救われよ、神をも恐れぬ世代から

聖書箇所;創世記19:1~38 メッセージ題目;救われよ、神をも恐れぬ世代から  日本と西洋の神観を端的に示すエピソードを、私は以前、ある本で読んだことがあります。第二次世界大戦のころだそうですが、同盟国どうしである日本とドイツの軍人どうしが、自慢比べをしたそうです。ドイツの軍人は言いました。「私は、神以外の何ものも恐れない。」これに対して、日本の軍人は言ったそうです。「私は、神をも恐れない。」日本の軍人は勝ったつもりなのでしょうが、ドイツの軍人に嗤われたそうです。  みなさん、日本人ならこのようなことを言いそうだと思いませんか? 私は神をも恐れない。しかし私たちはクリスチャンとして日本という国を見るとき、政府にせよ国民にせよ神をも恐れないために、どれほど不幸になっていることかと思いませんか?  神を恐れないことは、すべての罪の根源です。これは日本にかぎりません。古今東西、神を恐れない国や民族が、どれほど存在してきたことでしょうか。このような民は、旧約聖書の創世記の昔から、既に存在しました。先週、そして今週と学んでいますソドムの町など、まさにその典型的な例です。  先週学びましたとおり、アブラハムはこの町が滅ぼされないようにと祈りました。それは、義人が少しでもいれば、その義人もろとも滅ぼすことは主のみこころではないのだから、ということで、主はアブラハムのひざ詰めの祈りに、10人でも義人がその町にいるなら滅ぼさない、と、約束してくださいました。  さて、そのソドムとはどのような町だったのでしょうか? まず、主の使いは、ソドムの町を訪れました。ロトがソドムの門のところに座っていると、御使いがやってきました。ロトは彼らが御使いであることがわかりました。ロトはしきりに勧め、彼らを家に招き入れ、食事をもってもてなしました。  これは、先々週アブラハムのエピソードから学んだことと同じです。ロトは、主の使いをそうと認め、もてなしました。もてなすということにおいて、彼は模範を示しています。しかし、問題なのは、そのもてなしは行き過ぎ、といいますか、ピントの外れた方に行ってしまっていた、ということです。  4節、5節をご覧ください。……彼らをよく知る、とは、婉曲的な表現です。これは、彼らは主の使いだからいろいろ教えてもらって、神さまに対する知識を増し加えたい、という意味ではありません。彼らと性行為に及びたいから引き出せ、ということです。  アブラハムやロトをご覧ください。彼らはちゃんと、この訪問客が神の使いであることを知っていました。ところが彼らソドムの者たちは何でしょうか。よりにもよってこの聖なる存在を、性欲を満足させる存在と見ているのです。神をも恐れぬ、とは、このことです。この存在を犯す、われわれ神の民にとっては、震え上がるほど恐ろしいことを、彼らはしようとしていたのです。  罪は特に、性的に粗暴になることで現れます。それはとりもなおさず、人間のことを、性欲という自分の欲望のために粗暴に扱うことを意味します。人間とは何でしょうか。神のかたちです。神のかたちを性的に粗暴に扱うのです。いわんや、ロトのもとを訪ねてきた彼らは、神の使い、すなわち神の顕現でさえあります。神の顕現が性欲のはけ口にしか見えないとは、ソドムの者たちは、どれほど呪わしいことでしょうか。  たとえば同性愛や強姦といったことが問題になるのは、それが神のかたちである人間に対する「アビューズ」であるからです。アビューズ、ということばは「虐待」と訳されますが、この「アビューズ」という英単語を分析すると、アブ、異常に、ユーズ、用いる、すなわち、性的に異常な用い方をすることが、問題となるのです。神のかたちである人を異常に扱うから虐待となるわけですが、ともかく、このソドムの連中のように、性的に異常なことは「アビューズ」であり、これは、人が何と言おうと、どんなに美化しようと、神さまの視点、聖書の視点から見るとそうなります。  私たちが普段、当たり前のように接している、映画やテレビ番組や音楽、小説のような文学、演劇、雑誌やインターネット、これらのものには、性的に堕落した文化が詰め込まれていて、あたかも、性的に堕落することは仕方ないとか、格好いいとか、そういうように喧伝します。私たちクリスチャンはそのようなこの世の毒に慣らされてはいないでしょうか? この創世記19章、合わせて38節分の短い箇所の中に、いろいろな立場の人物が登場しますが、私たちはだれに似ていますでしょうか? よもや私たちは、このソドムの連中のような存在に与(くみ)する者となってはいないでしょうか?  私たちは、私たちのうちに形づくられている神のかたちを、アビューズしてはなりませんし、神のかたちをアビューズするこの世の文化を格好いいとか、しかたないなどと考えては決してなりません。もし、そう考えていたならば、私たちはすぐにでも悔い改める必要があります。それを格好いいなどと考えるならば、神のみこころにかなって物事を考え、判断すべき私たちの霊、また頭脳を、それこそ「アビューズ」していることになります。  しかし、「アビューズ」という点では、ロトも同じだったようです。ロトは、自分の処女の娘たちを差し出そうとしました。そうまでして、御使いたちを彼らの魔の手から守ろうとでも思ったのでしょうか。しかし、これはとんでもないことです。あまりに人間的で、罪深い解決策というものです。 結局、11節にあるとおり、御使いたちはソドムの連中に目つぶしを食らわせ、ロトの一家を守りました。御使いが人間どもによって何か悪いことをされることなど、ありえないことでした。このことは、主がそのご主権によって敵をさばかれるのであって、それに対して人間が何か愚策を弄するべきではないことを示しています。   ロトのこの、いざというときにめちゃくちゃな判断をする性質は、おそらく、一族にも伝わっていたのでしょう。14節にはロトの婿たちが登場します。この婿たちは、ロトとひとつ屋根の下で暮らしている娘たちの「いいなずけ」と解釈するのが、いちばんしっくりきます。実際、口語訳聖書ですとか、尾山令仁先生の訳された現代訳聖書ですとか、いくつかの聖書の訳を見てみますと、この「婿」は、この時点ではまだロトの娘と結婚していない立場として訳されていますし、原典のヘブライ語からもそのように訳すことが可能です。 ともかく、ロトはこの未来の花婿たちを説得しようとしました。しかし、彼らはこのさばきの知らせを本気にしませんでした。悪い冗談、とありますが、別の訳では「たわごと」などと訳しています。このことは、ロトが普段、一族に対していかなる霊的リーダーシップを発揮していたかを、如実に示してはいないでしょうか? いざというときの真剣な話でさえ、信じてもらえないという。結局、彼らは本気にしなかったことにより、天からの火によって焼き滅ぼされてしまいました。   さて、ロトが婿たちを訪ねたのは、12節にあるとおりの、御使いの警告があったからでした。「あなたの婿や、あなたの息子、娘、またこの町にいる身内の者をみな連れ出しなさい」とあります。しかし、ロトが声をかけたのは、19章全体を読んでも、婿たちだけのようです。 それなら、ロトには息子、娘がいるのに、声をかけなかったのでしょうか? それとも御使いたちは、全能の主の知恵が与えられているはずなのに、ロトに息子や、家の外に暮らす娘、あるいは一族はいないことを知らなかったのでしょうか?   これは、この聖書箇所の前後関係から考えると、ロトには息子や、一緒に暮らしていない娘はいなかったと考えるべきです。声をかけているのは婿たちだけだからです。それでも御使いたちがそのようにロトを促したのは、これは、ロトひとりの問題ではなく、後世になってこのみことばを読むすべての人、ひいては私たちに対する警告のためではないでしょうか?  コリント人への手紙第一10章11節には、旧約聖書の記述は何のためにあるのかということが書かれています。このように語られています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」  私たちは、創世記19章のこの記述からどのような教訓をいただくのでしょうか? 息子や娘、婿のような身内の者がいるかぎり、この世の終わり、崩壊を警告する使命が与えられている、ということにならないでしょうか? 私たちは、愛する家族を救うのです。そのために、語るべきことを語るのです。 もちろん、その警告をどう受けとるかの責任は、最終的に彼らが負うことになりますが、それでも私たちには最低限、彼らを説得する責任があります。もちろん私たちには、それを冗談と取られないような、説得の知恵も必要ですし、何よりも、そのリーダーシップに信頼してもらえるだけの信頼関係が必要です。ロトのように、冗談としかとられなかったら、それこそ終わりです。  結局、婿たちの説得に失敗したロトは、それでもぐずぐずしていました。しかし彼は、御使いたちにせき立てられ、ついには妻、そして二人の娘とともに、手をつかまれて連れ出されます。これは、主のあわれみによることであると、16節のみことばは語ります。   私たちはこの世に滅亡が訪れることを、本気で信じているでしょうか。残念ながら、私たちはまだ、この世界というものを買いかぶっています。まだ、この世界がよいものであるかのように思っています。しかしはっきり申しますと、これほど堕落した世界をまだ神さまが滅ぼさないでいてくださっていることは、神さまのあわれみ以外の何ものでもありません。 私たちは、聖書全体に記された神さまの怒りというものに目を留めるならば、どれほどこの怒りからかくまってほしいと思うことでしょうか。イエスさまの十字架に逃げ込まなければと思うことでしょうか。   しかし、この世界に注がれる怒りから人が救われるのは、ひとえに神さまのあわれみによることです。私たちの努力以前の問題です。神さまはみこころのままに人を救い、人を用いられます。私たちも人の救いのために用いられることを願い、祈って行動しますが、その結果だれかが救われたならば、それは私たちの努力の結果以前に、神さまがその人をあわれんでくださったからです。私たちは自分の行いを誇るのではなく、神さまのあわれみに感謝すべきです。  実際、私たちにしても、そのような神さまのあわれみによって救っていただいた存在です。しかし、救っていただいたならば、あとは何をしても許されるのではありません。いのち拾いをさせてくださった神さまのおっしゃることに従うべきです。ロトの話に戻りましょう。このとき御使いは、ひとつのことをロトに命じられました。17節です。  滅びというものは、私たちが考える以上に壮絶なものです。しかし、この世というものの持つ魔力は、なんとわれわれのことを惹きつけてやまないことでしょうか。私たちは世界が滅びに定められていると知るかぎり、そこから全力で逃げ出すべきなのに、まだこの世に未練を持ち、やり残したことにうじうじと拘泥するのです。 結局、ロトの妻はみことばを守らず、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。そんなにとどまりたければ、そこに永久にとどまるがいい、柱にして永久に立たせてやるから……そのような主のさばきが下ったかのようです。私たちがもし、天国よりもこの世を愛するならば、このようなさばきが下されてもなにも文句が言えないことになります。   一方、ロトは別の意味で不信仰でした。御使いははっきり、山に逃げなさい、と言っています。御使いがそう言った以上、どんなに天からの火が迫ってきていても、全力で逃げるならば逃げられるのです。要は、ありったけの力を込めて逃げることです。自分を救うために死力を尽くすのです。しかしロトは、私たちはきっと山にまで逃げることはできませんから、あそこにある小さな町に逃げさせてください、と御使いに楯突きました。   しかし御使いはそのことばを聞き入れ、ロトがその町、ツォアルに逃げるまで、さばきの手を下すことはしませんでした。これも主のあわれみによることです。しかし、ロトはそうなるまで、二重の間違いを犯しています。まずロトは、主のみこころを信じず、主のおっしゃるとおりにするならば滅びる、と言っています。これは不信仰です。 そればかりではなく、自分の考えに従って、別の提案をしています。小さな町に逃げさせてください、と。これは、神さまのみこころよりも自分の考えを優先させる、不従順です。不信仰と不従順、ロトはそういう2つの罪を犯したのです。しかし神さまは、そんなロトの言うことを聞いてくださり、ロトのことを救われたのでした。   神さまが救ってくださったのは、なぜだったのでしょうか。29節のみことばをお読みしましょう。……それは、神さまと契約を結んだアブラハムのゆえでした。   先週のメッセージでも少し触れましたが、ペテロの手紙第二2章7節のみことばは、以上見てきたとおり、これほど信仰的におかしかったロトのことを、それでも「義人」と呼んでいます。その根拠として、ソドムの連中の振る舞いに心を日々痛めていたことを続く8節で挙げていますが、彼がそのような良心を持てるほどの義人だったのは、ひとえに、アブラハムのとりなしの祈りがあったからです。神さまはアブラハムのその義に目を留めてくださり、ロトをこの滅びの中から救い出してくださったのでした。   だが、そのようにして滅びから救っていただいたロトは、きわめて不道徳なことを行いました。娘たちが自分たちの子孫を残そうと、こともあろうに父親であるロトと性行為をして、妊娠しました。それはロトにしてみれば、お酒に酔った上でのことであり、ロトは自分が何をしたか全くわからなかったとみことばは語りますが、だからといって、彼がしたことは免責されるものではありません。立派な罪です。酒の上でとばかりにセクハラやパワハラを働くおじさんがいますが、それが許されることではないのと同じです。   ロトが娘たちにはらませた子どもは、モアブ人とアンモン人の先祖となりました。この両民族は旧約聖書を読めばわかるとおり、イスラエル民族に激しく敵対する存在となりました。どれほど敵対したか、それは、申命記23章3節から6節に書かれているとおりで、彼らの祝福を祈らないことは主の命令ですらありました。   しかし、このような中にも、主のあわれみは注がれました。モアブ人の女性、ルツは、マフロンというイスラエル人に嫁いだことから主の会衆につながる道が開かれ、のちにイスラエル人のボアズと再婚したことで大きな祝福を得て、その子孫にダビデ王が生まれました。そのダビデの子ソロモンのあとを継いだ王レハブアムは母親がアンモン人のナアマという人であり、つまりソロモンはアンモン人の女性との間にあとつぎをもうけたことになります。   すると、どういうことになるでしょうか? ダビデ王家はモアブ人とアンモン人双方の血が流れていることになります。このダビデ王家のすえにおられる方はどなたでしょうか? イエスさまです! ということはイエスさまの先祖は、モアブ人でもあり、アンモン人でもあるのです。   全能の神さまの御前に、宿命ということはありません。神さまはみこころのままに人をお救いになり、人を立てられます。こんな血筋に生まれたから絶望するしかない、ということは、主にあってあり得ないことです。…

