまで、そのような世の風潮に毒され、終末を語る主のみことばをまともに取り合わなくなってしまわないとも限りません。しかし、神さまは終末ということをはっきり語っています。  しかし、この終末のさばきは水のさばきではなく、火のさばきです。水のさばきも火のさばきも、どちらも恐ろしいですが、この最後の火のさばきは、不敬虔な者たち、すなわち、まことの神さまを神としない生き方を悔い改めない者たちに対して行われるものです。 私たちはこのさばきを免れ、救っていただく存在であることを覚え、感謝しましょう。でも、それだけではなく、さばき主なる主のさばきを覚え、ひとりでも多くの人がこの終わりの日のさばきから免れるように祈り、救い主イエスさまを今年も伝えてまいりたいものです。  そして主がこの世界に対し、忍耐しておられることも考えましょう。私たちの生きるこの世界は、イエスさまが天に昇られてからずっと、罪人の歴史、罪の歴史と言えるものでした。2000年間再臨がなかったからこれからもない、ではありません。2000年間、よくぞ忍耐してくださり、私のことを生かしてくださいました、感謝いたします、私たち教会はあなたさまを待ち望みます、こうでなければならないはずです。  私たちは去る2020年、再臨を待ち望んでいましたでしょうか? 再臨はないかもしれない、という、不信仰になってはいなかったでしょうか? あるいは、再臨のことなど考えもしないで、自分勝手に振る舞うことも多くはなかったでしょうか? はたまた、再臨なんてどうでもいい、と、無関心になってはいなかったでしょうか? もしそうだったならば悔い改め、今年こそ、必ず来られるとみことばにおいて約束しておられるイエスさまのその約束を心から信じ、イエスさまにのみ希望をおいて、ともに歩んでまいりましょう。  では、お互いのことを覚えて祈りましょう。

「元始、教会は家であったその7~救い、回復、宣教の家」

聖書箇所;ルカの福音書19:1~10/メッセージ題目;「元始、教会は家であったその7~救い、回復、宣教の家」  今年のはじめは、この年に新型コロナウイルスが拡散しようとは想像もしていませんでした。3月に爆発的に流行しはじめたとき、都会を中心に多くの教会が、集まりを取りやめ、日曜日の礼拝さえも集まらないという、苦渋の決断をしました。  私もそのような決断をしなければならないのではないか……しかし、やはり集まるべきだ、そのようにおっしゃってくださる信徒のみなさまに背中を押され、いえ、何よりも、主ご自身が最初から最後までお守りくださり、感謝なことに、今年はついに最後まで、この礼拝堂での礼拝を一度も欠かすことなくおささげすることができました。ほんとうにハレルヤです。 もちろん、コロナの流行は依然として予断を許しません。私たちは充分に気をつけていく必要がありましょう。それでも私たちが優先すべきは信仰です。つねに信仰の決断、信仰の選択をしていく私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。  今年最後の礼拝の聖書箇所は、「元始、教会は家であった」というテーマのもとに、ルカの福音書19章1節から10節を選ばせていただきました。よく知られている取税人ザアカイのお話です。  今日のみことばを見てみますと、イエスさま見たさに木に登ったザアカイのことを、イエスさまは見つけ、「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしています」とおっしゃいました。  ここでイエスさまが「あなたの家」とおっしゃったことに注目しましょう。イエスさまは、みこころに留められた者の家に泊まってくださるお方です。  しかし、このおことばを聞いた人々は、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言いました。そう、彼らは文句を言いました。イエスさまがあんな奴の家に行って、しかも泊まるだなんて、不満だったのです。  それでも、この人々の不満のことばは、イエスさまがどういうお方かを言い当てている分、あながち的外れなことばでもありません。いえ、まさしくイエスさまはそのようなお方です。罪人の家に入って客となるお方、それがイエスさまです。  このような不満を口にした者たちがどういう人だったか、聖書は特に語っていません。しかし、確かなことがあります。自分はあんな取税人のような人間に比べればましだ、ちゃんとしている、あんな奴はとんだ罪人だ、大嫌いだと思っている、ということです。  それはどういうことかというと、彼らには罪人の自覚がない、ということです。人と比較して罪がないのだから、自分はきよい、とでも思うわけです。  しかし、そのような者は、イエスさまのことなどいらないと自分で言っているのと同じです。もし、自分は取税人のような罪人だという罪の自覚があったならば、イエスさまにすがります。イエスさまはそのような人を喜んで受け入れてくださいます。  ザアカイはイエスさまのことばを聞いたら、すぐにイエスさまを迎えました。私たちはどうでしょうか? イエスさまをお迎えする準備はできていますでしょうか? 自分の罪深さ、醜さ、きたなさを自覚し、認めることができている人は、イエスさまがお客になって来てくださる方です。あとは、迎え入れる準備をするだけです。  さて、イエスさまが来てくださった場所が、単純にザアカイのもと、だったのではなく、「ザアカイの『家』」だったことに注目しましょう。私たちはついこのお話を、ザアカイという「個人」にスポットを当てて読んでしまってはいないでしょうか。