ハガルの回復

聖書箇所;創世記16:1~16 メッセージ題目;ハガルの回復  今日の箇所は、ハガルという人物が主人公の役割をしています。今日は、ハガルという人物を中心に、私たちの持つべき信仰のあり方を学んでまいりたいと思います。  ハガルとはどのような人物だったのでしょうか? エジプト人の女性の奴隷でした。アブラムがエジプトに下ったとき、ファラオにサライを召し入れさせたことがきっかけになって、多くの財産とともに奴隷たちも手にすることができたのですが、ハガルはそのときにアブラム一家の手に渡った人物と推定されます。生まれつき奴隷の家系に生まれたうえ、エジプトを離れて、流浪の生活をするアブラムの一家と生活をともにしました。  ハガルは、サライのもとで身を低くして仕えていました。サライはハガルに対し、絶大な権限を持っていました。そんなサライはある日、このようなことを夫のアブラムに言いました。2節です。  ……サライのこのことばは、いろいろな意味で問題を含んでいました。まずサライは、アブラムに与えられた主のご計画、子どもを星のように生まれさせてくださるという約束を聞いていて、その約束を信じ受け入れてはいたようです。しかし、その約束がいかにしてかなうかということに対し、全能なる神さまがそのみわざにより事を行なってくださるということを信じ、忍耐することができませんでした。サライは、全能なる主のみこころよりも、事実、子どもが産めないでいるという現実のほうを大事に思いました。  そして、自分のしもべをアブラムに与えました。それは、主の約束されたとおりの子孫を残すためという大義名分がありましたが、ハガルはもちろん断ることができません。主人と奴隷という地位を利用して、人に対してふさわしくない行動をしたのでした。  そして何よりも、アブラムにやはりふさわしくない形での性的関係を持たせたことです。 たしかに、自分の女奴隷に主人の子どもを産ませれば、それは主人の子どもとして認知させることになりますし、妻としても生まれた子どもを自分の子どもともすることができます。のちにヤコブもそのようにして子どもをもうけたケースが聖書に記録されており、この時代にはしばしば見られた風習だったようです。しかしそれでも、アブラムに与えたのは、明らかに子どもをもうけられそうな、若くて健康な女性です。サライの心中は穏やかではなかったはずです。  こういうことが起こる背景には、神さまから与えられたビジョンというものを信仰によって受け取る以前に、人間的な意識で受け止め、人間的なプロセスでかなえようという誘惑にさらされる、プレッシャーが存在したであろうことが推測されます。アブラムは神さまの臨在にふれ、いよいよ子孫が生まれることが明らかになった。しかしそうなると、サライがこの年齢になって子どもが産めていないという現実とのせめぎ合いになります。そうなると、神さまのビジョンをかなえるために、人間的な方法に頼るという、あってはならないことが起こるようになります。  ここに、私たち人間に知恵が要求されます。私たちはいかにして、神さまのビジョンがかなうように用いていただくのでしょうか? そのために必要なことは、「神さまの時を待つ」ことです。もし、教会やその指導者に与えられたというビジョンがほんとうに神さまのみこころにかなうものであるならば、神さまは必ず、そのビジョンをかなえてくださいます。しかし、そのビジョンはみこころだから必ずかなわなければいけないとばかりに、教会を人間的に努力させるならば、必ず破綻します。  ともかく、サライはこのように、神さまのビジョンがかなうために現実的な方法を選択してしまいましたが、それはアブラムも同じでした。アブラムがほんとうに信仰を貫徹させたならば、サライの申し出を断ることもできたはずです。しかしアブラムは、サライの言うなりになってしまいました。  ここで、ハガルの気持ちを考えてみましょう。ハガルにとってサライは、どこまでも服従すべき存在でした。それは奴隷という立場にあるからです。しかしハガルはみごもりました。これはどういうことを意味しているでしょうか? ハガルがサライになり代わり、アブラムの跡継ぎを産む、つまりは星のごとく増やされる約束の子どもたちの母となることを意味していました。少なくとも、この時点ではそう思われていました。  しかし、ハガルがそのような立場になれたのは、第一に、本来はその立場になかったのに、アブラムが召し入れてくれたため、そして第二に、そうなるようにサライがアブラムに召し入れさせてくれたためでした。それなのにハガルは、主人サライを軽く見るようになりました。もう、主人として接さなくなったということです。もしかするとハガルはサライに対し、アブラムの跡継ぎをみごもった以上、あなたではなく私こそが正妻であるというような態度さえ示したかもしれません。  耐えられなくなったのはサライです。それはそうでしょう。このようなことになったのは、もとはと言えば自分がけしかけたことに始まるからです。しかし、サライはこのようなことを言いました。5節です。……サライは、自分がこのように悲惨になったことを、アブラムのせいにしました。実際、新改訳聖書の以前の訳では、「あなたのせいです」と訳しています。まるで、アブラムがハガルをみごもらせたことが、本来アブラムの正妻として保障されるべき自分の立場を脅かしたかのように、サライは抗議しています。サライはまた、主が私とあなたの間をおさばきくださいますように、と言っていますが、これは一見すると主のご主権に委ねているようでも、実際には、怒りに駆られて発したことばです。神さまの御目から見ても、私は間違っていない、間違っているのはあなただ、と言っているわけです。  しかしアブラムは、ここでサライのことばに折れました。それは、アブラムにとって正妻なのは、ハガルではなくサライなのだということを、はっきりさせるためでした。それでサライは、ハガルを苦しめたとあります。これは、アブラムの権威の後ろ盾があった上での、サライによるパワー・ハラスメントです。  ハガルはこのとき、あらためて自分の立場が正妻ではなく、しもべの立場であることを思い知ったことでしょう。しかし、サライのパワハラは苛烈を極めました。ハガルはついにアブラムのもとを逃げ出しました。  しかし、ここで私たちは、このような状況の中でもなお逆転のみわざを行なってくださる、神さまのみこころにこそ目を留める必要があります。主の使いがハガルに現れ、声をかけました。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」ハガルは、どこから来たと答えましたか。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」サライはここで、自分にとって主人はやはりサライであることを告白しています。本来ならば自分はサライのもとにいるべきだが、訳(わけ)あってサライのもとから逃げ出さなければならなかったということもまた告白しています。  そんなハガルは、どこへ行くかと問われて、何と答えようとしたのでしょうか。その問いに「私の女主人サライのもとから逃げた」と語ったのは、やはり自分の行くべき場所は、サライのもとであることを、心のどこかでわかっていたからではないでしょうか。ハガルのその答えに、主の使いは語りかけました。9節です。……そのように、本来いるべき場所で身を低くして生きることにより、主への従順を実践しなさい、ということでした。  もしかすると、こんにちの人権という観点を一方的に適用すると、主の使いの語ったこのことばは、理不尽に思えるかもしれません。奴隷として身を低くして生きることを、神さまのみこころとして聖書は推奨しているのか! ですとか。しかし、そうではないのです。まず、ハガルは守られる必要がありました。それは同時に、ハガルの胎内にいるアブラムの子どもが守られるということでもありました。荒野に妊婦がひとりいるということは、どれほど大変なことでしょうか。そして、もしその過酷な状況のせいで流産でもしたら、その責任をアブラムも、サライも負うことになります。しかし神さまはそういうことのないように、ハガルをいちばん安全な場所、アブラムのもとに遣わされました。そのことによりアブラムの子どももまた守られることになりました。 そして、ハガルをみごもらせてくださった神さまには、失敗というものはありません。11節、12節をお読みしましょう。……イシュマエル、という名前は、神は聞く、という意味です。神さまは人間の意識や感情と関係なく、一方的にお語りになったり、みわざを行われたり、というお方ではありません。現実に苦しんでいる人、つらい思いをしている人のその嘆き、うめきを聞いてくださり、ふさわしくみわざを行なってくださるお方です。たしかに、ハガルとイシュマエルから生まれた子どもたちは、神の民として選ばれるというその約束を、受け取れない民であったかもしれません。 しかし、神さまはこのイシュマエルの子孫も数えきれないほど増し加えると約束してくださいました。神さまはこのようにして、アブラムの不信仰と不従順ゆえの失敗さえも益にしてくださいました。ハガルは、主の使いのこの語りかけに、力を得ました。13節をご覧ください。ハガルは神さまに向かって、あなたさまはエル・ロイです、ご覧になる神さまでいらっしゃいます、と呼びかけています。イシュマエルという名前をつけることで、主は聞かれると告白し、さらにエル・ロイと呼びかけることで、主はご覧になると告白する、ハガルはなんと、このような逆境の中にあって、祈りを聴かれ、自分の全存在をご覧になってくださる神さまを体験したのでした。それがどれほど彼女の人生に大きな影響を及ぼす体験だったかは、その出会いを体験した井戸に「べエル・ラハイ・ロイ」、生きて私を見てくださる方の井戸、と名づけたことからも明らかです。 これで、ハガルは恐れることはなくなりました。このようにお交わりを持ってくださった神さまのみこころが、サライのもとに戻って仕えることであると受け取ったハガルは、サライとアブラムのもとに戻りました。そして、ハガルは男の子を産み、アブラムはその子に、神さまがハガルに示されたとおりの名前、イシュマエルと名づけました。この時すでにアブラムは86歳、充分に奇蹟といえる出産でした。 ハガルは、主のビジョンを人間的な方法で実現させようとした人たちの中にあって、犠牲の羊のような役割を強いられた女性でした。人間的に見れば少なくともそうです。アブラムにとっては奇蹟のようだった、男の子を宿すという特権を得たにもかかわらず、妻として振る舞うことが一切許されず、挙句の果てに荒野へと逃げだすという……しかしハガルは、神さまが祈りを聞いてくださるお方であることを体験しました。神さまが自分の全存在を見てくださるお方であることを体験しました。何よりも、神さまご自身を体験しました。強い権力に任せて、「主がおさばきになりますように」と口走ったようなサライよりも、よほどよく神さまを体験していたのでした。 私たちは、祈りが聞かれていると信じていますでしょうか? 神さまが自分のことを見てくださっている、顧みてくださっていると信じていますでしょうか? そのような信仰は、もしかすると、生活が安定しているときにはなかなか生まれてこないものかもしれません。あるいは、仮に自分がよくない状況に陥っていたとして、それを神さまや周りのせいにしていたら、なかなか信じられないかもしれません。しかし、そのような私たちのことを、なお神さまは見つめてくださっていますし、私たちの祈りを待っていらっしゃいます。 一方で私たちは、祈りがかなえていただくまで、忍耐して待つことも時には必要になるでしょう。自分にはビジョンが与えられていると思っていても、そのビジョンがかなうことがほんとうに神さまのみこころであることを教会のみなが信仰によって受け止めるまで、時にはそれ相応の時間がかかることも有り得ます。 私たちは失敗もします。その失敗のせいで、私たちこそが、傷を受けた人となることも有り得ます。そのようなとき、私たちは神さまから逃げ出したくなるかもしれません。しかし、そのような私たちの祈りを聴いてくださり、私たちの全存在に目を留めてくださる神さまを、そのときこそ体験し、神さまとの交わりをそのような危機的な状況にあるときこそ結び直す私たちとなるように、祈ってまいりたいと思います。

