インマヌエルを祝う

聖書箇所;サムエル記第二6:12~23 メッセージ題目;インマヌエルを祝う クリスマス、私たちの救い主、イエスさまの誕生をお祝いする日です。来週日曜日はいよいよ、クリスマス礼拝の日です。その日私たちは、どんなに喜ばしく礼拝をおささげすることでしょうか! イエスさまのお誕生を預言したみことば、イザヤ書7章14節は、このように語ります。 「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女がみごもって いる。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエルとは、神はわれらとともにおられる、という意味です。神の子イエスさまは肉体を取って人となられ、人々の間に住まわれました。まさに、ともにおられる神であり、このお方がお生まれになることが、イエスさまがお生まれになる700年以上も前に預言されていたのでした。 この、ともにおられるイエスさまのお誕生をお祝いするのがクリスマスですが、私たちはともにおられるイエスさまの、その臨在の御前に、どのような姿勢で進み出るべきでしょうか? さきほどお読みいただいたみことばは、一見するとこの「インマヌエル」なるイエスさまと関係がないように見えますが、実は大いに関係があります。そのことを以下説明したいと思います。 ダビデが運び入れたのは、神の箱というものでした。神の箱は、神の臨在の象徴です。モーセの時代に、神の律法にしたがって、すでにつくられていました。これは礼拝の対象となる偶像のようなものではありませんでしたが、イスラエルはこの神の箱をとても大事にしておりました。 神の箱とは神さまの臨在そのものとも言うべき存在でした。単なる象徴を超えた存在です。そういう点で神の箱とは、インマヌエル、神はわれらとともにおられる、と唱えられるイエスさまの予表、さきがけとも言える存在です。 このたび迎えるクリスマス、それがインマヌエルなるイエスさまのお誕生をお祝いすることであるならば、私たちもそのお祝いに馳せ参じる礼拝者として、このダビデの祝宴から学ぶことができます。この祝祭を巡る3つの立場から、私たちはいかなるお祝いをするのがふさわしいか学びたいと思います。 第一にダビデの立場、それは「礼拝に導く人」です。 この祝祭を主導しているのは、祭司のような宗教指導者ではありませんでした。ダビデでした。ダビデが王としてのリーダーシップを発揮しつつ、この祝祭を導いていたのでした。 しかし、ダビデは王としての権威をまとった形で、この祝祭を導いていたのではありませんでした。亜麻布のエポデを身に着けていた、とあります。王服ではありません。祭司としての服装です。祭司、つまり礼拝者として、神さまの臨在の前に出ていっていた、ということです。 しかし、このエポデは祭司が身に着けるようなきらびやかなものではなく、亜麻布でできていました。亜麻布のエポデといえば、まだ幼い日のサムエルが祭司の見習いとして身にまとっていたものでもあります。つまり、王さまとはいえ、子どものような礼拝者、主に仕える者としての姿勢を、その服装からして存分に示したのでした。 あなたがたは、王である祭司、というみことばが、ペテロの手紙第一にあります。王である祭司、これが私たちなのです。まさに、王であり祭司である姿で神さまの御前に出たダビデの姿は、この私たちの象徴とも言えます。 さて、では、主の民を祝祭に導くダビデの立場は、教会に当てはめればだれになるでしょうか? 私はここで、祝祭に導くダビデとは、私たちひとりひとりであると申し上げさせていただきたいのです。今申し上げましたとおり、あなたがたは王である祭司、と語られている以上、私たちは王の役割を果たし、祭司の役割を果たす存在です。そんな私たちは、このダビデを模範とするのです。そのダビデが民を導いて、率先していけにえをささげ、力のかぎり喜びおどるならば、私たちひとりひとりこそが人々を祝祭に導く存在と言えるはずです。 イエスさまのお誕生、インマヌエル、主が私たちとともにいてくださる、ということは、私たちにとって、人々を喜びに巻き込みたくなるほどの大きなできごとです。あの、民に率先して跳ね回るダビデは、私たちの目指す姿なのです。このクリスマス、すでにイエスさまによって救われている者たちとして、人々を喜びに導き、喜びに巻き込む礼拝を率先してささげる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二の立場です。それは民の立場、ともに礼拝をささげる人々です。 ダビデはこの、主の箱を運び入れることを、ひとりで行なったのではありません。イスラエルの全家とともに、群衆とともに行いました。つまりこれは、王家の祝福にとどまることではなく、イスラエル全体の祝福ということであったのです。イスラエルはこの祝福をいただいているものとして、ダビデの町に集まり、ともにこの祝祭に参加したのでした。 ともに礼拝をささげる人たちも、いろいろな人たちがいました。神の箱を担ぐ祭司たち、角笛のような楽器で賛美を盛り上げる人たち、祭壇をつくる人たち……しかしなんといっても、だいじなのは、ともに礼拝をささげ、盛り上げる群衆たちでした。ここでわかることは、礼拝において奉仕者とともに大事なのが、そのものずばり、「礼拝者」の存在、ということです。 私たちは普段の生活において、自分が礼拝者であるという意識を持っていますでしょうか? 当教会は何年にもわたって、聖書通読を奨めてまいりましたが、それは、普段の生活においても、私たちがみことばの前に整えられ、きよい、生きた供え物として人生を送ることを願っていらっしゃる神さまのみこころにお応えすることを目指すからです。私たちの生き方そのもの、それが礼拝というわけです。 その礼拝の究極のかたち、それが、今こうしてともにおささげしている礼拝です。安息日として、この日曜日、主の日を聖別し、しっかり礼拝をおささげすることで、私たち主の民がともに礼拝者の群れとして整えられるのです。 さて、このように神の箱の前で歓声を上げた民のことをもう少し考えてみましょう。彼らはひとりでは、このような礼拝をささげることはできませんでした。ともに! これが大事なのです。礼拝は、ひとりでつくるものではありません。もちろんそれは、礼拝というものが信徒のみなさんのいろいろな奉仕を必要としているということでもあります。しかしそれ以前に、礼拝開始の時間からともに礼拝をささげる、このことがとても大事であると、あらためて申し上げさせていただきたいのです。あえて多くのことを要求することはいたしません。ともにその場に座り、礼拝をささげるだけで充分です。インマヌエルなるイエスさまがともにいてくださっているという喜び、それを礼拝という場でみなさんが体験してくださるならば、こんなにうれしいことはありません。 第三の立場、それは、ミカルです。礼拝をささげず、冷笑的になる人です。 ミカルは、このパレードが入ってきたとき、どこにいたのでしょうか? 窓から見下ろしていた、とあります。高い所にいて、そこで心の中でダビデのことをさげすんでいたわけです。まさに、上から目線です。そしてミカルは、ダビデを心の中でさげすむにとどまりませんでした。戻ってきたダビデに、言い放ちました。20節です。…… ミカルとはもともと何者だったのでしょうか。先王サウルの王女です。サウル王の王女として、蝶よ花よと愛でられてきた人です。それだけプライドもありました。かつては勇士として名を馳せるダビデに惚れて結婚した者でしたが、その愛情はサウル王家の王女としてのプライドに勝つことはありませんでした。裸踊りする王さま? くだらないわ! ダビデは、そんなミカルの心を見抜いていました。それで、このように言いました。21節です。……ダビデは、ミカルの父親であるサウル王、そしてミカルの属する家系を精いっぱい尊重しつつ、それでも私を王として選んでくださった神さまの御名をほめたたえ、喜び踊るのであると語ります。 それに続きダビデは、ミカルのさげすむことばを引き取るようにして、逆説的なことを語ります。22節です。……私は神さまの前に、もっと、もっと、子どものようになるだろう。あなたはますます、そんな私のことをさげすみ、卑しめるだろう。しかし、あなたの言うところの女奴隷たちは、そんな私のことをますます敬うのである。 女奴隷たちは、自分が低くされていることをよくわかっています。そんな彼女たちは、神さまが素晴らしいあまり、自分のところにまで、いや、自分より低いところにまで下りてきてくれるダビデのことを、なんてすばらしい王さま! と、敬わずにはいられないのである、ということです。その尊敬の念は、王女であり、王妃であることを鼻にかけて、夫である王のことも見下すようなプライドの塊ミカルには、決して湧き上がってこないでしょう。 23節、6章を締めくくるみことばによれば、ミカルには死ぬまで子どもがなかった、とあります。当時のイスラエルの常識からすれば、子どもがないということは恥でした。神さまの祝福が臨んでいない、ということを象徴するようなことです。このことは、2つの可能性を考えさせます。ひとつは、このミカルの発言がきっかけで、神さまはミカルから子をなすという祝福を取り去られた、ということ、もうひとつは、このできごとをきっかけにダビデとの間の愛情がすっかり冷め、もはや夫婦関係を持つどころではなくなってしまった、ということです。 しかしいずれにせよ、このようなことを考えるミカルから、ダビデとサウルの血を同時に引く子どもが生まれなかったことは事実であり、それは考えようによっては祝福でした。このようなミカルに育てられた王子は、いったいどのような子どもに育つでしょうか。それが長じてイスラエルを治める王になったら、イスラエルはいったいどうなったことでしょうか。 さて、ミカルにおける、神の臨在インマヌエルに対する冷笑的な態度、これはなんと、約1000年後に、そっくり同じ場所、ダビデの町で繰り返されることになりました。ダビデの町、そう、それはベツレヘムです。この時もダビデの町は、人々であふれていました。しかしそれはイエスさまのお誕生をお祝いするためではなく、ローマ帝国の住民登録という、至って人間的な用件を人々が済ますためでした。この人々はみな、その本籍地がベツレヘムにあったということは、先祖はこのダビデの町の人だったということであり、この神の箱が運び込まれたとき、その盛り上がる群衆の中に、彼らの先祖はいたということになります。しかし時が下り、ほんとうのインマヌエルなるイエスさまがベツレヘムに来られたとき、人々は宿屋の部屋を譲ってあげることさえしませんでした。暗くて汚い馬小屋に、救い主を追いやったのです。 これが、人というものの姿です。救い主が生まれようと、神さまがインマヌエルの恵みをくださろうと、人はとても冷笑的なのです。ダビデの町ベツレヘムで、インマヌエルなる神の臨在を前にしても冷笑的な態度を取ったミカルは、1000年後の、イエスさまを受け入れなかったベツレヘムの人の姿であり、さらにそれから2000年後の私たちの姿ではなかったでしょうか。ほんとうならインマヌエルの恵みの前に喜びおどるべきなのに、喜ぶこともせず、心が覚めてしまっている。関係ないよ、勝手にやれば? という態度になってしまっている。私たちはいつの間にか、そんな中で、ただ年中行事だからという理由で、惰性のようにクリスマスをお祝いすることで済ませてはいなかったでしょうか? イエスさまは、そんな私たちなのをすべてご存知の上で、それでもそんな私たちを赦すため、十字架にかかってくださるために、この世界に生まれてくださいました。何と大きな愛でしょうか! そして、なんともったいないことでしょうか! これほどまでに私たちは神さまに愛されています。こんな私たちと、イエスさまは一緒にいてくださいます。インマヌエルの恵みです! このクリスマス、ともに喜びましょう!