とりなし手となろう

聖書箇所;創世記18:16~33 メッセージ題目;とりなし手となろう 先日、東京を中心に「路傍伝道」、道行く人々に福音を伝える働きをなさっている、菅野直基先生という方とお話しする機会がありました。路傍伝道を展開される際の苦労話などいろいろお伺いしましたが、中でも面白い、というか、クリスチャン生活全般において実に示唆に富むできごとについても分かち合ってくださいました。 それは、とりなしの祈りの持つ力についてです。それは原宿の竹下通りで伝道していらっしゃったときのことだそうですが、道行く人々にチラシを配ろうとしてもなかなか受け取ってくれない。ちょっと、霊的な妨げのようなものを感じたのだそうです。 すると、その伝道チームのうちの何人かが、とりなしの祈りをすることを買って出て、祈りはじめました。すると、不思議なように、するするとチラシを配ることができるようになったそうです。このことについて菅野先生は、イスラエルとアマレクとの戦いにおいて、とりなしの祈りをささげるモーセの天に挙げた手を両側から支えた、アロンとフルのようだったとおっしゃいました。 今日は、とりなしの祈りについて学びます。本日の箇所のアブラハムの姿から、私たちもとりなして祈る者となるために何を学ぶべきか、ともに見てまいりたいと思います。 先週学びましたとおり、神さまと御使いたちの一行が、アブラハムのもとを訪ねてきました。そのとき、サラの不信仰が取り扱われたというのが、先週学んだ内容です。今週の箇所は、それに引きつづく箇所で、主はアブラハムに語っておられます。これもまた、主がアブラハムのもとを訪ねてこられた目的でもありました。 16節です。……主はソドムを見下ろしておられました。神さまが来られた目的は、ソドムに対するさばきにありました。このことについてはあとで詳しくお話しするとして、17節以下の主のみことばをまず見ておきたいと思います。 17節のみことばです。……主はすべてを超えて存在される、大いなるお方です。まことに、主のみこころは計り知れません。だからこそこのお方は、神さまであると言うことができるでしょう。しかし、このお方はときに、みこころにかなう人に対し、その隠されたみこころをお示しになることがあります。 このとき、主がアブラハムを選び、そのみこころをお示しになったこともそうでした。アブラハムが主のみこころを知ることができたのも、まさしく、主の一方的なあわれみのゆえでした。 私たちも、神さまの隠されたみこころを受け取ることができます。それは、聖書に余すところなく示されています。ただし、私たちがみこころを受け取るには、この聖書が誤りなき神のみことばであると受け入れていることが条件になります。 まさしく、アブラハムが目の前におられる方のお声を主のみことばと受け取れたように、私たちも、この聖書のことばを神のことばとして受け取ることです。主は、大いなるみこころを、私たちに示してくださいます。 それでは主は、何をアブラハムに隠さないで示してくださったのでしょうか? それはソドムとゴモラに対するさばきですが、その前提として、神さまがどれほど、アブラハムを特別な存在として選んでおられたか、そのみこころが描写されたみことばが登場します。それが、17節から19節のみことばです。 18節をご覧ください。主はアブラハムとその子孫を祝福されることを宣言されました。この宣言は、すでに、創世記12章、13章、15章、17章で語られ、聖書に記録されているだけでも5度目になります。主がこの年老いたアブラハムから祝福の子孫を生まれさせてくださるということを、これでもか、これでもか、と語ってくださったのでした。 私の神学生時代、弟子訓練という形で私の霊的ケアをいっしょうけんめいしてくださった牧師先生、ホン・ジョンギ先生という方は、よくおっしゃっていました。神さまとアブラハムとの関係について、それはアブラハムが神さまに「説得される」プロセスだった。とても印象に残るおことばでした。 アブラハムは信仰の父として選ばれましたが、何かの折に人間的な不信仰が現れてしまうものでした。しかしそのようなアブラハムのことを神さまは決してあきらめることはなさらず、これでもか、これでもか、と説得してくださり、そのようにしてアブラハムは、信仰の父としての成長を遂げることができたのでした。 私たちの歩みもそうです。私たちも信仰によって歩むことが必要であると知っていても、なんと人間的、肉的になってしまうものでしょうか。しかし、神さまはそんな私たちのことを諦めることはなさいません。何度でも、何度でも、私たちをみことばによって説得してくださり、信仰者としての道に戻してくださいます。 私たちもこの主の恵みに感謝こそすれ、甘えることはせずに、主の御声をお聞きする歩み、信仰者としてつくりかえられる歩みをとどめないでまいりたいと思います。 もう少し、アブラハムへの祝福の内容を具体的に見てみましょう。18節にあるとおり、アブラハムは強く大いなる国民となります。しかしそれは、自分たちだけが祝福されて、あとは祝福されない、という意味ではありません。「地のすべての国民は彼によって祝福される」とあります。 祝福をもたらす権威が与えられている、ということは、大いなることです。もし、その人が祝福を祈ったら、その祈られた対象は祝福されるのです。その存在に対して神さまがみこころを注がれるのです。実に、神の人の祈りには、絶大な力があります。このことについては、あとの箇所で大事な意味を持つようになりますので、まずは覚えておいていただければと思います。 しかし、神さまがひとたび選ばれたならば「自動的に」祝福され、地上に祝福をもたらす存在になるかといえば、それはちがいます。19節をご覧ください。神さまがアブラハムを召し出された理由が書かれています。……まず、アブラハムがその子どもたちとのちの家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるため、とあります。 正義と公正。これが主のみこころです。しかし、これは神の民としてひとたび選ばれたならば、自動的に実践できるものではありません。そうと意識して守り行なうことが必要になります。それは、一歩間違えると、まったく正反対のこと、罪を行うようになってしまうからです。 イザヤ書5章7節を見てください。実は、「公正」と「流血」、「正義」と「悲鳴」は、表裏一体ともいえるものです。ヘブライ語で「公正」は「ミシュパート」に対して「流血」は「ミスパーハ」、そして「正義」は「ツェダーカー」に対して「悲鳴」は「ツェアーカー」、もちろんこの両者は、ヘブライ語の文字で書いてもよく似ています。 「公正」や「正義」は、神の民だからと自動的に備えることができるものではなく、むしろ、神の民であるぶん、より責任をもって「公正」や「正義」を行うべく主のみことばを積極的に守りなさい、と警告されているわけです。 そのようにして、正義と公正を行うことによって主のみことばを守ることは、どのような結果をもたらすでしょうか? 主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就する、とあります。 まことに、信仰とは、みことばを守り行なうことによって完成されるものです。間違ってはなりませんが、行いを積み重ねて救われるのではなく、救われるのはあくまで、信仰によることです。しかし、ひとたび信仰によって救われたならば、その信仰による救いのあまりの素晴らしさに、みことばを行わずにはいられない……信仰は、行いという形で生活に実が結ばれてしかるべきです。このあたりのことは、あとでおうちにお帰りになって、ヤコブの手紙をお読みいただきたいと思います。 さて、20節にまいりましょう。ここで主が、アブラハムに隠さないで伝えようとされたみこころが登場します。そうです、このソドムとゴモラの悪は、主のみもとにまで立ち上っていました。この町を滅ぼすべきか見てみるつもりだ、という、神さまのみこころを、主はアブラハムにお示しになりました。 神さまはときに、滅びをもたらすお方である……しかし、こういう聖書箇所を読むと、必ずこんな反応をする人がいるものです。残酷だ! 人を滅ぼすなんて、そんな神さまは残酷だ! そんな神さまなど信じるものか! しかし、それなら、そういう方々に問いたいのです。悪を放置することが神さまの愛なのでしょうか? 悪が放置されているならいるで、問題にはならないでしょうか? なぜこの世界にはこんなにも悪があふれているのか! 神はいるのか! そういうことにならないでしょうか? 聖書は、そのような悪の中にいる者たちに対して、神さまは速やかにさばきを行われるお方であると語っています。私たちが信じるべきは、このさばき主なる神さまです。恐れるべきお方です。私たちも本来、神さまのさばきを受けるに値する罪人であったことを覚える必要があります。 しかし、このみこころが示されるや、アブラハムは神さまの前に立ちはだかりました。23節です。 もし、悪い者がその悪さのゆえに滅ぼされるならば、ある意味、彼らは自分のその悪の責任を取らされたということであり、しかたのないことでしょう。しかし、その中に正しい人、すなわち、神さまのみこころにかなった人がいて、その者たちまで彼らの巻き添えになるとしたらどうでしょうか。あってはならないことです。それこそ、神さまご自身の正義と公正はどこにあることになるのでしょうか。 アブラハムは、神さまが正義と公正のお方であることに訴えました。正しい人が50人いれば滅ぼさないでください! すると、神さまはこの訴えを聞いてくださいました。26節です。その人たちのゆえに、その町のすべてを赦そう。 むかし読んだ本、それは聖書に関するキリスト教書籍というよりも、一般の世界史の謎のような本でしたが、神さまが悪に満ちたソドムとゴモラを天の火をもって焼き滅ぼされたという記事の中に、このようなことが書かれていました。「現代だったら、何度でも焼き滅ぼされているのではないだろうか。」 みなさま、そう思いませんか? このところ妻と私は、世界にどれほど悪がはびこっているか、そのようなニュースばかりに接して、暗澹たる気分になっています。今にも神さまは、こんな悪い世界など、滅ぼし尽くすのではないかと思えてならなくなります。しかし、神さまはまだあわれみをもって、この世界を滅ぼさないでいらっしゃいます。それは、神さまの御目から見て正しい人の数が、まだこの地に満ちているからではないでしょうか? イエスさまは、あなたがたは地の塩です、とおっしゃいました。地の塩とは、この世を腐敗から救う防腐剤としての役割をする存在です。食べ物が腐らないように塩するには、たくさんの塩を使う必要はありません。少しでも充分に腐らなくなります。それと同じで、私たちクリスチャンは少ないように思えるかもしれませんが、それでも私たちが塩としての役割を果たすことによって、この世界は腐敗から免れます。まさに、ソドムに50人の義人がいれば、彼らに免じて主はすべてをお赦しになるのです。わずかの義人の存在は、どれほど大事なものでしょうか。 しかし、もしかすると義人は50人もいないかもしれない。そうなったら、神さまは滅ぼされよう。しかし、それであきらめるアブラハムではありませんでした。まず27節です。 まず、祈る者にとっては、この認識が必要です。アブラハムは信仰の父として選ばれていますが、神さまの御目にはちりや灰にすぎません。神さまに何か申し上げられるような立場になどありません。そのことを悟ることが、主の御前に出る上での第一条件です。自分はひとかどの人間のように思う態度では、主の御前に出る資格はありません。 アブラハムは、ちりや灰であると告白しました。自分がそのような存在であると、心底知っていました。しかし、ソドムとゴモラを主の怒りの日から救えるかどうかは、自分の祈りにかかっていることも知っていました。さきほども学びましたとおり、地のすべての国民がアブラハムによって祝福されることがみこころである以上、彼はソドムとゴモラの祝福を祈らなければならなかったのでした。 しかし、神さまが受け入れられた条件は、義人50人でした。この条件に不足するということは、すなわち、神さまがお赦しになる条件を満たしていない、ということを意味します。アブラハムは、その条件にやや不足して、義人が45人ならば、それでもあなたさまは滅ぼされるのですか、と、神さまに食い下がりました。 神さまはアブラハムの祈りを聞かれました。滅ぼしはしない。 しかし、アブラハムはそれであきらめることはしませんでした。40人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめませんでした。お怒りにならないでください。30人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめません。あえて申し上げます。20人なら? 滅ぼしはしない。 あのソドムとゴモラに、義人がたった20人。悪が圧倒している状態です。その悪は依然として、主のみもとに立ち上ることでしょう。しかし主は忍耐して、その20人のゆえに町を赦すと約束してくださいました。しかしそれでも、アブラハムはあきらめませんでした。32節です。 しかし、これで主はアブラハムのもとを去って行かれました。アブラハムも帰りました。これが主のみこころだったので、受け入れるばかりでした。 もちろん、これほどまでにアブラハムが祈りつづけたのは、愛する甥のロトの存在を思ってゆえでした。彼には助かってもらわなくては! 天から炎が下ってはおしまいだ! しかし結果として、ソドムとゴモラには天から火が下りました。そうです。義人は10人もいなかったのです。ロトの家族しかいませんでした。ロト自身、ロトの妻、ロトの2人の娘、その夫たち……合わせて6人。逃げなさい! 主の命令が下りました。しかし、ロトの婿たちはソドムの滅亡を冗談ととらえて信じようとせず、結局、御使いに連れ出されるしかなくなり、連れ出されたのは、ロトの妻と娘たちだけ、しかも、ロトの妻は主のみことばを守らず、死んでしまいました。その娘たちもあとになって、極めて不道徳な形で子どもをもうけるということをしており、その子孫はイスラエルに敵対する民族となりました。ほんとうの意味で正しいだったのは、第二ペテロ2章の語るとおり、ロトでした。 アブラハムは、ロトに助かってもらいたい一心で、とにかくとりなしの祈りをささげました。50人なら! 45人なら! 40人なら! 30人なら! 20人なら! 10人なら! 実に6度も食い下がりました。 みなさま、こんな悪い世界など滅ぼされるのがみこころだ、自分たちはどうせ、この悪い世界から救われて天国に行くのだから関係ない、などとお考えではないでしょうか? それは絶対に主の願っておられる態度ではありません。私たちは世界を祝福する立場にあります。とりなして祈る立場にあります。 残念なことに、私たちの生きて暮らしている世界は、とても悪いです。どれほど多くの人が、神さまのみこころを損ない、その道を乱していることでしょうか。しかし私たちは、この世界にやがて主がもたらすと警告された火のさばきを、ただ待っているだけでいてはなりません。とりなして祈る必要があります。神は愛です、とみことばが語るとおりの、その神さまの愛によりすがって、どうかこの世界を滅ぼさないでください、この世界から正しい人を救い出してください、と、祈るのです。 神は愛、ということは、私さえ愛されればそれでいい、ということでは、絶対にありません。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 これがみこころです。間違ってはいけません。神は愛なのです。しかし主は、やがてこの世界を火をもって滅ぼすときのことを、みことばにおいて警告されています。その日に、義人として主の御前に立つべき人が滅ぼされてはなりません。 私たちは、愛する人のために祈っていますでしょうか? ちょっと祈っても救われないからと、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることをやめていないでしょうか? あるいは、この世界がよくなるように祈っても、少しもよくならないから、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることを諦めてはいないでしょうか? それは、地に祝福をもたらす責任を放棄していることです。いざとなればロトのことを特別に滅びから救い出された主は、この世の終わりの滅びからも、私たちの愛する人たちを救い出してくださいます。私たちはそう信じているならば、粘り強く、祈ってまいりたいものす。それが、信仰によって生きる、祝福の源としての私たちの生きる道です。…

