「あなたの民」のために祈れ

招詞 詩篇124篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇48篇/主の祈り/讃美 讃美歌501 聖書箇所 出エジプト記32:7~14 メッセージ 「あなたの民」のために祈れ 私たちは祈ります。自分のためばかりではなく、家族のためだったり、親族のためだったり、職場や学校のためだったり、さらには国や民族のために祈ります。みなさん、国や民族のために祈っていますか? 韓国の兄弟姉妹は、ほぼ例外なく、祈祷会において国や民族、つまり韓国と韓国人のために必ず祈ります。私たちがほんとうに日本という国を愛しているならば、日本という国と、日本の民族のことを覚えて祈ってしかるべきです。まさしく、内村鑑三が「ふたつのJ」、つまり、ジーザスとジャパンを愛すると言ったとおりです。 もう、あまり口にしたくありませんが、コロナウイルス流行による緊急事態宣言はまだまだ解除される見通しが立っていません。このようなとき、私たちにできることは祈ることです。「祈ることしかできない」のではありません、「祈ることができる」のです。わかりますか? ここ、間違えてはいけません。 先週から、「祈り」について学んでいます。先週はダビデの態度から、いざというときに祈る者となるためには普段から祈る必要があることを学びました。今日は、とりなしの祈りについて学びます。この日本、そして世界がこの災厄から救われるために、私たちのすることは、この世界のためにとりなしの祈りをすることです。では、私たちは、なぜとりなしの祈りをしなくてはならないのでしょうか? 本日はこの「なぜ」ということを、みことばから学んでみたいと思います。 今日の箇所は、モーセが、シナイ山に登って神さまと顔と顔を合わせて交わりを持ち、何週間にもわたって、イスラエルの民をいかに導くべきかの手ほどきを受けていたそのとき、山のふもとでは目も当てられないような事態が展開していたそのとき、モーセが神さまと交わした対話です。イスラエルの民の導き手だったモーセがいなくなり、もうそれが6週間になろうとして、民は目に見える形で神を求めはじめました。 折しもシナイ山のふもとでは、モーセの兄のアロンがモーセの代理として民を導いていました。民はアロンに詰め寄りました。それで、アロンのしたことは何だったのでしょうか? 民から金の装飾品を集め、それを溶かして子牛の像をつくりました。そして、それを民に見せ、「これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と宣言したのでした。民は喜び、その像の前で乱痴気騒ぎのお祭りを始めました。 これは、神さまご自身の御手によって導かれた民として、いちばんしてはならないことでした。それは、みなさんが子どものお父さん、お母さんならわかることでしょう。うちにも子どもがいますが、もしうちの子が、私がしばらく家を留守にしている間に、粘土で人形を作って、「お父さん!」なんて呼びかけでもしていたら、なんて、考えただけで悲しくなります。イスラエルの民は、それと同じようなことをしたのです。 神さまの御怒りが燃え上がりました。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。下りて行け。神さまはこの民をどうなさろうというのでしょうか。わたしに任せよ。わたしはこの民に怒り、この民を絶ち滅ぼす。あなたを大いなる国民(くにたみ)としよう。 神さまの御怒りはもっともです。イスラエルの民を選び、エジプトの圧政から解放された神さまのご栄光を、そのような牛の偶像と取り代えるなど言語道断です。これほどまでに神の民にふさわしくない者どものことなど、神さまは滅ぼしてしまわれて当然でした。 神さまはつづけて、なんとお語りになったでしょうか。モーセから大いなる民を起こすとおっしゃいました。モーセは、現実に神さまの御前に立って、神さまと語り合えるほど、神さまに選ばれるにふさわしい存在とされていました。堕落してしまったイスラエルとは大違いです。神さまのおっしゃることは、ごもっともと言えましょう。 しかし、モーセは神さまのこのみことばを聞いて、はい、そのとおりです、イスラエルをさばいてください、みこころどおり、私から大いなる神の民を興してください、とは言いませんでした。むしろ、神さまのこのおことばを聞いて、どうかイスラエルを赦し、御怒りを収めてくださいと嘆願しました。 なぜモーセはそのように祈ったのでしょうか? 本文を読んでみますと、3つの理由がわかります。ひとつは、このイスラエルの民は神さまがエジプトから導き出された、神さまの民であるということ、そして、もし神さまがイスラエルをここで滅ぼされたならば、神さまとその民の敵は、神さまを嘲るであろうということ、そして、神さまがイスラエルを導き出されたのは、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束された新しい地に入れてくださるためだというわけです。 まず、神さまがこのイスラエルの民を導き出されたのは、イスラエルがほかならぬ、神さまご自身の民だということから見てまいりましょう。神さまはご自身の民を特別に扱われます。民を愛されます。しかしそれは、民がほかのどの民族よりも正しい行いをしているからではありません。理由はただひとつ、イスラエルは神さまの子どもだからです。 大事なのは「関係」です。親は、自分の子どもであるならば、その子がいい子であろうと悪い子であろうと、変わらずに愛情をかけます。親として育っていないと、ときにその愛情のかけ方はへたくそかもしれませんが、それでも、子どもを愛する思いに変わりはありません。いわんや天のお父さまは、どれほど正しく愛情をかけてくださることでしょうか。それもこれも、イスラエルは神さまの子どもだからです。神さまの子どもという「関係」に入れられているからです。 しかし、今やその「関係」は、風前の灯火になっていました。神さまに問題があったのではありません。子どもの側から、神さまがお父さんであることを拒否し、別のものをお父さんだと言い出したのです。神さまは、彼らの選択に任せようとされました。そうかい、わたしとの愛の関係が切れたならば、あなたはどうなるかわかっているね。 しかし、ここでモーセがとりなしました。……いいえ、この民はいまこうしてあなたさまを捨てたかのように振る舞っていますが、あなたさまの民であることに変わりはありません。モーセは、彼らの「振る舞い」以前の、彼らと神さまとの「関係」にかけて、神さまに訴え出たのでした。 これが、とりなして祈る者の姿勢です。いま世界を見てみますと、なんと多くの人がその道を外していることでしょうか。そのためになんと、多くの不義と不正が横行していることでしょうか。神さまのお気持ちを考えてみましょう。こんな世界などすぐにでも滅ぼされたって、私たちは何の文句も言えないのではないでしょうか。しかし、人が滅ぼされず、神さまのあわれみによって保たれるためには、神さま、この民はあなたさまのものです、と、とりなす者たちの存在が必要です。私たちこそ、そのとりなす者となりたいものです。私たちが神さまのあわれみによって救っていただき、神さまの子どもにしていただいたように、この世界の人々がひとりでも救われ、神さまの子どもとして回復されるように、私たちは愛をもって人をおつくりになった神さまのあわれみにすがり、祈る必要があります。 ふたつめにまいりましょう。神さま、このままあなたさまがイスラエルを滅ぼされたら、あなたさまがイスラエルをエジプトから導き出されたのは、イスラエルを荒野で滅ぼされるためだったなどと、敵どものあざけりの的となってしまいます……。 神さまはそのご主権のままに、人を生かし、また、人を滅ぼされます。それに異議を唱えることはだれにもできません。しかしそれでもモーセは、主が敵どもの嘲りにあわれてはならないから、民を滅ぼさないでいただきたいと申し上げたのでした。 モーセの祈りの焦点は、主のご栄光に当てられていました。主の栄光が顕されるように、私たちの生きる目的は、その一点であるべきですし、私たちは生活すべてを通して、主の栄光を顕すべく召されています。その生き方ができるように、私たちは日々祈るものです。 主のご栄光が顕れるようにということにはもうひとつの側面があります。それは、主に敵対する者が主の御名をそしるがままにさせないことです。見てみましょう。この世界はなんと、主なる神さまの御名をそしる者たちに満ちていることでしょうか。聖書をそのまま、主のみことばとして受け入れ、お従いするような人たちのことを、やれ原理主義者だ何だと悪口を言い、まるでいけないことをしているかのようにそしります。そのような者たちは当然のこと、イエスさまをまことの神さまとして信じることをしません。イエスさまが単なる人であるとか、処女降誕も復活も作り話だなどと語ったりして、聖書の記述をちゃんと信じるクリスチャンたちを批判したり、笑いものにしたりします。しかしそれは、神さまを批判したり笑いものにしたりすることであり、神さまの栄光をいたく傷つける行為をしていることです。 彼らは神さまに敵対する言動しています。しかし、このような者たちの声が大きくなるならば、神さまに栄光をお帰ししないことが常識となり、もしかすると、私たちクリスチャンさえも、神さまの栄光を顕す生き方と関係のない生き方を選んでしまうかもしれません。そうなったとき喜ぶのは、神さまの敵だけです。 私たちの祈りは、神さまに敵対する者たちが神さまとその民を引き下げ、自分たちが正しいものであるかのように誇ることのないようにと、神さまのご介在を求める祈りであるべきです。 私たちはもちろん、そのような世界に対し、少しでも神さまに従順に従う生き方をすることで、神の栄光の小さなともしびを灯すでしょう。しかし、闇の勢力はあまりにも大きなものです。私たちはこの勢力に対して、あまりにも無力であることを謙遜に認める必要があります。しかし、無力さを悟ることは、神さまに祈ることの始まりとなります。何度でも申します。私たちは「祈ることしかできない」のではありません。「祈ることができる」のです。祈りにより、この世界の暗やみの勢力は押し流され、神さまの栄光は現れます。今こそ祈るときです。 三番目のモーセのとりなしの理由、それは、「主がエジプトから民を導き出されたのは、イスラエルの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された地に入れてくださるためではないですか」ということです。 どういうことかというと……神さま、あなたさまの約束は変わらないはずではないですか、あなたさまは約束にしたがって、神の民を空の星のように増やしてくださる、そして、この増え広がる民が、主のさだめられた地を受け継ぐ、それがみこころではないですか、ということです。 神さまが民を選ばれたということは、神さまの約束があったからです。約束は、変わることのない神さまが結ばれた以上、変わることがない効力を持っています。 約束を破るのは、いつでも人間の側です。神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに約束してくださったその約束は確かなものなのに、人間の側は神さまがその全存在をかけて結んでくださった約束をいとも簡単に忘れ、罪を犯します。それなら、と、神さまはそのようにして約束をほごにした人間に、それ相応の報いをなさって当然でした。神さまがアブラハムと契約を結ばれたとき、いけにえの獣が真っ二つに切り裂かれてささげられたのは、この約束を守らなかったならば真っ二つに切り裂かれても構わない、という意味です。しかし神の民はいまこうして、神さまとの約束を軽んじました。それゆえ今、神の民は真っ二つに切り裂かれんとしていました。 しかし、ここでモーセは神さまにとりなしました。神さま、あなたさまが契約を結んでくださった民である以上、この民は永遠にあなたさまのものではないですか、あなたさまの約束にかけて、この民をなにとぞ救ってくださいますよう、伏してお願いいたします……。 人が神さまを信じて救われるということは、アブラハムが神さまを信じて救われ、神さまと契約を結んだように、永遠のむかしから定められていたことです。神さまがアブラハムに約束された「空の星」の中に、この私たちも含まれているのです。永遠の約束に含まれているということです。 それなのに私たちは、なんとその約束にふさわしくない生き方を平気で選ぶことでしょうか。そのために神さまの愛をいたく傷つけてしまうことでしょうか。 しかし、それにもかかわらず、私たちが滅ぼされないでいるのは、神さまがアブラハムと結んでくださった契約のゆえです。あなたも、のちの子孫も、みな神の民である。私たちはこの契約に含まれているので、変わらずに神の民にしていただいているのです。 私たちはこの世界を見るとき、いとも簡単に見限ってしまってはいないでしょうか? こんな神さまと関係ない生き方をしている世界のことなど知らないよ、などと。しかしそれでも、神さまはこの世界のためにとりなして祈ることを私たちに求めていらっしゃいます。なぜでしょうか。この世界の中には、神さまが選んでおられる民がいるかもしれないからです。 予定説、という神学の概念があります。神さまはすでに、救われている人を選んでいらっしゃる。私の学んだ神学校もその立場に立つので、私も基本的には予定説の立場に立っています。しかしそれは、どうせ救われている人が決まっているならば、伝道や宣教やとりなしの祈りを含め、この世界に対して何のアクションも起こさなくてよい、ということではありません。むしろその逆で、神さまがこの世界のうちにすでに救いに選んだ人を置いておられるのだから、あなたがた主の民は積極的に伝道し、宣教するのだ、と考えるのがふさわしいです。そうです、神の選びと救霊は全く矛盾しないばかりか、どちらがどちらを補うためにも必要なものです。 だとすると、この世界にはまだ私たちに見えていないだけで、神の民がたくさんいるということになりはしないでしょうか。その世界を滅ぼすことが、果たして神さまのみこころでしょうか。とんでもないことです。ここに、私たちがこの世界をおぼえてとりなす意味が出てまいります。この民のうちにもしかしたら神の民に選ばれた人がたくさんいるかもしれないと考えるならば、私たちのすることは、間違っても、この地に災厄がもたらされることを祈ることではないでしょう。この地が救われるように、回復されるように、平安が与えられるように、祈ってしかるべきです。 以上、モーセの3つのとりなしから、私たちの祈るべき内容について見てまいりましたが、最後に、モーセが「なぜ」、自分ひとりが生き残るよりも、イスラエルの民全体が救われることを神さまに祈り求めたか、その理由を考えましょう。 結論から先に申します。それは、モーセには、神の御子イエスさまの心があったからでした。実にモーセとは、イエスさまのみこころを、この出エジプトの時代において現す代表選手でした。 モーセは、山から降り、実際イスラエルの民が造って礼拝していた金の子牛を目撃しました。その存在は、主から離れたイスラエルの堕落そのものでした。怒りに燃えたモーセは、金の子牛を礼拝しないで主につくことを表明したレビ族によってイスラエルの多くの者を処刑しました。しかし、モーセがしたことはそれにとどまりませんでした。モーセはふたたびシナイ山に登り、主と対面しました。そしてモーセは、彼らの罪を赦してくださるように祈り、それがみこころにかなわないならば、自分のことをいのちの書から消し去ってほしい、つまり、滅ぼして地獄に落としても構いません、と祈ったのでした。 そのようなモーセにまず神さまがおっしゃったのは、7節にあるとおり、「あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民」というおことばです。もはや神さまは、この民は主ご自身が連れ出された主の民とはおっしゃらなかったのです。モーセよ、あなたが責任を取りなさい、と、主はモーセに迫られたのでした。その結果モーセが選んだのは、とりなし手となることでした。 これは、十字架にお掛かりになって、人のすべての罪を引き受けられ、のろわれたものとなってくださった、イエスさまの姿そのものです。モーセは、自分が救われることよりも、堕落した民の代表として、主の御前に立つことを選びました。イエスさまはなおさらそうでした。ご自身を十字架につけるような者たちを即座に滅ぼしてしまわれて当然だったのに、すべての人を代表して十字架につかれ、御父の御前に、彼らをお赦しください、と、いのちをかけてとりなされました。 とりなすとはそういうことです。私たちがイエスさまの御名によってとりなして祈るということは、自分を安全圏に置くということではありません。この罪を犯している民のひとり、代表として、この平安がなくてうろたえている民のひとり、代表として、いのちをかけて主の御前に出ていくのです。 讃美 聖歌465/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷・後奏