しかし、イエスさまがとどまられたのは、「家」なのです。イエスさまは、「家」において、「今日、救いがこの『家』に来ました」とおっしゃったのでした。  ザアカイの家とはどんな家だったのでしょうか? 2つの可能性が考えられます。ひとつは、ザアカイが独身として暮らしていた家、もうひとつは、ザアカイが家族で暮らしていた家です。  もし、ザアカイが独身だったならば、ザアカイを独り身にさせたのは、彼のその忌み嫌われた職業のゆえであるのは、間違いのないところです。そんな彼のひとりで住む家が、救われ、まことの回復をいただいたゆえ、もうだれかお嫁さんを迎えても大丈夫な家になる、幸せが訪れた、ということになるでしょう。  一方でもし、ザアカイにはすでに家族がいたとすれば、家族はザアカイの立場ゆえに、とても肩身が狭い思いをしていたか、ザアカイのように厚かましくふるまって、ザアカイと一緒に嫌われ者になっていたかしたことでしょう。いずれにせよ、家族はザアカイの職業の悪影響を受けていたわけです。 しかしこのようにイエスさまがザアカイを救ってくださったならば、ザアカイの家族はともに救われ、「取税人の家族」という汚名がそそがれたことになります。 どちらにしても、家族に至るまで救いにあずかったことになるわけです。ゆえに、救いはザアカイひとりに及ぶのではなく、ザアカイの「家」に及ぶ、ということになるわけです。  さて、このザアカイの家の救いは、救いいう形で実現しただけでしょうか? それだけではありません。「回復」、ひいては「宣教」という形ででも実現した、ということも無視できません。  ザアカイはイエスさまを家に迎えたとたん、まったく変わりました。8節のとおり、財産の半分を貧しい人に施し、人から脅し取ったものを4倍にもして返す、と宣言しました。これは、イエスさまを迎えた嬉しさに、できもしないことを口にしたのではありません。それならば、聖書に記録されているわけがありません。彼はほんとうに実行したのです。  ルカの福音書が、このようにザアカイという実名まで挙げて、イエスさまに出会っての回心を告げているということは、その当時のユダヤで、ザアカイという取税人がこんなにも素晴らしく変えられた、という話題で持ちきりだったのではないか、そんなことも想像させます。それは、ザアカイが素晴らしい人であったということではなく、ザアカイを素晴らしくしてくださったイエスさまが素晴らしい、と、イエスさまがほめたたえられ、イエスさまが宣べ伝えられる家となった、ということです。  これは、ザアカイの家が回復したのみならず、宣教に用いられたということを意味します。  これはザアカイ個人の働きではなく、家の働きです。といいますのも、財産というものはザアカイひとりの持ち物ではないからです。 ザアカイが独身だったら、将来のお嫁さんのために取っておく必要があるでしょうし、家族がいたならば、その家族の財産を手離すことになるからです。脅し取った財産を返すのみならず、そのさらに3倍分の財物をつけたり、所有する財産の半分を手離したりするということは、相当な財産を犠牲にすることです。  しかしザアカイがこのようにすることは、ザアカイはいい人だとほめてもらうためではありません。ザアカイをこのように救い、回復してくださった、イエスさまを宣べ伝えるためです。宝よりも大切なイエスさまを宣べ伝えるためならば、いくらでも家の財産をささげる……これが、イエスさまを迎えた家において行われたことでした。  イエスさまを迎えた家……これは、教会へと発展していきました。肉の家族から、同じイエスさまを主と告白するどうしが召されて集められた、霊の家族へと発展します。この家族は、ただ単に自分たちさえ救われて、集まっていればいいという段階にとどまっているだけでは、健康な共同体ではありません。経済的な犠牲を伴ってでも伝道、宣教に出ていく、イエスさまを証しする共同体として成長していくことが求められています。  この働きは個人で行うのではありません。ザアカイは「個人」の財産ではなく、「家」の財産で施しをし、自分を救ってくださったイエスさまを証ししました。同じように私たちは、イエスさまを宣べ伝える働きを、「個人」でするのではなく、「教会」という神の家、神の家族で取り組んでこそしかるべきです。  教会全体が宣教のために祈り、宣教のために財産を分かち、教会のひと枝ひと枝であるお一人お一人が実際に、人々の前にキリストを現すのです。  私は学生時代、キャンパスクルセードの学生メンバーとして「四つの法則」による伝道の訓練を受けたり、昨年は「爆発伝道」の訓練を受けたりしました。しかし、伝道というものは、上手な伝道の方法を身につけさえすればそれで充分なのではありません。 ザアカイは十二弟子のような訓練を受けていたわけではありませんが、イエスさまに出会ったら、あっという間に犠牲を払って宣教する家へと変えられました。要は、どんな訓練を受けたか以上に大切なのは、イエスさまによって罪から救っていただいた感動にあふれているかどうかです。この感動が教会全体で分かち合われることによって、伝道、宣教のわざは前進します。 そういうことからも、イエスさまがザアカイの家で語られたこの10節のみことばに、私たちは注目する必要があります。救いがこの家に来た、私たち教会は、イエスさまによって、この宣言をしていただいている存在です。  イエスさまはそれに続いて、なんとおっしゃっていますでしょうか? 「この人もアブラハムの子なのです」。