不信仰は取り扱われる

聖書箇所;創世記18:1~15/メッセージ題目;不信仰は取り扱われる  何度かメッセージの時間にお話ししている、ダウン症のあっこちゃんのことをお話しします。彼女はとても喜んでバイブルキャンプから帰って来ましたが、そのことは、教会に深入りすることを望まないお母さんをうろたえさせ、それを見て取ったあっこちゃんは、あれだけ恵まれたキャンプを境に、ぱったり教会に来なくなりました。  そんなあっこちゃんを心配して、日曜学校の先生があっこちゃんに電話をしました。するとあっこちゃんは、こんなことを言ったというのです。……このあいだ、イエスさまが私のお部屋にやって来たの。どんな恰好かっていうと、立派な格好じゃなくて、パジャマを着ていたの。行くところがないから、あたしの部屋にやって来たんだって!  先生はそれを聞いて感動されたそうです。私はその話を日曜学校の先生にお伺いして、ああ、よかったなあ、と思ったものでした。あの純粋な信仰を持ったあっこちゃんには、イエスさまのお気持ちがよくわかるのだろうなあ、とも思いました。  もし仮に、イエスさまが私たちの家にやってきたら、私たちならどのように接するでしょうか? ちゃんとお迎えして、おもてなしするでしょうか? それとも、イエスさまだとわからなくて、面倒をかけないでよ、と、追い出してしまうでしょうか? ちゃんとお迎えできる、子どものような信仰を保っていますでしょうか?  さあ、今日の箇所は、アブラハムが神さまをお迎えし、おもてなししたというお話です。神さま、そしてその使いが人の姿を取ってこの世界に臨んだという記述は、創世記18章と19章に登場しています。18章はアブラハムの一行のいるマムレの樫の木の場所、19章はロトのいるソドムでのお話で、とても対照的です。今日は18章の、アブラハムが神さまとその使いの、3人のお客さんを迎えた場面から学びます。  主とその使いは、人の姿を取って、アブラハムのとどまっていた天幕の前までやってきました。アブラハムはこのお方がどなたなのか、たちどころに分かりました。アブラハムは急いで走っていって、この一行をお迎えしました。  神さまはご自身の時に従って、私たちのうちに臨まれます。このときもアブラハムは、神さまが臨まれるというご予定を知らずにいました。しかし現れたのが神さまだと知るや否や、すぐに走っていきました、 先月学びました、ヨハネの福音書11章のみことばでは、イエスさまが神の時、神さまのタイムスケジュールに従って歩まれたことを学びました。神さまの時は、しばしば人の予測するときとは異なるものです。また、神さまは思いがけない時に臨まれます。 このときのアブラハムもそうでした。お客さんを迎えに走っていく、これは普通、アブラハムの生きた中東の習慣にはないことです。しかしアブラハムは神さまの御前だからと、なりふり構わず駆けよっていきました。神の箱の前で恥も外聞も捨てて踊り跳ね回ったダビデ、イエスさまに再会したけれども裸だったのでうれしはずかし、服をまとって湖に飛び込んで泳いでいったペテロのようです。まさにイエスさまのおっしゃる、子どものように神の国を受け入れる人! アブラハムは年長の男性としての威厳も捨てて、子どものようにこの一行に駆け寄り、まず、ひれ伏して礼をしました。そして、足を洗うための水を用意しました。まさしく、おもてなしです。そして、「食べ物を少し持って参ります」と言っていますが、約23リットルとたっぷりの小麦粉でパン菓子をつくらせ、柔らかくておいしそうな子牛を料理させました。この野にある天幕生活にあって、最高のおもてなしです。 アブラハムは、神さまと契約を結んでいただき、永遠のいのちに生かされ、また、のちの子孫、すなわち、アブラハムのように信仰をもって主を受け入れる人たちもまた永遠のいのちに生かしていただくという約束を神さまからいただきました。アブラハムはどれほど、神さまに感謝していることでしょうか。その感謝の表現が、こうして、ささげ物をもってするもてなしへと実を結んだのです。 そしてアブラハムは、自分も食卓にあずかったわけではありません。給仕をしています。先週学びましたラザロの三きょうだいの箇所でも、マルタはイエスさまをはじめ、お客さんたちに給仕をすることによって、主を礼拝する表現をしています。アブラハムのこの箇所でも、奉仕とは信仰の表現、礼拝の表現であることがわかります。 子どものように神の国を受け入れる、と申しました。しかし、子どもっぽい、つまり分別がない、しつけられていない子どものような状態では困ります。そういう幼稚な状態では、仕えることよりも仕えられることを求めるようになります。それではいつまでたっても、神の子どもとしての成長を期待することはできません。 「子どもっぽい」と「子どもらしい」はちがいます。アブラハムの場合は「子どもらしい」です。全能の神さまがみわざをなしてくださると語られたら、そのとおりに素直に信じる。神さまの御前に出るときには、後先のことを考えないで、持てるかぎり最高のものをおささげする。こういうことが大人になると、できなくなる人がなんと多いことでしょう。 私たちは子どもの信仰、素直に神の国を受け入れる信仰を保たせていただきたいものです。神の国……信仰によってイエスさまを受け入れた者たちを、主ご自身が統べ治めてくださる御国、それは私たちのただ中に実現させてくださるもので、神の国を実現させていただくには、なによりも、私たちが子どものようになることです。 神さまはこのように、アブラハムに対し、幾たびかの訓練をとおして純粋な信仰をくださいました。特に、この年老いた身から男の子を生まれさせ、その子孫が星の数のように増やされるという約束を受け入れるとは、どれほど純粋な信仰へときよめられたことでしょうか。しかし、アブラハムがこの信仰を持つことができたように、私たちもこの信仰を持たせていただくことができるのです。それこそ、信仰を働かせてまいりましょう。 しかし、アブラハムのこの信仰が完成させられるために、その信仰が取り扱われなければならない人がいました。それはサラです。 神さまははっきりと、90歳になるサラから男の子が生まれ、その男の子から子孫が増え広がることを約束されました。しかし、このことをアブラハムは信じ受け入れましたが、サラの場合は、それを信じ受け入れるためには、神さまが直接介入してくださることを必要としていました。 私は男なので感覚的にわからないことばかりですが、女性にとっての生理というものは、いわく表現しがたい感覚になるものと聞いております。しかし、女性の方が月に1回の生理を迎えるなら、そのなんともいえない苦痛とともに、血を流されることによって、女性とはいのちを生み出す存在であることをとても実感されるのではないかと想像します。まさに聖書の語るとおり、血はいのち、それが如実に実感できるように、神さまは女性という存在に生理というものを許されたのかもしれません。 サラは、生理が止まって久しくなっていました。90歳にもなるのだから当たり前です。ただでさえもともと、サラは子どもを産めないまま生きてきました。しかも生理まで止まって、90歳にまでなってしまいました。神さまから何と言われようとも、サラの絶望はリアルです。なんと言っていますでしょうか? 12節です。   ……私も老いぼれた、主人も老いぼれた、私にはもはや、子どもをもうける楽しみなんてあるわけないでしょう、ご冗談はおよしください……。サラは、おのが身の悲しさに、心の中で薄笑いを浮かべました。  この笑いは、それまでの人生において子どもを与えてくださらなかった、神さまへの怒り、抗議、また、絶望も多分に含んでいると言えましょう。この時代は、子どもが与えられないということは、その人は祝福されていないと世間に思われていました。アブラハムもサラも子どもを欲しがり、召し使いのハガルによって子どもを産ませるということをしたくらいです。しかし、しょせんその子どもはサラが直接はらんで産んだ子どもではありません。ハガルの存在はサラにとってとても疎ましいものとなってしまう、という悲しい結果を生みました。  神さま、あなたは私にこの齢になるまで、子どもを与えてくださらなかったじゃないですか。子どもを産む? 今さら何をおっしゃるのですか。冗談ではありませんよ。もう、怒る気も起きませんわ。サラのそんな深い悲しみも見えてくるようです。  しかし、アブラハムが信仰の父であるかぎり、サラは信仰の子どもたちを数限りなく産む、いわば「母親」です。彼女の不信仰は神さまの御手に取り扱われる必要がありました。13節、14節をお読みしましょう。  まず13節です。主はサラの感情をお見通しでした。主は、サラの不信仰を問題にされました。しかし、よくご覧ください。すぐそばにサラが立ってはいましたが、この厳しい質問を投げかけられた相手は、アブラハムです。  つまり、サラの信仰が確立するか否かは、アブラハムの信仰にかかっていて、さらには、その信仰をもとに、どれほど普段からアブラハムがサラを教えていたかにかかっているということです。  もともと、サラが子どもを産むというお告げを受けたのはアブラハムです。それならばアブラハムは、普段からサラに対し、あなたは男の子を産む、信じなさい、と教えるべきでした。しかし、このように主が現れて直接語られる、という、千載一遇のチャンスに、みじめにもサラは、不信仰の姿をさらしてしまいました。それはアブラハムの責任でもありました。 12節でサラはアブラハムを、「主人」と呼んでいます。この呼び名は重要です。これは第一ペテロ3章6節にある、サラがアブラハムを「主」と呼んで従った、という記述の重要な根拠になります。しかし、責任が重いのは、従う側のサラではなく、従わせる側のアブラハムです。いざというときに不信仰の態度を示してしまったサラの責任を、神さまはアブラハムに問うていらっしゃいます。  では、なぜ、サラは信じなければならなかったのでしょうか。笑ってはならなかったのでしょうか。それは14節に記されているとおりです。  まず、主にとって不可能なことがあるだろうか、いや、ない。主は全能だからです。生理が止まったすでにおばあちゃんになって久しいサラからでも男の子を生まれさせてくださり、その子から子孫を星の数のように生まれさせてくださることなど、全能なる神さまには当然おできになることです。  しかし、この全能のみわざは、神さまの時に従って行われることです。「来年の今ごろ、定めた時に」とあります。神さまがみこころによって、みわざを行われる時を定められます。サラにとってその「時」とは、90歳のおばあちゃんになったときだった、というわけです。このことにより神さまは、ご自身が全能の神さまであることをお示しになられるというわけです。  人が思い描く時というものと、神さまが計画しておられる時というものは、しばしば異なるものです。イエスさまがラザロのもとをお訪ねになるのも神さまの時に従われた結果で、そのことによって、ラザロは死んだがイエスさまによって生き返らされ、イエスさまが全能の神さまであることが示され、主のご栄光が顕された、というわけです。  私たちにしても、自分の思い描いていることが実現しないでやきもきすることもあるでしょう。しかし、私たちは忘れてはなりません。つねに実現するのは、神さまの時です。そして、それが最善なのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とあるとおりです。  だから私たちは、神さまが時にかなって実現してくださるみこころを信じ、握りしめているものを手離す決断もときに必要です。私たちが何らかの計画を立てることもたしかに大事ですが、それ以上に大事なのは、ヤコブの手紙4章15節にあるとおり、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と、私たちの生活のすべての領域において、その時に従ってみわざを行われる主のご主権におゆだねすることです。  さて、サラは、このように何もかもお見通しの主のおことばに、怖ろしくなりました。サラは「私は笑っていません」と言いました。しかし、主は容赦されません。「いや、確かにあなたは笑った。」  サラの不信仰は、世間の常識で考えれば、思い描いて当然のことと思われるでしょう。おばあさんが出産するだなんて! しかし、主の御目には、これは罪なのです。主のおっしゃること、主のご計画を信じていないことは、どんな理由づけをしようと、罪は罪です。  さらにその上、サラは自分の不信仰が問われると、自分は否定的な反応、皮肉な反応をしなかったと、ごまかしました。しかし、主は容赦されません。あなたは確かに笑った、あなたが不信仰の罪を犯したことをきちんと認め、悔い改めなさい、と迫られます。  あなたは確かに笑った。このお取り扱いは、私たちにも向けられています。書店のキリスト教のコーナーをご覧ください。図書館のキリスト教のコーナーをご覧ください。テレビなどで放映されるキリスト教に関する番組をご覧ください。  それらのものは相当多くが、聖書の記述が現代の科学や常識と合わないからと、むりやり合理的な説明をしていたり、さらには、聖書の記述が間違いであるかのように語ったりしています。まさに、サラのごとく、神さまが全能であることを信じず、全能の神さまに対してうすら笑いを浮かべているのです。  世の中の人々は、そういうものがキリスト教だと思わされています。しかし、それはキリスト教を「標榜」しているだけで、アブラハムが持つ純粋な信仰、子どものような信仰からしたら、あまりに距離がありすぎるものです。私たちは、書店に並んでいるからとか、図書館に並んでいるからと、それらの信仰的ではない資料に権威を覚えたりする必要はありません。  しかし、このサラのうすら笑いは、この世界に生きる私たちもしばしば心にいだいてしまうものであることを、謙遜に認める必要があります。私たちは果たして、聖書と、テレビ番組と、どちらを信頼しますでしょうか? 聖書と、家族の言うことと、どちらを信頼しますでしょうか? 私たちがこの「世間」というものに囲まれているということは、それだけ、その「世間」で通用する「常識」というものが、私たちを純粋な聖書信仰から遠ざけてしまうものであるということを、私たちは認め、そこから守られるように祈る必要があります。  本日から始まる「いのちの道コース」は、アブラハムのように純粋な信仰を持つ上で、そして、サラのように神さまのみことばに対して皮肉な笑いを浮かべない、主に喜ばれるものとなるために、ぜひとも教会全体で共有してまいりたい学びです。しっかり取り組むことで、アブラハムの信仰を受け継ぐ、すなわち、主を信じることによって義と認められる、という、その信仰を受け継ぐ、主に喜ばれる者として整えられる体験をしてまいりたいのです。  もう一度問います。私たちの信仰は子どものようでしょうか? 子どもっぽい、ではなく、子どもらしい、です。この子どもらしい信仰により、私たちは心からささげる生き方、仕える生き方をしてまいります。神さまのみことばを疑わずに、笑わずに受け入れるようになります。もし、私たちのうちに不信仰があるなら、神さまのお取り扱いの御手にゆだね、純粋な信仰を持たせていただくように、ともに祈ってまいりたいものです。 純粋な信仰――その信仰が私たちのうちにともに育てられ、神さまに喜ばれる共同体となることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

三きょうだいに学ぶ礼拝

聖書箇所;ヨハネの福音書12:1~11/メッセージ題目;三きょうだいに学ぶ礼拝  もし、みなさんが、2000年前のパレスチナの、エルサレムにほど近い、ベタニアという町にいたとしましょう。その町には、三人で肩寄せ合って暮らしている、けなげなきょうだいがいました。ところがその家は、その中の男のきょうだい、ラザロが亡くなるという悲劇に見舞われました。 そのおうちでラザロのお葬式が執り行われ、人々はわんわん泣いている姉妹たちを慰めてあげたりしました。ところがそこに、この三きょうだいが慕ってやまない、イエスさまがやってきて、ラザロを生き返らせました。もちろん、このことは大変な話題となりました。ところがイエスさまは、このできごとのあとに、姿を消してしまいました。  さて、ユダヤの一大イベントの過越の祭りがあと6日に迫りました。そのとき、イエスさまは再び現れ、この三きょうだいのもとに来られました。たくさんの人が集まります。さあ、みなさんならここに来たいと思いませんか? あのよみがえったラザロに会えるのです! いえ、それ以上に、ラザロをよみがえらせたイエスさまに会えるのです! それもごはんつきです! 私なら行っちゃいます。  さあ、それでは、みなさまもこの復活パーティーの現場にいると思って、今日のみことばからともに恵みをいただいてまいりたいと思います。  このパーティーは、イエスさまをお迎えしてのパーティーです。シモンという人の家を借りて行われましたが、このホスト役は、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいです。この三きょうだいは、イエスさまへの礼拝という観点から見て、実に際立った模範を示しています。  まずはマルタから見てまいりましょう。マルタは、奉仕をもって主を礼拝しました。言い換えれば、マルタは彼女の「現在をささげました」。  2節のみことばをお読みしましょう。「人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」  ベタニアの人たちは、食事を用意することでイエスさまをもてなす奉仕をしました。しかしこの中で、ホスト役として腕を振るっていたのはマルタです。「マルタは給仕し」と、わざわざ書いてあるとおりです。  マルタにとって、仕えること、特に食事の奉仕をすることは、賜物とさえ言えるものでした。ルカの福音書10章で、イエスさまのご一行をこの三きょうだいの家がお迎えしたという場面が出てまいります。そのとき、マルタが忙しく立ち働いていたことが記録されています。ただ、忙しさにわれを忘れ、手伝ってくれない姉妹のマリアを叱ってやってくださいな、と、イエスさまに言いつけるようなことをしてしまって、かえってそのせいで、イエスさまに注意されています。  それでもマルタは、こうしてイエスさまをはじめ、やってくるお客さんたちをこうしておもてなししているのは、やはり奉仕というものが、マルタにとっての賜物だったからといえるでしょう。  賜物を用いて奉仕するということは、現在自分に与えられているものを用いて主を礼拝するということでもあります。礼拝とは、いまこうして、日曜日の午前10時半から1時間ほどの時間を用いて礼拝することだけを指しているのではありません。もちろん、この時間もとても大事な礼拝の時間ですが、ローマ人への手紙12章1節には、何と書いてありますでしょうか?「ですから、兄弟たち。私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」  からだをもって献げることがふさわしい礼拝……以前の訳の聖書では、この「ふさわしい礼拝」ということばを、「霊的な礼拝」と訳しています。それは、現在持てるものをことごとくささげる生き方をする、ということであり、それが聖徒としてふさわしいことであり、また霊的である、ということです。 マルタは、イエスさまやその一行、また、そのほかにやって来た人たちをもてなすという、いわば「労働」をしました。それは、体力があってこそ可能なことであり、マルタはいわば、今与えられている「健康」を主にささげたことになります。 また、やってきた人たちは彼女の近所の人、友達、知り合いであることを考えると、マルタは、彼らのことをイエスさまの御前に導くという点で、「人間関係」を主にささげてもいます。もちろん、自分で食べ物や飲み物も用意したでしょう。「財物」もささげています。 私たちが「奉仕」をしたり、「伝道」をしたり、「献金」をしたり、といったことは、そういう文脈で考えると、「ささげる」ことではありますが、この世で言うところの宗教行為と同じとは言えません。そうすることで私たちの霊的ステージを上げて、より天国に近づく、などと考えるのは大間違いです。 私たちはすでに、イエスさまとその十字架を信じる信仰によって、天国に入れていただいています。何かの努力や犠牲で天国に入ろうと思ったり、またそのように人に教えたりすることは、絶対にしてはなりません。 しかしそれでも、私たちはこの与えていただいた救いの恵み、天国の恵みに何か応えたくはならないでしょうか? 生活に行いの実が結ばれていくのです。 行いの実が結ばれていくプロセスで、私たちは、私たちに財物が与えられていることに感謝して、お金をささげる「献金」や、ものをささげる「献品」をするのです。救いを与えてくださった神さまを礼拝する喜びを伝えたくて、与えられている人間関係に感謝しつつ「伝道」をするのです。健康や技術が今自分に与えられていることを感謝し、その感謝の表現として「奉仕」をするのです。 すべては、現在の自分をもってささげる礼拝のあり方で、ローマ12章1節のみことばに従順にお従いする「表現」です。 そういうわけでマルタは、現在の自分をささげました。もちろんこれは、宗教行為などというレベルの話ではありません。きょうだいラザロを復活させてくださったイエスさまは、ご自身語ってくださったとおり、よみがえりであり、いのちであり、イエスさまを信じる者は死んでも生きる。生きていてイエスさまを信じる者は、決して死ぬことがない。……このイエスさまを前にして、マルタは正しい信仰を持たせていただいたわけです。 本来罪に死ぬはずだった私が生かしていただいた。永遠のいのちを与えていただいた。この信仰を持たせていただいたことに感謝して、マルタは自分の「現在」をおささげしたのです。 私たちの礼拝も、イエスさまによって罪赦されて神さまの子どもとなり、永遠のいのちを与えていただいたことに由来するものです。この時間にささげている礼拝も、献金も、奉仕も、伝道も、すべては永遠のいのちへの応答、感謝の表現です。私たちはこの永遠のいのちの恵みに感謝して、真剣に私たち自身をささげてまいりたいと思います。 次に、マリアを見てみましょう。マリアは彼女の、「未来をささげました」。 3節をご覧ください。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」 この短い記述をよく読むと、マリアがイエスさまに対して何をしたか、実にいろいろなことがわかってきます。 ナルドの香油、これは嫁入り道具です。とても高価なものです。一リトラ、これは欄外の脚注によれば328グラムであり、よく女性の方や男性の方が手にしておられる香水の瓶よりもよほど分量があります。並行箇所であるマルコの福音書14章によれば、この女性はこのナルド香油の壺を割ってイエスさまに注いだとあります。家は香油の香りでいっぱいになりました。 彼ら三きょうだいがイエスさまとそのご一行をもてなした場所は、さきほども申しました、シモンという人の家です。しかしこのシモンは、マルコの福音書によれば、当時差別されていた病気、ツァラアトの患者でした。そんな人の家であったことを考えると、この三きょうだいの経済状況は推して知るべしです。そんなマリアが嫁入り道具に取っておいたナルドの香油は、売れば300デナリにもなります。それは、1デナリが一日分の賃金に相当することを考えると、何百万円もする宝物です。 それは嫁入り道具、本来、花婿のために使われるべきものです。それを惜しげもなくイエスさまに注いだということは、私の花婿はイエスさまです、と、みなの前で告白した、ということです。家中に広がったナルド香油の芳香をかいだ満場のお客さんたちは、このマリアの犠牲を伴った信仰告白に、まことの花婿とはイエスさまであることを、弥が上にも実感したことでしょう。 ヨハネの黙示録に描かれていることですが、終わりの日には、子羊なるイエスさまと花嫁なる教会の結婚式が持たれます。教会は飾られた花嫁として、聖くされた姿をもって子羊なるキリストの前に出ていきます。先週、結婚式の話をしましたが、結婚式というものは、このキリストと教会の結婚式、窮極の結婚式を象徴していると言えます。 私たち教会はイエスさまというお方にふさわしくなるように、御霊によってきよめられ、整えられ、花嫁として御前に出ていくのです。まことに、私たちにとってのこの地上の歩みは、イエスさまの花嫁修業です。 マリアは、未来にだれかこの世界の男性のお嫁さんになることを諦めてでも、イエスさまの花嫁になることを選びました。なぜ、これだけの献身ができたのでしょうか? それは、愛する兄弟ラザロをよみがえらせてくださったイエスさまに対し、自分の未来を託す信仰を持つことができたからでした。 イエスさまはラザロをよみがえらせてくださったように、いずれこの地上でいのち果てる私のことも終わりの日によみがえらせてくださり、花嫁としてくださり、永遠にイエスさまともに生きる者としてくださる……その信仰をマリアは、自分の持てる最高のもの、嫁入り道具の香油をささげ尽くすことにより、はっきりと表明したのでした。 このことをイエスさまは、7節のみことばで、このように評価していらっしゃいます。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」 マリアは、イエスさまが兄弟ラザロをよみがえらされたことが宗教指導者たちを激怒させ、彼ら宗教指導者たちが、イエスさまを死刑にするために捜査をはじめたことを知っていました。もはやイエスさまに残された時間はわずか、自分もイエスさまに会える時間はわずかしかない……マリアは、そのわずかの時間に懸けたのでした。 礼拝とは、イエスさまの死と復活にあずかることです。本日の礼拝において「主の晩さん」が執り行われますが、「主の晩さん」はイエスさまの死にあずかることであり、私たちにとっては極めて大事なものです。これを守ることは、イエスさまの死と復活にあずかり永遠のいのちをいただいた私たちにとって、本来、欠かすべからざることです。 しかし、イスカリオテのユダはここで何と言っているでしょうか? 一見すると「正論」ともいえることを主張して、マリアを責めました。こんな高価なナルドの香油をむだにしたとは何事か、これを売れば貧しい人に施しができたではないか……。 しかし、これは一理あるように見えても、イエスさまの御目にはそうではありませんでした。貧しい人を助けることはいつでもできる、しかし、わたしの葬りの備えをすることは、このとき一回限りだ。そのままにさせておきなさい。 もちろんイエスさまは、貧しい人を助けるな、とおっしゃったのではありません。時と場合を見極めよ、とおっしゃったのです。よく言われることですが、ベストの最大の敵はベターです。貧しい人を助けるのは確かに素晴らしいことで、何もしないよりははるかにいいことにはちがいありません。しかし、それは「ベター」です。ほんとうの「ベスト」は、主の十字架と復活、再臨を忍んで、主に礼拝をおささげすることです。 私たちが主を礼拝することは、この世でクリスチャンとして善行を積み、証しを立てることに優先します。クリスチャンとしてのすべてのよい行いは、こうしてともにささげる礼拝から始まります。そこから、生活そのものを聖い生きた供え物としておささげする、生活をもってする礼拝へとつながるのです。 しかし、私たちはこのユダのことばから、さらに真剣に考えるべきことがあります。善行を積もうとすることはしばしば、罪を犯すことに取って代わられる危険があることを、私たちは謙遜に認める必要があります。 この箇所を読むと、ユダがなぜこのような発言をしたか、その背景が語られています。彼は十二弟子の会計係でしたが、この共同体にささげられた献金をひそかに盗んでいました。ユダは、マリアからナルドの香油を受け取ったらそれを売って、それでつくった300デナリの中から盗もうという魂胆だったことが、ここでほのめかされています。 しかし、残念なことですが、こういうことはクリスチャンの間でも、しばしば起こることです。私たちキリスト教会は、神さまを礼拝することに集中すれば基本的にはそれで充分ですが、ときにそれに付随して、いろいろな事業を行います。クリスチャンどうしが集まって学校を経営したり、病院を経営したり、さらには、神学校を経営したり、宣教団体を運営したりと、いろいろな働きが展開されます。 それらの働きは、クリスチャンとしてこの世界に仕えたいという純粋な意図をもって始められ、運営されているものです。素晴らしいことです。しかし、そのような意図を持った働きの中でも、金銭的な問題が起きることはあるものです。それはやはり、神さまの御前に徹底して生きる姿勢がどこかで欠けてしまっているからではないでしょうか。私たちはやはり、イエスさまの助けがなければ片時も生きていけない罪人であることを謙遜に認める必要があります。 だから私たちは、主の御前に真剣に礼拝をささげることが大事になります。礼拝はまるでともに集っている人を意識するように、形だけささげていればそれで充分なのではありません。御霊と真理によって、主の御前に徹底して礼拝をささげることです。御霊に導かれ、真理のみことばを握って、真剣に礼拝をささげるのです。 世の中の人たちは、私たちクリスチャンに対していろいろ期待することがあると思います。特に私たちには、まるでボランティアのような善行を積むことをおそらく世間は期待しているはずです。もちろん、それも大事なことにはちがいありませんが、私たちにとって何よりも大事なのは、私たちが未来のいつかの日に完全に贖われることを望み見て、今日この日に、主の十字架の死と復活、再臨を覚えて、真剣に礼拝をささげることです。 私たちのこの、善行よりも礼拝を最優先にする姿を、世間は理解せず、かえって批判したり、非難したり、あるいは嘲ったりすることもあるかもしれません。 しかし私たちは、終わりの日、贖いの日を見据えるなら、そんな世間の評価など、どれほどのことがあるでしょうか。私たちは周りがどう評価しようと、変わらずに、主に礼拝をささげ、贖いの日を待ち望むのです。 私たちの毎日は、終わりの日、イエスさまと教会との結婚に備える、花嫁修業の日です。私たちはその日を待ち望み、主の御前に徹底して、真剣に礼拝をささげる生き方をしてまいりたいものです。 最後に、ラザロの姿を見てみましょう。ラザロは彼の、「存在そのものをささげました」。 ラザロは、イエスさまに復活させていただいたいのちそのものを生きていました。そしてこのラザロは、ここではどのような存在となっていたでしょうか? 9節をお読みしましょう。「すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらされたラザロを見るためでもあった。」 復活のいのちを生きるラザロは、イエスさまとともにいました。イエスさまがラザロを訪ねてきてくださったからです。私たち、イエスさまによって復活のいのちを生かしていただいている者がイエスさまとともにいさせていただく、そこに礼拝が成り立ちます。ラザロの存在がマルタとマリアを礼拝に導いたように、私たちも復活のいのちに生かされている存在そのものをもって、人々を礼拝へと導くのです。 生き証人、ということばがあります。このラザロの存在は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであられることを、雄弁すぎるほどに語っていました。まさに「生き証人」です。ユダヤ人の群衆は、イエスさまを見に来ただけではありません。ラザロを見て、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを信じるために来たのです。 ラザロは何かしたわけではありません。主のあわれみによってよみがえらせていただいただけです。 私たちも主の御前で何かしているわけではありません。ただ、存在しているだけです。しかしこの存在は、イエスさまによって復活のいのちを生きる者としていただいたという存在です。…