罪人の企てと神のご介入

聖書箇所;創世記11章1節~9節 メッセージ題目;罪人の企てと神のご介入 なぜ世界にはさまざまな言語があり、それを身に着けるのはとても難しいのでしょうか? 聖書はちゃんとその理由、というより、そのいきさつを語っています。それが今日のみことば、バベルの塔にまつわるできごとです。 さあ、それでは本日の本文を、いつものように3つのポイントから学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。罪人の企ての動機は、「名をあげる」ことです。2節を見てみますと、彼らはシンアルの地に土地を見つけて住んだとあります。このシンアルの地というのは、10章に登場する「ニムロデ」という人物によりつくられた王国を含む場所です。つまり、この創世記11章のお話は、ニムロデが王国を立てたことに端を発します。 ニムロデという人物は、「主の前に力ある猟師ニムロデのように」という慣用句を生むような人物だったと創世記10章は語ります。以前の翻訳では「主のおかげで」と訳されています。しかしこの「主の前に」とか「主のおかげで」ということばは、ニムロデが謙遜に主にお従いする者であったという意味ではありません。むしろその逆で、ニムロデは神への反逆者でした。ニムロデという名前が「反逆する者」という意味を持ちます。 どのように反逆したのでしょうか? ニムロデは地上で最初の勇士であったとありますが、勇士ということは、戦争を行う人間です。ニムロデは地上で最初の勇士、というわけですから、つまりニムロデは、ノアの子孫として主にあって平和を保つべき人類の世界に戦争をはじめて持ち込んだ人間、ということになります。それほど、神のみこころに不従順で、反逆した人物、というわけです。 その、ニムロデの治めた地が、のちにイスラエル王国を滅ぼしたアッシリア、ユダ王国を滅ぼしたバビロンにつながっていることが、すでに創世記10章に示されているのを見ると、ニムロデとはまさしく、神さまに反逆する者の根源、権化ともいうべき存在です。しかし、かの慣用句は、そのような主への反逆により権力を得た者も、所詮は全能なる主の御力によってその力が許されているにすぎない、ということです。地上の権力者、恐れるべからずです。 さて、ニムロデの建てた町に集まった者たちは、何を話し合ったのでしょうか? 3節と4節です。 彼らは町を建てたのみならず、塔を建てました。ジッグラトという、宗教的な施設のことであろうということが、聖書学者たちの間で一致しています。これは巨大な建築物ですが、創世記におけるもうひとつの巨大建築物というと、なんといってもノアの箱舟です。しかし、ノアの箱舟とこの塔には、決定的な違いがありました。それは「神さまが命じられて建てたものか否か」ということです。神さまが建てろとおっしゃらなかったのに、人は建てたのです。その理由は、「自分たちのため、名をあげるため」であり、「全地に散らされないため」でした。 その目的は完全に、神さまへの不従順です。人は、神さまの栄光を現すために生きる存在なのに、自分たちのため、自分たちの名をあげるために取り組んでいます。それも、地に満ちよ、という、神さまのみこころに反抗して、全地に散らされず、ひとつにくっついていようとするためです。 その結果彼らがしたことは、天地万物をおつくりになり、治めておられる神さまではない宗教的な存在に届けと、偶像の神殿をつくることでした。そして、どういうわけだかそのような偶像の神殿は、壮麗、壮大になるものです。実際、煉瓦とアスファルトという新技術で立てられたその塔は、相当な威容を誇ったことでしょう。 しかし、それがどんなに素晴らしくても、目的が神への反逆であり、神ならぬ自分の栄光のためであるならば、それをみことばは、罪、と呼びます。このときシンアルの人々は、自分たちは素晴らしいことをしているつもりになっていたかもしれませんが、していたことは罪の行いそのものでした。 私たちはどうでしょうか? 何の目的で生きていますでしょうか? 私たちは何に優先順位を置いて生活していますでしょうか? 神さまは私たちの生きる目的、生き方そのものをご覧になります。私たちの働きがほんとうに主のみこころにかなうものとなっているか、どこかで立ち止まって祈りつつ、主に問いかける時間が必要です。私たちは主に愛されているかぎり、主はもし、私たちの生き方ならびに生きる目的が間違っているならば、必ず気づかせてくださり、主の栄光を現すという正しい生き方に立ち帰らせてくださいます。 第二のポイントです。神のご介入される方法は、人を罪により一致させないことです。6節と7節のみことばをお読みします。……人とは、その企てることでできないことはない存在である、と神さまは語っていらっしゃいます。人とは、かくもすごい存在です。 しかし、ここで神さまが語っておられるおことばをもう少し詳しく見てみますと、「このようなことをし始めたならば」とあります。そうです、「このようなこと」ということばがだいじになります。つまり、「天に届くような巨大なジッグラトを建てて、創造主なる神さまに反抗する」企てを人が始めたら、それをとどめることはできない、ということです。そういう目的で人が知恵と技術を結集したら、何でもできてしまう、ということです。 人間の知恵と技術というものは偉大なものに思えてきます。いみじくも神さまが、できないことは何もない、とおっしゃったとおりにすべてが進んでいることを、私たちはこの21世紀という時代に生きていて、いよいよ実感させられています。しかし、人はいったい、その知恵と技術をどこに、何のために用いようとしているのでしょうか。 この塔を建てた人々の時代から、その知恵と技術を先鋭化させて一致する試みは、すでに始まっていました。しかし神さまはそこにご介入されました。それは「ことばを混乱される」ということを通してでした。 この、シンアルの地に塔を建てていた者たちにとって、ことばとは、神さまへの反逆をともに成し遂げていくために互いをつないでいた、コミュニケーションの手段、絆ともいうべきものでした。ことばを介して塔の建て方を話し合い、ことばを介して塔を建てる目的を確認し合っていたわけです。神さまはことばなるお方です。ことばとは実に、神さまと交わりを持つための手段であり、人々が神さまにあって交わりを持つための手段です。それが、人が神さまに反逆し、そのために互いを一致させるための手段として用いられたということならば、神さまのなさることは、いまや罪の絆として用いられてしまったことばというものに、混乱という名のくさびを打ち込むことでした。 それは、神さまのさばきというよりも、神さまの愛のゆえでした。人が罪によって一致するならば、またもやノアの洪水前夜のような罪に満ちあふれた世界が展開することになることは充分予想されます。しかしもはや、神さまはそんな世界を破滅的なさばきで打つことをしないと、ノアと契約を結ばれた以上、滅ぼすわけにはいきませんでした。するとますます、人は罪にまみれ、神さまと愛の関係を結ぶことなど決してできないまま増え広がることになります。神さまが人のことばを混乱させられたのは、人が罪によって一致し、神さまに反逆したまま生きつづけることのないようにされるためでした。 罪というものは、人を一致させるすさまじい力があります。あの、振り込め詐欺を行う者たちの悪知恵とチームワークの巧妙さをご覧ください。凄まじすぎて見ているだけでうすら寒いものを感じます。それは半グレのレベルにとどまらず、私たちの生活するあらゆる領域で、そのような不正による一致、罪による一致というものを見ることができるのではないでしょうか? それでは私たちは、何をもって一致するのでしょうか? 私たちがもし、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という罪の性質で一致して教会形成をするならば、主のみからだとしてとてもふさわしくない共同体をつくってしまうことになります。それは、とても人間的に過ぎる共同体であったり、いわゆるカルトのような強迫観念に満ちた不健康な共同体であったりします。私たちが一致するのは、日々お読みするみことばによって、そして、日々私たちを祈りへと導く聖霊なる神さまによって……それによって私たちは一致する必要があります。神さまはそのように一致する私たちに、かぎりない祝福を与えてくださると信じていただきたいのです。罪による一致を捨てて、みことばと御霊による一致へと日々導かれる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、第三のポイントです。罪人の企ては、神のご介入に最終的に負けます。8節、9節をお読みしましょう。……そうです。人は、罪により一致し、その場で創造主なる神さまに反逆しつづける罪の生活をすることを希望しましたが、神さまはそんな彼らのことを散らされました。 これにより神さまのみこころである、生めよ、増えよ、地に満ちよ、というご命令は達成されることとなりました。このご介入によって、人は全地に散るものとなり、そこで子どもを産んで増えるからです。しかし、神さまのご介入は、それ以上の効果をもたらしました。それは、罪によって一致しようとする人の企てが壊されたことです。 神さまはこのお取り扱いをなさるために、人のことばを混乱させられました。では、ことばとは何でしょうか。人と人とをつなぐコミュニケーションの道具です。ことばが通じなければ、人はどんなに一致してことを行おうとしても、できません。それ以前に、ことばの通じない者と何か一緒に事を行おうと思うものでしょうか。こうして人は、もはやバベルの塔を一緒に建てようと考えるのをやめ、ことばの通じる者どうしで集まり、全地に散って行ったのでした。 このことからわかるのは、神さまに反抗しようとして一致する人の企ては、最終的には神さまのご介入によって壊される、ということです。 この世界には、聖書に啓示された神さまのみこころを壊そうとする試みが、たくさん存在します。技術革新は日々なされていて、それはとても素晴らしいことのように思えますが、それが神さまのご栄光を現すという目的でなくてなされているとしたらどうでしょうか。 私たちはそういう世界に生きている現実を認める必要がありますが、とはいいましても、私たちはそのような環境に生きていることを、過度におっかながる必要はありません。なぜならば、大多数の人を一致させているそれらの反キリスト的な企ても、まことの神さまの御手にかかればあっけなく崩れ去るものであるからです。 終わりの日になると、私たちはキリストの名のゆえに苦しむことも、今まで以上に多くなるでしょう。しかし彼ら反キリストは、からだを殺せても、たましいを殺すことのできない存在にすぎません。 私たちキリストにつく者は、彼らを恐れてはなりませんし、また恐れる必要もありません。主は、からだもたましいもゲヘナで滅ぼすことのできるお方です。彼ら反キリストが、この世界に対して悪のかぎりを尽くし、好き勝手なことをしようとも、最終的には神さまが彼らのからだもたましいもゲヘナで滅ぼしてしまわれます。恐れるべきは、そしてお従いするべきは、この絶対的な権威を持っていらっしゃるお方、神さまです。 新聞やニュースでは、世界や日本の残酷な現実、また、何が起こるかよくわからない現実を毎日見せつけられます。それは私たちをとても不安にさせるでしょう。しかし、私たちは不安なままでいなくてよいのです。大波の上を歩かせてくださるイエスさまを見つめて近づくならば、私たちは安全です。人の企ても、この世のありとあらゆる環境も、永遠なる神さまの前にはすべて有限、限りあるものです。 私たちがそれでも何か、言いようもない恐れに取りつかれているならば、イエスさまを見つめましょう。イエスさまはこの罪の世界から私たちを救い出し、神さまのものとしてくださいました。それゆえにイエスさまは私たちひとりひとりに、「恐れるな」と言ってくださいました。イエスさまの御声を聞きましょう。この世のあらゆる企て、罪人の企ては、永遠なる神さまのご計画の前には完全に負けます。今私たちはディボーションで、ヨハネの黙示録を毎日読んでいますが、これは人の終末意識をあおって恐怖に陥れる書物ではなく、神さまの完全な勝利を高らかに宣言した書物です。神さまの勝利、キリストの勝利は、私たちのものです。確信を持って歩み出し、日々の歩みにおいて、絶対的な勝利を体験しましょう。

神の子となる特権

聖書箇所;ヨハネの福音書1章9~13節 メッセージ題目;神の子となる特権 聖書では、光とはイエスさまのことを指し、また、イエスさまという光をこの闇の世に照り輝かせる私たちのことを指しています。この「光」をめぐって、三者三様の立場がこのみことばに登場します。順を追って見てみましょう。   一番目に、光を照らすお方、イエスさまです。9節のみことばをお読みします。……世を照らすことは、主のみこころでした。この世はいつも、人の思い図ることは悪に傾きます。それは、人が罪人だからです。罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。  このような世界は、それこそノアの時代の洪水のような全地球規模の災害により、何度滅ぼされたとしても当然でした。しかし神さまは、ノアと結ばれた契約ゆえに、この地をそのような破滅にあわせることをなさらないと約束されました。その代わりにしてくださったこと、それは、ひとり子イエスさまという光によってこの地を照らしてくださることでした。   イエスさまは、すべての人を照らすまことの光であると聖書は語ります。イエスさまという光によって、この世界の暗やみに閉ざされていた人々は照らされ、まことのいのちの道を歩みます。  そのように、神さまが人々をイエスさまという光で照らされるのは、この世界が暗やみのままであってはいけない、というみこころゆえでした。考えてみましょう。私たちの子どもたちが、光を避け、暗やみの中に生きることを、果たして私たちは望むでしょうか? 神さまのみこころも同じことです。光をつくられた主は、ご自身が愛をもってつくられた人間たちが、イエスさまという光のうちを歩むことを願っていらっしゃいます。 人は神のかたちにつくられているので、神さまのみこころどおり、この世をよくしていきたい本能が与えられている。その現れとして、医学においても産業においても哲学においても、優秀な指導者が現れ、この世が決定的に悪くなるのを防いできた、とも。それでも人の努力で世の中をよくしていくには限界があります。 といいますのも、やはり人の心の思うことは、はじめから悪であるとおり、人の力ではこの世をよくしていくには限界があるからです。神さまはそのような世を憐れんで、まことの光であられるイエスさまを送ってくださり、この世を明るく照らすというみこころを示されたのでした。 しかし、このように世界をイエスさまという光によって照らしてくださった神さまのみこころを、人はどのように受け取ったのでしょうか? 二番目に、光を拒んだ存在、世について見てみましょう。まず、10節を見てみましょう。……そうです。この世は、イエスさまという光を知らなかったとあります。   知らなかったのはなぜでしょうか? イエスさまではないものを、光と見なして生きていたからです。といいますよりも、そういうイエスさま以外のものを光と見なして生きる方が、彼らには都合がよかったからです。イエスさまの時代の宗教指導者たちをご覧ください。あれだけ聖書に通じていたはずの人々が、いざ神の御子イエスさまを前にしても、そのお方がまことの光であることがわからなかったのです。彼らは頑なになり、民衆がイエスさまのことを救い主と言おうとも、このお方が神の子であることを、頑として認めませんでした。   彼らにとって光とは、自分たちの教え、言い伝えであって、それらの物は一見するととても神がかっていて、有難い教えのように思えます。しかし実際のところは、人を立て上げるどころか、人を罪に閉じ込め、落ち込ませる教えです。それでも、その教えの中に民衆を閉じ込めておくかぎり、宗教指導者たちは安全です。イエスさまはそんな彼らのことを偽善者と呼ばれ、天国の鍵を持ち去ったと激しく非難されました。   そのようにしてイエスさまがわからなかったということは、どのような結果を生んだのでしょうか? 11節です。イエスさまはユダヤに来られました。神さまを王とすることに誇りを持った国、神の民であることに誇りを持った民のところです。しかし彼らはそのアイデンティティに反して、結局のところ、神の子なるイエスさまを受け入れなかったのでした。彼らは、一時(いっとき)はイエスさまを救い主と受け入れたように見えましたが、彼らのしたことは、声を合わせてイエスさまを十字架につけるようにと訴えたことでした。彼ら群衆こそがイエスさまを十字架につけたようなものです。 民がイエスさまという光を受け入れない、それはまさに、イエスさまを十字架につけて亡き者にしたほど拒絶したということです。しかし、このようにイエスさまを拒絶するということは、その時代にかぎったことではありません。イエスさまの時代以来2000年にわたって行われてきた宣教のわざにおいて、いったいどれほどの人が、イエスさまを拒絶してきたことでしょうか? しかし、世の勢力が支配しているかぎり、イエスさまという光に照らされることを人々が嫌がるのは当然のことなのです。  いえ、過去や現代だけのことでしょうか? 未来においてもそうなのです。今私たちは、毎日のディボーションのみことばで、ヨハネの黙示録を通読しています。ヨハネの黙示録は、第一義的には迫りくるローマ帝国の滅亡を預言した書物ですが、巨視的に見れば、これが私たちの生きるこの世界の終わりを預言した書物であることを疑うクリスチャンはいないでしょう。このヨハネの黙示録を見ると、どれほどの災害に合おうとも人々が決して悔い改めない、その頑なな様子がこれでもかと描写されています。全知全能なる神さまが未来を見通されたレベルにしてそうなのです。私たちはそれでも世の終わりのリバイバルを願いつつ宣教に励むものですが、世界は最後までイエスさまを拒絶する者たちで満ちることもまた、私たちは受け入れる必要があります。   しかし、それなら私たちは絶望したままでいなければならないのでしょうか? 決してそうではありません。三番目、光を受け入れた存在、私たちについても、聖書は語っています。12節をお読みしましょう。……ご覧ください!「神の子どもとなる特権」です! 全知全能なる神さまを「お父さん」と呼べること、それはどれほどの特権でしょうか!  そして、天のお父さんのものは、みな私のもの、ということにもなります。すごいことです。私たちは、天の御国の王子、王女であり、やがてイエスさまとともに御国を継ぐ者です。   しかし、この御国の世継ぎはだれでもなれるものではありません。この方、つまりイエスさまを受け入れた人、すなわちその名を信じた人、その人が神の子どもにしていただけるのです。   イエスさまを受け入れるということは、イエスさまが神の子であるとか、人の罪のために十字架にかかったとか、そういうことを単なる情報、インフォメーションとして知っていればいいのではありません。「私」が罪人であることを認め、「私の罪」のためにイエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じ受け入れるのでなければ、ほんとうの意味でイエスさまを受け入れたことにはならないのです。  しかし、人がひとたびイエスさまを受け入れるならば、その人は神の子どもになります。罪が完全に赦されます。過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦されるのです。永遠のいのちが与えられ、天国に入れられます。それだけではなく、この地上の生涯を、神の栄光を現して生きようという、何よりも素晴らしい目的が与えられます。  信じるということは、何か難しいことをすることではありません。それこそ、ただ信じることです。しかし、このただ信じることはなんと難しいことでしょうか。私たちはこうして信じることができましたが、それが素晴らしいからと人々に伝道しようとすると、私たちはどんなに、この特権を得られることがやさしいことをいっしょうけんめい伝えたとしても、聞いてもらえないことなどしょっちゅうです。  その秘密は、13節で語られています。……信仰を持たせてくださる、すなわち救いに導いてくださるということは、完全に神さまのご主権の領域です。もし、救いというものが血筋によって得られる者だとするならば、その血筋に生まれた人と生まれなかった人との間に、人間的な差別をもうけてよいということになってしまいます。また、単なる欲望や意志によっても信仰を持つことはできないことをこのみことばは語ります。ただ、神によって、神さまの恵みによって人は信仰を持ち、神の子どもとしていただくのです。  そういうところから、私たちは個人的な回心の体験というものがどうしても必要になります。私たちはみな、聖霊なる神さまによって、イエスさまの十字架を信じる信仰に導いていただいた存在です。私たちはほんとうの意味で家族です。私たちはこの地上においても、天国においても、永遠に変わることのない家族です。 私たちはこの地上を生きるかぎり、神さまを父とする家族としての役割を果たしてまいりたいものです。また、その家族の一員としての生き方を、隣人を愛するという生き方をもって全うしてまいりたいものです。学校でも、職場でも、近所づきあいにおいても、私たちが神の家族、神さまの子どもらしく振る舞うならば、いつしかその愛は隣人に伝わっていきます。その中から、主に召された人は特別な恵みを受けて、イエスさまを信じ受け入れて神の家族に加えられます。  私たちは祈ってまいりましょう。私たちが隣人を愛する人になれますように、また、その隣人とともに、同じキリストのからだなる教会を形づくるビジョンを思い描けますように。主がこのお祈りを聞いてくださると、信じて祈ってまいりたいものです。  イエスさまは、この世を照らす光として来られました。しかし、人はその光を拒みました。罪人ゆえに、その行いが悪く、イエスさまに照らされたくなかったのです。私たちもそのうちのひとりではなかったでしょうか? しかし、私たちはあわれみをいただいて、イエスさまを信じ受け入れる信仰を聖霊なる神さまに与えていただき、天の神さまを父と呼ばせていただく立場、神の子どもとならせていただきました。ほんとうにもったいないことですが、この貴い立場にしていただいたことにただひたすらに感謝し、この一週間も、そして生涯、神の子どもらしく、光の子どもらしく、ともに歩んでまいりましょう。