アブラハムの子というのは、一義的には、アブラハムの子孫として生まれたユダヤ人として、正当な神の子、神の民としての立場を回復した、という意味になります。これでザアカイは、もはやユダヤの裏切り者という扱いを受けることはなくなったわけです。  しかし、それだけならば、ユダヤ人ではない私たちとザアカイに臨まれたイエスさまの救いの御業は、関係ないことになってしまいます。アブラハムの子とはだれでしょうか? それを知るためには当然、アブラハムとはだれかがわかっている必要があります。アブラハムは、肉なるイスラエル人の先祖以上の人です。今年集中してアブラハムのことを学びましたが、アブラハムは、信仰の父です。神さまを信じることそのもので神さまに義と認めていただくという、その道を神さまによって開いていただいた人です。  一見するとザアカイは、そのあまりに大胆な施しの行いが目立つあまり、私たちはこの箇所を斜め読みすると、ザアカイのように多額の施しをすることが救いの条件のように誤解してしまうかもしれません。しかしそれはまったくちがいます。ザアカイは、イエスさまに救われたことが、結果としてそのような行いに実を結んだのであって、行いで神の国に入る権利を買ったのではありません。  ザアカイは、イエスさまを信じて救われたということで、アブラハムにならう人になった、つまり、信仰によって救われ、神の国に入ったということです。ザアカイのこの姿は、私たちにとってのモデルです。  しかし、ここでも注目すべきは、救いはザアカイひとりに及んだのではなく、ザアカイの「家」に及んだ、ということです。アブラハムの子、つまり信仰によって義と認められ、天の御国に入れていただいた家長の治めるこの家庭が、やはり信仰をもって救いに入れられる、というわけです。  元始、教会は家であったという主題で毎週お話ししてまいりましたが、私たちはこの礼拝が終わりましたら、それぞれの家に帰ります。そのご家庭での立場はさまざまでしょう。家長の立場におられる方もいれば、奥様、お子さん……さまざまです。 しかし、忘れないでいただきたいのは、私たちは救われている、つまり、アブラハムの子という立場をいただいている以上、そのそれぞれが属している家に対し、救いへと導く権威が与えられている、ということです。  現実を見てみますと、ご家庭での立場は弱いから救いに導くなんてとてもとても……と思われるかもしれません。しかし、ザアカイのことを考えてみてください。ザアカイがもし家庭を持っているならば、ザアカイはその立場のゆえに、家族からも忌み嫌われ、家族の中で発言する権限もなかった、などという可能性も考えられはしないでしょうか? しかし、その家庭はア

主イエスを礼拝する家

聖書箇所;マタイの福音書2:1-12  説教題目;主イエスを礼拝する家 あらためまして、クリスマスおめでとうございます。 クリスマス礼拝ともなりますと、クリスマスの物語を語るのが常です。クリスマスの物語を語るとき、だいたい、2組の礼拝者の群れについて語ります。一方は羊飼いたち、もう一方は東方の博士たちです。今日のクリスマス礼拝では、東方の博士たちについて、「元始、教会は家であった」というテーマでお話ししたいと思います。それではさっそくまいります。 まずは1節と2節のみことばを見てみましょう。いわゆる「東方の博士たち」です。何者でしょうか? 新共同訳聖書という聖書を読みますと、かれらのことをかなりはっきりと書いています。「占星術の学者」。 そう、彼らは星占いをする人です。おやおや、と思いませんか? 言うまでもないことですが、聖書のみことばは星占いの類の占いを固く禁じています。それはまことの神さまに敵対する、極めて霊的なものと理解されています。しかし、主は、そのような人たちの中から、まことに主を信じ礼拝する人たちをお選びになったのでした。 私たちクリスチャンは聖書の民として、星占いのようなことをする人にきびしい目を向けるかもしれません。しかし、彼ら東方の博士たちはどうだったのでしょうか? ただの偶像礼拝者ではなかったことは、この2節のみことばから明らかです。彼らは、はるばる東方から旅をしてきてきました。それは、ユダヤ人の王として生まれる方を礼拝するためであったということでした。そのために彼らは、王さまであるヘロデにまで謁見したのでした。 なんと彼らは、星占いの人たちでありながら、ほんとうに礼拝すべきお方はユダヤ人の王として生まれるメシアであって、その礼拝のためにはどんな犠牲も惜しむべきではないということを、彼らなりの研究の中でちゃんと学んでいたのでした。学ぶだけではなく、実際に礼拝しに旅をするという形で、みごとに実践にまで移していたのでした。 これは驚くべきことではないでしょうか? イエスさまを礼拝することとは全く関係のなかったような人、それどころか、ほかの宗教を窮めるような人の中から、神さまは未来の礼拝者を起こされるのです。 今日の箇所の博士たちを見ると、神さまはそんなおひとりおひとりのことを、実はご自身を礼拝する存在として選んでいらっしゃると考えることはできないでしょうか? 今年は残念ながら、あまり大々的にクリスマスをお祝いできないで今日を迎えました。しかし、私たちの周りから、そのような礼拝者が起こされると考えてみてはいかがでしょうか? 私たちがそうしたように、まだイエスさまに出会っていない方々も、こころ素直に、神さまの選びを受け入れていただきたい、そう願って、謙遜におひとりおひとりに仕える私たちとなりますように、主イエスさまの御名によってお祈りいたします。 さて、その東方からのお客のことばを聞いたユダヤの反応はどうだったでしょうか? 