恵みの契約 後篇

聖書箇所;創世記17:9~27/メッセージ題目;恵みの契約 後篇 今から12年前の8月16日、私ども夫婦は韓国のソウルで結婚式を挙げました。その中で、互いに対する誓約書を取り交わす、というプログラムがありました。「私、武井俊孝は生涯、この妻を愛することをここに約束します」とか何とか、細かい文章は覚えていませんが、その「誓約書」のいちばん下に、サインを書くコーナーがあり、私どもは司式の牧師先生からペンを渡されて、サインを書いたものでした。これにサインをしたとき、結婚とは契約であることをしみじみ思ったものでした。 先週私たちは、神さまがアブラハムと結ばれた契約とはどのようなものかということを学びました。本日はその学びの続き、「恵みの契約 後篇」と題してメッセージを取り次がせていただきます。 神さまはアブラハムと契約を結ばれるにあたって、アブラハムも、アブラハムの家にいるすべての男子も、そしてアブラハムの子孫もみな、神の民であるしるしとして、割礼を受けることを命じられました。   このご命令は何を意味しているのでしょうか? 私たちが神さまと結ぶ契約は、まず自分からはじまり、それから家族に及び、そして、そののちの世代につながる、ということです。 私たちは、自分さえ救われればそれで充分と考えていないでしょうか? 私たちから救いの輪が、家族に、そして周りの人たちに、そしてのちの世代までも広がっていくように、そのために用いていただくように、祈ってまいりたいものです。 しかし、その救いのしるしのため、なぜわざわざこのような、割礼などということをするのでしょうか? 女性のみなさまにもご理解いただきたいことですが、割礼、これは男性の性器に施すわけで、痛いではすまない思いをします。 神の民になるにはそうまでして、きつい思いをしなければならないのでしょうか? しかし、これにも意味があります。   割礼により、人は壮絶な痛みとともに、血を流します。これは、神さまと契約を結んだ民であることを確証するうえで必要なことでした。私たちは実印であれ、認印であれ、はんこを押すとき、朱肉を使います。はんこはペーパーレス化が進んだ現代日本においても今なお大事なもので、このはんこを書類に押す必要があることが、職場のテレワーク化がなかなか進まない一因とも言われています。さて、はんこに用いる朱肉は、言うまでもなく赤です。それもなんとなく、血の色に近い色をしています。 はんこの朱肉がなぜ赤いか、一説によれば、むかしの血判状、かつて重要な書類には指に血をつけて押したことが、朱肉が赤い色となったことの起源と言われています。はんこの朱肉は血の色というわけです。 そうだとすると、私たちははんこを押してその血のように赤い色を見るたびに、そのはんこを押すことにいのちを懸けていることをどこかで意識しているのではないでしょうか。そのように、大事な契約は血を流すことによって結ばれるもので、神さまとの契約においてはそれが、割礼という形を取るというわけです。 割礼とは、神のかたちを現す男性が神さまのご命令により、極めて痛い思いをして血を流し、からだに傷をつけるわけです。これは、何かを連想しないでしょうか? そう、イエスさまの十字架です。 神の民の男子が割礼を受けることは、はるかのちの時代に神の御子イエスさまが私たちのために痛みをその身に受け、血を流してくださったことを表しています。窮極の割礼は、イエスさまの十字架の血潮によって神さまと契約を結んでいただいたことを信じることです。ゆえに、イエスさまが十字架にかかられたならば、人は十字架による罪からの贖いを信じるかぎり、肉体に割礼を施す必要はないのです。 神さまと契約を結ぶということは、それ相応の痛みが伴うことです。割礼で切り取られる性器の包皮が象徴する、私たちの肉が処分される必要があります。私たちは罪深い肉がその身に生きているかぎり、神さまに受け入れられることはありません。私たちの罪が切り捨てられることによって、はじめて私たちは神さまに受け入れられます。 私たちの罪は処罰される必要があるのです。しかし、その罰を身代わりにイエスさまが十字架の上で受けてくださり、血を流してくださったことによって、私たちはイエスさまを信じる信仰のゆえに、もはや罪の罰を受けることがなく、神さまに受け入れていただけるのです。 さて、このようにアブラハムの家の男子がすべて割礼を受け、神のものであることを確証するように導かれたわけですが、神さまのみこころは、サラとの間に奇蹟的に子どもを生まれさせてくださり、そこから神の民を増やされる、ということでした。神さまはアブラハムに、アブラムに代わる名前、アブラハムという新しい名前を与えてくださったように、サラにもサライに代わるサラという新しい名前をお与えになりました。そして、神の民を生むという役割を確かにしてくださいました。 これこそ奇蹟です。アブラハムやサラにとっては、こんなおじいさん、おばあさんから子どもが生まれるだなんて、冗談もほどほどにしていただきたい、と、おのが身の悲しさに笑ってしまうような神さまのおことばでした。しかし、神さまがこのサラから生まれさせてくださると約束されたイサクは、「彼は笑う」という意味です。年老いたおのれの悲しさに笑ってしまうような冷たい笑いが、神さまのみわざによって、まことの喜びに満ちた温かい笑いになるのです。 私たちはもう、自分の不遇さを呪って笑わなくていいのです。もう私たちは不遇ではないからです。むしろ私たちは、神さまに救っていただいた喜びをもって、賛美の笑いを神さまにおささげし、兄弟姉妹でともに喜ぶべきです。私たちがもし、自分のことが不遇に思えてならないならば、まことの喜びを与えてくださる神さまを見上げることです。 さて、サライに代わる新しい名前をつけられたサラは「母親」です。サラは数えきれないほどの神の民を生みます。 女性という存在に関してパウロは、このように語っています。「女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ2:15)このみことばは、数えきれないほどの信仰の子孫を産むことになるサラを意識していると見るべきです。 信仰と愛と聖さにとどまる女性は、外見上のきらびやかさを超える、周りに憧れをいだかせる品位を身に着けます。それは、人々のたましいを救うことにつながります。どういうことかと言いますと、この女性を見る周りの人が、こんな素晴らしい女性のように私もなりたい、この人の信じているイエスさまという方を私も信じたい、と思うようになるからです。 伝道というものは、ことばさえ伝えればそれでいいのではありません。もちろんことばで伝えるのも大事ですが、それ以上に大事なのは、主にお従いするその生き方をもって、周りにその生き方の素晴らしさを示すことです。たまにいるのですが、言っていることは立派でも、その生活がまったくなっていない人というのがいるものです。私たちは単純に神さまとそのみことばを信じたならば、生活にも変化が訪れてしかるべきです。 では、どうすればいいのでしょうか?先週私たちは、恵みの契約、という主題でみことばを学びました。みことばにお従いする生き方もまた、契約、ということで説明できます。 みなさまは、何らかのを契約するとき、細かい字がやたら書いてある、約款、というものをご覧になったと思います。この、契約につきものの約款を、私たちは隅から隅までちゃんと読んだうえで、契約を結んでいますでしょうか? しかし私たちは、契約を結ぶにあたっては、その約款をいちいち読む前から、その契約を結ぶとはどういうことかを普通理解しているものです。 それは、約款を細かく読んで納得することによって契約を結ぶのではない、ということです。契約を結ぶのは、約款をすでに理解して用いているそのサービスなり製品なりのユーザー、つまりそれを使っている人のことば、それ以上にその人の人格を信頼して、そのサービスなり製品なりを手に入れるために契約を結ぶのです。百のテレビコマーシャルよりも、親しい人のひとつのことばのほうを、私たちはよほど信頼して、製品を手にしないでしょうか? 私たちの信仰生活にも同じことが言えます。神さまと契約を結ぶとどのような祝福を得られるか、ということを、私たちはアブラハムの生き方から学ぶことができるわけです。ここに、私たちがアブラハムの生涯から学ぶ意味が出てまいります。 しかし、私たちの信仰生活の手本になる人物は、アブラハムだけではありません。聖書に登場する人物は神の民であるかぎり、すべて、契約の恩恵にあずかった祝福を私たちに示しています。 その究極のお姿はもちろん、人としてこの世界に下ってくださった神の御子、イエスさまです。このお方に至っては、契約を結んだ人であるどころか、契約をもたらしてくださった当事者です。 イエスさまのその十字架の死を信じるなら、私たちは神さまと永遠の契約を結ぶ恵みにあずかります。私たちが、神さまが人と結んでくださった契約の素晴らしさを知るには、とにかく、イエスさまのお姿をみことばから学ぶことです。 私たちは、いにしえの聖徒たち、世々の聖徒たちにならい進む、今なお生きて証しする聖徒たちから学びます。その聖徒たちは有名人にかぎりません。この礼拝堂の中にいらっしゃいます。顔を見合わせてみてください。この兄弟姉妹こそ、私たちの習うべき兄弟姉妹です。 それだけではない、私たちは学ぶだけではありません。私たちもまた、主と契約を結ばせていただいた当事者として、証しの生き方をするのです。 そうだとすると、契約の「約款」に当たるものは何でしょうか? 聖書です。私たちは、神さまの恵みによって契約を結ばせていただきました。そして、その契約がどんなに素晴らしいものであるかということを、契約の約款ともいえる聖書を読み返すことによって知るのです。 しかし、この約款はこの世の約款のように無味乾燥、退屈なものではありません。読めば読むほど、神さまの愛、恵みが伝わってきます。まるでラブレターです。 聖書には神さまの愛が完全に表現されています。この世界にあふれる自然をとおしても創造主なる神さまの素晴らしさを知ることはできますが、神の御子イエスさまを通して結ぶ恵みの契約の素晴らしさを私たちに伝えるものは、ただ、聖書だけです。 だから私たちは聖書を、毎日でも読むのです。この愛の契約に入れられた恵み、その素晴らしさを、私たちは毎日味わってまいりたいものです。 最後に、アブラハムが、この神さまの命令をいただいたらすぐに、イシュマエルも含めた家の男子すべてに割礼を施したことについても、ひとこと申し添えておきましょう。 神の民はイサクから増え広がることがアブラハムに告げられても、アブラハムは家の男子すべてに割礼を施せという主のご命令を実践しました。これは、アブラハムが神さまと結んだ契約に、家長としての権限をもって、自分につくすべての者を与らせることになったわけです。 もちろん、神さまと契約を結んだ神の民となるのはあくまでイサクから生まれる民です。聖書がときに私たちの神さまを、アブラハム、イサク、ヤコブの神と表現して、イエスさまもそう表現されたとおりです。 しかし、こうしてアブラハムの家のものが、アブラハムの家系に属していない者まで含め、みな割礼を受けているのは、人が神の民として契約することが特定の血筋によらない、恵みによるものであることを暗示しています。 アブラハムの家で奴隷となっていただけの人は、見ようによっては、たまたまそうだっただけとも言えます。しかしそんな彼らも、神の民として契約の輪の中に入れられたのです。 この、アブラハムの家の者の姿は、私たちのことを暗示してもいます。私たちも恵みによって、たまたま福音を聞くポジションに置かれただけです。そんな私たちですが、神さまの恵みによってイエスさまを信じる信仰が与えられ、神さまと契約を結ぶ者としていただきました。だから、私たちのことを誇ってはいけません。 エペソ2章8節と9節のみことばを読んで、今日のメッセージを締めくくります。……アブラハムが恵みによって神の民の源となったのとまったく同じことで、私たちも恵みによって、神の民としていただきました。この恵みをくださった主に、今週も、そしてこれからも感謝し、恵みの主をほめたたえつつ、お従いしてまいりましょう。 このお従いする生き方は、聖書をお読みすることによって実現します。また、お従いするということは、隣人にイエスさまを証しする、愛の歩みをすることによって実現します。この歩み、恵みの契約に入れられた民としてふさわしい歩みをさせていただくことで、日々主の御手に用いられる私たちとなることができますようにお祈りします。