主が結ばれた契約

聖書箇所;創世記15:1~21 メッセージ題目;主が結ばれた契約  信仰は私たちの目から見れば、からし種のように、あるかないかわからないほど小さなものかもしれません。けれども神さまの御目には、大きく育てようとのみこころが注がれているものです。私たちは自分の小ささではなく、神さまのみこころにこそ目を留めてまいりたいものです。   さて、今年に入ってから私たちは、アブラム、アブラハムをモデルにして、信仰というものについて学んでいます。信仰によって歩むことを志す私たちにとって、アブラハムは素晴らしいモデルです。本日の箇所は特に、神さまがアブラムと契約を結ばれるという、だいじな内容を扱っています。ともに見てまいりたいと思います。 アブラムは、戦争を通してロトを助け出したそのできごとのあと、神さまの御声を聞きます。――アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。―― アブラムは、御声を聞く人でした。それは神さまが特別にアブラムをお選びになり、使命を与えられた証拠でもあります。この地上に普通に生きている人は、創造主の御声を聞かなかろうと、普通に生きています。しかし神の人、信仰の人は、御声によって生きるべく召されています。これが世の人とのちがいです。 しかし、2節をご覧ください。……アブラムはみことばに唯々諾々と従ってはいませんでした。現実がありました。もう、子どもをもうけることもできないほど高齢になった。そればかりか、自分自身がもう死にそうになっている。それでも神さまが跡継ぎを備えていらっしゃるというならば、それは子どもではない以上、家のしもべであるにちがいない。跡継ぎとなるのは、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか、と、神さまに問うています。 しかし神さまはアブラムに、みことばをもって正確な導きをくださいました。4節です。……神さまのみこころはあくまで、アブラムから生まれる者が跡を継ぐ、ということです。より正確に言えば、アブラムがその妻であるサライとの間に男の子をもうけ、その子が跡を継ぐ、ということです。 しかしもう、ここまでになると、人間業ではどこまでも不可能です。アブラムはもう、子どもをもうけるどころか、死にそうな年齢になっていますし、サラももともと不妊の体質だったところに持ってきて、年齢まで行ってしまっています。さらに、もし万が一それで妊娠ができたとして、生まれてくる子どもが子孫をなせる男の子だということは、もはや神さまのご介入なしには決して可能なことではありません。 主はアブラムに、そのようなことをも信じ受け入れよと迫られ、さらにアブラムを天幕の外、いちめん星の埋めつくす夜空の下にアブラムを連れ出されました。5節です。……私は以前神学生のとき、奉仕教会だったサラン教会において、ホン・ジョンギ先生という副牧師の先生のもとで弟子訓練を受けておりました。そのコースの中でホン先生は、アブラハムの歩みについて、一言で総括していらっしゃり、それを折にふれておっしゃっていたものでした。それは、「アブラハムの歩みは、神さまに説得される歩みだった」ということです。 全能の創造主であるわたしがあなたを選んだのだよ。わたしにはできないことは何もないことを、信じてみなさい。この満天の星を創造したわたしに、できないことがあると思うか? このわたしがあなたを選び、あなたから、わたしの民族を生まれさせるのだよ――。 みなさんは、夜空を埋めつくす星をご覧になったことがあると思います。あれを見ていると、被造物である私たちのちっぽけさ、それでもそのようなものに特別に目を留めてくださっている神さまの偉大さを思うものです。星のひとつひとつよりもはるかに値打ちのあるひとりひとりを、この私を通して生まれさせてくださるのか……! 圧倒される思いだったことでしょう。 そしてついに、6節です。アブラムは主を信じました。そしてご覧ください。このように、主のみことばをみこころを信じ受け入れたことを、神さまは義としてくださったのです。すなわち、みこころにかなった正しいことと認めてくださったのです。私たちが神さまによって正しい者、みこころにかなった者と認めていただくのは、ただ信仰によることです。神さまへの献身とか、従順とかいったことは行いの領域であり、これらはすべて「信仰」のあとについてくることです。 アブラムもこのようにして、信仰をもって神さまの自分に対するみこころを受け入れました。けれどものちの日に、その信仰を働かせないで、妻のサライではなくハガルとの間にイシュマエルをもうけるという不従順へと走り、その結果たいへんに苦しむことになりました。しかし、それだからといって、神さまはアブラムのことを不信仰だとさばき、祝福の源としての権限を取り上げられたのでしょうか? 決してそんなことはありません。アブラムの側が不信仰、そして不従順に陥ろうとも、ひとたび神さまを信じたアブラムを、神さまは決してお忘れにならず、またお見捨てにならなかったのでした。 私たちにしてもそうです。不信仰、不従順になるときはあります。自分でもよくないとわかっていながら、そうなってしまうことのなんと多いものでしょう。しかしここは、神さまがそのような私たちの信仰を認めてくださり、それゆえに正しい者と認めてくださる、神さまのその真実さにこそ目を留めるべきではないでしょうか。私たちは不確かでも、神さまの真実は変わることがありません。 神さまはそのようにして、アブラムを義と認めてくださいました。そして神さまはアブラムに、何と語ってくださいましたでしょうか? 7節です。神さまはご自身のことを、なんと紹介していらっしゃいますでしょうか? アブラムを召したお方、アブラムを導かれたお方、そして、アブラムに約束の地を与えてくださるお方として、ご自身のことを紹介していらっしゃいます。神さまとは、そういうお方なのです。 しかしアブラムは、神さまご自身がそのように示してくださっても、なお充分に信じることができませんでした。8節です。アブラムは確かにみことばを信じてはいましたが、盲信するように、無批判に思考停止していたわけではありませんでした。まだこの時点で疑問がありました。しかし、充分に信じられなければ、何度でも神さまにお伺いしました。この姿勢はとても大事です。 さて、アブラムがそのように食い下がると、神さまはまたもアブラムを目に見える形で説得されました。9節です。家畜は真っ二つに切り裂かれました。契約が結ばれるために生けるものの血が流されたのです。神さまと御民の間に、いのちが仲立ちとなりました。また、このようにして真っ二つにいのちあるものが切り裂かれるということは、この契約を守らなかったならば、守らなかった者は真っ二つにされるという意味が込められています。神さまはご自身の真実さにかけて、このようにアブラム、そしてのちの子孫と契約を結ばれたのでした。アブラムにしても、このような形で神さまと契約を交わすことには、相当な覚悟が必要だったことでしょう。 しかし、天からの炎はまだ降りてきません。アブラムはその炎を今か今かと待ち望んでいました。しかし、そのとき降りてきたのは天からの炎ではなく、肉食の猛禽でした。神さまにささげるべきいけにえを狙って降りてくるわけです。アブラムは果敢に体を張って追い払いました。信仰の人のこの姿勢は、私たちも見習うべきでしょう。この世には、神さまに対して私たちがおささげするものを、当然のように狙う勢力が一定数存在します。私たちが献金としてとっておこうとするお金や、礼拝のために用いようとする時間を、当然のように奪い取ろうとする勢力、礼拝よりもこの世のことを優先させようと私たちに迫ってくる勢力……私たちがこのような勢力に勝つのは容易なことではありませんが、少なくともアブラムの、恐ろしい猛禽から必死に契約のいけにえを守る姿を思い、私たちも神さまの救いの恵みに少しでもお応えする者として、できるかぎりのことができるように、祈ってまいりたいものです。 しかし、心は燃えていても肉体は弱いものです。日が沈むにしたがって、とうとうアブラムは眠くなりました。そのとき、彼には大いなる暗闇の恐怖が襲いかかり、主の御声を聞きました。13節から16節です。 ……なんと、はるかあとの時代の預言が臨みました。イスラエルの民がはるかの地にエジプトの地で400年にわたって寄留者となり、奴隷として苦しむ。それはなんと受け入れがたい未来予測でしょうか。「しかし」、このことばが大事です、主がこの国エジプトをさばき、イスラエルに出エジプトを果たせられる、のちの日にはその民がこの地カナンに戻ってくる……このことも同時に語られました。 私たちはここで、神さまは愛する民に苦難を与えられる、そしてあえて沈黙を守られるお方である、ということを学ばせられます。神さまはもちろん、御自身の愛する民に祝福を与えられるお方ですが、その祝福はときに、人間の側で思い描いているような祝福と異なる場合があります。気持ちよさや平安、かっこよさといったものと対極な、できれば避けたいようなことが、神さまのお許しの中で行われることがあると、私たちは心に留める必要があります。 しかし、そのような厳しい思いを私たちにさせられようとも、神さまは変わらず、愛なるお方です。私たちがつらい思いをしていれば、その状況を許しておられる神さまは愛がないなどと、そんなことを考えてはなりません。ただ、そのような状況で神さまの愛を見いだすのは、とても難しいことです。苦しいことです。しかしそのことによって、人は自分の弱さを認め、神さまに拠り頼むようになり、世的な祝福に左右されない強靭な信仰を持つようになるのではないでしょうか。そうだとすると、これこそ祝福というべきです。 それでもその祝福に気づかせていただくまで、多くの苦しみを体験しますし、もしかしたらたくさんの涙を流すかもしれません。そんな私たちであると知るならば、ほかの兄弟姉妹に寄り添ってもらうことも必要になりますし、また、ほかの兄弟姉妹に寄り添えるように成長させてもらえるでしょう。こうして、私たちはキリストの愛をその身に備える者とならせていただくのです。 アブラムは、子孫の受ける苦難を見ました。しかしその末に、子孫が大きな祝福を受けるのを見ました。その苦難の長さが400年ということは、人の一生よりはるかに長いですし、何代にもわたって苦難を体験するということも意味します。私たちももしかすると、この世では信仰のために犠牲にした分の気持ちよさなど、満足のいく形で体験できないかもしれません。しかし、私たちのほんとうの満足は、この世の終わりのあとで用意されている天国にて永遠に味わうものです。この世においてはその永遠に備えて、種蒔きに労するのみであるかもしれませんが、神さまの待っておられる未来を思うならば、その労苦はきっと報われるという信仰が生まれ、日々の歩みに力を得られるのではないでしょうか。 そしてすっかり暗くなったとき、神さまがアブラムと契約を結ばれたしるしとして、煙の立つかまどと、燃えるたいまつが、切り裂かれたいけにえの間に通り過ぎました。神さまの臨在が火をもって現れることは旧新約問わず聖書によく登場しますが、ここでも神さまは火をもって臨在されたのでした。そして神さまはアブラムと、目下10の部族の住む広大な地を子孫に与えられることを約束してくださいました。 信仰というものは、人間的な積極的思考と似ているようで、その内容は大きく異なります。最大のちがいは、信仰によって実現することを願う神さまのみこころは、しばしば人間的な祝福、繁栄であったり、安楽であったり、そういったものがかなうこととはかぎらない、ということです。しかし、私たちはそれでがっかりする必要はありません。アブラムがこの地上で神さまの臨在にふれる、至上の祝福を手にすることができたように、私たちはみことばをお読みすることで、そしてイエスさまの御名によってお祈りすることで、神さまが私たちに与えてくださっているそのみこころを知ることができる、そういう者としていただいた祝福をいただいています。 この世のいかなる祝福や成功も色あせるほどの祝福です。この世の成功者のいったいどれだけの人が、そのまことの創造主である神さまと交わることができているでしょうか? その手にしている富が神さまからの祝福であることを受け止め、神さまに感謝の祈りをささげているでしょうか? しかるに私たちはそれができているということは、これはアブラハムにも匹敵する大いなる祝福です。 私たちは不信仰に陥ることもあるかもしれません。私たちは厳しい体験をするかもしれません。しかしそのようなとき、いけにえを切り裂いて血を流すように、イエスさまを十字架につけてくださり、十字架の上で血潮を流すことによって私たちと永遠の契約を結んでくださった、神さまのみこころ、私たちを神の民としてくださった事実に目を留める者となりたいものです。

