人の思いを超える祝福

聖書箇所;創世記20:1~18/メッセージ題目;人の思いを超える祝福 劇作家のつかこうへいが言っていました。詐欺師は、嘘をつくことにおいて、まるで芸術家のようだ。嘘をつくことの犯罪は、最近ですとオレオレ詐欺、にせ電話詐欺、などという、ぞっとしないものが目立ちますが、あれだけ手が込んだ犯罪など、よく思いつけるものだと思います。あんな手合いを芸術家などと呼びたくはありませんが、きっと、あのような犯罪を考えついた者たちは、それがうまくいったときなど、まるで絵や音楽が上手に創作できた芸術家のように、自分たちの悪知恵に酔いしれていることでしょう。 しかし、嘘がどんなに素晴らしく思えても、神さまがご覧になったらいかがでしょうか? 偽証してはならない、と、律法は語ります。あのような悪質な嘘でなくて、嘘も方便、などというケースもあるかもしれませんが、嘘は嘘です。それがどんな理由でなされたものでも、神さまは喜びません。 今日の聖書箇所でも、アブラハムは嘘をついたような振る舞いをしています。サラのことを、自分の妻だと言わず、妹だと言ったことは、かつてエジプトででも行なったアブラハムの処世術でしたが、サラはたしかにアブラハムにとって、母親ちがいの妹ではありましたが、妻という立場が優先するはずです。 そればかりではありません。もっと重大な問題があります。サラは約束の子、神の民の源なるイサクを生むべき立場にありました。アブラハムのこの嘘をついた振る舞いは、自分自身の罪だけではなく、イスラエル民族の危機につながり、神さまのみこころを損なうことにつながる、重大な問題でした。 ともかくも、アブラハムはゲラルの地に寄留していたとき、サラのことを、自分の妹であると公言しました。アブラハムが自分の身を護るためでした。そのためには、サラが取られて人妻となってもかまわない、とさえ言っているような態度です。 それにしても、ここまで私たちは聖書を読んできて、おかしい、と感じないでしょうか? あれだけアブラハムは、神さまの約束のみことばを受け取り、自分の妻であるサラから約束の子どもが生まれることを聞いていたというのに、この不信仰はいったい何だ、そんなことを思わないでしょうか? しかし、これは私たちにとっては反面教師として、しっかり心に留めておくべきことです。私たちはいつもみことばを読んでいます。神さまの語りかけを受け取っています。 それなのに、私たちはなんと、そのみことばのとおりに振る舞えないことが多いものでしょうか。聴いていたはずのみことばを実行できず、かえって、そのみこころと反対の、罪深いことを行なってしまうものでしょうか。 アブラハムの姿は私たちの姿です。だから、アブラハムの正体見たり、とか、アブラハムは魔が差したのだろう、などと切り捨ててはなりません。今日の箇所からともにじっくり学び、私たちもまた、信仰の人としていかに考え、また語り、振る舞うべきか、考えてまいりたいと思います。 さて、ともかく、アブラハムのもとに王から使いがやってきて、サラは王のもとに召し入れられました。ここでもさらに、私たちは、おかしい、などと思ったりしないでしょうか? サラはこのときで90歳にもなります。90歳のおばあちゃんを召し入れる王さまなどいるのだろうか! 聖書の言っていることはいかになんでも! などと、ちょっと混乱しないでしょうか? しかし、最近私には、このサラにまつわる聖書の記録は決して誇張でもなく、嘘をついているわけでもないと確信したできごとがありました。その日私はテレビを視ていました。すると、はっとするほど綺麗な女性がテレビに出てきました。明らかに若い人ではないのですが、何と申しますか、並々ならぬ気品をたたえていて、ああ、綺麗だなあ! と、見とれてしまうような女性でした。 いったいだれでしょう? 岸恵子さんでした。いえ、過去の映像とかではありません。新作の舞台の宣伝だったので、今の岸恵子さんです。その女性が岸恵子さんだとわかったときには、もう、びっくりを通り越して、呆れかえってしまいました。 岸恵子さんは昭和7年、1932年のお生まれです。そう、今年88歳になられます。米寿です。映画「君の名は」に出演されたのはもう70年ちかくむかしですが、ずっとお綺麗な方だったわけです。 あの、岸さんのお姿を見て、私は確信しました。岸さんがあれだけお綺麗ならば、子どもを産めるようにしてくださっただけの若さを神さまから与えられた、サラはもっときれいだったにちがいない。年齢がどうあれ、王さまが召し入れることも、充分ありえたはずだ。 アビメレクも、このような美人を召し入れることに成功して、さぞかしご満悦だったのではないでしょうか。しかし神さまは、ご自身の民を生む未来の母に、指一本ふれることをお許しになりませんでした。 3節をご覧ください。……おまえは、夫のある身の女を召し入れたゆえに、死ぬことになる。恐ろしい警告です。しかし、この警告を受け取れたことはアビメレクにとって幸いでした。なぜならば、召し入れることをやめるならば、死ななくて済むからです。 神さまは全能のお方であり、あわれみ深いお方です。このように、まことの神さまを恐れる文化になっていない民族にも、臨んでくださり、みことばを語りかけてくださいます。私たちは、神さまを過小評価してはなりません。私たちクリスチャンにとってだけ、神さまは神さまなのではありません。すべての世界、すべての人を創造された神さまは、人間だれにとっても神さまです。 もちろん、人の側で神さまを神さまと認めるかどうかという問題はありますが、それでも神さまは、すべての人を生かし、その人々の中から、みこころを示すべき人を選んでくださいます。 このときのアビメレクもそうでした。神さまがアビメレクに語られたのは、イスラエル民族を守られるという意味もありましたが、同時に、アビメレクのいのちを救われるためでもありました。 アビメレクはどういう人だったのでしょうか? その語ったことばから、アビメレクの人となりを知ることができます。4節と5節です。 アビメレクは、サラが人妻と知っていたら、当然、召し入れるなどということはしなかった、私は殺されるようなことは何もしていない、潔白だ、と、神さまに訴えています。 その訴えに対し、神さまは何とおっしゃっているでしょうか? 6節と7節です。 まず、アビメレクが神さまの御前で罪ある者とならないように、と、神さまはアビメレクのことを守ってくださいました。あとは、アビメレクが、この夢の中で語られたことばを神さまのことばとして受け取り、神さまを恐れてお従いして、サラを手離す決断をするだけです。 神さまは、いつでも人にみことばをもって警告しておられます。どんな人に対してもです。責任の所在は、その警告を警告として受け取らない、人間の側にあります。人がさばかれるのは神さまの勝手きまぐれではありません。 しかし、人がもしほんとうに神さまを恐れる人だったならば、神さまがその人を守ってくださいます。このときのアビメレクもそうでした。のみならず、アビメレクに祝福が臨むように、神さまは取り計らってくださいます。神さまにあって祝福を祈る神の人につなげてくださるという、最大の祝福をその人はいただくことになります。 私たちもこの世の人たちを恐れてはいけません。私たちに与えられているイエスさまの御名は、みこころにかなう祈りならば何でも求めれば御父にきいていただけるという、すばらしい力を持った御名です。 私たちがイエスさまの御名によって人々のためにとりなして祈り、また祝福するとき、それは、イエスさまがとりなしてくださり、また祝福してくださる、ということです。金銀のような財産がなくても落胆しないでいただきたいのです。私たちには、イエスさまの尊い御名が与えられています。 アビメレクは神さまを恐れていました。そして翌朝、アビメレクがこの夢のことをしもべたちに告げると、しもべたちも一様に神を恐れました。 アビメレクはアブラハムを呼びつけ、抗議しました。あなたはサラのことを妹と言ったではないか、そのために、私にもわが王国にも大きな罪がもたらされるところだった。 ここでアビメレクが罪と言っている、「罪」といういい方にも注目しましょう。罪とは、神さまとの関係の中で生じるものであり、神さまとの正しい関係を保つために、罪があってはならない、と、アビメレクは告白しているわけです。 アビメレクのこのことばに対し、アブラハムは何と言っているでしょうか? まずは11節です。 ゲラルの人々は神を恐れないので、サラのゆえに私を殺すと思った。しかし、今までも見てきたとおり、ゲラルの人々は神を恐れていました。偶像の神々をではありません。創造主なる神さまを恐れていました。それをアブラハムは正当に評価せず、神を恐れないゆえに殺人を犯す者たち、と決めつけています。とんでもない評価を与えたものです。 そして、12節、13節を見てみましょう。……いったい、真実の愛を尽くすとはどういうことでしょうか? アブラハムが生き残るためには、サラがどうなってもかまわない、アブラハムのいのちに危険が及ぶなら別れたっていい、それがアブラハムに対し真実の愛を尽くすことだ、とでもいうのでしょうか? しかし、その考えがどんなに間違っていたかは、エジプトでファラオがあやうくサラを召し入れそうになったとき、神さまがファラオとその宮廷を痛めつけられたことですでに明らかになっていました。それなのに、同じことを繰り返したのです。 これは、嘘も方便では済まされない話です。アブラハムとサラとの間の愛情という点でも大きな問題をはらんでいますが、事はそれにとどまりません。下手をすると、アブラハムの子どもではない子をサラがみごもるかもしれないという話です。そうなったら、約束の子ども、神の民が生まれるため、神さまがここまでアブラハムとサラを導いてこられたことは、すべて水の泡と化します。 要するに、何が問題だったのでしょうか? アブラハムの不信仰です。ご覧ください。ゲラルのアビメレク王とそのしもべたちの方が、アブラハムよりもよほど神さまを意識しているという点で、信仰的とすら思えないでしょうか? しかし、ここでも私たちは考えてしまうかもしれません。異邦人よりもよほど信仰的ではないアブラハムが、それでも信仰の父と呼ばれるにふさわしいのだろうか? そこで私たちは、アブラハムという人ではなく、そのようなアブラハムを選ばれた、神さまに目を留めたいと思います。いざというときに不信仰から、このようなとんでもない行動を取ってしまうアブラハムをとおして、それでも神の民を生み出してくださるお方、それが神さまです。 頭がよいとか、品行方正であるとか、そういったことは、ときに生まれながらにして備えているかのような人がいます。しかし神さまは、そういう人を信仰の父として選ばれたのではありません。 かえって、欠けだらけの人を選び、それでもこのように、失敗や弱さを思い知らせてくださることにより、神さまに拠り頼む信仰を育ててくださることによって、整えてくださるのです。それはアブラハムにかぎったことではありません。私たちも同じなのです。 私たちは取るに足りない者ですが、神さまはときに、この世の人たちが私たちに好意を持つようにさせ、その方々の好意により、私たちを祝福してくださいます。このとき、アビメレクが多くの贈り物をアブラハムとサラに与えたことも、神さまの祝福と深い関係がありました。アビメレクは、サラを取ったり、アブラハムを殺したりするような人ではありませんでした。神を恐れるゆえに、アブラハムを祝福しようと願う人だったのです。 私たちが生きているこの世界、特に日本は、神さま、イエスさまを信じている人がほとんどいないで、その現実に目を留めるならば、私たちは心細くなるかもしれません。しかし、私たちを取り巻く環境の中を生きる人たちのことを生かしておられる神さまにこそ目を留め、その人たちに神さまの祝福があるように、私たちは祈ってまいりたいものです。 イエスさまは、主の弟子としてこの地を生きるさすらいの私たちを励ますことばを語ってくださっています。マタイの福音書10章40節から42節をお読みしましょう。 これが、神さまのみこころなのです。私たちはですから、私たちに対してよくしてくださる方々に、イエスさまの福音を語ることをためらったり、あきらめたりしてはなりません。私たちのことを主の弟子、主のしもべと見込んでよくしてくださる方々のことを、主は祝福してくださる、この主のみこころを私たちは受け取り、あきらめずに福音を語ってまいりたいものです。 アブラハムはといいますと、アビメレクを祝福しました。私たち主のしもべにできることは、金銀をもって人々を養うことでなかったとしても、ナザレのイエス・キリストの名によって、人々を立ち上がらせることです。主は私たちの祈りを聞いてくださり、人々を祝福してくださいます。 アビメレクはどんな祝福を受けたでしょうか? また、子をなすことができる祝福を受け取りました。今日の箇所の最後の部分、18節で、それまでアビメレクの家が子をなすことができなかった理由が述べられています。……アブラハムの妻サラのことで、つまり、サラがみごもることになるイサクは、あくまでアブラハムの子どもであり、アビメレクがなした子どもではない、ということが強調されているわけです。 しかし、アビメレクがこのように主を恐れる人であったことは、結果として、アビメレクが子どもをもうけることができるようになったという、大きな祝福を受けることにつながりました。アブラハムが死ぬか、それともアビメレクが死ぬかという瀬戸際で、主が介在され、そのどちらの悲惨なことにもならず、サラも二夫にまみえるようなことにもならず、すべては丸く収まり、それ以上の祝福を、アビメレクも、アブラハムも、受け取ることになったのでした。 私たちは恐れるかもしれません。私たちの不信仰がもしかして、事をおかしくしないだろうか。神さまのみわざが隠されないだろうか。証しにならないのではないだろうか。人につまずきを与える人々のよくない話を見聞きすると、余計そんなことを私たちは考えるかもしれません。 しかし、そのように思えるときこそ、私たちは神さまの大きさに心を留めたいものです。私たちがこの地に祝福をもたらす器として神さまに選ばれているかぎり、私たちが神さまのご栄光をいたく傷つけるようなことから、神さまは私たちのことを守ってくださいます。この神さまの愛と選びにまず信頼し、アブラハムのように度重なる不信仰と不従順の罪を犯すことから、守っていただくよう、祈ってまいりたいものです。 神さまの祝福はとても大きなものです。私たちはまだまだ整えられなければならないところが多いものですが、そんな私たちの祈りを神さまは聞いてくださり、この世界に祝福をもたらしてくださいます。この神さまの愛と選びに信頼して、今日もこの愛なる主のみ手に用いられるべく、整えられることに感謝してまいりましょう。