契約を告げる虹

聖書箇所;創世記9章1~17節 メッセージ題目;契約を告げる虹 今日は虹のお話です。本日お読みいただいたみことばには、そのものずばり、虹が登場します。虹は雨上がりのときにかかります。今日お読みいただいたみことばでも、まさに雨上がり、洪水の過ぎ去ったあとに神さまがかけてくださると約束されたのが、この虹だったというわけです。本日のメッセージでは、「神さまが虹というものをどのように見なされたか」、これを取り上げたいと思います。 第一に、虹とは神さまと人との間の契約のしるしです。 8節から11節をご覧ください。……神さまはノアとの間に契約を立てられました。それは、人はもはや大洪水、それも全地を覆うような激しい大洪水によって滅ぼされることはない、というものです。神さまはノアのゆえに、ノアにつく家族、子孫、そしてすべての生き物との間に結んでくださいました。 私たちが現在、大きな洪水によってことごとく滅ぼされることもなく、こうして生きているのは、神さまがノアとの間に立ててくださった契約によることです。私たちの住む世界の罪深さを思うならば、私たち人間は何度でも大洪水によって滅ぼされなければならなかったのではないでしょうか。しかし、神さまはそうはなさらず、今もなお、私たちのことを忍耐してくださっているのです。 人間は、特にノアのように罪深い世に対して良心を痛めるような善良な人は、この世界の終わりを思っておびえることもあるでしょう。しかし、神さまはそんな人間のために、ひとつのしるしを見せてくださると約束してくださいました。それが、空にかかる虹であったということです。 創世期以来、神さまが人との間に契約を結ぶ場面は数多く登場します。しかしそれは基本的にはすべて同じもので、神さまが一方的なあわれみによって人をご自身の民にしてくださり、まことのいのちを保障してくださる、というものです。 その契約の根底にあるものは、何かをした、という、人の行いによって満たすものではありません。ただ、神さまの側から示してくださる恵みを受け入れ、神さまを信じる、それが人としてすることでした。 それでは、現代を生きる私たちにとっては、この「虹」にあたる象徴は何でしょうか? それはほかでもありません、「十字架」です。私たちは、イエスさまの十字架による罪の完全な赦しを信じる信仰によって救っていただきました。十字架とは、神さまの側で人間に示してくださった契約の条件です。あなたのすることは、ただ信じること、信じることさえすれば、神さまといのちの契約を結んだことになります。あとは私たちのすることとして、神さまのみこころに従順にお従いすることです。 虹の話に戻ります。私たちはここで、「神さまは」虹というものをどのようなみこころでおつくりになったかを考える必要があります。神さまが十字架を信じる信仰によって救いに定められた、そのような者たち、まさに私たちのような者たちが虹を見るとき、私たちが、この大洪水の滅びを免れさせていただいた、救いに定められた者たちであることを思い起こすことを、主は願っておられるということです。人は虹を見て、不思議だと思ったり、美しいと思ったりするだろう、またその虹にいろいろな意味づけをするかもしれない、しかし、あなたたち神の民は、ここでどうか、十字架を信じる信仰によってわたしとの間に結んだ契約を思い起こしてほしい、その神さまのみこころを受け取りたいものです。 ともすると私たちは、神さまとの間に結ばれている契約の絆を忘れてしまいがちなものです。しかしそんな私たちが契約を思い起こせるように、神さまが虹をかけてくださるわけです。 虹がかかるのは、晴れのあとに雨、そして晴れとなるときです。順風満帆のように行っていた人生に思いもかけない土砂降りのような事態が起こると、私たちは神さまの恵みを見失い、わが身を呪いたくはならないでしょうか。しかしその後で、神さまが虹をかけてくださるように、苦難の中から救い出してくださる神さまは、愛しているよ、あなたのことを覚えているよ、と、私たちに虹のしるしを見せてくださいます。創造主なる神さまは、なんと粋なお方でしょうか! 神さまをほめたたえます。 第二に、虹とは神さまが起こしてくださるものです。13節、14節をお読みします。……このことばの主語は、「神」です。虹を起こしてくださる主体は、神さまです。 聖書を見てみますと、天候というものは偶然に巡っているものではなく、神さまが主体的に動かしていらっしゃるものだということがわかります。イエスさまのことばを見ると、神さまはよい人にも悪い人にも太陽を昇らされる、雨を降らせられる、とありますが、これは、あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい、という教えの根拠となる象徴的な意味ももちろんあります。しかし、それ以前に、神さまは晴れや雨のような、普遍的な天候さえも司って、善人も悪人も養われる、ということを語っているわけです。 そのような中で、虹。もちろん、科学的に虹の成り立ちを説明することもできるでしょう。しかし、その虹を見て、創造主のご存在に行きつける人は、果たしてどれくらいいるでしょうか? 私たちは聖書のみことばが、天地万物を司っておられる創造主のご存在とみこころとみわざを啓示する書物であると信じ受け入れ告白する以上、虹というものもまた、神さまご自身が人間を滅ぼすまいとお定めになった、そのみこころを示すためにおつくりになったものだということを、はっきり認め、告白する必要があります。 そういうことからすると、世の人たちがこの森羅万象を見る視点から、私たちはなんと自由になる必要があることでしょうか! うちの教会は、聖書の記述が真理であることを前提に、創立以来長年にわたり、唯物論的な世界観に戦いを挑みつつ教会形成をしてきました。唯一の神さまがすべてに主権を持っていらっしゃることを前提にした、聖書の世界観に立った教会形成の伝統は、この教会においてしっかり受け継いでいきたいと願わされています。 あらゆるものは神さまが創造された。それも、特別なみこころをもって創造された。虹は特に、滅ぼさないというみこころを如実に示すシンボルである。そのことを私たちはしっかり、記憶しておきたいと思います。 第三に、虹とは人が見るものであるのと同時に、神さまがご覧になるものです。15節をお読みします。……見てください! 虹とはまず、神さまがご覧になるものなのです。虹がかけられる究極の目的は、人間の側にあるのではありません。神さまの側にあります。このことからわかるのは、神さまが人間との間に結ぶ契約は、究極的には神さまの主権によって結ばれるものである、ということです。 天国に招き入れられるには、神さまの基準に達した義人でなければいけないのです。しかし、そんな人などいるのでしょうか? あのノアも、この9章の終わりの部分を見ると、泥酔して裸で寝入るなど、とても義人とは言えないような醜態をさらしています。それが人間というものです。義人はいない、一人もいない、まことに、人間はみな罪人です。 それなら、だれが天国に行けるのでしょうか? 神さまのあわれみをいただいて、正しくないのに正しくしていただいた人だけです。どうすれば正しくなれるのでしょうか? 私たち罪人の身代わりに十字架で罪の罰を受けてくださった、イエスさまの十字架を信じること、これだけです。しかし、このような単純なことさえも、人はしようとはしません。ただ、神さまのあわれみによって選ばれた人だけが、イエスさまの十字架を信じるように導かれるのです。 そうです。神さまと契約を結ぶ人は、神さまによって特別に選ばれた人だけです。人間の側でももちろん、永遠のいのちを得るために、天国に行くために頑張るでしょう。しかしだからといって、それで神さまに選んでいただけるかどうかということは別問題です。人の救いはどこまでも、神さまの主権にかかっています。 ヨハネの福音書1章12節と13節には、このようにあります。……そうです。イエスさまの御名を信じるということは、それぞれの人が神さまご自身によって信仰告白に導かれることによって、初めて可能となることで、神さまはその信仰をご覧になって、私たちをもはや罪人としてではなく、わが子として受け入れてくださるのです。 人はときに、自分がほんとうに救われているかどうかわからなくなるときがあるでしょう。神さまの愛を見失ってしまうとき、どうしても悪い習慣から抜け出せないとき、兄弟姉妹を愛していない、自己中心の自分に気づかされるとき……しかし、そのような私たちでも、神さまによって、イエスさまを信じる信仰に導かれたことは事実です。私たちが神さまから遠ざかってしまったように思えることがあったとしても、神さまが私たちのそばから遠ざかってしまわれることは、決してありません。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない、と、神さまご自身が言ってくださったとおりです。 私たちがこうして礼拝の場に導かれたのは、日常生活に追われていては見逃してしまうような「虹」を見せていただくことに等しいです。礼拝とは、神さまの側で私たちのために用意してくださった、神さまにまみえる場です。神さまご自身が救われた民と契約を結んでくださっていることを、神さまご自身が思い起こしてくださる、私たちの思い以上に、神さまが私たちに思いを注いでくださっている、それが「虹」をかけてくださった理由であり、いまこうして礼拝の場を備えてくださった理由です。 私たちはどうでしょうか? 振り返ってみて、神さまの側で私たちを決して忘れていらっしゃらない、お見捨てにならないということを、つい忘れ、がっかりしてしまっているようなことはないでしょうか? 今日この礼拝の場は、神さまの側でそんな私たちのことを決してお忘れになっていない、お見捨てになっていない、変わらずに目を留めて愛してくださっていることを思い起こさせていただく場です。