「神への従順」対「世への従順

聖書箇所;創世記14:1~24 メッセージ題目;「神への従順」対「世への従順」  私が韓国で神学の勉強を始めるまでの間、献金というものについてそれほどちゃんとした考えを持っていませんでした。そのような中、神学校の寄宿舎で同じ部屋になった関西出身の方と、ある日話題がたまたま献金のことになったとき、その方が「什一献金はささげなあかんもんや。什一献金は、いのちや」とおっしゃったことに、びくっ、としたものでした。それ以来、どの韓国教会においても普通に行なっている「什一献金」というものを、自分も実践することにしたのでした。  みなさんは以前から、月定献金という形で収入の一部を定期的にささげることを実践してこられたわけですから、今日のメッセージは献金の奨励として行うわけではありません。今日のメッセージのタイトルは、「『神への従順』対『世への従順』」とつけさせていただきました。アブラムにとっての神との関係、そしてそれに対照的な世との関係がいかなるものであったかを見ることにより、私たちの働かせるべき信仰のあり方を考えてまいりたいと思います。  先々週も学びましたとおり、ロトは一見すると得をする選択をして、ヨルダンの低地、ソドムへと引っ越しました。しかし聖書の評価に従うと、ソドムの人々は邪悪で、主に対してはなはだしく罪深い者たちであった、ということでした。ソドムは、都市そのものがひとつの王国をなすものであり、その都市全体、国全体が極めてひどい状態にあったというわけです。それゆえ神さまは、このソドムをことごとく、天の火をもって滅ぼされました。  このソドムの王ベラはもともと、エラムという国のケドルラオメル王に仕えていました。ケドルラオメルは勢力があり、ソドムの王のほかにも、やはり天の火によって滅ぼされたゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王を12年にわたって支配下に置いていました。しかし彼らは翌年、ケドルラオメル王に謀反を起こし、その支配から脱することを企てました。  これに対しケドルラオメル王は、シンアル(シュメール)、エラサル、ゴイムのそれぞれの王と連合軍を組織し、彼ら5人の王の連合軍との戦争を始めました。この連合軍は彼らと戦闘を繰り広げることになる戦場に至るまで、レファイム人、ズジム人、エミム人、フリ人、アマレク人、アモリ人と、片っ端から諸民族を打ち破りながら進んできました。非常に強い軍隊だったことが窺い知れます。  そして、シディムの谷で戦争が繰り広げられたとき、ケドルラオメルの軍のほうが優勢になり、ソドムの王とゴモラの王はアスファルトの穴に落ちて出られなくなりました。その間にケドルラオメルの連合軍は、ソドムとゴモラから財産や食料を略奪しました。それだけではありません。ソドムにはロトが住んでいましたが、ロトは拉致され、その豊かな財産もろとも奪われました。自分のために豊かな土地を選んだ近視眼的な選択が、このような悲惨な結果を生んでしまったのでした。  さて、この知らせはアブラムに届きました。アブラムはかつて、配下の者たちがロトの群れと争いを起こしたことに対し、それはよくないので別々の道を行こうと提案したわけで、もはやロトとともに歩まず、カナンの地を切り開く立場にありました。そんなアブラムは、甥の窮乏を見ても黙っていられたでしょうか? そんなことはなかったのです。あの愚かな選択の責任をロトに取らせて自分は知らん顔とはならず、自分のところで育てた318人の屈強な者たちを伴って、ケドルラオメルの連合軍に戦いを挑んだのでした。  これは、私たちのモデルと言うことができるでしょう。私たちの信仰生活というものは、自分だけが祝福されて終わり、というものであってはならないはずです。兄弟姉妹の窮乏を見て、私たちは心が動かないでいるでしょうか? ヤコブの手紙2章14節から17節には、このようなことばがあります。――私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。  私たちはもちろん、よい行いを積み重ねることで天国行きの切符を手にするわけではありません。そんなことは不可能なことです。しかしそれなら、よい行いは必要ないかというと、決してそんなことはありません。私たちは「救われるために」よい行いをするのではなく、「救われているから」よい行いをするのです。この違いは、ご理解いただけると思います。私たちのことを救ってくださったイエスさまのそのみこころに従おうと、少しでも隣人、兄弟に愛を施そうとなってしかるべきではないでしょうか? もちろん、なかなか難しいことではありますが、ここはひとつ、ロトのために一肌脱いだアブラムを模範としてまいりたいと思います。  結局、アブラムはケドルラオメルの連合軍を打ち破りました。そして拉致されていたロトをはじめ、奪われた人々や財産を取り戻しました。しかし、この戦争は侵略のための戦争ではありません。ロトを救いたい、ただそれが強い動機となって行なったものでした。ロトのたましいが救われるために、多くの血が流されたのでした。  ロトの姿を考えてみましょう。これはもしかすると、私たちの姿ではなかったでしょうか? 私たちは神さまのみこころを知りながら、それに知らんふりをして自分勝手な道を行きます。そのために迷います。わざわいにも遭います。損害も被ります。しかし、そのような私たちであることを主はすべてご存知で、そんな私たちであっても決して見捨てず、助けてくださいます。あの自分勝手なロトが救われるために多くの血が流されたように、私たちが救われるために、なによりも尊い、イエスさまの血潮が流されたのです。このことを私たちはどれほど感謝しているでしょうか? 感謝することにも鈍感なのが私たちです。しかし、それにもかかわらず、主はなおも私たちを愛してくださいます。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりとし、国民をあなたのいのちの代わりとする。……イザヤ書43章4節のみことばにあるとおりです。私たちはどれほど愛されているか? 神の子なるイエスさまのいのちが代わりとなるほどです。この罪人をそれほどまでに愛してくださった神さまの愛を思う者となりたいものです。  さて、今日特にお話ししたい内容は、ここからです。アブラハムが戦争という一大イベントを終えてから、「神との関係」また「世との関係」をいかに持ったか、ともに見ることによって、私たちはどのように信仰を働かせる必要があるかを見てみたいと思います。  戦争を終えたアブラムを、2人の王が出迎えました。ひとりはソドムの王ベラです。彼は戦いの中で戦場に点在するアスファルトの穴に落ち込み、その間に人々や財産が敵に奪われるという踏んだり蹴ったりの状態に陥りましたが、そこから救われ、自分のいのちも助かり、財産も回復しました。そんな彼がアブラハムにどんな態度を取ったかは、のちほど見てみましょう。  もうひとりはサレムの王メルキゼデクです。メルキゼデクはパンとぶどう酒でアブラムを迎え、アブラムはすべてのものの十分の一を彼に与えました。アブラムがこのようにメルキゼデクに祝福され、アブラムがメルキゼデクに十分の一を与えたことは、聖書を貫くメシアなるイエスさまの到来を語るメッセージに鑑みると、きわめて重要な意味を持っています。このメルキゼデクについては聖書は多くを語りませんが、その存在は詩篇110篇、そしてヘブル人への手紙の5章と7章に語られています。 詩篇110篇は、ダビデ王に向けた主のみこころを語る詩です。その中の4節のみことばに、このようにあります。――主は誓われた。思い直されることはない。「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」つまり、ダビデが王であるのと同時に祭司であることを、神さまご自身が変わらない誓いをもって定められたということです。 この事実は、ダビデの子孫としてこの地にイエスさまが来られたことによって成就しました。ヘブル人への手紙7章は、この詩篇110篇4節のみことばがイエスさまにおいて成就したことを語っています。おうちに帰ったら、ぜひヘブル人への手紙7章をお読みいただけたらと思いますが、このみことばをお読みすると、律法によって立てられた祭司よりも、朽ちることのないいのちの力によって立てられた祭司が優先することが語られています。 律法において祭司としてレビ族が立てられるはるか以前、そのレビの先祖にあたるアブラム、アブラハムが、信仰をもってメルキゼデクを祭司として認め、その信仰告白として十分の一を与えている以上、レビ族を祭司として立てた律法を守り行うことによって人は義と認められるのではなく、アブラハムの信仰に倣い、人は信仰によって義と認められることが明らかになっているわけです。そのようなことを踏まえると、アブラムがメルキゼデクに十分の一を与えたことは、信仰によって義と認められるという観点からも、きわめて重要なことであると言えます。 そうです。十分の一はそういうわけで、信仰によって義と認められたことと深い関係があります。どことは申しませんが、牧師の権限の強い教会では、十分の一献金をささげなければ地獄に落ちるかのようにおどかす教会もあったようですが、それは非常に問題があります。それでは、天国とは信仰によって入る場所ではなく、お金で買う場所であると言っているのと同じことです。十分の一をささげることは信仰の告白以上のものであってはなりません。多く献金するのは結構なことなのでしょうが、それは絶対に誇りとすべきことではありません。私たちの誇りとすべきはキリストの十字架のみです。 メルキゼデクがキリストの予表であったことはヘブル書7章も証ししているとおりですが、この創世記14章をお読みしても、いろいろわかります。メルキゼデクという名前は「私の王は義である」または「義は私の王である」という意味で、すなわち「義の王」となります。義の王とはまさしくイエスさまのことです。また、彼はサレムの王でしたが、サレムとは平和という意味で、平和の君なるイエスさまの予表です。そしてサレムとは、のちのエルサレムと推測され、イスラエル建国以前のエルサレムにおいてすでに王であった、ダビデに優先する存在であったことがわかります。イエスさまはメルキゼデクに言及された同じ詩篇110篇の1節を解き明かされ、ダビデがキリストを主と呼んでいるならば、どうしてキリストがダビデの子孫なのか、と語られましたが、メルキゼデクとはダビデのすえにして先在する祭司なる王であったことを考えると、これもキリストの予表と言えます。 何よりも、メルキゼデクはアブラムのことを、パンとぶどう酒で迎えました。イエスさまが定められた主の晩さんへとつながる形で祝福しています。まさしく、アブラハムを父とするすべての主の民は、イエスさまのみからだなるパンと、血潮なるぶどう酒で、まことのいのちの祝福をいただきます。私たちはこれこそ祝福であることを、信仰によって受け取らせていただくのです。 こうして見るとアブラムは、メルキゼデクにはるかキリストを仰ぎ見ていたことがわかります。アブラムは信仰の父と唱えられますが、単なる信仰ではありません。イエス・キリストへの信仰を持っていたのです。いわんや私たちは、聖書によってはっきり、信仰の対象がイエス・キリストであることが明らかになっているわけですから、どれほどイエスさまから目を離さずに生きていく必要があることでしょうか。 パンとぶどう酒にあずかること、ささげものをすること、どちらも信仰告白です。やることで神さまに認められようとする宗教行為では決してありません。神さまはもうすでに、救いというかたちで、私たちにしてくださいました。あとはそれに対し、私たちが応答するかどうかにかかっています。パンとぶどう酒を受け取るのも、おささげするのも、私たちの信仰の応答として行うことです。 さて、これに対するソドムのベラ王の態度をご覧ください。ベラはアブラムにこんなことを言っています。21節を見てみましょう。……一見するとベラはもっともなことを言っているようです。まるで戦勝をもたらしてくれたアブラムに感謝するしるしとして、こう言っているように見えないでしょうか? しかしアブラムは、きわめてよこしまなソドムを代表するこの人物の心を見透かしていました。神さまに誓って、このベラからは何ももらうまい。 アブラムはその理由として、こう語っています。――それは、「アブラムを富ませたのは、この私だ」とあなたが言わないようにするためだ。もちろん、戦争に必要な兵士の糧食の分、アブラムの一族ではないが行動をともにしてくれたアネル、エシュコル、マムレの分は、アブラムは正当に要求しました。しかし、自分の財産としては、ソドムからは何一つ要求しない潔癖さを貫きました。 もし、ソドムの王に「アブラムを富ませたのはこの私だ」と言わせたとしたら、どうなるでしょうか。アブラムとアブラムにつく者、すなわち神の民の守護者が、ソドムということになります。神さまではないのです。あの忌まわしいソドムが、神の民の守護者となる。こんなことはあってはならないことです。アブラムはそういう点からも、とても賢明な選択をしました。 私たちのことを考えてみたいと思います。私たちにとっての守護者はだれでしょうか? あるいは、何でしょうか? もし、何者かが、私たちのことを神さまに従わせないことを当然のことと見なし、私たちのことを支配しているならば、私たちはそこから脱し、ただ神さまにだけ従えるように祈っていく必要があります。 私たちがもし、この世と調子を合わせて生きたとして、この世は私たちに感謝するでしょうか? 私たちが譲歩したからと、今度は自分たちが譲歩して、教会に来てくれたり、イエスさまを信じてくれたりするでしょうか? そもそもこの世というものは、私たちが厚かましくないのをいいことに、私たちに対し、当然のようにどんどん支配を強めてきます。神に敵対する自分たちの行いを達成するために、私たちから神への従順を抜き取り、自分たちに従わせる、手足のように用いる、これが私たちの生きている世の中というものです。 しかし、私たちが世の中に屈従して不自由に生きることは、果たして世というものの責任なのでしょうか? ローマ人への手紙12章2節をおひらきください。これはみなさんでお読みしましょう。 ……神さまに変えていただくこと、これは世に調子を合わせずに生きることが要求されている私たちへの「命令」です。私たちはですから、みことばをお読みすることでみこころを学び、お祈りすることで聖霊さまに人生に介入していただくことが必要になります。世に調子を合わせないのは、神さまとの関係にあって、私たちの責任です。 私たちがキリストの似姿として変えていただくこと、そのことで私たちは世に勝利できます。世への従順は神への従順へと変えられていきます。神への従順の歩みをともにする者たちへと、私たちは変えられてまいりましょう。私たちにとってはだれが事実上の主人でしょうか? ソドムが主人になることを拒否し、主にお従いしたアブラムの模範に倣いましょう。