十字架に向けての入城

聖書箇所;ヨハネの福音書12:12~19/メッセージ題目;十字架に向けての入城  先日まで行われていた大相撲秋場所は、正代(しょうだい)関が初優勝と大関昇進を決め、大きな話題となりました。さて、大相撲の本場所の優勝にはいろいろなセレモニーが伴いますが、残念ながら、昨今の事情でできなくなっているセレモニーがいろいろあります。優勝力士がオープンカーに乗ってのパレードなど、その最たるものでしょう。  紋付き袴、大銀杏の優勝力士は、沿道を埋め尽くす群衆に、満面の笑みをたたえて手を振ります。隣で優勝旗を持った、やはり大銀杏に紋付き袴の関取も、うれしそうです。なんとも晴れがましい姿! 私はむかしから大相撲が好きで、この優勝パレードの様子は何度となく見たものでしたが、見ているこちらまでうれしくなり、祝福したくなる気分になります。  さて、このオープンカーの祝賀パレード……そのオープンカーに乗った主人公が、オープンカーではなく、何の変哲もない軽トラックの荷台に乗って登場したら、どうしますか? でも、沿道の群衆が割れんばかりの歓声で迎えたとしたら、どうしますか? 今日はそんなお話です。  今日の箇所は、イエスさまのエルサレム入城のエピソードです。これは、前回のヨハネの福音書の学びの時扱いました、ベタニアの三きょうだいの家をイエスさまが訪問された、あのできごとの翌日のできごとです。そのとき、何があったでしょうか? マリアがイエスさまに、香油を注いだのでした。 売れば数百万にもなろうかという大変な宝物を、惜しげもなくイエスさまに注いだという……弟子たち、特に、イスカリオテのユダなどはこれを見て憤慨し、マリアを責めましたが、イエスさまはむしろ、これはご自身の葬りの日のためにマリアが行なったことだと、マリアのこの行動をほめてくださいました。 マリアが香油を注いだというこのことにより、いよいよイエスさまの死、十字架の死が備えられることになりました。今日の箇所は、その翌日のできごとで、イエスさまはベタニアからエルサレムに入城されます。 14節に、イエスさまはろばの子に乗られた、とあります。このろばは、荷物を載せるための子ろばです。まだ、だれも乗ったことのないろばです。この子ろばの持ち主は、主がお入用だから連れていきます、と弟子たちが言うと、喜んで、とばかりに子ろばを引き渡します。 かくして、イエスさまは子ろばにまたがって、エルサレムに入城されました。イエスさまがラザロをよみがえらせたことを知って、その話題で持ちきりになっていたエルサレムの住民たちは、沿道に群れを成して、メシアなる王を迎える態度で、なつめやしの枝を手にし、自分の上着や木の枝を道に敷いて、最大級の歓迎をしました。 そんなイエスさまがまたがっているのは、しかし、荷物用の子ろばです。しかし、王さまなら、立派な白馬にでもまたがったほうがよくないでしょうか? しかし、イエスさまが乗られたのは、荷物用の子ろばです。まさしく、オープンカーではなく、軽トラの荷台です! 15節を見てみますと、これは、旧約聖書みことばの成就であると書かれています。ゼカリヤ書9章9節で預言されていたとおりです。 ちょっと、ゼカリヤ書の9章9節を開いてみたいと思います。……イエスさまは、義なるお方として、勝利の凱旋をされることが強調されています。しかし、この神さまの絶対的なさばきによって人をさばき、罪に定めるのではありません。「柔和な者」とあります。そうです。イエスさまは柔和な方なのです。 イエスさまは、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいを友とされたお方でもいらっしゃいます。十二弟子にしても、厳しく鍛えられたばかりではなく、この世の徒弟制度のような関係ではない、友として接してくださいました。イエスさまは、このような罪だらけの私たちにとって、大上段(だいじょうだん)にさばくお方ではありません。むしろ、このような私たちを諦めることなく、どこまでも寄り添ってくださる、それこそ「友」、柔和なお方です。 そんなイエスさまに似合っていたのは、この世に堂々と君臨する「白馬」ではありません。庶民の視線に降りてきてくださる「子ろば」でした。群衆はそんなイエスさまの姿に、自分たちの味方となってくださる王さまという、かぎりない親しみを感じたにちがいありません。しかし何よりも、彼らのこの熱狂的な歓迎ぶりは、ゼカリヤ書9章9節の成就であり、かくして、みことばはほんとうだったということが明らかになったわけでした。 それにしても私たちは、もし、イエスさまが私たちのことを用いてくださるとするならば、自分のことを立派な「白馬」だと思いますか? それとも「子ろば」だと思いますか? いえいえ、私たちは「白馬」などと言いきれるものではないでしょう。せいぜい「子ろば」程度のものでしょう。しかし、「子ろば」であろうと、私たちはその背中にイエスさまをお乗せできるならば、立派に用いていただけるのです。主のご栄光を顕させていただけるのです。 むかし、榎本保郎という牧師がいらっしゃり、彼の物語は三浦綾子が小説にして週刊朝日に連載し、「ちいろば先生」というあだ名とともに有名になりましたが、取るに足りない子ろばのような存在、華やかなオープンカーではなくて軽トラのような存在でもイエスさまをお乗せできるならば栄誉極まりないことです。 榎本先生だけではありません。私の母教会、北本福音キリスト教会で30年にわたって牧会していらっしゃる小西直也先生は、この子ろばがイエスさまをお乗せしたという箇所に示され、自分のような者でも主をお乗せして用いていただけるならば、と、直接献身に踏み出されたと語っていらっしゃいます。 イエスさまが柔和な王さまでいらっしゃるのは、それが、私たちのように、罪を認めてへりくだる者、けっして威張らない、威張れない者の、王さまとなってくださるゆえです。この世の王さまなら、大金持ち、偉い人、そういう人の上に堂々と君臨したがるでしょう。しかしイエスさまはちがいます。私たちのような者たちの上に君臨するどころではありません、「仕えてくださる」お方です。その汚い足を洗ってくださるお方です。イエスさまはそんな王さまです。   しかし、イエスさまが王であられるのは、この世の者たちが王に立てたからそうなるのではありません。このとき、エルサレムの者たちは、イエスさまを王として迎えましたが、そんな彼らがイエスさまを王にしたのではありません。イエスさまを王に立ててくださったのは、父なる神さまです。どのようにして御父はイエスさまを王にお立てになるのでしょうか? イエスさまを十字架におつけになることによってです。  イエスさまがエルサレムに入城されたのは、いわば「王の戴冠式」、冠をかぶせられて王に立てられる、そのためのご入城といえましょう。では、イエスさまにかぶせられた冠は、どんな冠でしょうか? 茨の冠です。茨の冠のあとを待つものは、十字架でした。  イエスさまを大歓迎したはずのユダヤ人たちは、宗教指導者たちに焚きつけられ、イエスさまを裏切り、イエスさまのことを、十字架につけられるほどの極悪人と見なしました。十字架は、彼らユダヤ人にとっては、この上ない呪いを表す存在でした。 しかし、主に選ばれた者たち、私たちにとっては、この血なまぐさい存在、目をそむけたくなる存在が、どれほど麗しく、慕わしいことでしょうか? イエスさまは十字架の上で両手を広げ、御父が私たち罪人に怒涛の如く注がれる激しい御怒りから、私たちをかくまってくださいました。私たちは王なるキリストの打ち傷によって、いやされたのです。 イエスさまの十字架はまた、私たち人間のうちに平和をもたらす存在です。世の王たちは、臣民に平和を実現してこそ、よい王として認められます。イエスさまこそは、私たち人間のうちに平和を実現してくださるお方です。 その平和は、まず私たち人間が神さまと和解させていただく、つまり、神さまと平和な状態にしていただくところから始まります。その、父なる神さまとの平和を実現してくださるのは、イエスさまの十字架をおいてほかにありません。イエスさまの十字架によって平和を実現していただいた私たちは、同じイエスさまの十字架によって和解していただいたどうし、お互いの間に主にある平和を実現していくのです。こうして、キリストが王として統べ治める御国が、私たちの間に実現します。 ただ、このときイエスさまのことを「ホサナ!」主、わが救い、と大歓声でお迎えした群衆は、わずか数日後にはそんな自分たちが一致団結してイエスさまを十字架につけよなどと叫ぼうとは、思いもしなかったことでしょう。彼ら群衆がイエスさまを十字架につけさせるように、扇動した存在がありました。宗教指導者たちです。そんな彼らの苦々しいつぶやきが、19節に書かれています。 イエスさまはおっしゃいました。彼ら群衆が黙れば、石が叫ぶ、と。彼ら宗教指導者たちは、まるで石が叫び出すようなとんでもないことを、着々と進めていたわけでした。彼らはこのとき、群衆を見て、何を思ったでしょうか。律法に通じた彼らのことです。ゼカリヤ書9章9節のメシア預言を連想したにちがいありません。しかし、彼らはこのように、ゼカリヤ書のとおりにイエスさまが現れても、なお信じませんでした。かえって、よくもこのとおりになったな、と、怒りまくったわけです。 何とかたくななのでしょうか。しかし、主の真理に目がふさがれ、けっしてその覆いをイエスさまによって取り除けていただこうと思わない者は、どんなにみことばによってイエスさまが神の子であると示されても、受け入れることはありません。かえって、彼らのすることは、ますますイエスさまに敵対し、したがって神さまに敵対することです。 ただ、このようなパリサイ人に関する記述を、聖書が、これでもか、と書いているのは、なぜだとお考えでしょうか? それは、私たちが、イエスさまを信じることによって自分はもはや律法主義者じゃない、ばんざーい! それに引き換え、あの律法主義者どもはなっていない、などと、安心して、人を罪に定めるためでしょうか? いえ、それこそが、パリサイ人のすることなのです。おわかりでしょうか? パリサイ人に関する記述に聖書があれほど紙面を割いているのは、私たちもパリサイ人になりうる、もっと言えば、私たちもパリサイ人である、からです。 パリサイ人とはもともと、分離主義者、という意味です。世の中のけがれ、俗から分けられた生き方を目指す存在です。しかし、それが度を過ぎると、みことばを一字一句、文字どおりに守り行なわなければ認められない、という、極端な考えになります。その発想に立つならば、たやすく人を罪に定めるようになります。 でも、そのような生き方は、私たちもしばしば、してしまったりしてはいないでしょうか? 私はイエスさまの十字架を信じてきよい存在としていただいた。それなら私たちは、イエスさまの十字架を誇るべきなのに、私たち自身を誇るという、実に愚かなことをするのです。そればかりか、自分の目の梁を差し置いて、人の目のちりを取らせてもらおうとするのです。 聖書に書かれたパリサイ人、宗教指導者は、そういうわけで、自分と関係ない存在と考えてはいけません。いわば反面教師であり、自分の中にもそのようなダークサイドがあることを、謙遜に認める必要があります。 ともかく、ユダヤの宗教指導者たちは、この時点ではイエスさまを引き渡すための十分な策を練ることができずにいましたが、しかし、それであきらめたわけではありません。結局彼らは、最終的に、エルサレムの民衆を抱き込むことに成功しました。彼ら民衆は、イエスさまを王として迎えたはずだったのに、わずか数日後にはピラトに向かってイエスさまを十字架につけよと騒ぎました。暴動寸前になるところで、ピラトはイエスさまを十字架につけました。 それは、御父のみこころが成就したということでもありますが、だからといって、エルサレムの者たちの罪が減じられたということにはなりません。彼らエルサレムの住人たちは、どうなったのでしょうか?  彼らはのちに、ペテロの説教によって、心を刺されて悔い改めました。「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのだ!」その一回の説教で、実に三千人もの人が主の弟子になったとみことばは語ります。大変な数です。それから日々、イエスさまを信じる人は増し加わり、宗教指導者たちに翻弄されたエルサレムの住民たちは回復しました。 このときこそエルサレムの民は、イエスさまを王としてお迎えしたことのほんとうの意味を知ったのでした。イエスさまはローマ帝国の支配から解放する王ではなかった。十字架によって成し遂げてくださった神の平和により、私たちを統べ治めてくださる王さまであった。イエスさまの十字架を受け入れるならば、私たちも神との平和を得させていただける。それまでは、律法を守り行うことで神さまに認められようとしたユダヤ人たちは、ようやくほんとうの意味で救いを得ることができたのでした。 エルサレム入城……それは、柔和な王としての入城で、十字架におかかりになることで、私たちを王として統べ治めてくださるための入城でした。 私たちのうちに王として入城されたイエスさまは、その十字架によって私たちを統べ治めてくださいます。私たちのすることは、十字架をもって私たちに仕えてくださったイエスさまの、その御力をいただいて、主と、人々を愛し、お仕えすることです。 今日私たちは、主の晩さんをもって主の十字架をしのびます。私たちが主の晩さんにあずかるとき、罪人のこの私に寄り添うように、子ろばに乗って私のもとに訪ねてきてくださったイエスさまとひとつとされていることを心から感謝し、イエスさまの十字架の犠牲をしのぶ者となりましょう。

救われよ、神をも恐れぬ世代から

聖書箇所;創世記19:1~38 メッセージ題目;救われよ、神をも恐れぬ世代から  日本と西洋の神観を端的に示すエピソードを、私は以前、ある本で読んだことがあります。第二次世界大戦のころだそうですが、同盟国どうしである日本とドイツの軍人どうしが、自慢比べをしたそうです。ドイツの軍人は言いました。「私は、神以外の何ものも恐れない。」これに対して、日本の軍人は言ったそうです。「私は、神をも恐れない。」日本の軍人は勝ったつもりなのでしょうが、ドイツの軍人に嗤われたそうです。  みなさん、日本人ならこのようなことを言いそうだと思いませんか? 私は神をも恐れない。しかし私たちはクリスチャンとして日本という国を見るとき、政府にせよ国民にせよ神をも恐れないために、どれほど不幸になっていることかと思いませんか?  神を恐れないことは、すべての罪の根源です。これは日本にかぎりません。古今東西、神を恐れない国や民族が、どれほど存在してきたことでしょうか。このような民は、旧約聖書の創世記の昔から、既に存在しました。先週、そして今週と学んでいますソドムの町など、まさにその典型的な例です。  先週学びましたとおり、アブラハムはこの町が滅ぼされないようにと祈りました。それは、義人が少しでもいれば、その義人もろとも滅ぼすことは主のみこころではないのだから、ということで、主はアブラハムのひざ詰めの祈りに、10人でも義人がその町にいるなら滅ぼさない、と、約束してくださいました。  さて、そのソドムとはどのような町だったのでしょうか? まず、主の使いは、ソドムの町を訪れました。ロトがソドムの門のところに座っていると、御使いがやってきました。ロトは彼らが御使いであることがわかりました。ロトはしきりに勧め、彼らを家に招き入れ、食事をもってもてなしました。  これは、先々週アブラハムのエピソードから学んだことと同じです。ロトは、主の使いをそうと認め、もてなしました。もてなすということにおいて、彼は模範を示しています。しかし、問題なのは、そのもてなしは行き過ぎ、といいますか、ピントの外れた方に行ってしまっていた、ということです。  4節、5節をご覧ください。……彼らをよく知る、とは、婉曲的な表現です。これは、彼らは主の使いだからいろいろ教えてもらって、神さまに対する知識を増し加えたい、という意味ではありません。彼らと性行為に及びたいから引き出せ、ということです。  アブラハムやロトをご覧ください。彼らはちゃんと、この訪問客が神の使いであることを知っていました。ところが彼らソドムの者たちは何でしょうか。よりにもよってこの聖なる存在を、性欲を満足させる存在と見ているのです。神をも恐れぬ、とは、このことです。この存在を犯す、われわれ神の民にとっては、震え上がるほど恐ろしいことを、彼らはしようとしていたのです。  罪は特に、性的に粗暴になることで現れます。それはとりもなおさず、人間のことを、性欲という自分の欲望のために粗暴に扱うことを意味します。人間とは何でしょうか。神のかたちです。神のかたちを性的に粗暴に扱うのです。いわんや、ロトのもとを訪ねてきた彼らは、神の使い、すなわち神の顕現でさえあります。神の顕現が性欲のはけ口にしか見えないとは、ソドムの者たちは、どれほど呪わしいことでしょうか。  たとえば同性愛や強姦といったことが問題になるのは、それが神のかたちである人間に対する「アビューズ」であるからです。アビューズ、ということばは「虐待」と訳されますが、この「アビューズ」という英単語を分析すると、アブ、異常に、ユーズ、用いる、すなわち、性的に異常な用い方をすることが、問題となるのです。神のかたちである人を異常に扱うから虐待となるわけですが、ともかく、このソドムの連中のように、性的に異常なことは「アビューズ」であり、これは、人が何と言おうと、どんなに美化しようと、神さまの視点、聖書の視点から見るとそうなります。  私たちが普段、当たり前のように接している、映画やテレビ番組や音楽、小説のような文学、演劇、雑誌やインターネット、これらのものには、性的に堕落した文化が詰め込まれていて、あたかも、性的に堕落することは仕方ないとか、格好いいとか、そういうように喧伝します。私たちクリスチャンはそのようなこの世の毒に慣らされてはいないでしょうか? この創世記19章、合わせて38節分の短い箇所の中に、いろいろな立場の人物が登場しますが、私たちはだれに似ていますでしょうか? よもや私たちは、このソドムの連中のような存在に与(くみ)する者となってはいないでしょうか?  私たちは、私たちのうちに形づくられている神のかたちを、アビューズしてはなりませんし、神のかたちをアビューズするこの世の文化を格好いいとか、しかたないなどと考えては決してなりません。もし、そう考えていたならば、私たちはすぐにでも悔い改める必要があります。それを格好いいなどと考えるならば、神のみこころにかなって物事を考え、判断すべき私たちの霊、また頭脳を、それこそ「アビューズ」していることになります。  しかし、「アビューズ」という点では、ロトも同じだったようです。ロトは、自分の処女の娘たちを差し出そうとしました。そうまでして、御使いたちを彼らの魔の手から守ろうとでも思ったのでしょうか。しかし、これはとんでもないことです。あまりに人間的で、罪深い解決策というものです。 結局、11節にあるとおり、御使いたちはソドムの連中に目つぶしを食らわせ、ロトの一家を守りました。御使いが人間どもによって何か悪いことをされることなど、ありえないことでした。このことは、主がそのご主権によって敵をさばかれるのであって、それに対して人間が何か愚策を弄するべきではないことを示しています。   ロトのこの、いざというときにめちゃくちゃな判断をする性質は、おそらく、一族にも伝わっていたのでしょう。14節にはロトの婿たちが登場します。この婿たちは、ロトとひとつ屋根の下で暮らしている娘たちの「いいなずけ」と解釈するのが、いちばんしっくりきます。実際、口語訳聖書ですとか、尾山令仁先生の訳された現代訳聖書ですとか、いくつかの聖書の訳を見てみますと、この「婿」は、この時点ではまだロトの娘と結婚していない立場として訳されていますし、原典のヘブライ語からもそのように訳すことが可能です。 ともかく、ロトはこの未来の花婿たちを説得しようとしました。しかし、彼らはこのさばきの知らせを本気にしませんでした。悪い冗談、とありますが、別の訳では「たわごと」などと訳しています。このことは、ロトが普段、一族に対していかなる霊的リーダーシップを発揮していたかを、如実に示してはいないでしょうか? いざというときの真剣な話でさえ、信じてもらえないという。結局、彼らは本気にしなかったことにより、天からの火によって焼き滅ぼされてしまいました。   さて、ロトが婿たちを訪ねたのは、12節にあるとおりの、御使いの警告があったからでした。「あなたの婿や、あなたの息子、娘、またこの町にいる身内の者をみな連れ出しなさい」とあります。しかし、ロトが声をかけたのは、19章全体を読んでも、婿たちだけのようです。 それなら、ロトには息子、娘がいるのに、声をかけなかったのでしょうか? それとも御使いたちは、全能の主の知恵が与えられているはずなのに、ロトに息子や、家の外に暮らす娘、あるいは一族はいないことを知らなかったのでしょうか?   これは、この聖書箇所の前後関係から考えると、ロトには息子や、一緒に暮らしていない娘はいなかったと考えるべきです。声をかけているのは婿たちだけだからです。それでも御使いたちがそのようにロトを促したのは、これは、ロトひとりの問題ではなく、後世になってこのみことばを読むすべての人、ひいては私たちに対する警告のためではないでしょうか?  コリント人への手紙第一10章11節には、旧約聖書の記述は何のためにあるのかということが書かれています。このように語られています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」  私たちは、創世記19章のこの記述からどのような教訓をいただくのでしょうか? 息子や娘、婿のような身内の者がいるかぎり、この世の終わり、崩壊を警告する使命が与えられている、ということにならないでしょうか? 私たちは、愛する家族を救うのです。そのために、語るべきことを語るのです。 もちろん、その警告をどう受けとるかの責任は、最終的に彼らが負うことになりますが、それでも私たちには最低限、彼らを説得する責任があります。もちろん私たちには、それを冗談と取られないような、説得の知恵も必要ですし、何よりも、そのリーダーシップに信頼してもらえるだけの信頼関係が必要です。ロトのように、冗談としかとられなかったら、それこそ終わりです。  結局、婿たちの説得に失敗したロトは、それでもぐずぐずしていました。しかし彼は、御使いたちにせき立てられ、ついには妻、そして二人の娘とともに、手をつかまれて連れ出されます。これは、主のあわれみによることであると、16節のみことばは語ります。   私たちはこの世に滅亡が訪れることを、本気で信じているでしょうか。残念ながら、私たちはまだ、この世界というものを買いかぶっています。まだ、この世界がよいものであるかのように思っています。しかしはっきり申しますと、これほど堕落した世界をまだ神さまが滅ぼさないでいてくださっていることは、神さまのあわれみ以外の何ものでもありません。 私たちは、聖書全体に記された神さまの怒りというものに目を留めるならば、どれほどこの怒りからかくまってほしいと思うことでしょうか。イエスさまの十字架に逃げ込まなければと思うことでしょうか。   しかし、この世界に注がれる怒りから人が救われるのは、ひとえに神さまのあわれみによることです。私たちの努力以前の問題です。神さまはみこころのままに人を救い、人を用いられます。私たちも人の救いのために用いられることを願い、祈って行動しますが、その結果だれかが救われたならば、それは私たちの努力の結果以前に、神さまがその人をあわれんでくださったからです。私たちは自分の行いを誇るのではなく、神さまのあわれみに感謝すべきです。  実際、私たちにしても、そのような神さまのあわれみによって救っていただいた存在です。しかし、救っていただいたならば、あとは何をしても許されるのではありません。いのち拾いをさせてくださった神さまのおっしゃることに従うべきです。ロトの話に戻りましょう。このとき御使いは、ひとつのことをロトに命じられました。17節です。  滅びというものは、私たちが考える以上に壮絶なものです。しかし、この世というものの持つ魔力は、なんとわれわれのことを惹きつけてやまないことでしょうか。私たちは世界が滅びに定められていると知るかぎり、そこから全力で逃げ出すべきなのに、まだこの世に未練を持ち、やり残したことにうじうじと拘泥するのです。 結局、ロトの妻はみことばを守らず、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。そんなにとどまりたければ、そこに永久にとどまるがいい、柱にして永久に立たせてやるから……そのような主のさばきが下ったかのようです。私たちがもし、天国よりもこの世を愛するならば、このようなさばきが下されてもなにも文句が言えないことになります。   一方、ロトは別の意味で不信仰でした。御使いははっきり、山に逃げなさい、と言っています。御使いがそう言った以上、どんなに天からの火が迫ってきていても、全力で逃げるならば逃げられるのです。要は、ありったけの力を込めて逃げることです。自分を救うために死力を尽くすのです。しかしロトは、私たちはきっと山にまで逃げることはできませんから、あそこにある小さな町に逃げさせてください、と御使いに楯突きました。   しかし御使いはそのことばを聞き入れ、ロトがその町、ツォアルに逃げるまで、さばきの手を下すことはしませんでした。これも主のあわれみによることです。しかし、ロトはそうなるまで、二重の間違いを犯しています。まずロトは、主のみこころを信じず、主のおっしゃるとおりにするならば滅びる、と言っています。これは不信仰です。 そればかりではなく、自分の考えに従って、別の提案をしています。小さな町に逃げさせてください、と。これは、神さまのみこころよりも自分の考えを優先させる、不従順です。不信仰と不従順、ロトはそういう2つの罪を犯したのです。しかし神さまは、そんなロトの言うことを聞いてくださり、ロトのことを救われたのでした。   神さまが救ってくださったのは、なぜだったのでしょうか。29節のみことばをお読みしましょう。……それは、神さまと契約を結んだアブラハムのゆえでした。   先週のメッセージでも少し触れましたが、ペテロの手紙第二2章7節のみことばは、以上見てきたとおり、これほど信仰的におかしかったロトのことを、それでも「義人」と呼んでいます。その根拠として、ソドムの連中の振る舞いに心を日々痛めていたことを続く8節で挙げていますが、彼がそのような良心を持てるほどの義人だったのは、ひとえに、アブラハムのとりなしの祈りがあったからです。神さまはアブラハムのその義に目を留めてくださり、ロトをこの滅びの中から救い出してくださったのでした。   だが、そのようにして滅びから救っていただいたロトは、きわめて不道徳なことを行いました。娘たちが自分たちの子孫を残そうと、こともあろうに父親であるロトと性行為をして、妊娠しました。それはロトにしてみれば、お酒に酔った上でのことであり、ロトは自分が何をしたか全くわからなかったとみことばは語りますが、だからといって、彼がしたことは免責されるものではありません。立派な罪です。酒の上でとばかりにセクハラやパワハラを働くおじさんがいますが、それが許されることではないのと同じです。   ロトが娘たちにはらませた子どもは、モアブ人とアンモン人の先祖となりました。この両民族は旧約聖書を読めばわかるとおり、イスラエル民族に激しく敵対する存在となりました。どれほど敵対したか、それは、申命記23章3節から6節に書かれているとおりで、彼らの祝福を祈らないことは主の命令ですらありました。   しかし、このような中にも、主のあわれみは注がれました。モアブ人の女性、ルツは、マフロンというイスラエル人に嫁いだことから主の会衆につながる道が開かれ、のちにイスラエル人のボアズと再婚したことで大きな祝福を得て、その子孫にダビデ王が生まれました。そのダビデの子ソロモンのあとを継いだ王レハブアムは母親がアンモン人のナアマという人であり、つまりソロモンはアンモン人の女性との間にあとつぎをもうけたことになります。   すると、どういうことになるでしょうか? ダビデ王家はモアブ人とアンモン人双方の血が流れていることになります。このダビデ王家のすえにおられる方はどなたでしょうか? イエスさまです! ということはイエスさまの先祖は、モアブ人でもあり、アンモン人でもあるのです。   全能の神さまの御前に、宿命ということはありません。神さまはみこころのままに人をお救いになり、人を立てられます。こんな血筋に生まれたから絶望するしかない、ということは、主にあってあり得ないことです。…