危機の祈りは平時の祈りから

詩篇122篇/祈り/使徒信条/交読 詩篇47篇/主の祈り/讃美 讃美歌495 聖書箇所;詩篇34篇1節~22節 メッセージ題目;危機の祈りは平時の祈りから 新型コロナウイルス流行は、教会の在り方を変えてしまいました。何よりも、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励ましあい、かの日、すなわち主の再臨が近づいているのを見て、ますますともに集まり励ましあいましょう、という、へブル10章25節の主のご命令に、教会が従えなくなってしまった、ということです。使徒信条で告白している「聖徒の交わり」、これが持てなくなった教会の受けたダメージは、そうとうに大きなものがあります。 コロナウイルスの流行という世界の危機は、東日本大震災という、やはり日本を襲った危機と比べてみると、その恐ろしさが際立っています。東日本大震災でも多くの人のいのちが奪われ、破壊的な被害をもたらしましたが、それでも人々はボランティア活動などを通して一緒になってこの問題に立ち向かうなど、連帯が生まれました。「絆」ということばが流行したとおりです。しかし、このたびのコロナウイルス流行は、その人として持つべき、人と人との「絆」を断ち切るものとなりました。目の前の人に感染させるかもしれない、逆に、感染させられるかもしれない、だれのこともそのように思って、おちおち会話することもできない、出かけることもできない、そんな事態が今まであったでしょうか? このようなとき、私たちのできることは何だろうか……祈っているうちに与えられたのが、今日の本文です。そうだ、聖徒の交わりを持てないと嘆くのではなく、神さまとの交わりを持つべきではないだろうか! そこで、今日の本文から祈りについて学びたいと思います。 今日の本文、詩篇34篇はダビデの祈りの告白です。今日は特に、やや長い本文のうち、7節までを中心に学びたいと思います。 まずはタイトルをご覧ください。これは、サムエル記第一の21章にて、サウル王から逃れたダビデがガテの王アキシュのもとに落ち延びたとき、家来が、この男は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌われた、あのダビデではないですか、と王に注進しました。本来ならばダビデは、そうです、その私があなたのもとに助太刀にまいりました、と、自分をアピールして、ちゃっかりガテの軍隊に加わってもよさそうなものでした。しかし、今ダビデは恐れに取りつかれていました。サウルという名前を聞いただけで震え上がるような心境にいました。 それでダビデは、早くここから逃げなければ、と思い、一計を案じて、気がおかしくなったふりをしました。門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりしました。なぜこんな奴を連れてきた……アキシュは呆れ、結局ダビデは追い出され、事なきを得ました。この詩篇34篇はそのできごとの後に生まれたものだと、題名で明かされています。 ダビデはこの行動によりいのちは守れましたが、未来の王としての尊厳など、あったものではありませんでした。みっともない姿をさらした……見ようによっては、これはイスラエルの偉大な王さまダビデの「黒歴史」ともいうべきものです。「黒歴史」……思い出したくない歴史というものは、だれにでもあるものでしょう。それが何かの拍子に脳裏をかすめると、気がおかしくなりそうな、あの行動。私にもたくさんあります。ダビデは、まさにその最悪な事態のただ中にありました。 しかし、このおかしな行動のゆえにダビデが屈辱に打ち沈んだ、とか、自己憐憫に陥ったというような記述は、聖書のどこを探してもありません。むしろ、この詩篇は何を語っていますでしょうか?「私はあらゆるときに/主をほめたたえる。/私の口には/いつも主への賛美がある。」嘆きや自己憐憫ではありません。賛美です。 ダビデは、わが身を守るためとはいえ、神の民なるイスラエルの王となる人物にあるまじき行動を取ったことに変わりはありません。しかし、ダビデがそのようなおかしな行動をしたことは、結局はダビデのいのちを救いました。神さまが守ってくださったのです。 そんなダビデの恥を覆ったものは何でしょうか? 神さまへの賛美です。では、ダビデはその賛美を、どのようなときにささげると言っていますか?「あらゆるときに」「いつも」……そうです、ダビデは今、いのちの危機から脱したということへの感謝の祈り、また逆に言えば、いのちの危機から脱したものの、人前でとんでもなく恥ずかしい行動に出たという事実、しかし、それをもってしても消すことのできない賛美と感謝をささげています。 このような最悪なときにも賛美と感謝が絶えないのはなぜでしょうか? それはダビデが、普段から賛美と感謝を主におささげすることが身についていたからです。詩篇をお読みになるとわかりますが、多くはダビデによるもので、ダビデがいかにして、神さまの御前に祈りをささげていたかを知ることができます。時には激烈な表現さえも用いて、敵がどんなに悪い存在なのかを表現したり、敵がさばかれることを祈ったりしています。そこには、いかにも達観したような取り澄ました態度は見られません。この、詩篇に現れたダビデの祈りを目にすると、これぞ「祈りの達人」という印象を受けます。取り澄ました表現ややたらと文学的な表現を多用するのが達人なのではありません。 4節から7節をお読みしましょう。……主はどのようなお方でしょうか? すべての恐怖から救い出してくださるお方、すべての苦難から救い出してくださるお方、主の使いによって助け出してくださるお方です。ダビデもそうであったように、主の子どもたちも恐怖に陥ります。しかし主は、どんな恐怖からも救い出してくださるのです。 敵の前、異邦人の前で醜態を見せる、ダビデは最悪の状態にありました。しかし、5節のみことばをご覧ください。彼は「辱められていない」のです。なぜなら、主を仰ぎ見て輝いているからです。主の光は、恥と屈辱に歪む顔を、恐怖に歪む顔を、その表情もわからないほどに照らし、主のご栄光に変えてしまうのです。 私たちも今、コロナウイルス流行という恐怖に置かれています。しかし、ダビデをあらゆる恐怖から助け出してくださった主は、私たちのことを助け出してくださいます。恐怖に歪む顔は、主の光に照らされるのです。いえ、それだけではありません。私たちは主を呼び求めると、助け出していただけるのです。信じますか。 この信仰を養うことが、いま私たちに必要とされていることです。私たちはいろいろな情報に囲まれていて、その数々の情報に耳を傾けてばかりいると、翻弄され、何が正しいかわからなくなります。そればかり見ていると、私たちはどんなに怖ろしくなるでしょうか。また、不安になるでしょうか。しかし、幸いなことに、私たちは主を呼び求めるならば平安が与えられます。それは、主ご自身が助け出してくださるということです。 私たちがもし、普段からあらゆる場合に、そしていつも賛美の祈りをささげることを忘れないでいるならば、「いざというときに」私たちは、祈りをもって主の御前に出ていくことができます。今はまだ、コロナウイルスは私たちの身の周りにまで及んでいないかもしれません。しかし、もしかすると、私たちは予期せぬような危機に瀕することもあるかもしれません。それこそ、いざというとき、が私たちに臨むのです。そうなる前に、私たちは備えておく必要があります。 私たちは、祈らなければ、と思っていても、なかなか祈れない自分の現実に気づき、落ち込んだりするかもしれません。しかし、お祈りをしているかどうかということは、クリスチャンとして優秀かそうでないかのバロメーターのようなものではありません。お祈りできていないからと、自分はだめなクリスチャンなどと、自分をさばかないでいただきたいのです。そんなことをしたら、それこそサタンの思うつぼです。私たちがすることは、自分をさばいて落ち込むことではありません。「だからこそ」主の御前に出ていくことです。祈れない姿そのままに、主の御前に出ていくのです。そんなことができるのでしょうか? できるのです! むかし読んだ信仰書籍の中に、絶えず祈るためのヒントが書かれていました。それは祈る際に、短いことばで祈るのです。一息で繰り返せる短い文章や短い句を選びます。短いみことばを引用してもいいです。それを、できるだけ頻繁に祈るのです。そうすることによって、心に祈りとみことばが深く根づくようになります。私はこれを「ツイッターの祈り」と呼んでいます。この「ツイッターの祈り」の積み重ねは、やがて祈りを介した神さまとのたえざる交わりへと発展していきます。 私たちの心の中には、祈らなければという切なる思いがあります。ローマ人への手紙8章26節にありますとおり、御霊なる神さまが私たちのために言いようもない深いうめきをもってとりなしていてくださるので、私たちの霊もその御霊のとりなしに共鳴して、祈らなければ、という思いになるのです。問題はその祈りが、ことばにならないことです。 それは言ってみれば、ふたをされている状態です。世の常識ですとか、私たちのみこころにかなわない習慣ですとか、そういったことが、ふたをしているわけです。私たちはですから、何によって祈れていないかを聖霊なる神さまの導きの中で見極めて、正直に告白する必要があります。そこから、祈りの生活は始まるのです。 例に挙げたいのが、水道管と蛇口です。しばらくひねっていない蛇口からは、赤さびで汚くなった水がしばらく出ます。しかし、その水が汚いからと、また蛇口を閉めてしまうならば、水道管の中の水は汚いままです。どうすればいいのでしょうか? 蛇口を開ければいいのです。蛇口を開け放って、汚い水を全部出してやれば、きれいな水が出てきます。その水は飲めますし、料理にも使えます。 同じように、私たちは自分の中の祈りたい思いを、少しでもことばにして開放する必要があります。とにかく、どんなことばでもいいです、祈ってみることです。個人でささげる祈りのことばはだれも聞いていません。だれに聞いてもらう必要もありません。何でもいいですから、祈るのです。もし、ことばや表現が神さまに聞いていただくにふさわしくないものならば、聖霊なる神さまがふさわしいものへと整えてくださいます。そうすることで私たちは、自分の中に満ちている思いをことごとく、主に知っていただくことができます。 さきほど申しましたツイッターの祈りは、少しずつでも祈りを表現することにより、うちに秘めている祈りたい思いを開放する行動です。もし、祈れていない自分を嘆くならば、少しずつでいいですから、短いことばにして祈りを表現してみることを強くお勧めいたします。そこからだんだんと、長いお祈りへと発展していきます。 だから、長く祈れないからと落ち込むことはありません。このような状況の中で、祈らなければならないと思わないクリスチャンなどいないはずです。ただ、ことばにならないだけです。でも、そろそろ、祈りの水道管を開放してみてはいかがでしょうか? 最初は自分でも何を祈っているんだろうと思えても、やがて、ふさわしいことばに変えられていき、主のみこころと一致した祈りをささげている確信を持てるようになります。 さて、そうなると、逆に「長い祈りをささげる」ことはどうなのか、という問題が出てきます。みなさんの中には、短くよりもむしろ長く祈る方が平安がある、という方もいらっしゃると思います。すばらしいことです。それだけ、みこころを握っていらっしゃるということでしょう。 ただしそれでも、気をつけることがあります。その連ねている祈りのことばは、神さまとの生きた交流になっているだろうか、ということです。マタイの福音書6章の5節から8節をお読みしましょう。……このみことばからわかることは、お祈りとは、人に見せるためのパフォーマンスではないということ、また、長ければいいというものではない、ということです。異邦人のように、というのは、答えてくれるかどうかもわからない偶像に向かってお勤めのようにことばを連ねることで、宗教的な満足を満たしてはならない、ということです。それは、普段から祈っているということではありません。 私たちがもし、長く祈れるようになったならば、さやかな御声を聴くためにいちど静まって、黙想する習慣も身に着けたいと思います。私たちの祈りは、神さまの御声であるみことばによって導かれるべきです。 お勧めしたいのは、短いみことばを暗唱することです。そうすると、聖書のみことばを字引を引くようにいちいちめくらなくても、私たちはスムーズにお祈りをつづけることができるようになります。 さあ、今日はまず、決心したいと思います。いざというときはいつやって来るかわからない状況にあります。そのときに備え、少しずつでいいです、祈る者となりましょう。今日から始めましょう。 「賛美します。」「感謝します。」「御手にゆだねます。」このような短いフレーズでいいのです。そこから始めましょう。そして、お祈りの達人を目指すならば、みことばを暗唱しましょう。暗唱したみことばを口に出して、また祈りましょう。神さまは私たちのことを、ご自身とよい交わりを持つにふさわしい人へと整えてくださいます。 讃美 聖歌524/献金 讃美歌391/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷

見ないで信じる人たちは幸いです

聖書朗読;ヨハネの福音書20:24~29 メッセージ題目;見ないで信じる人たちは幸いです 先週の礼拝で私たちは、イエスさまのご復活をお祝いしました。そして、イエスさまの復活はどれほど、人から怖れを取り去り、そして主の働き人として遣わしてくださるものなのか、ともに見てまいりました。今日の箇所は、前回学びましたマルコの福音書とはまた異なる、復活のイエスさまに弟子が取り扱われる内容のみことばです。復活のイエスさまが弟子たちにどのように接してくださったかを学び、私たちもイエスさまの復活の喜びにあずかる者となることを願います。 今日の箇所を読みますと、復活のイエスさまに出会えなかった、トマスという弟子が登場します。このトマスは、まず、イエスさまが復活されたという、弟子たちの言うことを信じませんでした。しかし、その彼もまた、復活のイエスさまに会うという恵みを体験することになりました。私たちはイエスさまを見ていなくても、イエスさまを信じています。イエスさまとお交わりしていると、堂々と語ることができます。それがどれほど「幸い」なことなのか、今日、その意味を学び、主とのさらに深い交わりに導かれますようにお祈りいたします。 今日のみことばの第一のポイントです。イエスさまは私たちに平安を与えてくださるため、何度でも出会ってくださいます。 復活のイエスさまに会うことができた弟子たちは、その場にいなかったトマスに言いました。「イエスさまはよみがえって、僕たちに会ってくださったんだよ!」しかし、実際にイエスさまに会うのと会わないのは、何というちがいでしょうか。トマスはとても信じられない、と言いました。それも、何と言ったのでしょうか。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」 このトマスのことばは、ほかの弟子たちにどんな影響をもたらしたでしょうか。言われてみれば弟子たちは、イエスさまの手に釘の跡を認めたわけではなかった。槍で刺された脇腹に手を入れてみたわけでもなかった。してみると、弟子たちは揃って、幻を見たのかもしれない。弟子たちはあのとき、復活のイエスさまに息を吹きかけられて「聖霊を受けなさい」と言われ、直接遣わされ、この世に罪の赦し、すなわちイエスさまの十字架の福音を宣べ伝えるべく聖霊なる神さまの力をいただいたというのに、またもや元の状態に逆戻りしました。もう復活のイエスさまに会ったから大丈夫、堂々と世に出ていこう、とはならなかったのです。結局、またもや弟子たちは、ユダヤ人を怖れて扉に鍵をかけて、みんなで引きこもってしまったのでした。まことに、不信仰というものは、ひとりから全体に伝染する、恐ろしい力を持っています。だから私たちは、この共同体の中からとにかく不信仰というものを除き去らなければならないわけです。 しかし、弟子たちがそうして閉じこもっていたそのとき、またもや驚くべきことが起こりました。26節です。……トマスの疑いに満ちたことばが、弟子たちからイエスさまの復活の確信を奪っていたそのとき、彼らにもう一度、イエスさまは現れてくださったのでした。 私たちはこのことから、どんなことを学ぶことができるでしょうか。それは、ひとたびイエスさまが弟子として選んでくださった人ならば、イエスさまはけっして見捨てない、ということです。イエスさまを見失ったならば、イエスさまは何度でも出会ってくださるのです。出会ってくださり、不安に満ちていたその心に、限りない平和を与えてくださるのです。 トマスのように、イエスさまが目に見えないものだから信じない、というようなことを言う人は、世界中に満ちています。そんな世に生きる私たちは、どれほど、イエスさまに対する信仰を持つことが難しいことでしょうか! もしかしたら私たちさえも、そのようなこの世と調子を合わせることをいともたやすく選んでしまい、イエスさまを見失ってしまいはしないでしょうか? しかしみなさん、安心していただきたいのです。イエスさまはおっしゃっています。ヨハネの福音書、15章の16節です。いみじくも十字架に掛かられる直前に、イエスさまが弟子たちにお語りになったみことばです。……十二弟子は、イエスさまによって救われ、さらにはイエスさまの働きが託された人々でした。トマスももちろん、その中のひとりでした。ひとたびイエスさまが弟子として召され、ひいては働き人として召されたならば、もうその人は、どんなことがあったとしても、イエスさまの側で手離さないのです。不信仰に陥り、使命を見失ってしまったならば、イエスさまが出会ってくださり、信仰を回復させてくださいます。平安がありますように、主はおっしゃいます。私たちが不信仰ゆえに言いようのない不安に取りつかれていたならば、主が臨んでくださり、平安に満たしてくださいます。 これだけは忘れてはなりません。主の民になった、主の弟子になった、主の働き人になったということは、イエスさまが召されたということです。私たちからイエスさまに弟子入りしたのではありません。 イエスさまが私たちのことを、弟子になれる、働き人になれると見込んで、弟子に取ってくださったのです。そうであるならば、私たちの人生は、イエスさまが責任を取ってくださいます! 信仰をなくさないように、必ず守ってくださいます! ところで、率直にお聞きしますが、先週の復活祭の日に、礼拝を通して復活のイエスさまへの信仰が確かにされてもなお、この一週間、私たちは生活のどこかで、復活のイエスさまと関係のない生活を送ってはいなかったでしょうか。そのせいで、心に不安を抱えたり、神さまを見失ったり、問題が起こったりしなかったでしょうか。 復活のイエスさまはそんな迷える私たちに、何度でも出会ってくださり、平安をくださいます。何度でも出会ってくださり、不安を平安に変えてくださいます。それでも私たちは不信仰に陥って、不安に陥ることもあるでしょう。しかし、私たちのそのような感情を越えて、イエスさまのご臨在は絶対です。神さまのみことばである聖書が、そう言っているからです。 私たちが生きる世界は、新型コロナウイルス、世界恐慌以来とも言われる不況、大地震、放射能、サバクトビバッタ、森林火災、環境破壊、天変地異、あらゆる形で危機に陥っており、そのニュースを目にする私たちも、悩まないわけにはいきません。そのようなとき私たちは、イエスさまだけがくださるこの絶対的な平安を味わってまいりたいものです。そして、そのような世の中に生きる地の民が、主の弟子となり、平安をいただくことができますように、イエスさまの御名によって祈ってまいりたいものです。 第二のポイントにまいります。イエスさまは不信仰を、信仰へと変えてくださいます。 27節のみことばをお読みしましょう。……せっかく、復活のイエスさまに出会って喜んでいた弟子たちに、不信仰そのもののことばを語って冷や水を浴びせるような行動に出たトマスに、イエスさまは特別に語りかけてくださいました。このことばはまさしく、トマスが弟子たちに語ったことと同じです。トマスよ、あなたが弟子たちに言ったとおり、あなたの手をこの傷あとに差し入れてみなさい。 イエスさまはあえて、証拠がなければけっして信じようとしないトマスの目の高さまで下りて、あなたの求める通りのことをしてみなさい、とおっしゃったのでした。それは、トマスが、「信じない者ではなく、信じる者になる」ためです。そのためならば、傷あとにさわらなきゃ信じないなどという、そのあまりに厚かましい要求にだって、わたしは応えてあげよう。 みなさまも体験していらっしゃることと思いますが、ひとたび信仰から迷い出た人を再び神さまのもとに引き戻すのは、とても難しいことです。しかし、もし神さまがその人を、すでに神さまの子どもとして召しておられるならば、また、イエスさまが弟子として召しておられるならば、その人が今どんな不信仰に陥っていたとしても、イエスさまは必ず、その人の不信仰のどん底まで下りてきてくださり、その人が何によって信仰をなくしているか、ことごとく理解してくださいます。 ローマ人への手紙8章を読みますと、聖霊なる神さまは私たちのために、言いようもない深いうめきをもってとりなしてくださっている、と書かれています。そうです、私たちがまことの信仰を持てるように、聖霊さまはうめいて、うめいて、祈っていてくださるのです。 私たちはトマスを笑ったり、批判したりはできません。私たちだって、24時間365日、1秒たりとも不信仰に陥らないでいる人など、ひとりもいません。どこかでトマスのような不信仰に陥るものです。しかし、それでも私たちが信仰をまったく捨てないでイエスさまを信じていられるのは、それは主が私たちに恵みを与えてくださっているからです。いつでも神さまが目を注いでおられる存在、それが私たちです。間違っても、私は神さまに見捨てられている、などと思ってはいけません。私たちは、特別に恵みによって神さまの子どもとして選んでいただいています。そんな私たちのために、聖霊なる神さまはうめいて祈り続けてくださっています。それゆえ、私たちは神さまを信じる恵みと喜びに満たされていられるのです。 今年の教会の標語は、「信仰によって歩もう」です。今年初め、私たちは信仰を働かせてそれぞれが決心をしました。しかし、あれから3か月以上が経った現在、私たちはどれだけ信仰を働かせて、それぞれの決心を保っていますでしょうか? むしろ私たちは、不信仰に陥ったりしてはいないでしょうか? 今、不信仰に陥って苦しんでいる方々のためにお祈りします。しかし、その方が神さまに選ばれた人であるかぎり、必ずイエスさまはその方に出会ってくださり、信仰を回復してくださいます。そして、その方が不信仰に陥って苦しんでいた年月が無駄にならず、同じようにいま不信仰に陥って苦しんでいる人のために豊かに用いられるようになります……そして、信仰の守られている人はそれを当然のことと考えず、その信仰を与え続けてくださる神さまの恵みに感謝できますように……そのようにお祈りいたします。 第三のポイントです。イエスさまは、目に見ないでイエスさまを信じる者は幸いであるとおっしゃいました。 イエスさまが直接、トマスの要求に最大限寄り添うことばをかけてくださったとき、トマスはイエスさまにこう答えました。「私の主、私の神よ。」しかし、そんなトマスにイエスさまはおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 一見するとイエスさまのこのみことばは、トマスにだけ語られているように見えます。けれども、よく考えていただきたいのですが、イエスさまを見たからようやく信じたのは、トマスだけではなかったはずです。ほかの弟子たちも同じでした。イエスさまの弟子たちは、もはや何年にもわたって語られていたイエスさまの復活についての教えなど、十字架によって完全に消し飛び、もはや恐れのかたまりにしかなっていませんでした。そんな彼らが信仰を回復するには、復活のイエスさまが再び出会ってくださるしかありませんでした。その意味でもトマスにかぎらず、ほかの弟子たちだって、イエスさまを見たから信じた人でした。 しかしイエスさまはやがて、この地上での生涯を終えて、天におられる父なる神さまのみもとに上らなければなりませんでした。ここから先は、イエスさまを目に見ないで信じる者たちがこの地上に神の国を形づくる時代です。天に上られたイエスさまが、この地上の主の民に送ってくださった聖霊さま……このお方、聖霊さまが、働き人を遣わされ、目に見えないイエスさまを信じるようにしてくださり、目に見えないイエスさまを宣べ伝えさせてくださるのです。 そのようにして、イエスさまを見たことはなくても信じる人たちのことを、イエスさまは、幸いである、と言ってくださるのです。そうだとすると、私たち主の教会、主の民は、どれほど幸いな存在にさせられていることでしょうか! なぜならば、復活のイエスさまを実際に目に見なければ到底使い物にならなかった弟子たちとちがって、実際にイエスさまを目に見えなくても、イエスさまを信じ、イエスさまのために働くことができている、それが私たちだからです! このことがどれほど「幸い」なことか、よく思いを巡らして、感謝していただきたいのです。ペテロの手紙第一、1章8節をお読みしましょう。……私たちがこのような状況に置かれていても喜べるのは、イエスさまを見ずに信じる信仰を与えていただいているからです。 そこで私たちは考えてみましょう。私たちはいま、イエスさまが見えなくなっていないだろうか? そのために不安に陥っていないだろうか? それはなぜなのか考えてみてください。私たちは聖書を読んだり、お祈りをしたりするよりも、この世の情報にばかり目を留めてはいませんか? インターネット、テレビ、人のうわさ話……そのようなものが私たちを救うでしょうか? 私たちにほんとうの意味での平安を与えてくれるでしょうか? むしろ私たちは、みことばを握って祈ることをしていかなければならないのではないでしょうか? それが私たちをまことの平安にとどまらせ、世に対して平安の主を宣べ伝えるべく、主に用いていただく道です。 イエスさまは私たち主の弟子が不安に陥ってしまわないよう、何度でも出会ってくださり、平和に満たしてくださいます。そして、私たちを主の弟子として選んでくださったかぎり、私たちがどんな不信仰に陥っても、必ず信仰に戻してくださいます。そんな私たちは、イエスさまを実際に見たことはなくても信じ従う、主の弟子とされた幸いな者です。どれほど感謝なことでしょうか。わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てないと約束してくださったイエスさまの愛に感謝して、いま神さまにお祈りいたしましょう。 讃美 聖歌631「罪に満てる世界」/献金 讃美歌391(お手もとにて献金を聖別してください)/頌栄 讃美歌541/祝祷