赦しの確信はまことの礼拝へ

聖書箇所;ルカの福音書7:36~50 メッセージ題目;赦しの確信はまことの礼拝へ  世界の歴史には、光があるところに影があるものです。もちろん、あえて言うまでもないことですが、職業に貴賎なしというのは建前で、実際には、手を染めるべきではないと見なされる仕事というものが存在します。それが何であるかということは、具体的に私が申し上げるまでもなく、私たちは共通理解として持っていると思います。いろいろイメージできると思います。  イエスさまの周りにいた人には、そのような、悪い、と周りに認識されていた仕事に就いていた人が結構いたものでした。そもそも、最初にイエスさまを礼拝するために神さまに呼ばれたのは、野の羊飼いでした。天使の歌声を聞いた羊飼いなどというとロマンチックに聞こえますが、実際は、社会からのけ者にされて安息日を守ることもままならない者たちでした。ロマンチックとは程遠い、ならず者の集団、それが羊飼いです。しかしそんな彼らが最初にイエスさまを礼拝する栄誉にあずかったのでした。  今日お読みいただいた箇所でも、イエスさまのそばにやってきた人がどのような人か、はっきり記しています。世の中の人は、そのような人を罪人扱いして、それ相応の接し方をするかもしれません。しかし、イエスさまはどのように接していらっしゃったでしょうか? 今日の箇所からともに学び、私たちに向けられたイエスさまのみこころを、ともに見てまいりたいと思います。  ひとりのパリサイ人が、イエスさまを食事に招きました。このパリサイ人の名前はシモンといいました。パリサイ人といえば、宗教指導者として律法を文字どおり守ること、守らせることにいのちを懸けた人であり、ストレートに神さまのみこころを語るイエスさまに敵対し、排除しようという思いでいっぱいの存在でした。ただ、パリサイ人はみんながみんなそうだったというわけではなかったようで、たとえばパリサイ人のニコデモという人物は、夜中にイエスさまのところを訪問して、教えを乞うています。  このパリサイ人シモンも、聖書で断罪される意味での反キリストの象徴としてのパリサイ人、というのとはややちがったようでした。もしかするとシモンは、パリサイ人にとって宿敵ともいえるイエスさまを食事に招くようなことをして、度量の広さを見せようとしたのかもしれません。ともかくシモンは、イエスさまを食事に招きました。  時にその町には、罪深いことで名の知れた女性が暮らしていました。遊女、つまり売春婦でしょうか? それとも、多くの男をたぶらかす、妖婦、でしょうか? はたまた、男を毒牙にかけて破滅させる、毒婦、でしょうか? ユダヤの社会には存在してはならないことになっている、口寄せや占いをする人でしょうか? 聖書はそこまで、この名もなき女性について詳しくは語りません。 しかし、ただでさえ女性の地位が低かった時代にもってきて、罪深いことで名が知れていたとは、この女性は、社会からどれほど低められていたことでしょうか。  そんな彼女は、この町にイエスさまがやってこられたといううわさを聞きました。イエスさまが入っていかれた先は、宗教指導者シモンの家です。わが身を思うと、とても入っていけない……しかし、そこにイエスさまがおられると知るや、彼女は恥も外聞も捨ててシモンの家に入りました。  それも、彼女は何も持たずに入ったわけではありません。香油を携えました。芳香を放つ油です。この香油は、このような女性でも人並みの結婚を夢見て、嫁入り道具として大事にしまっておいていたものかもしれません。とにかく、とても高価なものです。聖書を読みますと、イエスさまが十字架にかかられる直前に、そのような高価な香油をイエスさまのみからだに注いだ女性の話が出てまいります。この女性は、けっして安いとはいえない香油の壺を携えて、イエスさまのもとにやってきたのでした。  果たして、シモンの家で食卓に着いておられるイエスさまの姿を見るや、彼女は泣き崩れました。とうとうイエスさまにお会いできた! その感激はどれほどのものでしょうか! むかし、宣教団体のスタッフをしていらっしゃる方のメッセージを聴いたとき、その方がこんなことをおっしゃったのがとても印象に残ったものですが、こんなことをおっしゃっていました。「毎日のディボーション……ある日、この毎日お会いするイエスさまというお方は、総理大臣より偉い、天皇陛下より偉いお方だと気づかされました。そこから、私のディボーションは変わりました。」私たちが心にお迎えし、毎日お目にかかるイエスさまというお方は、それほど偉大なお方なのです。礼拝の導入讃美でも歌いました、「主の御前に立ち 驚き仰ぎ見る」……この「驚く」ほどすばらしいお方という気持ちをもって、私たちはいつも主の御前に出ていますでしょうか?  この女性には少なくとも、その感覚がありました。さて、私たちが食卓というと、テーブルについて椅子に座って食事をする、という感じでしょう。あのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」も、そのように描かれているので、あたかも当時のユダヤではテーブルに椅子というスタイルだったように思えますが、あれは西洋的な創作です。イエスさまの伝記映画「ジーザス」を見てみますと、最後の晩さんでは、イエスさまと十二弟子が床の上に座って車座になっていますが、実はあれも正確ではないらしいです。当時のユダヤでは、床に横になって食事をしていた、というのが正解だそうです。実際、ヨハネの福音書を見てみますと、著者である使徒ヨハネがイエスさまの胸のところに寄りかかっていたという記述が出てきますが、それも彼らが横になって食事をしていたということを示しています。  この女性は、横になっておられたイエスさまの足もとに、後ろから近づきました。そして、涙を流してさめざめと泣きました。イエスさまの御足が彼女の涙でぬれたとありますが、彼女はイエスさまの御足を抱いて、その御足で涙にぬれた目をぬぐったのでしょうか。それとも、御足に顔がついてしまうほどにひれ伏したのでしょうか。 これほどまでにイエスさまの御足に近づいた彼女は、その御足に口づけしました。とても高価な香油の壺を割って、その香油をイエスさまの御足に塗りました。  彼女は、自分が何者かということを、世間から思い知らされながら生きていました。しかし、そんな彼女は、すべてをささげてもいいお方にはじめて出会うことができました。それはこの世的な男女の愛とはまったく次元の違う、神の愛により結びつく関係です。恥も外聞も捨てて御足を涙で濡らし、御足に口づけし、御足に自分にとって宝物である香油を塗る……私たちも、イエスさまを礼拝してはいるでしょう。しかし、もし目の前にイエスさまが現れたとして、ここまでの礼拝をすることができるでしょうか? できないとしたら、それはなぜなのでしょうか?  聖書を読み進めてまいりたいと思います。面白くないのはパリサイ人のシモンです。招いたのは自分ではないか。ところが、ここにやってきたこの女は何者だ。罪深いことで有名な女ではないか。その女のなすがままにさせているとは、イエスさまは何をお考えなのか。  私たちは、たとえば元暴力団員の宣教活動である「ミッション・バラバ」の話など、むかしいろいろと悪いことをしていたところからイエスさまを信じて救われたという人の証しを聞くのは好きでしょう。なにしろ面白いものです。しかし、そういう人が実際にそばにいて、一緒に礼拝をささげるとなると、私たちは大丈夫でしょうか? どんな過去があろうとも、イエスさまがその人を受け入れてくださっているから大丈夫、となれる方は幸いです。しかし人はときに、シモンのような反応を示してしまわないでしょうか? この人は罪人だ、の一点張りで拒絶するのです。  イエスさまは否定的な反応をするシモンに、必要な処方箋を施されました。イエスさまはたとえ話を語られました。41節と42節です。とても分かりやすい話です。1デナリが1日分の賃金だから、仮に1万円とすると、50万円と500万円のちがいになります。それは、500万円帳消しにしてもらった方が、50万円のほうよりも多く愛するに決まっています。早い話が、10倍愛します。  イエスさまは、当然の答えをしたシモンに対し、語られました。44節から47節です。  イエスさまはここで、何を問題にされたのでしょうか? イエスさまに対するシモンの態度です。特にこの聖書の記述では、シモンがパリサイ人であることをわざわざ断っているので、イエスさま、そして聖書は、パリサイ人という立場にある者全般の姿勢を問題になさっているとも言えます。  まず、シモンはイエスさまを迎えるにあたり、足を洗う水を出しませんでした。足を洗うのは、外から来た人を迎え入れるためにすべきことで、それは本来は奴隷の仕事でしたが、ともかく、シモンはイエスさまを家の中に招き入れた以上、イエスさまの足を洗ってさしあげてしかるべきでした。それをしなかったということは、イエスさまに対してその程度にしか接しなかった、ということです。口づけですが、これは現代日本のようなところにいるとなかなか理解できませんが、イエスさまの時代のユダヤでは親しさを表現する挨拶のしぐさでした。実際、聖書の中には口づけに関する描写があちこちに登場します。 しかし、相手の顔に実際に唇をつけるわけですから、相当親密な仲だからこそできる挨拶です。それだけに、アマサ将軍を暗殺するために口づけしようとしたヨアブや、兵士たちにイエスさまを逮捕させるために口づけを用いたイスカリオテのユダなどは、ほんとうに、してはならないことをした例であるわけです。しかしこれなどは、愛憎、ということばがあるように、憎しみや怒りの裏返しとしての口づけといえましょう。  それに比べるとこのシモンの場合は、口づけさえしなかったのです。彼はイエスさまのことを預言者と認めてはいたようですが、さしたる重要な関係を持つべき相手と思っていなかったと見受けられます。また、頭に油を塗るというのは、ユダヤのもてなしの習慣で、乾燥する気候の中を歩いて痛む髪の毛を潤してあげるという意味がありました。シモンがイエスさまにそれをしてあげなかったというのは、食事は振る舞ったかもしれなくても、ほんとうの意味でイエスさまをもてなそうとしていたのではなかったことを示しています。  つまりこのシモンの姿勢は、一見するとイエスさまに接しているようでも、実のところほんとうの意味で接しているわけではないわけです。この姿勢は、私たちにとっての反面教師とならないでしょうか? 形式的に礼拝すればそれでよしとする、形式的にお祈りすればそれでよしとする、形式的に献金すればそれでよしとする、形式的にディボーションや聖書通読すればそれでよしとする……そのような表面的なことで満足してしまうのが、私たちというものです。神々しいイエスさまを前にしているのだから、宗教的に振る舞えばそれでいいはずだ……私たちにとってのイエスさまとの交わりは、いつの間にかそのようなものになったりしてはいないでしょうか?  しかし、この女はちがいました。本来ならば水で洗いきよめるべきイエスさまの足は、シモンが洗ってくれなかったので、街道のほこりに汚れていました。それにもかかわらずこの女は、そのままのイエスさまの足に近づき、涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、口づけして、オリーブ油どころではない、はるかに高価な香油を塗りました。  イエスさまの足……それは神の国をこの世界に宣べ伝えるために、直接この地の上を歩き回られた御足です。神の国を私たちこの地の者たちに実現してくださるために、イエスさまは神であられたのにその栄光を捨て、人として世俗のちりにまみれて歩まれました。そしてこの御足をイエスさまは、十字架に釘づけにされて血潮を流され、人の罪を完全に赦してくださいました。  この女性はたしかに、罪深いわが身を思ってイエスさまの御足のもとにひれふしました。しかしイエスさまは彼女のしたその行為を、それ以上の本質的な意味を持つものとして評価してくださいました。それは、やがてご自身が十字架によって人を完全に罪から救ってくださるという、そのことを彼女がおぼえて心からの礼拝をささげていることであるということです。ゆえにイエスさまは彼女に宣言されたのでした。あなたは多く愛したのですから、多く赦されています。あなたの罪は赦されました。あなたの信仰があなたを救ったのです。  私たちはイエスさまを愛したい思いでいっぱいでしょう。それはクリスチャンであれば、だれしも同じであろうと思います。 しかし、イエスさまの御目から見れば、シモンとこの女性の愛に違いがあったように、人それぞれの愛にも違いがあることを認めるべきです。  その違いはどこから生まれるのでしょうか? まずそれは、自らをどこまで罪人と自覚しているかです。シモンはパリサイ人であり、厳格にみことばを守る自分を正しいとする人でしたから、自分の罪深さなどとても目が留まらない人でした。これに対してこの女性は、人からそう見られる以上に、自らの罪深さをよく悟っていました。彼女はそれでも、イエスさまを愛したい、イエスさまに赦していただきたい、その思いだけで、傍目から見れば過激にすら思える礼拝行為に踏み切ったのでした。そんな礼拝をすることなどは、パリサイ人シモンには及びもつかないことでした。  そしてイエスさまはこの女性に、「あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃって送り出されました。ここで問題にされているのは信仰です。過激な行為をしたことそのものでイエスさまが評価なさったのではありません。行為さえよければ、というのでは、律法を厳格に守り行うパリサイ人でもよいということになります。イエスさまが問題にされたのはどこまでも、彼女の信仰でした。  彼女には、イエスさまならこの罪深い私の罪を赦してくださる、という信仰がまずありました。そこからイエスさまへの愛に満ちた礼拝が生まれました。信仰が愛の行いを生んだのです。  愛の行いに直結しない信仰は、ほんとうの意味での信仰ということはできません。愛の行いにつながっていかないならば、厳しい言い方になりますが、「信じているふり」または「信じているつもり」にすぎません。「ふり」や「つもり」にとどまるキリスト信仰に力がないのは当然のことです。  でも、この女性はちがいました。自分の罪のけがれをどこまでも悟るゆえ、その罪を赦してくださる唯一のお方と信じる、イエスさまに一心に駆け寄り、一心にささげる愛の行いができたのでした。私たちは、社会的地位のある立派な人と、下賤な罪人のどちらになりたいかと聞かれたら、百人が百人、社会的地位のある立派な人と答えるでしょう。しかしイエスさまにかかれば、信仰があるかないかをご覧になり、下賤とされている罪人を社会的地位のある人に勝利させてあまりあるのです。その勝利と敗北はどれほど違うのか? 永遠のいのちがあるかないかです。罪の赦しがあるかないかです。天国があるかないかです。  要は私たちが、イエスさまがいなければとても生きていけない最悪の罪人であるという自覚を持ち、イエスさまにすがることです。この女性のような、イエスさまの御足にすがり、泣いてくずおれるがごとき礼拝をささげることです。もちろん、これはたとえであって、実際に泣いてくずおれてみてください、と言っているわけではありません。この女性は泣いてくずおれてイエスさまに礼拝をささげましたが、私たちの愛の応答もそういう形でなければならないということではありません。 御霊の与えてくださる、ほんとうの感激に満ちた礼拝は、人の演技や見せかけで何とかなるものではありません。形だけ感激して満足するのでは律法主義と同じです。盛り上がった感情に満たされようと礼拝に過剰な演出をするのも同じことでしょう。そういうことをする必要はありません。  ただし私たちは、礼拝をささげるにあたりましては、ただ一つ必要なものがあります。それは「小羊なるイエスさまの血」です。神さまがエジプトに下された死の怒りを過ぎ越された条件は、それぞれの家の門に塗られた羊の血でした。私たちも罪人のゆえに受けるべき、神さまの怒りを過ぎ越していただくために、まことの小羊イエスさまがどんなに苦しんで、私のために十字架の上で血潮を流してくださったか、そのことを覚えて礼拝をささげるのです。人間的な宗教心を満足させる、などという次元で礼拝をささげるのではないのです。必要なのは罪の自覚と、そのためにイエスさまが地塩を流してくださったことを信じ受け入れる信仰です。  その信仰は、私たちの間に愛のわざを生みます。イエスさまを愛するゆえに、兄弟姉妹を愛するのです。この愛し合う姿はこの世に証しとなり、人々は私たちのこの姿を見て、主を礼拝することの素晴らしさを知るようになります。  祈りましょう。神を愛し、人を愛する価値すらない私たちのことを、イエスさまが愛し、かぎりなく赦してくださったと信じる信仰をもって、主のみもとにまいりましょう。