恵みの契約 前篇

聖書箇所;創世記17:1~8/メッセージ題目;恵みの契約 前篇  本日から、長らくお休みしていたアブラハムのお話を、半年ぶりに再開します。これまではコロナウイスル流行の非常時を意識して、祈りとは何かという主題に集中したり、ヨハネの福音書のみことばを連続して学んだりしました。 しかし、もうここまで来てもコロナウイルス流行は収まる気配がなく、「ウィズコロナ」でいくしかないようで、そうなったらもう、特別バージョンなどと言っている場合でもありません。あらためてメッセージを通常運転に戻し、創世記の学びを再開したいと思います。 本日の箇所は、アブラハムが神さまと結んだ契約に関する場面です。私たちは神さまと契約を結ぶということを、聖書に書かれているアブラハムをモデルにして学ぶことができます。 モデルとしてのアブラハムの存在に注目しましょう。聖書においてアブラハムの存在が、きわめて基礎的な位置を占めるということは、みなさんもご存じのとおりです。聖書はなぜ、アブラハムのことをこれほどまでに語っているのでしょうか? 主はみことばによりアブラハムの姿を私たちにお見せになっています。そのことにより神さまは、ご自身と契約を結ぶ者はこのようである、ということを示され、その恵みの中に入ることの素晴らしさを私たちに教えてくださっています。  アブラハムはどんな状態で神さまと契約を結んだのでしょうか? それは創世記12章から16章までのみことばに書かれているとおりです。 アブラハムは神さまの御声にしたがって、父祖の地を離れて遠い旅に出ました。それは、信仰的に大胆な冒険に出たということで、素晴らしいことです。その旅の途上で、アブラハムは甥のロトを伴っていましたが、別れて別々の道を行くことになったとき、アブラハムはロトに、とても潤った良い地を選択させました。若い者にチャンスを与えた上に自分は譲るような、そういう意味で人格者です。 しかしその新たな土地で、ロトは敵に攻められて窮地に陥りました。アブラハムはそのことを聞くと、自分の群れの屈強な者たちを引き連れて敵と戦い、ロトを助け出しました。アブラハムはそういうわけで、身を挺して犠牲を払い、人のために生きることを知っている人でもあります。 それだけではありません。アブラハムは、その戦いに勝利した感謝を、いと高き神の祭司メルキゼデクに、戦利品の十分の一をささげることで表明しました。アブラハムはそういうわけで、敬虔な信仰者としての姿も示しました。アブラハムの生涯はなんとも、褒められることの多かった人です。  しかしその一方で、アブラハムは、まるで証しにならないことも多くした者でした。ききんを避けて妻とともにエジプトに落ち延びたとき、アブラハムは、自分がエジプトの権力者に殺されないようにと方便を使い、妻サラをエジプトのファラオに召し入れさせるがままにしました。これは言わば、妻を売ったという行為です。 もちろん、神さまは特別な計らいで、サラのこともアブラハムのことも助け出してくださいましたが、それにしてもアブラハムはとんでもないことをしたものでした。 それだけではありません。アブラハムは、神さまが必ずアブラハムに子孫を与えてくださるというその約束を待ちきれなくて、召使のハガルとの間に子どもを設けました。おかげで、サラとの間に葛藤が生じ、サラがハガルのことを苦しめるがままにさせ、結果としてハガルをいたく傷つけました。 そのように私たちがアブラハムを見ると、いったいこれが信仰の人だろうかと疑わしくなる行動も見られます。しかしさきほども申しましたとおり、アブラハムは一方で、とても素晴らしい行いもしているわけです。しかしそれなら、アブラハムはそのようなよい行い、正義の行動で神さまとの契約を勝ち取ったのでしょうか。決してそうではありません。良い点、褒められる点もたくさんあった一方で、とても褒められない行いをしてもいます。 一般的には、人が神的な存在に認められるためには、よい行いを積み重ねるだけ積み重ね、悪い行いをしないようにしよう、となるでしょう。しかし、それはだれにもできないことです。人はどこかで罪を犯すものです。きよい神さまがその罪をご覧になるかぎり、救われる人など、この世界には一人もいません。 アブラハムが神さまと契約を結んだ理由は、罪を犯しているかどうかという、そういう基準で見るべきではありません。アブラハムが神さまと契約を結ぶことができたのは、行動の良し悪しを神さまが判断されたこととは関係なく、ただ、神さまが契約にふさわしい存在として、選んでくださったからです。  この救いに定める選びを、聖書は、恵み、と呼びます。まことに、神さまが契約を結んでくださるのは、人の行いではなく、神さまの恵みゆえです。神さまの恵みをいただいた人は、素直に神さまを信じる信仰を持たせていただけます。神さまがこの罪深い私のために、ひとり子イエスさまを身代わりに十字架にかけてくださった、そのことを信じるだけ……それで自分は神さまに充分に受け入れていただける……この素直な信仰が与えられます。  さて、神さまがアブラハムとの間に立てられた契約はいかなるものかが、この17章で語られています。まず何とおっしゃったでしょうか? 1節です。 「わたしは全能の神である。」まず、神さまのこの宣言に始まります。すべては、神さまがすべての上に君臨される全能なるお方であると認め、そう告白することから始まります。 私たちにとっての信仰は、「キリストを信じる」、すなわち、キリストに信頼してお従いする、神との交わりの歩みです。形だけの宗教として「キリスト教」という宗教を信じるのではありません。 神との交わり。この、神との交わりの歩みをするためには、何よりも、私たちのお従いするお方が全能の神であるということを信じ受け入れ、そのように告白することが大前提となります。礼拝のたびに唱和する、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と、私たちが告白するとおりです。 では、この、全能なる神さまは、アブラハムに何をお求めになったのでしょうか?「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」いつ、いかなるときにも、神さまとの健全な関係を保ち、その御前に徹底して生きることをお求めになりました。 ここで神さまが要求された「全き者であれ」ということは、道徳的に、宗教的に完璧であれ、とおっしゃったのではないことに、注意する必要があります。それは不可能なことです。 私たちのあるべき「全き者」という姿は、「完全」ではなく、言ってみれば「健全」です。「健全」という意味での「全き者」ということです。あなたはわたしの前に健全でありなさい。そのようにお命じになった上で、神さまはアブラハムと契約を結ぶことを宣言されたのでした。 健全ということは、神さまとの関係が正しく保たれている、ということです。まことのぶどうの木であるイエスさまとそのみことばにいつもとどまり、そのみことばを守り行う生き方、よい実を結ぶ生き方をいつも目指していく、そういう人になれるように祈る……そういうことが私たちに求められているわけです。 聖書の本文に戻ります。神さまは今後アブラハムがどのようになるとおっしゃったのでしょうか?「あなたを、おびただしくふやそう。」 このおことばには、神さまがアブラハムに奇蹟を起こして、アブラハムから肉の子孫を増やしてくださるという意味ももちろんあります。しかしもうひとつ、アブラハムのように、神さまとの健全な関係を保って幸せに生きる「信仰の人」を増やしてくださるという宣言でもあります。 「信仰の人」とはほかならぬ、信仰によって神さまの子どもとしていただいた、すべてのクリスチャンのことで、当然、私たちも含まれます。だからこそアブラハムは私たちにとって「信仰の父」となるのです。 それでは、神さまはこの約束を成し遂げるために、アブラハムに何をしてくださったのでしょうか?   まず、彼の名前を変えてくださいました。それまで彼はアブラムという名前でしたが、それがアブラハムとなったのでした。この名前はなんといっても、神さまご自身が名づけられた名前です。 名は体(たい)を表す、ということわざがあります。名前というものは、その人そのもの、その人のすべてを表しているといえます。神さまが、過去の名前を捨てさせ、新たな名前を直接名づけられたということは、神さまがアブラハムのことをまったく新しい人生に導かれた、ということを意味しています。 神さまが直接名づけられたアブラハムという名前は、私たち神の民すべてにとっても重要な意味を持ちます。 有名な、コリント人への第二の手紙5章17節のみことば、これは、このようなみことばです。暗唱できる方は暗唱しましょう。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」   アブラハムは、神さまによって新しい名前が付けられたことが象徴するように、まったく新しくされたのでした。では、アブラハムはどのように新しくされたのでしょうか? これもまた、名は体を表す、ということわざのとおりですが、アブラハムという名前の意味を考えれば、神さまがどのようにアブラハムを出発させられたかがわかります。  アブラハムのもともとの名前は、アブラムといいました。アブラムの意味は、「高貴な父」、「高められた父」という意味です。これに対してアブラハムは、「多くの国民(くにたみ)の父」という意味になります。 名前の語感はとてもよく似ていますが、「アブラハム」という名は、「アブラム」という名のほんとうの意味を、さらにはっきりとさせています。神さまが彼をアブラハムと名づけてくださることにより、なぜ彼がもともと、「高められる父」だったのか。彼から多くの国民(くにたみ)、数えきれないほどの神の民が生まれ出てくるから、その意味で「高められる父」だったのです。 アブラハムに与えられた新しい名は「多くの国民の父」でした。まさに、主を単純に信じる信仰を持つ者がまことの神の国の民となるということを、神さまはアブラハムと契約を結ぶことによって示してくださったというわけです。私たちは、アブラハムにつづき、信仰をもって神さまと契約を結んでいただいた存在、天国の民です。 私たちは、イエスさまの救いをいただいて、天国に入れていただき、永遠のいのちをいただきました。その天国の民としてのアイデンティティをもって、私たちはこの地上の生活、神の栄光を顕す生活をしていくように召されています。    さて、聖書本文のアブラハムをつづけますが、主は、アブラハムから生まれる神の民から、王たちが生まれると語られました。この預言のとおり、のちの時代においてダビデ王をはじめ、多くの王が生まれました。また、カナンの地を永遠に所有するとも語られました。   これらのみことばは実際には、どのような形で実現したのでしょうか? 神さまを信じる信仰を持つ者として、数えきれないほどの神の民が生まれました。 彼らのことを聖書は、ヨハネの黙示録22章5節にあるとおり、「彼らは世々限りなく王として治める」と語っています。また、ペテロの手紙第一2章9節にあるとおり、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」とも表現しています。 そうです。神さまは私たちのことを王として扱ってくださっているのです。そうです、私たちは王なのです。私たちはいま自分のことを見て、貧しいなあ、とか、弱いなあ、と思ってはいないでしょうか。神さまの宣言に立ちましょう。私たちは王です。この地を祈りによって統べ治める王さまです。このことを忘れないでいたいものです。 そして、この信仰の民である私たちに対し、永遠の王である私たちに対して、神さまは、永遠に受け継ぐ地を与えてくださいました。それは、天にある御国です。 アブラハムは、カナンの地を受け継ぐという神さまの約束をいただきました。その約束のとおり、アブラハムが神さまと契約を結んではるかのちの時代に、イスラエルの民は、約束の地カナンを所有しました。ただ、その地を所有するために、イスラエルは戦いを経験することになります。 その、カナンを奪い取るための地上の戦いは、いわば、私たちが努力して狭い門より入り、天の御国に定住するための戦いを比喩していると言えます。こんにちを生きる私たちにとっての戦いは、血肉に対するものではありません。血肉に対する戦いは先週もお話ししたとおり、イエスさまがはっきり否定されたことです。 そうではなく、私たちにとっての戦いとは、サタンとその支配下にある悪霊どもの支配から、この世の捕らわれの民を奪還する戦いです。それは逆説的ですが、隣人を愛する愛をもって平和をつくり出す私たちのたえざる努力によってなるものです。それが戦いです。 この戦いに召されている者とは、それは神さまの一方的な恵みによって、全能の神さまに対する信仰を持たせていただき、神さまとの間に永遠のいのちの契約、罪の赦しの契約を結んでいただいた私たちです。私たちはいま一度、神さまが結んでくださった契約の意味を考えたいと思います。 私たちの行いは何一つ誇れません。私たちが誇るべきは、一方的なあわれみと愛で私たちを神の子どもとして召してくださった、イエスさまの、十字架です。今日このとき、イエスさまの十字架をもって私たちといのちの契約を結んでくださった主の恵みを覚え、主の恵みに思いを巡らしましょう。 主の御前に健全な信仰を保ちますように、新しい存在とされているにふさわしい、肉の生き方を脱ぎ捨てた生き方へと踏み出していけますように、この世を祈りをもって統べ治める王の働きをもって、この世に捕らわれている人々を悪の手から奪還する戦いに打ち勝つべく、祈りとみことばをもって主にお従いする私たちとなりますように……。 しかし、すべては主の恵みを受け取り、主の恵みにお応えするゆえに実践すべきことです。恵みにいかにしてお応えできるか、主の導きを求める祈りをささげてまいりたいと思います。