箱舟と救い

聖書箇所;創世記8:1~22 メッセージ題目;箱舟と救い 数週間ぶりに、ノアの箱舟についてお話しします。今日の箇所、創世記8章は、ノアの箱舟生活の後半、そして箱舟から出た後のお話です。今日の箇所を3つのポイントから学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神さまはノアのために、滅びの水を引き上げられました。 創世記7章を読んでみますと、水は150日間増えつづけたとありましたが、8章に入ると、この水の源が閉ざされ、減りはじめることになります。大雨は降らなくなり、地下水は湧き出さなくなりました。もう水が増えることはなくなりました。あとは、太陽の光に照らされて乾くだけです。箱舟はアララテの山地にとどまりました。そしてさらにしばらくすると、山々の頂が現れはじめました。回復は始まり、順調に進んで行ったのです。 みなさん、ここで少し、私たちは考えたいことがあります。150日間、増えつづける水と豪雨の中、荒波に翻弄されつつ、どこに行くともしれぬ漂流を続けた箱舟の、その中にいたノアたち8人の家族は、どのような気持ちでいたことでしょうか? 150日というと、実に5か月です。今から5か月間波に翻弄されながら、箱舟の中に閉じこめられた生活を送りなさい、と言われたら、私たちにできるでしょうか? しかし、ノアとその家族には、それ以外に滅びを免れる方法はありませんでした。いかにそれが、先が見えないようなことであろうとも、それが神さまのみこころである以上、お従いするばかりでした。 主はときに、御民に対し、生き残るために必要な道をお示しになります。この洪水の場合は、箱舟の中に入ることでした。 また、エジプトに寄留していたイスラエルが救われるためには、過越の食事を食べ、家族ごとに羊をほふり、その血を鴨居と2本の門柱につけるということをする必要がありました。イスラエルはこの主のさだめに従順に従ったゆえに、さばきを過ぎ越され、いのちが守られたのでした。 もっと後の時代になると、シリアのナアマン将軍のケースを挙げることができるでしょう。ナアマン将軍のツァラアトは、ヨルダン川に7回身を浸すという主の方法に従順に従うことによっていやされ、きよめられたのでした。 罪からの救い、けがれからのきよめ、これらのものは、人間的な方法を用いてもかないません。人間は、よい行いをしたり、哲学を極めようとしたり、宗教にのめり込んだりして、なんとか自分がきよめられ、救われることを願い、取り組みます。しかし、人が救われるためには、神さまの側でよしとされる方法で神さまに近づかなければだめなのです。神さまの求めていらっしゃる基準を外れるならば、人間の側でいかに努力しても、決して救いに到達することはできません。 その、神さまの方法に従うということは、自分にとっては納得のいかない方法と思えるかもしれません。ナアマン将軍はヨルダン川に身を浸しなさいというエリシャからの伝言に一度は腹を立てましたし、長い漂流生活の中にいたノアも、どこかで不安な思いに駆られたとしても不思議はありません。聖書の中で、使徒の働きにあるパウロの難船の記事を見てみると、読むだけで船に乗る者たちの不安が伝わってきます。ノアもそういう心境になっていなかったかと思わされます。それでも、人がどう思おうと、神さまの救いの方法ははっきりしています。その道を通して、私たちは救いに至るのです。 ここまで来れば、私が何を申し上げたいかお分かりだと思います。そうです。ほんとうの救いは、イエスさまの十字架を信じる信仰によってのみいただくことができます。これ以外に道はありません。 ただし、イエスさまの十字架を信じる信仰というものは、一生かけて達成していくものです。生涯、その生活を通して、イエスさまと深く交わり、イエスさまのみこころをこの地上に現わしていくべく、徹底して、自分を打ちたたいて、イエスさまのあとにしたがって重い十字架を背負ってついていくのです。それがいやで、信仰を捨てた人のなんと多いことでしょうか。願わくは主が、その人がイエスさまを受け入れた過去を持つという事実を覚えて、救ってくださればと願わずにはいられませんが、その人が現実に今、ともに教会形成、キリストのからだなる教会を立て上げる貴い働きに献身していないということは事実なわけで、その人は確実に、ほんとうの意味での祝福を何にももらえていないことになります。 私たちはどうでしょうか? ノアの箱舟の中のようなあてどもない生活に絶望して、信仰の歩みから落伍する者が現れないようにと願います。また、ノアの箱舟の中にいるかぎり、動物の世話をするような仕事があったように、私たちもこの教会という共同体においては、この労働力をもって、あるいは財物をもって、主と共同体にお仕えする役割をみな持っています。 私たちは、自分の属する教会とはいかなる場所か、ちゃんと理解していますでしょうか? イエスさまの救いもたずさえないでこの教会のメンバーに居座ろうということでは、まるでそれはイエスさまのたとえにあったような、礼服も着ないでずかずかと婚礼の宴に居座る者のようです。私たちは即刻悔い改めなければなりません。 救いを完成する道がいつ終わるかは、主だけがご存知です。私たちのすることは、その中で主の完全な救いを待ち望みつつ、その生活を主におささげし切って、救いを達成すること、これに尽きます。 第二のポイントです。神さまはノアのために、生命力を芽生えさせられました。 水は確実に減りはじめました。水かさが増さなくなり、かえって減り続けていることが、感覚的にもわかりました。山の頂も現れはじめました。そこでノアは、果たして地上波どうなったかと、カラスを放しました。するとカラスは、行ったり来たりしながら戻ってきました。 カラスは、モーセの律法によれば、食べてはいけない汚れた鳥ということになっています。また、私たちの一般常識では、カラスはゴミ捨て場をあさるような害鳥で、また、縁起の良くない鳥という扱いを受けています。カラスはサタンの象徴であるという聖書解釈もありますが、それについては、今日は詳しく扱いません。この場合、はっきりしているのは、カラスはまだ出たり戻ったりしていたので、羽を休める場所はなかった、ということです。 これに続いて放たれたのは、鳩、でした。鳩はカラスとちがい、きよい鳥に属します。神さまにいけにえとしておささげするにふさわしいくらいきよい存在です。ノアは、この鳩に関しては丁寧に扱ったようで、土地が乾かず、休み場がないために行ったり来たりしていた鳩を、ノアは箱舟の中から手を伸ばしてとらえ、また中に入れました。 ノアはその1週間後、もう一度鳩を放します。すると鳩は、オリーブの若葉をくわえて帰って来ました。これは、もう箱舟の中にいるあらゆるいのちが地に降りる準備が万端整いました、ということを知らせる、よき知らせでした。神さまはこの大洪水の中においても、オリーブを守っておられました。 オリーブが、聖書において特別な存在であることはみなさんもご存知でしょう。ダビデが詩篇23篇で吟じた、羊を牧するむちと杖、これはどちらも、オリーブの枝からつくります。そうだとすると、オリーブとは、牧するイエスさまと牧される羊なる主の民との間を結ぶ、絆、交わりの象徴とも言えるでしょう。 また、オリーブの実は、それを搾ってつくる油がとても価値のあるもので、いのちを保つ源とも言えるものです。このオリーブ油は、もう残りが一切出てこない、かすになるまで何度も搾ります。ゲツセマネの園は、まさしくオリーブの油を搾る場であり、そこでイエスさまは血の汗を流してご自身をささげ切るお祈りをされ、十字架へと進んで行かれたのでした。 こうしてみると、オリーブというのはただたまたま鳩が飛んだらそこに生えていた植物ではなく、聖書的に見て、主の深いみこころを知らせる存在であったことがわかります。そう、キリストが、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたと第一コリントみことばにあるように、洪水に滅ぼされて死に満ち満ちた世界に萌え出でたオリーブは、闇の中に輝き、闇に打ち勝たれたキリストを象徴しています。 そして、鳩です。聖霊が鳩のような姿でバプテスマをお受けになったキリストの上にとどまられ、公生涯が始まったということを考えると、鳩は、キリストを証しする聖霊なる神さまの象徴です。聖霊の象徴である鳩が、キリストの象徴であるオリーブの若葉を船に持ち込んだということは、ノアの箱舟に象徴される神の共同体、救いの共同体……すなわち教会は、キリストを証しする聖霊によってまことの希望を得る、ということを表していると言えましょう。 ノアは鳩のくわえたオリーブを見て、何を思ったでしょうか。終わったんだ! 救われたんだ! その喜びに満ち満ちたのではないでしょうか。私たちもそうなります。ただし、それが実現するのは、私たちがこの地上の歩みを終え、天国に移されたときです。それまで私たちはこの地上で、キリストの救いを完成させる働きにひたすら励むのみです。この地上の働きは、時にとても苦しくて、いつ果てるとも知れぬ苦しみに、音を上げてしまいそうになることもあるでしょう。しかし、あのノアの箱舟生活には、オリーブの若葉という名の、終わりを告げるうれしい知らせが届いたのです。私たちも終わりの日には、必ず天国に入れていただきます。その日を目指し、恥ずかしくなく御前に立てる私たちとなりますように、日々励んでまいりたいものです。 第三のポイントです。神さまはノアのために、礼拝の機会を与えられました。 ノアは、3度目に放った鳩がもう戻ってこないのを見て、もうこの地がいのちを迎え入れる準備が整ったことを知りました。しかし、実際にノアが箱舟の外に出るには、もう少しの時間が必要でした。ノアはしかし、自分で出る時期を判断して外に出たのではありません。神さまのご命令が下されたのを知って、そのみことばに従順に従ったゆえに、この601年目の第二の月の27日に外に出たのでした。箱舟に入り、主がうしろの戸を閉じられてから、実に1年以上の月日が経っていました。 一年ぶりに降り立った地面! もうそこには、すでに草も萌え出でていたことでしょう。そこに、待ってましたとばかりに降り立つ動物たち! 私たちがノアだったらと考えてみましょう。どんな気持ちになるでしょうか? しかしノアは、ここで神さまに礼拝をおささげしました。きよい家畜、きよい鳥からいくらかを取って、それをささげものとしておささげしたのでした。その家畜や鳥は、ノアにとっては、大洪水に揺られる箱舟の中で、一年にわたって寝食をともにした特別な存在です。しかしノアは、まずすることは、この大事な存在の血を流すことで、神さまにいけにえをおささげすることだと信じ、すぐに実行に移したのでした。 神さまは、怒りの波、それこそ怒涛をもって地をことごとく滅ぼされました。ノアは、この罪人に対する神さまの怒りをなだめるため、いのちの血を流し、いけにえとしました。そうです。神さまは私たち罪人に、死をもって滅ぼし地獄に投げ入れるという権威をお持ちで、私たちは罪人である以上、神さまは怒りを注がれ、地獄の火の池で永遠に焼かれて滅ぼされるにふさわしい存在です。 しかし、神さまはノアのいけにえを受け入れられ、人類を一切滅ぼすことをもはやしないことを宣言されました。罪人であることを知ってもなおです。ここに、神さまのご慈愛と忍耐を見ることができます。 この世界は、やがて過ぎ去ります。イエスさまは十字架の死から復活され、天に昇られましたが、再びこの地に来られることを言い残されました。あれからそろそろ2000年になろうとしています。人々はますます混迷する社会に翻弄され、怖じ惑っていますが、この世界の果たしてどれくらいの人が、イエスさまが再び来られ、この世をさばくということを本気で信じ、その日を待ち望みつつ祈っているでしょうか? 私たちはどうでしょうか? イエスさまが天に昇られてからこのかた、世界はつねに終わりの時でした。しかし、2000年間イエスさまがいらっしゃらなかったからと、これからもいらっしゃらないということにはなりません。明日いらっしゃるかもしれませんし、今日いらっしゃるかもしれません。いえ、こうして礼拝中にいらっしゃったとしても、不思議はありません。さあ、その時私たちは、どうしますか? にっこり笑ってお目にかかれる準備はできていますか? ノアのいけにえを受け入れられた神さまがおっしゃったとおり、人は幼いときから悪、罪人です。しかし、神さまがノアに礼拝の機会を与えてくださったように、私たちには今なお、神さまを礼拝する道が開かれています。イエスさまの十字架の血潮によって、私たちは大胆に神さまに近づくのです。 神の怒りから救われ、天国に入れていただく。その救いを完成する一生ものの歩みは、とてもきびしいものです。しかし、それでも主は、私たちをつねにみそばに置いてくださいますゆえに、喜びがあります。聖霊なる神さまがこの教会という共同体に教えてくださる、イエス・キリストの恵みにつねにとどまりつつ、この地上の歩み、イエスさまがやがて来られるまでの歩みを、進めてまいりましょう。 ★お祈りの中で、みなさまにお尋ねしたいと思います。自分は救っていただいた喜び、はじめの愛を忘れていました、礼拝の感激をなくしていました、主よ、私はいまいちど、あなたさまに献身いたします、私がさらに真剣に礼拝をささげる者となるために、自分の時間、財物、持ち物を優先的に、あなたさまを礼拝するために用いてまいります、そのように願われる方は、右の手を挙げてください……。