復活から派遣へ

聖書箇所;マルコの福音書16:9~20 メッセージ題目;復活から派遣へ 讃美;聖歌547 お祈り;各自お祈りしましょう。  本日は復活祭、イエスさまのご復活をお祝いする日です。ほんとうならばこの日は、盛大にお祝いしたいところでした。しかし、折からのコロナウイルス流行で、食事を囲んでのパーティもままならなくなってしまいました。私たちもいつ、集まらないという決断を下さざるを得なくなるかわかりません。ともにお祈りしてまいりたいと思います。  本日はもうひとつ、愛するファミリーを遠くに送り出さなければならない日です。さびしいのは確かです。しかし私たちはどうか、悲しみの涙を流すのではなく、新たな地で姉妹が用いられるようにという祈り心をもって、そして彼の地にてファミリーが用いられるというビジョンを、喜びをもって描いて、祝福とともに送り出したいものです。  復活と派遣。本日の箇所は、そんな私たちにとってこれ以上ないほどぴったりしたみことばではないかと思われます。ともに見てまいりましょう。  イエスさまの弟子たちは、悲しみの中にいました。私たちの愛するイエスさまは、十字架に釘づけになって死んでしまわれた! 次は自分たちにも迫害の魔の手が伸びてくるにちがいない! 弟子たちは隠れて、ぶるぶる震えていました。  しかし、この暗闇のような状況を打ち破るできごとが起こりました。それは、イエスさまが復活された、ということです。イエスさまの墓に訪れたマグダラのマリアに、復活されたイエスさまが現れました。マグダラのマリアは大喜びで、このできごとを弟子たちに知らせに行きました。しかしです、弟子たちは信じようとしませんでした。  イエスさまはまた、2人の弟子たちの前に現れてくださいました。彼らもまた、ほかの弟子たちにこのこと、イエスさまの復活を知らせました。しかし、やはりほかの弟子たちは信じませんでした。  それでイエスさまはどうなさったでしょうか? ご自身が直接、11人の弟子たちに現れてくださいました。イエスさまは彼らに対し、その不信仰とかたくなな心をお責めになりました。  私たちには不思議に思えないでしょうか? いったい、3年間も寝食をともにし、ご自身の十字架と復活をつねに聞かされてきた弟子たちが、イエスさまの復活のことを聞いても信じられなかったのでしょうか? しかし聖書は、そうだった、弟子たちは信じられなかった、それほど弟子たちはかたくなだった、と評価しています。  弟子たちはイエスさまの昇天の直前まで、最後までその信仰と態度を取り扱われる必要がありました。十二弟子にしてそうだったのです。まことに、人にとって、不信仰という問題はどれほど根深いものかということを思わされます。  しかし、こうも言うことができます。これまで弟子たちは、イエスさまという存在を直接目で見て、イエスさまのみことばを直接耳で聞ける状況にありました。しかしこれからは、もうそうはいきません。イエスさまを直接肉の眼で見ていなくても、イエスさまがともにおられるものとして生きていく必要があります。みことばを聞くということにおいてもそうです。たとえ実際目にしている世界にイエスさまがともにおられなくても、イエスさまを信じてお従いすることは、まず弟子たちから始めなければなりませんでした。そうすることであとに続くすべての聖徒が、たとえ目に見えなくても、信仰によってイエスさまにお従いすることができます。だからまず、弟子たちの不信仰さえ取り除かれれば、あとはだれにでも、復活のイエスさまを信じる信仰への道は開かれることになります。信じる上で何の妨げもなくなります。  ともかく弟子たちは、このお叱りによって変えられ、続くイエスさまのおことばによって、恐れに震えて閉じこもる思いは大きく変えられることになりました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」そうです、復活のイエスさまに出会うならば、その人はイエスさまに、新たな地へと遣わされるのです。 しかし私たちは何も、まだ見たことのない地域や国々、それこそ地球の裏側などを思い浮かべなくてもよいのです。私たちの周りでまだイエスさまの福音を聞いたことがない人がいるならば、その人のいるその場所こそ「全世界」であり、「地の果て」です。   しかし、その人に福音を伝えようとするならば、私たちがまず、福音に生きることを喜びとしている必要があるでしょう。私たちは何をもって喜ぶのでしょうか? 復活し、今も生きておられるイエスさまによってです!  いま私たちは、このコロナウイルスの流行を思うと、とても喜べないと思えてならないかもしれません。しかし、私たちは喜んでいいのです。私たちの置かれた状況は確かに厳しいですが、その中においても、私たちと苦しみをともにし、悩みをともにしてくださるイエスさまは生きておられ、私たちの祈りに耳を傾けてくださっています。要は苦しみの中に、主がともにおられるゆえの喜びを見出すかどうかです。  私たちも状況のせいにして不満を言うことはたやすいことです。しかし、状況に目をとめていやな気持ちになるのではなく、その状況を超えてともにおられる主に目をとめ、主との交わりを保つならば、どんなに幸いなことでしょうか。この主に私たちは遣わされ、それぞれの場所に出て行くのです。  イエスさまのことばは続きます。「信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」信じる、ということは、神さまと個人的な契約を結ぶことです。永遠の神さまの子どもにしていただく契約を結ぶのです。神さまと契約を結ばせていただいたことを、私たちは、「バプテスマを受ける」という形で表明します。教会において聖徒の前でバプテスマを受け、教会というキリストのからだのひと枝に加わるのです。  しかし、バプテスマという「水に浸されること」以前に、必要なのは「信じる」ことです。イエスさまが十字架の上で私の罪のために死なれたこと、そして、三日目に死人のうちよりよみがえってくださったことを信じ受け入れるのです。  そのように信じた人には、しるしが伴うとあります。17節、18節を読むと、一見すると驚くべきことが書かれています。読んでみましょう。……このようなことがほんとうに起こるのだろうか? 半信半疑でしょうか? しかしこれは、イエスさまの十字架と復活を信じ、ゆえにイエスさまに全世界に遣わされた人に伴うしるしであるという前提で読むべきです。  悪霊を追い出し、とありますが、悪霊は人がイエスさまを信じることをありとあらゆる形で妨害します。しかし、主のみことばを語る人は、この悪霊の妨げに、信仰によって打ち勝つのです。  新しいことば、それは、福音のことばです。罪人の私を神さまが恵みによって救ってくださったこと、あなたも信じれば救われる、ということです。主の復活を体験した人は、この新しいことば、福音のことばを語ります。  その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます……これは、文字通りにそのとおりにせよ、と勧めているのではありません。これも、私たちにとっての宣教とは何かという文脈で考えるべきことです。 私たちにとって、みことばをその身をもって宣べ伝える普段の生活において、蛇、すなわちサタンの存在や、毒、すなわちサタンの攻撃にさいなまれることはあるものです。しかし、その影響を受けたままでいることはありません。なぜならば、私たちとともにおられるイエスさまは、サタンなど足元にも及ばないほど強いお方だからです。私たちのうちにおられるイエスさまの力で、私たちはサタンに打ち勝てるのです。   そして、病人に手を置けば癒やされる、とありますが、これも、福音宣教という文脈で、病人ないしは病というものを定義しなおす必要があります。私たちの場合、何が癒されるべき病なのでしょうか? それは、父なる神さまとの関係が絶たれ、たましいが病んでいる、死んでいる状態にあるということです。しかし、イエスさまを信じて、神さまとの関係が結びなおされるならば、その人は生きるのです。永遠のいのちに生かされるのです。私たちが人々に語るのはこの希望の福音です。福音こそ、死に至る病の中にあるたましいを癒し、救うことができます。イエスさまの復活を信じる私たちは、その大事な働きのために、主に用いていただけるという特権が与えられています。  そうです。福音を語り告げることは、イエスさまが私たちのために復活してくださったことと密接な関係があります。復活は、死をも地獄をも打ち破る力です。私たちは、復活のイエスさまに出会ったならば、心燃やされ、イエスさまを伝えずにはいられなくなるはずです。  主は、私たちがそこまで燃えることを願っていらっしゃいます。主が私たちに復活の信仰を与えてくださったのは、私たちのことを、この地に福音を宣べ伝える使者、アンバサダーとして遣わしてくださるためでした。私たちさえ満足してそれで終わりではいけません。  考えてみましょう。主は私たちにどれほど、ご自身の夢を託してくださったことでしょうか? ごらん、あなたの前に広がるこの世界は、わたしが愛している人に満ちている。この世界に住む人々を、わたしのもとに連れ帰ってきてほしい。この働きは、あなたじゃなければできないのだよ。さあ、行っておくれ。……私たちにこの御声が聞こえますか? 聞こえたら、主よ、私がここにおります。私を遣わしてください、そう言ってお応えしましょう。私たちひとりひとりは、人を救うという主の大いなる夢が託された、大事な存在です。  このたび私たちにとって大事なファミリーを遠くの地に送り出すことは、なによりも、その地に住む人々を主のもとに導くという大いなる使命のために、主が遣わされたということです。いつまでも寂しがっている場合ではありません。しかしそれと同時に、私たちは覚えておきましょう。私たちひとりひとりもみな、主によって遣わされています。それぞれの職場に、学校に、家庭に、地域社会に……私たちは日々、復活のイエスさまに出会い、復活のイエスさまと交わり、復活のイエスさまに力づけられ、復活のイエスさまに遣わされてそれぞれの地に出て行くのです。イエスさまは遣わしてくださった先々でも、私たちと一緒にいてくださいます。  私たちは復活を喜びましょう。そして、主の復活を語り告げましょう。私たちは復活の信仰をもって、遣わされます。私たちが遣わされた先々には、サタンに打ち勝つ数々のしるしが現れ、人々を救いに導くために用いられると信じていただきたいのです。今、新型コロナウイルスの流行は、人々を不安に陥れていますが、私たちはそのような世界に、復活のイエスさまを宣べ伝え、人々を永遠のいのちに、変わることのない平安に導くのです。私たち自身を、主の御手にゆだねる祈りをいたしましょう。主よ、私たちに復活の力を味わわせてください! そして主よ、私がここにおります。私をお用いください。遣わしてください!  では、お祈りいたしましょう。

生きよ!

聖歌540「地の塵に等しかり」 聖書箇所;マタイの福音書27章1節~10節 メッセージ題目;生きよ!  今日は「ユダ」のお話です。ユダの特徴は大きく2つ挙げることができます。ひとつは、言うまでもなく「裏切り者」、しかしもうひとつ、「自殺した人間である」ということを挙げることができます。  先にお断りしておきますが、本日のメッセージは、自殺をなさった方々が聖書的ではないとか責めることを目的とはしていません。むしろそのような方々は、水kら命を絶たなければならなかったようなとても苦しい境遇に置かれていたわけで、そのことを考えるならば、責める資格はだれにもありません。しかし、ユダの自殺は、そのような方々の自殺とは根本的に異なる事情があると考えられます。  ご存知でしょうか、聖書の中には、自殺をした人の記述は多くはありません。旧約聖書では3人、戦争で瀕死の状態になって死を選んだサウル王、そのサウルに殉じる形で死んだサウルの道具持ち、そして、ダビデの部下だった軍師アヒトフェルです。このアヒトフェルについてはのちほど詳しく扱いますが、ともかく、長い旧約の歴史の中で自殺者が3人とは、きわめて少ないです。そして新約では、たったひとり、イスカリオテのユダだけが自殺しています。  自殺……なんとも嫌な響きのことばです。このところの新型コロナウイルス流行により、人々の間に不安が広がっていることに伴い、いのちを自ら断つ人がちらほら現れている、というニュースを目にしています。彼らの絶望たるやどれ程のものだったのか、と、考えるだに心が悲しく、また、重くなります。彼らを責めることなど、だれにもできないでしょう。しかし、私たちは自ら死を選ぶことをしてもいいのでしょうか? 亡くなった方の悲劇を繰り返さないために、私たちには何ができるでしょうか? どんなことを学べばいいでしょうか? 今日の箇所に登場する、イスカリオテのユダのことを反面教師にして、ともに学んでまいりたいと思います。 ユダは、宗教指導者たちから金を受け取って、イエスさまを逮捕させる手引きをしました。その額わずか銀貨30枚、これで何ができたというのでしょうか、人のいのちの価にしてはあまりに安すぎます。いわんや、神の御子のいのちの価は、わずか銀貨30枚だったというのです。しかし、安かろうと何だろうと、ユダがイエスさまのことを宗教指導者たちに売り渡したのは間違いないことです。売るとは、裏切ることです。韓国語の聖書を読めば、日本語で「裏切る」となっている箇所が「売る」となっています。 イエスさまがいのちがけで愛してくださった、このことを知りながら、イエスさまよりも大事なものがあるとばかりに、それらのつまらないものとイエスさまのいのちを取り代えてしまう……それは、私たちの姿です。ユダが、やってはならないことをしたとばかりに責め立てるのは簡単です。しかし、人をさばいて罪に定める私たちが、同じことをしてはいないでしょうか? だがユダは、イエスさまを売ったことをあとになって後悔しました。それは、罪のない人の血を売ったという理由からでした。イエスさまに罪がないことは、3年間の十二弟子の共同体の生活をして、充分すぎるほどわかっていました。そんな彼が、イエスさまを売るという暴挙に出たのです。 イエスさまは、このような者の存在を十二弟子にほのめかすようなことを語られました。人の子は聖書に書かれているとおりに去ってゆく。しかし、人の子を裏切る者はわざわいである。その者は生まれてこなかったほうがよかった。イエスさまは最後の最後まで、ユダに悔い改めの機会を与えておられたと見ることもできます。 しかし、ユダはこのような警告のことばを受けていても、裏切りました。心が頑なになってしまった人には、何を言っても通じないことがこれでわかります。むしろ、このような裏切りを通しても、主は十字架という御業を成し遂げられたことを覚えることが大事なのでしょう。 しかし、ユダはイエスさまが捕まって、初めて自分のしたことの重大さに気がつきました。ユダの向かった先は宗教指導者のところでした。この銀貨はそっくり返すから、イエスさまを死刑にすることをどうか思い直してほしい……しかし、もはやこうなっては、宗教指導者たちは聞き入れませんでした。自分で始末をつけろ! ユダは銀貨を神殿に投げ込みました。もうこうなっては、銀貨など持っていても何にもならないことを彼は知っていました。 ユダという男は、とてもさとい人だったと見るべきでしょう。さといあまり、計算が先に立って、イエスさまの喜ばれることを見失うという、主の弟子として決定的な弱さがありました。というより、常習的に犯す罪を悔い改めないゆえに、主のみこころを見失っていたと見るべきでしょう。しかし、ユダがほんとうの意味でさとい人だったならば、彼のすべきことは「後悔する」ことでしょうか? ちがいます。「悔い改める」ことです。「後悔する」と「悔い改める」は、日本語で表現するとことばは似ていますが、まったくちがうものです。聖書の原語からして別々のことばを用いています。日本語の「悔い」ということばが共通しているにすぎません。ユダは、悔いてそれで終わりでした。その悔いた罪を、すべての罪を赦してくださるイエスさまのもとに持っていくことをしなかったのでした。自分でけりをつけてしまいました。 知恵があるのはもちろん素晴らしいことにはちがいありませんが、知恵がありすぎてもいけません。「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。旧約聖書のアヒトフェルをその例として挙げることができます。ダビデ王の時代、ダビデは三男のアブサロムにクーデターを起こされ、逃亡し、のちにアブサロムの軍と戦争状態になりました。このとき、アブサロムにとって軍師の役割を担うことになったのが、アヒトフェルです。聖書はこのアヒトフェルがアブサロムに対して助言することを、「人が神のことばを伺って得ることばのようであった」と評価しています。このような軍師を敵に回しては、ダビデも絶体絶命です。しかしダビデは、腹心の軍師フシャイをアブサロムのもとに潜り込ませ、神さまのご介入があってアブサロムは、アヒトフェルではなくフシャイの作戦を採り入れることになり、ダビデは殺されずに済みました。しかしアヒトフェルはさとい男であるので、自分の作戦が受け入れられないということが何を意味するかが分かりすぎるほどわかっていました。それはアブサロムの破滅、ひいては自分の破滅でした。彼はそれを知って、自らいのちを絶つ道を選びました。 アヒトフェルはおそらく、神通力とさえ言える自分の戦略が退けられ、戦略として話にならないフシャイの戦略が受け入れられたことに、ダビデの背後におられる神さまの存在を認めたにちがいありません。しかしそうなら、アヒトフェルのすべきことは、ダビデのもとに投降し、ただひたすらにあわれみを乞うことではなかったでしょうか。そうすればもしかすると、ダビデはその寛容さのゆえに、アヒトフェルのことを許したかもしれません。 ユダはどうでしょうか。もし、自分のしたことが万死に値することであると知り、その罪の重さに耐えられなくなったとしても、彼はイエスさまにすがることをすべきでした。だが、イエスさまのそばにいながらそのみこころがまるで理解できていなかった彼には、きわめて残念なことに、そんなことなど期待できなかったと見るべきでしょう。ユダはそのさばきを神さまにゆだねる前に、自分で自分をさばくことを選びました。それはまるで、さばきの権限さえも神さまから取り上げるかのような行為です。越権行為もここに極まれりというものです。 しかし、ここで私たちは考えるべきことがあります。私たちはどうだろうか、ということです。私たちは知恵が回るあまり、自分のあそこが罪深い、ここが罪深い、と、やたらと自分のことを罪に定め、死にたくなったりしてはいないか、もしそうならば、それは罪を悔い改める生き方では、ありません、まじめな生き方をしているようでも、それは、人を評価する神さまからそのさばきの権限を取り上げる、実はとても罪深く、傲慢な姿勢であることを、私たちは覚えておく必要があります。 私たちが罪深いことは、今に始まったことではありません。要はその罪を、すべて赦してくださるイエスさまの前に持っていくことです。そうすれば、すべて赦してくださいます。すべてです。しかし、ちょっと聖書に詳しい方は、こんなことをおっしゃるかもしれません。いや、聖書には、聖霊をけがす罪は永遠に赦されず、とこしえの罪に定められる、と書いてある、私は何度悔い改めても罪を犯してしまう、これは、聖霊を軽んじているからにちがいない、つまり、聖霊をけがす罪を犯していることになる、ああ、私はもう赦されないのだろうか……。 そんなことはおっしゃらないでいただきたいのです。私たちはイエスさまを意識しているかぎり、悔い改めの機会はいくらでも残されています。私たちの心にイエスさまとその十字架が思い浮かぶのは、私たちの力ではなく、聖霊さまがそのように導いてくださっているからです。罪を犯した自分に気づいたら、必ず悔い改めることです。何度でも悔い改めることです。おまえはもう、こんな罪を犯したから赦されない、というのは、サタンの声です。神さまの声ではありません。 私たちには聖書のみことばが与えられている以上、主の弟子、イエスさまの弟子です。しかし、自分をさばいて破滅する主の弟子は、ユダひとりで充分です。私たちはイエスさまについている以上、自分で自分のことをさばいて、滅びを意識したりしては絶対にいけません。私たちは死んではいけません。生きよ! これが、神さまのみ思いです。 いま、私たちは祈りたいと思います。私がもしかしたら、死にたいと思っていなかったか? 私の周りの人に、死にたいと思っている人はいないか? インターネットでこのメッセージを聴いていらっしゃる方が、もしかしたら、生きるために一縷の望みをいだいて、みことばにかけようとしていないだろうか? どうか、みんな生きますように。神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶという、神さまのみこころを実現する私たちとなりますように。