8月15日、その次に

水戸第一聖書バプテスト教会 日曜礼拝 導入讃美「主の愛はとこしえまで」「主イエスの十字架の血で」/祈祷/使徒信条/交読 マタイ5:3~16/主の祈り/讃美 讃美歌338/聖書箇所 マタイ4:1~11/メッセージ題目 8月15日、その次に  本日、8月16日は、主題を決めてメッセージをさせていただきます。その主題は、「みこころに従って、いかに平和をつくる者となるか」ということです。  この8月16日という日は、私個人にとって、人生を左右する3つの体験をした日でもあります。最初は1990年8月16日、高校2年の夏、この日私は、松原湖バイブルキャンプにいました。音楽ゲストの小坂忠・岩渕まことのデュエットの歌う讃美が流れる中、講師のアーサー・ホーランド牧師の導きで、献身を約束する祈りへと踏み出しました。  次は1992年8月16日、大学1年の夏、私ははじめてこの日、韓国の地にて、韓国語で礼拝をささげました。夕礼拝にも出席し、その席上で私は前に出て、自分が韓国に召されていることを証ししましたところ、満場の礼拝者のみなさまから大きな拍手をいただき、礼拝後、多くの方に握手をしていただきました。私はその日、自分が日本人のクリスチャンとして、韓国教会から生涯学ぶ者であるという意識を新たにしたものでした。  3度目は2008年8月16日、私と陳宣教師はその日、韓国で結婚式を挙げました。今日は結婚記念日です。まあ、この日についていろいろ解説するのは野暮というものでしょう。  そんな私ですから、8月16日という日については、毎年この日が巡ってくるたび、人一倍、この日の象徴する意味について想い巡らしてきたものです。今日はそのような私の黙想に、おつきあいいただきたいと思います。 8月16日の前の日は言うまでもなく8月15日、日本では終戦記念日ですが、この日の持つ重みが、戦後75年、年を追うごとに薄れてきてはいないでしょうか。そのような中で憲法改正ですとか、再軍備といったことが、一部で声高に言われるようになっています。 一方、韓国では、この日を「光復節」といいます。足掛け36年にわたる日本の支配から解放された日として、韓国にとってこの日は特別な意味を持っています。  私はその方面の社会問題をこのメッセージの時間に扱うつもりはありません。この時間は、聖書から私たちにとっての平和のあり方を語りたいと思います。 私たちにとって、戦争が終わったこと、終戦は、たしかにめでたいこと、うれしいことにはちがいありません。昨日のように、8月15日を終戦記念日と定めて覚えるゆえんです。しかし、そこにとどまっていてはならないのではないでしょうか。 問題はそのあとです。戦争というこの悲惨なことを繰り返さないことが、私たちに求められているのは言うまでもありません。特に私たちは、「平和をつくる幸いな神の子」として、神さまから召されている存在です。 そのために私たちは、何を祈り、どのように行動すべきか、いろいろ問われるでしょう。本日はそのような中でも、直接「世界平和」に言及していない、しかしまことの「世界平和」を実現するうえでとてもぴったりしたみことばから、ともに学びたいと思います。題して、「8月15日、その次に」。 本日の箇所は、イエスさまが荒野の40日の断食の果てに、悪魔の試みを受けられた場面です。それが平和をつくることとどのように関係があるのか、以下、見てまいりたいと思います。 まず、1番目の誘惑から見てみましょう。2節から4節です。 断食というものは、生きるための命綱である食物を絶つことで、身もたましいも神さまに集中させることです。 イエスさまにとってそれは、食べるものも口にしないで、聖霊なる主に荒野を引き回される厳しい祈りの時間でありました。そこには、罪深い肉欲の入り込む余地はありません。 しかしイエスさまは、人間の肉体をもってこの地に生きられたお方です。空腹を覚えられました。それはただごとでなかった空腹だったはずです。40日の断食のあとの空腹です。目の前の石がパンに見えてくるような空腹です。 主がそれまで40日の断食を行なっておられたのは、御父のもとに徹底してへりくだることでありました。それを、全能のわざは自分にもあるとばかりに、そのわざを用いて石をパンに変えるならば、それは何を意味しているのでしょうか? もしそのようなことをなさるならば、ほんとうに人の必要を満たすものは、あくまで肉の糧である、それは霊の糧なるみことばに優先する、という世的な常識に、イエスさまも従われた、ということになりはしないでしょうか。 この世においては、世界平和は肉の糧が満たされるか否かという次元で考えがちなものです。もちろん食糧が確保されることも必要ですし、いのちの安全が保障されることも大事です。食べ物は必要です。しかし、この世の多くの人が見落としていることがあります。それは、人はパンだけで生きるのではなく、この世界を統べ治める創造主なる神さまの御口から出るひとつひとつのことばによって人は生きる、ということです。 平和というものは、特定の国や民族さえ安定していればいいうものではありません。世界のすべての人が神さまに創造された存在であるかぎり、世界のどこにおいても、平和は実現している必要があります。そのためにも、そのようにすれば人は神さまのみことばによってまことの飢え渇きをいやし、平和をつくり出すものとなれるかを祈りつつ考えなければなりません。 しかしこの世界は、ひたすら神さまとそのみことばの存在抜きで、すべての人が幸せに過ごすことを追求したりします。しかし、少なくとも私たちクリスチャンは、そのようなこの世の流れを正しいと考えてはいけません。ほんとうに平和をつくることができるお方は、平和の主なるイエスさまだけです。 この世界は、イエスさまによって御父と和解させられることなしに、まことの平和を受け取ることはできません。平和をつくり出す人間の努力は確かに素晴らしいものですが、それは石をパンに変えることもできない被造物、罪人の働きでしかないことを、どこかで私たちは謙遜に認める必要があります。 神さまがイエスさまを通して平和を与えられたことを、何によって私たちは知り、身に着けるのでしょうか? みことばです。それもイエスさまがおっしゃるとおり、神の口から出るひとつひとつのことばとしてのみことばです。 「神の口から出る」とわざわざイエスさまがおっしゃっているのは、どういうことかといいますと、聖書のことばを読みさえすればそれで平和をつくり出すものに自動的になれるわけではない、ということです。神の口から出ることばで生きる、つまり、聖霊なる神さまの導きの中で、神さまとの密なコミュニケーションを分かち合ってみことばをしっかりお聞きするのです。 こういうことができている人は、この世界にどれくらいいるでしょうか? 私たちにはできているでしょうか? もっとそういう人が増えるならば、この世界はもっと平和になるはずなのに、と思います。 そういうわけで第一の誘惑、それは、神さま抜きでこの地上に人が生き残る道を提示することです。私たちはこのような、この世の流れに流されてはなりません。平和は神さまのみことばにお従いするところから始まる、これを私たちは忘れてはなりません。 それでは2番目の誘惑にまいります。それは、みことばを曲解して神さまを試みる誘惑です。それは、平和をつくり出すこととどんな関係があるのでしょうか? 5節をご覧ください。イエスさまは悪魔に、エルサレム神殿のてっぺんに連れて行かれました。そこで悪魔は、下に身を投げよ、おまえが守られることは、聖書のことばにも書いてあるとおりじゃないか、と誘惑しました。 しかし、これをイエスさまは拒否されました。なぜでしょうか? みことばの根拠も立派にあるのではないでしょうか? いいえ、これは約束のみことばではありますが、神を試みる者をそれでも守ってあげよう、という意味のみことばではありません。むしろ、悪魔にとっては皮肉なことですが、悪魔が6節で引用したこの詩篇91篇のみことばは、このような、悪魔に試みられるような状況に陥って神さまの護りを必要とする人のことを、神さまは必ず守ってくださる、という意味のことを語っています。かくして、このみことばのとおり、イエスさまは守られたのでした。 クリスチャンはしばしば、自分の祝福を願ってみことばを引用するということを行います。まあ、それもあると思います。何もかも悪いわけではありません。しかしそのために、自分の行動はみこころにかなっているから大丈夫だ、とばかりに、反省もしないで突き進むような場合は問題です。 かつて日本は、天皇を中心とした神の国ゆえに、まつろわぬ国や民族は征伐する、とばかりに、他国に戦争を仕掛け、そのために多くの人が犠牲になりました。その根底にあるものは神社参拝に代表される霊的なものでした。戦争で死ねば護国の鬼となって靖国神社に祭られる、靖国で会おうということばを合言葉に兵士たちは戦場にいのちを落としました。その当時の日本のキリスト教会は、ほぼすべてが、国家によるそのような宗教的管理、霊的管理に屈し、神ならぬものを神とすることをみこころだとばかりに教え、国家の宗教政策に協力していったのでした。 一方で、この戦争の相手国はどうだったのでしょうか? もともとが聖書的に信仰によって人々が育てられてきた誇らしい理念を持った国でした。しかし彼らの実際にしたことは、先住民を虐殺し、アフリカから奴隷を連行して酷使し、そして日本には2度も原爆を落としたということです。これが、誇るべき信仰を持っているはずの彼らがしたことです。 私たちが先祖の罪を悔い改めるというときには、日本民族にかぎらず、同時代に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を叫びながら、まるでそれが主のみこころのように信じてわが国を攻撃した、かの国の兄弟たちの罪をわがこととして悔い改めることを、ここに提唱したいと思います。 クリスチャンにとっての戦争、それは、神の祝福はあるとばかりに突き進みながら、実はその神さまがどこまで忍耐され、沈黙されるか試すような、神を試みる罪を犯していることであることを、私たちはしっかり考え、先祖の罪を悔い改める必要があります。 考えてみてください。イエスさまはいったい、主の民が主のために武器を取って戦うことをみこころとして奨励されたでしょうか? とんでもないことです。イエスさまははっきりおっしゃいました。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」イエスさまははっきり、武器を取るな、とおっしゃったのです。主のために武器を取れ、なんて、まやかしでしかありません。 クリスチャンでありながら戦争を好んだり、争ったりする、それは、そうしてはいけないのがみこころだと心のどこかで知っていながら、自分の立場を主が祝福しておられるから大丈夫だ、とばかりに突き進む、きっと神さまは忍耐される、そう信じ込む、そのような、神を試みる罪を犯していることになります。 先の戦争の記憶が薄れてきたということは、人はまた、戦争に向けて突き進むようになるということにはならないでしょうか。私たちは目覚めて祈っている必要があります。私たちは自分勝手みことばを解釈しがちな罪人です。それでもって、神さまを試みる罪を犯しがちな罪人です。私たちはこの罪が自分のうちにあることを認め、まず自分こそが悔い改め、国のため、主にある兄弟姉妹のためにとりなして祈ってまいりたいと思います。 平和を壊す働きはどんなにみことばを用いてでも正当化しようとしても、神のみこころでは決してありません。それは忍耐深い神を試みる罪であることを、私たちはしっかり、心に留めたいと思います。 3つ目の誘惑にまいります。8節から10節です。 ……さて、イエスさまは神の子であるので、全知全能の、すべての上に高くいますお方でいらっしゃいます。ということは、すべてをお持ちのお方ということもできます。韓国式には、イエスさまのことを、万有の主、とおっしゃるとおりで、すべてを所有しておられるお方です。 そう考えるならば、サタンがイエスさまのことを、この世の王国とそのすべての栄華をもって誘惑したことは、果たして誘惑になるのだろうか、という疑問がわいてはこないでしょうか? これは、見方を変えて見てみたいと思います。並行箇所のルカの福音書4章6節では、サタンは国々とその栄華のことを、「国々の権力と栄光」と表現していて、それらはすべて自分に任されている、と語っています。 そうです、国々の権力と栄光は、サタンに支配されている領域です。古今東西、栄華を誇った国々はその背後に、重労働や重税などの搾取、行き過ぎた国民の管理、国を挙げての偶像礼拝、姦淫……そういったものが存在し、神さまのみこころをいたく損なってきましたが、それはすべて、この世界の国々がサタンの手に陥っているからです。 そのようにサタンとその勢力にやられ放題の人間、それなのにけっして創造主なる神さまのほうに行かない人間、その悲惨さの中で死んでいき、滅びゆく人間……その人間たちは主が愛をもって創造された、かけがえのない存在です。私たちがイエスさまだったら、どう思うでしょうか? 乞うまでして人間を支配し、隷属させるサタンに対し、「やめてくれ!」と叫び出したくはならないでしょうか? しかし、このときサタンは、ひとつの条件を出してきました。「私を拝むなら、おまえにこれらすべてをくれてやろう。」この悲惨さから人間を解放してやっていい、だが条件がある、私を拝め……。 しかし、イエスさまのお答えはひとつでした。下がれサタン、みこころは、主を礼拝し、主にのみ仕えることだ。 これしか答えはありません。下手をすると人間は、世界平和を達成するために、悪魔にたましいを売るようなことさえしかねない存在です。平和をつくるために神さまを礼拝することを放棄する、そういうことをしてしまうのです。 みなさん、インターネットでもいいですし、書店のキリスト教のコーナーに並ぶ本でもいいです。いろいろなところで触れるキリスト教の姿は、戦争をつくり出す元凶(げんきょう)のように描かれてはいないでしょうか? イエス・キリストの父なる神以外に神はないと主張する者が、いちばん戦争をつくり出している……。 絶対にだまされてはいけません。私たち自身を考えてみてください。私たちは人と平和をつくるために、どれほど努力していることでしょうか? なぜなら、それがみこころと信じているからです。 ただしサタンは、私たちが善良なクリスチャンでありたいという思いを、悪い意味でのお人好しな生き方へと取り替え、この世において光でも塩でもない、毒にも薬にもならない生き方へと妥協させようとします。 具体的に言えば、キリスト教式ではないお葬式に参列するときなど、いわゆる神仏を拝む行事に私たちクリスチャンが接するとき。そのようなとき私たちは、どういう行動を取るでしょうか? お焼香をしたり合掌をしたりするでしょうか? そうする理由は何でしょうか? ご遺族や親戚と波風を立てないためでしょうか? それは言うなれば、平和をつくる行為でしょう。 だが問題は、どういう根拠によって平和をつくるかです。この行為は間違いなく、「主だけを拝み、主だけを礼拝する」という、主のみことばに反しています。そうやって人にへりくだれば証しが立てられるぞ、人はイエスさまを信じるかもしれないぞ、しかしこれは、悪魔のささやきというものです。そのようにして平和をつくったつもりになっても、主の栄光はけっして現れることはありません。 私たちがクリスチャンとして平和をつくり出すことは、他の宗教と妥協することではありません。世は私たちの持つ聖書信仰でないかぎり、多様な宗教のあり方としてその存在を奨励しますが、唯一私たちだけは、その存在を許されないか、他の宗教と混在することを求められます。しかし、私たちの信じる神さまは、ほかの神々に並んで存在するお方ではありません。世の中が私たちに何を求めようとも、私たちは神さまだけに従うことをやめてはいけません。…

過越と十字架を巡る人々

聖書箇所 ヨハネの福音書11:53~57/メッセージ題目「過越と十字架を巡る人々」  今週のみことばは、これまで学んできたヨハネの福音書11章の終わりの部分で、とても短い箇所です。しかし神さまは、この短い箇所からも私たちにいろいろなことを教えてくださっています。 イエスさまが、その友ラザロをよみがえらされるにあたって、神の時にしたがって歩まれたことは、すでに学んだとおりです。そして、そのすべての歩みの究極の目的は、父なる神さまのご栄光を顕すことにありました。 ラザロのときだけではありません。イエスさまはすべての歩みにおいて、父なる神さまの時に従って歩まれました。それが、御父とひとつということであり、御父に従順であったということです。  私たちも、御父に従順であることが求められ、また、そのように教会で教えられます。しかし、人のレベルでは、神の時に従って生きるということは、そうと意識をしようとしても簡単なことではありません。私たちはただ、私たちの心の中にお迎えしているイエスさまがつねに神の時に従って歩んでいらっしゃるゆえに、私たちもまた、イエスさまに導かれて神の時に従って歩むことを許されるという。その信仰を持ち、主と主の時に信頼する必要があるわけです。  私にとっても時というものはありました。その最も顕著だったのは、1989年7月26日の深夜です。そのとき私は15歳、高校1年生で、すでにイエスさまを信じてバプテスマも受けていましたが、信仰と実際の生活はまったく別々のものになっていて、それに葛藤を覚えることもありませんでした。  しかしそんな私も、自然気胸という肺の病気でたびたび入院し、いやでも自分の弱さと向き合わなければなりませんでした。その夏も私は病気を発症し、手術を伴う入院生活を余儀なくされていました。ところが、大きな手術になるはずだったのが、病院を変わるとまったく簡単な手術で終わり、あっという間に退院となりました。そればかりか、入院をとおして友達ができたりして、苦しいはずの闘病生活がとても楽しいものとなりました。退院2日前の夜、1989年7月26日、私はなぜこのようなことが自分に起こったのか、病院のベッドでまんじりともせずひとり想い巡らしていました。 そのとき、それは神さまが私のことを特別に選び、愛してくださっていたからだという示しが与えられました。私はすっかりうれしくなり、興奮して眠れなくなり、しかし入院生活は睡眠をとらなければならないわけで、睡眠薬をもらってようやく眠りについたというわけでした。 私はこのことを通して、神さまの近くにいさせていただくように人生が変わりました。この喜びを私は、教会の日曜礼拝の時間に証しという形でお話しさせていただいたものでした。 これが、時というものであると私は体験しました。それまでの不信仰を信仰に変えていただいた「時」でした。その体験から確信を持って言わせていただきますが、人それぞれの時は、主がそのご主権をもって導いていらっしゃいます。要は私たちが、その、神の時にあらがわず、主に従順になることによって、その時その時に従って歩ませていただき、主に用いられることです。 イエスさまのこの、荒野に近いエフライムの町に退かれたことも、イエスさまが神の時に従順であることというポイントから説明できます。カヤパによるイエスさま殺害のプランがユダヤ最高会議にて採択された以上、彼らはすぐにでもイエスさまを逮捕し、死刑に処することを願ったわけです。しかしイエスさまが死なれるということは、神の民を御父の怒りから過ぎ越させる過越の子羊としてほふられる、ということを意味していました。この年の過越が、神の目から見て最後の過越、究極の過越となるためには、イエスさまはすぐ逮捕されて死刑に処されてはならなかったのでした。過越の時が満ちる必要がありました。イエスさまは荒野の町に退かれ、その御父の時を着々と待たれたのでした。 しかし、イエスさまはこの退かれる時間を、おひとりでは過ごされず、弟子たちとともにお過ごしになりました。イエスさまにとって御父と過ごす特別な時間に伴わせていただく特別な存在、それが主の弟子です。私はよくこのメッセージにおいても、それ以外の牧会の現場においても、「弟子訓練」ということを強調させていただいていますが、それは他人を凌駕する何やらすごい人にならせるための訓練だったり、牧師や教会という組織に絶対服従する人を育てるためのプログラムであったりはしません。言うなれば、「どんなときにもイエスさまとともにいる」訓練です。おわかりでしょうか? イエスさまが私たちといつもともにいてくださるということは、見方を変えれば、イエスさまのおられるところにいつも私たちがいさせていただく、ということです。たとえば私たちは、隣人やこの世界を覚えて、とりなしの祈りをすることが主から求められています。これは、いま天の御国において、御父の右の御座にてひたすらとりなしの祈りをささげてくださっている、イエスさまのそのお祈りにともにあずからせていただくということです。 イエスさまとともにささげる祈りである以上、それは主のみこころにかなっているものであるべきで、そうなっているならば、神さまは必ずその祈りを聞いてくださる……その信仰をもって、イエスさまの御名によってとりなして祈るのです。 またイエスさまは、ゲツセマネの園にて血の汗を流して祈られたとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちにも、そこにともにいて、目を覚まして祈るようにおっしゃいました。私たちも時に、血の汗を流して祈らなければならないようなときがあることでしょう。それは、イエスさまのゲツセマネの園の祈りに、ともにいさせていただくということであり、そのときもし私たちが、肉体と精神に限界を感じてそれ以上祈れなくなったならば、それはペテロやヤコブやヨハネがそうだったように、心が燃えていても肉体が弱かった、その弱さを主にあって思い知らされ、主の御前で認めることになります。 しかし、それにとどまりません。その弱さをイエスさまの十字架の贖いによって覆っていただく体験をすることであり、それもまた恵みの体験となるのです。いずれにせよ私たちは、ゲツセマネの園で血の汗を流して祈られた、イエスさまの祈りに伴わせていただく恵みをいただくのです。 このように私たちは、イエスさまとともにいるべく召されています。しかし、ともにいるためには、私たちの側からも「歩み寄る」必要があります。そのためにも、みことばと祈りにより、一定の訓練を私たち自身に課す必要があるわけです。 この、11章54節の時間もまた、十字架の受難を前にした、イエスさまにとって大事な時間であり、そこに弟子たちが伴わせていただいたということでした。私たちもまた、聖書をお読みしてイエスさまの歩みにふれるとき、その歩みに伴わせていただく恵みを、そのたびごとに体験します。イエスさまが退かれて十字架に備えられたそのときに、私たちも伴わせていただくのです。 では、その時間は私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか? それは、私たちもまたイエスさまのあとについて十字架を負う者になるために、イエスさまのそばにいて、祈りをもって備えよ、ということです。 私たちはバプテスマを受けてクリスチャンになったら、自動的に主に従順な敬虔の生活を送れるようになるのではありません。主にお従いするように、自分のために祈り、教会の兄弟姉妹のために祈って、私たちの従順の意識が育つようにしていただかなくてはなりません。 はっきり申しまして、十字架を負ってイエスさまのみあとを従う生き方は、はやりの生き方ではありません。人気のある生き方ではありません。しかし私たちは、この生き方が何にも替えることのできない恵みの生き方、喜びの生き方であることを知っています。 ただ、この生き方をする上で、私たちの中には、肉を満足させたい思い、世の友となりたい思いがつねにあり、十字架を背負う生き方、従順の生き方を邪魔するものです。 だから私たち教会は、この生き方をともに最後まですることができるように、励まし合い、祈り合う必要があるのです。それが、イエスさまの苦難の場に伴わせていただいている私たち、主にある兄弟姉妹に求められている姿勢です。見てください。イエスさまが伴われたのは、「ひとりの」弟子ではありません。弟子たちという「共同体」です。私たちもまた、ひとりひとりで信仰生活を送っているのではありません。「ともに」イエスさまのみあとをお従いするのです。 いま、この世はまたもやコロナウイルスの流行を意識しなければならない時勢になり、礼拝に来ることも多数の人前に出ることである以上、感染を念頭に置くと控えざるを得ないという判断が下されるようになりつつあります。それはもちろん、主の宮なるからだを守るという次元から考えるならば、尊重されるべきことではあります。 しかし、同時に忘れてはならないことは、各自の家でインターネットなりCDなりで礼拝をささげることになったとしても、私たちは礼拝の共同体をなすひとりであるということです。私たちは孤独であると考えてはなりません。自分はキリストのからだという共同体を形づくっている一員であるという意識と自覚を、つねに持っていただきたいのです。 また、こうしてともに集っている私たちは、ここに来ることができないでいる兄弟姉妹を覚え、その兄弟姉妹はここにいなくてもともに共同体を形づくっている家族であるということを意識し、とりなして祈っていただきたい、できればメールなり電話なりお手紙なりで励ましていただきたい、ということも思います。この励ましととりなしの祈りのわざは、牧師だけがするのではなく、教会でともに取り組んでいただきたいと願います。 さてそれでは、55節にまいりたいと思います。このときエルサレムには、地方からも多くのユダヤ人が集まっていました。 彼らは過越の祭りに備えて、宗教的に身をきよめる期間をしっかり持とうとしていました。ユダヤ人にとって過越の祭りは、それほど大切なものでした。しかしこの年においては、ユダヤ人たちが過越の祭りにおいて、特別に大きな関心をいだいていたことがありました。56節です。 そうです、イエスさまが来られるかどうかが、彼らにとって大きな関心事でした。イエスさまはユダヤ人の王として待望されていたお方で、この方をエルサレムにお迎えして過越の祭りの時を持ったならば、彼らユダヤ人にとっては忘れがたい祭りになるのはたしかなことでした。 しかし57節をご覧ください。イエスさまを見かけた者は当局に通報せよ、とのお触れが出ています。そのような中にイエスさまはあえて入っていくことはなさいませんでしたが、それでも、イエスさまが祭りに来られることに期待するユダヤ人は一定数いたと見るべきでしょう。実際、エフライムでの生活を切り上げ、時満ちてイエスさまが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたとき、ユダヤ人たちはこぞって、イエスさまのことを熱狂的に迎えました。 もっとも、この56節の表現はイエスさまのことを指して「あの方」とか「来られない」などと、尊敬形の訳し方をしていますが、それはもちろん、この箇所は、ユダヤ人はユダヤ人でも、イエスさまをメシアとして待望していたユダヤ人たちが話した会話という前提で訳されているわけです。別の日本語訳の聖書でも、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳では、特に尊敬形を用いてはいません。つまりユダヤ人といっても、イエスさまのことをメシアとして待望していたとはかぎらない人たちだった可能性もあるわけです。 とするとこのユダヤ人たちは、それこそ、イエスさまを死刑にして葬り去ろうと陰謀を巡らしていたユダヤ人だった可能性もあるわけです。ユダヤ人の王というならば、この過越の祭りに来ないはずはなかろう。そうだとすると、彼らはこの過越の祭りを、彼ら自身の意識しなかった形で、動物の子羊ではない、神の子羊を血祭りにあげる究極の機会として、虎視眈々と狙っていたということになります。なんということでしょう、彼らは究極の子羊をほふるという点で、たしかにユダヤの宗教指導者らしくはありました。いえ、それ以外の何者でもなかったからこそ、彼らはそのような行為に及んだとさえ言えます。 しかしこれは、先週、あの十字架を意味する預言をした大祭司カヤパを例にして申しましたとおり、宗教者として結果的に主のみこころを実践したからといって、その行為がその人を救うわけではありません。私たちも、それがみこころにかなうとばかりに、宗教的行為をすることで満足していても、結果としてみこころを損なうことをしているならば、何の得にもならず、かえってその宗教的行為は呪わしいばかりです。このようにささやき合ってイエスさまを待ち構えて手ぐすねを引き、過越の祭りを血祭りの機会とするような宗教指導者たちなど、まさにその典型です。 私たちもきわめて問われるところです。もし私たちがこの時代のユダヤに生きていたならば、いったいどんな立場の人になったでしょうか。 いちばんなりやすい立場は、イエスさまを迎えようと気分が高揚していた一般のユダヤ人の立場かもしれません。イエスさまが子ろばに乗って入城すると、熱狂的にイエスさまを迎えました。しかし、政治的メシアになってほしいという自分たちなりの願望がなくなるや、宗教指導者たちにあおられるままに、イエスさまを十字架につけろと叫び、そのためには極悪人のバラバを釈放させることもいとわなかった者たちでした。 彼らは一見すると神の民のようでも、神さまではなく世に流されていたために、そういうことになり、結果として神さまのみこころをいたく損なったわけです。この世と調子を合わせることが結果として主を十字架につける罪につながるということを、彼らはよく示しており、これがもっともなりやすいタイプといえるでしょう。もちろん、私たちはこのような、ユダヤの群衆のようであってはなりません。 他のタイプは、ユダヤの宗教指導者たちです。彼らは確信をいだいてイエスさまを十字架につける者たちです。流されて罪を犯すユダヤ人ももちろん問題ですが、彼ら宗教指導者は、イエスさまを十字架につける、つまりあえて神に敵対することを、まるでこの上ない喜び、人類の究極の目標のようにして実践します。もちろん神さまは、彼らのそのどす黒い企てをとおしてさえ、十字架による罪からの贖いという永遠のみこころを成し遂げてくださるお方です。しかし、神に敵対する生き方を悔い改めることもなく、あえてイエスさまを十字架につけるようなことは、なんと恐ろしく、また悲しい生き方でしょうか。 最近私は、妻から教えてもらい、インターネットなどを通じて、現代社会のあちこちをおおっている反キリスト、キリストに敵対する文化の諸様相を見させていただいています。これまで聖書の価値観から悪とされていたものが、現代においてはみな相対化され、受け入れるべきもの、美しいものという扱いを受けるようになっています。しかしそうなると何が起こるのでしょうか。そういうものと相対化された聖書の教え、イエスさまの教えは、やれ偏狭だ、やれ独善的だ、などと攻撃され、まるでいけないことのような扱いを受けるようになっています。 こういう邪悪なムーブメントに乗せられる方も問題ですし、そういうムーブメントを罪深いとわかっていながらもつくり出し、世界をその悪しき文化に染め、人々に聖書もキリストも信じなくさせる勢力は、世界のいたるところに存在しますし、それはこの日本も例外では ありません。 時の宗教指導者たちはイエスさまを十字架につけた張本人であったという点で悪魔の手先でありましたが、こんにちの邪悪な勢力は、自らがはっきりとキリストに敵対し、悪魔を崇拝する者たちであることを表明しつつ活動する分、ある意味で時のユダヤの宗教指導者たちよりひどい存在です。 私たちはけっして、このような闇の勢力の味方になってはいけません。もし私たちの近くにそのような勢力の中にいる者がいたならば、私たちはひたすら、彼らが悪の道から立ち帰るように、主にとりなして祈る必要があります。 しかし、今日の本文を見てみますと、そこにはユダヤの群衆でも宗教指導者でもない存在が見えてきます。そうです、さきほども集中的に学びましたが、イエスさまの弟子たちです。イエスさまの弟子たちは、たしかにイエスさまの十字架を目の前にしては、弱い姿、みっともない姿をさらしてしまいました。しかし少なくとも、彼らはイエスさまを十字架につける勢力についてはいませんし、なによりも、イエスさまを十字架につけたりはしていません。 もちろんその中には、イスカリオテのユダのような物もいました。しかし私たちは少なくとも、イエスさまを主と告白してお従いする姿勢を保ちつづけるならば、ユダのようにイエスさまを十字架につける勢力にあえてなることはありません。私たちはどこまでも、主によって召され、主に遣わされた弟子です。そのアイデンティティを最後まで保つことです。 弟子であるならば、私たちは十字架を経て、まことの悔い改めを経験し、聖霊の力を着せられてこの世に遣わされ、主の栄光を顕す者、主の愛をもってこの世を愛する者として用いていただけます。私たちはあおられるユダヤ人、イエスさまを十字架につけるユダヤ人の姿を見て、自分もそうだなどと考えることはありません。 もちろん私たちは、かつてはイエスさまを十字架につけるほどの罪人でした。それでも、そのような存在だったところから救い出してくださり、ご自身の弟子としてくださった、ご自身の救いの生きた証人としてくださったイエスさまを見つめ、イエスさまを賛美しましょう。主の弟子であることに心から感謝し、この世にて大きく用いられてまいりましょう。