十二弟子と私たち

聖書箇所;マタイの福音書10:2~4 メッセージ題目;十二弟子と私たち  先週も、みなさまのお祈りによって送り出され、韓国に行ってまいりました。私を霊的にはぐくんでくれた韓国教会から、私はさらにパワーをいただいて、より一層仕えてまいりたいと願う所存でございます。牧師のペ・チャンドン先生がどれほど、信徒が整えられて主の弟子となっていくかということに牧会の生命をかけられ、取り組んでこられた、その生の声をあらためてお聴きすることが、このセミナーのすべてであったと言えるかもしれません。これは、技術や方法論の問題ではなく、教会が教会らしく立て上げられていく生の姿であり、これにあらためて触れることができたのは、弟子訓練のビジョンを思い描く私にとって、またとない力となることでした。  そこで本日は、主のみこころである弟子訓練というものについて、特に、イエスさまが召された十二弟子にスポットを当てながら、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書を照らし合わせつつ、見てまいりたいと思います。  本日は、十二弟子の共同体をイエスさまが結成されたその目的を探り、やはり私たちもイエスさまの弟子として、このイエスさまが弟子たちを召されたそのことから何を学ぶことができるか、見てまいります。  十二弟子の共同体の性格、その1は、イエスさまが選んだ人々、ということです。まずは、マタイの福音書10章1節をご覧ください、「イエスは弟子たちを呼んで」とあります。イエスさまご自身がお呼びになったのです。  では、どのようなシチュエーションでお呼びになったのでしょうか? このときイエスさまにはすでに、たくさんの弟子たちがついてきていました。このイエスというお方はただものではない、ぜひとも学びたい、そういう人がいっぱいいたというわけです。  しかしイエスさまは、その大勢の弟子たちの中から、特別に十二弟子をお選びになりました。それはどういう人たちだったのでしょうか? マルコの福音書、3章13節の表現によれば、それは「ご自分が望む者たち」でした。そうです。イエスさまが、この男はわたしの弟子にふさわしい、と見込んでくださった12人が、選ばれて、十二弟子となったのでした。  そうです。イエスさまのスカウティングです。おそらく、イエスさまにぞろぞろとついて来ていた者たちは、イエスさまのことを尊敬していたでしょうし、また愛してもいたはずです。しかし、イエスさまはだれでも彼でも選ばれたわけではありませんでした。特に12人という小グループを結成され、この者たちを3年かけて訓練することで世界を変えるという、驚くべきことをなさったのでした。  ただ、イエスさまは、この12人を何のお考えもなしにお選びになったのではありません。むしろその逆です。ルカの福音書6章12節を読めばわかるとおり、イエスさまはこの12人を選ぶために、一晩山にこもり、父なる神さまのみこころを徹底的にお尋ねしつつ、慎重にお選びになったのでした。  ここでしかし、私たちは疑問に思わないでしょうか? イスカリオテのユダを、イエスさまはこの祈りの中でお選びになったというのだろうか? お分かりになっていてもなお、イエスさまはなぜお選びになったのだろうか? もちろん、ユダをお選びになることは父なる神さまのみこころでしたし、イエスさまも従順に従われました。ユダがどういう人間で、最後にはどのようなことをしでかすか、すべてを見通される御目によって知っておられた上でのことです。ユダを十二弟子の共同体に迎え入れ、3年も寝食を共にせよだなんて、それはイエスさまにとって、どれほど大変な決断だったことでしょうか。しかし、イエスさまはそれでもあえてユダも選ばれ、十二弟子の共同体に迎え入れられたのでした。 イエスさまの弟子だなんて、私はそんなにしっかりしていないよ、私はそんな柄じゃないよ、そうお考えになりますでしょうか? しかし、大丈夫です。大事なのは、私たちの資質ではありません。イエスさまが召されたかどうかです。ご覧ください。十二弟子は、自分が一番だと喧嘩するような人たちです。あの最後の晩さんのとき、この期に及んでもそんなことを言い合っていたような、どうしようもない者たち、それがイエスさまの弟子です。しかしそれでも、イエスさまが選んで召された以上、イエスさまの弟子であることに変わりはありません。 私たちのことも、イエスさまは弟子に取ってくださいました。群衆にはたとえで難解に語られたみことばの意味を、イエスさまは懇切丁寧に説明してくださいましたが、私たちは聖書を読む気になりさえすれば、その難解なたとえの解き明かし、みことばの奥義をちゃんと知ることができます。また、そのみことばを聴き、守り行うことで、弟子としての歩みを全うすることを目指す、その共同体である教会に、私たちは召されています。そうです。私たちもイエスさまに召されている弟子なのです。十二弟子をモデルにして歩むことに、何ら不都合はないのです。このアイデンティティをしっかり自分のうちに保って、主にお従いする歩みを果たしてまいりたいものです。 十二弟子の共同体の性格、2番目は、イエスさまがそばに置かれることがその目的だった集団です。 マルコの福音書3章14節、ここに、イエスさまが十二弟子を召された理由をはっきり、「彼らをご自分のそばに置くため」と記されています。みことばをよくご覧ください。「彼らがご自分のそばにいるため」ではありません。「彼らをご自分のそばに置くため」とあります。主語はどこまでも、イエスさまなのです。 イエスさまはなぜ、十二弟子をご自分のそばに置かれたのでしょうか? それは、イエスさまが十二弟子に、特別な愛を注がれることそのものに目的があったからでした。ヨハネの福音書、13章1節をご覧ください。彼らとはだれでしょうか? これは、十二弟子との最後の晩さんにつづくみことばであることを考えると、世の人々を愛されることは特に、十二弟子に愛を示されることによって実現していたことがわかります。 イエスさまが十二弟子を愛されたのは、模範を示すためだったとか、働きを移譲するためだったとか、そういう具体的な理由は二の次です。わたしはおまえたちをそばに置いて愛す! これこそが目的です。私たちクリスチャンは、主の弟子として召されている以上、イエスさまがみそばに置いてくださった存在です。わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。そのように語ってくださる主は、私たちを引き寄せ、わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない、と言ってくださいます。 私たちはときに、自分の愛のなさに絶望します。自分を見ていると、神さまへの愛がない、そのように落ち込むこともあるだろうと思います。しかしそれでも覚えておきたいことがあります。それは、私たちがイエスさまを離れるような思いになっても、イエスさまの側では、決して離れることはない、ということです。 さて、イエスさまがそばに置かれる対象ですが、それは私たちクリスチャンひとりひとりももちろんなのですが、「彼ら」と複数形になっていることにも注目したいと思います。そう、イエスさまがみそばに置かれるのは、共同体です。しかし、十二弟子という共同体は、さきほども申しましたとおり、いろいろ問題を抱えていました。完璧とは程遠い状態にありました。それでもイエスさまは、弟子たちというこの共同体と、徹底してともに時間を過ごされたのでした。 彼らは、イエスさまのお姿から、実に多くのことを学びました。彼らは単に本のようなものが与えられて、それを読んで頭で理解することで働きのために整えられたのではありません。生きたお手本であるイエスさまがともにいてくださることによって……それこそ、同じ釜の飯を食べ、同じ空気を吸うことで……数多くのものを吸収していったのでした。 教会という共同体は、その存在そのもので、イエスさまを証しする存在です。教会とはイエスさまがその十字架の血潮により買い取られた、神の宮、キリストの体です。どれほど貴重な存在でしょうか! この教会を、イエスさまはみそばに置いてくださったのです。しかし私たちの側では、その大事な事実を見失って生きてはいないでしょうか! 私たち教会は、いま私たち自身が考えているよりも、はるかに素晴らしい存在です。私たちが何者かを知るには、私たちが一緒になって、ともにおられるイエスさまとお交わりを持つことです。イエスさまとお交わりを持つならば、私たちはこの世から神さまの側に分かたれている者としてふさわしく、ともにキリストの似姿として整えられる恵みをいただきます。私たちはともに、その存在がイエスさまを証しできるようになるのです。 お互いをご覧ください。お互いは、イエスさまがそばに置いてくださった、とても大事な存在です。この仲間たちをイエスさまは、一緒にみそばに置いてくださったのです。そう考えてお互いを見ると、心から愛したい思いがわき上がってこないでしょうか? そうです、それでこそ教会、キリストのからだです。 十二弟子の共同体の性格、第3は、イエスさまが働きをゆだねられた人々です。 マタイの福音書10章1節に、次のようなことばがあります。……これは、すごいことです。この権威を十二弟子は、イエスさまから与えられたのです。しかし、霊どもを追い出す権威は、霊どもの上に君臨して威張るためではありません。人をいやすため、つまり、神さまの最高傑作である神のかたちである人間が、その本来の創造の目的にふさわしくなるため、それに取りついている悪霊を追い出し、いやしてあげるのです。目的は悪霊そのものにはなく、あくまで人のいやし、そして人をおつくりになった神さまのみこころにあります。 悪霊を追い出すということばを聞くと、何やらものすごくおどろおどろしいものを想像するかもしれません。それこそむかしのホラー映画のような世界ですとか。たしかに、そのような目に見える形での悪霊追い出しというものは存在します。私も以前、リバイバル運動に傾倒していた頃は、そういう働きのお証しを結構聞いたものでした。個人的にはそういう世界があることを信じています。 しかし私たちは、なにも特別なことを考える必要はありません。人を悪霊の働きに引きずり込む要素というものは、こんにち私たちが住む社会にはうじゃうじゃしています。インターネットなどはその典型でしょう。インターネットで匿名の掲示板の汚らしい表現や軽薄なゴシップを見て憂さを晴らしたり、ポルノを視たりします。そういうことをしなくても、だらだらといろいろなサイトを視つづけて、貴重な時間をつぶしてしまったりします。 もし人がきよめられていないで、悪霊のなすがままになっているならば、自分の罪の性質にしたがってインターネットにアクセスし、見聞きしてはいけないものにおぼれます。そうしているうちに、ますますその人は、悪霊の支配を受けるようになります。スマートフォンなどは、悪霊の支配に自ら身をゆだねるために持ち歩くものに成り下がってしまうのです。インターネット以外にも、深酒の習慣、薬物、ギャンブル、買春(かいしゅん)、買い物中毒、いかがわしい宗教、おまじないや占いのようなオカルト……あるいは、世の中に不義に対して何とも思わない無関心、自己中心……悪魔と悪霊はいろいろな方法を用いて、人間を支配しようとします。 そうです。人はその罪の性質を肥え太らせる、悪い霊の支配に晒されています。そのなすがままになり、そこから離れるのもとても難しくなっている人もいるでしょう。そういう悪魔と悪霊の支配から人を自由にする、これが私たち教会のすることです。人をこのように、この世に存在するあらゆる媒体を使って支配しようとする悪魔と悪霊の支配から解き放つには、その人に福音を伝え、聖霊の満たしによってそのようなあらゆる悪から自由になるようにする必要があります。御霊の願うことは肉に逆らい、肉の願うことは御霊に逆らいます。御霊に満たされているならば、その人はもはや、肉に属するものにおぼれて悪霊の支配を受けることはありません。悪霊はその人から追い出される、ということになります。 イエスさまが、弟子である私たちに伝授してくださった福音の力は偉大です。私たちが今知っているよりも、はるかに偉大で、また力があります。私たちはこの福音によって、この世をキリストから遠ざけ、ひとりでも多くの人を滅びに引きずり込もうとする悪魔と悪霊の支配から人を救い、自由にするのです。 もちろん、人が悪霊を遠ざけるべく変化し、成長するのは、一瞬で起こることではありません。福音を伝えたらそれで終わり、ということならば、私たちは日曜日ごとにこうして教会に集まる必要などないわけです。毎日聖書を読む必要もなくなります。そうではないのだから、私たちは毎日ディボーションをするのですし、毎週日曜日には教会に集まって神さまを礼拝し、また励まし合うのです。お互いのために祈り合うのです。まずは……私たちは福音宣教によって、人から悪霊を追い出せる、そう信じるところからスタートしましょう。私たちは必ず用いられます。信じていただきたいのです。 私たちは、イエスさまに選ばれています。イエスさまがそばに置いてくださっています。そんな私たちは、イエスさまに遣わされて、福音の力で人を自由にする使命と、またそれにふさわしい力をたえずいただきます。イエスさまが、できる、と見込んでくださったから、私たちにはできると信じていただきたいのです。ハデスの権勢も打ち勝つことのできない教会のひと枝ひと枝とされた私たちは、この事実をしっかり心に刻み、そのイエスさまの召命に忠実に歩めるように、日々みことばをお読みし、お祈りし、またお互いの交わりを欠かさないで、整えられてまいりましょう。

バプテスマと主の晩さんの関係

聖書箇所;ペテロの手紙第一3:18~22 メッセージ題目;バプテスマと主の晩さんの関係  私たちの教会は、「水戸第一聖書バプテスト教会」といいます。私たちバプテストは、入信を表明する際に行うことを「バプテスマ」と表現します。他の教団教派では一般的に「洗礼」と呼び、このことばは一般的にも使われています。  洗礼といいますと、カトリック教会や長老教会などでは、水滴を頭につける「滴礼」という形で行います。また、生まれて間もない子どもにも「幼児洗礼」というかたちで洗礼を授けたりします。しかし、私たちバプテスト教会は全身を水に浸す「浸礼」という形でバプテスマを行い、また、幼児にバプテスマを授けることはしません。  さて、主の晩さんについてですが、ここで一度、バプテスマと主の晩さんについて整理し、なぜ私たちにとってバプテスマが大事なのか、そのバプテスマを受けた私たちが主の晩さんにあずかることにはどのような意味があるのかを、本日、主の晩さんを執り行うにあたりまして、ペテロの手紙第一3章のみことばから、ともに学んでまいりたいと思います。  私たちは本日のみことばを、3つのキーワードから理解してまいりたいと思います。第一は「十字架」です。18節のみことばをお読みします。  キリストが罪のために苦しみを受けられたとあります。いうまでもなく、人間の罪です。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない、とみことばは宣言します。法律で戒められている犯罪、どろぼうですとか、傷害ですとか、殺人ですとか、そういったものももちろん罪ですが、聖書が定義する罪は、それにとどまりません。 しなければならないとわかっているのにしなかった、こういうことも罪です。電車に乗って席に座ったら目の前に腰の曲がったお年寄りが! しかし、気づかないふりをして狸寝入りをする……あと、中島みゆきの「ファイト!」という歌にありますが、駅の階段で女の人が子どもを突き飛ばした! それを見たあたしはこわくなって逃げ出した、そんなあたしの敵はあたしです、なんて、自分を責めていますが、かわいそうでもそれも本人が意識するように「罪」です。 さらにいえば頭の中で犯す罪というものもあります。いらいらして心が乱されることも、聖書の基準では罪です。だれかに対し、「あいつなんかいなくなってしまえ!」と心の中で毒づくのもやはり罪です。配偶者以外の対象に性的な妄想を抱くのも罪です。 これだけの罪を犯す私たち人間について、聖書は「義人はいない。ひとりもいない」と宣言しています。しかしこの罪があるままでは、私たちはだれひとりとして神さまのみもとに行くことはできません。私たちはその罪の罰を、死をもって、それも神さまから永遠に切り離される死の罰をもって受けなければなりませんでした。神さまはしかし、そんな私たちを憐れんで、私たちが受けるべき死の罰を、ひとり子イエスさまを十字架の上に死なせることによって、身代わりに受けさせてくださいました。 しかし、このキリストの霊は、私たちを神さまのみもとに導いてくださいました。信仰によって義と認めてくださる、つまり絶対的に正しいと認めてくださるという、完全な救いの道を開いてくださったのでした。信仰による救いは、神さまからのプレゼントです。私たちは行いによって永遠のいのち、救いをいただくのではありません。救いは信仰によって、ただでいただくのです。 イエスさまを信じる信仰は、イエスさまの統べ治める神の国、キリストのからだなる教会に入る入口です。門、と言い換えてもいいでしょう。イエスさまは、「わたしは羊の門です」とおっしゃいました。イエスさまをまことの羊飼いと戴く羊の群れの中、教会という共同体の中には、イエスさまを信じる信仰という門を通って入っていくのです。 そうです。イエスさまの十字架は、天国の入口、それも私たちの生きている地上にある入口です。私たちはイエスさまの十字架を信じる信仰によって、この地上の生活からすでに、天国を歩む歩みが始まるのです。どれほど十字架は大切なのでしょうか。十字架なくしてはキリスト教にあらず、とさえ言えます。十字架はまさしく、神さまの側で私たちの救いのために成し遂げてくださったみわざです。 次のキーワードにまいります。第二のキーワード、それはバプテスマです。19節から21節をお読みします。 このところ私たちは日曜ごとに「ノアの洪水」の箇所から学んでまいりました。この第一ペテロのみことばによれば、ノアが箱舟をつくっていた間、やがて来たるべき大いなるさばきが来ることを、その時代の人々に対し、ほかでもなくキリストが宣べ伝えていらっしゃったことが暗示されています。結局のところ、その時代の人々はそのさばきのことばにも関わらず、悔い改めることをせず、ことごとく滅ぼされたわけでした。 ある解釈では、この捕らわれの霊とは、死んでハデスに留め置かれた霊のことであり、その霊たちにキリストが宣教されたということで、キリストを信じなくて死んだ人でも、死後にもセカンドチャンス、救われる可能性はある、といいます。しかしこれは、セカンドチャンスの根拠にはなりえません。人が救われる可能性は、どこまでも、この地上においてイエスさまの十字架を信じるという羊の門を通るかどうかにあります。 滅びの宣告がなされたにも関わらず聴き従わないならば、その責任は聴き従わなかった者に帰します。ヨナが宣教したニネベをご覧ください。ヨナはニネベの滅びを宣告しただけなのに、人々は本気で悔い改めました。神さまはそれをご覧になり、滅びの御手を下されることをやめられたのでした。 ノアたちは、箱舟に乗って助かりました。地を滅ぼす水が轟々と波打つその中を、サバイブしたのでした。そしてこのペテロのことばによれば、それがバプテスマを象徴するものであったということでした。神さまのみことばに従順になって箱舟をつくり、そしてその中に入って洪水をサバイブしたノアとその家族は、イエスさまを信じてバプテスマにあずかる神の家族の象徴です。この水を通ることが、神さまが救いに定められた者の証しであるのです。 時代は下り、バプテスマを授ける人が現れました。バプテスマのヨハネです。彼が説いたのは、悔い改めのバプテスマです。人々が罪ある自分自身から罪なき神さまに方向転換する、これが聖書の語る悔い改めです。イエスさまもヨハネからバプテスマを受けられました。イエスさまはもちろん、悔い改めのバプテスマを受けるだけの罪があるようなお方ではありません。むしろヨハネ自身が言ったように、ヨハネこそが罪なきイエスさまからバプテスマを受けるべきでした。しかしイエスさまはあえて、ヨハネからバプテスマをお受けになり、人として正しく歩むべき道、父なる神さまに対する従順を実践されたのでした。 ノアの家族がノアの従順によって一緒に箱舟で暮らしたように、私たち主の民は、イエスさまの従順によってイエスさまと一緒に、神の国、キリストのからだなる教会という共同体をなすのです。バプテスマ、それはイエスさまと一緒に水に浸かることです。神さまの側でしてくださった「救い」に対する人の応答、それが「バプテスマ」です。イエスさまは天に帰られるとき、このバプテスマを世の終わりまで、あらゆる国の人々を対象に守り行うように、弟子たちに遺言を残されました。 21節もご覧ください。イエスさまは死なれただけではありません。復活されました。ノアの一家が箱舟の外に出て、新しいいのちに生かされるようになったように、私たちもイエスさまの十字架を信じる信仰により、イエスさまの復活にあずかるものとされました。私たちは永遠に罪に勝利し、永遠のいのちが与えられたのです。バプテスマにおいて、いったん水に沈み、そして引き上げられるのは、まさにイエスさまの十字架の死と復活にあずかっていることを象徴しています。 そしてバプテスマは「誓約」です。イエスさまが私のために血を流してくださった、その契約を、私も生涯お従いすると約束することで交わさせていただきます、という誓約です。だから、バプテスマを受けるならば、生涯イエスさまにお従いする歩みをしてしかるべきです。 したがって教会は、すべてバプテスマを受けた者が生涯の誓約を果たす従順な歩みをする上で成長していくべく、互いに教え、励ましていく使命が託されている共同体です。バプテスマは、私たちがイエス・キリストの共同体に属しているという証しになるものです。心に信じ、口で信仰を告白しているならば、私たちは時を移さず、バプテスマを受けるように、励まし合ってまいりたいものです。 では、バプテスマが、イエス・キリストの共同体「となる」ための条件ならば、主の晩さんとは何でしょうか? それは、イエス・キリストの共同体「である」ための条件であると言えます。 ルカの福音書22章、17節から20節をお読みください。……神の国が完成するときまで、わたしはあなたがたとはぶどう酒をともに口にする喜びの交わりを持つことはない、わたしは人の罪を赦すために、血を流すのである、肉を裂くのである……あなたたちも、わたしの十字架を信じる信仰によってわたしの群れに属しているならば、このパンを口にし、杯を口にすることで、わたしの十字架を決して忘れないでいてほしい……ほかならぬ、イエスさまが定められたことです。だから、主の晩さんを守り行いつづけるのは、バプテスマをもって信仰告白を公にした者たちにとって、当たり前のことです。 しかし、もしかすると、このパンと杯にあずかる人が、バプテスマを受けた人に限定されていることを、ずるい、差別だ、と思う人がいるかもしれません。しかし、これはイエスさまの十字架を理解し、したがってこの十字架を信じる信仰を、バプテスマを受けるという形で表明する、その従順を実践した人だからこそ、味わってそのほんとうの価値がわかるものです。 すでにバプテスマを受けていらっしゃるみなさん、きょうもまた、救っていただいた喜びを胸いっぱいに、主の晩さんにあずかってください。まだバプテスマを受けていらっしゃらない方は、どうか落ち込まないで、私は必ずイエスさまを信じてバプテスマを受け、主の晩さんに早くあずかれますように、と祈りつつ、見学していただければと思います。 では、三つ目のキーワードです。それは、「天国」です。22節をお読みしましょう。 キリストは復活し、天に昇られました。キリストは天において、一切の権威を服従させて、神の右の座におられます。ここまでのみことばの流れの最後に現れたキリストは、もはや十字架に釘打たれた弱いお姿ではありません。完全な栄光に満ちた、輝きに輝くお姿です。私たちにとって仰ぎ見るべきお方は、この栄光のお方です。私たちにとって大事なのは、十字架の死を打ち破り、天にのぼり、神の右に座しておられる、キリストの栄光のお姿に似た者へと、私たちが終わりの日に変えられる、ということです。 私たちのこの地上の歩みは、天を目指す歩みです。キリストのうしろを、自分の十字架を背負ってついていく、自己否定の道です。しかし、キリストのために自分の肉の欲望、罪深い自我をたえず捨てつづけ、ただ主の栄光だけが現れることを目指して生きる人には、栄光のキリストがおられる天の御国が待っています。 クレネ人のシモンを思い出してください。ゴルゴタの丘につづく道にたまたまいた彼は、イエスさまの釘づけになる十字架をむりやり背負わされて丘に上らざるを得なかったのでした。どれほど苦しく、また恥ずかしかったことでしょうか。もしかすると、何が悲しくてこんな目にあわなければならないのか、と思ったかもしれません。しかしその息子たちは、初代教会にとって重要な人物となりました。シモンが無理やりにでも十字架を背負わされたことは、初代教会を確実に形づくったのでした。 同じことで、私たちもこの地上においては、栄光も何もあったものではないような苦しい目にあうことが多くあるものでしょう。しかし、それを主からの訓練と思って甘んじて受け、その「おのが十字架」の先にある、栄光のイエスさまの待つ天国を仰ぎ見るならば、私たちの流す涙、流す汗、流す血は、必ず報いられます。 十字架を信じる信仰、これは天国の地上の入口です。バプテスマと主の晩さん、これらは天国の地上の進行形です。しかしやがてこの世界は終わり、天国は完成します。目指すべきはこの日です。この地上で労するのは、すべては天国に行くその日のためです。 終わりの日まで天国の福音を宣べ伝え、人々を信仰に導き、バプテスマと主の晩さんを執り行いつつ、主が十字架を背負って進まれたその御跡を従う従順の生き方に献身する、そのような私たちでありますように、主の御名によってお祈りします。