3節です。……どういうことでしょうか? 本来ならば主の民であるはずのユダヤ人ならば、王から庶民に至るまで、この知らせを聞いたとたん、ついにみことばのとおりに救い主がお生まれになることを、大喜びしたはずです。 しかし実際は、王も民も不安を抱いたのでした。それはなぜでしょうか? それは、本物のユダヤ人の王が現れることで、いまとりあえず平和を保っているヘロデの治世が転覆することを、王も民も恐れたからでしょう。 しかしそれでは、ほんとうの意味でメシアを待ち望んでいることにはなりません。どんな時代であろうとも、メシアを待望すべき民、それがユダヤ人だったはずではないでしょうか。この恐れ惑う姿を見ても、いかにその当時のユダヤがみこころから遠く離れていたか、わかろうというものです。 不安になったヘロデは、ひとつのアクションを起こします。4節から8節です。……ここで祭司長や律法学者たちは、メシアはユダヤのベツレヘムで生まれることを、旧約聖書ミカ書のことばから告げています。 彼らにもわかっていたのです。しかし彼ら宗教指導者たちは、自分たちの仕えている主が送ってくださったはずのメシアに会いに行かなかったのでした。会いに行ったのはあくまで、東方の博士たちであって、彼らではありませんでした。彼らは聖書を教える指導者でありながら、信じていなかったのでしょうか? もっとも、彼ら祭司長や律法学者たちは、会いに行こうにもできない事情がありました。折しも、ユダヤを含む全ローマ帝国には、住民登録が布告されていました。そのため彼ら宗教指導者たちは、エルサレムを離れることができなかったのでした。 そもそもイエスさまがベツレヘムでお生まれになったのだって、ヨセフとマリアが住民登録のために先祖の町に行ったからでした。ユダヤ人は、どんなにイエスさまのお誕生をお祝いしたいと思っても、住民登録のせいで、ベツレヘムに先祖がいる人を除いてイエスさまに会うことは許されません。 エルサレム神殿にて神さまに仕える宗教指導者はなおのこと、エルサレムを離れるわけにはいきませんでした。イエスさまに会うために自由に旅ができるのは、彼ら東方の博士たちたちのような、ローマ帝国の支配下にない人だけです。 ともかく、メシアがベツレヘムに生まれることを知った一方でヘロデは、今度はメシアの年齢を知ろうとします。星がいつ出現したのか、占星術の学者たちに尋ねたのでした。そのことによってヘロデは、その子が生まれたばかりの赤ちゃんだということを知りました。 そしてヘロデは、その子のことを詳しく調べて報告するように占星術師たちに言いました。ヘロデはその理由を、自分も行って拝むためだと言っています。 しかし、それをヘロデが知りたがったのも、もちろんイエスさまのことを葬り去るためです。ベツレヘムにいるそれくらいの年齢の子どものことを詳しく知ったら、あとはその子どもを殺してしまえばいいわけです。 実際ヘロデはあとになって、ベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにしました。ひとりくらいメシアがまぎれていれば、結果的にメシアは死に、ヘロデの王権が保たれると思ったからでしょう。まったく、とんでもない話です。 結局、主がご介在されて、イエスさまは守られたわけですが、その陰で多くの子どもたちが犠牲になりました。救い主を葬り去ろうとするサタンの勢力が、暴君ヘロデを用いて暴れ回ったわけです。 ともかく、異邦人である博士たちにも、旧約聖書のミカ書のみことばが開かれました。彼らの目指すべき地はベツレヘムであることを知り、彼らはベツレヘムに向けて再び出発します。しかし彼らには問題がありました。具体的に、ベツレヘムのどこに行けばいいかがわからなかったからです。しかし、そのような学者たちに、主はどのような導きをくださいましたか? 9節と10節です。 実に不思議な現象が起こりました。それでも、彼らは星については専門家の中の専門家です。これこそ主の導きと確信しました。それだけの説得力を持って、主は彼らを導かれたのでした。 主は、人を召されるとき、しばしばその相手に最も近しい存在をお用いになります。彼らにとって最も通じている存在は、「星」です。人の考えではけっして動くはずがないものです。しかし主は、天の星を不思議に動かして、星のことならば何でも知っている星のプロたち、博士たちのことを礼拝者としてお導きになりました。 さて、ついに東方の博士たちは、イエスさまのおられる場所にまでたどり着きました。そこはどこかというと、ベツレヘムの「家」だったとあります。 これは具体的に言えばどこでしょうか? 私たちはクリスマスの物語から、ついここのことを「馬小屋」と考えてしまうかもしれません。私もかつてその前提で、馬小屋の汚い地面にひれ伏した博士たち、なんてメッセージを語ったことがありましたが、「家」と書いてあると、そこは馬小屋とはかぎらないことが分かります。 これが馬小屋ではなく、「家」という建物だとすると、こう考えられないでしょうか? マリアは、産後の養生のためにまだしばらくベツレヘムにとどまる必要があった。その間に、住民登録を終えたユダヤ人たちはみな自分の住所へと帰り、宿屋に空きができて、もうマリアたちは馬小屋にいる必要がなくなって、それこそ「家」に入ることができた……。 いずれにせよ、このイエスさまを産んだ聖家族がとどまっている場所を「家」と表現している聖書のことばに、私たちは注目する必要があります。そこを単なる空間と考えたら、「宿屋」と言うべきでしょう。しかしここは「家」なのです。