とりなし手となろう

聖書箇所;創世記18:16~33 メッセージ題目;とりなし手となろう 先日、東京を中心に「路傍伝道」、道行く人々に福音を伝える働きをなさっている、菅野直基先生という方とお話しする機会がありました。路傍伝道を展開される際の苦労話などいろいろお伺いしましたが、中でも面白い、というか、クリスチャン生活全般において実に示唆に富むできごとについても分かち合ってくださいました。 それは、とりなしの祈りの持つ力についてです。それは原宿の竹下通りで伝道していらっしゃったときのことだそうですが、道行く人々にチラシを配ろうとしてもなかなか受け取ってくれない。ちょっと、霊的な妨げのようなものを感じたのだそうです。 すると、その伝道チームのうちの何人かが、とりなしの祈りをすることを買って出て、祈りはじめました。すると、不思議なように、するするとチラシを配ることができるようになったそうです。このことについて菅野先生は、イスラエルとアマレクとの戦いにおいて、とりなしの祈りをささげるモーセの天に挙げた手を両側から支えた、アロンとフルのようだったとおっしゃいました。 今日は、とりなしの祈りについて学びます。本日の箇所のアブラハムの姿から、私たちもとりなして祈る者となるために何を学ぶべきか、ともに見てまいりたいと思います。 先週学びましたとおり、神さまと御使いたちの一行が、アブラハムのもとを訪ねてきました。そのとき、サラの不信仰が取り扱われたというのが、先週学んだ内容です。今週の箇所は、それに引きつづく箇所で、主はアブラハムに語っておられます。これもまた、主がアブラハムのもとを訪ねてこられた目的でもありました。 16節です。……主はソドムを見下ろしておられました。神さまが来られた目的は、ソドムに対するさばきにありました。このことについてはあとで詳しくお話しするとして、17節以下の主のみことばをまず見ておきたいと思います。 17節のみことばです。……主はすべてを超えて存在される、大いなるお方です。まことに、主のみこころは計り知れません。だからこそこのお方は、神さまであると言うことができるでしょう。しかし、このお方はときに、みこころにかなう人に対し、その隠されたみこころをお示しになることがあります。 このとき、主がアブラハムを選び、そのみこころをお示しになったこともそうでした。アブラハムが主のみこころを知ることができたのも、まさしく、主の一方的なあわれみのゆえでした。 私たちも、神さまの隠されたみこころを受け取ることができます。それは、聖書に余すところなく示されています。ただし、私たちがみこころを受け取るには、この聖書が誤りなき神のみことばであると受け入れていることが条件になります。 まさしく、アブラハムが目の前におられる方のお声を主のみことばと受け取れたように、私たちも、この聖書のことばを神のことばとして受け取ることです。主は、大いなるみこころを、私たちに示してくださいます。 それでは主は、何をアブラハムに隠さないで示してくださったのでしょうか? それはソドムとゴモラに対するさばきですが、その前提として、神さまがどれほど、アブラハムを特別な存在として選んでおられたか、そのみこころが描写されたみことばが登場します。それが、17節から19節のみことばです。 18節をご覧ください。主はアブラハムとその子孫を祝福されることを宣言されました。この宣言は、すでに、創世記12章、13章、15章、17章で語られ、聖書に記録されているだけでも5度目になります。主がこの年老いたアブラハムから祝福の子孫を生まれさせてくださるということを、これでもか、これでもか、と語ってくださったのでした。 私の神学生時代、弟子訓練という形で私の霊的ケアをいっしょうけんめいしてくださった牧師先生、ホン・ジョンギ先生という方は、よくおっしゃっていました。神さまとアブラハムとの関係について、それはアブラハムが神さまに「説得される」プロセスだった。とても印象に残るおことばでした。 アブラハムは信仰の父として選ばれましたが、何かの折に人間的な不信仰が現れてしまうものでした。しかしそのようなアブラハムのことを神さまは決してあきらめることはなさらず、これでもか、これでもか、と説得してくださり、そのようにしてアブラハムは、信仰の父としての成長を遂げることができたのでした。 私たちの歩みもそうです。私たちも信仰によって歩むことが必要であると知っていても、なんと人間的、肉的になってしまうものでしょうか。しかし、神さまはそんな私たちのことを諦めることはなさいません。何度でも、何度でも、私たちをみことばによって説得してくださり、信仰者としての道に戻してくださいます。 私たちもこの主の恵みに感謝こそすれ、甘えることはせずに、主の御声をお聞きする歩み、信仰者としてつくりかえられる歩みをとどめないでまいりたいと思います。 もう少し、アブラハムへの祝福の内容を具体的に見てみましょう。18節にあるとおり、アブラハムは強く大いなる国民となります。しかしそれは、自分たちだけが祝福されて、あとは祝福されない、という意味ではありません。「地のすべての国民は彼によって祝福される」とあります。 祝福をもたらす権威が与えられている、ということは、大いなることです。もし、その人が祝福を祈ったら、その祈られた対象は祝福されるのです。その存在に対して神さまがみこころを注がれるのです。実に、神の人の祈りには、絶大な力があります。このことについては、あとの箇所で大事な意味を持つようになりますので、まずは覚えておいていただければと思います。 しかし、神さまがひとたび選ばれたならば「自動的に」祝福され、地上に祝福をもたらす存在になるかといえば、それはちがいます。19節をご覧ください。神さまがアブラハムを召し出された理由が書かれています。……まず、アブラハムがその子どもたちとのちの家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるため、とあります。 正義と公正。これが主のみこころです。しかし、これは神の民としてひとたび選ばれたならば、自動的に実践できるものではありません。そうと意識して守り行なうことが必要になります。それは、一歩間違えると、まったく正反対のこと、罪を行うようになってしまうからです。 イザヤ書5章7節を見てください。実は、「公正」と「流血」、「正義」と「悲鳴」は、表裏一体ともいえるものです。ヘブライ語で「公正」は「ミシュパート」に対して「流血」は「ミスパーハ」、そして「正義」は「ツェダーカー」に対して「悲鳴」は「ツェアーカー」、もちろんこの両者は、ヘブライ語の文字で書いてもよく似ています。 「公正」や「正義」は、神の民だからと自動的に備えることができるものではなく、むしろ、神の民であるぶん、より責任をもって「公正」や「正義」を行うべく主のみことばを積極的に守りなさい、と警告されているわけです。 そのようにして、正義と公正を行うことによって主のみことばを守ることは、どのような結果をもたらすでしょうか? 主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就する、とあります。 まことに、信仰とは、みことばを守り行なうことによって完成されるものです。間違ってはなりませんが、行いを積み重ねて救われるのではなく、救われるのはあくまで、信仰によることです。しかし、ひとたび信仰によって救われたならば、その信仰による救いのあまりの素晴らしさに、みことばを行わずにはいられない……信仰は、行いという形で生活に実が結ばれてしかるべきです。このあたりのことは、あとでおうちにお帰りになって、ヤコブの手紙をお読みいただきたいと思います。 さて、20節にまいりましょう。ここで主が、アブラハムに隠さないで伝えようとされたみこころが登場します。そうです、このソドムとゴモラの悪は、主のみもとにまで立ち上っていました。この町を滅ぼすべきか見てみるつもりだ、という、神さまのみこころを、主はアブラハムにお示しになりました。 神さまはときに、滅びをもたらすお方である……しかし、こういう聖書箇所を読むと、必ずこんな反応をする人がいるものです。残酷だ! 人を滅ぼすなんて、そんな神さまは残酷だ! そんな神さまなど信じるものか! しかし、それなら、そういう方々に問いたいのです。悪を放置することが神さまの愛なのでしょうか? 悪が放置されているならいるで、問題にはならないでしょうか? なぜこの世界にはこんなにも悪があふれているのか! 神はいるのか! そういうことにならないでしょうか? 聖書は、そのような悪の中にいる者たちに対して、神さまは速やかにさばきを行われるお方であると語っています。私たちが信じるべきは、このさばき主なる神さまです。恐れるべきお方です。私たちも本来、神さまのさばきを受けるに値する罪人であったことを覚える必要があります。 しかし、このみこころが示されるや、アブラハムは神さまの前に立ちはだかりました。23節です。 もし、悪い者がその悪さのゆえに滅ぼされるならば、ある意味、彼らは自分のその悪の責任を取らされたということであり、しかたのないことでしょう。しかし、その中に正しい人、すなわち、神さまのみこころにかなった人がいて、その者たちまで彼らの巻き添えになるとしたらどうでしょうか。あってはならないことです。それこそ、神さまご自身の正義と公正はどこにあることになるのでしょうか。 アブラハムは、神さまが正義と公正のお方であることに訴えました。正しい人が50人いれば滅ぼさないでください! すると、神さまはこの訴えを聞いてくださいました。26節です。その人たちのゆえに、その町のすべてを赦そう。 むかし読んだ本、それは聖書に関するキリスト教書籍というよりも、一般の世界史の謎のような本でしたが、神さまが悪に満ちたソドムとゴモラを天の火をもって焼き滅ぼされたという記事の中に、このようなことが書かれていました。「現代だったら、何度でも焼き滅ぼされているのではないだろうか。」 みなさま、そう思いませんか? このところ妻と私は、世界にどれほど悪がはびこっているか、そのようなニュースばかりに接して、暗澹たる気分になっています。今にも神さまは、こんな悪い世界など、滅ぼし尽くすのではないかと思えてならなくなります。しかし、神さまはまだあわれみをもって、この世界を滅ぼさないでいらっしゃいます。それは、神さまの御目から見て正しい人の数が、まだこの地に満ちているからではないでしょうか? イエスさまは、あなたがたは地の塩です、とおっしゃいました。地の塩とは、この世を腐敗から救う防腐剤としての役割をする存在です。食べ物が腐らないように塩するには、たくさんの塩を使う必要はありません。少しでも充分に腐らなくなります。それと同じで、私たちクリスチャンは少ないように思えるかもしれませんが、それでも私たちが塩としての役割を果たすことによって、この世界は腐敗から免れます。まさに、ソドムに50人の義人がいれば、彼らに免じて主はすべてをお赦しになるのです。わずかの義人の存在は、どれほど大事なものでしょうか。 しかし、もしかすると義人は50人もいないかもしれない。そうなったら、神さまは滅ぼされよう。しかし、それであきらめるアブラハムではありませんでした。まず27節です。 まず、祈る者にとっては、この認識が必要です。アブラハムは信仰の父として選ばれていますが、神さまの御目にはちりや灰にすぎません。神さまに何か申し上げられるような立場になどありません。そのことを悟ることが、主の御前に出る上での第一条件です。自分はひとかどの人間のように思う態度では、主の御前に出る資格はありません。 アブラハムは、ちりや灰であると告白しました。自分がそのような存在であると、心底知っていました。しかし、ソドムとゴモラを主の怒りの日から救えるかどうかは、自分の祈りにかかっていることも知っていました。さきほども学びましたとおり、地のすべての国民がアブラハムによって祝福されることがみこころである以上、彼はソドムとゴモラの祝福を祈らなければならなかったのでした。 しかし、神さまが受け入れられた条件は、義人50人でした。この条件に不足するということは、すなわち、神さまがお赦しになる条件を満たしていない、ということを意味します。アブラハムは、その条件にやや不足して、義人が45人ならば、それでもあなたさまは滅ぼされるのですか、と、神さまに食い下がりました。 神さまはアブラハムの祈りを聞かれました。滅ぼしはしない。 しかし、アブラハムはそれであきらめることはしませんでした。40人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめませんでした。お怒りにならないでください。30人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめません。あえて申し上げます。20人なら? 滅ぼしはしない。 あのソドムとゴモラに、義人がたった20人。悪が圧倒している状態です。その悪は依然として、主のみもとに立ち上ることでしょう。しかし主は忍耐して、その20人のゆえに町を赦すと約束してくださいました。しかしそれでも、アブラハムはあきらめませんでした。32節です。 しかし、これで主はアブラハムのもとを去って行かれました。アブラハムも帰りました。これが主のみこころだったので、受け入れるばかりでした。 もちろん、これほどまでにアブラハムが祈りつづけたのは、愛する甥のロトの存在を思ってゆえでした。彼には助かってもらわなくては! 天から炎が下ってはおしまいだ! しかし結果として、ソドムとゴモラには天から火が下りました。そうです。義人は10人もいなかったのです。ロトの家族しかいませんでした。ロト自身、ロトの妻、ロトの2人の娘、その夫たち……合わせて6人。逃げなさい! 主の命令が下りました。しかし、ロトの婿たちはソドムの滅亡を冗談ととらえて信じようとせず、結局、御使いに連れ出されるしかなくなり、連れ出されたのは、ロトの妻と娘たちだけ、しかも、ロトの妻は主のみことばを守らず、死んでしまいました。その娘たちもあとになって、極めて不道徳な形で子どもをもうけるということをしており、その子孫はイスラエルに敵対する民族となりました。ほんとうの意味で正しいだったのは、第二ペテロ2章の語るとおり、ロトでした。 アブラハムは、ロトに助かってもらいたい一心で、とにかくとりなしの祈りをささげました。50人なら! 45人なら! 40人なら! 30人なら! 20人なら! 10人なら! 実に6度も食い下がりました。 みなさま、こんな悪い世界など滅ぼされるのがみこころだ、自分たちはどうせ、この悪い世界から救われて天国に行くのだから関係ない、などとお考えではないでしょうか? それは絶対に主の願っておられる態度ではありません。私たちは世界を祝福する立場にあります。とりなして祈る立場にあります。 残念なことに、私たちの生きて暮らしている世界は、とても悪いです。どれほど多くの人が、神さまのみこころを損ない、その道を乱していることでしょうか。しかし私たちは、この世界にやがて主がもたらすと警告された火のさばきを、ただ待っているだけでいてはなりません。とりなして祈る必要があります。神は愛です、とみことばが語るとおりの、その神さまの愛によりすがって、どうかこの世界を滅ぼさないでください、この世界から正しい人を救い出してください、と、祈るのです。 神は愛、ということは、私さえ愛されればそれでいい、ということでは、絶対にありません。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 これがみこころです。間違ってはいけません。神は愛なのです。しかし主は、やがてこの世界を火をもって滅ぼすときのことを、みことばにおいて警告されています。その日に、義人として主の御前に立つべき人が滅ぼされてはなりません。 私たちは、愛する人のために祈っていますでしょうか? ちょっと祈っても救われないからと、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることをやめていないでしょうか? あるいは、この世界がよくなるように祈っても、少しもよくならないから、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることを諦めてはいないでしょうか? それは、地に祝福をもたらす責任を放棄していることです。いざとなればロトのことを特別に滅びから救い出された主は、この世の終わりの滅びからも、私たちの愛する人たちを救い出してくださいます。私たちはそう信じているならば、粘り強く、祈ってまいりたいものす。それが、信仰によって生きる、祝福の源としての私たちの生きる道です。…