洪水と箱舟に示されたみこころ

聖書箇所;創世記7:1~24 メッセージ題目;洪水と箱舟に示されたみこころ  1966年の映画で、「天地創造」というものがあります。ジョン·ヒューストン監督、天地創造から創世記22章のイサク奉献までの、創世記の記事に従って大スペクタクルが展開するという映画、音楽も日本人の黛敏郎で、あの当時の日本人にとっては誇らしい映画だったと思います。もちろん、ノアの洪水の場面も登場し、いろいろな動物が箱舟につがいで入る場面もあります。創造科学の立場からは、このように、動物が箱舟に入ることについても、解答が与えられています。興味のある方はDVDを視るなりして調べてみてください。本日のメッセージではその領域は扱いません。  このような聖書箇所をそのまま信じ受け入れるか否かということは、みことばに対する私たちの態度が問われることであり、それは大げさではなく、私たちの信仰のあり方、ひいては、人生を左右します。私たちは、自分の常識や感覚といったものと、みことばの語ることと、どちらを優先するのでしょうか? とても問われることです。聖書の解き明かしは、みことばが正しいということ、実際に起こったことの記録であるということを前提に行います。みなさまもその前提でメッセージを聴いていただければと思います。では、まいります。  第一のポイントです。神さまはこの世界の環境に、驚くべきみわざを行われました。  神さまは、洪水によって地を滅ぼすことをノアに告げられました。しかし、その後の生態系が保たれるように、動物を生き残らせるようにされました。  ノアに託された働きは、そのような動物が生き残るために箱舟に導き入れ、なお箱舟の中でそれらの動物を養う、ということも含まれます。これはもちろん、たいへんな重労働です。先週のメッセージでも学びましたが、神さまに対するノアの信仰は、このような重労働を行うという驚くべき従順を可能にしました。  しかし、地のすべての動物をしかもつがいで箱舟に入れる、ということが、いったい可能だったのでしょうか? それが、可能だったのです。9節のみことばをご覧ください。……やって来た! なんと、動物がやって来たのです。ノアには時間が残されていませんでした。しかしここで神さまは干渉してくださいました。動物たちに、ノアのもとにやってくる意志を与えられ、実際に来るようにされたのでした。  ここに来れば助かる、これは動物的な感覚ともいうべきものでしょうか。しかし、このような感覚さえも神さまが用いられ、生態系を保つようにされたのでした。人間の知恵の及ばぬところに神さまがご計画を立て、被造物を導かれる、これを「摂理」といいます。神さまの摂理は実に、この被造物全体にまで行きわたっていたことをここに見ることができます。  しかし、そのいちばん大きな目的は、主のみこころにかなったノアとその一家を救うことにありました。そのために、あらゆる自然の法則を動かしてでも、ノアのことを救ってくださったのでした。  私たちにしても同じような存在ではないでしょうか? この曲がった時代を生きているのは、だれであれ同じことで、私たちとて例外ではありません。しかし、私たちは神さまの特別な選びによって救っていただいたのです。私たちにはよいものは何一つありません。ただ、神さまの御目にかなっていると見なしていただいた、神さまの恵みによることです。  そして、私たちは一見すると、自分の意志で神さまのもとにやってきたように見えます。しかしほんとうのところは、神さまの側ですべてを働かせて益となしてくださり、私たちは主を信じ受け入れる信仰に導いていただいたのでした。私たちの目には不思議なことです。このような者さえも救ってくださった恵みのゆえに、私たちは主をほめたたえましょう。  第二のポイントです。神さまはノアを中心にした選ばれし者たちに、驚くべき守りを施されました。 もちろん、ノアの家族やあらゆる生き物を箱舟の中に導き入れられたことも大きなみわざです。しかし、それだけではありませんでした。16節のみことばです。ご覧ください。「主が」……戸を閉ざされた、とあります。これは霊的なお方が、物質的な世界に干渉された、ということでもあります。 そういうことはあるのだろうか……基本的に物質的な世界しか体験していない私たちからすれば、これはとても不思議なことのように思えます。しかし、同じ創世記の3章を見てみますと、神さまご自身が獣をほふって皮の衣をアダムとエバにつくり、着せてやったという記述が出てきます。目に見えないはずの神さまが、目に見える世界に干渉していらっしゃるのです。 これはしかし、当然のことです。私たちが今体験している、目に見える世界は、神さまが創造され、支配していらっしゃる領域です。この領域にみわざを行われたとしても、何の不思議もありません。実際、私たちの主イエスさまは、この目に見える世界にお生まれになり、生きられたのでした。神さまの側から見れば、不思議なことは何一つありません。 その前提であらためてこの16節のみことばを見てみたいと思いますが、このみことばからわかることは、箱舟建造からあらゆる生き物を導き入れることに至るまでの一連のノアの行動が、最終的に神さまが責任をもって導かれた働きである、ということです。 ノアの完全な従順は、従順という行為そのもので終わったのではありません。ノアのうしろの戸を神さまご自身が閉ざされるという形で、神さまが完成させてくださったのでした。そうです、従順という行為そのものに意味があったというよりは、その従順の最終的な責任を神さまご自身が負ってくださったということに意味があるわけです。 ノアのように神の選びをいただいた者にとって、神さまはどのようなお方でしょうか? イザヤ書52章12節をご覧ください。神さまはノアに行くべき道を与えられ、導かれました。箱舟をつくって生き延びなさい、という道です。しかしそれだけではありません。うしろの戸を閉ざされたということは、しんがりとなられた、つまり、後ろにおいて守ってくださったということです。これで、どこから何がやって来ても大丈夫です。 このイザヤ書52章12節のみことば、あわてたり、逃げたりするイスラエルの姿は、ともすれば、私たちの姿のようではないでしょうか? 神さまが前で導き、後ろで守ってくださっているのに、それが見えなくて、あたふたしてしまう不信仰な姿を表しているようです。しかし私たちは、そのような不信仰から自由になり、神さまの絶対的な守りの中で憩う必要があります。ノアをご覧ください。箱舟の中に入ったら、彼はこの大波に対して何かしましたか? ただ、流れるに任せただけです。 ちょっと脱線しますが、あのノアの箱舟というものは聖書の記述どおりの設計ならば、工学的に見て驚くべき構造をしているそうです。あの大洪水に耐えられるだけの設計だそうです。よく聖書マンガや日曜学校の教材などで、ノアの箱舟がそれこそ一般的な「船」の格好、そう、底のほうに行くにしたがって細くなる、あの形をしているものを見かけますが、あれはまちがいだそうです。それなら「箱舟」とは言いません。箱型だから「箱舟」です。ともかく、あの箱舟の中に入れば、あとは流れに任せるだけ、ノアはこの洪水を何とかしようとか、一切考える必要はなかったわけです。 私たちもまた、とんでもない状況に取り囲まれることの多いものです。私たちの周囲の状況は刻々と変化し、ときに私たちはその状況に翻弄されます。しかし私たちはそんなときも、主が先頭に立たれ、またしんがりとなってくださっていることを、忘れないでいたいものです。 それでも私たちは悩みますでしょうか? 仕方ない、人だから当たり前です。それでも私たちと普通の人とを分ける、確実なことがあります。ペテロの手紙第一、5章7節です。……神さまは何よりも、ノアのことを心配され、ノアがこの洪水に呑み込まれてしまいように、万全の手を打たれました。私たちのことも主は心配してくださっています。私たちのために特別な配慮をくださる主に、私たちはすべてを委ねてまいりましょう。  第三のポイントです。神さまはこの地の者たちに、驚くべきさばきを行われました。21節、22節をお読みします。だれひとり生き残らなかったのでした。地上に住む者はすべて死んだのでした。生き残ったのはノアとその家族だけでした。  そうです。神さまはお語りになったとおりのさばきを執り行われました。選ばれた者以外、すべて滅びるという結果をもたらしました。しかし、彼らはこの世が滅ぼされるという知らせを知らなかったのでしょうか? もちろん知っていたはずです。義人ノアが箱舟をつくりつづけたことから、この世にさばきの警告が下されていることを知っていました。しかし彼らは受け入れませんでした。  このような地の民に、みこころにかなう人はひとりもいなかったのでした。すべてがさばきの対象でした。死をもってさばかれなければなりませんでした。これが、さばきというものの実際です。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが」できない、とみことばは語ります。 それならこの「すべての人」は、「神からの栄誉」の代わりに、何を受けるのでしょうか? そうです、「怒りのさばき」です。しかし、私たちはここで、神さまの気持ちになって考えてみたいと思います。神さまが愛もて創造された人間に、怒りを注がれることで正義を全うしなければならない、それはどれほどのことでしょうか。 私はむかし、「イタズ」という題名の映画を観ました。田村高廣演じる主人公の猟師が、子熊のときから可愛がっていた熊が、養鶏場の鶏を襲ったり、果樹園の果物を食べまくったりして、成長して手がつけられなくなり、自然に帰してやるしかなくなった。するとこの熊は、もっとひどい害をもたらすようになった。主人公はついに意を決し、雪山に入り、銃でその熊を仕留める、茫然となった彼が熊のなきがらを隣からじっと見つめていると、やがて折からの雪崩によって彼は熊もろとも呑み込まれる……という、とても悲しい内容です。 あるべき道を乱す者は、それがいかに愛する対象であろうともさばかなければならない、その悲しさをこの映画は教えてくれたようでした。ノアの洪水ですべての人を滅ぼされた神さまのおこころも、それと同じようだったのではないかと思えてきます。あまりにもつらい、しかしさばかなければならない……。   私たちが罪人であるということは、神さまのみこころを罪によってそれだけ損ない、悲しませているということを意味します。私たちもさばかれなければなりませんでした。私たちももし、ノアの時代に生きていたならば、洪水に呑み込まれ、海の藻屑になっていたとしても不思議はありませんでした。  しかし人々は、このようなさばきに関してあまりにも無関心か、さもなくば荒唐無稽ととらえるようです。現代も水害や地震は大きなニュースになりますが、それでも少し経過すれば、のど元過ぎればなんとやら、です。世の終わりというものについて、もしかするとクリスチャンである私たちも無関心であったりするかもしれない、そのことを私たちは警戒する必要があります。みことばは何と語っていますでしょうか? ペテロの手紙第二、3章3節から14節です。これはおひらきください。新約聖書の476ページです。  このペテロのことばから想像力をたくましくしてみますと、おそらくはノアの時代も、洪水を前にした者たちはあざ笑ったことでしょう。しかし主のみことばどおり洪水はやってきて、ことごとくほろぼされました。みことばのとおりです。  そして私たちはいま、「火で焼かれるためにこの地は取っておかれている」というみことばの前に立たされています。私たちはこれを信じますでしょうか、信じませんでしょうか? 聖書の中には火で滅ぼされるという箇所がしばしば登場します。ありえることなのです。  私たちはこのようなさばきから救われている、だから大丈夫、とおっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、それならそれで、私たちには求められている生き方があります。11節、12節のみことばです。  ……私たちはいつイエスさまが来られても大丈夫なように、備えていますでしょうか? 敬虔な生き方、それは、救われている者としてふさわしい生き方を、実際の生活の中で目指すことです。全能の主の御手によって救われたならば、それにふさわしいだけの実を生活のただ中で結んでしかるべきです。何をしても許される、とばかりに好き放題に生きるのは、少なくとも、救われた者としてふさわしい生き方ではありません。そのような生き方のどこに、生ける主との交わりが成り立っているというのでしょうか。  その日が来るのを早めるように、もちろん、イエスさまの再臨がいつになるかということは、全能の主がその主権の中で決めていらっしゃることで、私たちのあずかり知らぬことです。しかし、私たちはマラナタ、主よ来てください、と堂々と言える生き方をするならば、主は私たちのその切なる叫びに応えてくださいます。 それが大いなるさばきとともに来ることを思うと、私たちはどれほどこの地に、それこそノアが大建造物をもって証ししたように、キリストの十字架という旗印を掲げて生きなければならないことでしょうか。キリストの十字架によらずしては、だれひとり救われません。終わりの日に臨む炎に焼き尽くされてしまうほかありません。それは私たちの愛する人とて例外ではありません。私たちの主におしたがいするよい生き方をもって、隣人をキリストへと導くことです。 しかし、それでも彼らがキリストを信じようとしないならば、そのたましいは御手にゆだね、私たちの従順の生き方に集中するばかりです。私たちは何も彼らにあわせる必要はありません。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようにというみことばを取り違えてはなりません。ノアは果たして、その時代の人々を救おうとして、あの罪人たちのライフスタイルに合わせて彼らに証ししたりしたでしょうか? とんでもないことです。   今日のみことばを通して、神さまがノアに対して、またこの世界に対して持っておられたみこころから、私たちは学びました。相働きて益となすみこころとみわざにより、私たちは救われました。主は私たちの救いの完成のために、最後まで導いてくださいます。私たちはこの主の愛に対し、従順の生き方をもってお応えしてまいりましょう。その生き方をもって、イエスさまが再び来られるその日に備えてまいりましょう。主は今週も私たちとともにいてくださり、私たちのこの従順の生き方を導いてくださいます。