まずは救われよ

聖書朗読 ヨハネの福音書11章45節~53節/メッセージ題目 まずは救われよ  アメリカの黒人霊歌に、「オール・マイ・トライアルズ」(「私の試練」)という歌があります。ハリー・ベラフォンテやピーター・ポール・アンド・マリーのベスト盤にも収録された有名な歌です。その一節に、「もし信仰がお金で買えるものならば、お金持ちは生きて、貧乏な人は死ぬだろう」とあります。貧しい者、持たざる者にされたアメリカの黒人の叫びが聞こえるようで、聞いていて胸が苦しくなる歌詞です。 しかしこの歌詞の意味するところは、それこそむかし高校の国語の古文の授業で習った反語のように、「お金持ちは生きて、貧乏な人は死ぬのだろうか、いやそんなことはない」という意味に取るべきです。そのように聞くと、現世では貧しく、隅に追いやられたような立場に置かされた弱い者が、天の御国では現世とは反対に、すばらしい恵みを得ることになるという、ことばにできない感動を味わうことができます。   イエスさまがこの地上に生きておられたとき、宗教指導者たちは本来、みことばにおいて啓示されたキリストが来られたことに大喜びし、イエスさまにお従いし、イエスさまを礼拝し、イエスさまを伝えるべきでした。ところが彼らはイエスさまを排斥し、迫害し、ついには十字架にまでつけました。一方で、宗教共同体においては絶望的な罪人扱いされていた者たち、羊飼いや取税人や売春婦のような人たちにこそ、救いの道が開かれ、イエスさまを信じる信仰が与えられ、天の御国に入れられるのです。  私たちはもちろん、たとえ持たざるものであってもイエスさまを受け入れる人でありたいものです。しかしひとたびイエスさまを受け入れたからと、あとは安逸に過ごしてもよいものなのでしょうか? イエスさまを受け入れて永遠のいのちが与えられたのをいいことに、まだ救われていない人を見下したり、自分たちさえよければという態度で生きたりしてもいいものでしょうか?  そこで私たちは、イエスさまを排斥した、ときの宗教指導者たちを反面教師として、私たちにとってふさわしい信仰のあり方をともに模索していきたいと思います。では、見てまいりましょう。  イエスさまがラザロをよみがえらせ、ご自身が神の御子キリストであることをいよいよはっきりとユダヤ人たちの前でお示しになったとき、多くのユダヤ人がイエスさまを信じ受け入れました。  だが、あわてたのは宗教指導者たちです。彼らは何を恐れたのでしょうか? 48節をご覧ください。……このままではユダヤが民族を挙げて、イエスさまを信じるようになってしまうことを恐れたのでした。そうなると、ローマ軍がユダヤに攻めてきて、土地も民族もみな取り上げてしまう、ということです。  これはどういうことかと言いますと、この時代にユダヤで待望されていたメシアなる王は、ローマ帝国の支配から脱出させてくれる革命家のような存在でした。民衆はイエスさまに対し、そのようなこの世的な救世主であることを期待していました。そのような革命家がユダヤに起こり、人々を扇動するようになったら、ユダヤにこれまで保障されていたある程度の自治権はひとたまりもなく吹き飛び、彼ら宗教指導者たちは国と民族を治めるどころではなくなります。それだけは困る、というわけです。  もちろん、イエスさまは彼ら宗教指導者たちやユダヤ民族が思っていたような救世主ではありません。それはイエスさまが総督ピラトに、わたしの国はこの世のものではありません、とお答えになり、ご自身がユダヤ民族を扇動する革命家であることを明確に否定されたことからも明らかです。しかしユダヤ人は、われわれにはカエサルの他に王はない、しかしこのイエスは、カエサルに代わる王になろうとした、したがってこの反逆者を十字架刑にしていただきたい、とピラトに迫り、そしてそのとおりになったのでした。  このようなことをわめいたユダヤ人も、つい数日前には、イエスさまを王としてエルサレムに迎えた者たちでした。そんな彼らの考えを変え、ユダヤの王として尊ばれるべき存在をローマの反逆者として十字架につけさせたのは、大祭司カヤパのどす黒いまでの知恵によることでした。  カヤパは何を語ったのでしょうか? 49節、50節です。……かくしてイエスさまは、ユダヤを解放する王から、最悪の反逆者として処刑されるという道へと歩み出されたのでした。  しかし、このカヤパのことばは、単なる陰謀以上の意味がありました。カヤパは、ユダヤという神の民にとって、もっとも宗教的な権威を持つ大祭司でした。その彼の語ったことには、どんな霊的な意味が秘められていたのでしょうか? 51節、52節です。……  あの反キリストの権化のようなカヤパが、これほどまでに本質的に、イエスさまの十字架の持つ意味を言い当てたのです。福音書はその理由を、カヤパがその年の大祭司であったからだと語ります。つまり、カヤパは人間的考えで語ったのではなく、神の霊的権威を託された者として語らせられたのです。  だがこのカヤパの預言は、なんと皮肉だったことでしょう。この預言は十字架という神のご計画を実行する原動力となったのですが、その預言はカヤパのことも、それに扇動された宗教指導者たちのことも救いませんでした。人に与えられた霊的権威は主の民の霊的共同体を保つ上で必要なものだったにせよ、その権威を与えられた者のことは、けっして真似をしてはならなかった、主にある実もないものでした。  イエスさまは、群衆と弟子たちに対するメッセージで、このようなことを語っていらっしゃいます。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」  これは、マタイの福音書23章のみことばの最初の2節と3節の部分ですが、それに続いてイエスさまは、彼ら宗教指導者たちがどれほど、みことばを振りかざしているくせに自分たちはまったくそれを守らないものか、歯に衣着せぬ痛烈なおことばで批判していらっしゃいます。  これは、心して読むべきみことばです。私が礼拝メッセージを語るときに心がけていることは、その語ったことを聴くみなさまが守り行なっていただきたい、その一心で語ることです。そのためにできるだけわかりやすく、また、具体的に生活に適用できるように語ることを心がけます。しかし、それよりもはるかに大事なことは、ほかならぬ私自身がその語るみことばを守り行うことである、ということです。私は偉そうなことを言っているけれども、人さまに真似してもらえるにふさわしく生きているだろうか?  クリスチャンでよく、こんなことを言う人がいます。私は罪人です。どうか私ではなく、イエスさまを見てください。一見するともっともなように見えますが、しかしこれは詭弁というものです。その人がイエスさまに従う生き方をする、すなわち、キリストに似た者として生きることをしないで、どうやって人にイエスさまを伝えることができるでしょうか? 私たちは、信仰によって救われているだけで満足していてはなりません。日々みことばと祈りによって、キリストに似たものへと変えていただく歩みをしていく必要があります。  聖書の中でイエスさまが、あれだけパリサイ人たちを批判していらっしゃるのは、私たち律法主義から解放された者たちがそれを読んで、あーよかった、私たちはあのような者たちとはちがう、などと安心するためでは決してありません。むしろその反対で、人ならばだれもが陥るわな、宗教的になって人を顧みなくなる、愛も行わなくなる、そういう間違った生き方を、イエスさまによって救われて神の民となった私たちもしかねないからです。 まことに、私たちは小さなパリサイ人です。しかしそんなパリサイ人でも、ひたすら信仰によって前進したパウロのように、みこころにかなう愛の人としていただけます。私たちはつねにこの自覚を持ちたいものです。 語ることはみこころにかなっている。実に聖書的だ。だがそれを語る当の本人が、いちばんみこころにかなっていない。そればかりか、主に敵対する者にさえなっている――こういうことは往々にしてあるものです。このカヤパの場合なども、まさしくそのケースでした。イエスさまがすべての神の民のために死なれることを言い当てているのだから、まさしく福音の神髄といえる十字架の預言、これほどまでにみこころを表すことばはないくらいです。 しかしどうでしょうか、このような預言をしたカヤパは、だからといって救われて神の国に入り、永遠のいのちをいただくに値するのでしょうか? 聖書は、カヤパが最終的にイエスさまの十字架を受け入れたかどうかについては沈黙していますが、もしそのまま悔い改めることがなかったならば、カヤパは到底、救われるはずなどなかったわけです。それもそのはずです、イエスさまを葬り去る提言をここまではっきりと語り、宗教指導者をはじめユダヤ全体をイエスさまに敵対させた張本人、キリストの敵が、それでも赦されるということなどあり得るでしょうか? 考えてみるまでもないことです。 このカヤパの姿に、私のような献身者はとても恐ろしいものを感じます。私はこれまで、多くのみことばを語ってまいりました。もしかすると多くの方が、私の語ることばに恵みを覚え、主の働きをするために遣わされ、この世で用いられたかもしれません。しかしそれらのことは、私が天国に行けるかどうかということと何の関係もありません。 これはけっして言い過ぎではありません。マタイの福音書の7章21節から23節をお読みください。……主よ、主よ、と呼びかけさえすればそれでいいわけではない、と、イエスさまがおっしゃった真意がお分かりでしょうか? たんに宗教的に神さまとの関係を持ったつもりになっている人は、普段から「主よ、主よ」と呼びかけてはいます。しかしそれは、しょせん自分の宗教的満足のために、そう呼びかけていることでしかなく、そのことで神さまと交わりを持っているわけではありません。 しかしその姿を見る人は、ああ、この先生はいかにも霊的だ、神さまの近くにいらっしゃる、と尊敬してくれるでしょう。その尊敬を一身に受けたら、その宗教家はいやでもうぬぼれます。うぬぼれるために主の名を利用する、尊敬されて高い地位に就くために主の名を利用する、そのために、主よ、主よと呼びかけることもいとわないのです。 だが、このように呼びかける対象であるお方がさばき主であることを、その人は忘れています。あるいは、意識しもしません。もしかしたら、自分は絶対にさばかれない立場にあると見くびっているかもしれません。そういう者が終わりの日になって、火よりも恐ろしいさばきにあうわけです。みこころにかなう行いをしてこなかったという、その理由ゆえに地獄に落とされるのです。 そのとき、宗教家は弁解します。主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか。 しかし、それが仮にも本当のことだとしても、神さまはそれを天国に入れる条件にはしてくださいません。いかにも宗教的な行為をしたことなど、天国に入るにあたっては何の役にも立たないのです。 カヤパならばこう弁解するでしょうか。主よ、主よ、私はあのとき、あなたの名によってイエスさまの死なれることの意味を言い当てました。それはみこころにかなったことではなかったですか。それなのに私はどうして地獄に落ちなければならないのですか。 もちろん、こんな弁解をしたところで、神さまはカヤパのことなど天国に入れてくださるはずもありません。カヤパはキリストに敵対した張本人です。正しい意味の預言を主の権威によってすることと、その預言をした者が救われて天国に行けるかどうかは、まったく関係のないことです。 私たちは、この世でなした業績で天国に入れるかどうかが決まるのではありません。では、何によって決まるのでしょうか?「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」と、イエスさまは語られます。 それは、御子イエスさまを信じることです。具体的には、イエスさまの十字架を信じる信仰によって罪赦され、御父と和解し、神さまの子どもにしていただくということによってです。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、イエスさまを通してでなければ、だれひとり父のもとに行くことはありません。だがカヤパや宗教指導者たちのしたことは、自分たちがイエスさまを信じなかったばかりか、もはやその道が永遠に閉ざされよとばかりに、イエスさまをなきものにしようとしたということです。悔い改めないかぎり、赦されるはずもありません。 私なども恐ろしいです。およそ牧師というものは、目に見える神さまのための働きであるだけに、この働きで忙しくしていれば、それで満足してしまう危険性とつねに隣り合わせです。正直に告白しますが、どんなに忙しくしていても、いちばん大事な神さまとの働きがとても希薄になっていた、ということも、一度や二度ではありませんでした。 しかし感謝なことに、ヨハネの黙示録で主がエペソ教会の信徒たちに語られたように、あなたは初めの愛から離れてしまった、だからどこから落ちたのかよく思い出し、悔い改めて初めの行いをしなさい、と、主は私に語りかけてくださり、私のことを悔い改めに導いてくださり、今こうして神さまとみなさまに支えられて、ここに立つことを許されています。 私のすべての行いは、牧会は、説教も週報づくりも信徒のみなさまに連絡をすることも、あるいは家庭を治めることも、言ってみればみな「行い」の範疇に属するものです。しかしそのすべての「行い」は、イエスさまの十字架の愛に応えての愛ゆえに湧き上がるものであってしかるべきです。何よりも大事なのは、イエスさまの十字架という「初めの愛」という出発点であり、そこからすべての働きは始まります。 これは、献身者にかぎりません。私たちもみな、動機が問われます。ローマ人への手紙14章23節に、「信仰から出ていないことは、みな罪です」とあります。私たちは果たして、信仰によってすべてのことをしていますでしょうか? 単なる人間的な宗教的満足でしているだけになってしまう危険と、私たちはいつも隣り合わせです。イエスさまとの交わりなしにこなしてしまう、それでもどうやらそれなりのことができてしまう……これは危険なことです。 それでもひとつ、私たちは覚えておくべきことがあります。このカヤパのような悪人のはかりごとをとおしてでも、神さまはご自身のご計画、イエスさまの十字架による私たちの救いを成し遂げてくださったということです。今後もこの世界には、あらゆる悪を行う勢力が幅を利かせ、私たち主の民をますます苦しめていくことが予想されます。しかし私たちは忘れてはなりません。すべてを相働かせて益としてくださる神さまは、悪人のその悪しきはかりごとを用いてさえも、ご自身のご計画、人の救いと神の国の実現をもたらしてくださいます。 神さまより強い存在はこの世のどこにもありません。私たちは恐れてはなりません。神さまは、私たちの味方です。私たちに敵対するものは何もありません。私たちも主に敵対する行為ができないように、私たちのことを、罪を嫌われる聖霊なる神さまが守ってくださいます。 私たちはまず、主との交わりからすべてを始めることです。主の愛を動機にすべてのことを行うことです。そうすれば私たちは、愛のない律法主義から解放され、主に用いられるのはもちろんのこと、天国に入れていただけるという平安の中でつねに主と交わりながら、喜びと賛美に満ちた歩みをともにしていくことができます。この歩みをともに目指すものとなりますように、祈ってまいりましょう。