不信仰は取り扱われる

聖書箇所;創世記18:1~15/メッセージ題目;不信仰は取り扱われる  何度かメッセージの時間にお話ししている、ダウン症のあっこちゃんのことをお話しします。彼女はとても喜んでバイブルキャンプから帰って来ましたが、そのことは、教会に深入りすることを望まないお母さんをうろたえさせ、それを見て取ったあっこちゃんは、あれだけ恵まれたキャンプを境に、ぱったり教会に来なくなりました。  そんなあっこちゃんを心配して、日曜学校の先生があっこちゃんに電話をしました。するとあっこちゃんは、こんなことを言ったというのです。……このあいだ、イエスさまが私のお部屋にやって来たの。どんな恰好かっていうと、立派な格好じゃなくて、パジャマを着ていたの。行くところがないから、あたしの部屋にやって来たんだって!  先生はそれを聞いて感動されたそうです。私はその話を日曜学校の先生にお伺いして、ああ、よかったなあ、と思ったものでした。あの純粋な信仰を持ったあっこちゃんには、イエスさまのお気持ちがよくわかるのだろうなあ、とも思いました。  もし仮に、イエスさまが私たちの家にやってきたら、私たちならどのように接するでしょうか? ちゃんとお迎えして、おもてなしするでしょうか? それとも、イエスさまだとわからなくて、面倒をかけないでよ、と、追い出してしまうでしょうか? ちゃんとお迎えできる、子どものような信仰を保っていますでしょうか?  さあ、今日の箇所は、アブラハムが神さまをお迎えし、おもてなししたというお話です。神さま、そしてその使いが人の姿を取ってこの世界に臨んだという記述は、創世記18章と19章に登場しています。18章はアブラハムの一行のいるマムレの樫の木の場所、19章はロトのいるソドムでのお話で、とても対照的です。今日は18章の、アブラハムが神さまとその使いの、3人のお客さんを迎えた場面から学びます。  主とその使いは、人の姿を取って、アブラハムのとどまっていた天幕の前までやってきました。アブラハムはこのお方がどなたなのか、たちどころに分かりました。アブラハムは急いで走っていって、この一行をお迎えしました。  神さまはご自身の時に従って、私たちのうちに臨まれます。このときもアブラハムは、神さまが臨まれるというご予定を知らずにいました。しかし現れたのが神さまだと知るや否や、すぐに走っていきました、 先月学びました、ヨハネの福音書11章のみことばでは、イエスさまが神の時、神さまのタイムスケジュールに従って歩まれたことを学びました。神さまの時は、しばしば人の予測するときとは異なるものです。また、神さまは思いがけない時に臨まれます。 このときのアブラハムもそうでした。お客さんを迎えに走っていく、これは普通、アブラハムの生きた中東の習慣にはないことです。しかしアブラハムは神さまの御前だからと、なりふり構わず駆けよっていきました。神の箱の前で恥も外聞も捨てて踊り跳ね回ったダビデ、イエスさまに再会したけれども裸だったのでうれしはずかし、服をまとって湖に飛び込んで泳いでいったペテロのようです。まさにイエスさまのおっしゃる、子どものように神の国を受け入れる人! アブラハムは年長の男性としての威厳も捨てて、子どものようにこの一行に駆け寄り、まず、ひれ伏して礼をしました。そして、足を洗うための水を用意しました。まさしく、おもてなしです。そして、「食べ物を少し持って参ります」と言っていますが、約23リットルとたっぷりの小麦粉でパン菓子をつくらせ、柔らかくておいしそうな子牛を料理させました。この野にある天幕生活にあって、最高のおもてなしです。 アブラハムは、神さまと契約を結んでいただき、永遠のいのちに生かされ、また、のちの子孫、すなわち、アブラハムのように信仰をもって主を受け入れる人たちもまた永遠のいのちに生かしていただくという約束を神さまからいただきました。アブラハムはどれほど、神さまに感謝していることでしょうか。その感謝の表現が、こうして、ささげ物をもってするもてなしへと実を結んだのです。 そしてアブラハムは、自分も食卓にあずかったわけではありません。給仕をしています。先週学びましたラザロの三きょうだいの箇所でも、マルタはイエスさまをはじめ、お客さんたちに給仕をすることによって、主を礼拝する表現をしています。アブラハムのこの箇所でも、奉仕とは信仰の表現、礼拝の表現であることがわかります。 子どものように神の国を受け入れる、と申しました。しかし、子どもっぽい、つまり分別がない、しつけられていない子どものような状態では困ります。そういう幼稚な状態では、仕えることよりも仕えられることを求めるようになります。それではいつまでたっても、神の子どもとしての成長を期待することはできません。 「子どもっぽい」と「子どもらしい」はちがいます。アブラハムの場合は「子どもらしい」です。全能の神さまがみわざをなしてくださると語られたら、そのとおりに素直に信じる。神さまの御前に出るときには、後先のことを考えないで、持てるかぎり最高のものをおささげする。こういうことが大人になると、できなくなる人がなんと多いことでしょう。 私たちは子どもの信仰、素直に神の国を受け入れる信仰を保たせていただきたいものです。神の国……信仰によってイエスさまを受け入れた者たちを、主ご自身が統べ治めてくださる御国、それは私たちのただ中に実現させてくださるもので、神の国を実現させていただくには、なによりも、私たちが子どものようになることです。 神さまはこのように、アブラハムに対し、幾たびかの訓練をとおして純粋な信仰をくださいました。特に、この年老いた身から男の子を生まれさせ、その子孫が星の数のように増やされるという約束を受け入れるとは、どれほど純粋な信仰へときよめられたことでしょうか。しかし、アブラハムがこの信仰を持つことができたように、私たちもこの信仰を持たせていただくことができるのです。それこそ、信仰を働かせてまいりましょう。 しかし、アブラハムのこの信仰が完成させられるために、その信仰が取り扱われなければならない人がいました。それはサラです。 神さまははっきりと、90歳になるサラから男の子が生まれ、その男の子から子孫が増え広がることを約束されました。しかし、このことをアブラハムは信じ受け入れましたが、サラの場合は、それを信じ受け入れるためには、神さまが直接介入してくださることを必要としていました。 私は男なので感覚的にわからないことばかりですが、女性にとっての生理というものは、いわく表現しがたい感覚になるものと聞いております。しかし、女性の方が月に1回の生理を迎えるなら、そのなんともいえない苦痛とともに、血を流されることによって、女性とはいのちを生み出す存在であることをとても実感されるのではないかと想像します。まさに聖書の語るとおり、血はいのち、それが如実に実感できるように、神さまは女性という存在に生理というものを許されたのかもしれません。 サラは、生理が止まって久しくなっていました。90歳にもなるのだから当たり前です。ただでさえもともと、サラは子どもを産めないまま生きてきました。しかも生理まで止まって、90歳にまでなってしまいました。神さまから何と言われようとも、サラの絶望はリアルです。なんと言っていますでしょうか? 12節です。   ……私も老いぼれた、主人も老いぼれた、私にはもはや、子どもをもうける楽しみなんてあるわけないでしょう、ご冗談はおよしください……。サラは、おのが身の悲しさに、心の中で薄笑いを浮かべました。  この笑いは、それまでの人生において子どもを与えてくださらなかった、神さまへの怒り、抗議、また、絶望も多分に含んでいると言えましょう。この時代は、子どもが与えられないということは、その人は祝福されていないと世間に思われていました。アブラハムもサラも子どもを欲しがり、召し使いのハガルによって子どもを産ませるということをしたくらいです。しかし、しょせんその子どもはサラが直接はらんで産んだ子どもではありません。ハガルの存在はサラにとってとても疎ましいものとなってしまう、という悲しい結果を生みました。  神さま、あなたは私にこの齢になるまで、子どもを与えてくださらなかったじゃないですか。子どもを産む? 今さら何をおっしゃるのですか。冗談ではありませんよ。もう、怒る気も起きませんわ。サラのそんな深い悲しみも見えてくるようです。  しかし、アブラハムが信仰の父であるかぎり、サラは信仰の子どもたちを数限りなく産む、いわば「母親」です。彼女の不信仰は神さまの御手に取り扱われる必要がありました。13節、14節をお読みしましょう。  まず13節です。主はサラの感情をお見通しでした。主は、サラの不信仰を問題にされました。しかし、よくご覧ください。すぐそばにサラが立ってはいましたが、この厳しい質問を投げかけられた相手は、アブラハムです。  つまり、サラの信仰が確立するか否かは、アブラハムの信仰にかかっていて、さらには、その信仰をもとに、どれほど普段からアブラハムがサラを教えていたかにかかっているということです。  もともと、サラが子どもを産むというお告げを受けたのはアブラハムです。それならばアブラハムは、普段からサラに対し、あなたは男の子を産む、信じなさい、と教えるべきでした。しかし、このように主が現れて直接語られる、という、千載一遇のチャンスに、みじめにもサラは、不信仰の姿をさらしてしまいました。それはアブラハムの責任でもありました。 12節でサラはアブラハムを、「主人」と呼んでいます。この呼び名は重要です。これは第一ペテロ3章6節にある、サラがアブラハムを「主」と呼んで従った、という記述の重要な根拠になります。しかし、責任が重いのは、従う側のサラではなく、従わせる側のアブラハムです。いざというときに不信仰の態度を示してしまったサラの責任を、神さまはアブラハムに問うていらっしゃいます。  では、なぜ、サラは信じなければならなかったのでしょうか。笑ってはならなかったのでしょうか。それは14節に記されているとおりです。  まず、主にとって不可能なことがあるだろうか、いや、ない。主は全能だからです。生理が止まったすでにおばあちゃんになって久しいサラからでも男の子を生まれさせてくださり、その子から子孫を星の数のように生まれさせてくださることなど、全能なる神さまには当然おできになることです。  しかし、この全能のみわざは、神さまの時に従って行われることです。「来年の今ごろ、定めた時に」とあります。神さまがみこころによって、みわざを行われる時を定められます。サラにとってその「時」とは、90歳のおばあちゃんになったときだった、というわけです。このことにより神さまは、ご自身が全能の神さまであることをお示しになられるというわけです。  人が思い描く時というものと、神さまが計画しておられる時というものは、しばしば異なるものです。イエスさまがラザロのもとをお訪ねになるのも神さまの時に従われた結果で、そのことによって、ラザロは死んだがイエスさまによって生き返らされ、イエスさまが全能の神さまであることが示され、主のご栄光が顕された、というわけです。  私たちにしても、自分の思い描いていることが実現しないでやきもきすることもあるでしょう。しかし、私たちは忘れてはなりません。つねに実現するのは、神さまの時です。そして、それが最善なのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とあるとおりです。  だから私たちは、神さまが時にかなって実現してくださるみこころを信じ、握りしめているものを手離す決断もときに必要です。私たちが何らかの計画を立てることもたしかに大事ですが、それ以上に大事なのは、ヤコブの手紙4章15節にあるとおり、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と、私たちの生活のすべての領域において、その時に従ってみわざを行われる主のご主権におゆだねすることです。  さて、サラは、このように何もかもお見通しの主のおことばに、怖ろしくなりました。サラは「私は笑っていません」と言いました。しかし、主は容赦されません。「いや、確かにあなたは笑った。」  サラの不信仰は、世間の常識で考えれば、思い描いて当然のことと思われるでしょう。おばあさんが出産するだなんて! しかし、主の御目には、これは罪なのです。主のおっしゃること、主のご計画を信じていないことは、どんな理由づけをしようと、罪は罪です。  さらにその上、サラは自分の不信仰が問われると、自分は否定的な反応、皮肉な反応をしなかったと、ごまかしました。しかし、主は容赦されません。あなたは確かに笑った、あなたが不信仰の罪を犯したことをきちんと認め、悔い改めなさい、と迫られます。  あなたは確かに笑った。このお取り扱いは、私たちにも向けられています。書店のキリスト教のコーナーをご覧ください。図書館のキリスト教のコーナーをご覧ください。テレビなどで放映されるキリスト教に関する番組をご覧ください。  それらのものは相当多くが、聖書の記述が現代の科学や常識と合わないからと、むりやり合理的な説明をしていたり、さらには、聖書の記述が間違いであるかのように語ったりしています。まさに、サラのごとく、神さまが全能であることを信じず、全能の神さまに対してうすら笑いを浮かべているのです。  世の中の人々は、そういうものがキリスト教だと思わされています。しかし、それはキリスト教を「標榜」しているだけで、アブラハムが持つ純粋な信仰、子どものような信仰からしたら、あまりに距離がありすぎるものです。私たちは、書店に並んでいるからとか、図書館に並んでいるからと、それらの信仰的ではない資料に権威を覚えたりする必要はありません。  しかし、このサラのうすら笑いは、この世界に生きる私たちもしばしば心にいだいてしまうものであることを、謙遜に認める必要があります。私たちは果たして、聖書と、テレビ番組と、どちらを信頼しますでしょうか? 聖書と、家族の言うことと、どちらを信頼しますでしょうか? 私たちがこの「世間」というものに囲まれているということは、それだけ、その「世間」で通用する「常識」というものが、私たちを純粋な聖書信仰から遠ざけてしまうものであるということを、私たちは認め、そこから守られるように祈る必要があります。  本日から始まる「いのちの道コース」は、アブラハムのように純粋な信仰を持つ上で、そして、サラのように神さまのみことばに対して皮肉な笑いを浮かべない、主に喜ばれるものとなるために、ぜひとも教会全体で共有してまいりたい学びです。しっかり取り組むことで、アブラハムの信仰を受け継ぐ、すなわち、主を信じることによって義と認められる、という、その信仰を受け継ぐ、主に喜ばれる者として整えられる体験をしてまいりたいのです。  もう一度問います。私たちの信仰は子どものようでしょうか? 子どもっぽい、ではなく、子どもらしい、です。この子どもらしい信仰により、私たちは心からささげる生き方、仕える生き方をしてまいります。神さまのみことばを疑わずに、笑わずに受け入れるようになります。もし、私たちのうちに不信仰があるなら、神さまのお取り扱いの御手にゆだね、純粋な信仰を持たせていただくように、ともに祈ってまいりたいものです。 純粋な信仰――その信仰が私たちのうちにともに育てられ、神さまに喜ばれる共同体となることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