主の心にかなった人

聖書箇所;創世記6:1~22 メッセージ題目;主の心にかなった人 この本文に入る前に、確認しておこうと思います。私たちは現実に体験する災害と神のさばきをはっきり区別しなければなりません。ノアの洪水の場合、その洪水そのものからの回復をノアが祈ったという記述はありません。さばきである以上当たり前です。しかしこのたびの台風はちがいます。私たちは、この世をとりなす者、この世の破れ口に立つ者として神さまに召されている以上、ノアの洪水の場合とまったくちがい、私たちはこの日本のために、現実に傷ついている人たちのために祈る必要があります。まずはそこから確認したら、本文の学びに入りたいと思います。 本日の本文の主人公、ノアは、8節にあるとおり、ひとことで要約すれば、「主の心にかなっていた」人でした。このノアから学ぶならば、私たちも主の心にかなった者として生きる道が開けてまいります。では、いつものように、3つのポイントからお話しいたします。 第一のポイントです。ノアは正しい人でした。 9節のみことばをお読みします。……彼の世代の中、つまり、この時代の人々の中にあっても、ということです。では、このノアの生きた時代は、どういう者たちがいたのでしょうか? 1節と2節をお読みします。 ……この箇所は解釈が分かれます。ひとつは、セツを先祖に持つ神の祝福の家系が堕落し、カインを先祖に持つような堕落した人の娘たちと雑婚するようになったというものです。それを象徴的に「神の子」、「人の娘」と表現している、というわけです。旧約聖書を通読すればわかることですが、イスラエルはいかに神の民とされていても、ひとたび堕落するとその堕落ぶりは目を覆わんばかりになります。神の民以外の者たちと交じり合い、民族全体の堕落は加速されます。そのような神の民の堕落が、すでにノアの時代には極みに達していたという解釈です。 もうひとつ、これは興味深い解釈ですが、神の子とはずばり「御使い」「天使」という解釈です。つまり、御使いが堕落し、人間の女性の美しいのをめとり、子どもを産ませた、というのです。でも、私たちは普通、御使いを霊的な存在と受け取っているので、そのような霊的存在が結婚したり、子どもを産ませたりさせられるものか、と思うでしょうか。実際イエスさまは、御使いはめとることも嫁ぐこともない、とおっしゃっています。だから私たちには、この解釈は荒唐無稽に思えるでしょうか。 しかし、同じ創世記を見てみると、たとえば18章の8節で、御使いが人間と同じようにものを食べる場面が出てきます。また、19章では、御使いを見た町の男どもがいやらしい感情をいだいたり、御使いがロトたちの手を引っ張ってソドムの外に導き出したりしています。そうだとすると、もしかしたら御使いは、私たちが常識的に考える「霊的」な存在とはちがうのかもしれません。 そして、この解釈を裏づけるのが、4節に登場する「ネフィリム」だといいます。このネフィリムについては、民数記の敵地偵察のできごとで、強そうに見えた敵に震え上がった偵察隊が、敵の巨大さを「ネフィリム」に例えている場面に登場します。もちろん、ノアの洪水でネフィリムはみんな滅びた以上、そのアナク人たちはネフィリムの子孫などではありませんが、そういうところに引き合いに出されることを見ると、ネフィリムは神の民を取って食うような強力な敵対者、というイメージがイスラエルに定着していたのでしょう。創世記6章に登場するこのネフィリムがイスラエル人のイメージのような「巨人」であったのは、御使いと人間の交雑の結果異様な肉体を持つようになったからだ、と大真面目に主張する人もいます。 どちらがほんとうなのかは、今となっては検証のしようもありません。しかしどちらの解釈であれ、はっきりしていることは、地上に「生めよ、増えよ」と広がった人間は、もはや神のかたちを失い、堕落に堕落を重ねて主を大いに怒らせ、また悲しませていたということです。この世界に対する主のみこころは、3節に表れています。 ……人の齢が120年、これは、神さまは人のことを120歳までしか生きさせない、という意味にも取れるでしょう。実際、この創世記を書いたモーセ自身が120歳でこの世を去っていますし、このノアの洪水を境に、何世紀にもわたって生きるような途方もない長寿だった人間は、ぐっと寿命が短くなっています。現代人は寿命が長くなりましたが、それでも、地球上のほぼ全員が120歳の壁を越えていません。こうして見ると、120年というのは、寿命の標準に見えてきます。つまり、人間の寿命を短くされたのは、だらだらと長く生きたぶん罪をたくさん重ねないようにという、罪深い人間に対する神さまのお取り扱いだったということです。 しかしもうひとつ解釈があります。それは、このみことばを主が語られてからあと120年で、人間の寿命はおしまいになる、ということです。もちろん、地球規模の洪水によってです。あと120年です。ご自身に反逆する人間に対するすさまじいまでの御怒りの中、120年のチャンスを与えるから何とか悔い改めてほしい、というみこころが見えてきます。ヨナ書を読むと、神さまは悔い改める民族に対するさばきを撤回されるお方だということがわかります。このさばきも撤回されるチャンスはあったのです。 しかし、実際はどうでしょうか。11節、12節です。……これが現実です。ひとりノアだけが、この世界において主のみこころにかなった、正しい人だったのです。ノアは、そういう世界においても、正しい生き方ができたのです。しかし、ノアにとっての正しさの基準は何でしょうか? それが、ノアを取り囲む人々の倫理になかったことは確かです。なぜならその倫理は、どれひとつとして神さまのみこころにはかなわない、正しくないものだったからです。その倫理が少しでも正しければ、彼らは滅ぼされずに済んだでしょう。でも実際、彼らは滅ぼされました。こうなるとノアは、世界と交じり合いながら生きることを放棄しなければなりませんでした。あるのはただ、神さまとの個人的な交わりだけです。 ノアの生き方を象徴するみことばが新約聖書の中にあります。ローマ人への手紙、12章2節です。……ノアはこの堕落した世界から四方八方迫りくる人間関係の侵略から、つねに心を新しくして神さまに守っていただかなければなりませんでした。そしてそれは、私たちも同じではないでしょうか。私たちもいろいろな人間関係に取り囲まれていますが、時にその人間関係は、この世、すなわち神さまのみこころにかなわない基準に調子を合わせようとさせ、あたかもそれが美徳のように迫ります。 しかし私たちは、すでにこの世から救い出されている者たちであるという自覚が必要です。完全なみこころを知る必要があります。私たち人間はどこまでも不完全ですが、みこころは完全です。だから私たちは、みことばから学ぶのをやめてはならないのです。みなさまがご希望ならば、私はいくらでもみことばを学ぶ機会をもうけたいと思います。それは、私たちの聖書知識を増し加えて、何か自分が偉くなるためではありません。みことばにとどまることでこの世から自分を守り、また教会を守るためです。ノアによって人類が守られたのは、正しい主のみこころを保つためであったように、私たちも守られるように、みことばを変わらない基準として、私たちの中にしっかり保ってまいりたいものです。 第二のポイントです。ノアは従順な人でした。 6章14節から22節には、箱舟をつくる手順、また箱舟の中に入れる生き物について、くわしく書いてあります。これらの記述を現代人が読むと、かなり荒唐無稽に思えるのでしょう、このノアの箱舟の記事は神話であり、したがって一事が万事、聖書全体は神話であるという、とんでもない結論が導き出されるわけです。しかし、この教会で養われてきなみなさんは、この洪水、またそれに耐えた箱舟がいかに科学的に立証できるものだったか、よく学んでこられ、それがみなさんの聖書信仰をしっかり裏づけていると思います。私は創造科学の専門家ではないので科学的に深入りはしませんが、この箱舟建造とあらゆるつがいの生き物を箱舟に導き入れたことについて、ノアはいかなる神さまのみこころに従順になったか、3つの側面から見ることができます。 まずは、いのちを守れ、というみこころです。地を覆う洪水からサバイブせよ、そのためには、わたしの言うとおりに箱舟をつくりなさい、というわけです。かくして、あのすさまじい洪水から、ノアとその家族は守られたのでした。さきほども触れたとおりですが、みことばに従順に従うことは、この世の嵐のようにすさまじい迫害や誘惑から、私たちを守り、きよく保つことになります。 そして、いのちを保て、というみこころです。ノアがこれだけの生き物を、それもつがいで導き入れたのは、洪水で破壊された環境が自然の秩序を取り戻すためです。生き物が新しく出発する地上に放たれると、そこでは食物連鎖がなされ、環境が十全に保たれます。それはもちろん、人間を生かすことになります。人間のいのちを保つために、生き物のいのちは生かされる必要があったのでした。そのために、ノアの家族はもちろん、それらの生き物のいのちを保つためにも、食べ物をふんだんに運び込みなさいとも命じられました。 そして何よりも、「自分のために」箱舟をつくれ、ということです。わたしはこの地を滅ぼすが、あなただけはまず何としてでも生き残りなさい、というみこころが現れています。さて、このみことばをお読みすると、神さまはノアに利己的になるように勧めておられたのだろうか、という疑問がわき上がりますでしょうか。「自分のため」ということが、主にあって人に尽くす生き方と対照的に見えるからです。 この時代の人々とノアがどのようにつき合っていたか、それは想像の域を出ません。しかし、あのような巨大な建造物をつくれば、いやでも人目につきますし、それをなぜつくっているのか尋ねられたら、ノアは正直に答えたでしょう。そして、なんとしてでも入ってくださいと勧めたでしょう。しかし、彼らがどんな反応を示したかは、結局箱舟に入ったのがノアとその家族だけだったという事実を見ても、一目瞭然です。それでもノアは救いの旗印として、この大きな建造物を世に示したのでした。やがて来る破滅から救われる道は、これに乗ることしかありませんでした。大きな箱舟をつくり、それに次々と生き物を入れていくなんて、どれほど人々から馬鹿にされたでしょうか。しかしそれでも、これこそが救いの道であると知る以上、ノアはその歩みをやめるわけにはいかなかったのでした。 私たちも同じように、破滅から免れる道を与えていただきました。それはイエスさまの十字架を信じる信仰です。これ以外、救いの名は人間には与えられていません。そんなことを言うと、やれキリスト教は偏狭だ、独善的だ、などという声が飛んできそうですが、この信仰告白にこだわるのをやめるならば、私たちはクリスチャンであるのをやめなければなりません。ノアが大建造物をもって世に証ししたように、私たちはクリスチャンである以上、イエスさまこそが救いの道であることを証しする必要があります。どんなに馬鹿にされても、どんなに攻撃されても、これこそがまことである以上、私たちは十字架に歩むことをやめてはならないのです。 それでは第三のポイントにまいります。ノアは、神さまと契約を結んだ人でした。 18節のみことばをお読みします。……さて、契約と言いましても、対等の立場で結ぶものではもちろんありません。神さまがご自身の正しさにかけて、ノアという人を選んで契約を結ばれるのです。その契約に伴って、ノアの家族も救われることが約束されました。 私たちも日常生活で、契約というものをします。問題が起こると、契約は破棄され、下手をすると法廷に持ち込まれます。契約というものは、履行されることが前提で結ばれるものです。 神さまの場合はもちろんのこと、神さまの側は契約をかならず履行してくださいます。それが、絶対的な救いというものでした。これは、この曲がりに曲がった時代の人々の中からたったひとり、ノアだけを選び、救ってくださった、神さまの恵みの選びに基づくものでした。 しかし、それが神さまの側から見た契約の履行内容ならば、人の側にも履行すべき条件はあったのでしょうか? ありました。それはノアが、そっくりそのまま、神さまのみことばに示された救いのご計画を、信じたことです。 そしてこの「信仰」は、とてつもないことを可能にしました。それは、箱舟という大建造物をつくり、なおその中にすべての生き物をつがいで入れる、ということでした。もしノアが、神さまがみことばで示された箱舟にまつわる条件をひとつでもたがえたならば、彼も彼の家族も生き残ることができませんでした。ノアが生き残って神さまに用いられるためには、徹底してみことばに従順になる必要がありました。大建造物をつくり、あらゆる生き物を箱舟に運び込むことは、ただごとでないくらいたいへんなことです。それでもノアは、神さまの救いの恵みに甘えることなく、この重労働をやり遂げ、そして救われたのでした。 私たちも、神さまが契約を結んでくださった存在です。神さまは私たちを救うために、ひとり子イエスさまを私たちの身代わりに十字架につけてくださいました。私たちはイエスさまを信じる信仰により、神さまに救っていただきました。信仰、これこそ、神さまと契約を結んだということです。 この信仰によって、私たちはこのみことばに従順に従う力が与えられます。ひとり子イエスさまによって私をあがなってくださったほどの神さまのみこころに、なんとしても従おう! そのみこころを知るために、聖書を読もう! こうなるのです。 これは、神さまの恵みです。私たちがみな、この恵みにとどまりますように、また私たちの周りの方々も、この信仰によって神さまと永遠の契約を結び、永遠のいのちという恵みを手にされますように、祈ってまいりたいと思います。 私たちは神さまによって正しい者とされていますゆえに、この世から自分を守ってまいりたいと思います。それは、教会を主のからだとして守ることでもあります。そして、みことばに従順に従ってまいりましょう。しかしその従順は人間的な頑張りではありません。救いの恵みをいただいたゆえに、救ってくださった神さまを喜ぶその喜びで従順に生きるのです。ノアにならうこの歩みを、私たちでともに歩んでまいりましょう。

