主の晩餐は弟子のしるし
聖書箇所;ヨハネの福音書6章41節~66節 メッセージ題目;主の晩餐は弟子のしるし 先週の水曜日、私たちの愛する兄弟が天の御国に凱旋されました。昨日が兄弟の葬儀でした。このような中で今日私たちは第一主日につき、主の晩餐のひとときを迎えています。さらにここには、いずれこの主の晩餐にあずかるべく、バプテスマの備えをしている姉妹もいます。……こういう状況の中で語るべきはどのみことばだろう、かなり祈って考え、今日、この箇所を選ばせていただきました。 兄弟は生前から、ご自身のご葬儀をどのようにするか、ということをよく語っていらっしゃいました。それは、死からのよみがえり、そして永遠のいのちに対する信仰を、堅く保っていらっしゃったからでした。死で終わりではない。おそらく、日本のほとんどの人は、死んだらどうなるかということを知りません。知らないということは、死ということを大いに怖れるという結果を招きます。だから、普通お葬式は悲しく暗く沈んでいます。 しかし、昨日の告別式はまったくそうではありませんでした。告別式をとおし、兄弟が主のみもとに召され、いま永遠のいのちの安息に憩っておられることを、私たちは確信しました。私たちには寂しさはもちろんありましたが、しかし平安がありました。 そう言えるのは、兄弟にはそれこそ、いまお読みいただいたみことばの44節にあるとおりの、神さまに選んでいただいているという信仰、それゆえに、終わりの日によみがえらされるという信仰があることが、確かなことだからです。イエスさまを信じて義と認められた人は、よみがえって永遠のいのちを受けます。もはや死も苦しみもありません。あるのは滅びることのない喜びだけです。まさに47節が語るとおりです。イエスさまを信じるならば、永遠のいのちを持っています。 しかし、イエスさまは群衆たちの耳に、奇妙に聞こえることもおっしゃいます。48節。わたしはいのちのパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 それだけではありません。イエスさまはこんなことさえおっしゃっています。53節から58節。これを聞いた人々はパニックになりました。「これはひどいことばだ。」尾山令仁先生の翻訳された現代訳聖書では、このニュアンスを生かす形で、「第一、血なまぐさいし」ということばを挿入しています。ただし、これは別の解釈も可能で、韓国語の聖書では「このことばは難解だ」という意味に表現されています。しかし、ひとつ言えることは、ひどいと思ったにせよ、難しいと思ったにせよ、イエスさまの言わんとしていることがちゃんとわからなかった、ということは確かです。それで、せっかくイエスさまのことを慕ってついてきたというのに、このことばの難解さ、血なまぐささに恐れをなし、というより、俗っぽい言い方をすれば「ドン引き」して、彼らはもう、イエスさまの弟子であることを辞めて去っていってしまいました。 しかし、十二弟子はちゃんと残りました。残って、引きつづきイエスさまのみことばを聴きつづける特権にあずかりました。実は、イエスさまは群衆にお語りになるとき、多くの場合、たとえをもって語られました。それを聴いた人々は、難しい話だけれども何となくありがたい、くらいに思って、ああ、なんだか知らないけれどもいい話を聞いた、とばかりに、帰っていったのではないでしょうか。しかしこのようなみことばの聴き方は、「群衆」の聴き方です。このたびの、イエスさまのことばにつまずいた人たちもそうでした。彼らのことを聖書は「弟子」と言っていますが、イエスさまのことばを皮相的にしかとらえられなかったという点では、「群衆」のレベルにとどまっていました。 「群衆」と「弟子」を分けるものは何でしょうか? イエスさまがたとえで語られた真理の謎を解いていただき、真理をわがものとさせていただく立場になった者、それが「弟子」です。この時代の群衆は、イエスさまのたとえ話の意味を知ろうとすることにそこまでの情熱を傾けなかったため、「弟子」になりきることができませんでした。 さて、それなら、現代における「弟子」とはだれでしょうか?「弟子」というものが、イエスさまのたとえ話の解釈を直接教えていただける立場にあるものと考えるならば、聖書を手にしている人はだれであれ、「弟子」になるように招かれているといえます。