三きょうだいに学ぶ礼拝

聖書箇所;ヨハネの福音書12:1~11/メッセージ題目;三きょうだいに学ぶ礼拝  もし、みなさんが、2000年前のパレスチナの、エルサレムにほど近い、ベタニアという町にいたとしましょう。その町には、三人で肩寄せ合って暮らしている、けなげなきょうだいがいました。ところがその家は、その中の男のきょうだい、ラザロが亡くなるという悲劇に見舞われました。 そのおうちでラザロのお葬式が執り行われ、人々はわんわん泣いている姉妹たちを慰めてあげたりしました。ところがそこに、この三きょうだいが慕ってやまない、イエスさまがやってきて、ラザロを生き返らせました。もちろん、このことは大変な話題となりました。ところがイエスさまは、このできごとのあとに、姿を消してしまいました。  さて、ユダヤの一大イベントの過越の祭りがあと6日に迫りました。そのとき、イエスさまは再び現れ、この三きょうだいのもとに来られました。たくさんの人が集まります。さあ、みなさんならここに来たいと思いませんか? あのよみがえったラザロに会えるのです! いえ、それ以上に、ラザロをよみがえらせたイエスさまに会えるのです! それもごはんつきです! 私なら行っちゃいます。  さあ、それでは、みなさまもこの復活パーティーの現場にいると思って、今日のみことばからともに恵みをいただいてまいりたいと思います。  このパーティーは、イエスさまをお迎えしてのパーティーです。シモンという人の家を借りて行われましたが、このホスト役は、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいです。この三きょうだいは、イエスさまへの礼拝という観点から見て、実に際立った模範を示しています。  まずはマルタから見てまいりましょう。マルタは、奉仕をもって主を礼拝しました。言い換えれば、マルタは彼女の「現在をささげました」。  2節のみことばをお読みしましょう。「人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」  ベタニアの人たちは、食事を用意することでイエスさまをもてなす奉仕をしました。しかしこの中で、ホスト役として腕を振るっていたのはマルタです。「マルタは給仕し」と、わざわざ書いてあるとおりです。  マルタにとって、仕えること、特に食事の奉仕をすることは、賜物とさえ言えるものでした。ルカの福音書10章で、イエスさまのご一行をこの三きょうだいの家がお迎えしたという場面が出てまいります。そのとき、マルタが忙しく立ち働いていたことが記録されています。ただ、忙しさにわれを忘れ、手伝ってくれない姉妹のマリアを叱ってやってくださいな、と、イエスさまに言いつけるようなことをしてしまって、かえってそのせいで、イエスさまに注意されています。  それでもマルタは、こうしてイエスさまをはじめ、やってくるお客さんたちをこうしておもてなししているのは、やはり奉仕というものが、マルタにとっての賜物だったからといえるでしょう。  賜物を用いて奉仕するということは、現在自分に与えられているものを用いて主を礼拝するということでもあります。礼拝とは、いまこうして、日曜日の午前10時半から1時間ほどの時間を用いて礼拝することだけを指しているのではありません。もちろん、この時間もとても大事な礼拝の時間ですが、ローマ人への手紙12章1節には、何と書いてありますでしょうか?「ですから、兄弟たち。私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」  からだをもって献げることがふさわしい礼拝……以前の訳の聖書では、この「ふさわしい礼拝」ということばを、「霊的な礼拝」と訳しています。それは、現在持てるものをことごとくささげる生き方をする、ということであり、それが聖徒としてふさわしいことであり、また霊的である、ということです。 マルタは、イエスさまやその一行、また、そのほかにやって来た人たちをもてなすという、いわば「労働」をしました。それは、体力があってこそ可能なことであり、マルタはいわば、今与えられている「健康」を主にささげたことになります。 また、やってきた人たちは彼女の近所の人、友達、知り合いであることを考えると、マルタは、彼らのことをイエスさまの御前に導くという点で、「人間関係」を主にささげてもいます。もちろん、自分で食べ物や飲み物も用意したでしょう。「財物」もささげています。 私たちが「奉仕」をしたり、「伝道」をしたり、「献金」をしたり、といったことは、そういう文脈で考えると、「ささげる」ことではありますが、この世で言うところの宗教行為と同じとは言えません。そうすることで私たちの霊的ステージを上げて、より天国に近づく、などと考えるのは大間違いです。 私たちはすでに、イエスさまとその十字架を信じる信仰によって、天国に入れていただいています。何かの努力や犠牲で天国に入ろうと思ったり、またそのように人に教えたりすることは、絶対にしてはなりません。 しかしそれでも、私たちはこの与えていただいた救いの恵み、天国の恵みに何か応えたくはならないでしょうか? 生活に行いの実が結ばれていくのです。 行いの実が結ばれていくプロセスで、私たちは、私たちに財物が与えられていることに感謝して、お金をささげる「献金」や、ものをささげる「献品」をするのです。救いを与えてくださった神さまを礼拝する喜びを伝えたくて、与えられている人間関係に感謝しつつ「伝道」をするのです。健康や技術が今自分に与えられていることを感謝し、その感謝の表現として「奉仕」をするのです。 すべては、現在の自分をもってささげる礼拝のあり方で、ローマ12章1節のみことばに従順にお従いする「表現」です。 そういうわけでマルタは、現在の自分をささげました。もちろんこれは、宗教行為などというレベルの話ではありません。きょうだいラザロを復活させてくださったイエスさまは、ご自身語ってくださったとおり、よみがえりであり、いのちであり、イエスさまを信じる者は死んでも生きる。生きていてイエスさまを信じる者は、決して死ぬことがない。……このイエスさまを前にして、マルタは正しい信仰を持たせていただいたわけです。 本来罪に死ぬはずだった私が生かしていただいた。永遠のいのちを与えていただいた。この信仰を持たせていただいたことに感謝して、マルタは自分の「現在」をおささげしたのです。 私たちの礼拝も、イエスさまによって罪赦されて神さまの子どもとなり、永遠のいのちを与えていただいたことに由来するものです。この時間にささげている礼拝も、献金も、奉仕も、伝道も、すべては永遠のいのちへの応答、感謝の表現です。私たちはこの永遠のいのちの恵みに感謝して、真剣に私たち自身をささげてまいりたいと思います。 次に、マリアを見てみましょう。マリアは彼女の、「未来をささげました」。 3節をご覧ください。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」 この短い記述をよく読むと、マリアがイエスさまに対して何をしたか、実にいろいろなことがわかってきます。 ナルドの香油、これは嫁入り道具です。とても高価なものです。一リトラ、これは欄外の脚注によれば328グラムであり、よく女性の方や男性の方が手にしておられる香水の瓶よりもよほど分量があります。並行箇所であるマルコの福音書14章によれば、この女性はこのナルド香油の壺を割ってイエスさまに注いだとあります。家は香油の香りでいっぱいになりました。 彼ら三きょうだいがイエスさまとそのご一行をもてなした場所は、さきほども申しました、シモンという人の家です。しかしこのシモンは、マルコの福音書によれば、当時差別されていた病気、ツァラアトの患者でした。そんな人の家であったことを考えると、この三きょうだいの経済状況は推して知るべしです。そんなマリアが嫁入り道具に取っておいたナルドの香油は、売れば300デナリにもなります。それは、1デナリが一日分の賃金に相当することを考えると、何百万円もする宝物です。 それは嫁入り道具、本来、花婿のために使われるべきものです。それを惜しげもなくイエスさまに注いだということは、私の花婿はイエスさまです、と、みなの前で告白した、ということです。家中に広がったナルド香油の芳香をかいだ満場のお客さんたちは、このマリアの犠牲を伴った信仰告白に、まことの花婿とはイエスさまであることを、弥が上にも実感したことでしょう。 ヨハネの黙示録に描かれていることですが、終わりの日には、子羊なるイエスさまと花嫁なる教会の結婚式が持たれます。教会は飾られた花嫁として、聖くされた姿をもって子羊なるキリストの前に出ていきます。先週、結婚式の話をしましたが、結婚式というものは、このキリストと教会の結婚式、窮極の結婚式を象徴していると言えます。 私たち教会はイエスさまというお方にふさわしくなるように、御霊によってきよめられ、整えられ、花嫁として御前に出ていくのです。まことに、私たちにとってのこの地上の歩みは、イエスさまの花嫁修業です。 マリアは、未来にだれかこの世界の男性のお嫁さんになることを諦めてでも、イエスさまの花嫁になることを選びました。なぜ、これだけの献身ができたのでしょうか? それは、愛する兄弟ラザロをよみがえらせてくださったイエスさまに対し、自分の未来を託す信仰を持つことができたからでした。 イエスさまはラザロをよみがえらせてくださったように、いずれこの地上でいのち果てる私のことも終わりの日によみがえらせてくださり、花嫁としてくださり、永遠にイエスさまともに生きる者としてくださる……その信仰をマリアは、自分の持てる最高のもの、嫁入り道具の香油をささげ尽くすことにより、はっきりと表明したのでした。 このことをイエスさまは、7節のみことばで、このように評価していらっしゃいます。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」 マリアは、イエスさまが兄弟ラザロをよみがえらされたことが宗教指導者たちを激怒させ、彼ら宗教指導者たちが、イエスさまを死刑にするために捜査をはじめたことを知っていました。もはやイエスさまに残された時間はわずか、自分もイエスさまに会える時間はわずかしかない……マリアは、そのわずかの時間に懸けたのでした。 礼拝とは、イエスさまの死と復活にあずかることです。本日の礼拝において「主の晩さん」が執り行われますが、「主の晩さん」はイエスさまの死にあずかることであり、私たちにとっては極めて大事なものです。これを守ることは、イエスさまの死と復活にあずかり永遠のいのちをいただいた私たちにとって、本来、欠かすべからざることです。 しかし、イスカリオテのユダはここで何と言っているでしょうか? 一見すると「正論」ともいえることを主張して、マリアを責めました。こんな高価なナルドの香油をむだにしたとは何事か、これを売れば貧しい人に施しができたではないか……。 しかし、これは一理あるように見えても、イエスさまの御目にはそうではありませんでした。貧しい人を助けることはいつでもできる、しかし、わたしの葬りの備えをすることは、このとき一回限りだ。そのままにさせておきなさい。 もちろんイエスさまは、貧しい人を助けるな、とおっしゃったのではありません。時と場合を見極めよ、とおっしゃったのです。よく言われることですが、ベストの最大の敵はベターです。貧しい人を助けるのは確かに素晴らしいことで、何もしないよりははるかにいいことにはちがいありません。しかし、それは「ベター」です。ほんとうの「ベスト」は、主の十字架と復活、再臨を忍んで、主に礼拝をおささげすることです。 私たちが主を礼拝することは、この世でクリスチャンとして善行を積み、証しを立てることに優先します。クリスチャンとしてのすべてのよい行いは、こうしてともにささげる礼拝から始まります。そこから、生活そのものを聖い生きた供え物としておささげする、生活をもってする礼拝へとつながるのです。 しかし、私たちはこのユダのことばから、さらに真剣に考えるべきことがあります。善行を積もうとすることはしばしば、罪を犯すことに取って代わられる危険があることを、私たちは謙遜に認める必要があります。 この箇所を読むと、ユダがなぜこのような発言をしたか、その背景が語られています。彼は十二弟子の会計係でしたが、この共同体にささげられた献金をひそかに盗んでいました。ユダは、マリアからナルドの香油を受け取ったらそれを売って、それでつくった300デナリの中から盗もうという魂胆だったことが、ここでほのめかされています。 しかし、残念なことですが、こういうことはクリスチャンの間でも、しばしば起こることです。私たちキリスト教会は、神さまを礼拝することに集中すれば基本的にはそれで充分ですが、ときにそれに付随して、いろいろな事業を行います。クリスチャンどうしが集まって学校を経営したり、病院を経営したり、さらには、神学校を経営したり、宣教団体を運営したりと、いろいろな働きが展開されます。 それらの働きは、クリスチャンとしてこの世界に仕えたいという純粋な意図をもって始められ、運営されているものです。素晴らしいことです。しかし、そのような意図を持った働きの中でも、金銭的な問題が起きることはあるものです。それはやはり、神さまの御前に徹底して生きる姿勢がどこかで欠けてしまっているからではないでしょうか。私たちはやはり、イエスさまの助けがなければ片時も生きていけない罪人であることを謙遜に認める必要があります。 だから私たちは、主の御前に真剣に礼拝をささげることが大事になります。礼拝はまるでともに集っている人を意識するように、形だけささげていればそれで充分なのではありません。御霊と真理によって、主の御前に徹底して礼拝をささげることです。御霊に導かれ、真理のみことばを握って、真剣に礼拝をささげるのです。 世の中の人たちは、私たちクリスチャンに対していろいろ期待することがあると思います。特に私たちには、まるでボランティアのような善行を積むことをおそらく世間は期待しているはずです。もちろん、それも大事なことにはちがいありませんが、私たちにとって何よりも大事なのは、私たちが未来のいつかの日に完全に贖われることを望み見て、今日この日に、主の十字架の死と復活、再臨を覚えて、真剣に礼拝をささげることです。 私たちのこの、善行よりも礼拝を最優先にする姿を、世間は理解せず、かえって批判したり、非難したり、あるいは嘲ったりすることもあるかもしれません。 しかし私たちは、終わりの日、贖いの日を見据えるなら、そんな世間の評価など、どれほどのことがあるでしょうか。私たちは周りがどう評価しようと、変わらずに、主に礼拝をささげ、贖いの日を待ち望むのです。 私たちの毎日は、終わりの日、イエスさまと教会との結婚に備える、花嫁修業の日です。私たちはその日を待ち望み、主の御前に徹底して、真剣に礼拝をささげる生き方をしてまいりたいものです。 最後に、ラザロの姿を見てみましょう。ラザロは彼の、「存在そのものをささげました」。 ラザロは、イエスさまに復活させていただいたいのちそのものを生きていました。そしてこのラザロは、ここではどのような存在となっていたでしょうか? 9節をお読みしましょう。「すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらされたラザロを見るためでもあった。」 復活のいのちを生きるラザロは、イエスさまとともにいました。イエスさまがラザロを訪ねてきてくださったからです。私たち、イエスさまによって復活のいのちを生かしていただいている者がイエスさまとともにいさせていただく、そこに礼拝が成り立ちます。ラザロの存在がマルタとマリアを礼拝に導いたように、私たちも復活のいのちに生かされている存在そのものをもって、人々を礼拝へと導くのです。 生き証人、ということばがあります。このラザロの存在は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであられることを、雄弁すぎるほどに語っていました。まさに「生き証人」です。ユダヤ人の群衆は、イエスさまを見に来ただけではありません。ラザロを見て、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを信じるために来たのです。 ラザロは何かしたわけではありません。主のあわれみによってよみがえらせていただいただけです。 私たちも主の御前で何かしているわけではありません。ただ、存在しているだけです。しかしこの存在は、イエスさまによって復活のいのちを生きる者としていただいたという存在です。…