祈りは聞かれるから

聖書朗読;ヨハネの福音書11:38~45/メッセージ題目;祈りは聞かれるから  みなさんにお伺いしたいと思います。みなさんにとって、祈りとは何でしょうか?  今も心痛む、忘れられない想い出をお話しします。それは私が大学生のときのことで、ある人から別れ際に、こんなひと言を言われたのでした。「いいか、よく覚えておけ。祈りは、演技だ!」それまで私は彼のことをクリスチャンと思ってつき合い、つい今しがた、別れる前に彼の祝福を祈ったばかりでした。そして返ってきたことばがこれでした。「よく覚えておけ、祈りは、演技だ!」  私も若くて、どう言い返せばよいかわかりませんでしたし、それに彼は、ストレートに福音を受け入れるには、あまりにも傷が深い人でした。そういう状況で聞いたことばであることを割り引いても、そのとき聞いた「祈りは、演技だ!」ということばは、28年経った今も、ときどきに私の心の中で首をもたげてきます。  みなさんならば、大事にしている人から「祈りは、演技だ!」と吐き捨てるように言われたら、どう答えますか。ほんとうに、祈りとは演技にすぎないものなのですか。実を申しますと、私は今に至るまで、彼に対してその答えを言ったことはありません。振り返ってみると、私の人生は祈りが応えられたことの連続でしかなかったのですが、それを言ったところで、もし今もなお彼が考えを変えていなかったとしたら、彼はけっして私に起こされた祈りの応答など認めないでしょう。私がどう祈ろうと、それは演技なのでしょう。  彼がそう思うのは、しかたないのです。第一コリントに書かれているとおり、御霊のことは御霊によってわきまえる、とありますが、最初から御霊のわざなる祈りというものを疑ってかかるならば、祈りというものほどリアルなものはないこと、祈りは実に愛にあふれた神さまとのコミュニケーションであることを、わかるわけがなく、演技と見なす自分を正当化するばかりでしょう。なぜなら、不信仰であることをやめないことにより、御霊の導きが自分に臨むことを拒否しているからです。  でも私たちは、祈りというものを身近にした生活をしていますでしょうか? 早い話が、祈っていますでしょうか? あなたのしていることはしょせん演技です、などと言いがかりをつける人が現れたとしても、少なくとも私たちの心の中は平安でしょうか?  本日のみことばは、その真ん中の部分に、イエスさまが御父にお祈りすることばが出てまいります。まさしく、祈りです。しかしこの祈りは、兄弟ラザロを生き返らせてくださいとイエスさまにすがった、マルタとマリアの声なき声の祈りに応えられての祈りであると言えましょう。 本日の箇所から、私たちにとって祈りとは何か、受け入れていただける祈りとは何か、ということを、ともに学んでまいりたいと思います。 イエスさまは憤っておられました。アダムの堕落以来、人を悲しみに陥れる死というものがなお人の世界を支配している現実……イエスさまはこの、死というものへの怒りをいだいておられたのでした。 この怒りはまた、よみがえりであり、いのちであるイエスさまのご存在を見えなくさせてしまうほどの死の持つ力に対する怒りとも言えました。この怒りに私たちは共感できないでしょうか?  あれは私が大学生のときでしたが、芸能界のおしどり夫婦として知られていたあるカップルの、奥様が亡くなったときのことです。奥様はクリスチャンで、教会でご葬儀をした様子までワイドショーで報道されていました。私も知っていた教会だったので、ちょっと驚いたものでした。それはともかく、その教会でインタビューに応じていた旦那さんが、口元に笑みさえ浮かべながら、「妻はいま天国にいますから」と答えていらしたのが、とても印象的だったものでした。 しかし、ワイドショーのコメンテーターは、こんなことを言うのでした。「天国にいますから、なんておっしゃるそのおことばに、とても深い悲しみが感じられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。」私は旦那さんの平安に満ちた表情を見て、すこしも悲しみをこらえた様子が見えなかっただけに、このコメンテーターのコメントは的を外れていると思い、天国の福音をちゃんと伝えようとしないワイドショーのあり方に、怒りを覚えたものでした。しかし世の中とはそういうものです。永遠のいのちなるイエスさまがわからないものだから、天国よりも死のほうをよほど現実的に捉えてやまないのです。 それは、ここにいる人たちも同じでした。いのちなるイエスさまがここにおられるというのに、イエスさまが見えず、ラザロの死という現実の前に打ちのめされて、泣いていました。そして、一度は正しい復活信仰を持ったマルタさえも、揺れ動いてしまいました。   新約聖書のヤコブの手紙を読んでみますと、私たちが祈るとき、少しも疑わずに信じて願いなさい、疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の大波のようであり、そういう人は主から何かをいただけると思ってはなりませんと書かれています。この箇所は明らかに、イエスさまの呼ぶ声にこたえると湖の上を歩けた、しかし波を見ると急に怖くなって、そのとたんおぼれかかった、ペテロのことを念頭に置いていると言えるでしょう。   湖の上など渡れるわけがない、これが常識です。しかし、イエスさまのみわざはときに常識を超える、なぜならばイエスさまは全能なる神さまだから……その信仰を働かせるとき、主が私たちのただ中にみわざを起こしてくださる余地が生まれます。  マルタはついさきほど、イエスさまがラザロを実際によみがえらせてくださると信じ受け入れたばかりでした。しかし墓を前にすると、マルタのその信仰は揺れ動きました。死んで4日経った、そんな人は生きているはずなどないという現実的な考えに圧倒されました。その考えは、イエスさまが全能なる神さまであることを忘れさせてしまうのです。  この病気は治らない、この人間関係はもう修復できない、このあやまちからはもう立ち直れない……常識というものは私たちの実生活を支配しますが、それは何のためでしょうか? そのために私たちが絶望するしかなくなったならば、罪責感たっぷりになって自分を責めるしかなくなったならば、そんな常識など何の役に立つのでしょうか? しかし、こういうときに私たちは、祈ることができるのです。私たちにできないことを、全能なる神さまが必ずしてくださるという信仰を働かせるのです。  私たちはときに、常識という現実の前に圧倒されます。このときのマルタがそうだったようにです。しかし、イエスさまはマルタになんと語りかけられましたか? 40節です。主は、私たちが不信仰だからとおさばきになり、もう知りませんとお見捨てになることはけっしてありません。私たちの信仰が弱いことをご存じの上で、強い信仰へと成長させてくださいます。 要は、私たちがあきらめないことです。マルタは確かに揺れ動いていましたが、それでもイエスさまを呼び寄せるだけの信仰の行動はありました。イエスさまはマルタの信仰を表面的に評価することはなさらず、その奥底の心を汲んでマルタの信仰を一段と成長させてくださったのでした。 私たちも、心で信じたならばそれ相応の行動が伴ってしかるべきでしょう。しかし、信仰というものはいわば「内的衝動」とでも言うべきものであり、ほんとうに信じた人の中には、主のために何かせずにはいられないという衝動が大きくなり、行いという形で実を結ぶものです。 でも、このようなことを申しますと、自分は主のために何もできていない、と、落ち込む方がいらっしゃるかもしれない、と心配にもなります。しかし大丈夫です。問われる思いがあるならば、それは主がそれぞれの殻を破るように信仰を成長させてくださる前段階(ぜんだんかい)にあると考えるべきです。私たちは弱さを弱さとしたままで落ち込んでそれで終わりにするのではなく、弱さを強さに変えてくださる神さまに祈って、変えていただくのです。ここに、私たちは信仰を働かせるのです。 さて、それでは、イエスさまが祈りを聞いてくださるとはどういうことなのかを、41節、42節から考えてみましょう。お読みします。 ここでイエスさまは、御父がイエスさまの願いを聞いてくださったことを感謝しています。これこそが、祈りというものです。おわかりでしょうか? 祈りとは、イエスさまが御父に願うことです。 私たちはお祈りするとき、「イエスさまの御名によって祈ります」と言ってお祈りを締めくくります。これは、単なる決まり事とか、習慣のようなものではありません。お祈りはイエスさまの御名によって祈らなければ、御父に届かないのです。 人間は、神的な存在に対して祈ります。ギリシャ語で人間とは、アンスローポスといいますが、これは「上を見上げるもの」という意味で、人間とはみな宗教的な存在であることが暗示されています。だから人は祈ります。しかし問題は、「イエスさまの御名によって祈っているか」ということです。イエスさまの御名によって祈り、その結果として祈りが父なる神さまに届いているかということです。 もし私たちがイエスさまの御名によって祈るなら、その祈りの内容は、イエスさまが御父に祈る祈りと一致している必要があります。そうするとき、私たちの祈りははじめてかなえられるのです。私たちの肉的な欲望、願望が、いくら祈ってもかなえられないのは、それが、イエスさまが御父に祈るべき祈りの内容ではないからです。 そうだとすると、私たちの祈りは、なんと形式的なものに終わっていたり、自己中心だったりして、イエスさまの祈りに一致していないことが多いことでしょうか! それは単にことばを羅列しているだけで、神さまとのコミュニケーションという意味でのお祈りにはなっていないのです。もちろん、かなえられるはずもありません。 もっとも、みこころにかなうお祈りというものは、かなえられるかどうかで判定されるものではありません。イエスさまご自身がそうでした。ゲツセマネの園で苦悶の中で、この杯をわたしから取り除けてください、と御父に祈られたお祈りは、結果として十字架にかかられたということを見ると、かなえられたわけではありません。 しかし、このお祈りは、十字架という主のみこころが成るうえでどうしても必要なお祈りでした。イエスさまのこのお祈りは、かなえられなかったお祈りだったからといって、ふさわしくないお祈りだったのではありません。 私たちにしてもみこころにかなう祈りであると知ってもそれがかなえられないからと、失望してはなりません。祈りつづけることです。家族の救い、病気のいやし、教会の成熟、人格の成長……みな、みこころにかなっています。一朝一夕にかなえられなくても、祈りつづけることが大事です。 ともかく、祈りというものは、どんな祈りであっても、聖霊なる神さまの導きの中でささげるべきものです。聖霊の導きに敏感になるなら、私たちの祈りはイエスさまの祈りと一致した、的を外さないものへと整えられていきます。祈りが整えられるためには、まず祈ることです。そして祈りのうちに、私たちのすべてを、聖霊さまの導きに明け渡すことです。 御霊に満たされなさい、というみことばがあります。御霊は私たちクリスチャンを、いつでも満たしてきよめようとしてくださっているのです。みこころにかなうものへと整えようとしてくださっているのです。要は、私たちが御霊の導きに明け渡すかどうかです。御霊の導きに明け渡すならば、私たちの祈りは、イエスさまが御父に祈られる祈り、すなわち御父が聞き届けて栄光を顕してくださる祈りへと整えられます。 さきほど、若き日の私に向かって「祈りは演技だ」と言い放った人のことを言いましたが、これはもしかすると、耳に痛いことばとして受け取るべきなのかもしれません。思い返せば、私はなんと、形ばかりの、それこそ演技のような祈りをすることで済ましてきたことかと、悔い改めさせられるものです。そのような通り一遍のことばの羅列で祈ったような気分になっていたとき、聖霊なる神さまはどれほど悲しんでおられたことか、それを思い起こすなら、私はどれほど悔い改めなければならないことかと思います。 私たちの祈りは果たしてどうでしょうか? 私たちの祈るそのお祈りを、イエスさまがまったく同じことばで、父なる神さまに祈っておられる姿が想像できますでしょうか? 恥ずかしくならないでしょうか? はたして、私たちの祈りのことばはふさわしいでしょうか? しかし、イエスさまの御名で祈るにふさわしいお祈り、みこころにかなう祈りなら、イエスさまがそのとおりを御父に祈られ、御父は聞いてくださいます。ラザロをよみがえらせるのがみこころであったように、私たちにみわざを起こされるのがみこころなら、すなわち、そのみわざにより、私たちを通してご自身の栄光を顕してくださるのがみこころなら、必ず私たちの祈りは聞かれます、信じて、祈ってまいりたいものです。 さあ、イエスさまは祈られたあと、何とおっしゃったでしょうか。43節です。……この命令のことばに応えて、ラザロが出てきました。生き返ったのです! 特に44節の表現に注目しましょう。ラザロ、とは書いてありません。死んでいた人、という表現をしています。この表現は、ラザロが特にイエスさまに愛されていたからよみがえるということではなく、死んでいた人はだれもがイエスさまに引き出されるならばよみがえる、ということを暗示しています。イエスさまとはまさしく、死んでいた人をよみがえらせるいのちの主なるお方だということです。 私たちも、罪と罪過の中に死んでいた者でした。しかしあわれみ深いイエスさまは、罪からの報酬である死の中に閉じ込められていた私たち、まさしく、死んだ者が閉じ込められた墓の中にいたような私たちに、「出てきなさい!」と大声で呼びかけられ、死からいのちに移してくださいます。 もう私たちは死んではいません。永遠のいのちに生かしていただいています。しかしこのように贖っていただいた今、かつての自分の姿を考えてみましょう。私たちはどれほど死んでいたことでしょうか? どれほど神さまと断絶して、自分でも何をしているかわからないまま生きていたことでしょうか? しかしイエスさまは、そんな死につながれていた私たちのことを、「出てきなさい!」と、呼び出してくださったのです。 ラザロは最初、布に巻かれたままでした。この時点ではまだ、生き返った死体です。イエスさまはこの布をほどかせました。こうなるとラザロはもう、生き返った死体ではありません。生きているラザロです。 ラザロのその生きる姿は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを証しする姿そのものとなりました。このラザロを見てユダヤ人たちはイエスさまを信じましたし、のちに生き返ったラザロを一目見たいと、ユダヤ人たちがぞろぞろとやってくることにもなりました。 そうです、罪と死のただ中から「出てきなさい!」と呼び出された者は、いのちに生き生きしてしかるべきです。その姿は、いのちなるイエスさまを証しし、こんな素晴らしい生き方があるだろうか、なんと素晴しいのだろうか、と、人を惹きつけてやまないのです。 こんなふうに生きる祝福が約束されているのならば、私たちは用いていただくべく、祈らずにはいられなくなりませんでしょうか? 主よ、ここに私がおります、用いてください、と祈る祈りは、間違いなく、イエスさまが御父に祈られるにふさわしい祈りです。 私たちは、もはや不信仰ではいられません。形だけの祈りをささげて済ましてはいられません。死んでいた私たちに直接大声で「出てきなさい!」と呼びかけ、永遠のいのちを与えてくださったイエスさまの御声が、今も聞こえますか? もう一度信仰を働かせ、祈りましょう。 私たちが祈るのは、祈りは聞かれるからです。いまともに生きておられる神さまは、私たちを死からいのちに移してくださった贖い主です。このお方に、みこころにかなうお祈りをささげるならば、必ず聞かれます。不信仰を信仰に変えていただき、死からいのちに移していただいた恵みに感謝して、祈りましょう。