ペテロの涙

メッセージ題目;ペテロの涙  コロナウイルスの流行に伴う世の中の混迷は、いよいよ極まってきた感があります。これからどうなるのか、そればかり考えるととても不安になるでしょう。私たちはこの混迷の世界に、キリストに従う最高の生き方を示すことをもって、主の御手に用いられてまいりたいものです。しかしそのためには、私たちはまず何が必要でしょうか? 今日のみことばから、ともに学んでまいりましょう。  本日の箇所は、先週学びましたマタイの福音書の箇所のちょうど続きです。弟子たちはゲツセマネの園において、イエスさまと一緒に祈ることができませんでした。眠りこけてしまったのでした。そのようにして祈れなかった弟子たち、特に、ペテロは、ここから目まぐるしい変化を体験することになりました。  まずペテロは、何をしたのでしょうか? イエスさまを捕らえにやってきた大祭司のしもべ、マルコスに襲いかかり、耳を切り落としました。もちろん、イエスさまはそれを止めさせ、その耳をいやしてくださいましたが、このときペテロが刃傷沙汰に及んだということは紛れもない事実です。  先週、肉体の弱さが燃えている心に打ち勝ってしまうことについて学びましたが、ペテロはこの刃傷沙汰においても、心が燃えていたというべきでしょうか? ある意味、それはほんとうです。心が燃えていたからこそ、イエスさまを守ろうとしたわけでした。しかし、別な側面から見れば、ペテロは「正しく」心が燃えていたわけではありませんでした。言うなれば、聖霊なる神さまの炎により、心が燃やされていたわけではありません。もしそうならば、イエスさまにとがめられるような刃傷沙汰になど及ばなかったはずです。  ペテロはかつて、ご自身の十字架を予告されたイエスさまを諌めるような真似をしました。そんなことがあってはなりません、と。しかし、それは神のことを思わないで、人のことを思う、みこころを理解しない態度です。このときもペテロはそうでした。人の子は罪人たちの手に渡される、とイエスさまが予告されたとおりのことが起こったならば、それに抵抗するようなことなど無意味です。ペテロは自分の行為により、事の成り行きを変えようとしたのでしょうが、それはみこころを曲げようとするに等しいことでした。  イエスさまはこのペテロの行為を諌められ、十字架にかかることがみこころであるとはっきり語られました。すると今度は、ペテロも含めて弟子たちはどうしたのでしょうか? 逃げたのです。ヨハネの福音書の記述を見てみますと、イエスさまは兵士たちや群衆に向かって、弟子たちはこのまま去らせなさい、と語られたとあります。彼らを去らせるのは確かに、イエスさまのみこころでした。しかし、聖書の記述の評価は、彼ら弟子たちは「イエスさまを見捨てて逃げた」のです。  これは、どういうことでしょうか? 彼ら弟子たちは、あれだけイエスさまのためにいのちを捨てる、と大見得を切っておきながら、しょせんいざというときには、イエスさまのことを見捨てるものである、ということです。  イエスさまは山上の垂訓において、一切誓ってはならない、とおっしゃいました。神かけて誓う者は、神の領域を侵す者である、それなら、と、自分を指して誓う者も、その髪の毛を白くも黒くもできない、有限な存在ではないか、というわけです。私は決してつまずきません、裏切りません、あなたのためならいのちも捨てます、そんな誓いをした者たちは、いざとなったらイエスさまを「見捨てた」のです。  これが、3年にわたってイエスさまと愛の交わりを分かち合ってきた弟子たちのまことの姿でした。そこで、私たちの姿を省みたいと思います。私たちはときに、霊的な高揚感を体験するものです。祈っているとき、賛美しているとき、ほかの兄弟姉妹と交わりを持っているとき……そのとき、全能なる神さまの霊、聖霊さまの満たしを体験し、私たちの感情はいやがうえにも高まります。しかし、このようなところに、サタンの誘惑もまた臨むことを、私たちは謙遜に認める必要があります。神さまは全能でも、私たちは全能ではありません。私たちはこのたびのコロナウイルスの流行の中にあって、いかに自分たちが弱い存在、はかない存在であるかを思い知らされているところです。いわんや全能などとんでもないことです。  しかし、こうも言えます。このとき、宗教指導者の前に引き出されて、裁判を受けたのはイエスさまおひとりでした。神さまは、十字架という栄誉を、イエスさまおひとりにのみ負わせられたと見るべきでしょう。この栄誉には、いかに主の弟子であろうともしょせんは罪人である人間を伴わせることを、神さまはお許しにならなかったのです。もし、ペテロでも誰でもいい、だれかがイエスさまとともに十字架につくようなことがあったならば、その者はイエスさまと同等のような扱いを受けることにならないでしょうか。後世の者たちが、そのような弟子を神格化したりはしないでしょうか。ひいては、イエスさまよりも尊く扱ったりはしないでしょうか。そんなことは絶対にあってはならないことです。 そうだとすると神さまは、人の弱ささえも用いて、イエスさまおひとりに十字架を負わせられたといえるのではないでしょうか。まことに、イエスさまだけが救い主、贖い主です。   しかしペテロは、それでもイエスさまのあとをついていきました。なんとか裁判の場に入りこんで、イエスさまの様子を隠れて見つめていました。 このときイエスさまはご自身のことを、あざける者ども、迫害する者どもの手に、あまりに無防備に任せていらっしゃいました。嘘をついてでもイエスさまをローマに引き渡し、十字架にかけようという証人たちがしゃしゃり出てきました。偽りの証言を前にしても、イエスさまはご自身を弁護するおことばを語られることなく、沈黙を守られました。しかし、イエスさまが沈黙を破られる時が来ました。それは、大祭司カヤパが、神の御名により命じるという行動に出たときでした。答えよ、おまえは神の子キリストか!  カヤパのしたことは、霊的に鈍感というにはあまりに罪の重いことでした。人が神をさばく、何ということでしょうか。しかし、イエスさまは、ここにおいて、ご自身がキリストであると宣言され、さらには、ご自身がやがてこの世に来てさばく存在であることを宣言されました。  カヤパがほんとうに神の人ならば、このおことばを聞いた途端、服を引き裂いて、おお主よ! このように神の御子をさばいた私どもを幾重にも罰してくださいますように! と、泣いてくずおれ悔い改めてしかるべきでした。だが、彼はまったく違う理由で服を引き裂きました。この者は自らを神と宣言した。何という冒瀆だ! 許してはおけぬ。十字架だ、十字架につけろ!  こうなっては、イエスさまは罪人どもの呪いとあざけりの対象となるしかありませんでした。罪人どもはイエスさまが神であられることを否定する行為に出ました。目隠しをして見せて、イエスさまの顔を平手で打ち、だれが打ったか当ててみろ、などと。そんなこともできないとは、おまえが神の子などとは嘘つきだ……。  しかし、イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか?「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょうか。」今、この瞬間にも、この罪人どもを天から御使いたちを呼び、皆殺しにすることなどイエスさまにはたやすいことでした。しかし、イエスさまはそうなさらず、罪人どもの手に落ちることを選ばれました。それは、十字架にお掛かりになるという、御父のみこころに従順になられるためでした。  ペテロは、イエスさまが殴られたり、つばをかけられたりする光景を、ありのままに見ていました。それは、イエスさまを愛し従ってきた者として、どれほど目をそむけたくなるものだったことでしょうか。このときペテロは、もはやイエスさまとともに迫害されよう、十字架を負おうという思いなど、どこかに消し飛んでしまっていました。   そんなペテロの心の隙に、ひとつのことばがかけられました。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」暗闇の中に熾された炭火に照らされるペテロの顔を、取り囲む人々がまじまじと見つめます。ペテロを恐怖が襲いました。この場所に来てしまったことを、どれほど後悔したことでしょうか。  ヨハネの福音書にあるこのできごとの記録を見ると、ペテロをその裁判の場のそばまで導いたのは、大祭司にコネのあったイエスさまの弟子であったとあります。この弟子の名前は記されていませんが、ある意味彼は、皮肉なことですが、大祭司の存在に守られていたといえるのかもしれません。しかしペテロはそうではありませんでした。勇気を出してイエスさまのあとについていっても、実際はとても心細い中にありました。大祭司の存在がペテロを守ってくれたわけではありません。むしろ大祭司は、イエスさまを極限まで迫害する者でした。周りにいる者たちは、ほぼ、大祭司につく者たちです。その現実に気づかされたとき、ペテロは、イエスさまを知らない、あなたは何を言っているのか、必死で取り繕い、ついには、私がもし知らないというのが嘘なら、私は呪われてもよい、と、恐ろしい誓いを立てました。  そのとき、鶏が鳴きました。ルカの福音書を読むと、そのときイエスさまが振り向いて、ペテロを見つめられたとあります。イエスさまがどんな眼差しだったかをみことばは記していませんが、目はどれほど雄弁にお気持ちを語ることでしょうか。イエスさまと目があったペテロに、いわく言い難い感情が押し寄せてきて、彼は外に出て、泣き崩れました。  しかし……イエスさまはペテロがこうなることを、すでに告げていらっしゃいました。あなたは、今はついてくることができないが、のちにはついてくる。  すべての人類を救う十字架を負われるのは、イエスさまおひとりであり、イエスさまはこの十字架を負うことに、だれがついてくることもお許しになりませんでした。それがたとえ、愛する弟子たちであったとしてもです。しかし、イエスさまはまた、まことの弟子としてふさわしい人は、イエスさまのあとを自分の十字架を背負って従う人である、とおっしゃいました。  イエスさまが生きておられたとき、ペテロはことばでも行いでも、多くの失敗をしました。それは、イエスさまの弟子としてふさわしくない姿、十字架というおのれに死ぬ道とはあまりにかけ離れた、目立とう精神で生きる姿であったとも言えましょう。しかしペテロのそのような罪も、イエスさまは十字架にかかってくださり、完全に赦してくださいました。  この、人を救いに導くわざ、そのためには自分のいのちさえ惜しまずに投げ出す生き方、その生き方に踏み出していくことで、ペテロはイエスさまについていくことができるようになりました。しかしその生き方をするためには、まず、十字架の前に自我が完全に砕かれる必要がありました。  それまでペテロは、イエスさまについていくことを人間的な蛮勇を振るうことと勘違いしていたふしがあります。そんなペテロは、たったひとり十字架を負われたイエスさまの御前に引き出される必要がありました。砕かれる必要がありました。 あの裁判は、一見するとイエスさまがさばかれていたようでも、ほんとうは全人類がさばかれる場でした。神の子を十字架につけることによって、全人類がいかに罪にまみれた存在であるかがはっきりしたからです。 そのさばきの場にペテロが引き出されたように、私たちひとりひとりも引き出されています。私たちはしばしば、イエスさまへの従い方を肉の力でしてしまうような過ちを犯します。今年の教会の標語は「信仰によって歩もう」であり、私たちは生活のさまざまな領域に信仰を働かせることを目指すものですが、それが間違った生活の習慣により、ときに、信仰を働かせることを、人間的な頑張りや形ばかりの宗教的な行為で代用してしまう弱さを、私たちはつねに持っています。それをしてしまうと、私たちはどこかで無理がたたり、疲れます。もしかすると、人間関係に齟齬をきたして傷つくかもしれません。涙を流すことだってあるでしょう。 そのときこそ、私たちがイエスさまの御前に出ていくときです。私たちは罪あるままだとさばかれても仕方ないものです。しかし私たちは、すでにイエスさまの十字架によって罪赦されている者として、悔い改めることにより神さまとの絆を結び直す特権が与えられています。神さまとつながれる祝福を、私たちはどれほど日々の生活の中で有難く味わっているでしょうか。 私たちも肉の弱さのゆえに、罪に走ることもあるでしょう。自分の罪深さに落ち込んだり、泣いたりすることもあるでしょう。しかし、それで終わりではありません。ペテロの涙の向こうに、初代教会の使徒として大きく用いられたペテロの姿があったように、私たちも悔い改めの涙の向こうに、大きく用いていただく祝福があります。だから、悔い改めを恐れてはなりません。