恵みの契約 後篇

聖書箇所;創世記17:9~27/メッセージ題目;恵みの契約 後篇 今から12年前の8月16日、私ども夫婦は韓国のソウルで結婚式を挙げました。その中で、互いに対する誓約書を取り交わす、というプログラムがありました。「私、武井俊孝は生涯、この妻を愛することをここに約束します」とか何とか、細かい文章は覚えていませんが、その「誓約書」のいちばん下に、サインを書くコーナーがあり、私どもは司式の牧師先生からペンを渡されて、サインを書いたものでした。これにサインをしたとき、結婚とは契約であることをしみじみ思ったものでした。 先週私たちは、神さまがアブラハムと結ばれた契約とはどのようなものかということを学びました。本日はその学びの続き、「恵みの契約 後篇」と題してメッセージを取り次がせていただきます。 神さまはアブラハムと契約を結ばれるにあたって、アブラハムも、アブラハムの家にいるすべての男子も、そしてアブラハムの子孫もみな、神の民であるしるしとして、割礼を受けることを命じられました。   このご命令は何を意味しているのでしょうか? 私たちが神さまと結ぶ契約は、まず自分からはじまり、それから家族に及び、そして、そののちの世代につながる、ということです。 私たちは、自分さえ救われればそれで充分と考えていないでしょうか? 私たちから救いの輪が、家族に、そして周りの人たちに、そしてのちの世代までも広がっていくように、そのために用いていただくように、祈ってまいりたいものです。 しかし、その救いのしるしのため、なぜわざわざこのような、割礼などということをするのでしょうか? 女性のみなさまにもご理解いただきたいことですが、割礼、これは男性の性器に施すわけで、痛いではすまない思いをします。 神の民になるにはそうまでして、きつい思いをしなければならないのでしょうか? しかし、これにも意味があります。   割礼により、人は壮絶な痛みとともに、血を流します。これは、神さまと契約を結んだ民であることを確証するうえで必要なことでした。私たちは実印であれ、認印であれ、はんこを押すとき、朱肉を使います。はんこはペーパーレス化が進んだ現代日本においても今なお大事なもので、このはんこを書類に押す必要があることが、職場のテレワーク化がなかなか進まない一因とも言われています。さて、はんこに用いる朱肉は、言うまでもなく赤です。それもなんとなく、血の色に近い色をしています。 はんこの朱肉がなぜ赤いか、一説によれば、むかしの血判状、かつて重要な書類には指に血をつけて押したことが、朱肉が赤い色となったことの起源と言われています。はんこの朱肉は血の色というわけです。 そうだとすると、私たちははんこを押してその血のように赤い色を見るたびに、そのはんこを押すことにいのちを懸けていることをどこかで意識しているのではないでしょうか。そのように、大事な契約は血を流すことによって結ばれるもので、神さまとの契約においてはそれが、割礼という形を取るというわけです。 割礼とは、神のかたちを現す男性が神さまのご命令により、極めて痛い思いをして血を流し、からだに傷をつけるわけです。これは、何かを連想しないでしょうか? そう、イエスさまの十字架です。 神の民の男子が割礼を受けることは、はるかのちの時代に神の御子イエスさまが私たちのために痛みをその身に受け、血を流してくださったことを表しています。窮極の割礼は、イエスさまの十字架の血潮によって神さまと契約を結んでいただいたことを信じることです。ゆえに、イエスさまが十字架にかかられたならば、人は十字架による罪からの贖いを信じるかぎり、肉体に割礼を施す必要はないのです。 神さまと契約を結ぶということは、それ相応の痛みが伴うことです。割礼で切り取られる性器の包皮が象徴する、私たちの肉が処分される必要があります。私たちは罪深い肉がその身に生きているかぎり、神さまに受け入れられることはありません。私たちの罪が切り捨てられることによって、はじめて私たちは神さまに受け入れられます。 私たちの罪は処罰される必要があるのです。しかし、その罰を身代わりにイエスさまが十字架の上で受けてくださり、血を流してくださったことによって、私たちはイエスさまを信じる信仰のゆえに、もはや罪の罰を受けることがなく、神さまに受け入れていただけるのです。 さて、このようにアブラハムの家の男子がすべて割礼を受け、神のものであることを確証するように導かれたわけですが、神さまのみこころは、サラとの間に奇蹟的に子どもを生まれさせてくださり、そこから神の民を増やされる、ということでした。神さまはアブラハムに、アブラムに代わる名前、アブラハムという新しい名前を与えてくださったように、サラにもサライに代わるサラという新しい名前をお与えになりました。そして、神の民を生むという役割を確かにしてくださいました。 これこそ奇蹟です。アブラハムやサラにとっては、こんなおじいさん、おばあさんから子どもが生まれるだなんて、冗談もほどほどにしていただきたい、と、おのが身の悲しさに笑ってしまうような神さまのおことばでした。しかし、神さまがこのサラから生まれさせてくださると約束されたイサクは、「彼は笑う」という意味です。年老いたおのれの悲しさに笑ってしまうような冷たい笑いが、神さまのみわざによって、まことの喜びに満ちた温かい笑いになるのです。 私たちはもう、自分の不遇さを呪って笑わなくていいのです。もう私たちは不遇ではないからです。むしろ私たちは、神さまに救っていただいた喜びをもって、賛美の笑いを神さまにおささげし、兄弟姉妹でともに喜ぶべきです。私たちがもし、自分のことが不遇に思えてならないならば、まことの喜びを与えてくださる神さまを見上げることです。 さて、サライに代わる新しい名前をつけられたサラは「母親」です。サラは数えきれないほどの神の民を生みます。 女性という存在に関してパウロは、このように語っています。「女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ2:15)このみことばは、数えきれないほどの信仰の子孫を産むことになるサラを意識していると見るべきです。 信仰と愛と聖さにとどまる女性は、外見上のきらびやかさを超える、周りに憧れをいだかせる品位を身に着けます。それは、人々のたましいを救うことにつながります。どういうことかと言いますと、この女性を見る周りの人が、こんな素晴らしい女性のように私もなりたい、この人の信じているイエスさまという方を私も信じたい、と思うようになるからです。 伝道というものは、ことばさえ伝えればそれでいいのではありません。もちろんことばで伝えるのも大事ですが、それ以上に大事なのは、主にお従いするその生き方をもって、周りにその生き方の素晴らしさを示すことです。たまにいるのですが、言っていることは立派でも、その生活がまったくなっていない人というのがいるものです。私たちは単純に神さまとそのみことばを信じたならば、生活にも変化が訪れてしかるべきです。 では、どうすればいいのでしょうか?先週私たちは、恵みの契約、という主題でみことばを学びました。みことばにお従いする生き方もまた、契約、ということで説明できます。 みなさまは、何らかのを契約するとき、細かい字がやたら書いてある、約款、というものをご覧になったと思います。この、契約につきものの約款を、私たちは隅から隅までちゃんと読んだうえで、契約を結んでいますでしょうか? しかし私たちは、契約を結ぶにあたっては、その約款をいちいち読む前から、その契約を結ぶとはどういうことかを普通理解しているものです。 それは、約款を細かく読んで納得することによって契約を結ぶのではない、ということです。契約を結ぶのは、約款をすでに理解して用いているそのサービスなり製品なりのユーザー、つまりそれを使っている人のことば、それ以上にその人の人格を信頼して、そのサービスなり製品なりを手に入れるために契約を結ぶのです。百のテレビコマーシャルよりも、親しい人のひとつのことばのほうを、私たちはよほど信頼して、製品を手にしないでしょうか? 私たちの信仰生活にも同じことが言えます。神さまと契約を結ぶとどのような祝福を得られるか、ということを、私たちはアブラハムの生き方から学ぶことができるわけです。ここに、私たちがアブラハムの生涯から学ぶ意味が出てまいります。 しかし、私たちの信仰生活の手本になる人物は、アブラハムだけではありません。聖書に登場する人物は神の民であるかぎり、すべて、契約の恩恵にあずかった祝福を私たちに示しています。 その究極のお姿はもちろん、人としてこの世界に下ってくださった神の御子、イエスさまです。このお方に至っては、契約を結んだ人であるどころか、契約をもたらしてくださった当事者です。 イエスさまのその十字架の死を信じるなら、私たちは神さまと永遠の契約を結ぶ恵みにあずかります。私たちが、神さまが人と結んでくださった契約の素晴らしさを知るには、とにかく、イエスさまのお姿をみことばから学ぶことです。 私たちは、いにしえの聖徒たち、世々の聖徒たちにならい進む、今なお生きて証しする聖徒たちから学びます。その聖徒たちは有名人にかぎりません。この礼拝堂の中にいらっしゃいます。顔を見合わせてみてください。この兄弟姉妹こそ、私たちの習うべき兄弟姉妹です。 それだけではない、私たちは学ぶだけではありません。私たちもまた、主と契約を結ばせていただいた当事者として、証しの生き方をするのです。 そうだとすると、契約の「約款」に当たるものは何でしょうか? 聖書です。私たちは、神さまの恵みによって契約を結ばせていただきました。そして、その契約がどんなに素晴らしいものであるかということを、契約の約款ともいえる聖書を読み返すことによって知るのです。 しかし、この約款はこの世の約款のように無味乾燥、退屈なものではありません。読めば読むほど、神さまの愛、恵みが伝わってきます。まるでラブレターです。 聖書には神さまの愛が完全に表現されています。この世界にあふれる自然をとおしても創造主なる神さまの素晴らしさを知ることはできますが、神の御子イエスさまを通して結ぶ恵みの契約の素晴らしさを私たちに伝えるものは、ただ、聖書だけです。 だから私たちは聖書を、毎日でも読むのです。この愛の契約に入れられた恵み、その素晴らしさを、私たちは毎日味わってまいりたいものです。 最後に、アブラハムが、この神さまの命令をいただいたらすぐに、イシュマエルも含めた家の男子すべてに割礼を施したことについても、ひとこと申し添えておきましょう。 神の民はイサクから増え広がることがアブラハムに告げられても、アブラハムは家の男子すべてに割礼を施せという主のご命令を実践しました。これは、アブラハムが神さまと結んだ契約に、家長としての権限をもって、自分につくすべての者を与らせることになったわけです。 もちろん、神さまと契約を結んだ神の民となるのはあくまでイサクから生まれる民です。聖書がときに私たちの神さまを、アブラハム、イサク、ヤコブの神と表現して、イエスさまもそう表現されたとおりです。 しかし、こうしてアブラハムの家のものが、アブラハムの家系に属していない者まで含め、みな割礼を受けているのは、人が神の民として契約することが特定の血筋によらない、恵みによるものであることを暗示しています。 アブラハムの家で奴隷となっていただけの人は、見ようによっては、たまたまそうだっただけとも言えます。しかしそんな彼らも、神の民として契約の輪の中に入れられたのです。 この、アブラハムの家の者の姿は、私たちのことを暗示してもいます。私たちも恵みによって、たまたま福音を聞くポジションに置かれただけです。そんな私たちですが、神さまの恵みによってイエスさまを信じる信仰が与えられ、神さまと契約を結ぶ者としていただきました。だから、私たちのことを誇ってはいけません。 エペソ2章8節と9節のみことばを読んで、今日のメッセージを締めくくります。……アブラハムが恵みによって神の民の源となったのとまったく同じことで、私たちも恵みによって、神の民としていただきました。この恵みをくださった主に、今週も、そしてこれからも感謝し、恵みの主をほめたたえつつ、お従いしてまいりましょう。 このお従いする生き方は、聖書をお読みすることによって実現します。また、お従いするということは、隣人にイエスさまを証しする、愛の歩みをすることによって実現します。この歩み、恵みの契約に入れられた民としてふさわしい歩みをさせていただくことで、日々主の御手に用いられる私たちとなることができますようにお祈りします。

恵みの契約 前篇

聖書箇所;創世記17:1~8/メッセージ題目;恵みの契約 前篇  本日から、長らくお休みしていたアブラハムのお話を、半年ぶりに再開します。これまではコロナウイスル流行の非常時を意識して、祈りとは何かという主題に集中したり、ヨハネの福音書のみことばを連続して学んだりしました。 しかし、もうここまで来てもコロナウイルス流行は収まる気配がなく、「ウィズコロナ」でいくしかないようで、そうなったらもう、特別バージョンなどと言っている場合でもありません。あらためてメッセージを通常運転に戻し、創世記の学びを再開したいと思います。 本日の箇所は、アブラハムが神さまと結んだ契約に関する場面です。私たちは神さまと契約を結ぶということを、聖書に書かれているアブラハムをモデルにして学ぶことができます。 モデルとしてのアブラハムの存在に注目しましょう。聖書においてアブラハムの存在が、きわめて基礎的な位置を占めるということは、みなさんもご存じのとおりです。聖書はなぜ、アブラハムのことをこれほどまでに語っているのでしょうか? 主はみことばによりアブラハムの姿を私たちにお見せになっています。そのことにより神さまは、ご自身と契約を結ぶ者はこのようである、ということを示され、その恵みの中に入ることの素晴らしさを私たちに教えてくださっています。  アブラハムはどんな状態で神さまと契約を結んだのでしょうか? それは創世記12章から16章までのみことばに書かれているとおりです。 アブラハムは神さまの御声にしたがって、父祖の地を離れて遠い旅に出ました。それは、信仰的に大胆な冒険に出たということで、素晴らしいことです。その旅の途上で、アブラハムは甥のロトを伴っていましたが、別れて別々の道を行くことになったとき、アブラハムはロトに、とても潤った良い地を選択させました。若い者にチャンスを与えた上に自分は譲るような、そういう意味で人格者です。 しかしその新たな土地で、ロトは敵に攻められて窮地に陥りました。アブラハムはそのことを聞くと、自分の群れの屈強な者たちを引き連れて敵と戦い、ロトを助け出しました。アブラハムはそういうわけで、身を挺して犠牲を払い、人のために生きることを知っている人でもあります。 それだけではありません。アブラハムは、その戦いに勝利した感謝を、いと高き神の祭司メルキゼデクに、戦利品の十分の一をささげることで表明しました。アブラハムはそういうわけで、敬虔な信仰者としての姿も示しました。アブラハムの生涯はなんとも、褒められることの多かった人です。  しかしその一方で、アブラハムは、まるで証しにならないことも多くした者でした。ききんを避けて妻とともにエジプトに落ち延びたとき、アブラハムは、自分がエジプトの権力者に殺されないようにと方便を使い、妻サラをエジプトのファラオに召し入れさせるがままにしました。これは言わば、妻を売ったという行為です。 もちろん、神さまは特別な計らいで、サラのこともアブラハムのことも助け出してくださいましたが、それにしてもアブラハムはとんでもないことをしたものでした。 それだけではありません。アブラハムは、神さまが必ずアブラハムに子孫を与えてくださるというその約束を待ちきれなくて、召使のハガルとの間に子どもを設けました。おかげで、サラとの間に葛藤が生じ、サラがハガルのことを苦しめるがままにさせ、結果としてハガルをいたく傷つけました。 そのように私たちがアブラハムを見ると、いったいこれが信仰の人だろうかと疑わしくなる行動も見られます。しかしさきほども申しましたとおり、アブラハムは一方で、とても素晴らしい行いもしているわけです。しかしそれなら、アブラハムはそのようなよい行い、正義の行動で神さまとの契約を勝ち取ったのでしょうか。決してそうではありません。良い点、褒められる点もたくさんあった一方で、とても褒められない行いをしてもいます。 一般的には、人が神的な存在に認められるためには、よい行いを積み重ねるだけ積み重ね、悪い行いをしないようにしよう、となるでしょう。しかし、それはだれにもできないことです。人はどこかで罪を犯すものです。きよい神さまがその罪をご覧になるかぎり、救われる人など、この世界には一人もいません。 アブラハムが神さまと契約を結んだ理由は、罪を犯しているかどうかという、そういう基準で見るべきではありません。アブラハムが神さまと契約を結ぶことができたのは、行動の良し悪しを神さまが判断されたこととは関係なく、ただ、神さまが契約にふさわしい存在として、選んでくださったからです。  この救いに定める選びを、聖書は、恵み、と呼びます。まことに、神さまが契約を結んでくださるのは、人の行いではなく、神さまの恵みゆえです。神さまの恵みをいただいた人は、素直に神さまを信じる信仰を持たせていただけます。神さまがこの罪深い私のために、ひとり子イエスさまを身代わりに十字架にかけてくださった、そのことを信じるだけ……それで自分は神さまに充分に受け入れていただける……この素直な信仰が与えられます。  さて、神さまがアブラハムとの間に立てられた契約はいかなるものかが、この17章で語られています。まず何とおっしゃったでしょうか? 1節です。 「わたしは全能の神である。」まず、神さまのこの宣言に始まります。すべては、神さまがすべての上に君臨される全能なるお方であると認め、そう告白することから始まります。 私たちにとっての信仰は、「キリストを信じる」、すなわち、キリストに信頼してお従いする、神との交わりの歩みです。形だけの宗教として「キリスト教」という宗教を信じるのではありません。 神との交わり。この、神との交わりの歩みをするためには、何よりも、私たちのお従いするお方が全能の神であるということを信じ受け入れ、そのように告白することが大前提となります。礼拝のたびに唱和する、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と、私たちが告白するとおりです。 では、この、全能なる神さまは、アブラハムに何をお求めになったのでしょうか?「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」いつ、いかなるときにも、神さまとの健全な関係を保ち、その御前に徹底して生きることをお求めになりました。 ここで神さまが要求された「全き者であれ」ということは、道徳的に、宗教的に完璧であれ、とおっしゃったのではないことに、注意する必要があります。それは不可能なことです。 私たちのあるべき「全き者」という姿は、「完全」ではなく、言ってみれば「健全」です。「健全」という意味での「全き者」ということです。あなたはわたしの前に健全でありなさい。そのようにお命じになった上で、神さまはアブラハムと契約を結ぶことを宣言されたのでした。 健全ということは、神さまとの関係が正しく保たれている、ということです。まことのぶどうの木であるイエスさまとそのみことばにいつもとどまり、そのみことばを守り行う生き方、よい実を結ぶ生き方をいつも目指していく、そういう人になれるように祈る……そういうことが私たちに求められているわけです。 聖書の本文に戻ります。神さまは今後アブラハムがどのようになるとおっしゃったのでしょうか?「あなたを、おびただしくふやそう。」 このおことばには、神さまがアブラハムに奇蹟を起こして、アブラハムから肉の子孫を増やしてくださるという意味ももちろんあります。しかしもうひとつ、アブラハムのように、神さまとの健全な関係を保って幸せに生きる「信仰の人」を増やしてくださるという宣言でもあります。 「信仰の人」とはほかならぬ、信仰によって神さまの子どもとしていただいた、すべてのクリスチャンのことで、当然、私たちも含まれます。だからこそアブラハムは私たちにとって「信仰の父」となるのです。 それでは、神さまはこの約束を成し遂げるために、アブラハムに何をしてくださったのでしょうか?   まず、彼の名前を変えてくださいました。それまで彼はアブラムという名前でしたが、それがアブラハムとなったのでした。この名前はなんといっても、神さまご自身が名づけられた名前です。 名は体(たい)を表す、ということわざがあります。名前というものは、その人そのもの、その人のすべてを表しているといえます。神さまが、過去の名前を捨てさせ、新たな名前を直接名づけられたということは、神さまがアブラハムのことをまったく新しい人生に導かれた、ということを意味しています。 神さまが直接名づけられたアブラハムという名前は、私たち神の民すべてにとっても重要な意味を持ちます。 有名な、コリント人への第二の手紙5章17節のみことば、これは、このようなみことばです。暗唱できる方は暗唱しましょう。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」   アブラハムは、神さまによって新しい名前が付けられたことが象徴するように、まったく新しくされたのでした。では、アブラハムはどのように新しくされたのでしょうか? これもまた、名は体を表す、ということわざのとおりですが、アブラハムという名前の意味を考えれば、神さまがどのようにアブラハムを出発させられたかがわかります。  アブラハムのもともとの名前は、アブラムといいました。アブラムの意味は、「高貴な父」、「高められた父」という意味です。これに対してアブラハムは、「多くの国民(くにたみ)の父」という意味になります。 名前の語感はとてもよく似ていますが、「アブラハム」という名は、「アブラム」という名のほんとうの意味を、さらにはっきりとさせています。神さまが彼をアブラハムと名づけてくださることにより、なぜ彼がもともと、「高められる父」だったのか。彼から多くの国民(くにたみ)、数えきれないほどの神の民が生まれ出てくるから、その意味で「高められる父」だったのです。 アブラハムに与えられた新しい名は「多くの国民の父」でした。まさに、主を単純に信じる信仰を持つ者がまことの神の国の民となるということを、神さまはアブラハムと契約を結ぶことによって示してくださったというわけです。私たちは、アブラハムにつづき、信仰をもって神さまと契約を結んでいただいた存在、天国の民です。 私たちは、イエスさまの救いをいただいて、天国に入れていただき、永遠のいのちをいただきました。その天国の民としてのアイデンティティをもって、私たちはこの地上の生活、神の栄光を顕す生活をしていくように召されています。    さて、聖書本文のアブラハムをつづけますが、主は、アブラハムから生まれる神の民から、王たちが生まれると語られました。この預言のとおり、のちの時代においてダビデ王をはじめ、多くの王が生まれました。また、カナンの地を永遠に所有するとも語られました。   これらのみことばは実際には、どのような形で実現したのでしょうか? 神さまを信じる信仰を持つ者として、数えきれないほどの神の民が生まれました。 彼らのことを聖書は、ヨハネの黙示録22章5節にあるとおり、「彼らは世々限りなく王として治める」と語っています。また、ペテロの手紙第一2章9節にあるとおり、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」とも表現しています。 そうです。神さまは私たちのことを王として扱ってくださっているのです。そうです、私たちは王なのです。私たちはいま自分のことを見て、貧しいなあ、とか、弱いなあ、と思ってはいないでしょうか。神さまの宣言に立ちましょう。私たちは王です。この地を祈りによって統べ治める王さまです。このことを忘れないでいたいものです。 そして、この信仰の民である私たちに対し、永遠の王である私たちに対して、神さまは、永遠に受け継ぐ地を与えてくださいました。それは、天にある御国です。 アブラハムは、カナンの地を受け継ぐという神さまの約束をいただきました。その約束のとおり、アブラハムが神さまと契約を結んではるかのちの時代に、イスラエルの民は、約束の地カナンを所有しました。ただ、その地を所有するために、イスラエルは戦いを経験することになります。 その、カナンを奪い取るための地上の戦いは、いわば、私たちが努力して狭い門より入り、天の御国に定住するための戦いを比喩していると言えます。こんにちを生きる私たちにとっての戦いは、血肉に対するものではありません。血肉に対する戦いは先週もお話ししたとおり、イエスさまがはっきり否定されたことです。 そうではなく、私たちにとっての戦いとは、サタンとその支配下にある悪霊どもの支配から、この世の捕らわれの民を奪還する戦いです。それは逆説的ですが、隣人を愛する愛をもって平和をつくり出す私たちのたえざる努力によってなるものです。それが戦いです。 この戦いに召されている者とは、それは神さまの一方的な恵みによって、全能の神さまに対する信仰を持たせていただき、神さまとの間に永遠のいのちの契約、罪の赦しの契約を結んでいただいた私たちです。私たちはいま一度、神さまが結んでくださった契約の意味を考えたいと思います。 私たちの行いは何一つ誇れません。私たちが誇るべきは、一方的なあわれみと愛で私たちを神の子どもとして召してくださった、イエスさまの、十字架です。今日このとき、イエスさまの十字架をもって私たちといのちの契約を結んでくださった主の恵みを覚え、主の恵みに思いを巡らしましょう。 主の御前に健全な信仰を保ちますように、新しい存在とされているにふさわしい、肉の生き方を脱ぎ捨てた生き方へと踏み出していけますように、この世を祈りをもって統べ治める王の働きをもって、この世に捕らわれている人々を悪の手から奪還する戦いに打ち勝つべく、祈りとみことばをもって主にお従いする私たちとなりますように……。 しかし、すべては主の恵みを受け取り、主の恵みにお応えするゆえに実践すべきことです。恵みにいかにしてお応えできるか、主の導きを求める祈りをささげてまいりたいと思います。