なぜならば、聖書を読みさえすれば、難解なイエスさまのたとえのその意味することを、ちゃんと理解することができるからです。 しかし、言うまでもないことですが、聖書という本を持ってさえいれば「弟子」なのではありません。イエスさまのおっしゃるとおりのことを守り行う人、それが弟子ですから、まず、聖書を持っているだけではなくてちゃんと開く、毎日読む、読んで黙想し、生活に適用し、それを実践することで聖書のみことばを具体的に守り行う、毎日のその繰り返しが私たちのことを弟子に育て上げます。 では、私たちは「群衆」にとどまることと、「弟子」の道を進むことと、どちらがよりいいでしょうか? イエスさまのことばに去っていった弟子たちは、もう弟子になんてなりたくない、と思ったわけです。こんにちにおいても、弟子の歩みをわざわざするなんて馬鹿げている、と考える人が少なくありません。そのように生きていれば、いろんなことを我慢しなくていい、好き放題のことをできると考えるでしょう。 しかし、「弟子」の歩みをする人は、少なくとも、まことのいのちなるイエスさまの弟子でありつづけることゆえに、だれにも奪えないほんものの喜びを日々体験しつづけます。イエスさまとともにいる喜び、イエスさまにならって隣人を愛し仕える喜び……その喜びを日々体験できるのは、その人が「弟子」だからです。その歩みを喜べる人は、好き放題に生きることのむなしさを知るゆえに、そのような生き方をあえてしようとしません。神と隣人を愛するという、ほんとうに意味のある人生を生きようと一生懸命になります。はたして、どちらがよりよい生き方でしょうか? 申し上げるまでもないことです。 天国に行かれた私たちの愛する兄弟は、ほんとうにイエスさまの弟子だったと思います。兄弟は学校教育という世界で用いられていた方でしたが、学校教育の現場の中で、真に世の中の役に立つ人を育てるために、まず、むなしい人生観に生徒たちが支配されないように、進化論は学校教育に必要だからもちろん教える一方で、創造論の論理を提示することを常としておられたとうかがっています。勇気のいることだったと思います。しかし、兄弟は最後まで聖書の真理に立ち、創造のみわざの確かさを徹底して説く生涯を送られました。 さて、弟子であるということは、イエスさまがこうしてお語りになったことの真の意味を悟らされた人であるということですが、イエスさまはその真理、永遠のいのちを人が得るためにご自身の血と肉を分け与えてくださるということを、十字架で肉を裂かれ、血を流されることによって示してくださいました。そして人は、イエスさまの十字架の死が自分の罪の罰の身代わりであったことを信じ、そしてイエスさまが3日目に復活されて罪と死に永遠に勝利してくださったことを信じることによって、救われ、罪赦され、神の子どもとなり、永遠のいのちをいただき、天国に入れていただけます。 このことを、はっきりわかる形で私たちに示してくださったもの、それが主の晩餐です。「わたしの肉を食べ、血を飲む者に永遠のいのちがある」、これを信じられる人は、十二弟子に匹敵する献身に招かれている人であって、ちょっとやそっとのことでつまずいて去っていく群衆のような人では断じてありません。そして、その弟子の歩みをする人は、第一ペテロ3章21節にあるとおり、バプテスマを受けることをもって主に生涯お従いする誓いを立てた人です。そして、弟子だからイエスさまの血と肉にあずかれる以上、主の晩餐をもってイエスさまのみからだと血潮にあずかる人は、バプテスマをもって生涯主の弟子として歩むことを約束した人なのです。しかし、私は声を大にして申しあげますが、死の弟子として歩むクリスチャンの歩みは、イエスさまがいつもともにいてくださるという、何にも代えがたい歩みです。いま、その喜びがいまひとつ湧きあがらないという方も、主の晩餐に招かれています。召しあがってください。主が生きてうちに働いてくださるという、まさにそのことを、どうか体験していただきたいのです。 ここには、バプテスマの準備を進めておられる方がいます。その方にとって今日の主の晩餐が、どうか生涯最後の「見学」となり、来月にはバプテスマをお受けになって、ともに主の晩餐にあずかられるように、教会のみなさまで祈っていただければと思います。 主の晩餐は弟子の証しです。私は弟子です。私は弟子として歩みます。どうか弟子として歩ませてください。その切なる祈りをもって、今日の晩餐に臨みましょう。