なぜかというと、イエスさまを産んだ「家族」がいるからです。 つまり、東方の博士たちは、宿屋に来たというよりも、イエスさまの家族に招かれたということです。建物よりも重要なものは、家族というつながりであり、そこに人を招くことが、教会の原型、そして、教会の実体です。 私たちにも同じことが言えます。私たちが現にいるこの場所は、「礼拝堂」というよりも、「教会」と呼ぶのが普通です。「礼拝堂」というとそれは「建物」を指しますが、「教会」は、建物ではなく「家族」、「共同体」です。イエスさまを信じる信仰によって、同じ天の父なる神さまをお父さまとお呼びしてお従いする、霊の兄弟姉妹の群れです。切っても切れない関係にある有機体です。 例年、クリスマスともなりますと、うちの教会は祝会を開き、フルートのコンサートを開催しました。これは、礼拝堂で行うイベントにボランティアで人々を招いたということではありません。そうではなくて、私たち主にある家族が、この家族に交じっていただくように、お客さまをお呼びした、ということです。 お客さまはもともと、クリスチャンではない方もいっぱいいらっしゃいます。しかし、最高の時間を過ごし、その貴重な時間を神さまにささげていらっしゃいました。そのお姿はまるで、東方の博士たちのようでした。 それでは、東方の博士たちはどのようにしてイエスさまを礼拝したのでしょうか? 11節です。彼らはイエスさまに、黄金、乳香、没薬を贈りました。この贈り物は、イエスさまがどのようなお方かということを象徴的に言い当てていました。 黄金は何でしょうか? イエスさまが王であることを示しています。列王記第一10章によりますと、ソロモン王は主から栄誉を与えられたしるしとして、金をぜいたくに用いたとあります。人々の上に燦然と君臨する象徴、それが黄金というわけです。黄金は、イエスさまこそがまことの王であるということを象徴しています。 乳香は何でしょうか? それは主にささげる香りであり、すなわち、人と主との間に交わりを成り立たせるものです。その働きをするのは、祭司です。乳香は、イエスさまこそがまことの祭司であるということを象徴しています。 圧巻は、没薬です。これは少しご説明します。没薬もまた、高価な貴重品です。しかしこれは、死体に防腐処理を施すためのものであり、これを贈ったということは、貴重な物を贈ったということ以上に、生まれたばかりのイエスさまの、葬りの準備をしているということになるのです。イエスさまは死なれるお方だということを、学者たちは知っていたことになります。この没薬は、イエスさまがまことの預言者であることを示しています。 これがなぜ預言者のことを指しているか、少しご説明します。預言者の預言とは、いわゆる一般的か「あらかじめ起こっていないことを言い当てる」予言とはちがいます。「ことばを預かる」と書きます。神さまのことばを預かり、世に対してそのみことばを曲げないで伝える働きをする、それが預言者のすることです。預言者たちは、曲げないで主のことばを語ったことにより、相当な苦しい目に遭わされました。中には殺された者もおります。 イエスさまは、神のことばが肉体を取ってこの世に来られたお方であるのだと、聖書は語っています。イエスさまはまことの預言者であられるのと同時に、生きて働く預言そのものでいらっしゃったのです。そしてイエスさまが十字架にかけられた理由は、大祭司がイエスさまの語られたおことばを、神への冒涜だとさばいたからでした。 イエスさまは、みことばを語られたから、いえ、みことばそのものであったゆえに、みことばを正しく理解しなかった宗教指導者たちによって殺されたのでした。イエスさまは、みことばに生まれ、みことばに生き、みことばに死なれました。没薬は、イエスさまこそがみことばを大々的に宣言され、かなえられた、まことの預言者であることを象徴しています。 まことの王、まことの祭司、まことの預言者、これぞ来たるべきメシアです。イエスさまがそのようなメシアであったことを異邦の学者たちに見抜かせた主のお導きは、驚くばかりです。そして主は不思議な方法、ローマ帝国の人口調査というわざを通して、ユダヤの宗教指導者たちではなく、異邦人の占星術の博士たちを礼拝者としてお選びになりました。 私たちが今日こうしてクリスマス礼拝をささげているのも、主が私たちのことを礼拝者として選んでいらっしゃるからです。私たちは選ばれているのです。 私たちは今日この日、クリスマスにお生まれになったイエスさまを礼拝する礼拝者として選ばれた「選手」です。私たちを創造され、導いてくださっている神さまのために、神さまが私たちのことを一つにしてくださった教会のために、教会がキリストの平和というよき知らせを携えて大々的に出ていくべきこの世のために、私たちは今日、クリスマスの礼拝をおささげしているのです。私たちは、その礼拝をささげるために選ばれた「選手」です。 博士たちは、はるばるベツレヘムまで旅をしてまで礼拝場所を求めました。家に入って赤ちゃんのイエスさまの御前にひれ伏しました。貴重なだけではなく、それぞれに深い聖書的な意味のある黄金、乳香、没薬をささげることにより、救い主なるイエスさまをほめたたえました。私たちはそれくらい真剣でしょうか? それほどの態度で、それほどのささげものをおささげすべき素晴らしいお方、それがイエスさまです。 私たち自身を振り返りましょう。私たちは長い間、イエスさまに会うまでの間、はるかの旅を続けていた存在でした。しかし今、イエスさまを中心とする神の家族、教会の家族の中に入れられて、私の罪のために十字架にかかってくださるためにこの世に生まれてくださった、まことの王なるイエスさまの御前に、礼拝をささげています。私たちは、来るべき場所に来たのです。 私たちが過ごしたこの2020年、それは、新型コロナに翻弄された激動の年でしたが、それでも変わらずに私たちとともにいてくださるお方、私たちを導いてくださるお方、イエスさまに目を留めましょう。私たちのただ中におられるイエスさまをともに礼拝しましょう。 その、ともにおささげする礼拝によって、私たちが一つとされていますことを、心から感謝し、来たる2021年、ますますイエスさまへの献身を新たにする私たちとなりますように、その献身によって私たちが一つとなり、ともに主のご栄光を顕すものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