8月15日、その次に

水戸第一聖書バプテスト教会 日曜礼拝 導入讃美「主の愛はとこしえまで」「主イエスの十字架の血で」/祈祷/使徒信条/交読 マタイ5:3~16/主の祈り/讃美 讃美歌338/聖書箇所 マタイ4:1~11/メッセージ題目 8月15日、その次に  本日、8月16日は、主題を決めてメッセージをさせていただきます。その主題は、「みこころに従って、いかに平和をつくる者となるか」ということです。  この8月16日という日は、私個人にとって、人生を左右する3つの体験をした日でもあります。最初は1990年8月16日、高校2年の夏、この日私は、松原湖バイブルキャンプにいました。音楽ゲストの小坂忠・岩渕まことのデュエットの歌う讃美が流れる中、講師のアーサー・ホーランド牧師の導きで、献身を約束する祈りへと踏み出しました。  次は1992年8月16日、大学1年の夏、私ははじめてこの日、韓国の地にて、韓国語で礼拝をささげました。夕礼拝にも出席し、その席上で私は前に出て、自分が韓国に召されていることを証ししましたところ、満場の礼拝者のみなさまから大きな拍手をいただき、礼拝後、多くの方に握手をしていただきました。私はその日、自分が日本人のクリスチャンとして、韓国教会から生涯学ぶ者であるという意識を新たにしたものでした。  3度目は2008年8月16日、私と陳宣教師はその日、韓国で結婚式を挙げました。今日は結婚記念日です。まあ、この日についていろいろ解説するのは野暮というものでしょう。  そんな私ですから、8月16日という日については、毎年この日が巡ってくるたび、人一倍、この日の象徴する意味について想い巡らしてきたものです。今日はそのような私の黙想に、おつきあいいただきたいと思います。 8月16日の前の日は言うまでもなく8月15日、日本では終戦記念日ですが、この日の持つ重みが、戦後75年、年を追うごとに薄れてきてはいないでしょうか。そのような中で憲法改正ですとか、再軍備といったことが、一部で声高に言われるようになっています。 一方、韓国では、この日を「光復節」といいます。足掛け36年にわたる日本の支配から解放された日として、韓国にとってこの日は特別な意味を持っています。  私はその方面の社会問題をこのメッセージの時間に扱うつもりはありません。この時間は、聖書から私たちにとっての平和のあり方を語りたいと思います。 私たちにとって、戦争が終わったこと、終戦は、たしかにめでたいこと、うれしいことにはちがいありません。昨日のように、8月15日を終戦記念日と定めて覚えるゆえんです。しかし、そこにとどまっていてはならないのではないでしょうか。 問題はそのあとです。戦争というこの悲惨なことを繰り返さないことが、私たちに求められているのは言うまでもありません。特に私たちは、「平和をつくる幸いな神の子」として、神さまから召されている存在です。 そのために私たちは、何を祈り、どのように行動すべきか、いろいろ問われるでしょう。本日はそのような中でも、直接「世界平和」に言及していない、しかしまことの「世界平和」を実現するうえでとてもぴったりしたみことばから、ともに学びたいと思います。題して、「8月15日、その次に」。 本日の箇所は、イエスさまが荒野の40日の断食の果てに、悪魔の試みを受けられた場面です。それが平和をつくることとどのように関係があるのか、以下、見てまいりたいと思います。 まず、1番目の誘惑から見てみましょう。2節から4節です。 断食というものは、生きるための命綱である食物を絶つことで、身もたましいも神さまに集中させることです。 イエスさまにとってそれは、食べるものも口にしないで、聖霊なる主に荒野を引き回される厳しい祈りの時間でありました。そこには、罪深い肉欲の入り込む余地はありません。 しかしイエスさまは、人間の肉体をもってこの地に生きられたお方です。空腹を覚えられました。それはただごとでなかった空腹だったはずです。40日の断食のあとの空腹です。目の前の石がパンに見えてくるような空腹です。 主がそれまで40日の断食を行なっておられたのは、御父のもとに徹底してへりくだることでありました。それを、全能のわざは自分にもあるとばかりに、そのわざを用いて石をパンに変えるならば、それは何を意味しているのでしょうか? もしそのようなことをなさるならば、ほんとうに人の必要を満たすものは、あくまで肉の糧である、それは霊の糧なるみことばに優先する、という世的な常識に、イエスさまも従われた、ということになりはしないでしょうか。 この世においては、世界平和は肉の糧が満たされるか否かという次元で考えがちなものです。もちろん食糧が確保されることも必要ですし、いのちの安全が保障されることも大事です。食べ物は必要です。しかし、この世の多くの人が見落としていることがあります。それは、人はパンだけで生きるのではなく、この世界を統べ治める創造主なる神さまの御口から出るひとつひとつのことばによって人は生きる、ということです。 平和というものは、特定の国や民族さえ安定していればいいうものではありません。世界のすべての人が神さまに創造された存在であるかぎり、世界のどこにおいても、平和は実現している必要があります。そのためにも、そのようにすれば人は神さまのみことばによってまことの飢え渇きをいやし、平和をつくり出すものとなれるかを祈りつつ考えなければなりません。 しかしこの世界は、ひたすら神さまとそのみことばの存在抜きで、すべての人が幸せに過ごすことを追求したりします。しかし、少なくとも私たちクリスチャンは、そのようなこの世の流れを正しいと考えてはいけません。ほんとうに平和をつくることができるお方は、平和の主なるイエスさまだけです。 この世界は、イエスさまによって御父と和解させられることなしに、まことの平和を受け取ることはできません。平和をつくり出す人間の努力は確かに素晴らしいものですが、それは石をパンに変えることもできない被造物、罪人の働きでしかないことを、どこかで私たちは謙遜に認める必要があります。 神さまがイエスさまを通して平和を与えられたことを、何によって私たちは知り、身に着けるのでしょうか? みことばです。それもイエスさまがおっしゃるとおり、神の口から出るひとつひとつのことばとしてのみことばです。 「神の口から出る」とわざわざイエスさまがおっしゃっているのは、どういうことかといいますと、聖書のことばを読みさえすればそれで平和をつくり出すものに自動的になれるわけではない、ということです。神の口から出ることばで生きる、つまり、聖霊なる神さまの導きの中で、神さまとの密なコミュニケーションを分かち合ってみことばをしっかりお聞きするのです。 こういうことができている人は、この世界にどれくらいいるでしょうか? 私たちにはできているでしょうか? もっとそういう人が増えるならば、この世界はもっと平和になるはずなのに、と思います。 そういうわけで第一の誘惑、それは、神さま抜きでこの地上に人が生き残る道を提示することです。私たちはこのような、この世の流れに流されてはなりません。平和は神さまのみことばにお従いするところから始まる、これを私たちは忘れてはなりません。 それでは2番目の誘惑にまいります。それは、みことばを曲解して神さまを試みる誘惑です。それは、平和をつくり出すこととどんな関係があるのでしょうか? 5節をご覧ください。イエスさまは悪魔に、エルサレム神殿のてっぺんに連れて行かれました。そこで悪魔は、下に身を投げよ、おまえが守られることは、聖書のことばにも書いてあるとおりじゃないか、と誘惑しました。 しかし、これをイエスさまは拒否されました。なぜでしょうか? みことばの根拠も立派にあるのではないでしょうか? いいえ、これは約束のみことばではありますが、神を試みる者をそれでも守ってあげよう、という意味のみことばではありません。むしろ、悪魔にとっては皮肉なことですが、悪魔が6節で引用したこの詩篇91篇のみことばは、このような、悪魔に試みられるような状況に陥って神さまの護りを必要とする人のことを、神さまは必ず守ってくださる、という意味のことを語っています。かくして、このみことばのとおり、イエスさまは守られたのでした。 クリスチャンはしばしば、自分の祝福を願ってみことばを引用するということを行います。まあ、それもあると思います。何もかも悪いわけではありません。しかしそのために、自分の行動はみこころにかなっているから大丈夫だ、とばかりに、反省もしないで突き進むような場合は問題です。 かつて日本は、天皇を中心とした神の国ゆえに、まつろわぬ国や民族は征伐する、とばかりに、他国に戦争を仕掛け、そのために多くの人が犠牲になりました。その根底にあるものは神社参拝に代表される霊的なものでした。戦争で死ねば護国の鬼となって靖国神社に祭られる、靖国で会おうということばを合言葉に兵士たちは戦場にいのちを落としました。その当時の日本のキリスト教会は、ほぼすべてが、国家によるそのような宗教的管理、霊的管理に屈し、神ならぬものを神とすることをみこころだとばかりに教え、国家の宗教政策に協力していったのでした。 一方で、この戦争の相手国はどうだったのでしょうか? もともとが聖書的に信仰によって人々が育てられてきた誇らしい理念を持った国でした。しかし彼らの実際にしたことは、先住民を虐殺し、アフリカから奴隷を連行して酷使し、そして日本には2度も原爆を落としたということです。これが、誇るべき信仰を持っているはずの彼らがしたことです。 私たちが先祖の罪を悔い改めるというときには、日本民族にかぎらず、同時代に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を叫びながら、まるでそれが主のみこころのように信じてわが国を攻撃した、かの国の兄弟たちの罪をわがこととして悔い改めることを、ここに提唱したいと思います。 クリスチャンにとっての戦争、それは、神の祝福はあるとばかりに突き進みながら、実はその神さまがどこまで忍耐され、沈黙されるか試すような、神を試みる罪を犯していることであることを、私たちはしっかり考え、先祖の罪を悔い改める必要があります。 考えてみてください。イエスさまはいったい、主の民が主のために武器を取って戦うことをみこころとして奨励されたでしょうか? とんでもないことです。イエスさまははっきりおっしゃいました。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」イエスさまははっきり、武器を取るな、とおっしゃったのです。主のために武器を取れ、なんて、まやかしでしかありません。 クリスチャンでありながら戦争を好んだり、争ったりする、それは、そうしてはいけないのがみこころだと心のどこかで知っていながら、自分の立場を主が祝福しておられるから大丈夫だ、とばかりに突き進む、きっと神さまは忍耐される、そう信じ込む、そのような、神を試みる罪を犯していることになります。 先の戦争の記憶が薄れてきたということは、人はまた、戦争に向けて突き進むようになるということにはならないでしょうか。私たちは目覚めて祈っている必要があります。私たちは自分勝手みことばを解釈しがちな罪人です。それでもって、神さまを試みる罪を犯しがちな罪人です。私たちはこの罪が自分のうちにあることを認め、まず自分こそが悔い改め、国のため、主にある兄弟姉妹のためにとりなして祈ってまいりたいと思います。 平和を壊す働きはどんなにみことばを用いてでも正当化しようとしても、神のみこころでは決してありません。それは忍耐深い神を試みる罪であることを、私たちはしっかり、心に留めたいと思います。 3つ目の誘惑にまいります。8節から10節です。 ……さて、イエスさまは神の子であるので、全知全能の、すべての上に高くいますお方でいらっしゃいます。ということは、すべてをお持ちのお方ということもできます。韓国式には、イエスさまのことを、万有の主、とおっしゃるとおりで、すべてを所有しておられるお方です。 そう考えるならば、サタンがイエスさまのことを、この世の王国とそのすべての栄華をもって誘惑したことは、果たして誘惑になるのだろうか、という疑問がわいてはこないでしょうか? これは、見方を変えて見てみたいと思います。並行箇所のルカの福音書4章6節では、サタンは国々とその栄華のことを、「国々の権力と栄光」と表現していて、それらはすべて自分に任されている、と語っています。 そうです、国々の権力と栄光は、サタンに支配されている領域です。古今東西、栄華を誇った国々はその背後に、重労働や重税などの搾取、行き過ぎた国民の管理、国を挙げての偶像礼拝、姦淫……そういったものが存在し、神さまのみこころをいたく損なってきましたが、それはすべて、この世界の国々がサタンの手に陥っているからです。 そのようにサタンとその勢力にやられ放題の人間、それなのにけっして創造主なる神さまのほうに行かない人間、その悲惨さの中で死んでいき、滅びゆく人間……その人間たちは主が愛をもって創造された、かけがえのない存在です。私たちがイエスさまだったら、どう思うでしょうか? 乞うまでして人間を支配し、隷属させるサタンに対し、「やめてくれ!」と叫び出したくはならないでしょうか? しかし、このときサタンは、ひとつの条件を出してきました。「私を拝むなら、おまえにこれらすべてをくれてやろう。」この悲惨さから人間を解放してやっていい、だが条件がある、私を拝め……。 しかし、イエスさまのお答えはひとつでした。下がれサタン、みこころは、主を礼拝し、主にのみ仕えることだ。 これしか答えはありません。下手をすると人間は、世界平和を達成するために、悪魔にたましいを売るようなことさえしかねない存在です。平和をつくるために神さまを礼拝することを放棄する、そういうことをしてしまうのです。 みなさん、インターネットでもいいですし、書店のキリスト教のコーナーに並ぶ本でもいいです。いろいろなところで触れるキリスト教の姿は、戦争をつくり出す元凶(げんきょう)のように描かれてはいないでしょうか? イエス・キリストの父なる神以外に神はないと主張する者が、いちばん戦争をつくり出している……。 絶対にだまされてはいけません。私たち自身を考えてみてください。私たちは人と平和をつくるために、どれほど努力していることでしょうか? なぜなら、それがみこころと信じているからです。 ただしサタンは、私たちが善良なクリスチャンでありたいという思いを、悪い意味でのお人好しな生き方へと取り替え、この世において光でも塩でもない、毒にも薬にもならない生き方へと妥協させようとします。 具体的に言えば、キリスト教式ではないお葬式に参列するときなど、いわゆる神仏を拝む行事に私たちクリスチャンが接するとき。そのようなとき私たちは、どういう行動を取るでしょうか? お焼香をしたり合掌をしたりするでしょうか? そうする理由は何でしょうか? ご遺族や親戚と波風を立てないためでしょうか? それは言うなれば、平和をつくる行為でしょう。 だが問題は、どういう根拠によって平和をつくるかです。この行為は間違いなく、「主だけを拝み、主だけを礼拝する」という、主のみことばに反しています。そうやって人にへりくだれば証しが立てられるぞ、人はイエスさまを信じるかもしれないぞ、しかしこれは、悪魔のささやきというものです。そのようにして平和をつくったつもりになっても、主の栄光はけっして現れることはありません。 私たちがクリスチャンとして平和をつくり出すことは、他の宗教と妥協することではありません。世は私たちの持つ聖書信仰でないかぎり、多様な宗教のあり方としてその存在を奨励しますが、唯一私たちだけは、その存在を許されないか、他の宗教と混在することを求められます。しかし、私たちの信じる神さまは、ほかの神々に並んで存在するお方ではありません。世の中が私たちに何を求めようとも、私たちは神さまだけに従うことをやめてはいけません。…