祈りに招かれた私たち

メッセージ題目;祈りに招かれた私たち  コロナウイルスの流行で、世界はますます厳しい局面に置かれています。もともと中国の武漢から拡散した伝染病ですが、いまや国境を越えて、ヨーロッパ全土にまで広がっています。その流行のうわさに伴うパニックからも、日本は自由ではありません。  私たちはこのような時こそ、祈る必要があることは、あらためて申し上げるまでもないでしょう。しかし私たちは、「祈ります」とか「祈っています」と言いながらも、果たして実際に、どれほどの時間をかけて、熱心に祈っていることでしょうか? もし私たちが祈れないとしたら、それはいったいなぜなのでしょうか? 今日は、イエスさまの祈りの場に招かれた3人の弟子の姿から、私たちにとって実践すべき祈りのあり方を、ともに考えてみたいと思います。  イエスさまは弟子たちを引き連れて、最後の晩さんの席から立ち上がり、ゲツセマネの園へと向かわれました。ゲツセマネの園。それは、オリーブ油を搾る場所であります。オリーブの実は完全な搾りかすになるまで何度でも搾られます。残った搾りかすもともしびを灯す燃料として使われます。搾られて搾られて、身を尽くすのです。イエスさまもまた、この園でそれこそ、搾りかすのようになるまで、血の汗を流して祈られるのでした。  その場所は、イエスさまが弟子たちとたびたび会合をともにされた場所でした。そこに向かわれたということは、何を意味していたのでしょうか? イスカリオテのユダが、イエスさまはここにいるから逮捕しに行くならここだ、と、宗教指導者たちに知らせていた場所でした。そこに行けばユダの手引きによって、ご自身が逮捕され、十字架という極刑に処せられることを、イエスさまはご存知でした。しかし、それにもかかわらず、イエスさまはゲツセマネの園に向かわれたのでした。  イエスさまはこのとき、どのような思いでいらっしゃったのでしょうか? 喜んで十字架を負います、ではなかったのです。この苦しみを避けることができるならば! その思いでいっぱいでいらっしゃいました。  もちろん、イエスさまが十字架にかかられることは、つまり、ご自分から人のためにいのちを捨てられることは、すでに何度となく語ってこられていたとおりでした。予感していないことが起こるどころか、覚悟をもってそこに向かわれたのは確かです。しかし……イエスさまの十字架は、御父との断絶を意味していました。何の罪もない方が、人という人のあらゆる罪に汚されて、御父から捨てられる。それを避けることができるならば、どんなによかったでしょうか!  私たちはイエスさまのこのみ思いがどうだとかこうだとか、論評する立場にはありません。なぜなら、私たちはしょせん罪にけがれても平気な罪人であり、イエスさまのみ思いなど、罪人である私たちにとっては、想像の域を出ないことだからです。  しかし私たちは、イエスさまがこの祈りの戦いの場に、弟子たちをお招きになった意味を考えたいと思います。弟子たちは、最後の晩さんの場でイエスさまがお語りになったさまざまなおことばを聞いて、心は悲しみでいっぱいになっていました。もちろんイエスさまは、御自身が去って行かれることは、聖霊なる神さまがいらしてくださることにつながり、それはあなたがたにとってよいことであるとおっしゃいました。しかし、弟子たちの現実はと言いますと、目の前でこうして語ってくださっているイエスさまが悪者どもの手に引き渡されて去られるのです。そんなことをいったい、受け入れることなどできるものでしょうか。 現在私たちクリスチャンは、聖霊なる神さまがともにいらっしゃるので、たとえ目に見えなくてもイエスさまがともにおられることを体験していますし、イエスさまの御名によってお祈りするその祈りが聞き届けられていることを体験しています。イエスさまが肉体をとってここにおられなくても、何の問題もありません。 しかしこの弟子たちとなると話は別です。イエスさまは、現実の空間に目に見える形でともにおられることに意味がありました。イエスさまがいなくなったあとのことなど、このときの弟子たちには想像のしようもなかったことでしょう。それに、そんなことになったら、どれほどむなしいか! どれほど悲しいか! お願いです、そんなことはおっしゃらないでください、弟子たちはそんな気持ちになったかもしれません。 その弟子たちが、いまこうしてイエスさまの悲しみ悶える姿を見なければならないということは、拷問にも近いことでしょう。私はこの箇所を読むたびに、できれば読み飛ばしたくなる衝動に何度も駆られたものです。こうしてメッセージを語っているいまだってできれば読みたくないくらいです。私がそんなことを思う箇所は、分厚い聖書全体の中でも、ここくらいです。 それでもイエスさまは、このゲツセマネの祈り、油搾りの祈りに、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを同席させました。彼らはいやでも、イエスさまが血の汗を流して祈られる場面をずっと見つめながら、自分たちも祈らなければならなかったのです。ともに祈ってくれ! これが、イエスさまの招きなのです。 よく、クリスチャンたちを毎日のディボーションの習慣に招くメッセージで語られているとおり、主の働きをなす人がすべからく、日々主との交わりを持つべきなのは、イエスさまが働きの場からも、弟子たちからも離れ、静かな場所にて一対一で御父と交わる、リトリートの時間をしっかり持っておられ、私たちもそのイエスさまのお姿にならうべきだからです。イエスさまは、弟子たちを意識してオープンな祈りをされたときを除いては、基本的にとても個人的に、御父とお交わりを持っておられたことがうかがえます。 しかし、このゲツセマネの園での祈りにおいてはどうでしょうか。恥も外聞もかなぐり捨てたようなこの祈りの戦いを、イエスさまはあますことなく、弟子たちにお見せになりました。 御父のみこころを前に、血を流すほどの抵抗をなさったイエスさまのこのお姿、またおこころを見て、私たちはそれでも、いえ、どうか十字架にかかってください、そうでないと私たちは赦されません、などと言う資格があるでしょうか。口が裂けても言えないことです。イエスさまの十字架はどこまでも恵みです。私たちきたならしい罪人のために、あんなお姿で亡くなってくださる義理などあるわけがないのです。しかし御父はイエスさまに、それにもかかわらず十字架にかかってのろいを受けて死になさい、というみこころを示されるのみでした。 この、祈りの戦いに勝利されたゆえに、私たちのすべての罪が赦され、神さまの怒りから救われ、神さまの子どもにしていただいたことを、私たちはもっとありがたく思っていいはずです。クリスチャンはすべからく、この祈りの戦いに勝利してくださったイエスさまに感謝すべきです。 しかしここで、私たちはこの祈りの場に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを招かれたイエスさまの意図を、もう少し黙想してみたいと思います。みんな、悲しんでいました。みなさまもご存じのとおり、悲しむということはとても体力のいることです。彼らが泣いたとはみことばは語りませんが、この箇所では弟子たちの様子を、まぶたが重くなっていた、と語っています。また、悲しみのあまり眠り込んでいた、と、並行箇所は表現しています。そこから察するに、彼らはイエスさまのおことばに、ただひたすらに悲しくて、悲しくて、何度となく涙を流し、まぶたが腫れてしまったかもしれません。そして、疲れ切ってしまったことでしょう。こうなってしまうと、きびしいのは肉体の弱さが燃える心よりも先に立ってしまうことです。 弟子たちはついさきほどまで、たとえ全部の者がつまずいても私は決してつまずきません、などと大見得を切ってみせていました。イエスさまのおことばをあまりに額面通りに受け取って、人を傷つけ、あやめる道具である剣を2本も取り出してみせたりもしました。彼らの心は、悲しみに満たされる一方で、イエスさまのためなら死ぬことも覚悟しようという、燃える思いでいっぱいになっていました。彼らは確かに、心が燃えていたのです。 だが、肉体の弱さとは、なんと残酷なものでしょう。心が燃えているときは、その燃える思いは永遠に続くように錯覚します。よもやこの思いがすっかり冷めてしまって、イエスさまを裏切るようなことをすることはもうあるまい、などと思ってしまうものです。しかし、この心の入れ物である肉体は、パウロが喝破したように、しょせん土の器です。弱い肉体がついに燃える心に勝ってしまうことなど、いくらでもあるものです。 私たちは、全能なる神さまの御力をいただいています。神さまの知恵もいただいています。それがクリスチャンの素晴らしさです。しかし、神さまは全能でも、だから私たちが全能なのではありません。私たちが信仰を働かせるのは結構ですが、神さまはそんな私たちに、はっきり、被造物としての限界を定めていらっしゃいます。そうです、私たちがしょせん、土の器にすぎないことを、気づかせてくださるのです。 では、しょせん私たちが土の器ならば、私たちは主にあって、主にお従いするビジョンを思い描くことは不遜なことであり、してはいけないことなのでしょうか? そうではありません。もしそうだとするならば、神さまは私たちに、全能の神さまそのものでいらっしゃる聖霊さまを注がれることなどなかったはずです。私たちは聖霊さまの満たしと導きにより、神さまのみこころにかなうことは、何でもできます。そうです、それこそ、何でもです。 それでも私たちが心に留めるべきことがあります。私たちが有限であることを認めることです。無限なのは、死んでよみがえられたイエスさまおひとりだけです。私たちは、主の恵みがなければ、どんなに心が燃えようとも、肉の弱さに征服されてしまう被造物である、そのことを謙遜に認める必要があります。   では、イエスさまは彼ら弟子たちがそのように、心が燃えていても現実の肉体は弱くて、もはや1時間でも起きて祈ることなどできなかったと、ご存じなかったのでしょうか? もちろん、そうではありません。イエスさまは彼らの肉体が限界になっていたことをご存知の上で、あえてこの、決死の祈りの場に招かれたのでした。  このことから私たちは何を学びますか? お祈りすべきときには、いかなる理由があろうともお祈りすることを主は求めていらっしゃる、ということです。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい、テサロニケ人への手紙第一5章16節から18節のみことばで、とても有名ですが、絶えず祈りなさい、とみことばで命じられている以上、私たちは何があっても、絶えず祈りつづけなければならないのです。  しかし、実際の私たちはどうでしょうか? イエスさまのじきじきの命令により招かれた祈りの場で、3度にわたって眠り込んでしまった、1時間も目を覚まして祈ることができなかった、それが、十二弟子のリーダーであったペテロ、ヤコブ、ヨハネの現実の姿でありました。いわんや私たちは、もっとお祈りすることもできないものであることを、まず認める必要があります。  それでも祈らなければ! 私たちは、祈りにおいて怠惰な自分に気づかされるとき、悔い改めて、心を新たにして祈りに取り掛かろうとするでしょう。しかし、やはり肉体の弱さに呑み込まれてしまいます。あとに残るのは、自分は目を覚まして祈ることができなかったなんてという、罪責感ばかりです。  何がいけないのでしょうか? それは何よりも、私たちの決心が、肉的な頑張りによってなされるものにすぎない、ということです。決心する、頑張ることは、一見するととても素晴らしいことに見えます。その一定の効果はもちろん認めるべきなのですが、しかし、肉的な決心や頑張りでお祈りが継続するわけではありません。 しかし、ひとたび私たちがお祈りする恵みをいただいたならば、私たちは肉の弱さに打ち勝ち、祈れるようになります。私たちはいま、祈りに燃えることができますでしょうか?「一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか」とイエスさまに問われたならば、果たしてまともにお答えすることができますでしょうか? まっすぐイエスさまの目を見て、「はい、あなたさまの恵みによって、あなたさまの求めていらっしゃるだけのお祈りをさせていただきました」と言えますでしょうか? 私はみなさまとともに、全員そろって、その告白をイエスさまにさせていただきたいのです。  イエスさまがこのとき、お祈りの時間の基準としておっしゃったのは、一時間。みなさん。一日とはいいません、せめて一週間のうち、一時間をささげてお祈りするとしたら、それはいつでしょうか。私たちは、くつろいだり、テレビやインターネットを視聴したり、携帯電話をいじったりと、好きなことをしているうちに、あっという間に一時間を費やしてしまうものです。しかし、神さまの前に祈るには、それなりの戦いの姿勢が必要です。大げさではなく「戦い」です。私たちの肉の弱さを当たり前に動かそうとするサタンの誘惑は、どんなときにも襲いかかってきます。神さまの恵みを求めるのです。  ただ、この戦いは、イエスさまの戦いのような、孤独な戦いではありません。私たち信徒たちが相互に祈りの課題を交換し合い、お互いを覚えて祈るならば、私たちは決してひとりで戦っているのではないことがわかります。まるでイエスさまの祈りの場に、御使いが現れて力づけてくれるようなものです。コロナウイルスの流行により集まりが制限されるというこの非常事態は、逆に考えれば、私たちひとりひとりが主の御前にともに進み出るという、またとないチャンスの時です。ともに祈りましょう。