元始、教会は家であった~その5 教会は帰るべき家、いるべき家~

聖書箇所;ルカの福音書15:11~32/メッセージ題目;元始、教会は家であった~その5 教会は帰るべき家、いるべき家~ 本日の箇所はとても有名なみことばです。私たちはこの箇所をお読みして、いろいろなことを思うでしょう。私もこの弟息子のようだった、とか、お兄さんはひどい、とか、いや、お兄さんは正しいことを言っている、とか。 「元始、教会は家であった」シリーズも、本日で5回目となりました。本日は、イエスさまのたとえ話に現れた「家」というものから、「家」なる教会をめぐる人間関係に主はどのようなみこころを持っていらっしゃるか、ともに探ってみたいと思います。 イエスさまのたとえ話は、「ある人に二人の息子がいた」ということばから始まっています。このお話の中でもっとも大事な登場人物は、「ある人」、つまり「お父さん」です。この人が神さまのことであるのは、説明するまでもありません。神さまから見て2種類の人間、それが弟息子と兄息子であるわけですが、まずは弟息子のほうから見てみましょう。 弟息子はどんな人のことでしょうか? 父親の財産をせしめ、父親から遠く離れて別の国に行き、そこで湯水のごとく財産を使い、放蕩のかぎりを尽くした人間です。 これを、神さまと人間との関係に当てはめてみましょう。私たちの持つすべての財産は、ことごとく神さまのものです。しかし人間は、あたかもその所有権が自分にあるかのように振舞うのです。神さまなど関係ないように生きるのです。好き勝手に生きるのです。人間みんな放蕩息子です。 しかし、罪からの報酬は死です。人間は神さまから離れ、好き放題に生きるならば、必ずどこかでその罪の刈り取りをします。そのことをこのたとえ話でイエスさまは、折からの大飢饉に食い詰めて人のところに身を寄せたら、豚の世話をさせられたということにたとえておられます。 ユダヤでは、豚はけがれた動物ということになっていました。そういう戒律です。今私たちクリスチャンはすべての食べ物の戒律から自由になっていて、おいしい豚肉を食べられてありがたいかぎりですが、このたとえ話を聞いていたのは、パリサイ人や律法学者を含めたユダヤ人です。 とかく形から入ることで自分たちはきよいと思いたがるパリサイ人にとって、豚の世話をするなどというたとえ話は、かなりショッキングに響いたはずです。 悪臭ふんぷんたる場所で働かされたこの放蕩息子は、きわめてひもじい思いさえしていました。16節です。「彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。」 火も通っていない家畜のエサなどだれが食べるというのでしょうか。しかし、それさえも彼は食べることを許されませんでした。豚のほうが大事なのです。お前が飢え死にしようと知ったことじゃない、勝手に死ね、この家の主人は、そんなことさえ言っているかのようです。 放蕩のすえに食い詰めて彼が身を寄せたこの家の主人は、サタンを象徴していると言えましょう。この世の君は、人を快楽で操り、手先としてこきつかって、ついにはぼろぼろにして、死んでいくに任せます。この世にはサタンの軍門に下った放蕩息子が、なんとたくさんいることでしょうか。 しかし、彼はそれで終わりではありませんでした。17節をご覧ください。「しかし、彼は我に返って言った。」我に返って。この部分、赤い字で印刷して、はっきり読めるようにしたいくらいです。自分の居場所はここではない。帰ろう。恥も外聞も捨てて。 いまさら合わせる顔がないと思ったことでしょう。弟息子は、父親に財産を分けてくださいと申し出たときには、それを元手に一旗揚げて立派な人物になる、そんな青雲の志さえ父親に語ったかもしれません。ところがふたを開けてみれば、一文無し、すってんてんのすっからかんで、何一つ誇れるもののない、ただの罪人です。彼は思いました。もう息子と呼んでいただく資格はない。雇い人の一人にしていただこう。 しかし、なんということでしょう。父親はいつも、家からずっと離れたところに立って、彼のことを待ちわびていたのでした。そして、ついに、遠くに彼のことを見つけました。駆け寄って抱きしめ、口づけしました。罪の汚れにまみれたこの子のことを、父はその威厳もかなぐり捨てるがごときに、受け止めてくれたのでした。 これが、御父の姿なのです。だいじな子どもは背を向けて去っていく、好き放題する、そんな子どもがその罪の刈り取りをすることになっても、御父はただじっと待っておられるのです。どんな思いで待っておられることでしょうか。 しかし、このお方のもとに戻る恵みはわれわれに臨むのです。我に返る恵みをなお、神さまは与えてくださいます。戻ることができるのです。 