信仰による選択

聖書箇所;創世記13章1~18節 メッセージ題目;信仰による選択 私たちは一日のうちでも、数多くの選択をし、また、その数多くの選択の、その結果の数多くの責任を負いながら生きていくことになります。私たちはいま、どのような選択をしているでしょうか。今日の本文のアブラム、アブラハムのモデルから学び、みこころにかなった選択をする者とならせていただこうと思います。  1節、2節を見てみましょう。アブラムは富んでいました。多くの家畜、そして銀も金も、それこそ「非常に豊かに」持っていました。もともと富んでいたところに、エジプトでさらに富が増し加わったわけです。そういう意味ではアブラムは祝福を受けていました。ただしこの祝福をいかに用いるかという問題にも、アブラムは直面していました。 新約聖書・第一テモテ6章10節で、使徒パウロは「金銭を愛することがあらゆる悪の根である」と喝破しています。アブラムは確かに、この世的にはたいへんに富んでいました。しかし、その富は神さまとの関係を深める助けにはなりませんでした。かえってその富に目がくらんだために、サライをエジプトのファラオに売ろうとするなど、不従順にもほどがあるような行為をしてしまったのでした。 しかし、アブラムは悔い改めました。アブラムは、エジプトを追放されてカナンの地に帰ってきたとき、そこにかつて築いた祭壇において、主の御名を呼び求めました。まるでエジプトの地で妻をファラオに売った自分の大きな失敗を悔い改め、神さまとの交わりを改めて求めるかのようです。このカナンはついこのあいだひどい飢饉に襲われたばかりの場所で、普通に考えるならば帰ることをためらう者でしょうが、アブラムはここで、信仰の原点に立ち帰る決断をしました。自分が初めて築いた祭壇の場所で、改めて主の御名を呼び求めることをする、そうです、肥沃な地に家族や群れを導くことよりも、まず、主の召しに立ち帰ることを選びました。困難が待ち受けていると予想されようと、主のもとに行く。言い方によっては、主のもとに逃げ込むことをしたわけです。  もし人が、この世の価値観や基準にどっぷりと漬かっているならば、信仰によって困難な選択をすることは極めてむずかしいことです。しかし、困難な中でも信仰による選択をする人は、揺るがされることはありません。 イエスさまという岩の上に根ざして生きる人は、どんな困難が押し寄せても揺らぐことはありません。しかし、この世という不確かな、いわば砂地のようなものに根ざして生きる人は、困難が押し寄せると崩れてしまいます。 アブラムの場合も、拠り頼むべきが多くの富ではなく、神さまご自身であることに気づかされるようになっていました。しかし神さまはときに、ご自身の愛される人の人生に介在され、拠り頼むべき対象をこの世的なものから神さまご自身へと導かれることがあるものです。 6節を見てみましょう。アブラムは、神さまの祝福と見なすべきこの富を持てあましていました。おそらく、エジプトのような肥沃な地ではこの富は相当役に立ったことでしょうが、カナンのように痩せて貧しい土地では水や牧草にも事欠き、群れの中に葛藤が起こるのは必然でした。 特にその葛藤は、牧者どうしの人間関係の葛藤という形で顕著に現れました。アブラムとロトの関係は決して悪くなかったはずですが、その群れどうしとなると、どうしても人間関係に問題が生じます。それはもちろん、アブラムにしてもロトにしても、彼らどうしが仲良くすることを望んでいたでしょうが、牧草や水が不足しているという現実を前にしては、理想ばかり言っていられなくなっていました。 約束の地は、ただ入ればいいということではありません。その地で増え広がるのがみこころである以上、それが貧しい土地であったとしても、石にかじりついてでもとどまる必要がありました。カナンから一族もろとも去るという選択肢はありませんでした。とどまるしかなかったのですが、アブラムの群れとロトの群れとの深刻な対立は、もう限界に達していて、どうしようもなくなっていました。 しかしアブラムは、ここでロトに一つの提案をします。8節、9節です。……選択の余地をロトに与えたのです。全地はあなたの前にあるではないか。このどこまでも広い土地の、どこに行ってもいい。ただし、私の群れは一緒に行かない。あなたの群れがまずどこに行くか決めたら、私の群れは反対の方に行く。ロトに選択させました。 アブラムは実はこのとき、信仰の父としての危機に瀕していたということにお気づきでしょうか? もし仮に、ロトがカナンの地に残ると言ったら、アブラムはカナンをあとにしなければならなくなりました。主の民となると約束されたのはアブラムから生まれる者であって、ロトからではありません。ロトの民がカナンで増え広がるわけにはいかなかったのです。また、アブラムがカナンをあとにしたら、もうアブラムには、カナンで主の民の父となる道は残されていません。神さまのみこころは成らないことになります。 しかし、神さまの摂理というべきことですが、ロトはここで、ヨルダンの低地、とても肥沃な土地を選びました。神さまはロトの選択に介入されました。このことによってアブラムは、神さまの約束どおり、カナンの地で神の民の父となる道を残されたのでした。ロトの一行が向かったヨルダンの低地はもはやカナンの地には含まれません。ロトはカナンをあとにしたのでした。 ロトがヨルダンの低地を選んだ理由は、11節に記されています。「自分のために」とあります。神さまのためにではなかったのです。自分さえ栄えればアブラムなどどうでもよい、というよこしまな思いがあったわけです。しかし、ヨルダンの低地の町、ソドムとゴモラの地でロトを待ち受けていたのは、主に対してはなはだ邪悪な者たちでした。その地の豊かさ、この世的な栄えを享受するあまり、彼らは凄まじいまでに堕落したのでしょうか。ともかく、そのような者たちが待ち受けているような地であろうとも、ロトは一時(いっとき)の栄えに目がくらみ、アブラムを痩せた土地に残して自分はさっさとヨルダンの低地に行ってしまいました。 もしかするとアブラムは、ロトのこの性格を知った上で、あえてロトに行き先を選択させたのかもしれません。それはロトの自主性を尊重することでもありますが、ともかくもこれでアブラムは、ロトのこの選択により、カナンに残ることができました。 こうしてアブラムは、ロトとその群れ、そして財産を切り離しました。それは、いかにかわいい甥っ子を独り立ちさせる、ほんとうならば喜ばしいことであったといっても、それなりの悲しさ、むなしさはあったはずです。何よりも、この世の富を自分から選択するロトのなすがままにせざるを得なかったことは、アブラムをどんな気持ちにさせたことでしょうか。しかしそのようなとき、神さまご自身がアブラムに現れてくださいました。神さまは何とおっしゃったでしょうか? 14節から17節です。 神さまはアブラムに、どのような約束をくださったのでしょうか? アブラムに、この地、すなわちアブラムが見渡すかぎりの、そして実際に東西南北に歩き回るカナンの地を、永久に、子孫をちりのように増やすことにより、与えるとおっしゃいました。 では、なぜこれが確実にアブラムに与えられるのでしょうか? それはほかならぬ、神さまご自身の約束であるからです。カナンの土地をアブラムとその子孫に与えること、それが神さまの約束でした。アブラムのすることは、神さまのこの約束を、ただ、信仰によって受け取ることだけでした。 人は、よいものを得ようという思いをつねに持っています。そのために、あらゆる努力をします。しかし、神さまのくださるもの以上によいものはありません。アブラムの目の前に広がる土地は、痩せていたかもしれません。けれどもそれが神さまのくださる土地です。アブラムのすることは、その目の前に人がる土地、自分が縦横無尽に踏みしめる土地が、神さまのくださった土地であると受け入れて感謝することでした。それが、アブラムにできる選択、アブラムのなすべき選択でした。 信仰によって歩む者にとっての選択は、その何よりの基準は、「神さま」にあります。神さまが主権によって私の人生に働いてくださる。私はその御手によって、いま生きている生活の現場で神さまの栄光を現すべく用いられる、これが私たちの信仰の歩みです。 この、選択の人生の最大のモデル、それは、イエスさまです。罪なきイエスさまのなさった選択は、すべて神さまのみこころにかなう正しいものでしたが、イエスさまの選択は、すべて、御父に従順であるという、絶対の基準がありました。みことばをお語りになることも、奇蹟を行われることも、すべては御父のみこころに従順に従うという選択をなさった上でのことでした。そして最大の選択、それは十字架でした。ゲツセマネの園での血の汗を流しての祈り、それは、御父のみこころを選択するための最大の闘いで、イエスさまはついにその戦いに勝利され、十字架にかかられたのでした。 アブラムの選択も、御父に従順であるようにと願っての選択でした。時にそれは、アブラムが、エジプトの豊かさを捨てて痩せたカナンに行って神さまを礼拝することを選んだとか、富をロトに分け与えて遠く離し、カナンにとどまることを選んだとか、人間的に見れば厳しいことを選択することも有り得ます。要は、それが神さまのみこころであると受け入れることです。 逆に、ロトの場合はどうでしょうか。彼の選択は神さまのみこころを考えない、それこそ自分のためのもので、また、この世的な祝福を求めるものでした。しかしその結果は、実に悲惨なものになりました。祝福の源であるアブラムと人生をともにしていても、アブラムからいったい何を学んできたというのか、というものです。しかし私たちは、このロトを笑うことはできないでしょう。私たちもまた、この世に生きていると、ときに神さまのみこころを選択することよりも、自分中心の選択、この世的な選択に走ってしまうものです。ロトはそんな私たちにとっての反面教師です。 私たちはいま、どんな選択をしようとしていますでしょうか。アブラムの選択でしょうか? それとも、ロトの選択でしょうか? いえ、究極的に言ってしまえば、イエスさまにならう選択をしようとしていますでしょうか? すなわち、イエスさまが御父に従順であられたように、御父のみこころに従順になる選択です。 人間的に見ればもしかしたら私たちはいま、厳しい選択を迫られているかもしれません。しかしそのときこそ、私たちの信仰を生かすチャンスです。私たちの肉的な頑張りで、難しい選択をして、その選択をやり遂げるのではありません。そんな頑張りは限界があり、やがて破綻します。そうではなく、その選択をすることがみこころだと示されているならば、神さまが必ず最後までやり遂げさせてくださるという信仰をもって、困難な選択へと踏み出すのです。

不信仰は覆われる

聖書箇所;創世記12:5~20 メッセージ題目;不信仰は覆われる  私たちはだれもが、失敗をします。失敗は成功のもと、などと言いますが、私などは、過去を思い出すと、あんな失敗はしなければよかった、と思えるようなことだらけで、思い出すたびに顔が赤くなったり、青くなったりするのを覚えるものです。みなさんはいかがでしょうか?  信仰の父アブラハム物語も今日で2回目になりますが、今日の箇所で彼は、大きな失敗をします。それも、これは致命的ではないかとさえ思える失敗です。本日メインに学びます失敗の記事の前に、アブラムがカナンの地に入った記事が出てまいります。アブラムはその地に至り、シェケムのモレの樫の木のところで、主からの啓示を受けます。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」先週学びました、ハランの地にて神さまがアブラムに与えてくださった啓示の地、約束の地が、このカナンであったことがはっきりしたわけです。アブラムは、そこに祭壇を築いて主を礼拝しました。そこから彼はベテルの東の山の方へと移動して、天幕を張りました。そして、彼はネゲブへと進みました。  しかし、ネゲブには飢饉が襲っていました。とても住むことができません。アブラムはここで、ひとつの選択をします。それは、エジプトに行くということでした。アブラムには守るべきものがありました。さすらいの旅に伴っていたのは家族だけではありません。家畜やその牧者たちも一緒でした。彼らのことも充分に養わなければなりません。このことが、アブラムが約束の地を離れ、エジプトに行くという選択へと導きました。  多くの家畜や牧者たちを所有するなど、アブラムが富んでいたということは、いわば主からの祝福というべきことです。しかし、この群れを養うことがエジプト行きを決意させたことを考えると、主の民の父として、果たしてこれを祝福だとばかり言うことができたでしょうか、という問題があります。  私たちにとっての祝福とはどのようなものでしょうか? 金銭や持ち物が増えることでしょうか? 名誉が増し加わることでしょうか? そのようなものは増し加われば増し加わるほど、私たちを苦しめるものです。詩篇の詩人、アサフの告白に耳を傾けましょう。「しかし、私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。」ここには、状況に左右されない平安があります。いついかなるときも主がそばにいてくださるゆえに揺るぐことがない、これぞ、私たちが目指すべき境地です。  しかし、アブラムの信仰の旅路は、これから続く彼の人生を考えると、まだ始まったばかりです。彼は地のすべての民を祝福する権限が与えられた者として、カナンの地に雨を呼び起こす祈りをささげるのではなく、エジプトで生き延びるという決断をしました。彼の信仰には限界があったことを認める必要があります。  私たちも信仰を働かせるべく導かれていますが、それでも、この世と伍して生きていくかぎり、どうしても、この世の価値観に自分を合わせている領域が出てきます。私たちも信仰を働かせるよりも、この世的な選択に走ってしまうことがあるものです。そのような私たちであることを受け入れた上で、私たちのなすべきことを主に祈りつつ、尋ね求めてまいりたいものです。  さて、アブラムはエジプトに近づくにつれ、ひとつの不安に襲われだしました。それは、自分が殺される、ということです。ファラオが妻サライを奪い、自分を殺す、あってはならないことです。そうならないために、サライは自分の妻ではなく、妹だと言ってほしい、と頼みました。  創世記20章を読めばわかりますが、サライがアブラムの妹というのは、たしかにほんとうのことです。父テラの娘であるからです。ただし、母親は同じではありませんでした。腹違いの兄妹、というわけです。この時代神さまは、神の民がそのような間柄で結婚することを、まだ問題にしてはいらっしゃいませんでした。そういうわけで兄妹であったのは確かですが、アブラムとサライはそれ以前に、夫婦という立場にあったことを優先する必要がありました。  夫婦は、もといた家族に優先する関係です。ここから、神の民が生まれるということを神さまは約束しておられたのです。つまり、アブラムがサライのことを、妻ではなく、妹だと言わせたということは、この神さまの秩序に逆らったということであり、また、神の民を生まれさせてくださるという神さまの約束に逆らった、ということになるわけです。アブラムは、二重の意味で不信仰、また不従順の罪を犯したことになります。  アブラムがこうなってしまったのも、もとはと言えばわが身を、この世的な方法で護ろうとしたためでした。エジプトで生き延びようと発想したことは、ついにこのような不信仰、不従順へとつながってしまったのでした。  アブラムは何を期待して、サライにこのようなことをさせたのでしょうか? 13節にあるように、「事がうまく運ぶ」ことを期待してのことでした。事がうまく運ぶ、とは、具体的に言えばどういうことでしょうか?  そう、16節にあるとおりに、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだ……たいへんな財産を手にすることができたのでした。こういう贈り物をファラオから手に入れることが「事がうまく運ぶ」ことであったとするならば、アブラムがサライにあのようなことを言わせたのは、サライを離縁し、ファラオの宮廷に召し入れさせることが目的だったということになります。もはやここには、信仰の父として立っていこうとの姿勢は、欠けらも見ることもできません。  しかし私たちは、このアブラムを笑ったり、非難したりすることができるでしょうか? このアブラムの姿は、私たちの姿そのものではないでしょうか? 主からなすべきことが示されていても、それに対する不従順の罪を犯し、なおそのような自分であることを正当化する、それが私たちなのです。その不従順によって、結果的にこの世の祝福を得ることができれば、それで安心してしまう、それが私たちなのです。  しかし、ここで私たちが忘れてはならないことがあります。神さまが干渉してくださる、ということです。17節を見てみましょう。……どんなわざわいだったかは書かれていません。疫病でしょうか? 恐ろしい悪夢でも見たのでしょうか? いずれにせよ、それが創造主なる神さまからのもので、しかもそのわざわいがもたらされたのは、ほかならぬサライを召し入れたせいだったということが、ファラオたちにはわかったのでした。  18節、19節を見てみましょう。……ファラオのこのことばをみてみると、アブラムは最初からサライのことを、自分の妻である、と正直に言うべきだったことがわかります。ファラオがサライを召し入れたことで、ひどい災害によって宮廷を痛めつけられるのが神さまのみわざだったならば、いわんや、アブラムを殺そうとしたならば、どれほどのわざわいをもって神さまはエジプトをおさばきになったことでしょうか!  「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」アブラムは確かに、ハランを旅立つとき神さまにそう言われましたが、そのみことばが実際に臨むことまでは信じていなかったと言うべきでしょう。ここでアブラムは、ひとつ、エジプトの宮廷のわざわいという犠牲を経て、信仰が成長したのでした。  これは何を意味するでしょうか。アブラムがいかに不従順でも、不信仰でも、神さまの側では依然として、アブラムのことを信仰の父として立ててくださっている、ということです。ほかのだれでもない、あなたのことをわたしが選んだ以上、あなたが信仰の父となるのだよ、ということです。  イエスさまも私たちに言ってくださっています。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。  私たちも不信仰になるでしょう。その結果、してはならない選択をしてしまい、失敗したということがあるかもしれません。しかし、究極的に言ってしまえば、私たちにとって失敗というものはないのです。あるのはただ、主がみわざを行なってくださり、導いてくださる、これだけです。  ひとたびイエスさまを受け入れたならば、その人は天国に行けます。それは、私たちの状態がどうあれ、イエスさまの側で私たちのことを離れないでいてくださるからです。わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない、と言ってくださっている以上、イエスさまが私たちから離れることなど決してありません。 しかし、私たちはイエスさまのこのみことばにも関わらず、なんと不信仰になってしまうものでしょうか。イエスさまの約束よりも、自分の思いを優先してしまう、何ということでしょうか。それでも、そんな私たちでも、イエスさまがお見捨てになるということは決してありません。こんな私たちであるということをすべてご存知の上で、なおも忍耐をもって、導いていてくださるのです。 もし、アブラムのこの不従順、妻サライをエジプトに売り渡すという、あまりのことを神さまが見とがめ、さばきを下されたとしたらどうなったでしょうか。神の民は生まれるまでもなく、私たちも神の民に連なることはありませんでした。それ以前に、アブラムにあのように約束された神さまのみことばは、うそ、ということになってしまいます。しかし神さまは真実なお方です。神さまは、たとえアブラムが偽りの心で偽りの行いをしようとも、ご自身の真実さにかけて、アブラムとサライを救ってくださり、ご自分の約束が真実であることを証しされました。 そうです。私たちは偽ります。私たちはいかに主のものとされていても、依然として罪を犯すものです。しかし、それにもかかわらず神さまは、イエスさまにあってこのような私たちのことを選んでくださり、私たちのことを用いてくださるのです。私たちに真実なものは何一つありません。あるのはただ罪ばかりです。しかし、たったひとつ真実なことがあるとするならば、この私たちのことをその十字架の死によって贖ってくださり、私たちのことを、主に用いられる尊い器としてくださったイエスさまが、私たちのうちにおられ、私たちを今もなお導いてくださっている、ということです。私たちの偽る心は、どこまでも真実なイエスさまによって、かぎりなくきよめられていきます。 アブラムの信仰の旅程には、このような、普通に考えれば致命的とさえ言える失敗がありました。私たちももしかすると、もはや思い出したくもない失敗があって、そのために人生に大きな損害を被ったように思えてならない、そんな悪い経験があるかもしれません。しかし、私たちがどうあろうと、神さまは真実です。私たちがもし、その失敗のために苦しむことがあったとするならば、それは「さばき」と見るべきではありません。 ひとたび神さまのものとされている私たちのことを、神さまがおさばきになるはずがあるでしょうか? 私たちはさばかれることなどありません。では、私たちが現実に苦しんでいるならば、この苦しみは、何だというべきでしょうか? それは「懲らしめ」というべきです。「懲らしめ」と「さばき」は、苦しいという点では共通していますが、その持つ意味は天と地ほどにもちがいます。 私たちは苦しみます。しかしそのとき、私たちは全能なる神さまに拠り頼む信仰が育てられます。神さまはそのとき、私たちの生活の現場に臨み、みわざを行なってくださるのです。主の弟子らしくしっかり立つことを神さまが私たちに望んでいらっしゃる以上、主はときに私たちのことを厳しい目に合わせなさいます。私たちがその状況に対してとことんまで無力であることを認め、神さまに全面的に降伏し、神さまが自分の人生に完全に働いてくださるように、明け渡すためです。 アブラムも、この恥辱的な失敗さえも覆ってくださる神さまの御手を体験し、信仰が成長しました。私たちもまた、生活のただ中で主の御手を体験するように召されています。主が私たちに関心を持ってくださり、私たちのうちでみわざを行いたいと願っていらっしゃるのです。それほど、私たちは特別なのです。 だからこそ私たちは、神さまがわが人生の現場でみわざを行なってくださる、そのことを期待しつつ、日々導いてくださる主に従順にお従いするのみです。そこで私たちのことを考えてみたいと思います。私たちが主にお従いしたいと願いながら、その妨げとなっている重大なものとは何でしょうか? それぞれにとって異なると思います。アブラムにとっては、まずは家族だけにとどまらず、家畜たちやしもべたちを養わなければならなかったこと、そして、ファラオによって殺されるかもしれないと恐れたことです。それでも神さまはアブラムを守り、大きなみわざを行なってくださいました。 みなさんもきっと、信仰によって踏み出すうえでの弱さを抱えていらっしゃることと思います。今日はその弱さを具体的に書きとめてみましょう。そして、その弱さは必ず主が乗り越えさせてくださると、信仰をもって一歩を踏み出す祈りをささげましょう。