仕え合う弟子の共同体、教会

聖書箇所;ヨハネの福音書13:1~15 メッセージ題目;仕え合う弟子の共同体、教会 今日お読みいただいたみことばは、このようなことばから始まっています。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」神は愛なり、とみことばが語り、イエスさまが父なる神さまとひとつなる神さまでいらっしゃる以上、イエスさまのお示しになるものは、愛そのものです。私たちはイエスさまの愛を、どのようにして体験するのでしょうか? それは、特に十二弟子に愛情を注がれた、その愛に、みことばを通して触れることによってです。特に、このヨハネの福音書の13章から17章までは、弟子たちに対して最後のメッセージをなさる箇所であり、イエスさまが究極的にお示しになった愛にふれる上で、特に大事なみことばです。  イエスさまがこの世を去られるにあたってなさったことは、この世のものに愛を残るところなく示されることでした。イエスさまの十二弟子は、そのイエスさまの愛を受け取った、すべての人類、すべての被造物の代表選手といえる存在です。だから、イエスさまが弟子たちをどのように愛されたかを学ぶならば、イエスさまが私たちのことをどんなに愛しておられるかを知ることができます。  キーワードになりますのは、愛です。イエスさまは単に、御国を拡大する働きの担える後継者をビジネスライクに育てていたわけではありません。弟子たちと苦楽をともにし、主にあって愛するとはどういうことかを弟子たちに教えるため、つまり、弟子たちもイエスさまの愛をもって教会のひとりひとりを愛する者となるため、自ら愛することを実践されたのでした。  イエスさまと弟子たちは、これから過越の食事をともにされます。イエスさまがこの過越の食事を弟子たちとともにすることを「どんなに待ち望んでいたことか」と表現なさったように、切に待ち望んでいたということが、ルカの福音書に記されています。これが、ご自身が十字架の上で窮極の過越、最後の過越を成し遂げられるその前ぶれとして、ご自身が執り行われた過越の食事であったわけです。そういうわけで、この場にともに連ならせてもらった十二弟子は、もっとも幸いな存在でした。  しかし、こんにち私たちが主の晩さんにあずかるということは、私たちもまたイエスさまに愛されている主の弟子たちであることを確かめる、だいじな時間をお持ちしているということになります。私たちも弟子たちと同じ立場で、イエスさまの晩さんに招かれていて、その晩さんにあずかることができるのです。  しかし、この晩さんの席上、弟子たちは何をしていたのでしょうか? この期に及んで、自分たちの中でだれがいちばん偉いかということを議論していました。イエスさまが御国につくなら、その次の座にはいったいだれが座るのか、それは自分だ、などとでも言い合っていたのでしょうか。そのような議論したことをかつてイエスさまに戒められたというのにです。しかし、そんな弟子たちの姿をご覧になったイエスさまは、その食事の席から立ち上がり、たらいに水を入れ、弟子たちひとりひとりの足を洗いはじめられました。  足を洗うのはしもべの仕事、奴隷の仕事です。つまりイエスさまは、この弟子たちのしもべとして振る舞われたのです。弟子たちはどれほどうろたえたことでしょうか。イエスさまをしもべにしてしまったなんて、なんと申し訳ない! イエスさまに洗っていただくなんて、なんともったいない! 恥ずかしい! でもありがたい! いろいろな思いが弟子たちの間に錯綜したにちがいありません。 さて、このような中にあって、ひとこと多いのはペテロです。ペテロは、弟子のリーダーとしてのプライドを見せようとしたのでしょうか。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」このようなことを言ってうろたえるペテロに、イエスさまはおっしゃいました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」  ペテロはのちに、イエスさまの十字架を目の前にして激しい挫折を体験しましたが、のちには立ち上がり、イエスさまのしもべとしての生涯を全うしました。ペテロはイエスさまにならう生き方を歩むことで、イエスさまがなぜあのとき、自分のようなもののしもべになってくださったのか、分かったはずです。ペテロもまた、初代教会の羊たちのしもべとして歩むことを選択したのでした。  だが、このときのペテロに、そのような将来の歩みなどわかりませんでした。決して私の足をお洗いにならないでください。ペテロはかつて、ことばで失敗したことがあります。イエスさまが、宗教指導者たちに迫害されて殺されるであろうと予告されたとき、ペテロは、そんなことがあってはなりませんとイエスさまを諌めました。しかしイエスさまはそんなペテロの姿に、十字架を拒むサタンの動きを認められ、下がれ、サタン、と、主の弟子としてはとても聞くに堪えないようなおことばをもってペテロをお叱りになりました。 そしてペテロはここでも、決して私の足をお洗いにならないでください、と、イエスさまのお働きに異議を唱え、それをやめさせようとしました。しかしイエスさまはおっしゃいました。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」 イエスさまが足を洗わない人はイエスさまとは関係がない。どういうことでしょうか。イエスさまが仕えてくださっている人でなければ、イエスさまとは関係がない、ということです。 それではイエスさまは、どのようにして人に仕えてくださったのでしょうか? 十字架です。まさしく十字架とは、神が人に仕えることでありました。神が人に仕える! そんなことがあっていいものでしょうか? しかし、神の子キリストが十字架につかれたとは、そういうことです。 いったい、天地万物の創造主であり全能者であられる方が、ちっぽけな被造物、それも罪を犯して創造主に反抗した者の罪を赦し、永遠のいのちを与えるために、むごたらしくも十字架の上でいのちをお捨てになる必要があったでしょうか? 仕えることはそういうことです。しかし、イエスさまはあえてそのような人間に仕える者の姿をとられ、実に十字架の死をもって、人の罪を洗いきよめてくださいました。汚れた足を水できれいに洗うように、イエスさまの十字架の血潮は、罪に汚れた人のすべてを洗いきよめます。実に十字架とは、仕えることです。 さてペテロは、イエスさまがペテロを洗わなければイエスさまと自分が何の関係もないとおっしゃったことに心を痛めたのでしょう。ペテロはイエスさまを愛する人であったからです。ペテロは一転して、もし洗ってくださるのなら、足だけではなく、手も、頭も洗ってほしいと、イエスさまに訴えました。 しかしイエスさまは、このようにお答えになりました。10節です。……イエスさまに完全に立ち帰った者は、もはや罪に定められることがありません。しかしそれでも、私たちは日々罪を犯します。罪に汚れてしまうのです。だから私たちは、イエスさまに洗っていただく必要があるのです。それはあたかも、この時代のパレスチナのユダヤ人がそうだったように、サンダル履きで道を歩いて、足がどうしても汚れてしまうから、家に入ったら足を洗う必要があったようなものです。 罪に汚れるのは、いかにもキリスト者としてふさわしくありません。家の中を汚い足で歩き回ってはいけないのと同じです。私たちは日々、主の御前に心を注ぎ出し、悔い改めをなしてゆく必要があります。 しかし私たちは、もともと、どんなに自分の罪を悔い改めたとしても、決して赦されるような者ではありませんでした。ただ、イエスさまが私たちの身代わりに十字架にかかってくださった、その愛を受け入れるとき、私たちは御父への道、永遠へのいのちの道が開かれ、イエスさまとの絶えることのない交わりの中で、日々の歩みの中で犯してしまう罪さえも赦していただける者となるのです。 イエスさまが足を洗ってくださった弟子たちの中には、イスカリオテのユダがいました。ユダは、イエスさまに足を洗っていただいても、心底神さまに立ち帰っていたわけではありませんでした。宗教指導者たちにイエスさまを売り渡したのは、見ようによっては宗教的にとても模範的なことをしたようでも、イエスさまの父なる神さまの御目から見れば、どれほど呪わしいことをしたことでしょうか。そのように、形だけクリスチャンのように振る舞いながら、そのじつ心の中では、イエスさまになど従いたくない、機会があれば教会をこの世の権勢に売り渡そうが知ったことではない、という恐ろしい存在は、残念ながら存在します。 しかし、そういう者の存在を意識させられるとき、「まさか私ではないでしょう?」と心を痛めてイエスさまに立ち帰り、責められる罪があるならば悔い改めることのできる人は幸いです。イエスさまはユダにも、最後まで悔い改めの機会を与えてくださいました。しかし、ひとたびサタンにたましいを売り渡した者に対しては、イエスさまはもはやなすがままにして、十字架への道を歩まれるのみでした。 それでも私たちは、ユダではありません。イエスさまにお従いする弟子たちです。イエスさまは弟子たちに対して、何を求めていらっしゃるのでしょうか。12節から15節をお読みします。……イエスさまがいのちを差し出して私たちに仕えてくださったように、私たちもまた、互いのためにいのちを差し出して仕え合う必要がある、ということです。 ヨハネの手紙第一、3章16節をお読みしましょう。福音書ではなく、手紙のほうです。そう、互いのためにいのちを捨てなさい、と命じられています。続く17節、18節をお読みすれば、16節のみことばの言わんとしていることが明らかになります。 心のこもった行いというものは、自分を差し出す犠牲の伴ったものです。言ってみれば、私たちのいのちをすり減らして愛を実践していることになります。私たちは自分のことしか考えないような自己中心の罪人でした。そのような私たちでしたが、イエスさまの十字架の愛を知りました。イエスさまの十字架の愛を知った今、わが主でいらっしゃるイエスさまの愛の実践にならって、私たちも互いのためにいのちを投げ出す者となれるし、また、いのちを投げ出す者となるべきである……みことばはそう語ります。 まことに、私たちの愛の実践は、イエスさまの十字架を日々どれほど黙想しているかにかかっています。イエスさまの十字架の愛を知れば知るほど、私たちの行いに互いへの愛が実を結んでまいります。イエスさまがどれほど私たちを愛してくださり、仕えてくださったか、その愛にいつでも立ち帰る者となりたいものです。 さて、現在の状況に今日の教えを適用してみますと、どのようになりますでしょうか? 私たちはこのような、互いに会うこともままならないような中にあっては、愛し合うことを実践するのも難しいことのように思えるかもしれません。それならば私たちは、何によって自分たちは結ばれているか、何によって同じキリストのからだなる教会を形づくっているか、あらためて考えてみましょう。 私たちを一つにしているのは、イエスさまへの信仰です。同じイエスさまへの、同じ信仰をいだく者として、私たちはひとつになっています。私たちの好き嫌いでひとつになったりならなかったり、という問題ではありません。私たちを一つにしてくださった、イエスさまのみこころをしっかり考えてまいりたいものです。 イエスさまはどのようにして私たちを愛してくださったか、その愛を深く知るには、イエスさまがひとつからだにしてくださったお互いを愛すること以上のことはありません。愛することとは、仕えることです。 さて、聖徒を愛するには、「愛される」謙遜さも同時に必要になります。仕える人が仕えることを全うするには、「仕えられる」人の存在を必要とします。イエスさまに足を差し出すように、祈ってほしいこと、仕えてほしいことを、ほかの信徒に語ることです。もちろん、その必要を私たちが知るならば、いっしょうけんめい祈り、いっしょうけんめい仕えることです。 今はこのように、礼拝に来ることさえもままならず、そのぶん、とりなしの祈りや、奉仕の機会は多くないことになります。実践の機会そのものがあまりないわけです。しかしここは、ひとつ、へりくだって、私たちの祈ってほしいこと、ほかの兄弟姉妹の奉仕を必要とすることを、この機会に明らかにしてみてはいかがでしょうか。

生きることはキリスト

このご時世……人々は前にもましてますます、新聞やテレビやインターネットから情報を得ようとしたりする一方で、その情報の真偽、良し悪しを、自分の頭で確かめる必要がますます生じています。  私たちは何を信じ従うのでしょうか? 変わらないお方である主とそのみことばを信じお従いします。それでは私たちがみことばに従うことを、このようなご時世にあって、どのように実践することができるでしょうか? 聖書はいろいろなところで、私たちにその生き方をする上での指針を示していますが、今日は特に、ピリピ人への手紙のみことばから学んでまいりたいと思います。  今お読みしたみことばの中で、特に強調したいのは、21節の箇所です。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。聖書を読みはじめて間もない人がもし、この箇所を読んだとしたら、ちょっと難しさを覚えるかもしれません。しかし、この箇所は、私たちクリスチャンの人生にとって、またとない指針となるみことばです。  まずは、「死ぬことは益です」というみことばの意味を考えてみましょう。パウロはこの手紙を書いたとき、獄中にありました。多くの聖書学者の見解では、ローマの監獄にいたということで、それはそのまま、もはや釈放されることなく、処刑に向かって進むのみということを意味していました。パウロはもちろん、釈放されてピリピ教会の信徒たちに再会することを希望し、またそうなるようにと信徒たちに告白しています。  そのような中でパウロが、死ぬことが益であると語るのは、どのような意味があるでしょうか? 何よりもそれは、23節にあるとおり、世を去ることになるならば、キリストとともにいることになる、ということを意味します。  人がこの世を去るということは、悲しくも寂しいことです。その感情まで否定すべきであると言いたいのではありません。しかし、私たちにとって大事なのは、死ぬということは終わりを意味するのではない、ということです。そればかりではありません。あれほどお目にかかりたいと恋焦がれた、イエスさまにお会いできるということです。  私たちはこの世界を生きながら、実際は天の故郷にいずれ帰ることをたえず意識しながら生きる者です。だから、世の富や欲に執着しているならば、それを捨てることをしていく必要があります。私たちの日常を点検してみましょう。私たちは天国に行く準備ができていますでしょうか? 天国に行く前にやり残していることがあるから気がかりだ、ですとか、天国に行くことよりももっと関心のあることが目の前にある、などとなっていないでしょうか?  ただ、もちろん、このようなことを申しましても、この地上で好きなことを一切すべきではないというわけではありません。私が神学生の頃、私に、趣味を持つべきだとおっしゃった宣教師の先生がいらっしゃいました。もしかすると、教職者が趣味を持つことに対しては、厳しい視線を投げかける方もいらっしゃるかもしれません。しかし私は、教職者が長持ちして働きをするためには、徳を引き下げるものではないかぎり、ふさわしいかたちでの息抜き、休息は必要だと考えます。これは、パウロが教え子のテモテに言ったところの、「少量のぶどう酒」に当たるものだと考えます。 それでも、「少量のぶどう酒」は、どこまでも、主の宮なるからだを立て上げるものであり、そういう意味では、天国と関係あるものであるべきでしょう。私たちにとっての趣味のような快いこと、コーヒーを飲んだりドライブをしたりおいしいお店に行ったりすることも、天の御国を見上げる私たちをこの地上で支えるために必要なことであるのみで、それ以上のものであってはいけません。すなわち、そのような快楽そのものを生きる目的とすることは、私たちクリスチャンにとってふさわしいことではありません。 それでは私たちは、この世に対する執着を一切捨てて、死ぬことを究極の目標とするしかないのでしょうか? いいえ、死ぬこと、すなわち天国に行くことは私たちが積極的に受け入れるべき「結果」でこそあれ、死ぬことそのものを「目的」として、生き急ぐような真似をしてはいけません。なぜでしょうか? それは、24節にあるとおりです。……パウロが「あなたがたのため」と言ったまさにそのこと、それは、キリストのからだなるピリピ教会とその信徒たちが保たれ、成長することです。 初代教会は、質量ともに大きく成長する希望にあふれていた一方で、ユダヤ主義者やローマ帝国といった敵の存在によって、つねに滅亡と隣り合わせという危機に瀕した状態で、宣教と教会形成を続けなければなりませんでした。その中で彼らが保たれるためには、彼らが主とそのみことばにしっかりとどまり、みことばの栄養を得て成長すること、愛においてひとつとなることは必須でした。しかし、何よりも、その群れの霊的責任を担える存在を、どうしても必要としていました。その霊的責任を負う者、それがパウロです。 霊的責任を負う人にその群れの霊的存在の存亡がかかっているということは、旧約聖書でもしばしば見ることができます。サムエル記第二に収録されているエピソードです。イスラエルの統一王国時代、ダビデは息子アブサロムとの戦争に巻き込まれました。そのとき、ダビデ王は自ら戦場に赴こうとしました。しかしダビデ王は兵士たちから、あなたはわたしたちの一万人にあたります、と、必死に引き止められました。いざというときに出て行って責任を取ろうという態度、素晴らしいリーダーシップですが、同時に、そのようなリーダーが守られるように、従うべきことを従い、自分たちも責任を分かち合おうとする態度、これは従う立場の者たちの、いわば「フォロワーシップ」というべきものです。 そのフォロワーシップが充分に育つまで、牧会者は充分に群れに気を配り、その群れの霊的な監督としての責任を果たすために、必要なみことばを語り伝え、とりなして祈る必要があります。もちろん、信徒ひとりひとりが究極的につながるべきはイエスさまであり、それは決して牧会者であってはならないのですが、だからといって、牧会者の責任が免除されるのではありません。むしろ、だからこそ、信徒がイエスさまとしっかりつながり、イエスさまに従うものとなるために、牧会者はますますその責任を全うする必要があることになります。 パウロが、なお生きることを願ったのは、いつか生きてピリピ教会に戻り、再び群れを指導できるようになることを祈ったゆえで、25節、26節を見てみますと、パウロが生きてピリピ教会の信徒に再会することで、ピリピの信徒にとってそれが信仰の前進と喜びとなることが語られています。しかし、結局のところそれはかないませんでした。ならばパウロは、根拠のないことを言って空元気(からげんき)をつけさせようとしたのでしょうか? そうではありません。パウロは、ピリピの信徒たちがパウロに再会するその希望よりさらに高い次元にある、パウロが来ようと来なかろうとピリピ教会の信仰が前進し、喜びが増し加わることを祈っていたと見るべきです。 それでもパウロが、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です、と言ったことは、いろいろな意味を含んでいます。まずそれは、パウロこそが、ピリピ教会に格別の重荷を覚えて祈る人であるゆえ、たとえあなたたちに会えなかろうと、まだまだ死ぬわけにはいかない、ということでもありました。 しかし、それ以上のことがあります。パウロはまだ、のちに新約聖書を完成させる書簡となる、たとえばテモテやテトスへの牧会書簡をまだ書き送っていませんでした。つまり、聖書が完成された形でのちの2000年の教会を霊的に養うためには、パウロはここで死ぬわけにはいかなかったのでした。パウロは、ピリピ教会も含めたすべての教会を霊的に生かすために、いのちが取り去られて天国に行くことを願う一方で、生きつづけることを主に祈り求めたのでした。まことに、パウロがまだ天国に行かないで生きつづけたことは、その後歴史上、世界中に存在した、すべてのキリストのからだなる教会のためでした。パウロの祈りはすべての教会を生かすことにつながりました。 私たちはなぜ生きるのでしょうか? パウロは、はっきりわれわれの生きる理由を語っています。「生きることはキリスト」なのです。キリストが生きるように生きる。私の生きていることは、キリストが生きていることそのものである。みなさん、ここまで言い切れるでしょうか。いや、私は罪人ですから……こんな言い訳は、このことばの前には一切通用しません。 私たちはもちろん、ときには肉の弱さのゆえに罪を犯すものです。しかし私たちは、その罪を犯す自分をほんとうの自分、変わることのない自分だと考えてはなりません。私たちにとってのほんとうの自分自身とは、将来天国にて、キリストに似た者として完全に栄光の姿に変えられる姿であり、その完成された姿に向けて私たちは日々変えられます。ほんとうの自分に、日々近づくのです。間違っても、きよめられていない自分、罪人の自分を、ほんとうの自分だと考えてはなりません。 しかし、私たちがキリストの似姿として日々きよめられるには、条件があります。キリストをわが心のうちに救い主、人生の主として迎え入れ、心の王座に座っていただいてそのご支配をいただくことです。私たちクリスチャンはときに、心の中にキリストを受け入れていることは確実でも、その心の中心にキリストが座ってはおらず、相変わらず心の中心を罪深い自分自身が占めつづける、ということがあるものです。私たちがこうして週に一度礼拝をおささげするのは、そういう自分であることに気づかせていただき、イエスさまのはじめの愛から、どこからどのように離れたか思い出させていただき、悔い改めて初めの行い、すなわち、自分を捨ててイエスさまを信じる信仰に立ち帰らせていただくためです。 悔い改めというと、「悔い」ということばの否定的なイメージに引きずられて、何やらよくないこと、などと誤解したりしてはいないでしょうか? でも悔い改めとは、自分の罪の醜さをまじまじと見つめて、ああ、私ってなんて汚いの、愚か者なの、と、うじうじ落ち込むことでは、ありません。それは「悔い」です。悔い改めはむしろその反対で、そんなうじうじさせる自分の醜さ、汚さから、まことのきよい光そのもののイエスさまへと完全に目を向け、目を離さなくすることです。イエスさまに向けて視線を固定するのです。いざイエスさまに向けて視線を固定してしまえば、もう自分の醜さのようなものを見ることはできなくなります。 まことに、ふさわしい聖徒の生き方とは、悔い改めに次ぐ悔い改めを通して、どんどんキリストの似姿に変えられていくことです。その生き方をともに目指し、キリストが歩まれたように、教会に対して、この世に対して愛と真実の歩みをなす、こうして私たちは、生きることはキリスト、となるのです。 しかしまた、死ぬことも益です。パウロの死は、殉教でした。その死によって、キリストというお方はいのちをかけてまでお従いすべきお方だということが、堂々と証しされたのでした。そして聖徒たちは、自分のためにいのちを捨ててくださったキリストのその十字架を、パウロの殉教を通してどれほど如実に実感したでしょうか。パウロの死は、神の栄光となり、聖徒たちはいよいよ迷わずに教会を立て上げました。そしてその歩みが、こんにちの私たちの歩みへとつながっているのです。 私たちもいつかは天国に行きます。しかしどうか、消極的な理由から天国を希望する者にならないでいただきたいのです。こんな、ウイルスと放射能に冒された世界、愛のない世界に生きていても、何にもならない、生きていても死んだほうがましだ、そんなことを考えて、それで天国行きを望むのでしょうか? しかし、そういう人は、肉体が死ぬことを夢想しようと、益になどなりません。同じ死ぬにしても、肉体が死ぬのではなく、そんな変な価値観を抱えてさまよう自我がキリストとともに十字架につけられて死ぬべきです。そうすれば、復活のキリストがその人のうちに生き、もはやつまらない聖書解釈で生きるのではなく、ほんとうに生き生きと喜びにあふれた、それこそキリストがともに歩まれる信仰生活を送れるようになります。もうそういう人は、けっして、消極的な理由から「死にたい」などと口にすることはなくなるはずです。 私たちが宣べ伝えるキリストは、この世界から人を取り去って天国に入れてくださるお方だといえばそうなのでしょうか、それはキリストというお方のあまりに表面的な領域でしかありません。いま現実に苦しむ人たち、そうです、いま日本はコロナウイルスで苦しんでいますし、震災や台風などの災害からまだ完全に復旧したわけではなく、それで苦しむ人もたくさんいます。経済的に困窮する人もたくさんいます。社会はあちこちがほころんでいます。世界に目を向けたら、さらに悲惨な生活をしている人が大勢います。そのような人々を救い、人々とともに歩み、この世界に神の子なるキリストが愛をもって統べ治めてくださる神の国を立て上げる、キリストはそういうお方ではなかったでしょうか。 そう考えるならば私たちのうちには、自分たちさえ救われればいい、天国に行ければいい、何をしても許される、という考えは生まれてこないはずです。世の光、地の塩として、主がおつくりになった世界に対して、キリストが歩まれた愛の歩みを、いのちあるかぎり力いっぱいなし、いのち果てる日に喜びあふれて天国に凱旋する、そういう歩みに献身したいものです。その歩みにより神の栄光を豊かに現す、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