過越と十字架を巡る人々

聖書箇所 ヨハネの福音書11:53~57/メッセージ題目「過越と十字架を巡る人々」  今週のみことばは、これまで学んできたヨハネの福音書11章の終わりの部分で、とても短い箇所です。しかし神さまは、この短い箇所からも私たちにいろいろなことを教えてくださっています。 イエスさまが、その友ラザロをよみがえらされるにあたって、神の時にしたがって歩まれたことは、すでに学んだとおりです。そして、そのすべての歩みの究極の目的は、父なる神さまのご栄光を顕すことにありました。 ラザロのときだけではありません。イエスさまはすべての歩みにおいて、父なる神さまの時に従って歩まれました。それが、御父とひとつということであり、御父に従順であったということです。  私たちも、御父に従順であることが求められ、また、そのように教会で教えられます。しかし、人のレベルでは、神の時に従って生きるということは、そうと意識をしようとしても簡単なことではありません。私たちはただ、私たちの心の中にお迎えしているイエスさまがつねに神の時に従って歩んでいらっしゃるゆえに、私たちもまた、イエスさまに導かれて神の時に従って歩むことを許されるという。その信仰を持ち、主と主の時に信頼する必要があるわけです。  私にとっても時というものはありました。その最も顕著だったのは、1989年7月26日の深夜です。そのとき私は15歳、高校1年生で、すでにイエスさまを信じてバプテスマも受けていましたが、信仰と実際の生活はまったく別々のものになっていて、それに葛藤を覚えることもありませんでした。  しかしそんな私も、自然気胸という肺の病気でたびたび入院し、いやでも自分の弱さと向き合わなければなりませんでした。その夏も私は病気を発症し、手術を伴う入院生活を余儀なくされていました。ところが、大きな手術になるはずだったのが、病院を変わるとまったく簡単な手術で終わり、あっという間に退院となりました。そればかりか、入院をとおして友達ができたりして、苦しいはずの闘病生活がとても楽しいものとなりました。退院2日前の夜、1989年7月26日、私はなぜこのようなことが自分に起こったのか、病院のベッドでまんじりともせずひとり想い巡らしていました。 そのとき、それは神さまが私のことを特別に選び、愛してくださっていたからだという示しが与えられました。私はすっかりうれしくなり、興奮して眠れなくなり、しかし入院生活は睡眠をとらなければならないわけで、睡眠薬をもらってようやく眠りについたというわけでした。 私はこのことを通して、神さまの近くにいさせていただくように人生が変わりました。この喜びを私は、教会の日曜礼拝の時間に証しという形でお話しさせていただいたものでした。 これが、時というものであると私は体験しました。それまでの不信仰を信仰に変えていただいた「時」でした。その体験から確信を持って言わせていただきますが、人それぞれの時は、主がそのご主権をもって導いていらっしゃいます。要は私たちが、その、神の時にあらがわず、主に従順になることによって、その時その時に従って歩ませていただき、主に用いられることです。 イエスさまのこの、荒野に近いエフライムの町に退かれたことも、イエスさまが神の時に従順であることというポイントから説明できます。カヤパによるイエスさま殺害のプランがユダヤ最高会議にて採択された以上、彼らはすぐにでもイエスさまを逮捕し、死刑に処することを願ったわけです。しかしイエスさまが死なれるということは、神の民を御父の怒りから過ぎ越させる過越の子羊としてほふられる、ということを意味していました。この年の過越が、神の目から見て最後の過越、究極の過越となるためには、イエスさまはすぐ逮捕されて死刑に処されてはならなかったのでした。過越の時が満ちる必要がありました。イエスさまは荒野の町に退かれ、その御父の時を着々と待たれたのでした。 しかし、イエスさまはこの退かれる時間を、おひとりでは過ごされず、弟子たちとともにお過ごしになりました。イエスさまにとって御父と過ごす特別な時間に伴わせていただく特別な存在、それが主の弟子です。私はよくこのメッセージにおいても、それ以外の牧会の現場においても、「弟子訓練」ということを強調させていただいていますが、それは他人を凌駕する何やらすごい人にならせるための訓練だったり、牧師や教会という組織に絶対服従する人を育てるためのプログラムであったりはしません。言うなれば、「どんなときにもイエスさまとともにいる」訓練です。おわかりでしょうか? イエスさまが私たちといつもともにいてくださるということは、見方を変えれば、イエスさまのおられるところにいつも私たちがいさせていただく、ということです。たとえば私たちは、隣人やこの世界を覚えて、とりなしの祈りをすることが主から求められています。これは、いま天の御国において、御父の右の御座にてひたすらとりなしの祈りをささげてくださっている、イエスさまのそのお祈りにともにあずからせていただくということです。 イエスさまとともにささげる祈りである以上、それは主のみこころにかなっているものであるべきで、そうなっているならば、神さまは必ずその祈りを聞いてくださる……その信仰をもって、イエスさまの御名によってとりなして祈るのです。 またイエスさまは、ゲツセマネの園にて血の汗を流して祈られたとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちにも、そこにともにいて、目を覚まして祈るようにおっしゃいました。私たちも時に、血の汗を流して祈らなければならないようなときがあることでしょう。それは、イエスさまのゲツセマネの園の祈りに、ともにいさせていただくということであり、そのときもし私たちが、肉体と精神に限界を感じてそれ以上祈れなくなったならば、それはペテロやヤコブやヨハネがそうだったように、心が燃えていても肉体が弱かった、その弱さを主にあって思い知らされ、主の御前で認めることになります。 しかし、それにとどまりません。その弱さをイエスさまの十字架の贖いによって覆っていただく体験をすることであり、それもまた恵みの体験となるのです。いずれにせよ私たちは、ゲツセマネの園で血の汗を流して祈られた、イエスさまの祈りに伴わせていただく恵みをいただくのです。 このように私たちは、イエスさまとともにいるべく召されています。しかし、ともにいるためには、私たちの側からも「歩み寄る」必要があります。そのためにも、みことばと祈りにより、一定の訓練を私たち自身に課す必要があるわけです。 この、11章54節の時間もまた、十字架の受難を前にした、イエスさまにとって大事な時間であり、そこに弟子たちが伴わせていただいたということでした。私たちもまた、聖書をお読みしてイエスさまの歩みにふれるとき、その歩みに伴わせていただく恵みを、そのたびごとに体験します。イエスさまが退かれて十字架に備えられたそのときに、私たちも伴わせていただくのです。 では、その時間は私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか? それは、私たちもまたイエスさまのあとについて十字架を負う者になるために、イエスさまのそばにいて、祈りをもって備えよ、ということです。 私たちはバプテスマを受けてクリスチャンになったら、自動的に主に従順な敬虔の生活を送れるようになるのではありません。主にお従いするように、自分のために祈り、教会の兄弟姉妹のために祈って、私たちの従順の意識が育つようにしていただかなくてはなりません。 はっきり申しまして、十字架を負ってイエスさまのみあとを従う生き方は、はやりの生き方ではありません。人気のある生き方ではありません。しかし私たちは、この生き方が何にも替えることのできない恵みの生き方、喜びの生き方であることを知っています。 ただ、この生き方をする上で、私たちの中には、肉を満足させたい思い、世の友となりたい思いがつねにあり、十字架を背負う生き方、従順の生き方を邪魔するものです。 だから私たち教会は、この生き方をともに最後まですることができるように、励まし合い、祈り合う必要があるのです。それが、イエスさまの苦難の場に伴わせていただいている私たち、主にある兄弟姉妹に求められている姿勢です。見てください。イエスさまが伴われたのは、「ひとりの」弟子ではありません。弟子たちという「共同体」です。私たちもまた、ひとりひとりで信仰生活を送っているのではありません。「ともに」イエスさまのみあとをお従いするのです。 いま、この世はまたもやコロナウイルスの流行を意識しなければならない時勢になり、礼拝に来ることも多数の人前に出ることである以上、感染を念頭に置くと控えざるを得ないという判断が下されるようになりつつあります。それはもちろん、主の宮なるからだを守るという次元から考えるならば、尊重されるべきことではあります。 しかし、同時に忘れてはならないことは、各自の家でインターネットなりCDなりで礼拝をささげることになったとしても、私たちは礼拝の共同体をなすひとりであるということです。私たちは孤独であると考えてはなりません。自分はキリストのからだという共同体を形づくっている一員であるという意識と自覚を、つねに持っていただきたいのです。 また、こうしてともに集っている私たちは、ここに来ることができないでいる兄弟姉妹を覚え、その兄弟姉妹はここにいなくてもともに共同体を形づくっている家族であるということを意識し、とりなして祈っていただきたい、できればメールなり電話なりお手紙なりで励ましていただきたい、ということも思います。この励ましととりなしの祈りのわざは、牧師だけがするのではなく、教会でともに取り組んでいただきたいと願います。 さてそれでは、55節にまいりたいと思います。このときエルサレムには、地方からも多くのユダヤ人が集まっていました。 彼らは過越の祭りに備えて、宗教的に身をきよめる期間をしっかり持とうとしていました。ユダヤ人にとって過越の祭りは、それほど大切なものでした。しかしこの年においては、ユダヤ人たちが過越の祭りにおいて、特別に大きな関心をいだいていたことがありました。56節です。 そうです、イエスさまが来られるかどうかが、彼らにとって大きな関心事でした。イエスさまはユダヤ人の王として待望されていたお方で、この方をエルサレムにお迎えして過越の祭りの時を持ったならば、彼らユダヤ人にとっては忘れがたい祭りになるのはたしかなことでした。 しかし57節をご覧ください。イエスさまを見かけた者は当局に通報せよ、とのお触れが出ています。そのような中にイエスさまはあえて入っていくことはなさいませんでしたが、それでも、イエスさまが祭りに来られることに期待するユダヤ人は一定数いたと見るべきでしょう。実際、エフライムでの生活を切り上げ、時満ちてイエスさまが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたとき、ユダヤ人たちはこぞって、イエスさまのことを熱狂的に迎えました。 もっとも、この56節の表現はイエスさまのことを指して「あの方」とか「来られない」などと、尊敬形の訳し方をしていますが、それはもちろん、この箇所は、ユダヤ人はユダヤ人でも、イエスさまをメシアとして待望していたユダヤ人たちが話した会話という前提で訳されているわけです。別の日本語訳の聖書でも、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳では、特に尊敬形を用いてはいません。つまりユダヤ人といっても、イエスさまのことをメシアとして待望していたとはかぎらない人たちだった可能性もあるわけです。 とするとこのユダヤ人たちは、それこそ、イエスさまを死刑にして葬り去ろうと陰謀を巡らしていたユダヤ人だった可能性もあるわけです。ユダヤ人の王というならば、この過越の祭りに来ないはずはなかろう。そうだとすると、彼らはこの過越の祭りを、彼ら自身の意識しなかった形で、動物の子羊ではない、神の子羊を血祭りにあげる究極の機会として、虎視眈々と狙っていたということになります。なんということでしょう、彼らは究極の子羊をほふるという点で、たしかにユダヤの宗教指導者らしくはありました。いえ、それ以外の何者でもなかったからこそ、彼らはそのような行為に及んだとさえ言えます。 しかしこれは、先週、あの十字架を意味する預言をした大祭司カヤパを例にして申しましたとおり、宗教者として結果的に主のみこころを実践したからといって、その行為がその人を救うわけではありません。私たちも、それがみこころにかなうとばかりに、宗教的行為をすることで満足していても、結果としてみこころを損なうことをしているならば、何の得にもならず、かえってその宗教的行為は呪わしいばかりです。このようにささやき合ってイエスさまを待ち構えて手ぐすねを引き、過越の祭りを血祭りの機会とするような宗教指導者たちなど、まさにその典型です。 私たちもきわめて問われるところです。もし私たちがこの時代のユダヤに生きていたならば、いったいどんな立場の人になったでしょうか。 いちばんなりやすい立場は、イエスさまを迎えようと気分が高揚していた一般のユダヤ人の立場かもしれません。イエスさまが子ろばに乗って入城すると、熱狂的にイエスさまを迎えました。しかし、政治的メシアになってほしいという自分たちなりの願望がなくなるや、宗教指導者たちにあおられるままに、イエスさまを十字架につけろと叫び、そのためには極悪人のバラバを釈放させることもいとわなかった者たちでした。 彼らは一見すると神の民のようでも、神さまではなく世に流されていたために、そういうことになり、結果として神さまのみこころをいたく損なったわけです。この世と調子を合わせることが結果として主を十字架につける罪につながるということを、彼らはよく示しており、これがもっともなりやすいタイプといえるでしょう。もちろん、私たちはこのような、ユダヤの群衆のようであってはなりません。 他のタイプは、ユダヤの宗教指導者たちです。彼らは確信をいだいてイエスさまを十字架につける者たちです。流されて罪を犯すユダヤ人ももちろん問題ですが、彼ら宗教指導者は、イエスさまを十字架につける、つまりあえて神に敵対することを、まるでこの上ない喜び、人類の究極の目標のようにして実践します。もちろん神さまは、彼らのそのどす黒い企てをとおしてさえ、十字架による罪からの贖いという永遠のみこころを成し遂げてくださるお方です。しかし、神に敵対する生き方を悔い改めることもなく、あえてイエスさまを十字架につけるようなことは、なんと恐ろしく、また悲しい生き方でしょうか。 最近私は、妻から教えてもらい、インターネットなどを通じて、現代社会のあちこちをおおっている反キリスト、キリストに敵対する文化の諸様相を見させていただいています。これまで聖書の価値観から悪とされていたものが、現代においてはみな相対化され、受け入れるべきもの、美しいものという扱いを受けるようになっています。しかしそうなると何が起こるのでしょうか。そういうものと相対化された聖書の教え、イエスさまの教えは、やれ偏狭だ、やれ独善的だ、などと攻撃され、まるでいけないことのような扱いを受けるようになっています。 こういう邪悪なムーブメントに乗せられる方も問題ですし、そういうムーブメントを罪深いとわかっていながらもつくり出し、世界をその悪しき文化に染め、人々に聖書もキリストも信じなくさせる勢力は、世界のいたるところに存在しますし、それはこの日本も例外では ありません。 時の宗教指導者たちはイエスさまを十字架につけた張本人であったという点で悪魔の手先でありましたが、こんにちの邪悪な勢力は、自らがはっきりとキリストに敵対し、悪魔を崇拝する者たちであることを表明しつつ活動する分、ある意味で時のユダヤの宗教指導者たちよりひどい存在です。 私たちはけっして、このような闇の勢力の味方になってはいけません。もし私たちの近くにそのような勢力の中にいる者がいたならば、私たちはひたすら、彼らが悪の道から立ち帰るように、主にとりなして祈る必要があります。 しかし、今日の本文を見てみますと、そこにはユダヤの群衆でも宗教指導者でもない存在が見えてきます。そうです、さきほども集中的に学びましたが、イエスさまの弟子たちです。イエスさまの弟子たちは、たしかにイエスさまの十字架を目の前にしては、弱い姿、みっともない姿をさらしてしまいました。しかし少なくとも、彼らはイエスさまを十字架につける勢力についてはいませんし、なによりも、イエスさまを十字架につけたりはしていません。 もちろんその中には、イスカリオテのユダのような物もいました。しかし私たちは少なくとも、イエスさまを主と告白してお従いする姿勢を保ちつづけるならば、ユダのようにイエスさまを十字架につける勢力にあえてなることはありません。私たちはどこまでも、主によって召され、主に遣わされた弟子です。そのアイデンティティを最後まで保つことです。 弟子であるならば、私たちは十字架を経て、まことの悔い改めを経験し、聖霊の力を着せられてこの世に遣わされ、主の栄光を顕す者、主の愛をもってこの世を愛する者として用いていただけます。私たちはあおられるユダヤ人、イエスさまを十字架につけるユダヤ人の姿を見て、自分もそうだなどと考えることはありません。 もちろん私たちは、かつてはイエスさまを十字架につけるほどの罪人でした。それでも、そのような存在だったところから救い出してくださり、ご自身の弟子としてくださった、ご自身の救いの生きた証人としてくださったイエスさまを見つめ、イエスさまを賛美しましょう。主の弟子であることに心から感謝し、この世にて大きく用いられてまいりましょう。