父は、弟息子が戻るのを、ずっと待っていました。そして、戻ってきた彼のことを、その姿のまま抱きしめてくれたのでした。彼は言いました。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」 彼はこのことばに続いて、あなたの家の雇い人のひとりにしてください、と言うつもりでした。しかし父親は、みなまで言うな、とばかりに、息子のことばを聞かなかったかのように、しもべたちに言いました。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履物を履かせなさい。」罪人のきたない恰好のままでいさせません。きれいな格好に飾ってくれました。中でも注目すべきは「指輪」です。これは、父親が自分のすべてを譲り渡す証拠です。雇い人どころではありません。立派な「跡継ぎ」です。 23節もお読みください。「そして肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて祝おう。」父を離れ、悪の世界に身を置くかぎり、豚の餌さえ食べられなくなった者が、なんと肥えた子牛のパーティです。しかもこのパーティの主人公です。救われるということは、こういうことなのです。 救われるとはどういうことか、いみじくも父親が24節で語っているとおりです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。私たち人間は、創造主なる神さまのもとに帰るまでは、みな死んだ者、いなくなっていた者です。行きつくところは滅びです。しかし、そのような者でも救っていただきました。 元始、教会とは、神さまを父とする家であります。救われる人が起こされるたびに、このような喜びが繰り広げられる場所、それが教会なのです。だれかにこの喜びを味わってほしい、私もこの喜びを味わいたい、そこから、伝道ということに対してやる気が出てくるのではないでしょうか。 教会、父の家とは、人の帰るべきただひとつの場所です。ここに帰ってくるまでは、人はさまよっており、どこに行くべきかわからず、たえず不安に支配されます。しかし、父の家に帰るならば、安全であり、安心です。あとは、もう離れないだけです。 私たちは、救われた時の感動を思い起こしましょう。帰るべき家に来た! みんなでともに神の国を継ぐ者とされた! 私たちは救われたゆえに、教会という神の家から離れてはいけません。 さて、ここに、兄息子が登場します。彼は畑で働いていました。そこに、家からパーティの歌舞音曲が聞こえてきて、何事か、と思いました。それが、弟が帰ってきたからだと知ると、怒って、家に入ろうともしませんでした。 父はそんな兄息子を見るに見かねて、家の外に出てきて彼をなだめました。しかし、彼は訴えます。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」 さあ、みなさんなら、この兄息子のことばを聞いて、どのように思われるでしょうか。およそ宗教というものは善行ということを説きますが、そのような見方からすれば、この兄の言っていることは筋が通っているように思えないでしょうか? しかし、繰り返しますが、イエスさまのこのたとえ話は、パリサイ人や律法学者を含むユダヤ人たちを相手に語られたお話です。彼ら宗教指導者たちは、イエスさまが取税人や罪人のような者たちのことを受け入れて、食事さえ一緒にしていることを快く思わず、ケチをつけたわけでした。そんな彼らに対して、イエスさまがこのたとえ話を語られたということを前提に、考えてまいりたいものです。 パリサイ人のような人ならおそらく、この兄息子のようなことを言いかねなかったことでしょう。自分の行い、正しさを主張し、罪人を決して許さない、受け入れない。彼らからすれば、神さまがそんな罪人さえ受け入れるだなんて、到底、理解できなかったはずです。 しかしイエスさまは、そんなパリサイ人に対しても、やさしい心を持っていらっしゃいました。私たちは読みかじりの程度に聖書を読むだけだと、イエスさまはパリサイ人に対して、ただひたすらに厳しい、こわい、という印象を持つかもしれません。マタイの福音書の23章など読むと、イエスさまは口を極めて、パリサイ人のことを罵っておられるくらいですので、余計そう思われるかもしれません。 しかしイエスさまは、パリサイ人の言動を問題にされてはいても、パリサイ人の人格まで呪っておられるわけではありません。むしろ、兄息子に例えられたパリサイ人に対する御父の御思いをこの父親のことばから読み取るなら、とてもやさしいお方、ということがわかると思います。 まず、父はなんと言っていますでしょうか? 31節です。「父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」 兄息子はそれまで、いろいろな問題にとらわれていました。まず、父の戒めを守り行なってきたことが、結局は父に認められていないように思えてしまったこと、それは、その愛の表現として子やぎ一匹もらえなかったからたしかにそうだと思ったこと、それなのに、戒めを破り放題で財産を使い果たした奴に対し、父はとても寛大であることに怒りを燃やしていたこと……。 それは何が問題だったか。まず彼は、正しい行いで自分の正しさを父に認められようとしていました。しかしこれでは、きりがありません。99パーセント正しくても、1パーセントが正しくなければ、すべてが正しくない、人間に対するきよい神さまのありかたは、そういうものです。