墓碑銘転じて祝福の系図に

聖書箇所;創世記5:1~32 メッセージ題目;墓碑銘転じて祝福の系図に 本日の聖書本文は、「こうして彼は死んだ」ということばが、これでもか、これでもか、と登場します。ある牧師先生がおっしゃっていましたが、このように立ち並ぶ名前は、「墓碑銘」のようだということでした。谷中霊園も、立ち並ぶ無数の墓石にはあらゆる人々の名前が刻まれていました。みんな死んだ人です。この、創世記5章の記録も、そのような無機質に立ち並ぶ墓碑銘のように見えてきます。 しかし、この墓碑銘、続けて読むと、希望、そして祝福をもたらす系図にも読めてきます。本日のメッセージでは、この系図に登場する3人の人物にスポットライトを当てて、私たちはいかなる存在であるべきか、ともに学んでみたいと思います。 第一はアダムです。アダムは、神のかたちを伝える存在です。 まず、1節をお読みします。……この系図は、子孫が、アダムの何を受け継いだことを証ししているのでしょうか? そうです、「神の似姿」を受け継いだのです。3節を見て見ますと、「彼の似姿として、彼のかたちに」とあります。人は、遺伝によって親に似た顔になります。このみことばも一見すると、その親から子への遺伝というものを示しているのかな、と思わせます。 しかし、それ以上に、アダムが神さまから与えられた神のかたちを、人は受け継ぐ、ということを示しているわけです。前回、創世記を学んだときにも触れましたが、この直前の4章26節で、人々が主の御名を呼ぶことをはじめたことを、聖書は語っています。これぞ、神のかたちに人がつくられた証拠です。被造物であるという点では人間も動物も同じですが、動物はお祈りをしません。しかるに人間は、まことであれいつわりであれ、神さまという存在を意識しているだけに、みな宗教的ということができるでしょう。そのような、自分の信じる対象に献身するのです。 人がみなアダムの子孫であるかぎり、人はみな、神のかたちを受け継いでいます。しかし、すべての人がまことの神さまに献身できているわけではありません。そのことを象徴するのは、アダムが死んだということです。アダムが生きたのは930年、途方もない長寿です。仮に今年2019年にそのいのちが終わったとしても、生まれたのは西暦1089年、鎌倉時代より100年以上もむかしです。どれだけ長寿なのだろう、と思いますが、それでも彼は死んだのです。そしてアダム以来、アダムの子孫はことごとく死にました。セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、ヤレデ……みな死にました。 善悪の知識の木の実を取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ……アダムに与えられた預言がそのとおりになったばかりか、その、罪の報酬は死、という現実が、すべての人間に降りかかるようになったのでした。 しかし、このような性質を受け継ぎながらも、人は「神のかたち」としての性質も同時に受け継ぎました。罪と死の性質を受け継ぐようにしたものが人の責任にあるとしたら、神のかたちを受け継ぐようにしたものは、神さまの恵みでした。 私たち自身を見てみたいと思います。私たちは、自分のどんなところに目を留めますでしょうか? 死にゆく自分のさだめ、その罪ゆえのさだめに目を留めてしまいがちですが、そうではなく、その罪さえも贖ってくださり、神のかたちを保ってくださる神さまの恵みにこそ目を留めさせていただきたいものです。 私たちに与えられた神のかたちを活かしていただくべく、主の御前に出てまいりましょう。神さまは罪深いこの身、死ぬべきこの身を、神の似姿にふさわしく造り変えてくださいます。 第二はエノクです。エノクは、神とともに生きる存在です。 24節を読みましょう。……なんと、彼は「死んだ」のではありません。「いなくなった」とあります。その理由を、みことばははっきり記しています。「エノクは神とともに歩んだ」、そうしてもうひとつ、「神が彼を取られた」……。 エノクがこの世を去ったありさまは、現代を生きる私たちにとって難解なものです。ただ私たちは、後代になって書かれた「ヘブル人への手紙」のみことばから、その実際を類推することができるのみです。11章5節と6節をお読みします。……はい、はっきり、「死を見ることがなかった」とあります。「彼はいなくなった」とは、「死んだ」ことを比喩として書いているのではありません。 ……エノクは、信仰の人でした。そしてその信仰のゆえに、神さまに喜ばれていました。神さまがおられることと、神さまを求める人には神さまが報いてくださることを信じる、これが信仰です。 神とともに歩むとは、そのように、信仰の歩みをすることです。この地上では神さまを目に見ることができません。しかし、神さまがおられることと、求める者に報いてくださることとを信じることはできます。そのようなものを神さまは喜んでくださり、みそばに置こうとしてくださるのです。 私たちにとって、この世界はどのようなところでしょうか? こだわるべき場所でしょうか? この世に執着してはいないでしょうか? この世は、私たち神の民にとってふさわしくない場所です。私たちは上にあるもの、神さまがおられる天の御国を求める必要があります。 たしかにエノクは、この地上を去るにあたっては、尋常ではない去り方をしました。しかし、神さまに召されたという点では、主にあって亡くなられた方と同じと言えます。だから私たちにとっては、エノクは特別な存在ではありません。私たちもエノクのように、日々主とともに歩むべく召された存在です。私たちにはみことばが与えられています。私たちにはできるのです。主が私たちにできるように、祈りとみことばという道を備えてくださっているのです。 私たちは、何かの行いで神さまに喜んでもらおうとしてはいけません。私たちはただ、神さまがおられること、そして求める者には報いてくださることを信じるのみです。だからこそ私たちはお祈りをするのですし、みことばをお読みするのです。間違っても、お祈りの時間やみことばを読む分量を積み重ねることで、神さまにそのぶん喜んでもらえるなどと思ってはいけません。 そして第三はノアです。ノアは、神の慰めを実現する存在です。 29節のみことばをお読みします。……それでは、ノアのもたらす慰めとは、どのようなものだったのでしょうか? それを知るために、もう一度エノクにさかのぼって、ひとりひとり見てまいりたいと思います。22節を見てみますと、エノクが神とともに歩んだのが、メトシェラをもうけてから300年、ということでした。つまりこのメトシェラという人物は、エノクが神とともに歩む、その霊的な新境地を開くうえで、重大な役割を果たした人ということができます。 ある解釈によれば、このメトシェラという名前は、「死を送る」という意味があり、すなわち、「神のさばきが下される」ということを意味しているのだといいます。そうだとすると、エノクがこの名前をつけただけの霊的な境地はどのようなものだったか、よく考える必要があります。 メトシェラは息子レメクを生んでから、782年生きたとあります。この箇所だけを読んでいると、メトシェラが969年も生きたことについ優先的に目が行ってしまいますが、その息子、レメクがノアをもうけた年齢に注目すると、驚くべきことに気づかされます。そう、レメクは182歳でノアをもうけているのです。すると……計算すると、メトシェラは、ノアが600歳の時に死んだ、ということになります。 ノアが600歳のとき、それは、大洪水の直前のときでした。それを考え併せて、メトシェラという名前の持つ意味を考えてみると……神さまは実に数百年もの長きにわたり、悪に満ちるこの世界を忍耐され、忍耐され、忍耐された、その末に、人類滅亡規模のさばきを下されたことが浮かび上がってきます。 そのような世界において、レメクはノアにどのような役割をすることを願ったのでしょうか? それは、のろいに満ちたこの世界に、慰めをもたらすことでした。 しかし、レメクがノアに願ったのは、人間的な快楽でこの世に慰めを与えることではありませんでした。まことの慰めは、慰め主である神さまから来ます。ノアは600年もの人生において、この慰めを地上に実践するということにおいて、主のみこころにかなった存在でした。 しかし、その世界は、メトシェラという名前が示すとおり、さばきがすでに宣告された世界でした。しかしレメクは、そのような世界であるゆえに諦めたりなどしませんでした。神の民の置かれている絶望的な状況を、宿命として受け入れることをしなかったのです。かえって、少しでもこの堕落した世界に神の慰めをもたらせるようにと祈って、この世界にノアを送り出したのでした。 果たしてノアは、神さまのみこころにかなう者となりました。ノアは、どんなに堕落した世界にあっても決して染まることはなく、そのような世界から救い出されたのでした。まさし、堕落した世に慰めをもたらすという、神のみこころにかなった生き方をすべく導かれるという、神の恵みのなせるわざでした。 今日私たちは、台風19号という絶望的なニュースを聞く中で集まりました。途方もない災害が世界を覆う、そのような時代に私たちは生きています。まるで、ヨハネの黙示録に書かれているとおりの、2000年間封じられていたこの世界の終わりの絵巻が、ひとつひとつ開かれ、現実になっているかのようです。 それなら、私たちは、もう信仰によってこの世界から救われているとばかりに、自分たちさえよければという態度で、この世に無関心であってもいいのでしょうか? いいえ、決してそうではありません。私たちはこの世界がどうであろうとも、この世界に神の慰めをもたらしつづけることが求められています。 私たちのそのような愛の行いを、世の人たちは評価しないかもしれません。私たちがどんなに愛を説き、愛を行なっても、世の人たちはまるで振り向いてくれないかもしれません。しかし、だからといって私たちは、愛すること、慰めることをやめてはならないのです。 メトシェラという存在がこの世に対する神のさばきを宣告したように、私たちにも、神のみことばである聖書が与えられました。そして、聖書ははっきりと、この世の終わりのさばきを語っています。それはとても耐えがたいものです。しかし、聖書ははっきりと、「すぐにでも起こること」と書いています。私たちは油断していてはならないのです。 むしろ私たちは、これほどまでに悪がはびこるこの世界を、ここまで神さまが忍耐してこられたことを思い、感謝するべきではないでしょうか? メトシェラは969年生きました。私たちはと言えば、聖書が与えられてから実に2000年ちかくも神さまが忍耐してこられた末に、ここにいます。 考えてみましょう。私たちも罪人です。私たちの罪を思うとき、神さまがなお忍耐して、私たちのことを滅ぼさずにいてくださることに、感謝せずにはいられなくならないでしょうか? この神さまの忍耐を思い、この世界に愛と慰めを実践する力をいただき、忍耐をもって神の栄光を現してまいりたいものです。その生き方ができるように、ともに励まし合ってまいりましょう。 アダムのように、神のかたちを受け継いでいる私たちは、エノクのように、信仰によって神とともに歩む生き方をするように召されています。その生き方は、この世に慰めを注ぎ続けることにより、神のご栄光を現す生き方によって実を結びます。 ノアの洪水は、決して古代の夢物語ではありません。あれでも地球は滅びませんでしたが、終わりの日に主がもたらされるさばきは、あんなものではありません。こんどこそほんとうにすべてのものは滅びます。 しかし主は、私たちにイエスさまを信じる信仰を与えてくださって、その御怒りから救い出してくださいました。私たちが恐れるべきは、ただ主おひとりです。主の栄光を現すべく、神のかたちに召された自分自身であることに、つねに目を留めてまいりましょう。神さまがおられること、神さまを求める者には必ず報いてくださることを信じて、信仰の歩みをしてまいりましょう。その歩みが、この世界に愛と慰めをもたらす歩みへと実を結ぶものとなりますように。そのようにして、終わりの日に私たちがイエスさまの御前に立つとき、恥ずかしくなく御前に立つものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 私たちは、この地上に墓碑銘を刻んで終わりの存在ではありません。私たちは祝福をもたらす存在です。主は、信仰によって生きる私たちを必ず用いてくださいます。