信じる者には、どんなことでもできるのです

聖書本文;マルコの福音書9:14~29 メッセージ題目;信じる者には、どんなことでもできるのです  改めましてみなさま、今年もよろしくお願いします。   2020年。今年のみなさんのお祈りの課題は何でしょうか。取り組まなければ。あるいは、これが必要だ。それを手に入れること、そうなることはみこころにかなっている。しかし、努力だけではどうにもならない、そこで、私たちは信仰を働かせるのです。 本日の本文に登場する父親も、まさにその「信仰」という問題を抱えていました。このときイエスさまは、十二弟子のトップ・スリー、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登っていらっしゃいました。そのときイエスさまは栄光に御姿が変わり、モーセとエリヤが現れてイエスさまのご最期について会話を交わすという、驚くべき、またおごそかな時間となりました。このできごとは、人の子の復活まで秘めておきなさい、と、イエスさまは弟子たちを戒められました。 一方で、残された弟子たちは、ひとつの問題に直面していました。口をきけなくする霊に取りつかれた息子から悪霊を追い出してほしい、弟子たちは父親からそのように懇願されましたが、できませんでした。そこにイエスさまがやってこられ、子どもから悪霊を追い出されて一件落着、すばらしいことが起こされたわけでした。 しかし私たちは、このできごとの背後にあった、信仰と不信仰についての問題、また祈りの問題について、特にイエスさまのみことばから学ぶ必要があります。 まず、19節、最初のイエスさまのみことばを見てみましょう。イエスさまは何とおっしゃいましたでしょうか。…… イエスさまはついその直前に、もはや歴史上の人物ですらあったモーセとエリヤが現れ、ご自身のご最期について話し合われるということを経験されたばかりでした。イエスさまは、十字架の死に向かって備えをするのみで、また、その備えをなすべく、弟子たちをよりいっそう整えるという段階にあられました。 ところが、弟子たちは何をしていたのでしょうか。イエスさまがご不在ならば、イエスさまのわざを代わりに行うべく霊的な権威が委ねられていたというのに、弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのです。それで、この悪霊追い出しをイエスさまがなさらなければならなくなったわけです。 イエスさまは嘆かれました。まことに不信仰な時代だ! 問題は、不信仰にありました。人の不信仰は、十字架の贖いの死に向かって進むべきイエスさまの歩みをとどめるかのようでした。イエスさまにとっては十字架という、もっと大事なことがあるのに、この程度のこともあなたがたは信仰によって解決できないのか! イエスさまが問題にされたのは、だれの不信仰だったのでしょうか? それは弟子たちであり、また、この少年の父親の不信仰でもありました。そして、この記事を読む私たちひとりひとりの不信仰も、同時に問題にされるのです。問題は、不信仰にあります。 しかし、イエスさまは彼らが不信仰だからと、見捨てるようなことはなさいませんでした。「その子をわたしのところに連れて来なさい」、そのように言ってくださり、子どもにみわざを行うことを宣言されたのでした。 この父親には、イエスさまならばなんとかしてくださる、という、わらにもすがる思いのような、わずかな信仰がありました。イエスさまが戻ってくるや、つかまえました。からし種ほどの信仰があれば、その人の信仰は、空の鳥が巣をかけるほどに大きくなるように、成長させていただける、そのようにイエスさまはおっしゃいましたが、この父親の信仰も、大きいとは言えず、からし種のような大きさ、けし粒にも満たないほどの小ささだったかもしれませんが、イエスさまが大きくしてくださり、その信仰に応えて、イエスさまはみわざを行なってくださったのでした。 その子の状態はひどいものでした。20節に語られているとおりです。子どもがこのようならば、親の気持ちはどれほどつらいことでしょうか。しかしこの父親は、イエスさまの話を聞きました。イエスさまならば、必ず助けてくださる! イエスさまが来られたと聞いた父親は、矢も楯もたまらず、子どもを連れて駆けつけました。 イエスさまは、いつから子どもがそのようなのかと父親に尋ねられました。父親は、それが幼いときからで、子どもに取りついた悪霊は彼のことを殺そうと、何度でも火の中や水の中に彼を投げ込んだ、と語りました。もちろん、イエスさまは全能なるお方ですから、子どもにそういう過去があったことはすべてご存知です。それでもイエスさまが、父親にそのいきさつを尋ねられたのは、それが悪霊の働きであり、したがって神の御手によってのみ解決されるべき問題であることを、父親にあらためて認識させ、受け入れさせるという目的があったからだと言えます。 私たちもやみくもに祈ればいいわけではありません。何を祈っているのかもわからないで、どうやってお祈りを聞いていただけるのでしょうか。私たちの願っていることを具体的に聞いていただくこと、そのことが必要になります。みなさんそれぞれのお祈りの課題を具体的にノートに記録されることをお勧めします。そして、それを毎日読んでお祈りすることをお勧めします。 ともかく、この父親はイエスさまに、子どもの様子を伝えました。しかし、このことをイエスさまに伝えるにあたり、父親の態度がイエスさまに取り扱われることになりました。「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」父親はこう言いましたが、イエスさまはそのことばと態度を問題にされました。 そうです。これは不信仰だったのです。いったい、子どもが悪霊につかれている状態、精神的に病気の状態であることが、みこころにかなったことでしょうか。それは神の子イエスさまによって、いやされてしかるべき状態でした。イエスさまは、そんな悪い状態を放っておくようなお方では決してありません。父親は、みこころに反する病や悪霊憑きを放っておかれるかもしれないなどと考えて、イエスさまに対して十分な信仰を働かせてはいませんでした。それをイエスさまは問題にされました。 信じる者には、どんなことでもできるのです。イエスさまは父親に、そう語られました。それは、私がこの子に愛を注いで、いやす神であることを、あなたは信じなさい、そうおっしゃっているということです。 私たちがイエスさまに対して信仰を働かせるということ、これが、イエスさまの愛と直結していることを、お分かりになったと思います。あなたのことを愛しているよ! あなたにわたしは、わざを行うよ! それによって、わたしがあなたを愛していることを、はっきり教えてあげるよ! さあ、わたしの愛を体験して! 信じてほしい! 果たして父親は、イエスさまのこの威厳に満ちたことばに、心が動かされ、悔い改めました。信じます。不信仰な私をお助けください! 父親は、自分が不信仰であることを叫びつつ認めました。そして、イエスさまにすがりました。 私たちも、信仰が形ばかりで、ほんとうのところはイエスさまを信じていない、そんな者であることを、ときに認めざるを得なくなるときがあります。そんなとき、私たちのすることは、自分が不信仰であることを認め、悔い改めてイエスさまにすがることです。そうするとき、イエスさまは私たちの生きる現場に、実際に働いてくださいます。それは、私たちを愛してくださり、私たちのことを心配していてくださるからです。イエスさまは、不信仰から信仰に立ち帰る私たちに、必ずみわざを行なってくださいます。 かくして、イエスさまはこの子にみわざを行われました。悪霊を追い出されました。悪霊は最後の悪あがきをしました。暴れるだけ暴れて、この子から出ていくと、この子は死んだようになりました。この子の存在すべてが悪霊に支配されていたことの証拠とも言えましょう。悪霊が出ると、文字どおり彼は空っぽになりました。 しかし、イエスさまがその子の手を取って起こされると、その子は立ち上がりました。イエスさまの御手によって、その子はもはや悪霊とは関係のない、神の人となったのです。そうです、人は悪に支配されていたならば、その悪と縁を切ったとき、まるで死んだようになるでしょう。しかし、その人の生きがいは、悪に戻ることではなく、イエスさまという新しい主人に従うことです。そうするならば、その人は生きるのです。こんにちを生きる私たちは、まさにそのように人々から悪の縁(えにし)を断ち切り、イエスさまというまことの神さまに立ち帰らせ、その人を永遠に生かすことです。 しかし、弟子たちには解決すべき問題がありました。イエスさまにできることが、自分たちにできなかった。それでは、イエスさまの弟子としてふさわしくないことになります。もっとストレートに言ってしまえば、無能、ということになります。この問題を解決しなければなりません。彼らはイエスさまに、自分たちには霊を追い出せなかったのはなぜでしたか、と尋ねました。 すろと、イエスさまはお答えになりました。この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。 イエスさまは弟子たちの、何を問題にされたのでしょうか? 祈らなかったことです。もし、弟子たちがちゃんと祈っていれば、この悪霊は彼らにも追い出せていた、ということを語っておられるわけです。 ここでも、信仰ということが問題にされたわけでした。弟子たちは、自分たちの力で悪霊追い出しをしようとしていました。実際、弟子たちには経験がありました。彼らが命じると、悪霊どもも言うことを聞く、ということを、実際に体験していたので、今度もきっとできるはずだ、と、彼らが過信していた可能性もあります。しかし、主のみわざに用いられるということは、経験があればだれでもどんなことでも可能である、ということではありません。イエスさまは、祈りが必要だ、とおっしゃったのです。 それでは、なぜこの働きをする上で「祈る」必要があったのでしょうか? それは、まず、自分たちの力ではできないことを認識し、しかしそれでも、この悪霊追い出しは神さまのみこころであるから、イエスさまの弟子として必ずできるという信仰に立ち、神さまの力を求める必要があったからです。 ただし、この働きは、何を差し置いても、この子どもに対する愛が必要でした。愛なきミニストリーは、たんなる「人間的な作業」にすぎません。自分も神さまの愛をいただいている者として、その愛をもって熱く子どもを愛する、ここに、信仰を働かせる余地が出てまいります。私たちにとっても、だれかのために祝福を祈ったり、いやしを祈ったりすることにおいても、このように相手を熱く愛する愛が必要で、しかし愛を十分かつ具体的に施しきれない自分であることを認め、神さまに祈る、しかし、みこころにかなうことだから必ずくださると信じて祈る、その祈りが必要となるわけです。私たちの信仰が、愛とともに問われることになります。 ある聖書の写本では、この部分に、「祈りと断食」と書かれています。それを見ると、断食の祈りというものの効果を見ることができます。しかし、注意が必要です。私たちの祈りが聞かれ、主がみわざを行われるのは、どこまでも、私たちの信仰が応えられるゆえです。一生懸命の祈りとか、断食しての祈りとか、そういうことを「行い」として実践することで、祈りを聴いていただけると思ってはなりません。それは、私たちの行いを正当化することです。 私たちには経験があると思いますが、長い時間をかけてお祈りすることは簡単なことではありません。とても体力がいります。大声で祈るとなるとなおさらです。断食ともなりますと、どれほどの体力を消耗するかわかりません。しかし、そうやって一定の時間をかけて努力して祈ったとき、罠となるのは、それだけいっしょうけんめい祈ったということに対し、自分なりに満足を覚えてしまう、ということです。それは信仰による祈りではなく、自分の正しさによる祈りということにならないでしょうか。 しかし、それならば、「祈りによって」、あるいは「祈りと断食によって」とイエスさまがおっしゃったことばは、矛盾しているのでしょうか。そういうことではありません。私たちは信仰を働かせるならば、何を差し置いても祈らなければという思いが生まれます。そして、祈るのです。祈るという行為を積み重ねて神の心を動かす、ではなく、神さまのみこころに動かされて祈るようになる、というわけです。これは、体験した人ならわかります。 時にその祈りは、断食の祈りに促されることがあります。私は断食というものについて、このように考えています。祈らなければ、という御霊の思いに支配されるあまり、食べ物ものどに通らない、祈るしかない、祈ろう、となって、結果として断食の祈りとなると考えます。そういうわけで断食の祈りは、したからといって偉いわけではありません。。 イエスさまは人を救うという目的を掲げて、時には断食もものともせずに、つねに父なる神さまと交わる祈りをささげていらっしゃいました。その祈りの対象が、たとえばこの子どもでありました。そしてイエスさまの祈る対象は、私たちひとりひとりでもあるわけです。イエスさまは今もなお、父なる神さまの右の座で私たちひとりひとりのためにとりなして祈ってくださっています。 このイエスさまと交わりを欠かさぬとき、私たちもまた、イエスさまが祈られたように、祈りに一生懸命になるように導かれます。時にそれは、食べ物ものどを通らないような祈りになるかもしれません。それでも、祈れるならば、私たちはしあわせではないでしょうか? それだけ、私たちが信仰を働かせる領域が拡大することになり、私たちを愛してくださっている主は、私たちの信仰の祈りに応えてくださいます。