結局人間は、神さまのほんとうのみこころがわからなければ、的の外れた努力を繰り返すしかないものなのです。 そして彼は、自分が充分に父に愛されていることも考えないで、わかりやすい形で父の愛を受けた弟に嫉妬しました。そう、これは嫉妬なのです。正しくふるまう努力を怠らない自分は認めてもらえないのに、放蕩のかぎりを尽くしたこいつはとっても愛されている……。 私たちが信仰生活をするうえでしてはならないことがあります。それは、「ほかの兄弟姉妹と比較をする」ということです。これほどみじめになるか、傲慢になるかして、自分にさんさんと注がれている神さまの愛を見失わせるものはありません。それもそのはずです、神さまに向けるはずの目を、人に向けているからです。完全な神さまを見上げて、自分も完全なものにされている喜びを味わう代わりに、不完全な他人か、不完全な自分を見て、不完全な信仰を持つしかなくなります。 そんな不完全な人、みじめな人の代表選手が、この兄息子です。そんな兄息子に、父はとてもやさしいです。まず、呼びかけてくださいます。「子よ。」そうです、父の気持ちも知らないで文句を言うような彼のことを、もう子ども扱いしない、そんな父親ではありません。おまえも子どもだ。愛するわが子だ。 どんな子どもなのでしょうか。おまえはいつも私と一緒にいる。そうです。遠い国、サタンの国に行くことがなく、父の家にとどまりつづけていることは、なんという祝福なのでしょうか。 そして、私たちはただ神さまとともにいさせていただいているだけではありません。もちろん、それだけでも充分に祝福と言えますが、それだけではないのです。「私のものは全部おまえのものだ。」父なる神さまのもの、天の御国を、イエスさまを信じる信仰のゆえに受け継がせていただけるのです。子やぎどころではありません。天国そのものです。それをまるごと受け継がせていただいているとは、どれほど大きな祝福でしょうか。 だから私たちは、神さまからいただく祝福というものを取り違えてはいけないのです。神さまの祝福をいただいている私たちはこの世においても繁栄する、などと教える牧師や教会は人気があるものですが、ほんとうの神さまの祝福というものは、必ずしも目に見えるものとはかぎりません。 しかしただひとつ確実なことは、私たちはすでにその祝福、天の祝福を、この地上において受けており、のちの世で永遠のいのちとともにこの祝福を完全にいただく、ということです。だから、この天の祝福につねに目を留める、霊的な目をいつも備えさせていただくように、私たちはどんなときにも神さまと交わりを欠かさないでまいりたいものです。 しかし、そのような天の祝福をいただいているということは、同じイエスさまの十字架により罪赦され、贖われて神のものとされた、兄弟姉妹を愛するという形で実を結んでしかるべきなのです。32節で、お父さんは何と言っているでしょうか?「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」 父の戒めを落ち度なく守っていることを誇りにしていた兄息子は、パリサイ人や律法学者のような宗教指導者を暗に指していましたが、このような人は、この神の家、教会の中にもいるものです。私こそ兄息子かもしれない、そう思っていただけるなら、それはすばらしいことです。 なぜなら、このままでは兄弟姉妹をさばく、つまり、同じ神さまから生まれた愛すべき存在を遠ざけることを、当然のことのように思う、自分さえよければそれでいい、心の冷たいクリスチャンになってしまうからで、そんな自分のことを悔い改めるならば、御父のみこころどおり、愛にあふれた素晴らしいクリスチャンになれるからです。 私がメッセージの中で何度も申し上げていることですが、福音書があれだけ、パリサイ人を責めることばに満ちているのは、パリサイ人とちがって私は恵みによって神さまのものとされている、などと、悦に入るためでは決してありません。そうではなくて、これを読むあなたの中にもパリサイ人の要素があります、恵みにとどまりたければ悔い改めなさい、と戒められているからです。パリサイ人とは、私たちのことです。兄息子とは、私たちのことです。 兄息子は、家の中に入ろうとしませんでした。これは象徴的です。兄弟を受け入れず、さばくということは、教会という神の家の中に、父とともにいようとしないということを意味します。これは不幸なことです。 兄息子は家で何が起きているかに関心も払わず、いえ、もしかすると、毎日のように出ていって弟を待ちつづける父の心も知ろうともしないで、その日も畑にいて仕事をしていました。しかし、それを父は喜んだでしょうか? 父とともにいて、喜びを分かち合わないならば、畑仕事に精を出すがごとく、行いで認められようとしたところで、何にもなりません。 私たちも同じです。私たちは父の心を知って、父とともにいることを選ばなければなりません。そうすれば、父の願いどおり、兄弟姉妹を受け入れ、愛する思いが生まれてきます。神の家、教会は、中に入ってとどまるべきところです。 私たちは弟息子のように、戻るべき場所に戻りました。しかし今からは、兄息子のような自己中心、律法主義を、たえずみことばと祈りをとおして悔い改めながら、父に似た者としてともに成長していく群れとなりたいものです。そのために今日、私たちはどんなことを決心しますでしょうか? 初めの愛に帰りましょう。ありのままを受け入れてくださった御父の愛を思えば、私たちもまた、兄弟姉妹を受け入れることはできるはずです。それを阻む自己中心が、主の御手によって取り去られますように、私たちは真剣に祈りたいと思います。