つまずかせない教会形成を目指して

聖書箇所;コリント人への手紙第一10:31~33 メッセージ題目;つまずかせない教会形成を目指して 本日のメッセージは、結論から先に申し上げたいと思います。「人のつまずきになってはいけません」、これだけです。それは未信者に対してもですし、私たち教会内部においてもです。 本日の礼拝は、集まれる方で集まりましょう、主の晩さんも執り行わないことにしましょう、と、昨日、一斉メールでお伝えしました。このようなとき、クリスチャンの意見もいろいろだと思います。礼拝そのものを開催すべきでない、実際に日本ではカトリックも含め、そのような教会がいくつも現れているので、現実的に過ぎる判断とはいえません。一方で、このような時こそ信仰を働かせて、ヘブル人への手紙10章25節のみことばを実践して、ともに集まろう、ですとか。それぞれに聖書的な根拠があるので、どれが正解、どれが間違い、とは言い切れません。おそらく、どんな決断を下したとしても、全員を納得させられるだけのことはできないと覚悟すべきなのかもしれません。 しかし、これだけは言えます。何をするにしても、つまずきを与えてはなりません、ということです。もちろん、つまずきが起こるのは避けられません。イエスさまもおっしゃっているとおりです。しかしイエスさまは続けて、このようにもおっしゃいました。つまずきを与える者はわざわいです。自分は信仰があるから何をやっても許される、とばかりに、厚かましく振る舞う人に対して、イエスさまのまなざしはとてもきびしいです。私の今しているこの振る舞いは、もしかすると自己中心的で、だれかをつまずかせるかもしれない、と、慎重になるくらいでちょうどいいのでしょう。 信仰者の特権を人のつまずきの材料としてはなりません。コリント人への手紙第一10章27節から30節をお読みしたいと思います。……私たちは食べたり飲んだりするもので宗教的にけがれて、神さまから、おまえは汚れた、とみなされ、見捨てられることはありません。しかし、この特権を理解しない人というのは、実際は少なくないものです。そういう人がそういう様子を見て、えっ、クリスチャンなのに飲むの? ありえなーい、そんなことを思ったとしたら、どうでしょうか? 悪いのは、特権を理解しない人でしょうか? そうではありません。つまずかせる方です。人をつまずかせることは、宗教的にけがれるのとは違った理由で、神さまのみこころにとてもかなわないことになります。 しかし、そうだとすると、私たちはたとえば食べ物や飲み物のような、自分に許されている自由というものを、どのように理解すべきか、ということになるでしょう。これは、実際に私が見聞きしたケースをお分かち合いするのがいいと思います。ある、お酒が好きな婦人の信徒がいました。彼女の所属する教会はいわゆる福音派で、お酒のことを話題にするのもはばかられる雰囲気でした。教会では言いにくいので、ある日彼女は、個人的に知り合いになった外国人の宣教師に質問しました。「先生、お酒は、飲んでもいいのですか、飲んではいけないのですか?」その先生はこう答えました。「世の中のお酒飲みの人は、飲まない自由というものを持っていません。飲むしかなく、自由がないのです。私たちクリスチャンは、飲む自由もあれば、飲まない自由もあります。」その婦人は目が開かれたようで、その後、あれだけ好きだったお酒を飲まなくなりました。 私たちはお酒を飲んでもいいのです。牛肉や豚肉を食べたってかまいません。しかし私たちは、お肉はともかく、お酒を飲むことは少なくとも「奨励」しません。なぜかといいますと、それは未信者や信仰の弱い人たちに対して、つまずきを生むからです。人によっては私たちクリスチャンに対し、一般の人がなかなか持たないような潔癖さを求めたりします。そういう人たちの前では、私たちは罪人です、赦されていますが罪人です、という言い訳は通用しません。 お酒というものは成人になるまでは口にしてはいけない取り決めの嗜好品であり、そういうものをクリスチャンともあろう者が、後ろめたくもなく楽しむことを、許せない。私たちはそう考える人たちに対し、いやいや、大目に見てくださいよ、などということは絶対にできません。そのように、私たちに宗教的な潔癖さを求める人たちは、私たちの行動を逸脱させない人たちであり、とてもありがたい存在、愛すべき隣人といえます。 教会内においてはどうでしょうか。そういう、人につまずきを与えるか否かというセンスを発揮できる人は、必要です。そのセンスは、このような事態における私たちの行動において、特に必要になります。教会の集まりもそのような次元で、開催の可否や開催方法の判断を迫られます。ヘブル人への手紙10章25節を前提としても、集まることが励ましにならないばかりか、つまずきを生んでは何にもなりません。 大前提として、私たちは信仰を働かせることが求められています。しかし、信仰を働かせるとは、無批判に何でもしてもいい、ということではありません。韓国教会をご覧ください。大型の教会はその多くが、今月の日曜礼拝の開催を見送り、インターネット中継によって家庭礼拝をするようにと促しています。あれほど、日曜礼拝をともに守ることにいのちを懸けていた韓国教会が、そのような決断をしたことは、戒律を守るがごとき宗教行為から自由なクリスチャンの姿の現れだったわけです。 うちの教会もどうすべきか、信徒のみなさまと連絡を取りつつ、本日の礼拝について、祈りつつ考えを巡らしておりましたが、結局のところ、開催し、参加は各自の判断にゆだねる、という結論になりました。それは、つまずきを及ぼすか否か、ということが、最も大きな判断の基準となりました。 もし、信徒たちすべてに出席を促したら促したで、つまずきのもとになるでしょうし、逆にもし、一切集会しないという方針を打ち出したとしても、それはそれでつまずきのもとになったにちがいありません。疫病という非常事態と、ともに集まり礼拝をささげるというその勧めを両方考えるとなると、それは頭の痛い問題です。なぜそれが頭の痛い問題となるかというと、何を選択するにしても、どこかでつまずきのもとが起こりうる、ということだからです。 コロナウイルスが、たとえばインフルエンザほどには正体がわかっていないことが、人々の不安に拍車をかけています。マスクどころか、トイレットペーパーやティッシュペーパーのような紙製品までが売り切れになる事態が、それを物語っています。こういう人たちに囲まれている私たちは、それでも私たちのことを絶対的に守ってくださる神さまに信頼するその信仰を、このときこそ増し加えていただく必要があるものですが、それは無防備であってもよい、ということではありません。 本日は月のはじめの日曜日ですが、主の晩さんは執り行いません。これは一見すると、「わたしを覚えてこれを行いなさい」というイエスさまのご命令に、不従順であるかのように見えるかもしれません。しかし、月のはじめに必ず執り行うというこの教会の取り決めは、いわばこの教会の「文化」であって、そのとおりに守り行うことこそがふさわしいという「聖書的な絶対の根拠」によるものではありません。キリストのからだなる教会には、それこそ韓国教会の大きな教会のように、日曜日の礼拝そのものに集まらないという選択さえも許されているわけで、その根拠が「神さまによって許されていると信じるか」にかかっているわけです。 韓国の大教会は何を恐れたのか、といいますと、感染源になってはならない、自分たちが感染源となることで、社会から糾弾されて証しにならないことをしてはならない、ということです。信仰によってこの疫病を乗り切れるだとか、まるで軍隊やむかしの体育会系のような精神論と信仰を履き違えたような判断をしなかったわけです。 ただし、日曜礼拝を含め、集まりを持つことそのものの可否ということは、ケース・バイ・ケースでしょう。礼拝に集う人数や密度、教会に行く場合の交通手段、教会の所在地やその地域の取り組みによっても、判断が異なります。茨城県はまだ、感染が確認された患者は現れていませんし、この教会のある茨城町の教育委員会も、学校の授業は今週金曜日まで行うことを発表しています。そういうことからもうちの教会は、本日は礼拝そのものの開催はするという判断となりました。 それでも、主の晩さんは執り行いません。仮にの話です。仮に、だれかが感染したとします。それはもしかすると、主の晩さんではなく、別の理由からだったとしましょう。実際、主の晩さんで感染するリスクは高くない、もしそれで感染者が教会に現れたとすれば別の理由でだろう、とおっしゃる牧師先生もおられます。 しかし、主の晩さんは自分で用意するものではない、口に入るものです。愛さんを用意しないならば、主の晩さんも用意すべきではないということになります。もし、それでも規則だからと、主の晩さんを行うならば、それを教会が提供するとは、このご時世に何事か、とお思いになる方は、もちろんいらっしゃるわけです。すでにいくつもの教会が、礼拝はささげても主の晩さんは当分の間執り行わない、という方針を打ち出しています。 それはおそらく、感染のリスクそのものよりも、信徒たちが不安な中でわざわざ主の晩さんを形式的に執り行うことに意味はない、ということを考えてのことだと思います。ほんの少しでも不安を覚える中で、果たして、主の晩さんの恵みを味わえるものでしょうか。 それでは、なぜ私たちは人をつまずかせてはいけないのか、「なぜ」を問いましょう。神さまのみこころははっきりしている、そのみこころに従えない人の方が悪い、つまずいたなどと、教会や牧師や信徒のせいにされても困る、そんな意見をなぜ言ってはいけないのでしょうか? これは、ローマ人への手紙14章、13節から23節をお読みしましょう。……特に注目すべきは、15節のみことばです。人とは何者でしょう? キリストが身代わりに死んでくださったほど、尊い存在です。それほどに尊い存在なのに、私たちはいとも簡単に、弱いなどといってさばいたり、罪に定めたりするのです。 主の兄弟ヤコブはその手紙、4章12節にて言います。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。私たちもまた、キリストが身代わりに死んでくださらなければならなかったほどの、あまりにひどい罪人でした。その立場を考えもせず、人をさばき、人をつまずかせて平気な、自己中心的な存在です。私たちはその、自分の罪に気づかせていただかなければなりません。 ともかくも、人はキリストが身代わりに死んでくださったほど尊い存在です。しかし、人のためにキリストが身代わりに死んでくださったということを、だれが伝えるのでしょうか? 教会とそこに連なるクリスチャンしか伝えられません。 それなのに、教会ならびにクリスチャンが、その救われているという特権意識にあぐらをかいて、平気で人をつまずかせているならば、しかもそんな自分を正当化するならば、それは世の中から糾弾されるどころではありません、キリストの贖いをむだにすることになります。神さまはそんな私たちのことをどうご覧になるでしょうか? どれほど恐ろしいことでしょうか。 つまずきが起こるのは避けられなくても、つまずきを起こす者はわざわいであるというイエスさまのみことばに、あらためて耳を傾けましょう。私たちは何をしても守られるという信仰を働かせるのはまことに結構なのですが、それがだれかのつまずきとなってはなりません。そうなってしまうならば、一見すると信仰から出ているように思える行動も、信仰から出ているとは言えなくなります。私たちのうちのだれかがこれ以上信仰を働かせられない、つまりはつまずいてしまっていることを放っておくならば、それは信仰によって進むべき教会という共同体のあり方として、とてもふさわしくないということになります。 このときこそ私たちは信仰を働かせる必要がありますが、その信仰は、ふさわしいかたちで働かせるべきものです。最後に、コリント人への手紙第一10章に戻り、31節のみことばをお読みしましょう。……何によって神の栄光が顕れるのでしょうか? 人々をつまずかせる行動が正当化されず、みなが平安の中でキリストに従うことを通してです。人をつまずかせない歩みを心がけ、神の栄光を豊かに現す、そのような教会形成に献身する私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。