信仰の年

聖書箇所;ヘブル人への手紙11章6節 メッセージ題目;信仰の年  みなさん、今年もよろしくお願いいたします。  今年初めのメッセージはどの箇所から語るのがふさわしいか、私は昨年末、先週から祈り求めておりましたが、この2020年、原点に帰ることを目指したらいかがだろうか、と考え、さきほどお読みした箇所から選ばせていただきました。  信仰、これは大事です。義人は信仰によって生きる、ともみことばは語っています。私たちもイエスさまの十字架を信じる信仰によって義人とされた者として、信仰によって生きるのです。それでは、聖書の語る信仰とは何か、ということを、改めまして、この箇所から学んでまいりたいと思います。  今お読みした箇所はヘブル人への手紙の11章6節のみことばですが、ヘブル人への手紙は11章に入ると、特に信仰というものを読者に説き聞かせ、その実例として旧約聖書の人物をたくさん挙げて説き起こす形になっています。  まず1節を見てみますと、信仰というものの定義について語っています。信仰とは何か。それは、望んでいることを保証するものであるということです。  望んでいること、私たちもいろいろなことを希望します。では、私たちは何を希望するのでしょうか。どのような希望が本物なのでしょうか。それは何よりも、神さまのみこころにかなう希望です。  自分の望んでいることは神さまのみこころにかなっている。そのように信じきることのできる人は幸いです。では、その希望がみこころにかなっているということを、私たちはどのようにして受け入れることができるのでしょうか。それは何よりも、聖書のみことばによって吟味することによってです。みことばどおりであると知るならば、私たちの心には平安が生まれます。その平安を抱いて、私たちは揺れ動くことなく希望を持ちつづけるのです。  この1節のみことばはさらに、次のように続きます。信仰とは、目に見えないものを確信させるものである、ということです。 もし、目に見えているならば、つまり、当たり前のようにして起こることならば、私たちは何も、特別な希望を持つ必要はありません。当たり前とはかぎらないこと、とても当たり前ではないことでも、神さまがかなえてくださると確信して、希望を持たせるもの、それがまことの信仰であるというわけです。   2節のみことばを見てみますと、むかしの人々はこの信仰によって賞賛された、とあります。新約聖書も含めてよろしいと思いますが、聖書の人物を測る物差しは、「信仰があるか否か」という点に尽きます。それは、私たちにとっても同じことではないでしょうか。このことにつきましては、のちほど見てみたいと思います。   3節のみことばを見てみましょう。見えるものは見えるものからつくられたものではない、と語ります。現代という時代は、進化論に代表される唯物論がまことの信仰にとって大きな壁となっていますが、その唯物論的な考えは、この初代教会の時代にすでに存在し、まことの神信仰に大きな脅威となっていたことを見ることができます。つまり、この聖書の書かれた時代の問題は、私たちの時代の問題と共通していたわけですが、いつの時代においても、創造主なる神さまの存在をみことばへの信仰から認めることのできる人は幸いであると言えます。この神信仰から、私たちの信仰のすべてが始まるからです。   そこで、6節、本日お読みした本文にまいります。信仰がなければ、神さまに喜ばれることはできない、と語っています。よく、神さまは私たちの存在そのものを喜んでくださる、などということばを、私たちはたやすく口にしてしまいがちのようですが、このみことばを見てみると、信仰のない人のことを神さまは喜ばない、とはっきり語っています。   信仰とは何でしょうか? イエスさまが私たちの身代わりに十字架について、私たちを父なる神の怒りから救い出してくださったことを信じることです。私たちはそのままでは、神の怒りを受けるべき罪人でした。神に喜ばれるなど、とんでもないことでした。そこから救い出してくださったイエスさまに、救いの根拠と信頼を置く、これがまことの信仰です。   しかし、ひとたびその信仰を持つべく導かれたら、神さまの怒りは、神さまの喜びへと変わります。信仰によって神さまと和解した私たちのことを、神さまが喜んでくださるのです。  さて、このみことばは、「神に近づく者は」と展開します。信仰によって神に喜ばれている者が、神に近づくことができるのです。神さまの立場になって考えてみましょう。私たちがもし、神さまの喜びという存在になっているならば、神さまは私たちに対し、ご自身にもっと近くに来てほしいと願っていらっしゃるのではないでしょうか? そのみこころに応答して、私たちは神さまに近づくのです。  しかし、神さまに喜ばれている者として神さまに近づくには、条件があることもこのみことばは語ります。まず、神がおられることを信じなさいと語っています。  神さまはおられます。私たちはもちろんそう信じ、そのように告白するでしょう。しかし、私たち自身の生活を振り返ってみたいと思います。私たちはどれほど、神さまがおられることを普段の生活の中で信じているでしょうか?  神さまは、私たちの遠くにおられるのではありません。私たちとともにおられるのです。私たちが信じるべきは、神さまがこの世のどこかに、私と関係ないけれどもおられる、と信じることではありません。神さまは、いつでも、私とともにおられる、一緒におられる、そう信じることです。  考えてみましょう。天地万物を創造され、すべてを司っていらっしゃる神さまが、ほかならぬ私のことを選ばれ、ともにいてくださるのです。これ以上素晴らしいことがあるでしょうか? このお方がともにおられることを考えないで生きるなんて、人生最大の損失です。しかし、神さまがともにおられるということを信じぬくならば、その人はどれほど人生が祝福されていることでしょうか。このお方が私たちの味方なのです。何者も私たちに敵対することはできません。  そして、6節をさらに見てみましょう。神さまが、ご自分を求める者には報いてくださるお方であることを信じなければならない、と語っています。このことを信じるためには、大前提として、神さまが生きて働いておられるお方であることを信じ受け入れる必要があります。多くの人にとっては、神さまは単なる空想の産物でしかないかもしれません。あると思えばあり、ないと思えばない、という。しかし、まことの神さまは、私たち人間がどう考えようとも、存在され、そして、みわざを行なっておられるお方です。  聖書を見てみましょう。どれほど多くの奇蹟の記事が書かれていることでしょうか。このことをもってしても、神さまは生きて働かれるお方だということがわかります。私たちが神さまを信じるということは、聖書の時代にこれだけのみわざを行われたお方が、同じように、私たちの生きるこの時代にもみわざを行ってくださると信じる、ということです。  私たちは聖書をお読みするとき、むかしはむかし、今は今、と、無意識のうちに分けて考えて、もうそのような奇蹟はこんにち起こることはない、などと考えたりしてはいないでしょうか? それは信仰的な読み方ではありません。同じお方が、同じ全能さをもって、私たちの生きるこの世界においても働いてくださる、私たちはそう信じ受け入れる必要があります。  そして、神さまが全能のみわざをおこなってくださるそのみわざは、ほかならぬ「私のため」、ということを、私たちは信じる必要があります。もし私たちが神さまを求めるならば、その信仰にしたがって、神さまが「ほかならぬ私に」みわざを行なってくださる、このことを信じることです。私たちのことを振り返ってみましょう。私たちはイエスさまを信じ受け入れてから、どれほど多くのみわざを体験させていただいたことでしょうか?  それは、神さまが私たちひとりひとりに特別に目を注がれ、私たちを神の子どもとしてふさわしく取り扱ってくださった、ということです。 全能のみわざを、ほかならぬ私のために用いてくださった、ということです。あなたを特別に選んで、特別に働かれたのです! どれだけすごいことでしょうか? 私たちはその素晴らしさに気づいていますでしょうか?   そこでこの2020年、私たちは信仰をもって神さまに近づいている者として、具体的に求めるべきことがあるのではないでしょうか? いろいろあると思います。私の人生にこのみわざを起こしてください! 私は信じます! そのように願い、具体的に祈るべきことを祈り求めましょう。  繰り返しになりますが、目に見える望みは望みではありません。少し努力すれば必ず達成できることならば、何もこの時間に祈る必要はありません。そうではなく、経済的な必要でもいいですし、努力してもなかなかどうにもならない人格の欠けが整えられることでもいいです。絶望的に思える家族や友人の健康でもいいでしょう。とにかく、祈りましょう。神さまは、その祈りがみこころにかなうものである以上、聞き届けてくださり、かなえてくださいます。  私自身を見るならば、できない、としか思えないでしょう。しかし、イエスさまならば、できないことがあるでしょうか? 何でもできるのです。信仰をもって祈ってみましょう。

みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ

聖書箇所;マタイの福音書28:18~20 メッセージ題目;みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ 今年の年間テーマは「みことばを宣べ伝えよう」でした。みなさんはどれくらい、みことばを宣べ伝えることができたでしょうか? 私たちクリスチャンにとって、みことばを宣べ伝えること、伝道とは、使命であり、取り組むべきことです。その召命に、この年の終わりに立ち帰り、次なる年こそみことばを宣べ伝えるものとして整えていただくべく、今日みことばをともに学んでまいりたいと思います。  さきほどお読みしたみことばは「大宣教命令」と呼ばれるもので、イエスさまがこの地上を去られるにあたって、弟子たち、ひいては私たちを含むすべてのクリスチャンに遺されたみことばです。伝道に召された私たちは、特に今日のみことばから学ぶことで、主が私たちのことをどのような立ち位置に置いてくださっているか、確かめてまいりたいと思います。   まず、大前提といたしまして、このみことばの原語どおりの構造からしますと、第一に「行って」、第二に「バプテスマを授け」、そして第三に「教えなさい」はすべて分詞であり、これらすべてが主たる動詞である「弟子としなさい」を修飾している形になります。つまり、イエスさまの大宣教命令は、「弟子づくり」が最もメインになる命令であり、「行くこと」、「バプテスマを授けること」、「教えること」はすべて、「弟子づくり」の側面を示したものと言えるわけです。   第一に、私たちは「行って」弟子とすることが求められています。   このとき、弟子たちはまず、聖霊を受けるまで待機することが求められました。しかし、ひとたび聖霊を受けたならば、エルサレムにはじまり、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで証人となるべく遣わされました。この働きはもちろん、十二使徒で完結するものではなく、その後を引き継いだ世界中のすべてのキリスト教界が、2000年にわたって実践しつづけたもので、その歴史の果てに私たちの教会があることになります。  さて、それでは、私たちはこの地に遣わされて、それで終わりなのでしょうか? 決してそうではありません。聖霊なる神さまは、なおも私たちを遣わそうとしてくださっています。  しかし、私たちはもしかして、聖霊の導きによって「行く」ということを、何か特別なことのように捉えたりしてはいないでしょうか? ある日突然聖霊さまが霊感に示して、遠いアフリカの国に行くように導かれるとか? そういうことも、ない、とはいいませんが、しかし、私たちが普段の生活の中で体験する聖霊さまの導きは、もっとさりげないものです。考えてみましょう。私たちに生活できる環境があるということは、私たちのことを未信者とのふれあいの現場という「宣教地」に、聖霊さまが送り出してくださっているということです。みなさんはそういう意味で、聖霊の強い力に促されて世界宣教に出ていった初代教会の働き人たちと、何ら変わるところがないのです。  要は私たちが、聖霊なる神さまによって遣わされているという自覚を持ち、聖霊の満たしをいただいてこの世界に出ていくことです。私たちの教会がディボーションと聖書通読を奨励しているのはなぜでしょうか? 聖書を学ぶことで自分の霊的ステージを上げて、ほかの人と差をつけるためでは、決してありません。みことばに耳を傾けることで聖霊なる神さまの御声と導きに敏感になり、今日はだれに遣わされているのか、今日はどこに遣わされているのか、その自覚をもって一日の働きに取り組むためです。聖霊に遣わされる体験を毎日できるなんて、これ以上素晴らしい生き方があるでしょうか!  私たちは聖霊の宮です。聖霊の器です。自分を低く見積もってはなりません。私たちは神さまの働きに用いていただけるのです。そういう者にしてくださるために、今日も神さまは私たちに、みことばによって強い動機づけを与えてくださいます。従順にお従いし、用いられる祝福をいただいてまいりましょう。  第二のポイントです。私たちは「バプテスマを授けて」弟子とすることが求められています。  私たちはなぜ、それぞれの生活の現場に「行く」必要があるのでしょうか? それは「バプテスマを授ける」ためです。  バプテスマを授けるために必須なのは、信仰告白に導くことです。自分が罪人であるゆえに、このままでは神の怒りに触れる存在であることを自覚させること、その罪の罰をイエスさまが十字架の上で身代わりに受けてくださり、私たちを神の怒りから救い出してくださったこと、イエスさまを受け入れるなら私たちは神の子どもとなり、永遠のいのちが与えられ、天国に入れられること、このことを私たちは、大好きな隣人に宣べ伝えるのです。このことを宣べ伝えてこそ、その人は信仰告白に至ることができます。  問題なのは、私たちがなかなか、そのようにみことばを宣べ伝えることができない、ということではないでしょうか。気になる人がいれば、辛うじて教会に連れてくることならできる、しかし、実際にみことばを宣べ伝えるのは私ではなく、牧師のすることではないか……そのように考えてはいないでしょうか?  しかし、牧師がいちいちみことばを伝えるのは不可能です。みなさんひとりひとりがみことばを伝えなければ間に合いません。そういう点で、私たちは「何を伝えるか」を明確にしておく必要があります。クリスチャンという存在は、日本の社会にはあまりいませんので、珍しがられる存在だということはみなさんも体験していらっしゃるでしょう。それを利用して、私たちの信仰について分かち合うのです。 もちろん何よりも、私たちの生活がすべてにおいて主にお従いするものとなり、主に対してするように人に対してすることを普段から実践することで、人々の前でよい証しを立てておくことが必要になります。そうでなければ、私たちがいかにみことばを宣べ伝えたくても、そのことばを聞いてくれる人などいない、ということになってしまいます。  さて、このみことばは「バプテスマを授け」とあります。これについてもしっかり見ておきましょう。人にバプテスマを授けるには、信仰告白に導くことが必要になることはこれまで見てきたとおりです。しかし、信仰告白に導いてそれで終わりではありません。「バプテスマを授ける」ところまで導くのです。  バプテスマを授けたならば、その人は単に信仰告白したにとどまらず、キリストのからだなる教会のひと枝に加わります。つまり、伝道そのものが宣教における完成形なのではなく、伝道して人を教会に主体的に参加させることが宣教の完成であるわけです。  しかし、この「バプテスマを授ける」という働きは、教会員一人ひとりがそれぞれの場所で担うものではありません。さりとて、バプテスマを授けるのは牧師だから、牧師の働きなのか、というと、それも正確ではありません。「バプテスマを授ける」働きは、教会全体が担う働きです。  そういう意味でいえば、さきほど取り上げた「行って」というのも、教会に属する働きの一環であると言えます。一見すると、私たちは個人個人がそれぞれの持ち場に行っているように見えますが、私たちはキリストのからだなる教会のひと枝ひと枝としてそれぞれの持ち場に行っているわけです。そう考えますと、私たちの家庭も、職場も、学校も、地域社会も、みな教会の「出張所」ともいうべき存在ということになります。  「バプテスマ」に話を戻しますと、人を信仰告白に導き、教会のひと枝に加えることは、教会全体が取り組むべきことです。私たちそれぞれにだれか伝道の対象となっている未信者がいるとしたら、それはその人だけが霊的責任を負うべきではありません。教会全体が責任を負うのです。その伝道対象者の救いのために、教会全体が祈るのです。いざその人が教会にやってきたら、みんなして迎え入れるのです。食事をしてもてなすのです。とにかく、この関係づくりの働き、関係を深める働きは、教会の一部の人が担えばそれで終わりなのではありません。教会全体がひとつとなって、バプテスマに至るまでひとりの人のたましいの責任を担うのです。  そのようにして群れに加わった新しい人が、今度は次の人を迎え入れるべく教会全体でチームをなしていきます。こうして、教会は量的にも質的にも成長することになるのです。  私たち自身を振り返ってみましょう。私たちも教会の働きによって、バプテスマを受けて教会のひと枝に連なる恵みに導かれたのでした。今度は私たちの番です。私たちが次の人にバプテスマを授け、主の弟子とすべく出ていくのです。  第三のポイントにまいります。私たちは「教えて」弟子とすることが求められています。  「エクレシア」の訳語として日本語では「教会」が充てられていますが、改めて見てみましても、よく訳したものだと思います。文字通り「教える会」または「教わる会」です。何を教わるのか、といえば、私たちは聖書のみことばを教わるのです。  それでは私たちは、なぜ聖書のみことばを教わるのでしょうか? 人よりも霊的な知識を増し加えて、いけ好かない人になるためであっては決していけません。私たちが、愛する人になるため、仕える人になるため、そのためにみことばを教わるのです。これが、弟子の歩みです。私たちはイエスさまを信じてバプテスマを受ければ、あとは惰性で教会に通うのではありません。日々みことばを学ぶことで、主のみこころをこの地上に、隣人に対する愛という形で実践するのです。  ここに、私たちが弟子として訓練されるべき理由が生じます。私たちは訓練されずに、どうやって愛することを具体的に実践するのでしょうか? 私たちは訓練されずに、どうやって主のみこころとそうではないものを区別することができるでしょうか?   みなさんが、こんなにも忙しい中で教会にいらしていることの意味をもっと考えなければと思います。私たちは、みことばから教わりたいのです。訓練を受けて、キリストの弟子になりたいのです。そこを履き違えてはなりません。  今年の日曜礼拝はこれで終わりです。しかし、数日経てば元日礼拝をお迎えします。新たな気持ちで、ともに主にお仕えしてまいりましょう。この年末年始が守られ、新年、みこころにかなう歩みを私たちがしていくことによって、イエスさまの再び来られるその日に備えるものとなりますようにお祈りします。

これぞ福音

聖書箇所;イザヤ書53章6節 メッセージ題目;これぞ福音  みなさん、あいさつしましょう、メリー・クリスマス! クリスマスおめでとう、という意味ですが、それでは私たちにとって、クリスマスとはなぜ、めでたいものなのでしょうか? 今日はそのお話をしたいと思います。 みなさんにお伺いしたいと思います。もし自分が今日この世を去ることになったとしても、自分は間違いなく天国に入ることができる、そのような確信に至ったことはありますでしょうか? みなさまならどうお答えになりますでしょうか? もし、その話をぜひ聞いてみたい、という方は、続けて耳を傾けていただければと思います。正しい答えをもう知っています、という方は、ぜひ初めての方にもその答えがわかるように、メッセージを聴きながらお祈りしていただければと思います。 では、もうひとつ質問させていただいてよろしいでしょうか? 「それでは、もし仮に、仮にですよ、今日あなたがこの世を去ることになったと想像してみてください。天国の入口には神さまが立っています。そして神さまがあなたにこう問いかけられたとします。『もし、あなたがこの天国に入れるとするならば、それはいったいなぜだと思いますか?』」今のみなさまなら、どのようにお答えになるでしょうか? よい行いをすること、でしょうか? いい人になること、でしょうか?  しかし、聖書はほんとうのところ、そのことについてどう語っているのだろうか? それが知りたい、という方は、ぜひ、この話を終わりまでお聞きいただければと思います。  まず、天国というものについてお話しいたします。聖書の語る天国とは、無償のプレゼントです。プレゼント、それはただだから、プレゼントです。努力の報いとか、それを受ける資格があるから受けるものではありません。 プレゼントなのですから、私たちはそのために何か特別に努力したりする必要はありません。することはただ、受け取ることだけです。このことについては、聖書が人間について何と語っているかを理解すると、よりはっきり理解できます。  人間とはどんな存在であると、聖書は語っていますでしょうか? 聖書は人間を、罪人、と呼んでいます。罪人、という表現をお聞きになった方もいらっしゃると思います。みなさんは罪というと、どのようなことを連想しますでしょうか? 人のものを盗んだり、人を傷つけたり、そのようなこともたしかに「罪」です。しかし聖書が語る罪はそれだけではありません。しなければならないとわかっているのにしない、これも罪です。人に親切にしなければならないときにしなかった、学生だったら、勉強しなければならないのにしない、とか。そういうことも聖書は、罪と語っています。  それだけではありません。心の中で犯す罪というものもあります。あいつなんていなくなってほしい、と、心の中でのろうことも。男の人の場合は、いやらしい思いを持って女の人を見たり、とか。そういうことも聖書ははっきり、罪、と語っています。 そういうことまで罪に含めるとしたら、どんな聖人君子のような人であっても、まことに罪人というしかないのではないでしょうか。  それでは、この罪は、なんとか努力してよい行いをすれば帳消しにできるのでしょうか? しかし人間は、よい行いをしたからといって天国に行けるわけではありません。この問題については、次に聖書が神さまというお方について何と語っているかを理解していただくと、より明確に理解していただけます。 まず、神さまは愛なるお方です。神は愛です、と聖書は語っています。神さまは愛ですから、私たちをさばきたくないのです。 しかし、神さまは正義なる方でもあります。だから私たちの罪をさばかなければなりません。しかし、そうだとすると、いったい私たちのうちで、さばかれずに済む人などいるのでしょうか? 義人はいない、ひとりもいない、これが聖書の宣言です。だれもさばかれなくて済む人はいません。しかし、神さまは愛なるお方です。私たちをさばきたくありません。 方法はあるのでしょうか? あるのです。この問題を解決するため、神さまはイエス・キリストを送ってくださいました。 キリストとはどのようなお方でしょうか。無限なる神さまであり、また、人です。人となってこの世界に来られた神のひとり子、それがイエスさまです。 イエスさまは何をしてくださったのでしょうか? イエスさまは、十字架の上に死なれ、そして死からよみがえることによって、私たちの罪の代価を支払い、天国に私たちの場所を買い取ってくださったのでした。 しかしイエスさまは、十字架で罪を背負って死なれて、それで終わりではなかったのです。イエスさまは十字架にかかって3日目に復活されました。そして、天に昇られて、今は父なる神さまの右の座で私たちのためにとりなして祈ってくださっています。 イエスさまがこのようにしてくださったことで、神さまと私たちの間に隔ての壁となっていた罪が取り除かれました。そして、私たちは神さまと和解し、つながる道が開かれました。 では、このプレゼントを、私たちはどのように受け取るのでしょうか? 聖書は、信仰によってそれを受け取ると語ります。私たちを救いに至らせるまことの信仰とは、救いの根拠と信頼をイエス・キリストに移すことです。 では、天国というプレゼントを受け取るのにふさわしい信仰は何を含むのか、明確に4つのポイントにまとめると、次のとおりになります。 一番目は、救いの根拠と信頼をキリストに移すことです。これは、すでに椅子のたとえでみなさんにお伝えしたとおりです。 二番目は、復活し、今も生きておられるキリストを、救い主として受け入れることです。イエスさまは単なる歴史上の人物ではありません。十字架に死なれましたが、復活され、今も生きていらっしゃいます。このお方が自分のことを罪から救ってくださる救い主であると受け入れるのです。 三番目は、キリストを人生の主として受け入れることです。救われたらそれで終わりではありません。心の中心にキリストをお招きし、キリストに人生を導いていただくのです。 そして四番目は、悔い改めることです。悔い改めるといっても、「ああ、自分はなんて愚かなことをしたんだ、バカバカバカ!」などと自分を責めることとはまったくちがいます。それは「悔い」であって「悔い改め」ではありません。「悔い改め」とは、罪深い自分を悔いて、罪のない神さまに向きを改め。方向転換することです。 いかがでしょうか? クリスマスとは、このようなみわざを成し遂げてくださったキリストが来られたことをお祝いする日です。私たちも心からキリストをお迎えするとき、人生には大きな祝福が訪れます。